基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

押井守による縦横無尽の続篇映画語り──『映画の正体 続編の法則』

20年に『押井守の映画50年50本』という、1968年からはじまり1年に1本、「今の押井守にとって、その年を代表する映画」を語る本が刊行された。押井守は今まであらゆる媒体で映画について語っているがこの本は縛りがユニークで、傑作ではなく”お気に入りの映画”を中心に演出・映画論が語られていることもあって、近年の押井本の中でも当たりな一作だった。本作『映画の正体 続編の法則』はその続篇となる。

で、本書自体が続篇なので、シリーズものの映画について語ろう! ということになったようだ。マーベルシリーズを筆頭にゴジラやらトランスフォーマーやら007やら続篇映画は数こそは多々あれど、続篇をテーマにして読みどころのある話が展開するのかいな、と疑問に思いながら読み始めたのだけど、これが『映画50年50本』とは違った様相を呈しておりかなりおもしろい本に仕上がっていた。冒頭の押井語り(『僕は語る気まんまんなのだけどさ、そもそもの問題として続編について語ることに意味なんてあるのかな』)からしてアンストッパブル。企画者はいい仕事をしている。

押井守からして「続篇」を手掛けることの多い監督だ。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』に続いて『イノセンス』を。『うる星やつら オンリー・ユー』に続いて『ビューティフル・ドリーマー』を。『機動警察パトレイバー the Movie』に続いて『機動警察パトレイバー 2 the Movie』を──と。しかも、見ていればわかるだろうがどれもこれも1と2の間に方向転換を挟んでいる。そんな押井守が「続篇を作ること」に関してどう考えているのか──これはたしかにおもしろい着眼点である。

続篇映画と一言でいっても視点によって求めるものは変わってくる。観客はある意味ハズレがない安牌や前作のキャラクタのその後が気になってくることが多いだろうし、プロデューサーは見積もりが立てやすく安定した興行収入を望む(続篇は前作の7掛けと言われる)。最後に監督は? といえばなかなか難しい話になってくる。

プロデューサー的な観点でみれば2作で終わらずに3作、4作と長期シリーズにさせていきたい。一方でマンネリ化した表現を続ければ表現者としては後退だ。できれば表現的にも攻めて、一方で続篇を求めるファンをも満足させる、そんな両立が可能なのか? 前作がヒットした場合続篇映画監督はそれ以上のものが当然に求められるし、それ以下に終わってしまえば責を一身に負うから、監督からしてみればリスクの高い選択肢だ。一般的に観客はシリーズ物の続篇があまりに前作の雰囲気やキャラクタを壊すのを求めない。監督やプロデューサーはどのような解答を出すのか?

そういう意味では商業映画は常に、表現行為と経済行為という矛盾する2つの要素で成立するんだよね。何をいまさらと思うかもしれないけど、その矛盾が顕在化しやすいのがパート2でありシリーズなんだよ。だからこそ語る価値がある。だけど矛盾する2つの要素のバランスを確かめるために映画館に行くような人間はいないわけだ。映画を商売にしている人間や、映画の正体に近づきたいと思っている人間は別だけど。

と、こんな感じの「はじめに」で始まるわけである。

どんな作品について語っているのか。

具体的にどんな作品について語るのかといえば、007やダイハード、猿の惑星といった続篇映画群の他に、押井守映画語りにおいての常連、リドリー・スコット、デル・トロ、キャメロン、スピルバーグ、宮崎駿あたりは鉄板でいる。宮崎駿は続篇なんてほぼ作ってないだろと思うかもしれないが、「なぜ宮崎駿は続篇を作らない(作れない)のか?」というテーマで語っていて、これがおもしろい。

そうした作品・監督の中でも押井守が最初に語るのはリドリー・スコットだ。リドリー・スコットが手掛けてきた続篇は、『羊たちの沈黙』を引き継いだ『ハンニバル』。自作『エイリアン』の前日譚『プロメテウス』とその続篇『エイリアン:コヴェナント』。その長いキャリアと作品数からしてみれば手掛けた続篇は少ないが、それはなぜなのか。そして、なぜその少ない中であえて手掛けているのが『ブレードランナー』でもなく、『エイリアン』なのか? が中心テーマとなって語られていく。

その語りの中でおもしろいのは、設定的にも舞台的にも一切繋がりがない作品であっても、監督にとってはテーマや手法、俳優の連続性を仕込むことによって、「実質的なパート2作品」となることがあるし、それも続篇映画の一つなのだ──という話にある。たとえばリドリー・スコットでいえばデビュー作『デュエリスト/決闘者』(77)のパート2といえるのが、設定的にも原作的にも繋がりのないがテーマを継続させた『最後の決闘裁判』(19)であるというように。押井守も一般的には失敗作と言われることの多い『天使のたまご』(85)のパート2だといえる作品が存在するという。

押井 この本の答えをいきなり極論すると、映画監督によって新作や次作は、絶えず前作のパート2だとも言える。このことはたぶん誰もが納得するはずだし、少なくとも映画監督だったら同意するはずだよ。ここでやれなかったことを、次でやる。

『エイリアン』に対する『プロメテウス』は長くシリーズが続いた後に出た前日譚ではあるが、これも実質的にはリドリー・スコットの「パート2」なのである。そして、『エイリアン』と『プロメテウス』は何が繋がっていて、他の監督が描き出した『エイリアン2』〜以後の作品とは何が異なるのか。このあたりの語りは正直僕が『プロメテウス』があまりにつまらなくて困惑していたこともあっておもしろかった。

キャメロンやノーラン

別の作品で実質的なパート2を作る監督側の利点としては、前作と比較されないということもある。リドリー・スコットの対比として出されるのがキャメロンだ。彼は自分のテーマがなく、プロデューサー的な視点が強いために「語り残したテーマを語るため」ではなく利益のために『アバター』の続篇を作るはめになったが、大ヒットし自作と比較を避けられず制作もズルズルと遅れている──と語りが繋がっていく。

ノーランは(『インセプション』や『インターステラー』、『TENET』をみればわかるように)一本で完全に閉じている監督で(だから押井守やリドリー・スコットとは異なる監督だ)、ザック・スナイダーは常に収まりきらない情熱、やり残している感が溢れている映画をとり、だからこそ次々に撮ることができるし次作に期待してしまう──と、「続篇映画」のみならず直接的なつながりはない「実質的なパート2映画」までを射程にいれることで、語りの自由度が飛躍的に高まっている。

おわりに

ずっと映画は世界観が一番だ! といってきた押井守が興行的な判断としてはキャラクターで映画を作るしかないと語るようになってたり、押井守の変化を感じる本でもあった。あいかわらず映画を語らせたら誰よりもおもしろい監督である。

個人的に宮崎駿と庵野秀明について語っている章が(なぜ宮崎駿がナウシカ2をできず、庵野秀明もまたやらせてもらえないのかの話とか)おもしろかったので興味があるひとはぜひよんでみてね。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

砂漠の美しさ、サンドワームの神話的な恐ろしさを見事に表現してみせた傑作映画──『DUNE/デューン 砂の惑星』

『DUNE/デューン 砂の惑星』公開時にIGN japanに寄稿した映画reviewを、年末ですし、Amazonでも買えるようになっているのでブログ用に編集して投稿してます。おもしろいので観てね。

はじめに

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による『DUNE/デューン 砂の惑星』がついに公開された。ヴィルヌーヴ監督は、映画『メッセージ』で特殊な言語を用いる地球外生命体とのコミュニケーションという難しいテーマを見事に映像化し、その後カルト的な人気を誇るSF映画『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー 2049』の監督も担当。

『ブレードランナー 2049』は、熱狂的なファンのいる映画の35年ぶりの続編で、事前のハードルは上がりきっていたといっていい。だが、蓋を開けてみれば巧みにオマージュを取り入れながら前作を継承し、同時にヴィルヌーヴらしさも全開の映像で、数十年来の面倒くさいファンをも納得させる形で世に送り出してみせた。今では映像化の難しい題材のSF映画を任せるには、最良の監督の一人であるといえる。

で、そんな面倒くさいSF映画請負人になっていたヴィルヌーブ監督が次に手をつけたのが、フランク・ハーバートによる映像化不可能と言われた伝説的SF小説『デューン 砂の惑星』なのである。先に結論を述べておくと、ヴィルヌーブ監督は本作を完璧に現代の映画に仕立て上げてみせた。砂に覆われた惑星は荘厳に演出され、本作を象徴する砂蟲のヴィジュアルと登場シーンには圧倒された。ずっと観たいと思ってきた『デューン』の世界がここにあった! と叫びだしたくなるほどの快作だ。
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公開前の期待と不安

話を戻すと、ヴィルヌーヴ監督がフランク・ハーバートの『デューン 砂の惑星』の映画化を担当するというニュースが飛び込んできた時、期待半分怖さ半分といった感情が沸き起こってきた。ヴィルヌーヴ監督がこれまで手掛けてきた作品、特に近作については、ゆったりとした時間の流れの中で、重厚で美しいレイアウトとカットをつなぐスタイルが特徴的である。それは、砂に覆われた美しくも終末的な惑星を舞台とし、銀河帝国が存在し、領地を任された貴族たちが陰謀に邁進する、旧時代的な体制が復活した原作の世界観とよくあっている。それは、期待できたポイントだ。

一方で不安だったのは、シンプルに原作の映像化のハードルが高い点だ。『メッセージ』の場合は、原作のSF小説はシンプルな短篇であり、一本の映画にするのに無理のある分量ではなかった。対する『デューン』は、複雑な人間模様と陰謀が渦巻き、言葉で相手を屈服させる超能力者など、神秘も入り混じった複雑な設定がウリの大長編だ。未来視能力持ちの主人公によって、無数の未来の可能性が交錯する演出。

砂漠の惑星に住まう原住民の特殊な文化や、特殊な生物の細かな生態描写。これらのディティール集積が原作『デューン』の魅力であり、それらの要素を映像化にあたって簡略化したり取り扱わなくなると、その魅力は途端に消えてしまう。

魅力的なポイント

実際、これまで映画化は試みられ失敗してきた(ドラマ版はそれなりの成功)わけだが、そこにきてのヴィルヌーヴ監督なのである。彼のこれまでの不可能を可能にしてきた実績からすればいけそうな気もするが、それをはねのけるほど『デューン』の壁は厚いようにも思える。さて、どうなることやら──と思って観てきた結果は、最初に結論として述べたとおり。高まったハードルを遥かに越える作品である。

その内実に迫る前に、先に本作の世界観をざっと説明しておくと、舞台は人類が地球外に進出し、恒星間移動までを成し遂げている遠い未来。だが、恒星間移動移動のためには砂に覆われた惑星アラキスにしか存在しない特殊な香料が必要で、これが現状この宇宙で最も価値のあるものになっている。この世界では先にも書いたように皇帝が存在し、皇帝から貴族に領地が任される旧来のシステムが復活しており、主人公ポールは、貴族たちの中でも特に力を持ったアトレイデス公爵の一人息子である。

アトレイデス公爵は、皇帝の命によって香料生産の重要拠点であるアラキスの管理・運営を任されることになるのだが、実はこれはアトレイデス家の力を恐れた皇帝が、彼らを抹殺するために仕掛けた罠なのであった──という流れで、ポールは父に付き添って砂の惑星に降り立ち、貴族たちの陰謀に巻き込まれていくことになる。

プロットが複雑だとかいろいろと映画化にあたってハードルを上げることを書いてきたが、プロットの軸はシンプルでわかりやすい貴種流離譚(身分が高く若い主人公が、生まれ故郷を離れて放浪を続け、困難を乗り越えていく説話の一類型)であり、本作では台詞に至るまで原作に忠実にそのストーリーをなぞっていく。

映画化にあたってまず偉かったのは、複雑極まりない原作を一本、2時間程度に無理やりまとめる愚はおかさず、2部作構成とし(『デューン/砂漠の救世主』の映像化を加え、3部作とする可能性も模索しているという)、しかもその一本目である本作の上映時間からして2時間30分超え(155分)の長さにしたという英断にある。

その時点で信頼感が湧いてくるが、個人的に本作の映像化で最も注目していた二つのポイントがしっかりと抑えられていた点にまず喝采をあげたい。ひとつめのポイントは、砂に覆われた惑星という本作の最大のヴィジュアル的特徴をどう映像に落とし込むのか。もうひとつは、本作を象徴する生物といえる全長数百キロメートルにもおよぶ「砂蟲」の造形とその圧倒的な巨大さ、恐怖感をどう演出するのかである。

ハーバートが原作で描き出した砂漠は、無機的なだけでなく、美しさも感じさせる特別な場所であったが、本映画でも、朝、昼、夕方、夜とさまざまな時間帯にあわせて姿を変える砂漠を、その美しさや終末的な虚無感まで含めて描き出している。

なんといっても素晴らしいのは砂蟲の造形と演出だ。砂の惑星アラキスの砂の中にはこの砂蟲がさまよっており、人間が普通に歩く程度の振動であっても探知し寄ってきて、凄まじい大きさの口で対象を丸呑みにしてしまう。超巨大な生物が砂中を移動してくる絶望感と壮大さ。人間が立ち向かうなど不可能であることを一瞬で理解できるそのモンスター性に、まるで実在しているかのような生物性──皮膚の質感や、口の開き方──が、本映画では濃密に描き出されている。ヴィルヌーブ監督は砂蟲に関して、設定面まで含めたデザインを決めるのに一年かけたなど、相当気を使っていたことがインタビューで明かされているが、それだけのことはある仕上がりだ。

他にも注目すべき箇所はいくつもある。たとえば、凄まじい日がさすこの惑星で生きていくためには必要不可欠な保水スーツ(身体からでる汗などの水分をすべて吸収・リサイクルして再度飲めるようにする)のデザインであったり、個人の体を攻撃から守ってくれる防御シールドの存在と、それを前提としたアクションもいい。生物に着想を得た、四枚羽で飛ぶ飛行機の造形も素晴らしかった。原作の文章は常に神話が綴られていくような詩的な文章で綴られていくことも特徴だが、古さと新しさの混交した世界観や台詞のデザインは、その詩情をよく画面に映し出している。

主人公のポールを演じるティモシー・シャラメは、裸で出てくるファースト・カットからゾッとするような美青年ぶりで、初登場以後も美しくないカットなどひとつもない。その美しさには、男の自分でも見惚れてしまうほどであった。

原作を知らない人でも楽しめるか?

完成度の高い作品だが、原作未読でも楽しめるか? といえば、独特な造語、宗教と政治を含めた世界観が多く描かれ、複雑な人間関係が入り乱れる作品なので、他のSF映画と比べてもハードルは高くなる。長めの尺を使っているとはいえ、原作から削除された部分も多いので、説明不足に感じる部分もあるだろう。

ただ、そうであっても背景に存在する深い世界観は断片的な台詞ややり取り、背景などからかなりの部分を推察できるようになっているし、骨格としてのプロットはシンプルなので、あまり問題なく楽しめるだろう。ヴィルヌーヴらしい絵作りも相変わらず圧巻で、これまでのヴィルヌーヴ監督作品を楽しめた人なら、言わずもがなだ。

総評

『デューン 砂の惑星』という原作を、ヴィルヌーヴ監督は完璧な形で映像に仕立て上げてみせた。画面いっぱいに広がる砂漠の美しさ、砂蟲の恐ろしさに、ハンス・ジマーによる音楽、どれをとっても映画館で体験することをオススメしたい。

正直、二部作構成となったことで第一作目である本作は中途半端なところで終わるのだが、本作だけでも間違いなくその映像の特別性とおもしろさは伝わってきて、ただただ「早くこの続きが観たい!」という渇望が湧いてくる。この原稿をIGNに書いた時(公開当時)にはまだ第二部の制作にゴーサインが出ていなかったが、現状はそこはすでにクリアしているようで、よかったよかったというところである。

それどころかヴィルヌーヴ監督はクラークの『宇宙のランデヴー』の映画化まで担当することが報じられていて、いよいよSF映画何でも屋じみてきたなというところだ。

押井守の演出・映画論が(自分のも他人のも)堪能できる映画半世紀──『押井守の映画50年50本』

押井守の映画50年50本 (立東舎)

押井守の映画50年50本 (立東舎)

  • 作者:押井 守
  • 発売日: 2020/08/12
  • メディア: 単行本
この押井守の映画50年50本は、1968年から始まって一年に一本ずつ、「いまの押井守にとっての、その年の代表する」映画をピックアップして語ろう、という本である。押井守の映画語り本は様々な切り口のものが何冊も出ているが、一年毎に一本を選んでいくというコンセプトは(当たり前だけど)はじめて。50年もあったら「適当に選んだわ」みたいな年もあるんだろうな〜〜と思いながら読み始めたのだけれども、意外とそんなこともなく、どの映画もしっかりと思い出とともに語られていく。

広範に、一作ごとにしっかりと語っているので映画本として読み応えがあるだけでなく、一年ずつに進んでいくおかげで押井守の高校生からはじまる、作品に対する(各種映画の)影響を時系列的に追っていくこともできるわけで、いろいろと楽しい一冊であった。あと、決して「その一年における映画史的に重要な作品を決める」試みではないこともおもしろい。たとえば、スタート年となる1968年といえばキューブリックによる『2001年宇宙の旅』が公開された年だ。だが、押井守は(特例的にこの作品だけは語っているけど)1968年の1本に2001年は選ばない。選んだのは、セルジオ・レオーネ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』だ。

なぜ2001年ではなくワンス〜なのか?

2001年は当然SF映画の傑作というだけでなく、映画史に残る作品だ。実際、押井守自身も初めてサントラを買ったぐらいに鮮烈な映画だった、「宇宙そのもののスケールを表現するために宇宙の時間を描いた、描くことができた」と大絶賛している。

だが、本書は「いまの」押井守が選ぶとしたら、という趣向である。確かに昔、この映画を観た時であればこの作品を選んでいただろうが、今は違う。『キューブリックとレオーネ。いま繰り返し見たい映画はどっちだ? となったら、そりゃあレオーネに決まっているんだよ。』だからだという。その理由は、レオーネの映画には「映画としての語り口の面白さ」があり、それこそが映画の本質なのだという。

押井守はこの項目で『僕はレオーネの直系だからね。自分のことを「わたしはレオーネの直系です!」と言ってもいいくらい。』と語っている。どちらかというと押井守といえば理屈っぽく緻密に台詞とレイアウトを埋めていく監督で、キューブリック系とされているのではないかと思うけれども、本人の自己認識としてはレオーネのように「映像と音楽の相乗効果を狙う映画の快感原則にのっとった」監督なのである。

一部の押井作品でキャラクタがやたらと喋りまくるのも、あれはダイアローグが持っている快感原則を狙っているんだと言うんだよね。これは何度も語っていることだがよくわかる。意味がどうとかいうよりも、押井守によるダイアローグは非常に気持ちがいい。だから、押井守にとってはレオーネの方が重要だ──と、こうした非常に個人的な理由から作品が選定されていくのがおもしろいわけである。

演出論としておもしろい部分

演出論としておもしろい部分も多い。たとえば、1981年に選んだのは出崎統の『劇場版 あしたのジョー2』。押井守は自身の劇場デビュー作の『うる星やつら オンリー・ユー』(1983)で、作品を「映画」にする方法がわからずにただのでっかいテレビにしてしまったと語っているが、次作でそれを乗り越えるために繰り返し観たのが『劇場版 エースをねらえ!』と『劇場版 あしたのジョー2』なのだという。

『逆に言うと、意識して演出しないとアニメーションは映画にならないんだよ。それを自分なりに確信して、ようやく実現できたのは、『ビューティフル・ドリーマー』ではなくて『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(08)。監督としての自在さを実感し、本当に自分で納得できるアニメ映画を作れたのは、『スカイ・クロラ』が初めてなんだよ』といって。スカイ・クロラには特別な何があるのかという問いに、「時間を描くこと」に成功している、と答えている。アニメは、キャラクタから風のなびきまですべて秒24コマの同じリズムで流れている。それは静止画の連続だから、そのままだと時間が流れない。その時間を変動させ「主観的な時間を描く」のだと。

で、その「時間の流れの描き方」として出崎作品を参考にした、という流れでつながってくるわけである。たとえば、『エースをねらえ!』の中盤で、主人公が窮地に追い込まれた時に頭上をヘリコプターが飛んでいくシーンがある。その時ヘリのローターがゆっくりとまわるのが描かれる。主人公ではなくヘリのローターという無関係なものをゆっくりと描写することで、「ちがう時間」を演出できるのだと。もちろんこれは数ある演出のうちの一つだけでしかなく、それを作品を通してできるようになったのが『スカイ・クロラ』であり、それまでのアニメ映画は習作だと語る。

他にも、『ゼロ・ダーク・サーティ』(2012)での演出論、演出家の仕事は盛り上げることじゃない。1つの台詞、1つの表情、1つの構図、何らかの「ラスト」に向かってあらゆるカットやあらゆるシーンを用意していくのが演出家の仕事(の一つ)なのだと師匠の話をひきながら語ったり、演出周りの話は、演出論としても対象の映画評としても読ませる。

おわりに

必ずしも押井守に影響を与えた作品、凄く好きな作品が選ばれているわけではなくて、つまらないがゆえに記憶に残っていたり、勉強になるという作品なんかも選ばれている(スピルバーグの『宇宙戦争』とかポール・グリーングラス『ジェイソン・ボーン』とか)。本書の中身が立東舎のwebサイトで何本か公開されているので、気になっている人はまずそちらを読んでみるといいかも。『ベイブ/都会へ行く』で動物が喋る巨大な嘘を演出でどう乗り越えるかとか、『レザボア・ドッグス』からみる押井守のタランティーノ論とか、かなり読みどころのある部分が抜擢されているので。
rittorsha.jp

監督作だけでなく脚本・原案作まで含めてタランティーノを解き明かそうとする評伝──『クエンティン・タランティーノ 映画に魂を売った男』

この『クエンティン・タランティーノ 映画に魂を売った男』はそのまんま、書名に入っているようにタランティーノについての評伝である。生い立ちからはじまって、どのような経緯でデビュー作である『レザボア・ドッグス』を撮るに至ったのか。

また、第二作『パルプ・フィクション』を経て超人気映画監督へと駆け上がり、彼がその時々でどのようなことを考え映画を撮ってきたのかを、大量の調査、インタビューによってまとめていく。構成的にはシンプルに時系列順、エピソードもすべて作品純に並んでいくので、本書刊行時の最新作である『ヘイトフル・エイト』と撮影中だった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の話で締められている。全文フルカラーで、どのどのページにもタランティーノが関わった映画のポスターや撮影中のショット、あるいは彼の愛した作品の写真が並べられているのもありがたい。

台詞の緊張感

僕はあまり熱心に映画を観る方ではないけれど、例外的にタランティーノの作品は(見れる分に関しては)ほとんど映画館で観ていて、熱狂的というほどではないにしても、かなり好きな監督といっていい。僕は彼の映画に存在するリズムが好きだ。

特に言葉のやりとり、お互いの価値観をぶつけあい、言葉が一往復するたびに爆発の予感が増していき、暴力が巻き起こってすべてが解放される、そのリズム感が大好きだ。本書では、そうした台詞、というか脚本がどのようにして作り上げられているのかについても各作品ごとによくフォーカスしていて、そのへんもありがたい。

イングロリアス・バスターズについての章では、緊張感について次のように語られている。『タランティーノの目指す緊張感は戦場の戦闘シーンのそれではなかった。「あんなクソみたいなのは退屈だ」。戦争映画によくあるあの手の不要フォーマットは、彼を退屈させるだけだった。そうではなく、人間同士の摩擦や衝突、「部屋の中で起こる出来事」でなければならない。』『ヘイトフル・エイト』もそうだが、閉鎖状況下での緊張感のコントロールが、タランティーノは抜群にうまいよね。

レザボア・ドッグスまで

タランティーノが生まれたのは1963年のこと、母親は当時まだ16歳で、未婚。親子関係は良好だったようで、映画好きの母親に連れられて映画館に連れられていっていたようだ。中でも母親の3人目の夫が本格的な映画中毒で、一日4回も映画を観まくっていた。幼少期に住んでいた場所にはカンフー映画やブラックスプロイテーション映画やホラー映画、アートハウス系の映画館ではフランス映画やイタリア映画がやっていて、ここでの日々が彼のその後のキャリアを形作っていったのは間違いない。

IQは160あったそうだが学校には馴染めずスポーツも嫌いで、授業に集中できない子供だった。頻繁にズル休みをして映画を観に行ったりしていたので、16歳の時ついに退学を決意。仕事をするならいいよと母親に迎え撃たれ、ポルノ映画館で(年齢を偽って)の仕事を始める。その後、俳優を志したり自分が大好きな監督たちに「今、ある本をまとめている」といってインタビューを申し込んで好き勝手聞きまくったり(出版のあてがあったわけではない。異常な行動力だ)、人生に映画が溢れている。

監督になる前に様々な仕事をしていたタランティーノだが、とりわけ話題になるのはレンタルビデオ店での仕事である。タランティーノはこの店に入っていってマネージャーと4時間以上もデ・パルマについて語り合い、『トップ・ガン』を借りに来た客にそれを思いとどまらせて代わりにゴダールの作品を借りさせて返すなどやりたい放題だったようだ。『タランティーノの人生について色々な人々と様々な形で話を聞いてきたが、どこで誰から話を聞いても、このビデオ・アーカイブスがアメリカで最もイカれたレンタルビデオ店だったらしいことだけは間違いなさそうだ。』

筋金入りの映画マニアが揃っていただけではなく、そこの店員は全員が脚本を執筆していたというから驚く。ただ、その中でもタランティーノの熱意はとりわけ高かった。この店をやめ、映画配給会社に潜り込んで関係者らとの知己を得、脚本を次々と完成させ、買い手も見つけ、いよいよ映画監督としての道を歩み始めることになる。

色々なエピソード

と、その後の各作品についてはぜひ読んで確かめてもらいたいが、タランティーノはとにかくインタビューの受け答えには自身の映画のような独特なキャッチフレーズであったりキメ台詞を用いることが多くその言葉の数々は読んでいてとても楽しい。

たとえば、『レザボア・ドッグス』とヒットした香港映画『友は風の彼方に』との類似性が指摘され、タランティーノは剽窃行為としてクロなのだろうか? という記事が掲載されると、タランティーノは『「俺はこれまで作られたすべての映画から盗んでいる」』と語ってみせたとか。普通そこまで堂々とは答えられんでしょう。

「タランティーノは引用しまくる」と自身の評判が高まれば、まるでそれを茶化すかのようにして『キル・ビル』で、軍団クレイジー88が着ている黒スーツが自作(『レザボア・ドッグス』)からの引用かと思わせておきながら実は『レザボア・ドッグス』を引用して黒スーツを使った日本の『バトル・ロワイヤル』からの引用だったというように、自身の引用さえも引用してみせるスタイルを見せつけていく。

おわりに

常に彼はかつて自分が通過してきた作品を、自分流に蘇らせる・アップデートするかのようにして作り続けてきたが、はたしてそうした作品すべてに共通する本質、中心点はどこにあるのか、といった点も本作では脚本のみの作品も含めた全作を通して見出そうと試みている。タランティーノ・ファンにとってはもちろん、あらすじをズラズラと頭から最後まで紹介するよな本ではないので、これから「なんか観てみようかな」という人は入門書的に読んでもいいだろう。愛に満ちた、素敵な一冊だった。

『天気の子』、『君の名は。』とはまた別方向の大傑作

天気の子

天気の子

あまりネタバレはしていない。

夜、『天気の子』を友人と観に行く。大変な傑作。当然『君の名は。』と比べられるし、比べるわけだが、どちらが好きと比べられる作品ではない。どちらも大好きだ。各演出の破壊力、洗練のされ方という点では断然『君の名は。』に軍配が上がるのだけれども、『天気の子』は(上映時間も『天気の子』の方が長いと思う)逆にエピソード数もキャラ数も増え、そのどれもが愛おしいという点において大好きな作品だ。

田舎から東京へと家出してきた少年と、天候を操る力を得てしまった少女の運命を描くボーイ・ミーツ・ガールというところに主軸を置いているのだが、少年が東京から出てきた時に東京の中には行き場がなく路上をうろつくうちに、家での最初にたまたま出会った謎の編集プロダクションに拾ってもらい、そこで働く美人なお姉さんとあまりにも胡散臭いおっさんとの生活を立て直す日々が始まる──と、このへんは物語的な立ち上がりの遅さを感じさせる面もあるのだけれども、とても好ましいものだ。

この美人なお姉さん(夏美)の理想のお姉さんの概念体現者感が半端なくて、もしこんな人と一緒にこんな日々がおくれるのであれば、それは人生の中でも最も忘れがたい期間にならざるをえないだろう、とただただ感動に打ち震えるんだよなあ……。就活中なのでスーツもきてくれるし、車を運転している姿も原付きに乗ってる姿も最高なんだよなあ……。で、神性のようなものを帯びている夏美さんなんだけど、物語の最後までその神性が一切崩れることがないのが素晴らしい。カラッとしたポジティブさで、どこまでも少年のために体をはって導いてくれるお姉さん概念なのである。

ストーリー的には、天候を操るような大きな力にはそれ相応の代償が伴い、それに対して少年と、天気の力を得てしまった陽菜(ひな)はどう立ち向かうのか──といった主軸が、家出少年を親元へ連れ戻そうとする警察や、母親が死んでしまい自分と弟だけで暮らしている陽菜に社会保障を受けさせようとする社会規範との対立とシンクロして語られていく。「いや、家に帰れよ」「社会保障ぐらい受けろよ」と思ってしまう面もあるが、彼ら彼女らは「絶対に否!」といって受け入れようとしない。

理由は単に家に帰りたくないからだったり、児童養護施設に入れられてバラバラになることへの恐怖だったりして、それは子供時代の一過性の反発心だ、あるいは知識不足故にただ無意味に怖がっているだけだ、と大人の論理で一蹴するのは簡単だが────でも多くの、生き辛さを抱えている人たちは、多かれ少なかれこの強烈な社会規範への反抗心といったものに共感を覚えるのではないだろうか。

絵的な面でも素晴らしかった。雨が振り続けているのだけれども、水浸しになった東京が美しいし、そこから陽菜の能力によって指す一筋の光の表現が毎度ぞっとするほど美しい。演出のキレという点では『君の名は。』に及ばないんだけれども、全体的なトーン、質感の満足度としてはこちらに軍配があがる。だからこそ、だらだらと、何度でもみたいタイプの映画に仕上がっている。陽菜の弟の凪くんがめちゃくちゃかわいい男の子だったり、陽菜がチキンラーメンやポテチを使って凄く美味しそうな食事を作るシーンだったり、陽菜と凪くんと少年三人でまるでテーマパークのようにラブホに泊まるシーンだったり、一瞬一瞬のかけがえのなさがすごいんだよなあ……。

ラストの収束地点は素晴らしいというほかないが、それはそれとして事前の新海誠監督のちょっとした発言や「セカイを決定的に変えてしまったんだ」なんかの予告編の情報から予測がついてしまうのでそこに関しては伏せてほしかった感がある。とまあ、たいしたことは書いていないけれど、観終えた後ずっと余韻が残っていて他のことが手につかなかったので書いた。

もう一日経った後の追記。その予感は観終えた瞬間からあったが、一日経って実感したのはこれはやはり余韻が凄い映画だということだ。頭の中で反芻するたびにやはりどの場面も凄かったと思うし、いくつもの情景が浮かび上がってくる。何より、『君の名は。』であれだけの名声と力を獲得してその次に出してきたのが、ここまで青臭さをいい年で立場もある人間が全力で肯定できるこの作品だというのが本当に凄い。それも「ただの青臭さ」であるとはいえない作品でもある。ようは、新世代、新しい価値観の絶対的な肯定なのだから。

映画の空間をその手に──『空想映画地図[シネマップ] 名作の世界をめぐる冒険』

空想映画地図[シネマップ] 名作の世界をめぐる冒険

空想映画地図[シネマップ] 名作の世界をめぐる冒険

  • 作者: A.D.ジェイムソン,アンドリュー・デグラフ
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2018/06/25
  • メディア: 単行本
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ほとんどの映画で登場人物たちはあっちこっちに移動する。そして最終的にはどこかにたどり着いて目的を達成したり達成しなかったりして終わるわけだが、本書『空想映画地図[シネマップ] 名作の世界をめぐる冒険』は、映画で登場人物たちが動く軌跡を色付きの線として表現した、一つの映画作品全体の”地図”を集めた一冊になる。

描き手はフリーのイラストレーターだったアンドリュー・デグラフ。彼はもともと子どものころ大好きだった地図と映画をひとつに結合してみたらどうだろうと思い達、映画に出てくる風景を繋ぎ合わせ地図に仕立て上げていたが、これが周囲の人間に好評で、あれよあれよというまに何十作もの映画を地図化し、こうやって一冊の本にまでなったわけだ。取り上げられている作品としては20世紀の名作が多めの35作品。

1927年公開の『メトロポリス』から始まって、『ジョーズ』やスター・ウォーズ初期三部作、『エイリアン』に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』など「おお!」と思わず身を乗り出してしまいそうな作品が揃っている。新し目の作品としては、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作、『スター・トレック』、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もちゃんとある。

フィルムアート社のサイトには本書の中の地図が何点か公開されているので引用してみよう。たとえば『ジョーズ』では下記のように舞台となる町、登場人物(色分けされている)の軌跡が俯瞰で捉えられており、本をぱらぱらめくるだけで登場人物たちの近くに寄り添ったカメラとは別視点から映画を観返していくような興奮がある。
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filmart.co.jp
ジョーズなんかは海にはもぐるけど地下にはもぐったりしないために比較的素直な地図になっているが、映画というのは地図を作りやすいように撮って編集してくれるわけではないから(当たり前だ)、物によってはこうした俯瞰地図にすることが物凄く困難な作品、登場人物が無軌道すぎ、地下に潜ったり出たりを繰り返しすぎて、その軌跡を描きづらいものもある。だが、そんな映画でも著者は決して日和らずに時に現場検証におもむき、時に何度も映画を見直して、果敢に地図を構築していくのである。

 地図作りは長時間を要する重労働だ。ひとつを仕上げるのに、数週間、数カ月もかかる。本書の中でも特に『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の地図はものすごく複雑で、完成までに1000時間を要した。新しい地図に取り組む際には、その映画を少なくとも20回は観るし、ときにはそれが50回になることもある。地図作りをしている何週間もの間、題材の映画が四六時中、僕の生活の背景にある。

特に本書の中でも最大の大きさを誇る『ロード・オブ・ザ・リング』三部作の絵は圧巻で、思わず添えられている文章も読まずにしばらくじっと見つめてしまったぐらいだ。(完全に余談。現在イギリスのオックスフォードではトールキンの小さい展示会が行われていて、先日たまたまオックスフォードに居た時に覗いてきたのだけれども直筆の手紙や、ガンダルフの名前が決まらずに苦労している手書き原稿の苦闘などがいっぱい残っていて「トールキンも人間なんだなあ」と感慨深いものがあった)

そもそも『ロード・オブ・ザ・リング』の中つ国って著者であるトールキン自身が描いた地図が残ってるでしょ? と最初は疑問に思っていたんだけれども、実は著者が書いた地図はトールキンの描いた物とは異なっている。なぜなら彼が再現しているのは小説版の地図ではなく、ピーター・ジャクソンによってつくられた映画版ならではの中つ国だからだ! 『そこで僕はトールキン版による地図の孤立した囲いを取り除き、すべてをより統合された地形として扱い、より低いアングルから北西を眺望する形でこの地図を描くことにした。この方がずっと面白い。』とはいえ、こういうケースは例外だ(ほとんどの映画作品の原作には手書きの地図なんかないからだ)。

地図だけでなく文章もおもしろい。

読む前は最初から最後まで地図で埋め尽くされているんだろうなと思っていたのだけれども、読み始めてすぐに気がつく。思いのほか文字量が多い。著者自身、普通のアートブックにも映画本にもしたくなく、その両面が少しずつ入ったものになればいいなぁと思っていたとまえがきで語っているが、まさにその願いを叶えるように文章法や映画額を教えていたA.D.ジェイムソンが各作品について詳細な解説を寄せている。

公開当時の時代背景の話、監督や原作の裏話、歴史、映画の見所、映画技法の解説、他作品との絡み、監督の作品群の中でそれがどのようなものとして位置づけられるのか──とどれをとっても抜群に質も熱量も文章が並んでおり、この文章だけでも十分に一冊の映画評本として楽しめるぐらいだ(中心軸が欠けるのがちと惜しいが)。

ただ、そうであるが故に(欲張りかもしれないが)地図と解説のが分離しているケースも多く、あんまり文章と地図がセットになっている意味を感じない本でもある。イラストについてA.D.ジェイムソンがコメントしたり、映画が撮られた土地やデザインについて触れることも多々あるので、完全な分離というわけではないのだが。

おわりに

と、ちとケチもつけたが贅沢な本である。ジャングルがあれば地下世界も宇宙もあり(ギャラクシ〜などどう地図に落とし込んでいるのかも見もの)、作品ごとにまったく違った空想地図をみせてくれる、唯一無二の映画ガイドにしてアートブックだ。取り上げられている映画を観ていなくとも、解説が充実している&地図があるので特に問題なく楽しめるだろう。僕も半分ぐらいしか観てないけどめちゃくちゃ楽しかった。

最近配信サイトでみた映画やドラマの話とか

金土日で本を五冊ぐらい読んだが映画も二本みたので、たまには軽い記事でも。

映画みた

原作未読。映画をnetflixで。初見だったがかなりおもしろかった。

どこからともなく現れたリアルなヒトラーをみんなオモシロイコメディアンだと祭り上げテレビで大人気になりヒトラーはヒトラーであることを一切隠さぬまま上り詰めてゆく──という話で、過去の人であるヒットラーと現代の致命的なズレはコメディとして笑えるだけでなく、それでいて彼のセリフのほとんどが”本当に彼のいいそうなこと”、もしくは”実際に彼がかつて発言・行動した内容のアレンジ”だったりでリアルなシュミレーションとしてもおもしろい。

ヒトラーを笑い者にするだけでいのか? という視点についても、「あいつはかつてもこうやって政権の中枢に入りこんだんだ」と作中で提示されることで、けらけら笑いながらもゾッとする内容になっている。またヒトラー役の役者がよくて(その脚本も)いやー大満足な内容だった。トランプ政権成立後もガシガシ売れているらしいがさもありなん。無茶苦茶なことをいうやつだと笑っていたら──というね。

ずっと観たかったのだけど公開映画館が少なくていけてなかったやつ。Amazonで400円払ってレンタルしたがこれがマーおもしろいですね。仕事一直線の父親と、その娘が母親に会いに行くため釜山行きの新幹線に載ったらそこにはゾンビが紛れ込んでいて──というシンプルなシチュエーションながらも親子の関係、一直線に延びた閉所でのアクション、多彩なキャラクタで魅せきってくれた。

いろんな凄い点がある。新幹線という舞台で、基本的には視覚と音を頼りにするゾンビなので「扉」と「扉」を移動し、移動中はてんやわんやな「動」だけど一度扉を締めてしまえば「静」になるという明確でわかりやすい、緩急のついた画面。セリフ回しにもキャラの使い方(大体の役目が終わったらとっとと死ぬ)にも無駄がなくポンポン進み、それでいて駆け足な印象は与えないのも凄い。

ぐっと来たのは”一直線の車内で、どうゾンビと対峙するのか”をガツガツ描いてくれるところ。途中、生き残りの三人が自分たちの家族の救助や別の生存者に合流するためゾンビにひしめく車内を強行突破しようとするのだが、三人で一直線の隊列を組み、手当たり次第に身の回りのものを掴んで防御装備と攻撃装備をととのえ行くぞおりゃーと突っ込んでいく場面で、シンプルながらも限定されたシチュエーションのおもしろさがよく出ていて「うおおおお」と一緒に盛り上がっていた。

観てる途中

全十話でそれぞれ一話ずつディックの短篇を原作とした別の話を展開していくシリーズ。長篇ドラマって一話一時間もあって正直観る気がおきなくて見通せたものがほぼないんだけど、これなら一話完結なので日がおいても問題ないのが嬉しい。

とりあえず一話は『人間狩り』に収録されている「展示品」(原題:"Exhibit Piece")が原作となっている。”他人の記憶の追体験”と”現実”が入り混じりどっちが現実高よくわからなくなっていく話でシンプルで登場人物も少ないながらも”ディック感”が横溢していていい出来。手元に小説がないから曖昧だが、小説はネタ元としては存在していても設定周りはかなりいじってある印象がある。

第二話は『ペイチェック』に収録されている「自動工場」が原作。何が起ころうとも稼働し続け。誰も求めていないのに資源を送り続ける自律起動型の工場と、大気汚染なども含め不要なエネルギィを浪費する工場を止めたいと行動する人々の戦いを描く。話自体にそんなに惹かれるところはないが、汚れたドローンや文明崩壊後の薄暗い世界観、工場デザインがぐっとくる。しかし荷運び用のドローンも出てくるし自律起動型の生産工場はアマゾンとイメージが重なるので攻めるねえと思ってしまった。

忘れてしまっても残るものを。──『君の名は。』

小説 君の名は。 (角川文庫)

小説 君の名は。 (角川文庫)

めちゃくちゃにおもしろい映画だった……。

『言の葉の庭』の次作でここまでの作品になるのかと鑑賞中から驚きっぱなしであった。監督自身がこの短期間に変質したのか、はたまた周りの人間のサポートあってなのか、もしくは実力あるスタッフや、予算がやりたかった「純粋なエンターテイメント」に到達した結果であるのかもしれない。序盤のコメディシーンに加え、ラストに訪れる怒涛のサービスシーンと凄腕マッサージ師に1時間30分揉み続けてもらったような、ぼけっとしているだけで過剰な快感が持続する作品だ。

演技から脚本、編集に撮影まで関与するその徹底ぶりからか、どの部分を切り取っても監督のリズムを感じるような作品になっていて、「アニメって一人の感性でここまで染め上げることができるものなんだな。」とまるで個人製作の映画を観たような感動があった。それはもちろん既存の作品からしてそうだったといえるのだけれども、1分の音楽だとリズムも感じ難いように、ちゃんとした構造を持った長篇映画作品ではじめて「あ、本当はここまでのものだったんだな……」と気付かされた感がある。

背景の美しさ(入れ替わりによって都会の美しさと田舎の美しさを同時に描き)はそのままに、キャラクタの動きもとんでもないレベルで統一されており、単純に2倍おもしろくなったとかでなく数倍のおもしろさになっていて──と大満足してしまったわけだけれども、ネタバレ無しで語るのもなかなか難しいところがあるので以下はネタバレ解禁でトピックごとにただの感想を羅列していく。

こんだけ大ヒットしていて今更僕がいうようなことはなにもなく、記事も書く気なかったけど書かずにはいられなくなった。あまりにロマンチックな作品であるし、誰にとってもお勧めというわけではないけれども、アニメーションとしてのおもしろさは確かなので、未鑑賞で恋愛物にたいして特に嫌悪感を抱かない人はみにいってみるといいだろう。

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語り合いたくなる映画──『シン・ゴジラ』

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

『シン・ゴジラ』は実に語りたくなる映画だ。セリフは聞き取れないほど早く展開し、それを別の誰かが全ての人間がわかるように解説したりしないから情報量が多いし、1カット1カットにおもしろさと意味不明な部分が込められていてあれはなんだったんだ? あれはめちゃくちゃおもしろかった! と誰かと分かち合いたくなる。

予想を遥かに超えてきた映画でもあった。予想とはいっても、事前情報が絞られていたので予告篇ぐらいしかその材料はなかったのだが。予告篇を見る限りでは、CGゴジラには微妙に違和感があるし、会議のシーンばかりできちんと映画として成り立つのか不安に思う。それ以前の問題として、「邦画の予算規模」という絶対的な限界があり、どうしても観る前に「これぐらいかな」と自分の中で壁を設けてしまうのだ。

観始めてすぐに、そうした心配は杞憂であり、予算の限界はあるのだろうが、その限界内で「最大限できること」を愚直に、尖らせてやっていることがわかる。無能は出るけれどもそこで長々と停滞することはない会議シーン。限られた時間内で、「民間人の命の消耗をどこまで許容するのか」「避難が完了していない都内で武器の使用はどこまでが認められるのか」というリスクとベネフィットをはかりにかけた難しい決断を幾度も迫られることになるのでただの会話に凄まじい緊張感がみなぎっていく。

ゴジラを攻撃するにしても法律に則って許諾を得ねばならぬ場面が随所にはさまれ、3回も4回も連絡の中継をはさんでいく状況も、あくまでも誰もが必死に、バカバカしいと思いながらもやらねばならぬのだと描くことで臨場感に転換されていく。指向されているのは明らかに「できるかぎりリアルな対ゴジラシュミレーション」だが、それを達成するために、ゴジラの生物学的な分析も随所で行われ、リアリティを保ってゴジラという「虚構」を東京のド真ん中に現出させようと力が尽くされている。

日本の対ゴジラシュミレーションを描くとなったら当然そこには米軍や安保もからんでくるわけである。「ゴジラをめぐる日米の対処方法の違い」が、「ゴジラという作品を今、現代で日本でやり直すことの意味」に重なっているのも実にメタ的でおもしろいところだ。それどころか各所のオタク/はぐれものが対策メンバーとして集められる場面など、作品のあらゆるセリフ・行動が自己言及的で、庵野秀明作品だなあと思うところでもある。徹底してリアルかといえばそういうわけでもなく、最終版に至っては「そこまでやるか!!」というほどにリフト・オフしていくが、その分それに見合った圧巻の興奮/絵面をもたらしてくれるのも見どころである。

ゴジラが東京に上陸し、都心で働いていたり遊んでいたりする身としては見慣れた景色が無残にも破壊されていく/ゴジラが東京の中で佇んでいるシーンが楽しくて/美しくて仕方がない。現実ではない、映画/虚構の中だからこそ派手に東京を壊滅させてほしい、人間を無残にも、あっけなくぶち殺してもらいたい。変にお涙ちょうだいで感動の音楽を流して一人や二人の死を悼んでいる場合じゃねえ! もっとガンガン虫みたいに死んでくれや!! という欲望を完全に満たしてくれた映画でもある。

なので人が限定されるけど、都心の景色に馴染みがある/恨みがある人にはぜひオススメしたい映画でもある。見慣れた景色に圧倒的な「虚構」が屹立しているという、その風景だけでも素晴らしいのだから。そして一言で言えば「好きにやってやったぜ」という映画であった。本当に楽しそうにゴジラが画面に映されているのだ。

というわけで以下は完全にネタバレ箇条書きで書いていきまっせ。

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科学がそのままプロットを創りあげる──『オデッセイ』

火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)

火星の人〔新版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)

火星の人〔新版〕(下) (ハヤカワ文庫SF)

火星の人〔新版〕(下) (ハヤカワ文庫SF)

『火星の人』を原作とする映画オデッセイを鑑賞した。

これは一言でいえば心地のいい映画だ。

あらすじは「植物学者ワトニーが火星に取り残され、生き残るために僅かな物資と科学知識を総動員する」でだいたい説明できる簡潔明瞭なもので、次々と致命的なピンチが訪れるわりに陽気なワトニーに引っ張られストレスがかからない。

どこか特定の箇所に、何度も観たくなるような燃えるシーンがある……というのではなく、全編を通して登場人物一人一人のセリフと感情の遷移に深く納得がいき、出てくる科学者も責任者もそれぞれが自分の判断と立場において最善手を繰り出し続けるプロフェッショナルであるおかげで全てのシーンが迫力に満ちている。

これは何も「無能を物語に出すな」と言っているわけではない。だが、今回のような作品に限って言えば宇宙飛行士やNASAの一流のエンジニア達が「無能であるはずがない」という信仰が僕にはある。宇宙飛行士には超人的な能力を持っていて欲しいし、NASAのエンジニアにはいつだって冷静に、あっと言わせる工学的な解決方法をとってもらいたい、そういう願望が底にある。それに、実際に無能の集まりであれば宇宙に人間を送り込めるはずないだろという現実的な解釈でもある。

そうそう、火星で一人ぼっちになるワトニーが主人公はいうまでもないのだが、彼を助けようと尽力する地球の人々がいなければ生還など不可能である。70億人が彼の帰りを待っているというキャッチコピーがついてはいるが、物語の序盤はNASAの面々さえ調査中に死んだと判断され取り残されたワトニーが生き残っていることを知らない。それでもある日衛星の情報からその生存を知り、通信を復活させてワトニー生き残りの策を模索していく。その過程は一貫して物理法則にのっとったものだ。

火星から地球までの距離を短くすることはできないし、とうぜん超凄いブースターとかが何の説明もなく出てきて10日間で行って帰ったりすることはできない。火星の大気は希薄、あってもほとんど二酸化炭素。土壌は食物を育てられる環境ではない、使えるエネルギーといえば太陽があるぐらい。人間は火星で生きていくようにはできていない。環境のありとあらゆる場面がワトニーにとっては致死的なダメージとなりえる。そんな状況でいかにして科学的に正確に生き残らせるのか──。その方法を延々と考え、実行していく過程こそがまさにこの映画の魅力のコアである。

そもそも、もともと原作は著者アンディ・ウィアーが個人サイトで無料連載していたものだ。著者は連載開始の時点では、ワトニーをどうやって生き残らせるかは考えておらず、連載を続けながらさまざまな手を考えていったという。もちろん、物語なのだからヒーローに振りかかる困難がなければならない。ワトニーが迂闊な人間であれば、彼の誤りによって困難をいくらでも降りかからせることができるだろうが、この物語ではそれはない。プロフェッショナルなのだ。しかしそれでも問題は起こるからこそ血湧き肉踊り、その解決方法も科学的解決方法だからこそ強く惹きつけられる。

著者はインタビューで『Science creates plot!』*1と言っているが、まさにそのまま、科学こそがプロットをつくっていくのだ。その具体的な過程、解決方法については当然文字媒体である原作の方が情報量が多いが、映画も限りある時間の中でセリフを圧縮する、議論を断片的にみせて情報をつなぐなどして情報量を凝縮している。それだけに、映画を見ながら自由にググれればなあ! と思ったぐらいだ。

映画と原作の比較について

映画はほぼほぼ原作に忠実な形で進行していくが、火星の風景はただひたすらに美しく、その中で孤軍奮闘を続けるワトニーの寂寥感は文章だけでは表現しきれない映画ならではのものだ。たとえば、遠景からワトニーが一人作業していたりする場面が映し出されると「ほんとにひとりぼっちなんだなあ」という実感が湧いてくる。

また、映画では「地球側の視点」が重視されていたかなと。それというのも、人類はワトニーが火星で一人取り残されていることを知る時がくるが、NASAや高度な軌道計算ができるエンジニア、実際に宇宙で活動している宇宙飛行士や技術を持っている国家機関を除けば、それを知ったところで手助けをすることのできる人はいない。つまり70億の人類のほとんどは「ただ、彼が生還することを祈って待っている」ことしかできないわけだが、これは映画館でヒーローを鑑賞する我々観客と、立場的にはまったく同じなのである。

俳優はマット・デイモンがよかった! むきむきで、決して最高のイケメンってわけじゃあないし、知性もあるようなないような顔だ笑 しかしユーモアって点では素晴らしい破壊力を発揮する。当然資源がないから痩せるシーンもあるんだけど、これでまた印象がガラッと変わるのがいい。そこまでいくともう、すんごくかっこよく見えるんだな。火星パートはずっと一人なわけだけど、その一人の振れ幅(シリアスからユーモア、タフネスな男から痩せた男まで)が大きいのが楽しかったように思う。

ラストに原作にはない(示唆されているが)サスペンスが存在することと、付け足されているシーンがあるが、これは僕はかなり好きな場面だ。何より、その中心的な精神性──進歩と科学、そして「もっと先へ」という軸がブレていないので違和感がない。総括すると、とにかく原作ファンは話を知っていても観たらおもしろいし、そもそも映画として隙のないつくりなので文句なしにオススメだなあ。

付け足し。

かなり科学的に正確な描写にのっとっているとはいえ、当然いくつか大きな嘘はある。最初火星の砂嵐によってクルーは慌ててミッションを中止して火星から逃げ出してしまうわけだが、これはまずありえない。火星の大気は地球と比べれば極度に希薄なため砂嵐で発生するダメージはほとんど存在しないだろう。とはいえそれは原作からあるし、だいたい「わかって」やっていることである。

オデッセイあわせでSFマガジンに書いた(一部の作品ですが)火星SFガイドがcakesに上がっているのでこっちもよかったらドウゾ。100文字制限なのでかなり苦しいのだがまあ作品数がやはりそれなりに多いので仕方なかろう。
cakes.mu

チャッピー by ニール・ブロムカンプ

チャッピー

チャッピー

おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいいいいいい神映画かよおおおおおおおおおおと思いながらずっと映画を見ていてトイレに行きたかったのにおいいいいいいいいい立ち上がる暇がねえじゃねえかああああああああと思うぐらい全シーン見どころだらけで何がいいたいのかというと完全にドストレートに僕に響いてくる映画で信じられないぐらい面白くてうっひゃああああああああブロムカンプ天才かよおおおおおおおおおおおおおおと心のなかで絶叫しながらみていたんだ……完全に最高な映画なんだ……。終わった瞬間にうわうわうわうわなんだこれなんだこれと思って即効で家に返っておいおいおいおいおいおいおいとこの記事を書き始めてるんだよ……。

ど、どうなんだ? ここまでドハマりすると、なんだろう、客観的な視点みたいなものが自分の中から失われてしまって「おいおいおいおい最高かよ……?????」以外の感想が消えてしまう為に本当にこれが自分以外の人間にとって最高なのかどうかさっぱりわからないんだけれども少なくともええ、僕にとっては最高の映画でしたね。荒れ狂う暴力、ガバガバな技術設定、バカみたいなシチュエーション、筋書き、それでいて絵面的には常にばっちりキマってる。

一瞬我に返って、この状態のまま何かを書くわけにはいかないと思って一応、見た人に「え、どうだった!? 完全に最高じゃなかった!? なにもかも素晴らしくなかった!?」ときいたら「いや、面白かったけどあれ(映画の幾つかの設定・描写)はなくない?」と言われて一瞬我にかえって「まあ、そうだなあ」と思ったけど。ただし、それも「まあ、そうだ」けど、「でもそれを補って余りある展開の妙がある」から帳消しにされている。もうね、筋書きの時点で最高すぎるんですよね。一日300件もの暴力事件が起こる暴力都市・ヨハネスブルグでロボット警察であるスカウトが導入された! ロボット警察は人工知能で動き、チタン製で銃撃なんてものともしないスーパーロボットだ! っていってドドーンって最初のシーンはギャングを皆殺しにするスカウト達のシーンから始まるんですけど、もうこの時点で最高なわけですよ。

悪い奴らは徹底的に悪いやつらだし、ロボット警察官はまったく無機的にそのギャング共を制圧していくわけで、うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ感がある。ヤクの受け渡しをしていた仲介役がきっちり警察に後を付けられていて、スカウトと人間の混合チームが突如襲い掛かる! 「おいおめえらつけられてるじゃねえか!」つって銃撃がはじまって、これがまたロボット警察側は人間も混合しているのがいいんですよね。多少いる人間は人間型のチャッピーを盾にしながら弾をカンカンカンカンと弾きながら進んでいく。このシーンのギャングのギャングっぷりは最高にギャングだし、やべえ、スカウトだ! といって逃げ惑う小物っぷりも完全に素晴らしい。

あらすじとか主要面子とか

スカウトに襲撃されたアジトから命からがら逃げたものの、ギャング間の抗争で一週間で巨額の金を集めなくてはいけなくなったギャング三人衆と、最初のギャング制圧シークエンスで派手にぶっ壊されてしまったスカウト22号。自身が開発した人工知能ソフトウェアを搭載する為に密かに盗みだした開発者のディオンと、ディオンによって知能を植え付けられることになるロボット警察官であるチャッピーがこの映画の主要面子だ。ヒットする物語はだいたい一言で説明してもその面白さが伝わるものだとは時にいうものだが、チャッピーにもそれは当てはまっている。一言で言えばそれは「ギャングに教育されたAIであるチャッピーがギャングスター・チャッピーになるまでの話」だ。見る人によってその表現は異なると思うが、まあだいたいそれであっていると思ってもらってかまわない!

ディオンはおうちで頑張って人工知能をつくってて、それが完成した時に自社のCEOに「人工知能できたっす! 絵とか詩とかが書けるんスよマジで! マジ凄くないっすか!?」とナードっぽく言いに行ったら「おいてめえディオン、あのねえ、ウチは兵器会社なんよ、そんでアタシはその兵器会社のCEOなんよ。そんな相手に普通詩が書ける人工知能売り込みにくるかな? 常識で考えりゃわかるよね? 兵器に詩とかマジいらないよね??」(全体的に冬木糸一による意訳)と歳はいってるけど美人な女性CEOに言われて、ナードなディオン君はショボーンそうっすよねッて感じで席に戻るんだけど、「創造性を押さえつけてはならない!!」みたいなジョブズっぽい言葉を見て、「いやいやいやいやいや、あいつはああいったけど、俺の創造性は誰にも邪魔されちゃいけなくね!?!!?!」ってなって破棄寸前だった22号を実験用にこっそりとおうちに連れ帰ろうとするわけですね。

で、たまたま同時期にギャングが彼の襲撃を狙っていた。ギャング三人衆は手打ちの為に物凄い金を集めないといけないが、スカウトなんてもんがいたらどうしようもないぜ、でもあいつらロボット=マシーン=電源がある、だから電源をオフにすれば無力化できるんじゃね?⇨どうやったら電源オフにできる?⇨開発者を拉致って脅せば出てくるんじゃね? という理屈に従って誘拐に向かう! もうね、この頭の悪さがサイコウなんだな。たいていロボット物SFなんていうと頭のいいヤツラが意識についてあーでもないこーでもないと議論するわけだけど、もうこいつらは頭の悪いギャングだから電源オフ、よっしゃ、開発者拉致るぞ! 銃で脅すぜ! ってかんじですよ。

ギャングスター・チャッピー

頭の悪いギャング共は拉致った開発者に向かって全部のスカウトのスイッチをオフにしろ! と迫るわけなんだけど、当然そんなことができるはずがない。その代わりに──といってはなんだけど、廃棄寸前だった22号のボディと、彼が投入を却下された人工知能を組み合わせることはできると。じゃあやってみろ、といって組み合わせたら、自分で思考し絵も描ければ詩も書ける人工知能ロボットチャッピーが爆誕しました! ここまでがまあ、チャッピーの導入部といえるだろう。ようやく真打ちが登場した。

で、チャッピーは人工知能とはいってもまっさらな赤子のような状態だからいろいろ教えないといけない。場所はギャングのアジトだから、ファッキンシット! とかヤクを詰める方法とか、標的に銃を当てる方法をまずは学習することになる。もうね、これがサイコウなわけですよ。ギャングに教育される人工知能! ギャング歩きを覚え、言葉遣いはどんどん汚くなって、とことんバカになってアホみたいなことを平然とやらかすようになる人工知能!! 

開発者であるディオンはインテリクソヤロウだから当然「犯罪なんかしちゃダメだ! 人を殺したりしたらダメ! 銃撃っちゃダメ! 約束! 俺は君の創造主(メイカー)なんだからな! OK?」といって次第に言葉を覚えたチャッピーも「創造主のいうことなら……OK!」というんだけど、ギャングは当然人を殺したり犯罪させたりしたいわけだから「銃はダメかもしんないけどヌンチャクならよくね?」とか「手裏剣とかナイフならいいよね?」とか「殺すんじゃなくてgood night 眠らせてあげるんだよ」っていってあの手この手で人間を殺させようとする。

結果的にヌンチャクや手裏剣で「good night 」といいながら人間を虐殺するギャングスター・チャッピーが爆誕するわけで、え、なにそれサイコウ、ってか完璧じゃない?????? もうこの時点で僕としてはサイコウかよおおおおおおおおおブロムカンプ天才かよおおおおおおおおおおおま、おまマジで天才なんじゃないの!?!? こんな映像と脚本が実現できるんだったら僕も映画監督になりたいんだけ度!!?!?!? 映画とらせてくれええええええ最高にハイにさせてくれえええええええと思うわけですよ!!!!

学習し、成長するAI

いや、わかる。人工知能がソフトウェアだったらなんでパソコン上で走らせられねえんだとか、なんであらかじめ人工知能に基礎知識が埋め込めないんだとか、なんでそんなことするんだとかセキュリティ意識ガバガバだろとか、そういうのは全部わかる。このあとにもいろいろあるけど、そんでその一つ一つに文句も出てくるだろう。僕は仮にも小うるさいSFおじさんだから、近々発売するzendegiの翻訳版(グレッグ・イーガン)とかテッド・チャンの「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」とか、長谷敏司さんの『あなたのための物語』とか『BEATLESS』とか、意識系の一般向けノンフィクションもだいたい読んでいるから、意識を持ったロボット〜〜とか、そういうのの雑な描かれ方にツッコミを入れたくなるのはわかる。よくわかる。

ゼンデギ

ゼンデギ

技術的にガバガバだろとか、そんなのありえないだろとか、簡単すぎるだろとか、いやでも、いいだろ???? 人型のロボットが「good night」っていいながら手裏剣投げてヌンチャクつかってたら、もう別になんでもよくないか……???? それはまあおいといても、人工知能が徐々に育っていくという描写は良いと思ったな。「物の名詞を認識する描写とか完全にヘレン・ケラーやんけ」とかいろいろ思うところはあるけれど、「AIは最初からすべての知識が完全な形で整備されている」という状況へのカウンターにはなっているようにも思う。

テッド・チャンもインタビューの中で(Ted Chiang on Writing - Boing Boing) 'The Lifecycle of Software Objects'を書いた動機はAIについて典型的なSFはちょっと進化を安易に書きすぎてるんじゃないの?(AIが最初から英語が喋れたり、知識を十全に持っているためにはそれを教育するという奇跡を起こさないといけないんじゃないの? 的な)と思ったからだ的なことを言っていて、本作は別にそういう深い意図があるわけじゃないのだろうけれども(何よりそれをどうやったんだっていうのが多すぎるし)赤子状態から学習し、成長していくAIの映像表現は興味深かった。意識についての描写は後半キイになっていくんだけど、これなんかはやり方はほぼzendegiのままなんで面白かったな。描き方はガバガバ過ぎて笑っちゃうんだけどね。

吹き荒れる暴力

あと、なんといっても僕はやっぱりこのブロムカンプが描くヨハネスブルグって都市が大好きだなって思うんですよね。ギャングは何度もいうけど本当に頭が悪くてすぐに銃ぶっぱなすし、なんだか悪いことをしたくてウズウズしている。それを一気に鎮圧したのがロボット警察官の威力だったわけだけど、でも本来だったら好きな様に暴れてたはずなのに!!! って噴火しかかっている状況。一気に鎮圧されたわけだからぐぬぬ状態だ。

それが噴火していく瞬間が映像として描かれていくと、ギャング共が「うおおおーーーー!!」って唸っているときは僕も「うおおおおおーーー!!!」って思ってるし、一流テクノロジー企業のインテリ共が暴力の前に屈してお得意の理屈をこねる前に銃で脅されたり単純な圧倒的な力の前にひえええええって逃げ惑うところをみると「うひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」って興奮するわけですよ、わかりますか??? うるせーーーーお前らの理屈はめんどうくさいんじゃーーーー!!!! 暴力の前にひざまづけやあ!! っていうね。

意識だなんだっていうとごちゃごちゃごちゃごちゃとSFは面倒臭い!! 俺はこれぐらい単純に描く! でもSFとして描く!! っていう単純さと複雑さの相反するものを強引に展開して引っ張っていくような。ヨハネスブルグっていう治安最悪の都市と(今は実際どうだか知らないけれども)それを強制的に変革する正義の絶対的体現者であるところのロボット警察と、そのせめぎ合いの中を、ギャングスター・ロボットとなってしまったチャッピーがいかにして泳ぎきるのかなどなど、身体を捨てるのか、捨てないのか、遠隔操作ロボットか、あるいは人工知能ロボットか、ロボットか、人間かって二項対立のせめぎ合いの描き方がどれもカタストロフィに向かうように圧倒的なテンションで描かれていくので興奮が止まらない。

その後の展開は、チャッピーが意識を獲得する以上に「いやいや!!!! ちょっとまってくれよ!!」と言いたくなるガバガバさの連続なんだけど、クズ共をぶち殺してやる!!!!!! っていう強烈なインテリの(という表現はちとおかしいかもしれないけど)憎悪と、ギャングらしく無茶苦茶にやってやるぜ!!!!!!! っていうギャング側のテンションがぶつかり合って拮抗しているような、奇跡的なバランスを感じる作品だったわけですよ。

別に見に行った方がいいとかいう気はないけど、でも一人の人間はこうやって熱狂の渦に落ち込んだ、落とし込まされた。ニール・ブロムカンプは完全に天才だと思う。

CHAPPiE 1/6スケール ABS&PVC&POM製 塗装済み可動フィギュア

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インターステラー観た(ネタバレしまくり)

観た。いやー凄かったなあ。もう観終えた後呆然としてこれはいったいなんだったんだろうと考えているうちにあっという間にスタッフロールが終わってしまった。長かった。トイレに行く間もないほどの緊迫感の連続だ。とにかく金額を集める上で通るのが不思議な企画であり、脚本は挑戦的で、マスに届ける必要があるエンターテイメントにもかかわらずわかりにくい要素を大量投入しなおかつそれを映像として表現する、映画として配給できたというだけで快挙だと思う。

しかしまず面白かったか? と聞かれれば、見どころがありすぎる映画だった、と答えるだろう。全体的な出来としては正直、無茶苦茶だと思うところが多すぎてのめり込むわけにはいかなかった。ものすご~くハードに描写している部分があるかと思えば(Science)、めちゃくちゃ適当に流されてしまう部分(Technology)もあり、バランスがちぐはぐだ。また要素を詰め込みすぎて、ウマく結合されていないイメージを受けてしまう。ようするに全体の脚本の整合性、それからくる絵面的な説得力にはどうしても欠ける。一方でワンエピソードごとの描写、演出を切り取ってみれば、はっとするような迫力に満ちていて、盛り上がりもある。

日本語で書かれたレビューをいくつか読んでみたけどだいたい大絶賛だし、その絶賛の内容は僕もほとんど同意するところだ。一方で気になる、微妙だった部分もあり、「そんなところに拘る意味はない」と言われるのも承知で素直に書いておきたい。なんだかわからんがとにかく凄まじかったが、なんだか中盤から終盤にかけてめちゃくちゃだったぞ!? というのが正直な感想だからだ。英語圏のレビューは公開から日が経っていることもあり反対者と擁護者の間で結構荒れていて、その辺のバランスも面白いかったりする※たとえばここの冒頭の部分など、僕があらかじめ宣言しておきたいことである。The Space Review: “Interstellar” versus interplanetary 『And when the film’s dissenters and defenders clash online, you may wish you could flee through the nearest wormhole to another galaxy.』

何がひどかったのか

とにかく宣伝段階ではリアリズムにこだわった映画(特にブラックホールとワームホールについて専門家のKip Thorneを入れている)などとプロデューサーは言っているが、少なくとも僕は首をかしげっぱなしだった。映像的な部分においては科学的な面が取り入れられているのだろうと思うが、それ以外の部分について描写の緻密さを望むものではない。地球から飛び出した後に作戦のことを何も知らずに周囲の人間に聞きまくるアホパイロット、宇宙に飛び出した人間に相対性理論って知ってるかと聞く間抜け。宇宙に飛び出した後にワームホールを得意げに説明する間抜け。ろくに練られていないミッション。まるでTVシリーズの安っぽいスペースオペラのように宇宙と惑星を行き来する超テクノロジーなんか観た時や重力の扱いの雑さにも笑った。根本的な疑問として土星に2年でいけるんだったらそれ、火星まで数週間でいけるけど火星に移住したほうがはやくねーかな? ワームホールに賭けをするよりかは余程現実的だと思うけど。

プロットのぐだぐださはメインプロットが「脱出」と「探検」で分裂していることからきているようにも思える。地球が気候変動とかでやばい! よしじゃあ宇宙に逃げるしか無いな! とこの辺の話はわかりやすい「脱出・移転」そして帰還の行きて帰りし物語だ。よくわからなくなってくるのが「ワームホールがあるからそこで別の宇宙にいって住めそうな惑星探査してるよ」「いくつか候補があるけど具体的なことが何にもわかんないよ」「だから行って確かめてきてね」となったあたりで、疑問が沸きまくるのだが説明されないか、説明されてもよくわからないまま進んでしまう。「なんで信号がきてるのに映像とか具体的な情報が何もそいつらから送られてこないの? そういう仕組がないの?」「なんで行ったっきり回収班がいかないと戻ってこれない方法でやらせたの?」

何が面白かったのか

まあそれはいい。ツッコミをひとまずおけば、この惑星めぐりツアーは映像的には見どころの一つだ。ものすげーデカイ津波が定期的に襲ってくる惑星なんか、ブラックホールがめちゃくちゃ近くにあるからという一応の裏付けがあるから特殊事例として面白かったし、一面氷の星も、雲が凍っているなど見ていて楽しかった。こうした一連の冒険シークエンスはなかなかぎょっとさせられたが、そもそもなんであんなわけのわからない状況(居住可能性があるかないかを送るビーコンしか信号が届かない)に置かれなきゃいけないのかってことがさっぱりわからんのですげー、惑星探索たのしーとは思いつつもこの惑星めぐりツアー、ほんとにいるのか? とずっと考える羽目になった。

でもこれは「探検」の要素を入れたかったのだろうと思う。かつて存在していた科学的な開拓精神、アメリカが月にいった、というスピリットが忘れられてしまった世界で、今こそ思い出させてやるのだという力強い宣言だ。実際、冒頭のシークエンスで誰もが開拓精神を忘れてしまったエピソードの一つとして、学校では誰もが「実際にアメリカが月にいった事実なんてない」と考えて、それを教育し、主人公の父親が怒る場面が挿入される。今だってダーウィニズムを教えない学校があるぐらいだから全然ウソっぽく見えないし、主人公は今は農業をやっているが、実際はパイロットでありエンジニアだ。科学的な精神を否定することはできない。

だが「探検」の要素を入れたばっかりに、「地球外に逃げなければ」という最初に提示されている問題部分との齟齬が発生しているのではなかろうか。地球がヤバイだけならさっきも言ったように火星に行けばいい。それかもしくはせっかく存在しているワームホールを使うにしても、無人探査機を送ればいいのだ。なぜ馬鹿正直にいろいろと理由をつけて有人探査をさせて、しかもそいつらは映像も何も送れず、単なる「Yes or No」みたいなデータしか送れないんだ? それ人間が行く意味がまったくないじゃん。といったら、「主人公に探検させたかったんだもん!」という事情からきてるんだろう。わかるし、そのパートは面白いのは確かなのだが、そのせいでめちゃくちゃだよ。

映像的な意味では、ワームホール、ブラックホールの描写は良かった。もう「これがワームホールでございます」「これがブラックホールでございます」といったかんじで一目でヤバイとわかる映像になっている。ワームホールに突っ込んだら、どうなる? とかブラックホールに突っ込んだら、どうなる? という、言葉で提示されただけじゃあまったく想像がつかない領域のことを実際に映像にしているわけで、そのあたりの力技はとても楽しかったな。ワームホールはあれ、ドラえもんの四次元空間を参考にしましたか? みたいな感じだったけど。

そしてもちろん最後の「五次元空間」の演出も──まあよかった。まあよかったと微妙に濁すような形になったのは、ああいう明らかにぶっ飛んで普通の人が理解を拒みそうなもの、時間も空間も超越している存在になった人間を「描こう」「演出しよう」としたことそれ自体を評価しているのであって、映像自体はなんだかアホっぽいなと思ったからだ。だがさすがに娘との姿は見せないものの時計の針の運動だけで交流するところはグッと来たというか、あの辺前後から最後まで泣きっぱなしだった(泣きっぱなしなのにこんなに文句を書くのか)。ウラシマ効果なんかもあそこまで縦横無尽に取り込むのは凄いよなあほんとに。

またその時代の科学を礼賛するのではなく、「未解明の物を解明していくことこそが科学なんだ」という具体例として幽霊、愛といった部分を持ってくるのがウマかったですね。最初はどちらも単なる眉唾ものだったのに、後半にいたってその理屈が明らかにされたり、理屈は明らかにされないものの何らかの効力を考えさせたり。「未知に理屈をつけ続けていく科学というプロセス」そのものを実際の理論などで小難しく示すのではなく、ポルターガイストや愛のようなどちらかといえば身近な現象で説明づけるていくというコンセプト部分は、真に映画が開かれていくような感覚もある。

最初に観終わった後あまりに情報量が多かったか、あるいは上映時間が長かったかで頭痛がとまらなかったが、頭の中をぐるぐるぐるぐると渦巻いている「今自分がみたものはいったいなんだったんだ……」という情報でぶん殴られた感はほとんど味わったことがないような感覚だ。観たこともなければ、それどころか想像しようとしたことすらない「ワームホール」や「ブラックホール」にツッコむ! 時と空間を超越した五次元空間! 見知らぬ惑星! と初体験映像ばかりぶっこまれ、3つの映画に分割したほうがいいようなプロットを強引に一つのテーマでまとめあげて突き抜けたところにあったんだろうとこれを書いていて思った。

観ている間は各場面ごとに引きこまれ、グッと来たし、常に緊張感が持続し、紋切り型の表現になってしまうが、長さも感じない。終わりそうになってきたときに「え!? もう2時間半近く経ったの!?」と驚いたぐらいだ。Technology描写のひどさとか、脚本のちぐはぐさとか、最初に期待していたハードルが高すぎた分がっくりきたのは確かだけど、十分に楽しませてもらいました。

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