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幻でありながらも物語を支配し続ける──『幻の女〔新訳版〕』

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

幻の女〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

『ミステリ・ハンドブック』第一位、『東西ミステリーベスト100』では第二位、その他オールタイム・ベストランキングで幾つも上位に残っている『幻の女』が黒原敏行新訳で刊行。ミステリについては不勉強なものなので読み終えたあと解説を読んで「そんなに有名な作品だったのかぁ」と驚いたが、確かにこれは隙がない面白さだ。冒頭から書名そのまんまである「幻の女」の魅力にガッと持って行かれ、あとはその幻影を追い求めるうちにあれよあれよとページを捲り続けてしまう。

物語は、『夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった』という印象的かつ有名な(多分)一文からはじまり、一人の不機嫌な男がバーに入って、見ず知らずの女に声をかける。女は、パンプキンにそっくりな妙な帽子をしており、受け答えやこちらを見透かしているような言動など全てがミステリアス。会話の一つ一つにキレがあり、その後すっかり物語から退場してしまうが、小説全体を支配し続けるだけの魅力が短い描写の中に詰め込まれている。

 彼は三分の一ほど微笑んだ。女には教養があるようだった。今夜やっているようなゆきずりのつきあいを、取り澄ましすぎたり、はめをはずしすぎたりしてひどい結果に終わらせることなく、上手にやってのけることができるのは、教養のある人間だけだろう。この女はどちらにも偏らず、バランスを保っていた。逆にいえば、もう少しどちらかに偏っていたなら、もっと鮮明に記憶に残ったはずだ。かりにもう少し品が悪ければ、女成金風の粋奔放な魅力が印象づけられたかもしれない。逆に、もう少し品がよければ、聡明な印象が強くなり、そういう点で記憶に残っただろう。しかし実際のところは、そのふたつの中間で、二次元的な浅い印象しか残さないのだった。

軽く飲み、二人でショーを見て、別れ際に女は彼に向かって『もう気が晴れただろうから、大事な女と仲直りしたら?』と全てをお見通しのように言って、心地よく二人は別れていく。ここまでならただのいい話だが、帰った彼を待ち受けていたのは離婚の合意がうまくいかず喧嘩をして家を出てきたばかりの嫁の死体だった──。

彼は他に女をつくっており、離婚を望んでいたが嫁にそれを拒絶され、断絶状態にあった。それに加え、ほぼ完璧な色合わせで構成されたおしゃれであることが一目でわかる彼の服装──色は青──のうち、ネクタイだけは頓珍漢な色で、殺害に使われたのは青色のネクタイだったのだ、というあたりが個人的にはけっこうお気に入りの導入。根拠にするには弱いが、心情は一気に「こいつなんじゃ……」と疑わせる。もちろん、彼は第一容疑者であり、章題に使われる「死刑執行日の○○日前」というのは彼の死刑執行日のことであることがすぐにわかる。

問題は、彼は犯行時間に明らかに女と会っていたことだ。なればその女に証言してもらえば全てはかたがつく。しかし、警察が彼と女を見ていたはずのバーやショー、レストランの店員へと話を聞きに行っても誰も女のことを覚えていない……。それどころか、この男が一人で来たのだと証言してみせる。彼自身、名前すら聞かなかった神秘的な女のことだ。最初こそ自分は確かにあの女と共にいた、あの女は実在の存在だと信じているが、多くの人間に嘘つきだ、助かりたいが為にでっち上げているのだと非難され続け、刑も宣言されるうちに次第に自分自身への疑心暗鬼にも陥ってしまう。文字通りあれは「幻の女」だったのではないかという疑惑が募ってくる……。

彼=ヘンダーソンにとっては、自分の命の為になんとしても見つけなければいけない幻の存在であり、彼のいうことを信じ、行動を起こす刑事バージェスにとってもそれは同様である。物語が進むに連れて、他に幾人もがそれぞれの動機から「幻の女」を追っていたことが明らかになっていく。そこにいないにも関わらず、一環して物語を支配しているというのはそういうことだ。だんだん事実が明らかにつれ、物語の性質もまた幻想的なものからスリリングなものへと変質していくのもまた楽しい。

描写は美しく、セリフのやりとりはどれも力強く引き込まれる。僕が好きなのは次のセリフである。『こういうのって男の人にはわからないわね。宝石や、歯の金の詰め物なら真似されてもいい。だけど、帽子はだめなの。』──そうなのか……まったくわからんし実態とは違うかもしれないが、そう断言気味にいわれると納得してしまう強靭さがある。最初に翻訳版が出たのは1976年、原書が出たのは1942年のことだが、70年以上が経ってもそういう部分って色褪せずに残り続けるんだよね。

黒原敏行さんの訳の実力はピカイチなので楽しみだったが、本書には池上冬樹さんの解説に加えどのような訳の変更を行ったのか(あるいは行わなかったのか)という解説をする訳者あとがきまでついていてよかった。名人芸の一端に触れられるはずだ。

真実はひとつ。人はそれにたくさんの名前をつけて語る──『千の顔をもつ英雄』

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

  • 作者: ジョーゼフ・キャンベル,倉田真木,斎藤静代,関根光宏
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/12/18
  • メディア: 文庫
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古典的名著として有名ながらもずいぶん長いことてにはいりづらい状況が続いていたが、『神話の力』を出した早川書房が新訳で文庫化してくれたぞ。

数多ある神話、たとえばヘラクレスだとか、ブッダとか、名前を聞いたこともないような部族の民話とか、お伽話とか縦横無尽に話を収集してきて、そこから神話に──というよりかは、「人間が残し、伝えてきた物語」に存在する普遍コードのようなものを見いだしてみせる一冊(上下で二冊)である。ようは、神話というものが場合によっては何千年も人から人へと伝えられ残されてきたのは、人が根源的に好む、あるいは望む? 本質がそこには含まれているからであるし、それは表面的には千の顔を持つけれどもその裏にはたったひとつの真実が存在しているとする。

本人の言を借りれば『あまり難しくない例をたくさん提示して本来の意味が自然とわかるようにし、その上で、私たちのために宗教上の人物や神話に出てくる人物の形に変えられてしまった真実を、明らかにすることである。』ことを目的としている。そのわかりやすさ故か、スター・ウォーズの生みの親ジョージ・ルーカスがこの本を非常に参考にしているように、幾人ものクリエイターがキャンベルの影響を受け物語を構築している、物語を作る人間からすればバイブルともいえる名著だ。

まず何が凄いって、その幅の広さが圧巻。たとえば、「出立」といって冒険への旅立ちを語る章では、超メジャーなアーサー王物語からドマイナーな北アメリカの民間伝承、聞いたことのない民族の神話、東洋におけるブッダの生涯など縦横無尽に神話が参照される。アーサー王は狩りにでかけた先で見たことも聞いたこともない奇妙な獣に遭遇し、ブッダは庭園に向かう途中で歯が欠け、髪が白く、杖に頼り震えている年寄りや病人に出会う。それは彼らにとっては理解し難いもので、しかしそれと出会うことによって彼らの冒険はスタートするのである。

アーサー王のような有名どころから無名どころまで数々の英雄譚を類例に沿って読んでいくだけでも底抜けに楽しいが、その先にはキャンベルによるまとめが入る。

神話的な旅の第一段階は──ここでは「冒険への召命」と言っているが、運命が英雄を召喚し、精神の重心を自分がいる社会の周辺から未知の領域へ移動させることを意味する。宝と危険の療法がある運命の領域は、さまざまな形で表現される。遠隔の地、森、地下王国、波の下や空の上、秘密の島、そびえたつ山の頂上、そして深い夢の中などだが、それは常に妙に流動的で多様な形になるもの、想像を超える苦難、超人的な行為、あり得ない喜びがある場所である。

アテネにやってきて、ミノタウロスの恐ろしい話を聞いたテセウス、ポセイドンの起こした風で地中海をさまよう羽目になったオデュッセウスなどなど冒険の「出立」だけで膨大な具体例を得ることができる。圧縮して紹介すると、キャンベルがいうところの英雄譚の構造は大きくわければ3つに分けられる。苦難や冒険への導入である「「分離」または「出立」」、試練や恵みを得る「イニシエーションの試練と勝利」、最後に循環へと至る「社会への帰還と再統合」。これらを上部構造として、それぞれに下部構造へと細かく分かれていく。

「出立」といって英雄に下される召命について語られたかと思えば、その次には逃避する為の「召命拒否」を語るサブセクションがあり、使命にとりかかる物へ思いもよらずに訪れる「自然を超越した力の助け」。などなど、多くともサブセクションは6つまでだが、ほとんどの神話がそこに収まってしまう事が具体例と共にあげられていくのでよくわかる。具体例の多さはそれ自体が「神話には類例がある」ことへの説得力になりえる。複雑なロジックを飲み込む必要もなく、ただただ読んで納得していけばいい。自身が言うように、驚くほどわかりやすい本なのだ。

いまどき、神話なんて

神話について何かを知っている意味があるのだろうかと問いかける人もいるだろう。その問いかけ自体は本書の著者ジョーゼフ・キャンベルを語り手にし、ビル・モイヤーズが徹底的に聞きてに回った『神話の力』でも最初に問いかけている。この答えが、わりと身も蓋もなくて面白いからちょっと引用してみよう。

モイヤーズ なぜ神話を、という疑問から始めましょう。いまどき、なぜ神話のことなど考える必要があるんでしょう。神話は私生活とどう関わっているのでしょうか。
キャンベル 答えとしてはまず、「どうぞそのままあなたの生活をお続けなさい。それは立派な人生です。あなたに神話の知識などいりません」と言いたいですね。どんなことでも、他人が重要だと言ってるから興味を向けるなんて、賢明なこととは思えません。ただ、どういう形であろうと、その問題のほうから私をとらえて話さない場合には、まともに受け止めるべきでしょう。あなたの場合も、適当な予備知識さえあれば、神話のほうからあなたをとらえることに気づくはずです。そこで、神話がほんとうに心をとらえたとき、それはあなたのためになにをしてくれるのでしょう。

そこに興味が自発的に向かないかぎり、「あなたに神話の知識などいりません」というのはなるほどまったくその通りである。しかし──とその後につづいているように、神話には何の効果もないといっているわけではない。

 ギリシャ、ラテンの古典や聖書のたぐいは、かつて日常的な教育の一部でした。こういうものが捨てられてしまったいま、西洋の神話知識の伝統もまるごと失われてしまいました。神話的な物語はだれの心にも宿っていたのに。そういう物語が心のなかにある限り、それが自分の生活の内面と関連していることもわかるはずです。それは、いま起こっていることにひとつの見通しを与えてくれます。

キャンベルは他にも、現代社会の裁判官を見るに、威厳のある黒い服のかわりにグレーの背広を着て法定に出てもいいはずだが、それをしないのは裁判官のちからを儀式化し、神話化する必要があるからだと述べている。あまり意識しないまでも、この世界には神話の力を使った作用が溢れている──ただし失われつつあるのだ。

だからこそ知る必要がある──というよりかは、知ることによってはじめて神話はその意味を持つのだろう。キャンベルが『神話は、人間生活の精神的な可能性を探るかぎです。』と語るように、神話はかぎなのだ。それは誰にでも同じ効果──咳止めシロップのようにもたらすわけではない。幾つもの物語を自分の中に内包していると、自分なりのやり方で世界とうまく折り合いがつけられるようになる。幾人もの師匠と、無数の教訓を手中にすることだから。

それはそれとして、神話をつぎつぎと読んでいくのは純粋にとても楽しいからオススメの本である。何しろ数千年も人の心を捉えて離さない物語群を、最高の語り手が語ってくれるわけだから、つまらないはずがないんだよなあ。

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

たったひとりの人類代表──『中継ステーション』

中継ステーション〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF シ 1-5) (ハヤカワ文庫SF)

中継ステーション〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF シ 1-5) (ハヤカワ文庫SF)

表紙には美しい少女と、背景に小さな一軒家と川が描かれているが、まさにそれが表現しているかのように、牧歌的な世界の美しさがじんわりと浮かび上がってくるような作品である。シマックはハインラインやクラークと同時代を生き、高い評価を受けていたとはいえ、読んだことがなかったのだけれども、今回を機に読めてよかったな。原書刊行が1963年と50年以上前だが、限定された片田舎の物語であり、時代を経ても古びている部分が少なく、オリジナルな部分はいまだに色あせていない。

舞台となるのはアメリカ中西部の一軒家で、実はそこは多くの異星人が星から星へと移動する時の中継ステーションになっているのだ。地球人として唯一その存在を知るイーノック・ウォレスはそこの管理人として存在しており、その一軒家の中にいると歳をとることもないから、本来であれば124歳になるはずが見た目は30代を保っている。面白いのが、そんな特殊な状況下にありながらイーノックは基本的に人と交流せず、散歩に行き、郵便を受け取る至極規則的な生活を送っているところにある。

誰にも話すことの出来ない秘密を抱えながらも、銀河中から集まってくる様々な異星人と話をし、事実上死と時間からも解放されている為に、普通の人間ではありえないほど「大きな視点」をイーノックは持つに至っている。銀河に散らばるうちの一種族でしかない人間を「人類」として捉え、その能力の限界と行末をある種客観的に観察している。『人類の視野は狭く、しかもごく一部しか見ていない。古い概念を乗り越えようと、ケープカナヴェラルから宇宙にロケットを打ちあげようと躍起になっているいまですら、他の星のことはほとんど想像もできずにいる。』

また、時間から解放されていることもあってその時間間隔は個人ものよりかは広く解放され、どこか自然と同化している部分もある。『数百万年も生きていれば、人間でも多少は答を見つけられるかもしれない。今日という晩夏の朝から、イーノックが数百万年先までも生きながらえていれば、答を見つけられるかもしれない。』

そうやって、地球以外に存在する広い文明の世界を知り、人類というものを相対化する機会がある人間だからこそ──、彼の家の周囲にあるなんでもない風景や、日常が彼に素晴らしく感じられるようになる。さんざん旅をしたあとに「やっぱり日本が一番だな」とか「やっぱり故郷が一番だな」とか、一番ではないにせよ、元いた場所の良さが見えてくることは誰にだってあると思うが、その宇宙版のようなものだろう。

 しかし、そういうことをすべてわきに置いても、イーノックは外の狭い世界を恋しく思うに違いない。世界の片隅にある、彼が生まれて育ち、よく知っている地。徒歩でぐるっと回れるほど狭い地。イーノックはこのささやかな地を自分の足で歩きまわることで、自分が地球の市民、人間でありつづけられているのだと思う。

もちろん、地球は──というより、人類は「良いこと」ばかりではない。この先破滅的な戦争がいつ起こってもおかしくない冷戦の時代に書かれた作品でもある。イーノックのみが管理人として登録され、他の人類にはそのことが秘されているのは、人類はまだその段階にないとされているからだ。物語は最初こそ異星人とイーノックの交流を描き、その日々を淡々と描いていくものだが、次第に銀河同盟と地球の関係は大きな決断を迫られるものへと変貌していく。イーノックは、そんな時に、事実上たったひとりで人類を代表し、交渉によって人類の立ち位置を決定しえる男なのである。

彼が悩むのは、たとえば人類は銀河同盟に入るに値する種族なのか、ということだ。それはもちろん「いま」そうである必要はない。この先、数十年、数百年の時を重ねて良い方向へ変化していければいい。しかし、それは可能なのだろうか。『幼年期の終り』などいくつかの「人類進化テーマ」の作品では、割合人類は問答無用で強制的に進化させられてしまう(その結果が肯定的であれ否定的であれ)ものだが、本書の場合はその前段階で我々はどうするべきなのかを、ひとり人類とその歴史を相対的に見ることができる男が延々と悩み続ける作品であるといえるかもしれない。

彼の立ち位置的には単純な「人類」の枠に引っかかるわけにはいかない、というのもある。人類の中には確かに野蛮な人間がいるが、彼までがそうである必要はない。逆に、彼を含めたどんな人間にも戦うことは本能として仕組まれ、それが最終的には必然的に戦争を引き起こすのかもしれないと考えないわけにもいかない。

異星人と多く交流し、歳もとらない事から異星人と地球人の間で揺れ動く彼の不確定性は、物語が終盤に至るにつれさらに強くなっていく。様々な文化が交錯する中継ステーションで、彼が自身と人類をどのように規定するのか。最初に述べたように牧歌的な、周縁部からじんわりと広がってくる地球の良さ、みたいなものがあるのは確かだが、野蛮さまで含めた人類を総体的に描こうとする作品でもある。

あんまり触れてなかったけれどもいろんな異星人がやってくるからコミュニケーション物としても面白かったりする。異なる異星の文化を受け入れ、理解していく過程であったり、発音不能な言語や身振り言語のみを利用する種族とコミュニケーションをとるために発達した意思伝達学の存在などわりと作りこまれた設定がある。

自由であること、自分で決めること──『世界の誕生日』

世界の誕生日 (ハヤカワ文庫 SF ル 1-11) (ハヤカワ文庫SF)

世界の誕生日 (ハヤカワ文庫 SF ル 1-11) (ハヤカワ文庫SF)

超高度文明が居住可能惑星に人間型生命の種を撒いた宇宙を描くハイニッシュ・ユニヴァース物を中心として集めた全8篇の短篇集になる。中心として集めた、といってもこの世界を歴史的な視点から描いていく連作短篇群というわけでもなく、基本的にはそれぞれ独立した短篇として特殊な社会状況とそこに現れる我々は大きく異なる常識や価値観が表出されていくのが、まあ、なんといってもル・グインだよねって感じだ。そういうわけでとても純度の高いル・グイン傑作短篇集に仕上がっている。

2篇はその世界から外れた独立の世界を描いているが、特に注目作としては書き下ろされている「失われた楽園」がある。別の地球型惑星へと向けて旅を続けている世代宇宙船物で、「到着前」でも「到着後」でもなく、目的地にはたどり着くことのできない中間世代ならではの価値観や物の考え方を描いたものとしてかなり出来が良い。

それ以外の7篇については、著者自身による序文から言葉を借りれば『つまりこれらの話は、いずれも、われわれとは違う社会形態をもち、その生理機能さえもわれわれとはちがいながら、われわれと同じように感じるひとびとを、内側から、あるいは外側の観察者(土地の人間に同化しそうな)の目で、さまざまに描出している』ということになる。とりわけ、割合としては性をテーマにしたものが多い。

異なる性規範を描いた作品群

たとえば「愛がケメルを迎えしとき」の社会状況は、性別が成長途中で確定し男女に加え中性が存在し、性別への固執を超えた部分で展開される愛を描いた作品だ。続く「求めぬ愛」では、結婚が4人で行われ、性交相手は男女ではなく<朝>と<宵>のペアで決定し当たり前のように同性愛が行われる状況が描かれる。この制度は多少複雑で、たとえば<朝>の男であれば、結婚相手4人のうち<朝>の女とは性交することはできない。性的な関係は<宵>の女と<宵>の男の二人だけだ。

「3人の相手と結婚をしながら、そのうちの1人とはセックスをしないなんて」と疑問に思うが、それがこの社会における性的志向なのだ。家族の形が現実世界とは根底から異なるので、当然そこで繰り広げられる生活上の常識は我々のよく知るものとはまったく異なったものとなる。面白いのは、「求めぬ愛」というタイトルの如く、基本的に4人を結婚の座組とする仕組みのせいである2人が好んで結婚するときにパターンとしてお互いのことをよくしらない2人が巻き込まれるのだ。そりゃそういう問題も起こるだろうと思うが巻き込まれる方からしたらまさに「求めぬ愛」である。

同じ惑星を舞台にした「山のしきたり」では、今度は愛し合ってはいるものの、お互いに<宵>の女であることからその関係を隠して、それでもなお生活を営もうとする二人の女性が描かれる。われわれとは違う社会形態を描きながら、それが「すべてにおいてうまくいっている」例として描くのではなく、その社会ならではの問題が沸き起こってくるのはSF的な面白さといっていいだろう。

自由であること、自分で決めること

性的な規範を中心とした作品を紹介してきたが、別の傾向の短篇としては「孤独」がある。文明後進国の星に調査のためにやってきた一家だが、娘と息子はその土地に適応し、「魔法が存在する」ような土着ならではの世界観を形成していくのに対し母親はそんなものはただの研究対象であって、科学文明に早く戻りたいと願っている。

母親からすれば遅れた未開拓な文明でしかないとしても、子どもからすれば、自分たちが生まれ育った土地で、文化だ。友人らもそこにいる。もしその惑星を後にすれば、二度と会うことはないだろう。娘は母親と共に行くか、あるいはその土地で暮らすことを自分のもって生まれた選択の権利だとして強引に主張するかの重い決断を迫られることになる。性を扱う他短篇などと合わせて共通しているのは「自由であることを望み、自分で決めること」を描いている点だと思う。

最初に紹介した世代宇宙船物の「失われた楽園」は、独立した短篇ではあるが、この「自由であること、自分で決めること」という部分では共通している。何世代も平和に過ごした宇宙船を楽園とみなし、宇宙を漂い続けるのか、はたまたまだ見ぬ地をあくまでも目指し、そこに腰を落ち着けるのかと。どの短篇でも人々は社会規範や文明の衝突、先の見えぬ岐路に際して難しい決断を迫られるが、登場人物たちはみな、より自由であろうと自分なりの決断を下してみせる。

僕はこの短篇集の中では「孤独」と「失われた楽園」の二つが特に好きだけれども、決断が重いんだよね。前者は親ともう二度と会えないかもしれない事に加え、これまでずっと支配的だった親に対してはじめて自立した一個人として決断しなければいけない覚悟の時を描いているのもある。後者はもう単純に、まるで楽園のようで住み慣れた場所にずっと居続けるのか、それとも未知の何かを得る為に前に進むのかという重い二択だ。どちらを選択しても、うまくいかない可能性は常にある。でも人生というのは、そうしたリスクを引き受け決断を重ねていく過程でもある。

ただ、そういう重い決断が連続するル・グイン作品を読んでいて一方で安心できるのは、その価値観のフラットさにあるように思う。『「袋にきちんと詰めれば、梳き毛の大部分はまんなかに集まる。でも袋の両端を縛ったときに、どちらの端にも少しばかりの梳き毛が残る。それがわたしたちだ。けっして多くはないが。でもそれはまちがったことではないんですよ」』と「山のしきたり」で登場人物の一人がいうように。あくまでもマイノリティや作中視点人物と対立する価値観をも否定せず包み込んでいく。「孤独」の親子間対立とか、科学文明にどっぷり浸かっている身からすると親の視点にも同調してしまうもんね。

想像の飛躍を必要とするまったく未知の状況を描きながらも、緻密に作りこまれた世界観や価値観から突き放されることはない。実にル・グインらしい作品が集まった短篇集だ。本書初訳のものが5篇もあるしファンとしては嬉しい。

サイコパス大戦──『レッド・ドラゴン』

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 上 (ハヤカワ文庫NV)

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 上 (ハヤカワ文庫NV)

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 下 (ハヤカワ文庫NV)

レッド・ドラゴン〔新訳版〕 下 (ハヤカワ文庫NV)

トマス・ハリスの傑作レッド・ドラゴンが新訳で登場。原書刊行が1981年、翻訳が1985年には出て、その上2002年には決定版と称して出し直されている。旧訳から時間的にはそれほど経っているわけではないが*1この手の名作は別にいくつも異なる訳があっていいものだろうと思う。そこまで解釈の割れるような作品ではないが。

本書『レッド・ドラゴン』はあの「ハンニバル・レクター」が初登場し、その後ハンニバルシリーズ『羊達の沈黙』『ハンニバル』『ハンニバル・ライジング』として続いていく最初の作品である。シリーズは一度通して読んだことがあるので今回ひさしぶりの再読になったけれども、同じシリーズとはいえ作品ごとに狙いが明確で、読み味が違う中本書はやはり突き抜けて面白いなと思う(映画は映画でまた別)。

映画でこの天才異常犯罪者のカリスマ性にやられた人も多いだろうが、後の作品でほぼ主役級の扱いをされていくハンニバル・レクターが本書では事件に対してほんの少し関与するだけの端役である。だが端役であるが故に、ほんの少ししかその姿を表さなかったとしても、登場人物一人一人の中に彼の存在がずっしりと居残っており、様々な場面で影響が響き渡っていることがわかる。「いないことによってさえ、存在感を放つ」悪役として、後々の作品とはまた違った印象を残す男である。

簡単なあらすじ

本作で天才だのモンスターだのと散々持ち上げられておきながらも、ハンニバル・レクターはウィル・グレアムによって自身の犯罪行為を暴かれてしまい、監獄に囚われ、そこから出ることはできない状態にある。しかし自身がサイコパスであると同時に精神科医としてサイコパス心理に精通した天才でもあるので、解決不能なサイコパス犯罪者が現れると捜査員は彼の助言をあおぎにいってしまう……。今回(というか、初回だが)彼に持ち込まれたのは満月の夜に殺人をおかしその遺体に噛み跡を残す通称<歯の妖精>をめぐる事件、これにウィル・グレアムが挑む。

サイコパス大戦

これは『羊たちの沈黙』とほぼ同様の導入ではあるが、異なるのはその登場人物(とハンニバル・レクターの関与の度合い)だ。ハンニバル・レクターに会いに行くのは、ひよっこ捜査官であるところのクラリス・スターリングではなく熟練のスキルを持つ(が今は引退している)ウィル・グレアム。先に説明したとおり、彼は同時にハンニバル・レクターを偶然と直感によって犯罪者だと見抜き、逮捕のきっかけになった男でもある。当然、偶然とはいえどうやって捕まえたんだと思うところだ。

彼は偶然に『負傷者』という医学書に存在するイラストを見ており、ハンニバル・レクターの部屋にその本が存在し、なおかつ殺害現場の状況がそれとそっくりだったことに気がついたのだ。「そんな偶然があるのか」とも思うが、天才的な犯罪者であったハンニバル・レクターが逮捕されるからには、そうした偶然が関与していなければむしろ不自然である。その上、ウィル・グレアムはレクターをして『きみが私を捕まえられた理由は、われわれが似た者同士だからだ』と評されている。

かろうじて真っ当な側にいるが、彼もまたサイコパスの内側に深く同調し、理解することのできる「サイコパスに近しき者」なのだ。だからこそ現役を既に引退しながらも、事件の陣頭指揮をとらされることになる。犯罪現場にいって、細かな部分の一つ一つに気を配って、サイコパス事件は時として自分自身にすら自分のしていることがわかっていないことがあるものだが「何を考えたのか」に深く同調していく……。

 グレアムは三羽のペリカンが干潟の上を並んで飛んでいくのを見つめた。「モリー、知能の発達した異常者、とりわけサディストは捕まえるのがむずかしんだ。理由はいくつかある。まず、これといった動機がない。つまり、動機の面から犯人を追えない。そしてたいてい情報提供者がいない。ほとんどの逮捕の裏には、捜査関係者より多くの密告者がいるものだけど、今回のような場合、情報提供者はまず出てこない。犯人自身にも自分のしていることがわかっていない可能性もある。だから証拠をとにかく集めて、そこから推定するしかない。犯人の思考を再現するんだ。パターンを発見する。」

真相を追う過程はミステリ形式だが、実際には<歯の妖精>側の視点もすぐに挟まれることになるが、グレアムの推察精度の高さは彼が捜査官であることを忘れてしまうぐらい高いものだ。三者三様のやり方で事件についての思考を推し進めていくので、いわばサイコパス(ウィル・グレアム)vsサイコパス(歯の妖精)vsサイコパス(ハンニバル・レクター)状態である。ほぼほぼサイコパス大戦じみた内容になっていくのが途方もなく面白い(ハンニバル・レクターはちょい役だけど)。

元からサイコパス極まっているレクター先生や歯の妖精さんはともかくとして、ウィル・グレアムは操作が進むにつれてうぐぐこのままでは……と自身の中のサイコパス性と戦う葛藤がはさまれていくのもヒーロー物としては素晴らしい。英雄の本質について、『神話の力』でジョーゼフ・キャンベルは次のように言っているが『「英雄の旅の本質は、そんなものじゃない。理性を否定するのが目的ではない。それどころか、英雄は暗い情念を克服することによって、理不尽な内なる野蛮性を抑制できるという人間の能力を象徴しているんだ」』これを体現するかのようなキャラクタだ。

一方、歯の妖精さん視点の物語は、先に引用した「犯人自身にも自分のしていることがわかっていない可能性もある」、常人にはまったく理解できないイカれたサイコパスが、それでも自分なりの理屈と動機をもってさまざまな行動を起こす描写が特に良い。外部の人間からすれば「一体何でこんな意味不明なことをするんだ……」と絶句するしかない状況でも、それをやった「狂った」と人から見られている当人からすれば、きちんと理由もあれば動機もあるのである。

サイコパス大戦の面白いところは、まったく同じサイコパスは一人もいないところにある。みなそれぞれのこだわりと高い能力を持っている。だからこそ多種多様なサイコパスが入り乱れ、理解できない思考回路をお互いが読みとろうとすると独特の緊迫感が生まれることになる。多種多様なサイコパスが入り乱れる作品として、本作はいまだに随一の面白さを誇っていると今回あらためて感じた。

「異常者を異常者として描きながら、一般的な読者にも理屈としては理解できる」よう描くこと、異常な知能と観察能力を持った人間を描くこと、そんな相手と対峙しながらも一歩も引かずに自身の責務を果さんとする人間を描くことなどなど、僕がこのハンニバル・シリーズで好きなのは「描写」そのものなのだが、そればっかりは読んでもらうことでしかうまく伝えられないのが残念ではある。

ちなみに、完全版の際についた解説+今回の新訳にあたっての訳者あとがきが新たに追加されているのでご安心を。そのせいで上巻に滝本誠さんとオットー・ペンズラーさんの解説、下巻に桐野夏生さんの解説+訳者あとがきが載っていてなんというか解説もりだくさんの本になっている。

サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅

サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅

*1:訳の評判は悪かったようにも思うが全然覚えてない

黄色い部屋の秘密 by ガストン・ルルー

黄色い部屋の秘密〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

黄色い部屋の秘密〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

今やカレーといえば福神漬ぐらいのレベルでミステリといえば密室物ぐらいに切っても切れない関係性にある。本書は『オペラ座の怪人』などで知られるガストン・ルルーによって1908年に刊行され、最初期の密室作品群のうち「実は抜け穴がありましたー」などというがっかりな結末でない「完全な密室状態」であることを作品の中心に置いた、時代を代表する作品である(完全な密室状態を書いた最初の作品とは解説にも書いてないからこれぐらいが妥当な表現だろう)。

 さまざまな批判はあったものの、今日まで『黄色い部屋の秘密』が個展中の古典として読み継がれてきた最大の理由は、完全な密室にこだわった、という点にあるのだろう。本作は、多くの読者を獲得しただけではなく、のちに誕生するミステリ作家に大きな影響を与えたのである。

とは解説の吉野仁さんの言。実際この言葉どおりに、アガサ・クリスティーやらジョン・ディクスン・カーやら江戸川乱歩やらの絶賛の声が解説に引用されている。

物語の舞台はパリ郊外に存在するグランディ城だ。その城で研究にいそしむスタンガーソン博士とその令嬢マチルドであったが、黄色い部屋で彼女は襲われてしまう。博士らが扉を突き破って中に入ったところ、その部屋には血まみれで倒れているマチルドの他、犯人はおらず他に出入りできる場所はどこにも存在しなかった……。とまあオーソドックスな密室物である。完全密室状況下で襲われ、犯人はいないのだ。

それを解決に導く探偵役は新聞記者であり当時まだ18歳だったルールタビーユ君(本名ではなく、あだ名である)。だが実際には18歳の言動にはとても思えないぐらい尊大だ。失敗も多く、うまくいかないことがあれば喚き散らし、年齢相応に若干中二病が入っており、完璧超人というわけではない。下記は年齢相応の中二病の図。

僕はこれから僕の理性が見つけた、この<論理の輪>に入ってきて、その論理を支えてくれる<目に見える証拠>を探す必要がある。この事件を自然な形で説明する<論理の輪>に入ってきて、その論理を支えてくれる証拠を……。なんとしてでも、その証拠を見つけなければ……。僕はそのための力が欲しい。

ただこの<論理の輪>とそれを支える<目に見える証拠>をあくまでも重視する姿勢は、本書の面白さに大きく貢献している。密室が「本当に密室であること」を丹念に検証し、その時誰がどこにいたのかという「人間相関図」、婚約者、愛憎劇などの動機部分を深く掘り下げ、地道に証拠を集めていくのが本書のほとんどの過程である。

論理的に事件の帰結を導くとは、超自然的な現象を取り入れないこと、事実や物証が必然的なつながりを持ち、互いに矛盾していないことなどなど。500ページにもわたって「密室が本当に密室であること」の検証、謎に次ぐ謎が起こると、<論理の罠>の構築も複雑になっていくが、だからこそラストにルールタビーユ君が『裁判長。事件を説明する<論理の輪>を描くには二つの条件があります。それは理性が許容すること、それが<正しい論理の輪>であることです。』といって、これまで散りばめてきた手がかりを総まとめにかかって何十ページにも渡って語り続ける場面は爽快である。

全体を通してなかなか楽しませてもらったが、そのいくらかはやはり「密室の古典中の古典」作品であることを考慮にいれた評価だ。重要なのは「今」読んで面白いものなのかどうかだが、これは、面白さはともかくとしてちと長いね。

何しろ、500ページを超えている。もちろん長かろうがなんだろうが面白ければ僕はいくらでも読むが、本書のこの長さはどちらかといえば「まだ未開拓だった完全な密室」というジャンルを構築し、探偵役であるルールタビーユがたびたび主張するところの「論理の輪」を確固たるものにする為の延々とした説明に拠るものだろう。

冒頭でこの物語の作中の作者である人物も「おそらく読者の皆さんは前置きが長すぎると、そろそろおっしゃられるだろう」、その理由については出来事をただ淡々と語ることが役割であり、事件が起こった土地、舞台から正確にしておきたかったからなのだとしている。ようは、完全な密室状況の証明だけでなく情報を読者が推理できる=しやすいように=本格推理物の如く、土地から人物から含めて情報を開陳しようというわけだ。その為には舞台から何から何まで細かく説明しなければならない。

もちろん本当に推理に必要な手がかりだけを物語内に配置すると、一瞬で犯人がわかってしまう。故にミステリ作家は「推理に必要な情報」と「それ以外のジャマーのような情報」を配分に気を使って配置するものなのだろうが、当時はこの手の作品はまだ歴史が浅く、配分は洗練されていなかったのだろうと思わせられる。細かく諸条件を検分し、大量の情報が載せられていくので面倒くさくなってきてしまうのだ。

一方で、「長さで評価する部分はないのか」といえば、これはあると思う。いわば密室、ミステリとしての側面ではなく、森に囲まれている城の上流階級らの会話、誰もが知っている大ペテン師、幾人かが抱えている「絶対にいえない秘密」などなど舞台装置からメロドラマ的な愛憎劇まで含めて雰囲気や展開をどんどん盛り上げていく。

元々は新聞連載小説であり、やたらと謎をもったいぶって引っ張るところなども発表形式からくるものなのだろう。「いま」読むことについてなんとも評価に困る作品ではあるが、雰囲気も道具立てもフランスミステリならではのもので、毎度毎度「なんだってー」と言いたくなるような引きがありと、良い作品であるのは間違いない。

新訳でミリタリーSFの原点が蘇る──『宇宙の戦士』 by ロバート・A・ハインライン

宇宙の戦士〔新訳版〕(ハヤカワ文庫SF) (ハヤカワ文庫 SF ハ 1-40)

宇宙の戦士〔新訳版〕(ハヤカワ文庫SF) (ハヤカワ文庫 SF ハ 1-40)

本書が最初のミリタリーSFというわけではないのだが、ごく初期の重要な作品、傑作であることは間違いあるまい。新たに加藤直之イラスト及び解説、安彦良和帯「ガンダムのルーツを新訳で! これは超お薦めです。」、過去版のカバーイラストも折り返しにカラーで収録され、表紙イラストの下にはパワードスーツの三面図がある贅沢な本である。ハヤカワ文庫補完計画という早川書房70週年を記念した70冊を復刊、新訳、新版で蘇らせる企画のうちの一冊であるが、明らかに気合が入っている。

ずんぐりとして、どてどてと歩きそうなスーツのデザインはいかにも硬そうで、しかしきちんと関節部の仕組みまで考えられており「着れて」「動けそう」に書き込まれている。訳はベテランの内田昌之さんだし何の問題もなく、まさに磐石の布陣だ。

大学生ぐらいの時に読んでおもしろかった記憶があって、その後僕もそれなりの数のミリタリーSFを読んできた。ミリタリーSFとは、基本は宇宙を舞台に軍人が異星人やら人間やらとどんぱちを繰り返すお話ではあるが、その中でも細かくわかれていって軍隊描写及び一兵卒の視点が秀逸な作品もあれば、戦闘指揮が秀逸な作品もあり、キャラクタ小説として完成されているものもありと多様かつ先鋭化していっている。

そういう背景があるので、ごく初期の作品である本書を読んで楽しめるのかはちと不安だったんだけれどもまったく問題なく面白い。読んでいて「ハインラインは小説を書くのがうめえなあ……」とか愚にもつかないことをしきりと考えてしまうぐらいには隙がなく、隅々までネジがきっちりと締められたような面白さだ。

自身の海軍経験を元に書いたと思われる、甘っちょろい考えを持った新兵が上官から徹底的なしごきを受けて心身ともに疲弊し状況に適応していく描写は見事だし、軍隊特有のセリフ回し、本書の中核をなす敵宇宙人をぶっ飛ばすパワードスーツの描写、敵の得体のしれなさの描写など一つ一つのものがすべて洗練されている。

簡単なあらすじ

この古典的名著に対して、今更解説を入れていくのもどうかという気がなくはないが、読んだことがない人向けに。ミリタリーSFとはいえ、本書は半分以上主人公ジョニーが親に決められたルールから逃れたい一心で軍隊を志望し、訓練を続けパワードスーツ部隊へと配属されていくまでの過程に費やされており、この世界がどうなっていくのかといったことを一人の未熟な兵士の視点から見ていくことになる。

銀河系に行き渡った人類だが、ついに地球への蜘蛛型宇宙人からの攻撃を許してしまい、防御に回ったり敵の拠点を叩きに行ったりと機動歩兵部隊は大忙し。戦争は激化し、ガンガン人類は殺されていって満足な数の士官も揃えられず訓練を終えたばかりのジョニーもひょいひょいと昇進する。精神的な成長、身体的な、技量的な成長と共に戦場はどんどん過酷に、一兵卒の重要性もましていっていよいよクライマックスへ──とわかりやすい構成である。

やはりパワードスーツでしょう

 パワードスーツは宇宙服とはちがう──でも、同じように使うことができる。基本的には鎧でもない──でも、円卓の騎士たちが着ていた鎧よりはすぐれている。戦車でもない──でも、機動歩兵はひとりで戦車隊と対峙し、支援なしでそれを全滅させることができる。機動歩兵と戦車で戦おうとする愚か者がいればの話だが。宇宙船でもないけど、少しなら飛ぶことはできる。とはいえ、宇宙船だろうと大気圏航空機だろうと、パワードスーツを着用した兵士と戦うには、その兵士のいる地域に集中爆撃をおこなうしかない(一匹のノミを殺すのに家をまるごと焼き払うようなものだ!)。反対に、ぼくたちには、飛行船だろうが潜水艦だろうが宇宙船だろうが、とにかくどんな船にもできないことがたくさんできる。

やはり本作の特徴といえばパワードスーツである。ごつごつしていて、つよくて、敵をばーんとやっつける無敵のスーツだ。今となっては現実的な兵士の装備や、一般的用途まで含めて割とありふれたものになってしまったが、当時はまだフィクションとしても珍しかったはず。少なくとも英語版WikipediaのPowered exoskeletonの項では、fictionとしてはEE Smithのレンズマンシリーズが1937年、最も有名な出現としてその次に1959年の本作が挙げられている*1

最初期の一つとはいえ、最初からその魅力は十全につめ込まれている。なぜ人間がわざわざそんなものを着なければいけないんだ? 戦車で(今ならドローンとかの無人兵器か)、でいいじゃんとはいかない。人間が入り込んで、機転と小回りをきかせて様々な破壊を行う、何よりも着れるものでなければならないのだ。加藤直之さんも解説にてこのパワードスーツへの熱い思いを語っている。

なにより、人が着るというコンセプトがきちんと叶えられていないのなら、それは『宇宙の戦士』のパワードスーツとはいえない。ロボットなら内部形状に合わせて最適化された骨組みを後付けの理由で考えればいいし、必然としてそれは二重関節だったりするのだが、人が着るパワードスーツではそういうわけにはいかないのである。

ごつごつとしたパワードスーツ、それが宇宙空間から降下し圧倒的な奇襲攻撃をかけて一瞬で拠点を制圧するというイメージは深い印象を残す。様々な作品に影響をあたえていくに足る、鮮烈な光景だ。帯にある安彦良和さんのコメントを見るとわかるようにガンダムもルーツと言わしめるほど影響を受けているし、最近だとAll you need is killのパワードスーツと降下シーンなんかもズバリそんな感じだ。

All you need is killは敵の宇宙人の特性も本作と似通っているが(働き蟻的宇宙生物とは別に司令塔の女王蜂的なあれがいてそいつを倒すと勝利状態になる)これは何が起源なんだろうな。起源はまあ、虫なんだが。フィクション的にはどれだけピンチに陥ろうが一匹倒せばいい起死回生を演出しやすいから使いやすい設定/設計ではある。

後続作品に多大な影響を与えながらも本書が依然として面白いのは、洗練する余地をほとんど残さないほどこの作品で完成させてしまったからなのかもなと思った。

"現実劇場"──『リトル・ドラマー・ガール(上・下)』

リトル・ドラマー・ガール〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

リトル・ドラマー・ガール〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

スパイ小説の巨匠ジョン・ル・カレによる小説である。元々英国情報部の一員であり大使館の書記官でありスパイ小説を書き始めてしまうという時点で凄いが、その上息子はニック・ハーカウェイの名で小説やノンフィクション作品を発表しているのだからてんこ盛りな人間である。ちなみに息子の作品も傑作である。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
『リトル・ドラマー・ガール』の紹介に戻るが、本書もまたスパイ小説だ。物語の冒頭に語られるのは、ヨーロッパ各地で起こるユダヤ人を目的としたアラブ系の爆発テロ事件。対抗するのはイスラエルの情報機関で、彼らは自分たちの作戦に一人のイギリス人女優チャーリィを起用することを思いつく。彼女の演技力とその経歴によって、ある人物になりすまし、敵組織への潜入捜査を目的として──。

このようにして書名であるドラマー・ガールの意味は早々に明らかになる。なんでイスラエルの情報機関がスパイでも何でもないただの女優をスパイに仕立てあげなければならないのかなどかなり強引なところはあるのだが、素人をスパイへと仕立てあげるための「演技」を特訓する日々、一度潜入したあと、直接的なバックアップはほぼナシで敵地にて自分を偽り続けなければならないギリギリの緊張感を通して描く「現実と虚構の境目がなくなっていく」ことの恐怖とジレンマは一級品だ。

序文にて大勢のパレスチナ人、イスラエルの現役体液士官多数から助言と協力を受けたことへの感謝が述べられているが、そうした普通の作家ではありえないようなフォローを受けただけあって勢力間の複雑な均衡、パワーバランスの描き方もまた見事である。ジョン・ル・カレの小説は割合ゆったりとしていて回りくどいとする感想が出てくることが多いが、一つには中東あたりの問題が民族・宗教・政治・経済と様々な問題がからみ合っていて、面倒くさいことも関係しているのだろう。それとは無関係に展開はやたらともっさりしていて特に序盤は退屈なのだが。

何しろ上巻はリトル・ドラマー・ガールであるチャーリィを情報機関があくどいやり方でスカウトしてきて、訓練しているだけなのだから。だが、この訓練の過程などに恐らく助力が活かされているのだろう。潜入任務に挑む際の訓練はどのように行われるのか? 全く異なる人間を演じるために、どのような準備が必要なのか? チャーリィと情報機関の面々は様々なパターン、経緯を想定し、一つ一つ「この場合は、こう反応する」とプランを綿密に練り上げていく。架空の経験を持った全く別人となるために、架空の経験を座学で叩き込むのではなく実際に体験し、自分がした反応を覚えこむことによって『先の現実にあたらしいフィクションを重ね』あわせていく。

「わたしをミシェルと覚えてくれ。ミシェルの"M"だ」彼はしゃれた黒革スーツケースをあけて、いそいで自分の衣類を詰めにかかった。「わたしはきみの理想の男だ」彼女のほうを見もしないでいった。「この仕事をするには、それを覚えておくだけではいけない。それを信じ、肌で感じ、夢にまで見なくてはいけない。これからわれわれはあたらしい、いま以上の現実をこしらえるんだ」

とはいえ正直な話、「潜入まだあ?」と思いながら読んでるので上巻はだるい。盛り上がってくるのは後半からだ。チャーリィを情報機関に引き込む大きな要因となったジョゼフとの恋情、それ故に彼女は自発的にこの危険な任務を引き受けるに至るのだが、実際に潜入を開始し一人での活動を続けていくうちに、フィクションは事実に裏打ちされ、フィクションではないジョゼフへの恋情は逆にその現実感を失っていく。

プロとして洗練されていけばいくほど、フィクションは現実を侵食していくのだ。意志の努力だったものが、ついには心身の習慣となり、夜も昼も自分以外のものを演じ続けていく。『自分の狂おしい狂気のために、パレスチナのために、サルマのために、爆撃で追われシドンの刑務所で暮らす子どもたちのために。内なる混乱からのがれるため、外へ外へと自分を押し出した。自分の演じている役柄の要素を、これまでになくあつめて、ただひとつの戦闘的なアイデンティティーにまとめあげた。』

「真の演劇は私的ステートメントではありえない、というのをなにかで読んだ」彼がいった。「詩や小説にそれはあっても、演劇にはない。演劇は現実への紅葉を持たねばならない。演劇は有用であらねばならない。きみはどうだ、そう思うか」

中東のテロ問題とイスラエル情報機関を描くスパイ小説ではあるのだが、物語ならではの「現実と虚構のせめぎあい」の要素がスパイ潜入物として抜群に混ざり合い、お互いの要素を引き立てつつ物語の完成度を高めていく。いくらでも悲劇的にできるような設定ではあるものの、物語は全体的に抑制的でありそれがまた面白い作品である。果たしてチャーリィは、無事に潜入任務から帰還することができるのか。敵陣の中にあって、演技をバレることなく遂行することはできるのか。それはそのまま、虚構と現実、どちらが最後には勝利をおさめるのかという問いかけに繋がっている。

本国で出版されたのは1983年のことだけれども、中東問題が依然ごちゃごちゃと長続きしまくっているからか不思議と古臭さを感じさせない。あとはあれかな。結局、スパイ的な潜入捜査みたいなものはテクノロジーがあったからといって現代でも銃撃戦と比べればアップデートされない部分だからかもしれない。

魔術×ミステリ──『魔術師を探せ! 』 by ランドル・ギャレット

魔術師を探せ! 〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

魔術師を探せ! 〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

本書『魔術師を探せ!』はランドル・ギャレットによる魔術が当たり前に存在する世界での殺人事件を探偵役が解決していくファンジックミステリだ。翻訳は1978年が初出なので実に40年近くの時を経て新訳で復活した。長篇ではなく、「その眼は見た」「シェルブールの呪い」「青い死体」の3篇を集めた中篇集となる。

それにしても、魔術が存在する世界でのミステリって、自由度が高くていろいろ実験的なこともできそうだし、もっとたくさん数があってもいいと思うんだけれどもあんまり数がないのはやっぱりその理論的な構築が難しいからだろうか。

たとえば、問答無用で遠く離れた相手の首を魔術でひねり潰せるのであれば殺人犯の捜索などはなから不可能になってしまう。であればこそ「人間が道筋をつけて推理可能な」ミステリの形式に落としこむのであれば、まずは魔術の禁じ手と、それが読者にもわかるように明快なルールを構築しなければならないんだろうが、まあ面倒くさいよね。でも本書はそれを明快にやってる。凄い。

時代とか舞台とか

物語の舞台は架空の歴史を辿った19世紀後半あたりの英仏帝国である。架空の歴史といってもどこか一つの歯車が狂ったとかじゃなくて、産業革命は起こってなくて電気は普及してないし、自動車も飛行機もなく移動は馬車や汽車だ。「産業革命以前のヨーロッパ」に魔術が導入されて、第一次、第二次世界大戦も起こっていないし人々がのほほんと暮らしているある程度は平和な世界のように見える。

魔術があるといっても制約が多く、限定的な効果を発揮するもので産業革命の代わりになるようなものではない。たとえばゴキブリを殺そうとしてゴキブリの糞を埃ごと集めて鍋に入れて、抹殺の呪文を唱えて煮たら自分の汗が紛れ込んでいてゴキブリもろとも死ぬことになったとかいう恐ろしいことが平然と起こるので使い勝手が悪い。ただ、理論的に魔術は構築されており、一部の"タレント"を持った選ばれし者しか使えないといっても、その効力は広く社会に浸透している。

魔術、その理論的背景

故に、殺人が起これば当然"魔術"の関与が疑われることになる。本書は同一人物を中心とした連作中篇集なので、非魔術師だがその類まれな観察眼と推理力によって探偵のようなことをやっているダーシー卿と、凄腕の魔術師であるマスター・ショーン・オロックリンがコンビを組んで事件にあたる。第一の中編「その眼は見た」では、女好きの伯爵が寝室の中で射殺されている事件を追う。下調べの段階から魔術は度々使用されるのだが、そのディティールは実に細かく書き込まれていく。

たとえば魔術でできることの一つに、「関連性を辿る」がある。一つの服からボタンが飛んで、それが地面に落ちているのであればどのローブにくっついていたものなのかはすぐにわかる。しかしその力を使って放置された銃の持ち主を辿ることはできないのである。なぜなら銃の持ち主、「だれが引き金を引いた」とか「なにを狙って発泡された」とかは「銃自体との直接的関連性を持たない」から。だが、弾丸と銃、また発射された弾丸が何に当たったのかは服と同じように直接的関係性によって結ばれているので、判断することができる。

こうやって「魔術でできること」と「魔術でできないこと」が明確にケースごとに区別され、定義付けされていくので、「銃で打たれてる! 犯人を魔術で探そう!」とか、逆に「犯人が銃を魔術で発射させたのだ!」という極端なショートカットができないことが実に説得力を持って描き出される。しかもその社会的な背景──人口のわずか数パーセントしか魔術の"タレント"を持っておらず、持っているものも不断の研鑽と努力を続けなければ大したことはできないし、魔術師にもそれぞれ専門分野があって──と明かされていくと、小さな殺人事件とかいいから、魔術大戦とか起こりませんかね? とミステリそっちのけで楽しくなってきてしまう。

魔法使いの夜 通常版

魔法使いの夜 通常版

シェルブールの呪い

そのあたりはまあ、TYPE-MOON作品に任せるとして……。中篇一作で魔術の全容が明かされるわけでもなく、たとえば第二篇目の「シェルブールの呪い」では<ギアス理論>、心霊代数学の理論と呼ばれる人間の精神・行動をある程度強制することのできる魔術の存在が明かされる。話も面白く、下働きの男の死体、侯爵の疾走、エージェントの行方不明と怪事件が続く中隣国ポーランドが怪しげな行動を起こしており……と国際情勢が絡んでくる少し規模のデカイ話になっている。

さて、ここで重要な提示は「人間の精神を操作する魔術がある」ということだが、これにも当然厳密なルールが存在する。そもそもこの世界の魔術理論に重要な原則の一つに「相似」がある。これは要は「似ているものは感応させやすい」ということだ。たとえば像を使って対象の死を誘導する、というように。その前提は既に最初の中篇「その眼は見た」で明かされており、きちんと読んでいればちゃんとこの中篇の殺害方法にも気がつけるようになっているのが凄い。

青い死体

最後の中篇「青い死体」はそのタイトルのまんまで、青く染められた死体が思いもよらない所──別人のために用意された棺の中から出てきた! なぜ棺に? なぜ青く? という謎を解き明かす作品だ。相似の法則、防腐呪文での死後経過時間の隠蔽とこれま判明している魔術を使いながら、アルビオン協会らが使うまた別種の魔術の存在も明かされ謎は魔術と「魔術が存在する世界」であることを逆手にとったような見事で明快な結末が訪れる。

おわりに

謎解きは魔術という用意に理不尽な思いをするであろうアイディアを中核に埋め込みながらも明快で納得感が高い。その上、「魔術が存在する架空史」として書き込まれていく背景、魔術それ自体の理論的背景はほんのり情報が明かされていくだけで想像が広がっていく面白さがある。ランドル・ギャレットはこの三篇以外にも『魔術師が多すぎる』という長篇と、解説によれば他に7篇の中短篇作品を発表しているらしい。本作はかなり面白かったので、売れて新しく出されないかなあ。

貧困撲滅の革命を起こした男──『ムハマド・ユヌス自伝』

ムハマド・ユヌス自伝(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ムハマド・ユヌス自伝(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ムハマド・ユヌス自伝(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ムハマド・ユヌス自伝(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

貧困をいかにしてなくすのかという議論の時には今では基本的に名前の上がる人として、ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスさんがいる。本書は彼が立ち上げたマイクロクレジットと呼ばれるシステムを立ち上げ、それを世界に行き渡らせてきた苦闘の歴史を綴った一冊となる。1998年に出版された単行本の文庫化だ。彼の子ども時代の話とか、結婚、離婚とかわりとどうでもいい話も含まれているが、大半はマイクロクレジットの仕組みとそれをいかに実験してきたのかの実際的な話なのでマイクロファイナンス入門篇としてもいい。

僕も一時期関連本をけっこう読み漁って本書も単行本版で読んでいたのだが、何よりその着想が面白い。マイクロクレジットはその名からもある程度推測される通り、少額のお金を貸し付けるシステムである。それだけなら「はあ」というところだが、それを「ほとんど金がなく、1日数ドル程度の金しか稼ぐことのできない貧困層に、無担保で貸し付ける」のである。

当然そんな層は読み書きもできないわけだから、銀行の常識からすれば自分の名前を書いて借用証書をもらうこともできない。そもそも無担保で、そんな一日に数ドルしか稼げない奴らに少額を貸し付けたところで利子も大したことないし、返ってこない可能性が高そうだし、相手にするだけ無駄じゃんというのが旧来の銀行側からすれば常識的な判断であろう。

ところが、ムハマド・ユヌスさんはそこに「否」を突きつけたわけだ。少額の金を貸し付けて、なるべく自分自身で仕事をしてもらって、自力で稼げるようになったら返してもらう。貧困に苦しんでいる人に一時的に金を渡せば、一瞬は楽になるが結局すぐに元通り。抜本的な解決の為には、仕事を自分で行い、金を稼がせる必要がある。その為にまずは金を貸す。何百万人もの相手を対象にして「寄付という形ではなく、持続的な利益を上げ続ける銀行組織として」成立させるのだと。

こうしたマイクロクレジット銀行から金を借りる層は、「金を借りるか、さもなくば子どもの死か」みたいな極端な状況にいることが多いが、これまでであれば無茶な高利貸に頼って遠からず死んでいたような人々が楽に金を借りることができるので確実に貧困層の減少に役に立っているといわれる。

当然、「貸し倒れリスクは相当高いんでしょう?」と思うところだが、彼はそこを連帯責任のような「誰かが逃げたら誰か別の人間に払ってもらう」ほど極悪ではないにせよ「誰かが返済を渋れば、他のグループの人間に迷惑がかかる」グループ責任性システムを構築することで乗り越えた。返済率は97%以上といわれ「かつては銀行から顧客と思われていなかった層が、確かに顧客となりえ」しかも「貧困撲滅に貢献」するようになった。

僕が最初に読んで「すごいな」と思ったのは、1.貧困層に 2.少額の金を貸し付けることで 利益を上げられるのだという事実そのものと、そもそもそれをやろうとしたこと。さらに3つ目として、3.グループ制度を導入したこと もあげられる。ようは、貧困層の大半がいるところってのはこういってしまってはなんだけど「村社会」なんだよね。参考⇛世界の辺境と中世日本に共通点を見いだす──『世界の辺境とハードボイルド室町時代』 - 基本読書

公権力の管理が及ばないというか、管理をする必要もない(税などの利益が上がらないから)からこそ、地元住民の超ローカルルール、お互いのお互いによる監視社会が成立しているという。だからこそ「グループが持つ力」が都市部より強い。利益が出て、その上貧困も減らせる⇛すごい! そしてそれを成り立たせている仕組みも、よく考えてるよねえと思ったのだ。

マイクロクレジットシステムの限界

だが実際には、マイクロクレジットシステムも広く、大量に効果が検証されるようになってその限界も見えてきた。『貧乏人の経済学』では詳細に数字を上げながら『困ったことに、ゴミ拾いや徐愛華の例外的な話はあるものの、貧乏な人による事業の大半は、従業員や大した資産を持つようになるまでには決して成長しないのです。例えばメキシコでは、1日99セント以下で暮らす人々の15パーセントは、2002年には事業を持っていました。3年後、同じ世帯を訪ねてみると、営業が継続している事業はたった41パーセントでした』という結論をひきだしてみせる。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
結局のところ、少額の融資を受けたところで、多少生活の質が向上するが、貧困を脱出させるほどのものではない。少額の融資では所詮少額のリターンしか得られないのだ。もちろんそれはマイクロクレジットに何の意味もないことを意味しているわけではない。少額の融資が少額のリターンに繋がっているのであればそれはそれで十分な話なのだ(奇跡でもなんでもないんだから)。

一方で、僕が本書を読んでいてちょっと嫌だなと思うのは、あまりにムハマド・ユヌスさんの語りは希望と理想に満ちすぎているところだ。実際の効果以上のものをどうしてもこの文章からは読み取ってしまうし、扇動的な文章で(当時ですら)現実から乖離しているように思う。たとえば下記引用部とか、大げさに過ぎやしないかね。

グラミンのローンは単に現金を渡すだけではない。自己啓発や自己開発の旅へのチケットのようなものでもあるのだ。借り手は自分自身の可能性を探し始め、内側に秘められていた創造性を見出すのであった。グラミンの二〇〇万人の借り手には、二〇〇万通りものスリリングな自己発見の物語があるのだ。

本書が最初に単行本として出された1998年付近の時とは違って、今では貧困の研究も進み、貧困撲滅を目的とするのであればマイクロクレジットよりもっと効率的かつ抜本的な手段はいくらでも存在する(さっきあげた『貧乏人の経済学』を参照)。だから、今読む価値は当時ほどは存在しない。

ただ、当然ながら僕が最初にいった「すごいな」と驚いた仕組みづくり、今まで誰も注目しなかった部分に目をつける視点のよさなどいまだに面白い部分は残っている。それに、マイクロクレジットは今世界中に広がり、浸透しているのだから、その起源を目にしておくのも悪くない。

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

貧乏人の経済学 - もういちど貧困問題を根っこから考える

  • 作者: アビジット・V・バナジー,エスター・デュフロ,山形浩生
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2012/04/03
  • メディア: 単行本
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未知を求める運動そのもの──『宇宙への序曲〔新訳版〕』 by アーサー・C・クラーク

宇宙への序曲〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

宇宙への序曲〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)

アーサー・C・クラークの第一長編*1が新訳にて登場。本編285ページのコンパクトさで、物語は人類がオーストラリアにつくった基地から月着陸船を打ち上げるまでの「人類史上初の月面着陸を描いたSF」である。「え、アポロ11号がやっているじゃん」と思うかもしれないが、アポロ11号の月面着陸は1969年の出来事だが、本書が執筆されたのは1947年のこと。帯にて笹本祐一さんが書いているように「これは、元祖ハードSF作家によるアポロの20年前の月着陸計画書です。」になる。

今更クラークの第一長編? 月着陸?

ストーリー的にはインタープラネタリーと呼称される世界的な宇宙開発組織が月へ人類着陸させるぞー! といって技術的な困難や宗教的な論争を乗り越えてロケットをがんばって打ち上げるという、ただそれだけの話である。誰か特定の主人公がいるというよりかは、エンジニア、パイロット、ディレクターなど様々な立場の視点から描いていき、時に発狂したテロリストが現れるなどスリリングな展開も多少はみられるが、後の作品と読み比べると単調さ、粗さを感じるところもあるだろう。

それでも本書には確かに、後のクラーク作品に通じる「果てしない宇宙の可能性を底抜けに信じ、それを技術で達成していくことができるんだ」とする極端な楽観性とそれをいかに実際の技術で達成するのかを綿密に描写していく現実性が同居していて、既にしてめちゃくちゃおもしろく仕上がっている。また、これはちと心配だったんだけれども、「既に現実で実際に行われてしまった月着陸を読んで面白いのか?」も、まったく問題がないように思った。

なぜなら、本書では確かに「人類初の月着陸」に向けて世界が盛り上がり、エンジニアが詳細な計算と実験を重ね、パイロットが鍛錬をつんでいく様が描かれていくが、常に「その先」を見据えた内容になっているからだ。プロジェクトの責任者は作中何度も、「月へいくというきみたちのたくらみについて教えてもらえるかね」「なぜ、月なんてものに行かなければならないのかね」と問いただされる。その度に言い回しは変化するのだが、根っこの部分は決してブレることがない。「もっと先へ」と。

「理解していただきたいのは」とマシューズが容赦なく論点を進めた。「月がはじまりにすぎないということです。千五百万平方マイルは、はじまりとしてはたしかにちょっとしたものです。しかし、われわれは月を惑星への踏み台としてしか見ておりません。

 なにもかもが相対的なのだ。そしてわれわれの精神が、いま地球を思い描くのと同じように、太陽系を思い描く時代がきっと来る。そのとき、科学者たちが考えこんだ顔つきで星々に目を向けていれば、多くの者がこう叫ぶだろう──『恒星間飛行などいらない! 祖父たちには九つの惑星でじゅうぶんだった。われわれにもじゅうぶんだ!』と」
 ダークは笑みを浮かべてペンを置き、心を空想の領域にさまよわせた。人間はこの途方もない挑戦に応じて、星々のあいだに広がる深遠に船を送るのだろうか? かつて読んだ文章が思い出された──「惑星間の距離は、日常生活で慣れている距離の百万倍は大きい。だが、恒星間の距離は、その百万倍は大きいのだ。」そう思うと彼の心はひるんだが、それでも先程の文章にしがみついた──「なにもかもが相対的なのだ」。数千年のうちに、人間はコラクル*2から宇宙船まで来た。前途に横たわる数十億年のうちに、人間は何をしてのけるのだろう?

この物語は確かに「月へなんとしても到達するぞ」という人間の物語ではあるが、実際にそれが捉えている精神は「かつてコロンブスがアメリカ大陸を発見したように、月を超えてもっと先へ、もっと遠くまで行くしかない。文明はけっして静止するわけにはいかないのだ」とする「未知を求める運動そのもの」なのだ。人類が月に到達しようが、火星に入植しようが、精神そのものは古びたりはしない。

もともと望遠鏡を自作するほどの天文ファンだったというクラークは本書執筆の一年前に英国惑星間協会の会長となるなど筋金入りの宇宙開発論者である。中村融さんの訳者あとがきによれば「(宇宙航行学の自分の考えを)一般大衆に広める宣伝的な考えがあったことは白状しなければならない」と本人が語っていることからもわかるように、自身の思想を全面に行き渡らせた作品でもあるのだろう。

ちなみに、本書で使用される宇宙船<プロメテウス>は<アルファ>と<ベータ>という二つの独立した原子炉を搭載したロケットで、実際のアポロ計画で用いられた宇宙船と比較してみるのも面白い。それは、いま読むからこその楽しみ方だろう。

*1:実際に書かれたのは本書より先であったとされるものの出版順が前後した作品として『銀河帝国の崩壊』が存在する

*2:柳の小枝で作った骨組みに防水布・獣皮などを張った小舟

クビが取れ身体が千切れ飛ぶ──『魔法がいっぱい!』 by ライアン・フランク・ボーム

魔法がいっぱい! (ハヤカワ文庫 FT 36)

魔法がいっぱい! (ハヤカワ文庫 FT 36)

1981年に出た(書かれたのは1900年ぐらい。100年以上前だね)ボームの『魔法がいっぱい!』が復刊。カラフルで書き込まれた新カバーがすばらしいのと、260ページほどの短さは翻訳物としては短く、子供向けの童話なのですらすらと読みやすい。

ボームがどのような経歴をたどってきた作家なのかは本書の解説に詳しいのでここでは『オズの魔法使い』を書いた作家であるとだけ情報を伝えておこう。本書はボーム三冊目の著作となるが、出版まで寝かせていたということで実際に書かれた順序でいえば処女作といっていいようだ。オズの魔法使いにもつながる要素が多々みられるようだが、言われてみればあのナンセンスな感じがそのまま本書に詰め込まれている。

肝心の物語はほんわかとして大体楽しそうに日々を過ごしているとある国を舞台にしたファンタジーだ。お菓子で出来たその国は<モーの国>といい、"誰も死なない"特性を備えた人々である為にびっくりするぐらいスプラッタな事態が起こっても皆笑いながら日々を過ごしている。たとえば最初の短篇である「つづいて、びっくり! 王さまの首の不思議な冒険の巻」では、モーの国に存在する厄介者ムラサキ・ドラゴンを倒しに向かった王様が頭を首ごと食いちぎられどえらいこっちゃという話だ。

「ま、いいから、いいから」王さまは、陽気な声でおっしゃいました。「首なんぞなくたって、余はりっぱにやっていける。実をいうとな、首がないのもいいもんだよ。これからは髪を梳かすことも、歯をみがくことも、耳を洗うこともせんでいいんだから。な、だから、みんな、悲しまんで、いままでどおり、楽しく、陽気にやっていてくれ」このひとことで、王さまがやさしい心の持ち主だということがわかります。そして、つまるところ、どんな時代でも、首よりはやさしい心のほうがたいせつなのです。

いや、やさしい心よりは首の方が大切だろ……と思わず突っ込んでしまったがいわゆるナンセンス・ギャグが連発する。この国の人たちは首がとられても別に死なない。ただ頭ごと食いちぎられた王さまは目がないのでぼっこぼっこそこら中にぶち当たりながらなんとか帰還し、頭がないのも不便なので代わりの頭を用意せよ、さすれば娘のどれかと結婚する権利をやろうとお触れを出す(声は首の付け根から出る(どういう理屈だそれは))。砂糖菓子でつくってくるやつや練り粉で頭を作ってくるやつもいるが、砂糖菓子は雨にあって溶け、練り粉は太陽を浴びてパンになってしまう。

何がどうなろうが死なないので、ある話ではギーガブーとかいうとんでもな怪物を退治に向かった王子が四肢をもがれてダルマにされてしまう。だがこの国の人々は決して死なないので四肢がそれぞれ意思を持って身体との結合を果たし何度でも討伐におもむく。ダルマになった王子が四肢を集めながら復讐へと赴く様は絵を想像するとあまりにもグロテスクだがどうやら血液は存在しないみたいだし何より文章は途方もなくコミカルで深刻さが微塵もないから「あはは」と笑って読めるだろう。

もちろんこの平和な国にあって戦闘が発生するのは例外状況であってほとんどはお菓子を食べてパーティを開いて陽気に暮らしている。王さまは自分の誕生日がわからないので時折思い出したように誕生日パーティを開くし、死なないもんだから遊びでも平然ととんでもないことが起こる(糖蜜の湖に沈んで浮かび上がってこれなくなったり)。悪いことをしたらいけないんだよという教訓をたれるいいこちゃんみたいなお話でもなく、無茶苦茶な人間どもがどたばたを繰り広げる愉快な話だ。

小学生だった僕はゲド戦記や指輪物語、エルマーの冒険やドラゴンランス戦記、それからもちろんオズの魔法使いといった傑作ファンタジーにのめり込んで本好きへの道を歩みだした。子供の頃の頭は空想と妄想が現実と渾然一体となっており今よりももっと「突拍子もない物事」が自分の中に居場所を持っていたように思う。本書を読んだ記憶はないが、あの時に読んだ途方も無く楽しいラインナップに本書も入っていたらよかったのになあと思った。いま読んでも十分に面白いんだけどね。

オズの魔法使い (新潮文庫)

オズの魔法使い (新潮文庫)

  • 作者: ライマン・フランクボーム,にしざかひろみ,Lyman Frank Baum,河野万里子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/07/28
  • メディア: 文庫
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