基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

SFファン交流会向けに作った冬木糸一の文学リスト

先週の土曜日、SFファン交流会で文学について牧さんと西崎さんと語る機会がありまして、事前に質問に答えて作ってきたリストが下記になります。特に縛りはありませんでしたが、いちおうSFファン交流会ということでどれもSFっぽい要素のある作品を選んだ感じ。そのため、僕のオールタイム・ベスト文学というわけではない。

会では、三人それぞれまったく作品がかぶることもなく、好みがはっきり出ていておもしろかった。以下、簡単に紹介でも。

特に話題にしたい、名作という作品を10作品。

われらが歌う時 上

われらが歌う時 上

リチャード・パワーズの中でも最も好きな作品。三代にまたがる家族の物語。ユダヤ人、黒人女性の夫婦がまだまだ人種差別の激しい1930年代に結婚し、目の前に訪れる困難を一歩一歩乗り越えていく。二人を、家族を結びつけていくのは音楽だった──。家族という輪の中に自然と音楽が立ち上がってくるその情景が、たまらなく愛おしい。僕にとっての「最良の文学」の形がここには現れているように思うのだ。
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

SF☓文学といえばこれかなという感じ。ただ、SF設定が重要かといえば特にそういうわけでもなく、僕にとってはただただ一篇の詩のように美しい小説だ。今でもこの小説のことを思うと、作中の情景と合わせて、どうしようもない切なさや喪失感のようなものが蘇ってくる。そうした言葉にしてしまえば一言の、しかしそれを表現しようとすれば一冊以上の本を費やさなければならない──そんな抽象的な感覚が生き生きと蘇ってくるものが、僕にとっての「最良の文学」の一つの形である。
双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)

双生児(上) (ハヤカワ文庫FT)

双子の兄弟が体験していく歴史が、いつのまにか少しずつズレていく──。序盤から後半へ向けて複雑な、しかし読み味を損ねない構成。細部まで読み込んでいくと数々の仕掛けが物語中に仕掛けられているその徹底さ。歴史改変という基軸を、各世代にまたがる家族、兄弟の物語、そして歴史の物語とさまざまなレベルまで敷衍させ、ラストへ向けて鮮やかに収束させていく。著者自身が「”完成”された小説にいちばん近づいた」と語るほど高いレベルで構築された作品で、まあ面白いよね。
シッダールタ (新潮文庫)

シッダールタ (新潮文庫)

悟りってセンス・オブ・ワンダーだよな、と思って入れた本。ヘッセの中でも一番好き。ラスト、シッダールタは石を石として、動物は動物として愛することができるようになったという。なぜなら石は石でありながら仏陀であり、他のすべてでもあるからだ。その認識自体をどう思うかは別として、「世界の見え方がガラッと変わる」ことがセンス・オブ・ワンダーだと思っているので、これはSF(無茶を言うな)。
ストーナー

ストーナー

1891年に生まれたウィリアム・ストーナーという男性が文学に出会い、一生を終えるまでの本である。清廉潔白な偉人ではなく、誰かに強い印象を残すわけでもなければ、何か物凄いことを成し遂げる人物でもない。妥協と諦念が満ちた人生。しかし、そんな彼にも文学へと熱烈に恋をした時期があって、その後の人生でも幾ばくかの達成を得る──”ささやかな英雄の物語”として、この本は常に僕の横にいる。
黄金時代

黄金時代

これはなんとなく入れたのだけれども個人的にはかなり好きな作品。とある大西洋の不思議な島へ行った人物による旅行記なのだけれども、その島では住民たちは固定化した名前を嫌い、自分の名前をしばしば変え、生涯のあいだに何十もの名前を持つ。当然そんな状態じゃ選挙も難しく、統治制度も名前と同じくふわふわと漂うように決定・改変しつづけていく。「今まさに変化しつつある世界」を描写し続けていくようなもので、「運動」をどう記述するのかというトリックを必要とするのだが、それがまた凄いやり方で達成していて──と「語り」それ自体がSF的でもある。
別荘 (ロス・クラシコス)

別荘 (ロス・クラシコス)

ドノソだと『夜のみだらな鳥』でもいいのだけれどもなんとなく『別荘』。家族だけで30人以上、使用人も合わせると50人近い大所帯で別荘に行った人々の物語なのだけれども、親はだいたい狂っているし、狂った親のせいなのか何なのか子どもたちは極端な鬱屈・憎しみ・抑圧を抱えた状態にいて、親がいなくなった瞬間にすべてが爆発して暴れまわりはじめる──。というと単純な話に思えるが、まるで現実とは思えないことが平然と起こり、世界の情景は幻想的で、時間の流れは伸びたり縮んだりし、まるで一枚の絵を眺めているかのようにいろいろなことが一気に起こる。
ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))

怪奇幻想文学としては入れないわけにはいかない作品ではなかろうか。おそろしく解像度の高い宇宙的存在への描写、ラヴクラフトの屈折したパーソナリティに支えられた、世界を覆い尽くすような憎悪によって描かれた作品世界。
虚数 (文学の冒険シリーズ)

虚数 (文学の冒険シリーズ)

  • 作者: スタニスワフレム,Stanislaw Lem,長谷見一雄,西成彦,沼野充義
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 1998/02/01
  • メディア: 単行本
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レムはなんでもいいから一冊入れておこうと思ったのであった。架空の書物の序文を集めた作品で、まあ凄い。
告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

鬱屈し鬱屈し鬱屈し、最後に大爆発を起こしてしまう。すべてを破壊し尽くし、走り回らずにはいられない”衝動”のような、人に伝えるのが困難な感情を、これほどまでに見事に文章へと移し替えることができるのかと心の底から驚かされた小説だ。

今世紀に出版された、作品から5作品。

ウラジミール・ソローキン《氷三部作(『氷』『ブロの道』『23000』)》

ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)

ブロの道: 氷三部作1 (氷三部作 1)

”衝動”の文章への移し替えという点で、告白に勝るとも劣らないのがこの氷三部作、特に真ん中の『ブロの道』だ。押し寄せる歓喜、言葉にならない一体感といったものが、そこまで難しい言葉を使わずになぜか”理解させられてしまう”ド傑作。

エドワード・ケアリー《アイアマンガー》三部作

堆塵館 (アイアマンガー三部作1) (アイアマンガー三部作 1)

堆塵館 (アイアマンガー三部作1) (アイアマンガー三部作 1)

これも衝動系の作品といえるのだろうけれども、どうしてもこればっかりは短く紹介できないので過去に書いた記事をはっつけておく。
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ブラックライダー(上) (新潮文庫)

ブラックライダー(上) (新潮文庫)

いわゆる終末SF。圧倒的な終末のヴィジョン、致死率100パーセントの奇病の蔓延、人が人の肉を喰らい、人と牛(食用に遺伝子改造された人間のこと)のあいの子とかいう奇天烈な存在が当たり前のようにいて物語を駆動していく疾走感が凄まじい。どっからどう見てもSFなのだが、未来の聖書のようなものでもあり、文学かと。
オブジェクタム

オブジェクタム

これも要するに、「言葉では表現できない何か」を小説という形で表現できてしまった傑作なので。
1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉前編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK3〈10月‐12月〉前編 (新潮文庫)

僕はだいたい村上春樹作品は大好きだけれども、その中でも『1Q84』が一番好きだ。好きなポイントはいろいろあるが、結局は牛河が好きで、牛河が想像の範囲外から強襲されて死んでいく、あっけない人生の幕切れが何よりも好きなのだ。

おわりに

僕が文学に(限った話じゃないけど)求めている一つの要素は、言葉にできない感情や抽象的な観念を生き生きとした言葉に移し替えてくれるものなのだけれども、そうであるがゆえに僕が好きな作品はどれもおもしろさを言語化するのが難しいものばかりだ。僕がこうしてレビュー記事を書いても書いても飽きないのは、結局自分の中でそうした素晴らしい本たちのおもしろさをまだまだ言語化できていない、まださらに言語化できる余地があると知っているからなのだろう。

延々と一章から脱出できないポルノメタフィクション──『さらば、シェヘラザード』

さらば、シェヘラザード (ドーキー・アーカイヴ)

さらば、シェヘラザード (ドーキー・アーカイヴ)

  • 作者: ドナルド・E・ウェストレイク,若島正,横山茂雄,矢口誠
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2018/06/27
  • メディア: 単行本
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知られざる傑作、埋もれた異色作を発掘してきて本邦初訳作品を中心に紹介する《ドーキー・アーカイヴ》シリーズの最新刊がこのドナルド・E・ウェストレイクによる『さらば、シェヘラザード』だ。端的に紹介すればポルノ小説家が延々と自作を書いてボツにする内容が”そのまま”記されていく、メタ奇想フィクションである。

内容的にSFっぽいかなと読み始めたのだけれども、SFではなかった(これは別に僕がSF至上主義者であるわけではなく、SFマガジンの海外SF書評欄で取り上げるかどうか判断する必要があるという個人的事情によるものである)。とはいえ、スランプに陥りひたすら金にもならなそうな原稿を書き続け、エロい文章が一切出てこずに発狂しそうになりそこらじゅうを駆け回るポルノ小説家の日々の文章はどこを切り取っても読者を楽しませようというネタとジョークにまみれており、刊行前からその内容は傑作だったと噂になっていたようだが、評判に偽りなしと言ったところ。

物語の舞台ははまだタイプライターが現役な1960年代。エド・トップリスは名の売れたポルノ作家のゴーストライターとして、1ヶ月に1冊書き上げる仕事を請けることになる。報酬は当時としては素晴らしく、1冊あたり1200ドル、そのうち200ドルをポルノ作家に払い、手数料が10%取られるから、残りは900ドル。彼はそれまでビール卸売販売店で1週間71ドル、1年3750ドルを稼いでいたから、その差は歴然だ。そうはいってもポルノを書いたことのない人間がいきなり1冊の小説を書けるのか? と疑問に思うが、ここからの畳み掛けるような”書ける”説明が素晴らしい。

 ロッドはぼくがすべきことを説明してくれた。ポルノ小説の執筆には公式とシステムがある。設計図が用意されているようなものだ。なにかにたとえるなら、大工仕事にいちばん近い。実際のところ、基本公式を詳しく書いてポピュラー・メカニクス誌に売り込めない理由が思いつかないくらいだ。

といってエドはロッドに説明されたエロ小説の4つの型を説明してみせる。1つ目は、小さな町に住む若者が広い世界をみたいと考え、地元の恋人に別れを告げ大都会へと出ていく。そこで彼はたくさんの女性とセックスし、デートをし、最終的には3つの選択肢に落ち着く。1.故郷の小さな町に戻り、地元の恋人とよりを戻す。2.大都会で出会った女の子と結婚する。3.冷酷非情な人間となり大都会の女を食い物にして最後は友人をすべてなくす。と、こういった例が他に3つ述べられていく。

型はプロットだけじゃない。長さには5万語までという決まりがあって、簡単なのは5000語ずつの10章に分けること。それぞれの章に1回のセックス場面を盛り込むから、ポルノ小説1冊を通してエロいエピソードが10個盛り込まれることになる。つまり1日に1章ずつ書き進めれば、ちょうど10日で1冊書き終わる。彼が出す本は1章が25ページだから、いつだって全体のページ数は250だ。エロの回数のルールなど、具体例がやけに細かく疑問に思っていたのだが、訳者あとがきによると著者自身別ペンネームでポルノを書いていた経験があり、本書にも存分に活かされているようだ。

メタフィクション

さて、それのいったいどこにメタ・フィクションの要素があるわけ? と思うかもしれないが、本書はそもそもその全てがポルノ作家であるエドによって書かれた原稿であるという体裁で書かれている。そのため、我々が読んでいる本のページ数(左下と右下に記載されている)とは別に、エドが書き進めていて締切が間近に迫っているポルノ小説のページ数も記載されているのだ(こっちは左上と右上)。

本来なら25ページで1章が終わり進んでいくが、エドがクソみたいな自分語りの苦悩にまみれた文章を延々と出力し書き直すので何度繰り返しても1章が終わらない。現実のページ数が50を超え、75を超えてもポルノ小説の26P目の世界を拝めない。『いま二十三ページ目。こいつは馬鹿げてる。もう四時二十五分で、午後じゅうずっとここにすわってタイプしてたっていうのに、なにも仕上がっちゃいない。こいつはポルノ小説じゃない。それどころか、なんでもない。ただのクソだ。』

少し締切を遅れたっていいだろうと思うが、29作目にとりかかっている彼は近作では何度も締切に遅れており、そろそろクビを切られてしまいそうなのだ。そんだけ書き上げていても、いわば工業作家であるから別の出版社に持ち込んで出してもらえる保証なんかどこにもない。またビール販売に戻るのはまっぴらだ。スランプの苦悩。才能がないことへの苦悩。八方塞がりで、仮に目の前の29作目のポルノ小説を書き上げてもろくな人生が待っていないことへの苦労が彼の人生をすり減らしていく。

そうした彼自身の苦境が綴られるのと同時に、唐突に小説の登場人物が現れて数ページの情事がはじまったりする。そうかと思えばまたエドの苦悩が表に出てきて、ポルノ小説の中で書かれた出来事と現実で起こる出来事がまるでシンクロするように展開し、手紙を書き始めたと思ったらその内容は途中から日記のような小説のような内容に変質し、突如メタ・フィクション論を展開しはじめたりとやりたい放題である。

おわりに

エドの知人の小説家であるディックが「小説には表現の自由があって、なにを書いても許される」、その自由を書名にも適用しようと、最新作を『さらば、オマンコ野郎』にしようとしているが、そんなことしたら書評が一つも出ない(タイトルに言及できない本を書評できる人間などいないから)と担当編集者と揉めたエピソードが、ただただ笑えるくだらないネタかと思いきや意外にもラストに美しく繋がってくる流れなど、恐ろしくくだらないようでいて、緻密に構成された技巧的な本だ。

なんといってもポルノ小説の繰り返しでセックス・シーンは山盛りなので人を選ぶのは確かだと思うが、読み逃すにはちと惜しい。

一篇の詩のような戦争文学──『奥のほそ道』

奥のほそ道

奥のほそ道

旧日本軍と大量の捕虜によって建設された泰緬鉄道は、コレラやマラリアの流行、休みなく続く過酷な労働状況と拷問による死者の多さから英語圏では〈死の鉄路〉の名で知られている。本書の著者であるリチャード・フラナガンの父はここで奴隷労働に従事してなんとか生還したうちの一人で、本書はそうした実体験を元に、〈死の鉄路〉建設に関わった人々の人生の様相を描き出していく長篇小説だ。地獄のような現場で何が起こっていたのか。そこから生還した時、人はどのように生きていくのか。

父親の実体験を元に描いているとはいえ、小説としてはそうした個人の体験談の範囲を大きく超えたものだ。時系列が複雑に前後しながら、奴隷の指揮官となって行動する外科医のドリゴ・エヴァンスを中心人物とし、日本軍将校ナカムラの視点など、敵味方という区分けをせずにただただこの状況を共有していた人々を描き出していく。象徴と隠喩が散りばめられ、詩で全篇が紡がれていくかのような静かで圧のある文章で、読み通すのにエネルギィを必要とする、だが、それだけの価値のある一冊だ。

 ドリゴ・エヴァンスは、人生が詩のイメージのなかで想像され生きられる、あるいは彼にとってますますそうなのだが、人生が一篇の詩の影響を受ける時代に育った。テレビ時代が到来し、それとともにもたらされたセレブリティ──知りたいとも思わない者たちだとドリゴは感じた──という概念はその時代を終わらせたのかもしれないが、それでも時折詩を糧にし、詩の優美な神秘性をもって己れの人生を表現する者たちの明晰さに、深く考えるわけではないものの、イメージにぴったりの題材を見出すこともあった。

物語のメインは無論ドリゴ・エヴァンスが〈死の鉄路〉を建設していく場面なのだけれども、それと交互にドリゴ・エヴァンスの戦前の様子もまた描かれていく。もともとドリゴ・エヴァンスにはエラという相手がいたのだが、たまたま叔父のキースの妻であるエイミーと出会って惚れ込んでしまい、罪悪感を抱えながらも熱狂的に二人は不倫関係へともつれ込んでいく。ドリゴ・エヴァンスが捕虜になり連絡がとれなくなったことによって両者の関係性は一旦切れてしまうが、その間も二人はお互いを思い合い、その間何が起こっていたのかが、戦後のパートで語られていくことになる。

過酷な奴隷労働

奴隷労働のパートは、読むのがキツすぎて一度はもうここから先を読み進めるのは無理だと諦めたぐらいだ。過酷な状況であることがキツイというよりかは、過酷な状況の出口がまったく見えないことがツライ。出てくる人物みな上に支配されており、どこにも行き場がなく、無意味な死へと向かって疾走しているような息苦しさがある。

そもそも鉄道をひくのが困難な地形であることに加え、捕虜を人とも思えない施策の数々、突如として4ヶ月の工期の短縮が決まり、「スピードー」がはじまる。このスピードーが発令されると休日はなくなり、作業時間はどんどん長くなる。『健康な者と病人の区別はすでにあいまいになっているのに、スピードーによって、病人と死にかけている者の区別がさらにあいまいになった。』昼も夜も働かされ、ただでさえ風呂もないような過酷な環境で、赤痢が蔓延し、人はどんどん死んでいくことになる。

そうした状況で日本軍側へと悪意を募らせるような構図になっていれば読む方としても気楽だが、決してそうはなっていない。淡々と「ここで何が起こっているのか」という客観的情景が描かれていき、日本軍側の視点も挿入されると、彼らもまたこの場所、戦争、信仰に支配されていることがわかってくる。そうであるがゆえに、誰かを恨むこともできず、ただ地獄のような状況を耐え読み進めていかなければならない。

ドリゴ・エヴァンスはそうした状況下で、期せずして部下たちから「理想の、強い指揮官である」との幻想を抱かれてしまい、自分自身が実際にそうした人物であるかどうかに関わらず、架空の強さを演じる必要に駆られていってしまう。彼に与えられたステーキが、喉から手が出るほど食べたくとも、部下に分け与える。無理な命令に対して、これまた無駄であると考えながらも抵抗してみせなければならない。

 またぐっと飲み込む──まだ口は唾液でいっぱいだった。彼は自分のことを、自分が強いとわかっている男だとは、レクスロスのような強い男だとは思わなかった。レクスロスは、ステーキを自分の権利だとして食べ、そのあと飢えた男たちの眼前で満足げに追いはぎのような歯をほじるような男。対照的におれはなにを受け取る資格もない弱い男、大勢が期待を込めて強い男という像をつくり上げているだけの弱い男だ。理にかなわない。彼らは日本人の捕虜であり、おれは彼らの希望の囚人だ。

印象的なのが、500人の捕虜を用意しろと繰り返し述べるナカムラとドリゴ・エヴァンスの問答だ。捕虜数838名、うち87名がコレラに罹って隔離所におり、さらに179名が重病のため病院にいる。229名が体調が悪く軽い作業しかできない。したがって、線路で作業できるのは363名だとナカムラに向かって訴える。だが、ナカムラは500と繰り返すのみだ。日本人が持つ信念がおまえたちには欠けており、意志があれば健康はついてくるのだと言いながら倒れた捕虜を蹴りつけて働かせようとする。

おわりに

ドリゴ・エヴァンスの医学的見地に立った提案は無意味であり、天皇陛下のご意向であるといって交渉を無にしようとするナカムラを相手にすると、無常感のみがつのっていく。そうした状況下を生き延び、英雄として祭り上げられていくことは冒頭から明らかにされているが、彼は不倫相手だったエイミーと再会することができる、そもそも再会を望むのか。奴隷労働が与えた影響は人生にどのように作用するのか。

長い年月を経て築き上げられていく”家族”、一人の人間が持つ極端な悪性と善性についてなど、小説という形式でしか表現できない抽象的な概念が確かな語りと複雑な構成によって紡ぎあげられていく。いやあ、読むのは大変だったけれども得られるものも果てしなく大きい、忘れられない戦争小説となった。あ、『おくのほそ道』がどう物語に関与してくるのか書いてなかったけど、それは読んで確かめてください。

『ストーナー』の著者による、恐ろしいほどに美しい物語──『ブッチャーズ・クロッシング』

ブッチャーズ・クロッシング

ブッチャーズ・クロッシング

『ストーナー』が”再発見”されたジョン・ウィリアムズの第二作目がこの『ブッチャーズ・クロッシング』である。『ストーナー』は農家の息子だったウィリアム・ストーナーが大学へ進み、文学に出会い、一生を終えるまでの物語だが、これを15年に読み終えてから僕はこの作品を人に薦めまくっていた。薦めまくっていたというか、本をプレゼントするような機会があった場合、迷わずこの本を渡していたのである。
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それは単純に、この『ストーナー』という物語がおもしろいからだし、同時に、失敗の多い、妥協と諦念に彩られ、しかしささやかな達成も訪れる、複雑な陰影を持ったストーナーの人生には、読む人は誰であろうとも奥底で響き合うだろうと思ったのだ。実際、渡した相手は全員、そこに響くものを感じ取ってくれたようである。

そんな『ストーナー』の前作にあたるのがこの『ブッチャーズ・クロッシング』である。『ストーナー』とは打って変わって、こちらは西部開拓時代の荒れ狂う自然を相手にしたバッファロー狩りの物語だ。バッファローを追い詰める、殺した後皮を剥ぐ時の描写は、著者はバッファロー狩ったことあるでしょ? じゃなかったらこんなん書けないよ! と確信してしまうほどに緻密で(たぶん狩ったことないと思う)、その迫真の筆致は、趣向は違えど『ストーナー』と比べても遜色ないレベルである。

登場人物たちが飢えに苦しんでいる時は読んでいるだけでこちらも悶え苦しまずにはいられず、凍え死にそうな時は息がつまるように引き込まれ、読者もまた過酷な大自然を体験していくことになる。読んでて単に登場人物への共感を覚えるだけでなく、飢えや寒さを感じるほどに引き込まれるのは、滅多に味わうことができない経験だ。

あらすじとか

舞台となるのは19世紀、1870年代のアメリカ西部だ。ボストン生まれでハーバード大学に通う三年生だったアンドリューズ青年は、ある時思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンの自然観に共鳴することで、自然を知り、その中で暮らすことに憧れて、知人を頼ってブッチャーズ・クロッシングへとやってくる。ここへくれば、想像したとおりに、揺るぎない自分に出会えるのだと夢を見て。今風にいえば頭ぱっぱらぱーな学生が自分探しをしに思い切って大学を中退して田舎に行きましたみたいな感じだ。

だが、何しろ19世紀の西部開拓時代の話だから「田舎に来ちゃいました、てへ」ですむ話ではない。アンドリューズ青年はブッチャーズ・クロッシングへいって「ここに来たのは、できるだけたくさん自然を見るためです」「自然のことを知りたいんです。どうしても」といって、ここをよく知る凄腕の猟師を一人案内してもらい、そのまま流れで、彼が金を出資する形で遠く離れたバッファローの群れを狩りにいく、猟へと随行することになる。当時バッファローの皮に高値がついており、群れを仕留めて大量に持ち帰ることができれば一気に大金を儲けることが可能だったのだ。

過酷な自然の中で生きる

その後、19世紀アメリカの未開拓な西部がどれほど危険な場所なのか、読者はアンドリューズ青年と一緒に体験していくことになる。正直、狩りとはいっても2〜3週間ぐらいのもんで死ぬこたないわけでしょ? 最初は余裕じゃんと軽く考えていた(アンドリューズじゃなくて僕が)わけだけれども、全然そんな感じじゃない。凄腕の猟師であるミラーが10年前にみたバッファローの群れがいた場所へと向かうわけだが、何しろ地図もないしうろ覚えだから絶対確実な道というものがまず存在しない。

アンドリューズを入れて4人のチームは、道中で「川が常にあるが1週間余分にかかる大回りのルート」と「水場があるか不安定だが、近道となるルート」を選択する場面に遭遇する。リーダーであるミラーは水の在り処を知っているから大丈夫だと主張し短縮ルートを選ぶのだが、全然大丈夫ではなく、水場は見つからず、強烈な喉の渇きに苛まれることになる。彼らは運搬用の馬や牛を連れており、それがまた大量の水を消費し、渇くのも速いので、その描写がおぞましいほどに過酷である。牛たちの舌は腫れ、ミラーは少しでも消耗できないとばかりに一頭一頭丁寧に水をやる。

 牛の頭が上がると、ミラーは牛の上唇をつかんで上に引っぱりあげた。腫れた暗紅色の舌が口の中で震えていた。ミラーは、大きくふくれ上がっているざらざらの舌を、またもていねいに濡らしてから、喉の奥まで手を突っ込んだ。外からは手首がみえなくなった。次に手を引き抜き、布をきつく絞って、舌の上に数滴、ぽたぽたと水を垂らしてやった。牛の舌は乾いた黒いスポンジのようにそれを吸収した。

あと一歩歩けば水場が現れるかもしれないし、現れないかもしれない。牛たちに水をやればもっと先に進めるかもしれないが、牛たちがもうだめならばその水を少しでも人間が飲んだほうがいい。そうしたギリギリの緊張感と決断を求められる場面が持続し、ついにアンドリューズらはウイスキーまでをちびちびと飲み始める。もちろん乾きなんか癒えないからどんどん身体は衰弱し、死が間近に迫り続ける。

たとえそこを乗り越えてもアンドリューズらの狩りは安泰とはいかない。何百、何千頭もいるバッファローの群れをどう追い詰めるのか。殺して、皮を剥ぎ、殺して、皮を剥ぎ、毎日のように肉を食べ続け、作業はどんどん効率化されていく。自然の中にバッファローの死体が積み重なっていく。冬がきて雪が積もってしまうと、次の春がくるまで数ヶ月単位そこで足止めを食らうことになる。彼らは、冬になる前にバッファローを殺し尽くして、ブッチャーズ・クロッシングへ戻ることができるのか。

ここに至ると「別にバッファロー狩って2、3週間で戻ってくるだけでしょ?」と思っていたのがいかにバカだったことかがよく実感できる。人の手が一切入っていない大自然に分け入っているのである。そんなもん、生きて帰ってくるだけでも大仕事なのだ。アンドリューズを中心とした物語とはいえ、三人称視点の記述は各登場人物の内面にはあまり深く踏み込まず、あくまでも客観的事象として何が起こっているのかを淡々と描写していく。そのおかげで、次から次へと迫りくる自然の脅威、積み上がっていくバッファローの死体の異様さが際立っていくのも凄まじい。

おわりに

ブッチャーズ・クロッシングへと彼は戻ってきて、狩りに出ていた間にすべてが激変してしまった町の人々を発見する。はたして、無垢なる情熱に突き動かされたこの地方へとやってきたアンドリューズ青年は、そこで何を見出すのだろうか。アメリカの歴史と密接に関連している話ではあるが、ここで描かれていく自然との闘争は、孤立、対立、寒さ、疲労が次々と襲いかかるサバイバル物として単純におもしろいし、大きく変化していく世界と、そこから取り残されていく人々や、そこで描かれていく過酷ながらも恐ろしいほどに美しい風景には、時代を超越した素晴らしさがある。

ストーナー

ストーナー

異様な韓国文学──『鯨』

鯨 (韓国文学のオクリモノ)

鯨 (韓国文学のオクリモノ)

この『鯨』は韓国作家チョン・ミョングァンによる文学作品である。「今」の世代を代表する作家たちの選りすぐりの作品を紹介するというコンセプトでスタートした〈韓国文学のオクリモノ〉シリーズの最終巻(第六巻)で、読み終えた直後の感想を率直に述べれば「またトンデモナイ作品を最後に持ってきたもんだな」あたりになる。

これはいったいどのような作品なのか、とても一言では言い表せぬ。あえていうなら特異な運命を歩んだ二組の母と娘の物語といったところだろうが、そういうレベルの話ではない。〈韓国文学のオクリモノ〉シリーズに本書を入れるきっかけとなったのは、編集部の人間が韓国で書店員や出版関係の人に「とにかく、面白い小説を紹介して欲しい」と頼んだ結果、多くの人が本書を推薦したからだという。実際、信じがたいほどにおもしろい一冊だ。読み始めたらあっという間にその語りの魅力に引きずり込まれ、何が何だかわからねぇとぼやきながらも最後まで到達していることになる。

物語の舞台は恐らく1920年代から2000年あたりの韓国だ。作中では韓国のさまざまな文化、慣習、歴史が取り込まれているが、実は”韓国”という国名も、具体的に実在する韓国の地名も一切でてこない。そのためどこか無国籍な雰囲気があり、幻想的な国のようにも感じ取れる。何しろ作中で起こることも、最初は現実的な内容なのに、ことが娘時代へと移ると100キロを超える巨体の動物たちと心を通わす唖のシャニ、親に目を一つ潰されその後の人生で蜂たちをコントロールする力を得た一つ目などとても現実とは思えない存在が増えていくことも関係しているのだろう。

あらすじ

物語は次のように始まる。

 後に大劇場の設計を手がけた名建築家によって初めて世に知らされ、「赤煉瓦の女王」と呼ばれたその煉瓦女工は、名を春姫(チュ二)といった。戦争が終結にむかっていた年の冬、彼女は一人の女乞食によってうまやで生み落とされた。この世に出てきたときはすでに七キロに達していたチュニの体重は、十三歳を迎える前に百キロを超えた。唖者だった彼女は自分だけの世界に孤立して一人寂しく成長したが、義父である文から煉瓦作りのすべてを学んでいた。八百人もの命が奪われた大火災の後、彼女は放火犯として逮捕され、刑務所に収監された。囚われの時間は残酷だったが、彼女は長い獄中生活の果てに、煉瓦工場に戻ってきた。そのとき二十六歳だった。

基本的にはこれだけの話ではある。チュニの母はクムボクといい、これがまたトンデモな人物であった。男を惑わす特異な匂いを身にまとい、出会う男を次々と狂わせ、不幸な運命に叩き込んできた。クムボクの最初の男は、彼女が住んでいた村に時折やってくる魚屋であった。類まれな商才を発揮したクムボクは魚を売るだけでなく干物に加工して売りつけるという加工業に投資し、多くのカネを得ることになる。

その後彼女は魚屋を捨て荷役夫と暮らすようになり、次は劇場を持つヤクザと、次は乞食となり、、新天地であるピョンデの開拓に乗り出し、そこで突然なぜか煉瓦工場を作り、かつてヤクザと出会った時に衝撃を受けた劇場を(多くの反対を押し切って)作り、突如男に華麗なる転身を遂げ元娼婦の美女とつきあい始め──と、どんどんとわけがわからない方向へと進み続けていく。その間に、誰の子かすらもよくわからぬチュニを生み、彼女はその類まれな身体を活かして煉瓦作りに邁進するのだ。

語りの魔力

いったいなぜ突然煉瓦工場を作ろうと思ったのか? なぜ劇場を? なぜ男になろうと思った? などなど疑問を覚えずにはいられない展開が次々と起こるのだが、それがすべて強引に納得させられてしまうのが語りの魅力、というか魔力なのだろう。

 クムボクはものごとを深く考える女ではなかった。彼女は自分の感情に忠実であり、自らの直感を、たとえ理屈に合わなくとも愚かなまでに信じた。彼女は鯨のイメージにとらわれ、コーヒーに耽溺し、スクリーンの中にはばかることなく没入し、恋愛にすべてを賭けた。彼女に「ほどほど」という言葉は似合わなかった。火のように燃え上がらなければ恋愛ではなかったし、氷のように冷たくなければ憎悪ではないのだった。

本書の語りは一人称でも神視点の三人称でもなく、最初に引用したように、後に「赤煉瓦の女王」として有名になるチュニを追う伝記のような体裁で書かれていく。そのため、語り手であってもこの不思議な力を持ったチュニが、実際どのような人物であったのか、母親のクムボクに対して何を思っていたのか、といったことは確定しないままである。神でもなければ一人称でもなく、チュニは唖者で何も語らなかったから、彼女が本当のところ何を考えていたのかは我々は(語り手も)想像するしかない。

たとえどれほど(物語的に)不可解な出来事が起こっても、語り手自身すらもいったいこれはどういうことなのだろうか? わからんわからんと問いかけることで、読者と語り手の間には一種の共犯関係が成立していくのである。もちろんそれだけにとどまらず、語りは時に時間が前後し、乞食の日々や物のようにレイプされ続ける、男に虐待を受けるといった暗黒の日々や、動物と会話し蜂を操る女たちを、感情にぴったりと吸い付いていく軽やかな筆致で、すべてを”当たり前のように”描き出してみせる。

 一つ目が外に出ながら口笛を吹くと、谷から蜂の群れが押し寄せてきてまたもや工場一体を真っ黒におおった。彼女は工場を見おろせる丘にたてこもって蜂を思いのままに操り、人夫たちはまた仕事をやめて宿舎に逃げてしまった。

読んでいる間、どれほど荒唐無稽な話であっても、”何か底知れない事実の伝記を読んでいるんだ”という感覚が消えなかった。偶然に左右され、お約束的な因果関係の繋がりがないからこそ、巨大なリアルを体験しているような感覚に落ちていく。

おわりに

凄まじい勢いで時は疾走していき、物語のメインがチュニになると、話はずっとシンプルになる。若い人生の多くを彼女は大火災の犯人として刑務所で過ごし、その後はずっと煉瓦作りに賭ける人生だから、その生涯はシンプルだ。だが、自ら語ることもなければ文字も残さなかった彼女の人生には多大な解釈不可能な領域が残っている。

なぜそこまで煉瓦にすべてを賭けていたのか。その果てに凄まじい煉瓦を作り上げ、彼女はそこに絵を描いたが、そこにはどのような意味が込められていたのか。語り手はその解釈不可能な領域を強引に解釈するのではなく、あくまでも保留にして周囲に残された痕跡をただひたすらに描写することで浮かび上がらせようとする。

最後の最後までチュニの生涯を追ったとき、その悲惨とも幸福とも言い切れない結末には思わず涙が流れてきてしまった。最後の一文字に至るまで一様な解釈が困難な物語だ。ただひとついえるのは、とてつもなくおもしろい! ということのみである。

ビデオゲームとしての人生──『手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ』


IGN Japanのエッセイ『電遊奇譚』の藤田祥平さんによる、デビュー長篇である。5歳の頃、幼き藤田少年がポケモンをプレイする場面からはじまる、ゲームと人生についての本なのだが、帯に自伝的青春小説とあるように書かれている内容の多くは実体験に基づくものだと思われる。『電遊奇譚』の方も、ゲームと人生のエッセイなのだけれども、そことエピソードのほとんどが共通していることからもそれがわかる。
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手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ

そういう事情も加わって、だいたい書きたいことは『電遊奇譚』の記事の方で書いてしまった感があったので、こちらの作品についてどういう切り口で書くのがいいのかなあ──と、悩んでいるうちに読み終えてから少し時間が経ってしまったのだけれども、何も書かずにスルーするには惜しい小説でもある。淡々と自身の内面とゲームとの関わりが綴られていくその語りは、するっと理解できるにも関わらず同時に底が知れず、ゾッとするような読み心地をもたらす、いわく言い難い小説である。

一言で言えば「自伝的青春小説」でしかありえないのだが、『この小説は、基本的に、電気信号についてのお話である。』と序盤で著者によって宣言されるように、これはゲームの話であると同時に人間の営為、人間そのもの、そして人間が生み出すありとあらゆる物についての物語でもある。さらに、物語内で著者は何度もこの小説をどういう話にしたかったのか。なぜこんな話になっているのかを語り、なおかつ読者──「あなた」へと向かって語りかけるメタ的な構造を持っている。それはつまり、「小説」と「読者」の電気信号のやりとりについての話でもあるということだ。

 これをあなたにどうやって説明したものか。
 望むなら、あなたは誰だって蘇らせることができる。蘇生することができる。誰かが傷ついたら、しかるべき処置をとって、治してやればいい。誰かが死んだなら、すばらしい奇跡をこしらえて、生き返らせてやればいい。そうすれば、その人は永遠に、いつまでも、虚構の世界のなかで幸せに笑っているだろう。
 私は、できることなら、この小説をそういう話にしたかった。誰も傷つかず、誰も死なない、そういう世界を作ってみたかった。しかし、そうはならなかった。私の技術が不足していたのかもしれないし、変えてはならないことや、決して変えられないことを、いろいろと悟ったからなのかもしれない。
 仕方がない。そういうものだ。また機会はあるだろう。
 そろそろ、私の運命に落とし前をつけさせてもらおう。小説を始めよう。

物語の始まりがポケモンであるのは象徴的だ。何しろそのトレードマークは電気ねずみであるわけだし(最近、デザインの参考はネズミじゃなくてリスだったと明らかになったが。確かに、今のピカチュウはネズミっぽいが、初期のずんぐりデザインはリスっぽかった)。そして、書名の「手を伸ばせ、そしてコマンドを入力しろ」は、作品自体の象徴であり、我々読者をこの小説へと取り込む魔法なのである。

読みどころとかざっと紹介するか

平成の初期に生まれた世代(藤田さんは1991年生まれ)は、生まれた時からテレビ・ゲームがあり、パソコンが一般家庭に普及し始め、インターネットへの接続が容易に行われるようになるのと”共に”成長してきた世代でもある。本書の読みどころの一つは、そうやってだんだん発展していくインターネット&ゲームの成長のダイナミクスの中で、変化に揉まれながら生きていく体験が刻みこまれているところにある。

昔はともかく現代にあって、世代で傾向をくくるのは好きではないが、この手の大きな変化の中でどのような衝撃を受け、体験をしてきたのかというのは、やはり世代毎に大きな差があるのだろう。それは感受性が──とかそういう問題ではなく、時間や友人の問題として。どれだけの時間をゲームに注ぎ込めるのか。自分と同じだけの時間を注ぎ込んでくれる友人は周囲に(ネット空間の中に)どれだけ存在しているのか。年齢問わずに知り合えることのできるオンラインゲームであっても、よくつるむ面子の年齢を聞くとだいたい学生か暇な主婦であったりというのはよくあることである。

小説としておもしろいのは、大規模な人間が介在するオンラインゲーム特有の興奮が物語としてすくい取られていく点にある。ゲームとは基本的にフィクションだが、オンラインゲームの場合そこには現実の人間が介在しているわけだから、象徴的意味合いでも何でもなく実質的にそこは”リアル”なのだ。現実の人間関係があるし、メールアドレスを交換することもあれば、仕事や学校の愚痴を聞くこともある。めでたいことがあれば、会いにいって酒も飲める。十年、二十年の付き合いにだってなる。

 そう、ゲームをプレイすることに加えてもうひとつ心地よかったのは、一般にはまったく知られていないゲームの「日本代表」となり、平日の深夜二時から一緒にゲームをプレイするという、数奇な運命に導かれて集まった仲間たちとの会話だった。私たちは年齢も住む場所もばらばらで、このゲームがなければ出会うはずもない者たちだったのだ。キラークは神戸の美大かなにかに通う学生で、ミルクは神奈川の実家で株を運用して食っている二十代、おなじサポート・メディックのアップステートはパチンコ店の割の良いアルバイトで生活しているフリーター、スティーブは全国に名の聞こえた有名大学の院生、ヴィクターは北海道の農業高校に籍を置く引きこもりだった。そして私は学校教育をまじめに受けるつもりのない高校一年生であり、ほかの全員とおなじぐらい集中してゲームをする時間があった。

藤田少年は、そうしたゲーム上の付き合いを続けながら、ひたすらコマンドを入力し、その応答を吟味し、さらにコマンドを入力する営為を積み重ねていった先に、それを”現実”の側に活かし始める。『小説については、うまく進んでいるようだ。少なくとも、どのように書いていけばよいかは、わかってきた。流れのようなものがあって、それに乗っていけばいいのだ。ひとつのオブジェクトにたどり着くまえに、その次の展開を考えておけばいいのだ。基本中の基本じゃないか、こんなことは。そう、小説なんて、この程度のものだったじゃないか。かんたん、かんたん……。』

おわりに

こうした、現実とゲームの混交というか、もはやそれらが一体化したような読み味──もしくは”リアリティ”は、小説作品としては非常に独特なものだ。そして、僕には(多くのゲームと共に生きてきた人にとっても恐らく)しっくりくるものである。

もしも、村上春樹が平成の世に生まれていたら、こんな作品を書いてたかもしれないよな(村上春樹はストイックな人間だから、ゲームにのめり込んでいたら凄いゲーマーになっていたんじゃないかな)とか、いろいろと考えながら読んでいた。

とりあえず冒頭が公開されているので、読んでみて貰いたいところ。最近、『ゲームライフ』とかもそうだけど、ビデオゲーム文学、ビデオゲームと共に生きてきた人たちの人生録みたいなものがよく出ていて、そういう時代になったんだなあと思う。
https://www.hayakawabooks.com/n/n7cf76da25b03

電遊奇譚 (単行本)

電遊奇譚 (単行本)

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

もし、無神論者が牧師になったら──『ギデオン・マック牧師の数奇な生涯』

ギデオン・マック牧師の数奇な生涯 (海外文学セレクション)

ギデオン・マック牧師の数奇な生涯 (海外文学セレクション)

ひとりの”信仰心を持たない”牧師の人生を描く、地味な話ながらも読んだらついつい彼の人生のあり方、葛藤に惹き寄せられ、この数奇な生涯に自分なりの解釈を持ち出さずにはいられない──そんな奇妙な味を持った長篇小説である。以下詳細。

奇妙な物語の導入

スコットランドの出版社に、ある奇妙な体験と行動を起こした後に失踪した、ひとりの牧師の手記が持ち込まれる。そこには信仰を持たぬ男がなぜ牧師を目指したのか、人生で誰の身にも起こりえる、不貞や不義理、身近な人々との交流、崖から落ちて死にかけた彼を救うことになる”悪魔”との出会い──などが描きこまれていた。

その後失踪したギデオン・マック氏が山中で死んでいることが明らかとなり、数々の仮説がギデオン・マック氏を中心として吹き荒れることになる。情緒不安定で何もわからなくなっていたのだとか、山を最後の場と定めたのだ、などなど。そのうえ、検証の結果判明した死亡推定時期よりも数ヶ月あとに、ギデオン・マック氏を見かけたという人物が幾人も現れる。果たして、この牧師は”いったいなんだったのか”。

原稿を預けられたパトリック・ウォーカーは、出版を決意する。書名は『ギデオン・マックの遺書』となり、それが丸っと本書の中に収められている。『必要な箇所にひとつふたつ注釈を入れさせてもらったのと、顧問弁護士の助言により多少の付記、改稿、削除の類を行った以外は、ほぼすべて著者が書いたとおりである。これを読みどう判断するかは、読者諸兄にすべてゆだねることとしたい。』

狂人か、はたまた……

という感じでギデオン・マックによって自身の生涯が綴られていくわけではあるが、これが書名にもあるように数奇な生涯である。子どもの頃より合理的に物を考え、目に見えぬものは何ひとつ信じず、亡霊や精霊を小馬鹿にする。にも関わらず彼は状況に流され続け、父親が牧師であったことも関係して牧師になり、愛しているわけでもない女性と結婚し、誰にも見えぬ岩を見て、そして悪魔に会うことになる。

正直言ってこれは非常に地味な話である。ギデオン・マック氏の語りは始終淡々としていて、通常みられるような大きな感情の変動はあまり現れない。心の奥底ではいろいろなもの──”本来の自分”が燃え盛っているにも関わらず、表に出てくる部分にはそうしたものはあらかた押し込め、隠されてしまっている。だから、本来なら赤裸々に綴ってもいいはずの手記を読んでさえも、その人物像は捉え難い。

私はまるで、映画になど大した興味もなく、上映が終わったら何をしようかと考えながら映画館に座っている子どものようだった。私は、展開を楽しむよりも最後まで独はすることだけを目標にしてさっさとページをめくり続ける、五百ページの本の読者だった。そして紆余曲折を経て私は最後までたどり着くことができた。

ただページをめくるための人生。だが、そんな人生にどうにも惹きつけられてしまう。理由を説明しようとすれば、結局誰であっても偽りを他者に対して行いながら騙し騙し生きているから共感するのだとか、彼が本来なら他を圧倒するパワーを持ちながらそれを押し隠し、葛藤が抑えきれずにじみ出ているのがスゴイとかいろいろあるが、どうにもそれだけでは説明した気になれず、”奇妙な魅力”があるように思う。

割り切れない奇妙な魅力というのは、ギデオン・マック氏が出会う出来事についても同様で、たとえば彼にしか見えない岩が、彼の人生の真ん中にどっしりと腰を据えている。彼は偽りだらけで流されてばっかりの人生を送っているが、しかしその岩には執着し、自分にしか見えないのに人に幾度も語り、不審がられる。誰にもその岩は見えず、写真をとってもうつらない。普通に考えたら彼の頭の中にしかないものなのに、彼にはそれが見えてしまうから、他者に対して岩を執拗に語り続けるのだ。

後に彼が悪魔と出会ってから”奇妙さ”はより増していく。彼は普通なら助からないほどの崖から転落して数日間行方が知れず、その後骨折も何もない状態で発見され事なきを得るのだが、彼はその間”悪魔”と出会ったのだといい、その時の饒舌な対話を克明に語ってみせる。たしかに普通なら助からない崖から落ちて助かったのは奇跡としかいいようがないが、その理由が悪魔だというのでは話が合わぬ。17世紀などならまだしも、舞台となっている時代は20世紀後半から-21世紀がメインなのだ。

彼が狂っていることにしたほうが筋が通るが、不可思議な出来事が発生しているのは確かである。彼ははたして狂っているのか、それとも……。無神論者でありながら牧師になり、悪魔と出会った矛盾の塊のような彼を筆頭として、いくつもの矛盾が物語を貫いている。神話対事実、空を飛び人々に自由を感じさせながらも束縛の象徴でもある凧揚げの凧など、無数の象徴を持ち出して解釈も物の見え方もぐらぐらと揺れ動いており──という感じで無数の可能性を思いながら読み進めることになる。

自身の葬儀の際にスコットランドの彼らが住む町をちょっとだけメキシコにしたいのよと無茶苦茶なことを語るチャーミングな女性に、その葬儀を請け負ったギデオン・マック、そして偽りだらけの人生を歩んできた男が語る嘘としか思えない最後の告白など、終盤は静かながらも混沌とした熱狂が残るのが素晴らしい。

おわりに

地味におもしろかったのが、『指輪物語』だとか、『2001年宇宙の旅』だとか、『大いなる遺産』だとか、いろんな本や映画の話題が自然に挿入されていくところ。雰囲気的には完全に20世紀初頭とかそんな感じなのだが、時代は20世紀なので、当然のようにコンピュータもあり、宗教も牧師もその役目が切り替わりつつあり──と、十年ほど前のスコットランドの雰囲気が(完全に想像だけど)よく表れている。

マフィアスレイヤー──『復讐者マレルバ――巨大マフィアに挑んだ男』

復讐者マレルバ――巨大マフィアに挑んだ男

復讐者マレルバ――巨大マフィアに挑んだ男

  • 作者: ジュセッペグラッソネッリ,カルメーロサルド,Giuseppe Grassonelli,Carmelo Sardo,飯田亮介
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2017/06/08
  • メディア: 単行本
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かつて「マレルバ(雑草)」と呼ばれた男がいた。

その男の名はアントニオ・ブラッソ。10代の頃から強盗をやって金を稼ぎ、イカサマ賭博で一財産築き上げた相当な悪ガキだ。だが21歳のある時、巨大マフィアに家族が襲われ幾人も殺された事から復讐を誓い、ギャンブルで金を稼ぎ仲間を集め武器を買い、一人一人宿敵たるマフィアを闇討ちしていく──。本書はその"実在の男"が、もう二度と出ることのできない牢屋の中から人生を綴った回想録である。

「巨大マフィアに挑んだ男」とはあるものの、前半部はアントニオ・ブラッソが幼少期からどのように成長していったのか──という、いわば下準備にあたる。だが、アントニオ・ブラッソが遭遇する事態の数々は、ほとんど異世界かよというぐらいに僕の知る世界と常識が異なっていて、この時点で相当におもしろい(小説的な演出が凝らされているのもあるが)。まずイタリアの治安が悪すぎ。バイクを盗まれ犯人を追及してみれば10人でタコ殴りにされ、小型バイクを盗んで拠点に戻り、拳銃を二挺用意して再度バイク奪還におもむくなど、十代でやるような抗争じゃないよ。

その上、武力の味を知ってしまったアントニオらは強盗をはじめ、容易く大金が手に入る状況に溺れやがて噂を聞きつけた人間が集まり"強盗団"にまで発展してしまう。規模が膨れ上がった強盗団は、結局のところアントニオの家族にも知れ渡ることになり、逮捕を免れぬ状況から彼はイタリアを離れ逃亡生活を送ることになる。

それでおとなしく潜伏するかと思いきや、ハンブルクでは大量の女たちに囲まれ賭博に励み、カモを見つけたらハメて大金をせしめる。控訴審の結果、刑務所送りにならずにイタリアに戻れる目処がついたので戻ってみたら一年間の兵役にいくはめになり、そこでも今度は上官や先着の兵士のイジメに対して武力と恫喝で対抗し大乱闘を引き起こしたりする。どこまでいってもカタギになれない男である。

アントニオガールズ

ギャンブルでカモを攻略するテクニック(最初に気前よくコカインなどを与えて、ちょこちょこ勝たせてやり、銀行が開く時間になったら全てを奪い取ってやるとか)などはディティール豊かでおもしろいが、ボンドガールかよみたいに次々登場する美女たちとの恋愛もまた本書の魅力のひとつ。赤毛のスペイン女ニーナはアントニオのセックスの師となり、『女という宇宙についてありとあらゆる知識を授けてくれた』というように実際にいくつか(セックスの)テクニックが開陳されていく。

他にも、絶対にアントニオになびかないけど心の底では惚れてる美女とその妹(でこの子もアントニオが大好き)とか、警察に追われている最中に出会う一人の子持ちの女との一夜限りのセックスとか、とにかく色んなパターンの女性たちとアントニオのラブロマンスが繰り広げられる。どうも相当なハンサムだったらしい(獄中でも、たまたま別の受刑者に面会にやってきた女性に惚れられちまったけど全く困ったわーほんと俺はもう出れないのによーみたいなウザい述懐が挟まれていたりする)。

マフィアスレイヤー爆誕

さて、そんなこんなで彼の家族が大物マフィアに襲撃される事件が訪れるわけだが、いったいなぜ襲われたのか? そもそもアントニオの一族は別にマフィアの一家ではない。なんとも理解するのが難しいが、理由としては結局、復讐の連鎖があったようだ。何年か前、名誉に関わる問題とかで、アントニオ一家の友達数人が殺され、マフィアの一味との関係が悪化し、関係修復のためにも行われたマフィアへの加入の申し出を、アントニオ一家が拒んだ事から殺し殺されの状況に陥ったらしい。

名誉に関わる問題で人が死に、何だかよくわからんうちに関係が悪化しすぐに殺し殺されの状況に陥ってしまうというのは確かにマフィアってそんなイメージあるわーとは思うものの、それで殺されてしまったらたまったもんではない。しかもその世界にどっぷり浸かっている人間は(アントニオも)同様の価値観から逃れられない。すなわち、殺られたら殺り返す。アントニオは仲間を集め、イカサマ賭博で金をしこたま集め武器を買い、宿敵たるマフィアを殺す修羅の道をいくことになる。

それが実際にどのような道のりなのかは実際に読んで確かめてもらいたいが、個人的におもしろかったのはマフィアスレイヤーならではの知見の数々。たとえば、待ち伏せを警戒している者は通常、銃を持って歩くから、その前に目出し帽を被った怪しい人間が現れたら、躊躇せずに撃つのが普通だ。『そこで俺たちはルールを定めた。今後の待ち伏せではヒットマンは顔を隠さず、きちんとした服装で行動すること。しかも襲撃現場から離れた土地のファミリーの人間が務めること。』

というわけで堂々と道を歩き、おしゃれな服装をしたヒットマンたちが町に散らばることになる。なるほどなーとは思うものの、一生使わない知識である。

終身刑について

本書の著者の一人にして回想録の語り手であるジュセッペ・グラッソネッリはイタリアで終身刑に服している囚人である。アントニオ・ブラッソと名前が異なるのは、アントニオの方が仮名のため。つまり、この物語は決して幸福な(いや、犯罪者が刑に服しているのだから大多数の人にとっては幸福といえるが)結末を迎えるわけではないのだが、本書では最後に"終身刑"についての著者らの主張が述べられている。

終身刑というと一般的には「出られない」と考えるだろうが、イタリアの終身刑はいくつかの段階にわかれている。普通終身刑の場合は20年服役すれば1日、2日単位の外出が可能になる。さらには日中は塀の外で働いて、夜戻るといった形もありえる。一方で妨害的終身刑と呼ばれる、ジュセッペ・グラッソネッリが服す刑は基本的に外出許可は一切与えられない。つまり文字通りの"終身刑"となる。

本書では章の合間に、回想をするジュセッペの現在の言葉が挟まれていくが、どれだけ過去のことを悔い改めようと、回想の中でしか外に出られない男の言葉だと考えると、これがまた重い。インタビュアに向かって彼は、本が有名になって、それで自分の状況が一切変わらなかったとしても平気だ、と強がってはいるものの、期待するなというのは無理な話だ。事実、次のような主張も記されている。

 違う。わたしは許しを請うているわけではない。あれだけの悪を為したのだ。わたしを許すことは誰にもできぬだろう。
 ただ、それでも疑問に思わずにはいられないのだ。過去に重罪を犯したにせよ、のちに悔い改めた罪人を社会に戻す力のない制度を本当に民主的と呼べるだろうか?

至極真っ当な主張であるとは思うが、それを言っているのが重罪人本人では自己利益のためにいっているとしか思われないだろう。だが、そんなこともまた充分承知で、書かざるをえなかったのだろうと想像する。いろいろな意味でおもしろい一冊だが、自分がどれだけの悪をなしたのかを認識し、法的にも到底許されるものではないことを自覚しつつ、それでも尚外への期待を捨てられぬ、相反する感情が常に荒れ狂っているこの男の在り方が、本書において一番ぐっときたポイントだ。

スパイと悪徳商人の武器ビジネスをめぐる一騎打ち小説──『ナイト・マネジャー』

ナイト・マネジャー〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

ナイト・マネジャー〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)

ナイト・マネジャー〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

ナイト・マネジャー〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)

本書『ナイト・マネジャー』は1993年に原書が刊行された、武器商人と英国スパイの争いを描いた作品だ。翻訳の刊行は1998年のことだが、今回18年ぶりにハヤカワ文庫補完計画の一環*1で新版として復活していた。スパイ小説というものはその時々の世界情勢などの危機感、時代性を作品内に取り込んでいる(物が多い)だけに、十年単位で時間が経った後に読むと危機感の共有がうまくいかないことがある。

本書についていえば、題材だけみればたしかに古びたところはある。

物語の前提となっているのは、不景気に強い=恒久的に需要があると思われていた武器が、実はそうではなかった状況/時代だ。イラン・イラク戦争後、多すぎるメーカーが少なすぎる戦争を追いかけ、果てには自分たちで戦争/需要をつくりあげようとする始末。そんな状況も現代では9.11や頻発するテロの時代となって新しい局面へと移ったが、本書はあくまでも悪辣な「武器商人」を巡る事件がメインであるがゆえにその本質的な「流通」としての側面はあまり古びていないように思う。

何より緻密に組み上げられた描写とじっくりと演出されていくキャラ立てのウマさで今でもずいぶんと楽しませてくれる。とにかく今回はキャラクタがいい。

簡単なあらすじ

主人公は無数の孤児院を渡り歩き、特殊部隊で少年時代を過ごし、シェフなど職を転々としながら現在はホテルマンとして働いている男ジョナサン・パイン。そんな男が、紛争地帯で武器を売り払い対価として麻薬を受け取っている武器・麻薬商人であるローパーに愛する女を殺されたことをきっかけとして復讐を決意する……。

 バーはジョナサンの、軍のフォスター・ホーム、民間の孤児院、ドーヴァーのデューク・オブ・ヨーク兵学校を転々とした、遍歴の記録を入念に読んだ。じきにその不整合ぶりが、彼をいらいらさせた。一方に”臆病”とあるかと思えば、他方では”大胆”とされていた。”孤独癖” ”大の交際家” ”内向的” ”外交的”、”天性のリーダー” ”カリスマ性を欠く”両極端に振れ動くこと、振り子のようだった。

まるで一貫性のない経歴、性格の記述、とらえどころのなさが言ってみればジョナサンの魅力といえるかもしれないが、一言でいえば異常な人間である。

超越的な復讐者ジョナサンが魅力的なのは主人公だからある程度当然にしても、一方でその彼がスパイとして張り付くことになる武器商人ローパーは喋るたびにその特異性が明らかになってくる良さがある。たとえばかつてのイギリスが阿片を清国へ持ち込んで巨額の富を得ていたことを例にあげながら自己を派手に正当化してみせる。『いったいどこがちがう。やってやれ!──つまるところはそれだ。アメリカはそれを知ってる。だったら、われわれもやればいい。』

完全に悪なのだが、悪にも悪なりの理屈がある──言うのは簡単だがそこに魅力的をつけてやるのは難しい。ローバーについては、自己正当化としての理屈だけでなく、『金は取引ではいってくるんじゃない。時間のむだ使いではいってくるんだ』やブッシュがサダム・フセインを攻撃するに至った理由を石油でもクウェート・マネーでもなく「経験だよ」としてその理路を語らせるなど、さまざまな方面でその知見を語らせることで魅力を際立たせることに成功しているように見える。

両者ともそれぞれの意味で際立った異常者であり、その有り様は英国にて新エージェンシーを設立するレナード・バーが次のように表現するほどだ。

「神はティッキー・ローパーを造りおえたとき」金曜の晩にカレー料理を食べながら、彼はルクに断言した。「ひとつ深呼吸して、ちょっと身ぶるいして、それから生態系のバランスをとりもどすために、いそいでわれらがジョナサンをつくったんだ」

これはちとやりすぎな表現のようにも見えるが、この二人のやりあいは全編を通して実に魅力的である。スパイとしてローパーとジョナサンは長い時間を過ごしていくが、その果てとして憎しみながらも相手を深く理解してしまうという、ほとんどBLじゃねえか! みたいな境地にたどり着いてしまうのも良い。

BL的な展開だからいいと言っているわけではなくて、ようは「よくできたライバル関係って、最終的にはある種のジレンマ(相手を打ち負かしたいのだが、同時に深く相手を理解してしまっているがためにそれも簡単にはできなくなってしまう)を抱えてしまうものだよね」という、必然的に発生するおもしろさに到達しているのだ。

ロマンス小説としての側面

武器ビジネスをめぐるスパイと悪徳商人の一騎打ちスパイ小説という側面と同時に描かれるのが、ロマンス小説としての側面。何しろ物語を駆動する基点となるのが、魅力的な美女たちなのだ。ジョナサンは冷静沈着な男なのだが女性関係だけはうまくなく、愛した女はそれを自覚した時にはすでに亡くなり、復讐だおらーーとローパーの元へと潜入してみれば今度はローパーの愛人へと惚れ込んでしまう。物語が動く時、そこには常に愛がある──ゆえに、これは濃密なロマンス小説ともいえるだろう。

まあ、いったいお前は何をやっているんだ、愛し合っている場合ではないだろうがと言いたくもなるが。それにしても数ある作品の中からなぜこの作品がハヤカワ文庫補完計画の中に(新訳ではなく新版とはいえ)含まれたんだろうと思ったが本作を原作としてBBCでドラマがスタートしているみたいだ。下記はトレイラー。
www.youtube.com
洗練されたセリフ、練りこまれたキャラクタ、美女とジョナサンのロマンスとドラマ映えする要素が幾つもあるので(ル・カレ作品はほとんどそうだろといわれるとあれだが)どう設定を現代風にするのかなどは気になるが良い出来になりそう。

*1:早川書房70周年を記念して行われている大・復刊/新訳/新編祭りのこと

死から蘇りて裏切り者絶対に殺すべし──『レヴェナント 蘇えりし者』

レヴェナント 蘇えりし者 (ハヤカワ文庫NV)

レヴェナント 蘇えりし者 (ハヤカワ文庫NV)

アカデミー賞で映画作品の『レヴェナント:蘇りし者』が監督賞(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ)や主演男優賞(レオナルド・ディカプリオ)や撮影賞(エマニュエル・ルベツキ)をそれぞれ受賞したことで大いに盛り上がっているが──日本ではまだ公開されていない。公開日はいつやねんと思ったら4月22日とずいぶん先だ。

盛り上がっているのに観られるのは1ヶ月以上先か……(というか、受賞以前から盛り上がっているからずっと待ち続けている……)とがっくりするものの、先日映画のノベライズではなくれっきとした原作小説が出たのでこれを読んで待つのもいいのではないだろうか。これがなかなかおもしろいのである。

本書のストーリーはかなりシンプルな復讐譚だ。

1820年代のアメリカを部隊に、罠猟の遠征隊に参加した、隊の面々からも評判のいい有能な男ヒュー・グラスは森で熊に襲われて死にかけてしまう。喉が切り裂かれろくに飲み物ものめず、背中には大きな爪痕が残っている。遠征隊隊長の号令によりみな死にかけのグラスをえっちらおっちら運ぶが、当時はまだインディアンらとの抗争が終わっておらず、常に襲撃の危険と隣合わせで怪我人を連れて行く余裕はない。

そこで、ほとんど死にかけていたグラスを埋葬するために二人の男を残し、遠征隊は出発するのだが、この二人がグラスの持ち物を奪ってすぐに遠征隊のあとをおいかけて去ってしまう。これはもちろん卑劣な行為ではあるが、彼ら自身もインディアンの襲撃を恐れる人々であり逃げたこと自体を責めるのも厳しい部分がある。

このままグラスが死んでいれば二人はグラスは死にましたと嘘をついて何の問題もなかったはずだが、絶対に死ぬと思われながらもなんとか命をつないだグラスは、自分の持ち物を奪って逃げた二人へと復讐を誓い脅威の精神力で復活を遂げていく──。

実話なのだ

ヒュー・グラス - Wikipedia
で、このストーリー自体は実はほぼ史実に基づいたものだ。取り残された男ヒュー・グラスは実在するし、彼をおいていった二人や遠征隊の隊長など主要なメンツもわかっている。実際に熊に襲われ、見捨てられ、復讐に向かったのだ。一度聞いたら忘れられないぐらいのインパクトがある設定と展開であり、原作小説よりはこの実話のほうが有名なのではないだろうか。僕も映画をみてこの実話を映画化したものかあと思っていたから、原作小説が存在することに驚いたぐらいだ。

小説とはいえ、本書は基本的な部分についてほぼほぼ伝記に忠実に作り上げられている。重要な役どころの人間は全員史実で名前もその後の人生も判明している人々だし、フィクションの登場人物らもみな伝記などでは明らかになっていない「空白」を利用して生み出されている。ほぼ史実なら小説としては物足りないのではと思うかもしれないが、伝記では当時のヒュー・グラスの心情をこと細かに描きだすことはできないところを、フィクションという体裁ならばそれができる。

喉を切り裂かれ物を食べることなど到底できず、体中の骨が折れ、背中には骨にまで達する爪痕が残っているような「常識的にいえば絶対に生き残ることはできない」怪我をおい、立って歩くどころか物を食べることすらできないヒュー・グラス。そんな彼が、裏切り者絶対に殺すべしと地べたを這いつくばりながらなんとか前へと進む姿にはカタルシスというよりもただただホラーじみた恐怖を覚える。

フィッツジェラルドとブリッジャーは意志を持って行動し、グラスが自分の命を守るために使ったかもしれないわずかな所持品を奪ったのだ。そして、グラスからこのチャンスを奪うことで、二人はグラスを殺したのだ。心臓に刺さったナイフや頭に撃ち込まれた銃弾と同じくらい確実に、殺意を持って殺したのだ。彼らは殺意を持って殺そうとしたが、グラスは死ぬまいと思った。死んでたまるか、グラスは誓った。なぜなら、生き延びて自分を殺そうとした者たちを殺すつもりだからだ。

史実についての断片的な情報から、イメージ的には「ほとんど死んだと思われて埋葬されたあと息を吹き返して歩いて後を追うのかな」ぐらいに想像していたのだが、本書のグラスは最初這うことしかできない。ずりずりと身体をひきずって一日数マイルずつ進み、それでも絶対にあいつらを殺すという執念のみで前に進み続ける。

まあ、非常にシンプルな話なので、ヒュー・グラスの復讐は果たされるのか、はたまた彼は途中で力尽きてしまうのか、これ以上語るべきこともあまりない。

それ以外だと、1820年代という時代の描かれ方がよかったかな。まだアメリカ大陸に未開の地が多く残っていた時代であり、インディアンの恐怖があることから命がけの「冒険」や「探検」が存在していた時代だ。開拓されていない土地を襲撃に怯えながら探索し、動植物を狩りながら日々を生き抜かねばならぬ緊張感が1820年代にはまだある。このへんは映画でどこまで再現されているのか気になる部分だ。当時は存在しなかった人工照明を使わず、自然光と炎の明かりだけで撮影は行われたという。

予告編でもかなりよかったし、撮影賞もとってるぐらいだから期待して間違いないだろう──楽しみだが、もう少し早く公開してくれんもんかね。

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (1)

ニンジャスレイヤー ネオサイタマ炎上 (1)

  • 作者: ブラッドレー・ボンド,フィリップ・N・モーゼズ,わらいなく,本兌有,杉ライカ
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/エンターブレイン
  • 発売日: 2012/09/29
  • メディア: 単行本
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真実はひとつ。人はそれにたくさんの名前をつけて語る──『千の顔をもつ英雄』

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

  • 作者: ジョーゼフ・キャンベル,倉田真木,斎藤静代,関根光宏
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2015/12/18
  • メディア: 文庫
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古典的名著として有名ながらもずいぶん長いことてにはいりづらい状況が続いていたが、『神話の力』を出した早川書房が新訳で文庫化してくれたぞ。

数多ある神話、たとえばヘラクレスだとか、ブッダとか、名前を聞いたこともないような部族の民話とか、お伽話とか縦横無尽に話を収集してきて、そこから神話に──というよりかは、「人間が残し、伝えてきた物語」に存在する普遍コードのようなものを見いだしてみせる一冊(上下で二冊)である。ようは、神話というものが場合によっては何千年も人から人へと伝えられ残されてきたのは、人が根源的に好む、あるいは望む? 本質がそこには含まれているからであるし、それは表面的には千の顔を持つけれどもその裏にはたったひとつの真実が存在しているとする。

本人の言を借りれば『あまり難しくない例をたくさん提示して本来の意味が自然とわかるようにし、その上で、私たちのために宗教上の人物や神話に出てくる人物の形に変えられてしまった真実を、明らかにすることである。』ことを目的としている。そのわかりやすさ故か、スター・ウォーズの生みの親ジョージ・ルーカスがこの本を非常に参考にしているように、幾人ものクリエイターがキャンベルの影響を受け物語を構築している、物語を作る人間からすればバイブルともいえる名著だ。

まず何が凄いって、その幅の広さが圧巻。たとえば、「出立」といって冒険への旅立ちを語る章では、超メジャーなアーサー王物語からドマイナーな北アメリカの民間伝承、聞いたことのない民族の神話、東洋におけるブッダの生涯など縦横無尽に神話が参照される。アーサー王は狩りにでかけた先で見たことも聞いたこともない奇妙な獣に遭遇し、ブッダは庭園に向かう途中で歯が欠け、髪が白く、杖に頼り震えている年寄りや病人に出会う。それは彼らにとっては理解し難いもので、しかしそれと出会うことによって彼らの冒険はスタートするのである。

アーサー王のような有名どころから無名どころまで数々の英雄譚を類例に沿って読んでいくだけでも底抜けに楽しいが、その先にはキャンベルによるまとめが入る。

神話的な旅の第一段階は──ここでは「冒険への召命」と言っているが、運命が英雄を召喚し、精神の重心を自分がいる社会の周辺から未知の領域へ移動させることを意味する。宝と危険の療法がある運命の領域は、さまざまな形で表現される。遠隔の地、森、地下王国、波の下や空の上、秘密の島、そびえたつ山の頂上、そして深い夢の中などだが、それは常に妙に流動的で多様な形になるもの、想像を超える苦難、超人的な行為、あり得ない喜びがある場所である。

アテネにやってきて、ミノタウロスの恐ろしい話を聞いたテセウス、ポセイドンの起こした風で地中海をさまよう羽目になったオデュッセウスなどなど冒険の「出立」だけで膨大な具体例を得ることができる。圧縮して紹介すると、キャンベルがいうところの英雄譚の構造は大きくわければ3つに分けられる。苦難や冒険への導入である「「分離」または「出立」」、試練や恵みを得る「イニシエーションの試練と勝利」、最後に循環へと至る「社会への帰還と再統合」。これらを上部構造として、それぞれに下部構造へと細かく分かれていく。

「出立」といって英雄に下される召命について語られたかと思えば、その次には逃避する為の「召命拒否」を語るサブセクションがあり、使命にとりかかる物へ思いもよらずに訪れる「自然を超越した力の助け」。などなど、多くともサブセクションは6つまでだが、ほとんどの神話がそこに収まってしまう事が具体例と共にあげられていくのでよくわかる。具体例の多さはそれ自体が「神話には類例がある」ことへの説得力になりえる。複雑なロジックを飲み込む必要もなく、ただただ読んで納得していけばいい。自身が言うように、驚くほどわかりやすい本なのだ。

いまどき、神話なんて

神話について何かを知っている意味があるのだろうかと問いかける人もいるだろう。その問いかけ自体は本書の著者ジョーゼフ・キャンベルを語り手にし、ビル・モイヤーズが徹底的に聞きてに回った『神話の力』でも最初に問いかけている。この答えが、わりと身も蓋もなくて面白いからちょっと引用してみよう。

モイヤーズ なぜ神話を、という疑問から始めましょう。いまどき、なぜ神話のことなど考える必要があるんでしょう。神話は私生活とどう関わっているのでしょうか。
キャンベル 答えとしてはまず、「どうぞそのままあなたの生活をお続けなさい。それは立派な人生です。あなたに神話の知識などいりません」と言いたいですね。どんなことでも、他人が重要だと言ってるから興味を向けるなんて、賢明なこととは思えません。ただ、どういう形であろうと、その問題のほうから私をとらえて話さない場合には、まともに受け止めるべきでしょう。あなたの場合も、適当な予備知識さえあれば、神話のほうからあなたをとらえることに気づくはずです。そこで、神話がほんとうに心をとらえたとき、それはあなたのためになにをしてくれるのでしょう。

そこに興味が自発的に向かないかぎり、「あなたに神話の知識などいりません」というのはなるほどまったくその通りである。しかし──とその後につづいているように、神話には何の効果もないといっているわけではない。

 ギリシャ、ラテンの古典や聖書のたぐいは、かつて日常的な教育の一部でした。こういうものが捨てられてしまったいま、西洋の神話知識の伝統もまるごと失われてしまいました。神話的な物語はだれの心にも宿っていたのに。そういう物語が心のなかにある限り、それが自分の生活の内面と関連していることもわかるはずです。それは、いま起こっていることにひとつの見通しを与えてくれます。

キャンベルは他にも、現代社会の裁判官を見るに、威厳のある黒い服のかわりにグレーの背広を着て法定に出てもいいはずだが、それをしないのは裁判官のちからを儀式化し、神話化する必要があるからだと述べている。あまり意識しないまでも、この世界には神話の力を使った作用が溢れている──ただし失われつつあるのだ。

だからこそ知る必要がある──というよりかは、知ることによってはじめて神話はその意味を持つのだろう。キャンベルが『神話は、人間生活の精神的な可能性を探るかぎです。』と語るように、神話はかぎなのだ。それは誰にでも同じ効果──咳止めシロップのようにもたらすわけではない。幾つもの物語を自分の中に内包していると、自分なりのやり方で世界とうまく折り合いがつけられるようになる。幾人もの師匠と、無数の教訓を手中にすることだから。

それはそれとして、神話をつぎつぎと読んでいくのは純粋にとても楽しいからオススメの本である。何しろ数千年も人の心を捉えて離さない物語群を、最高の語り手が語ってくれるわけだから、つまらないはずがないんだよなあ。

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

世界は一変しカタストロフへと雪崩れ込んでいく──『文学会議』

文学会議 (新潮クレスト・ブックス)

文学会議 (新潮クレスト・ブックス)

バカバカしい語り、トンデモな展開が、実に丁寧に、細部に至るまで、かつ必要なんだか必要ないんだかよくわからない寄り道をしながら続いていく。本書収録の中篇二作のあらましをざっと語ってしまえばふとっちょの女の子にいきなり「ねえ、やらない?」と語りかけてくるパンクな少女二人から始まる「試練」、クローン技術を用いて世界征服を狙う作家にしてマッド・サイエンティストを描いた「文学会議」と百合に世界征服SFとあまりにも自由すぎる展開をみせるのだ。

著者であるセサル・アイラはアルゼンチン生まれの作家で。大抵の作品はアルゼンチンの出版社から出て、メキシコ、スペインと流通をたどっていくが本書の初版はベネズエラのようだ。ノーベル文学賞の候補者とも言われているようだが、候補者は公表されないので本当かどうかはわからない。ただ少なくとも「そう言われる」ことは確かなわけで、世界的な評価が高い作家でもある。

文学会議

村上春樹さんだってノーベル文学賞候補(と言われているだけだが)なのだから別段不思議ではないのだけれども、セサル・アイラさんによる本書も、最初に大雑把なあらすじを書いたようになかなかぶっ飛んでいる。たとえば、繰り返しになるが「文学会議」は「私」ことセサルさんがこれまた実在の作家であるカルロス・フェンテスの細胞を入手し、天才のクローンを量産して世界征服を成し遂げようとする中篇だ。

 ことここにいたって、立ち往生してしまい、このままでは最終目的地まで行けそうにないことがわかった。最終目的地というのは、なにあろう、世界征服だ。この点にかけて彼はマンガの典型的な<マッド・サイエンティスト>だった。世界征服というのもこれ以上はないほど控えめに設定した計画だ。なにしろ彼ほどの人間だから、それ以下では役不足というものだ。しかし彼にわかったことは、このままのクローン軍団(といっても、それも今のところ仮想の存在に過ぎなかった。現実的な問題として、まだ数体作っただけなのだから)では役に立たないということだった。

武器もないのだからクローンを大量に作ったからといって世界征服が開始できるわけではない。彼が天才的だったのは『明らかな解決策はもっと優れた人物のクローンを作ることだった……』と自分より優れた人間を想定しそいつを量産して優れた世界征服法を考えてもらう事を考えついたことだ。こうして、彼の知る天才であるカルロス・フェンテスの細胞を得るために文学者が集まる文学会議へと赴くのであった。

筋書きだけ読むと「マーベルの新しいヒーロー物かな?」ぐらいのシンプルさではあるが、実際には本筋に関係あるんだかないんだかよくわからない思考、寄り道がはさまれておりふらふらと蛇行が続いている。しかしその思考、語りこそがまたこの作品の面白さでもあるのだ。カルロス・フェンデスから細胞を得るために使用した、自分が一から設計したスズメバチが役目を果たした後、証拠隠滅の為にとっとと殺したほうがいいのは確かだが『思ったよりもこの子に対する愛情が湧いてしまった』といってひたすらスズメバチに感情移入していく語りなど「お前は世界征服を志すマッド・サイエンティストだったのではないのか!」と不可思議な気持ちにさせられる。

それ以前の問題としてその後の筋書きも別段世界征服へとまっすぐ進んでいくわけではない。かつて出会って一瞬で恋に落ちた女性のことを延々と語り続けたかと思えば彼がかつて書いた小説や劇の話、間テクスト性に対する嫌悪感の表明、翻訳や文筆業がたいして儲からずに貧しいままであるなどなど一向に世界征服などにはとりかからない。しかし、突如として世界はその姿を一変させ、期せずして彼は世界を救うために立ち上がることになる───。

試練

こっちはこっちでクローンなどの現実には存在しない技術こそ出てこないものの、不可思議な話だ。「ねえ、やらない?」とパンクな二人の少女に話しかけられるふとっちょの少女と最初に書いたが、その「やらない?」の意味はそのまま「セックスしようぜ!」の意味であり、当然見ず知らずの女の子二人にそんなことを言われても困ってしまう。明らかに怪しい。いえいえいいですから……、そこをなんとか、一目惚れしてしまったんだよとでもいうように物事は強引に推し進められていく。

「ちょうどあんたのような子を待ってたんだよ。クソデブをさ。面倒なこと言わないでくれよ。あんたのあそこを舐めたいんだ。まずは手始めにさ!」

勢いに飲まれ、またそのドストレートな弁舌に一片の好奇心を刺激され、クソデブ少女は彼女たち二人と場所を移動し、会話を試みてしまう。当然気が狂ったような申し出なので「そうだね、やろう!」なんて展開にはならないのだけど、ドストレートにやろうぜ! と言ってくる二人の少女の出現によって、クソデブ少女の世界観は一変してしまう。「今まで当たり前だと思っていた世界が、一瞬で一変してしまう」状況を描く部分は、「文学会議」と通底しているのだ。

 時間的にそんなことを考えた後に割れに返ってみると、プンペルがまったく性質の違うもののようになっていた。向かいの街角で女の子二人に声をかけられてからというもの、この種の感情を持つのは初めてではなかった。あれから十五分と経っていないのに、世界は二度、三度と姿を変えてきたのだった。まるで変わることが彼女たちの生み出した効果の変わることのない性質みたいだ。

この中篇の面白いところは、一貫してこの狂ったビッチ共に対してノーを突きつけてきた「理性の人」であるところのクソデブ少女が、ついにその理性を二人のパンク少女に突き崩され、言語で割り切ることのできない非理性の世界へと突入していってしまうその描写だと思う。それは言葉にすれば簡単だが、読者に説得力を持って提示するのはなかなか骨である。非理性の世界へ言葉で誘導しなければならないのだから。

マルシア、もう一度しか言わないぜ。あんたは間違ってる。もうわかってるはずだろ。何でもかんでも説明が必要だっていうその世界は間違いだ。愛がその間違いからの出口になるんだ。あたしがあんたを愛せないなんてどうして思うんだ? 劣等感かい? 太った子は抱きがちだが。そんなことはない。劣等感を持ってるってんなら、その点でもあんたは間違ってる。あたしの愛があんたを変えた。マルシア、あんたのその世界は現実の世界の中にある。

物語は急展開を迎え、少女三人は共にスーパーマーケットを襲撃することになる。スーパーマーケットを! 襲撃! なぜそんな流れになったのか、理性的な少女はいかにしてそんな状況になだれ込んでいくことになるのか、それはまあ読んでのお楽しみだ。この「試練」も「文学会議」も、共になんだかよくわからない脱線をはさみながらも、突如として世界はその姿を一変させ、カタストロフへと雪崩れ込んでいく。それはまあ、面白いよね。長すぎず、短か過ぎない中篇という長さも抜群だ。

わたしの物語 (創造するラテンアメリカ)

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