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人の意識を機械に移植できるのか──『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』

脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦 (中公新書)

脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦 (中公新書)

人の意識は機械に移植できるのだろうか。

SFなどではおなじみのテーマだけれども、現実的にはまだまだぜんぜん無理だ。でも、その可能性を検討することはできる。果たしてどうやって意識を移植するのか? そもそも移植すべき意識は脳のどこに、どんな過程で宿るものなのか? 仮に意識の領域、発生プロセスが確定したとして、それを移植したとして、どうやったら「機械への意識の移植が成功した」と確認をとることができるのだろうか?

本書『脳の意識 機械の意識 - 脳神経科学の挑戦』はそんな脳の意識をめぐる脳神経科学の歴史と成果、それとちょっとばかりの飛躍として、機械の意識について語られた一冊である。これがまあ、基礎的な脳神経科学の内容としても素晴らしく、最終章に至ってはありありと"人間の意識を機械に移植できる具体的な可能性、その手順"について実感させてくれる。今年読んだ脳科学本の中では間違いなくベストだ。

 もし、人間の意識を機械に移植できるとしたら、あなたはそれを選択するだろうか。死の淵に面していたとしたらどうだろう。たった一度の、儚く美しい命もわからなくはないが、私は期待と好奇心に抗えそうにない。機械に移植された私は、何を呼吸し、何を聴き、何を見るのだろう。肉体をもっていた頃の遠い記憶に思いを馳せることはあるのだろうか。
 未来のどこかの時点において、意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いないと私は考えている。

そもそも意識とは何なのか

本書はまるっと一冊「機械への意識の移植」について語られているわけではない。

移植云々の前に何が意識で、どれがその意識プロセスに当たるのかがわからなければ何もはじまらない。本書の第一の意義は「意識とは何か」について基本的なところを抑えているところにある。たとえば、その「意識」について、何なのかとかどう研究するのかのわかりやすい例をあげると、ルビンの壺という、時間を置くことによって壺に見えたり人の顔に見えたりする視覚事象の体験がある(みたことあるだろう)。

つまるところこれが表していることは、我々は世界の見え方(ルビンの壺の場合は、その絵)をあるがままに受け取っているわけではなくて、その都度その都度目に見えるものを脳内で「解釈」することで個別の視覚体験を作り上げていることになる。であれば、そうした感覚意識体験の「切り替わり」を捉え、切り替わった瞬間と連動する脳活動が見つかれば、それは意識と関係している可能性が高いと考えられる。

そうした実験の数々によって、意識をめぐる脳神経科学の世界では、意識とニューロン発火の関係、イオンチャンネルや神経伝達物質などのナノレベルの生体機構、ニューロンの刺激応答性などの解明などが進んできた。本書の大半の記述はそうした脳神経科学の研究史に当てられている。一方、我々の「感覚意識体験」に応じて、完全な対応関係でニューロン活動が変化しているわけでもないこともわかってきた。つまり、意識にのぼる視覚世界がそのまま表現される脳の部位は存在せず、『脳のどこかに意識の中枢が存在し、それが意識を一手に担っているとの図式は当てはまらない』

 多くの実験結果が指し示すのは、意識と無意識が、脳の広範囲(第一次視覚野はのぞく)にわたって共存しているということだ。意識と無意識の境界は、脳の低次側と高次側を分割するような形で存在するのではなく、それぞれの部位の中に複雑なインターフェース(界面)を織り成しながら存在している可能性が高い。

人の意識を機械に移植する。

意識発生時の脳の電気活動については多くのことがわかってきた。それは観測すればわかることだからだ。しかしニューロンの発火が、どうやって視覚体験を生むのかについてはわかっていない。じゃあ何? 結局脳を完全再現しないと意識も再現しないってこと? じゃあ移植なんて無理じゃね? と思うかもしれないが本書ではここでいくつかの思考実験を導入することで話を進めていく。たとえば、あなたのニューロンを一つだけ人工のものに置き換えてしまった時、そこに意識は宿るだろうか。

人工ニューロンが生体ニューロンと同じ機能を持ち、元の神経配線を完全に再現できるならば以前と全く同じように意識が浮かぶはずだ。これを一歩一歩進めた時、どこかのタイミングで意識体験は消失するのだろうか。あるいは薄れていくのだろうか。チャーマーズの論考では、脳が完全に人工のものに置き換わった後にも、視覚体験は残る。それは脳の完全再現とまったく同じじゃんと思うかもしれないが、この場合は「他のニューロンにバレなければ」つまり最終的な出力さえ変わりのないものが出てくるのであれば別に間をいくら誤魔化し/簡略化してもよいということになる。

さて、この人工ニューロンをコンピュータシュミレーションによるニューロンに置き換える事で同様の状況が導き出せる。『たとえ、脳に残るニューロンが最後の一つになっても、その最後の一つは、生体脳の中の一員であったときとまったく同じように振る舞う。さらに、その最後の一個を含め、すべてのニューロンがコンピュータの中に取り込まれても、その動作は必要なレベルで元の脳を再現していることになる。』

現在の技術力ではヒトの脳の規模に匹敵するシュミレーションは不可能だが、仮にそうやってシミュレートした時に機械に意識が宿ったかどうかはどう確認したらいいのだろうか──というあたりから、本書のもっともおもしろい部分(個人的な感覚体験)に踏み込んでいくので、ここいらで紹介を切り上げておこう。

おわりに

特に、ニューロンの発火が意識体験に繋がるプロセスとして重要なのは、情報としてのニューロンの発火そのものではなく、その情報を処理・解釈する「神経アルゴリズム」なのではないか──というあたりの議論にはめちゃくちゃ燃えた。この説の方向性が正しければ、まず視覚から記号的な情報を受け取り、三次元的な仮想世界を脳内でシミュレートし、我々の視覚体験・三次元仮想視覚世界として収束していくことになる。この説ならば、実際に我々が行動を起こしてから僅かに遅れて意識がそれを知覚する時間遅れについても説明がつく(三次元仮想視覚世界の形成を待つからだ)。

著者らは現在、マウスの脳半球を分離し、左右の脳をマシンによって再配線する実験を進めているところだ。そうすることで脳を行き来する情報をすべて記録することができるし、情報の操作による検証も可能になる。その次には、片方を機械半球に置き換えて、多層型の生成モデルを介したやりとりを発生させることで、神経アルゴリズムの傍証となりえる実証実験を行おうとしている。本書で述べられていること(特に後半)は仮説の域を出ないものだし、意識をめぐる問題はわからないことだらけだ。

それでもここには説得力と、何よりもワンダーがある。新書でお求めやすいこともあるので、オススメの一冊だ。

我々の宇宙はなぜ「できすぎて」いるのか──『マルチバース宇宙論入門 私たちはなぜ〈この宇宙〉にいるのか』

本書はその書名のとおりに、この世界には我々が今住んでいる宇宙以外にも複数の宇宙が存在することを仮定した物理理論、マルチバースと呼ばれる世界像を解説した一冊である。180ページ足らずの新書で、説明できるのかねえと疑いながら読み始めたのだけど、前提となる知識の紹介からしっかり進め、マルチバースの本質に絞ってコンパクトにまとめあげていくずっしりとした内容のある新書であった。

 しかし、本書で紹介したいのは、この20世紀の成功をさらに超える最新の「宇宙」論である。ここで宇宙という単語をカッコの中に入れたのには理由がある。この最新の描像によれば、我々が宇宙だと思っていたものは無数にある「宇宙たち」の一つににすぎず、それら多くの宇宙においては素粒子の種類、性質およびそれを支配する法則、さらには空間の次元に至るまで多くのことが我々の宇宙は異なっている。

というマルチバース宇宙論だが、まだ発展途上の理論であり、整合性は合うけれども、まだ確証がとられているわけではない。そこで本書では、この宇宙のはじまりを説明するインフレーション理論、ビッグバン理論などの「確かなこととしてわかっていること」からはじめて、次第にマルチバースの本質的な部分へと迫っていく。

前提となる部分の説明は基本的に各種宇宙論の本を読む時に書かれていることなので割愛し、マルチバース宇宙論に関わるところだけ簡単にピックアップしてみよう。まず"そもそもなぜそんな理論が必要とされているのか"という点が疑問である。一応のところ宇宙のはじまりはわかっており、我々の宇宙は我々の宇宙として完結しているようにみえ、他の宇宙だとかなんだとかそんなややこしい理論を必要としているとは一見したところみえない。ただ、"解き明かせていない謎"も無数に存在する。

たとえば、我々の住む宇宙では、クォーク、レプトンなどのパラメータの値が"あまりにも都合よく選ばれている"ようにみえる。原子核を成立させる物理は複雑ではあるが、いくつもの種類の原子核が安定して存在している。原子核は恒星内などで合成できるから、存在すること自体は"不思議ではない"。が、しかしそもそもなぜ原子核が安定して存在できるようなパラメータになっていたのかはわからないのである。

標準模型にはヒッグス場の二乗質量パラメータというものが存在する。理論的にはこのパラメータは何十桁の範囲にわたって正負どちらの値も取ることができるのだが、それを実際の標準模型の値からたった数倍にしただけで(陽子自身である水素原子核を除く)全ての原子核が存在しなくなってしまうことが計算によって示せるのである。

つまり我々の宇宙が、標準模型のパラメータがズレた宇宙であったならば複雑な構造を持つことは不可能であり、生命が存在することもありえなかっただろう。これに対する単純な答えとしては「生命が存在することのできない宇宙には、そもそも我々のような観測する主体も存在しないのだから無意味な問いかけだ」というのもある。

そもそも太陽系からして、太陽と地球との距離、地球と他惑星の距離が少しでも違っていれば生命の生まれる環境など成立していなかったはずなので、"我々はたまたまうまくいった惑星系に生まれ得た"だけにすぎない。銀河系には無数の恒星と惑星系が存在し、その中には地球と同じく生命が生まれることが可能な惑星もあるだろう。逆に生命が生まれる余地のない惑星系もあるが、そこでは「なぜ我々は生まれ得たのか」と同じ問いかけが投げかけられることもない。要するに"たまたま"である。

これは現在の我々の宇宙をめぐる「謎」と似ている。なにしろ標準模型のパラメータ以外にも、ダークエネルギーと物質のエネルギーの奇妙な均衡(7:3)など、そうでなければ惑星や生命が生まれることのなかったといえるほど都合の良いパラメータがこの宇宙には設定されているわけで、それに対して"無数にある宇宙の一つがたまたま都合が良かったのではないか"と考えること自体は、そう無理なことではない。

理論的にも整合性がとれている。

という説明だけだと「じゃあ単にそう考えたほうが都合がいいってだけなの?」と思うかもしれないが、実際には理論的にも可能だとする理解が幾つか得られている。たとえばSFなどでは時折話題になる「超弦理論」では、理論が数学的に矛盾しないためには世界は十次元である必要があるとする。この理論によると、通常我々に認識できるのは三つの空間座標に時間を加えた四次元だけだが、より(認識できないほど)小さくさまざまな構造を持つことが可能な六次元の存在がこの世界には想定できる。

で、この六次元はさまざまな構造を持てるというのが重要で、そのおかげで異なる種類の宇宙が超弦理論の枠内で実現することができるようになるのだ。もちろん、実現できるからというだけじゃ根拠にはならないわけだけれども、そうした前提をもとに、量子力学のトンネル効果と呼ばれる確率過程を勘案に入れると、点々と宇宙が広がっていく理論的枠組みが完成してしまう。(要約したくないので)そこについては意図的に説明を簡略化してしまったが、確信の部分は読んで確かめてもらいたい。

 それによると、時空では永久に加速膨張を続ける「背景」の中に無数の泡宇宙が生み出し続けられている。さらに、超弦理論によれば、これらの泡宇宙は10^500かそれ以上の種類を持っている。これらの異なる宇宙においては、素粒子の種類や性質から真空のエネルギーの値、空間の次元までもが異なっており、我々が住んでいる宇宙、すなわち第1章で見た宇宙はこの無数の泡宇宙の一つにすぎない。これこそまさに真空のエネルギー値の問題を解くのに必要とされていた状況である!

おわりに

というところまでが本書の前半部分、マルチバースの概要である。ある意味「我々はなぜ今ここにいるのか」を解き明かす理論であり、魅力的な宇宙論のうちのひとつだ。他にも本書では、このマルチバース宇宙論で我々の宇宙が「終わる」時には何が起きるのか、マルチバースをどうやって実証していけばいいのといった問いかけや、今後さらなる発展が期待できる、「量子的マルチバース」仮説を描き出してみせる。

新書とはいえ、マルチバースの本質に絞って話を展開しているのでぎゅっと情報が詰まっている一冊だ。ちなみに著者である野村泰紀さんはカリフォルニア大学バークレー校教授、バークレー校理論物理学センター所長などのきちんとした専門家である。あ、あとついでに我々の宇宙とは別の物理法則の宇宙を厳密な整合性で展開する超弩級のハードSF『クロックワーク・ロケット』もオススメしておきます。

クロックワーク・ロケット (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

クロックワーク・ロケット (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

サイエンス重視の意思決定ではもはややっていけない──『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』

HONZは自分の好き勝手に本を紹介するサイトなので、同じ本についてレビューが書かれることはあんまりない(先に書かれると書きづらいし)。ところが、本書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』は偶発的に同時にレビューが上がったのもあって、興味を持って読んでみた。

で、言っていることは「現代のエリートはアートを学ぶ」という単純な事実なのだけれども、これがおもしろい。たとえば「芸術学修士(MFA)は新しいMBAである」と題した記事がハーバード・ビジネス・レビューに掲載されたり、グローバル企業がアートスクールに幹部候補生を送ったり、といった新たな流れが実際に存在している。

それがなぜかといえば、ただ箔をつけるためとか、ビジネス上の会話をスムーズに進めるためなどではない。『彼らは極めて功利的な目的のために美意識を鍛えている。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。』

今、美意識が求められている理由

これだけだと意味がわからないと思うので補足説明すると、現代において「美意識」が求められている理由について本書では次の3点を主な理由として挙げている。

1.論理的・理性的な情報処理スキルの限界が露呈しつつある。⇛多くの人が分析的、論理的な考え方をするようになった結果、誰もが"同じ正解"にたどりつき差別化が不可能になってしまった。また、現在のように複数の因子が複雑に絡み合う状況下では完全に論理的・合理的な決断は下せない状況が多くなってしまっている。

2.世界中の市場が「自己実現的消費」へと向かいつつある。⇛これもその通りで、ようは機能面ではもう完成してしまっている商品が多く(掃除機とか、これ以上進化するの難しいし)、もう「持っていることで承認欲求が満たされる」とか「持っていることが究極の自己満足に繋がる」みたいな要素が比重として大きくなっている。その時に必要なのは、合理性よりもむしろ感性に訴えかける力である。

3.システムの変化にルールの制定が追いつかない状況が発生している。⇛現代は変化が早すぎてルール/法律は後追いでそれを認めたり認めなかったりするので、極端な合理主義で「現在の法律ではこれはグレーゾーンなので顧客から金を搾り取りマースwwwwww」みたいな、美意識や顧客への誠実さに欠けた経営をやると、一時的に金は儲かるかもしれないが、大きな権力を持つであろうエリートこそ行ってはならない。結果として法改正が追いついて、しっぺ返しを喰らったりするしね。

そもそもアートって何なのか

そもそも「アート」とはいったい何なのかという疑問が湧いてくるが、簡単にまとめてしまえば「なんとなく、これが美しいから」という感覚が「アート」であって、それがなぜ美しいのかといった「分析」はそこには存在しない。経営の意思決定の理由を問われてそんな返答をしたら叩かれそうだが、逆に理由を言語化できるということはつまり再現性があるということであり、容易く他者にコピーされてしまう。

誰もが同じ結論を出す世界から抜け出し、差別化を行う際に「アート」を許容できる組織は強くなっていく。で、すべての意思決定がそうした「アート」的感覚で決められたらうまくいくはずもないが、現代企業の多くは「サイエンス」偏重がすぎるので、バランス良く経営にとりいれていきたいよねという話である。『この問題を解決する方法は一つしかありません。トップに「アート」を据え、左右の両翼を「サイエンス」と「クラフト」で固めて、パワーバランスを均衡させるということです。』

さあ、しかしそもそもが美意識、アートとはフワッとしたものであり、本書も直感の領域を美意識の範疇に含めたりなんか「説明のつけられない事象のほとんどを美意識の定義の中に入れられちゃいそうだなあ」とか、そもそも「美意識を鍛える」って言ってるけど、ホントにそんなもん鍛えられんの? 御大層にアートだなんだといっているアメリカの大企業もコンプライアンスグダグダじゃね? アマゾンのどこに美意識がある? kindleアプリマジでクソだから早くなんとかしてくれよとかいろいろ疑問はあるけれども、少なくとも大筋の理屈としては非常に納得のいく一冊だった。

新書で読みやすいので、幅広くオススメしたい所。この記事では触れなかったが誠実さについてや哲学について、「天才」の定義の話など、幅広い事例を通して美意識を鍛える意味を教えてくれる。

見せかけの繁栄に潜む空前絶後の社会矛盾──『「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄』

「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄 (文春新書)

「暗黒・中国」からの脱出 逃亡・逮捕・拷問・脱獄 (文春新書)

本書は著者である顔伯鈞さんの当局から逃げ続ける逃亡記を元に、編訳者である安田峰俊さんが日本の読者用に編集しなおした特殊な形式の新書である。

著者は元々中国体制内のエリートであり、北京工商大学の副教授だ。しかしある時「公盟」と呼称される、体制民主化などの実現を目指す社会改革団体に参加し、活動を続けるうちに国家から追われる身となってしまう。そこまで危険な組織活動を行っていたのかといえば少なくともはたから観ている限りはそんなことはない。公盟の主な活動は全国各地で参加者を集め、社会問題を話し合う食事会を開き、体制における自由化を目指すデモを行う法律に則った比較的に穏健な組織である。

ところが、中国ではそうした活動さえも許されない状況が本書では明かされていく。著者は討論会を開催したりするうちに当局の注意を引き、支持者たちで「党官僚の財産公開」を求めて街頭に出るようになるとついに仲間もろともしょっぴかれかけてしまう。そこから家族に別れを告げ、水滸伝か何かの如く反体制の好漢たちの間を渡り歩きながら、香港からミャンマーまでを転々とする白熱の逃亡譚がはじまるのだ。

まるで小説のような逃亡譚

本書は逃亡譚に内容を絞っているので思想的な面での語りはあまりないが、読めば現代中国においてどれほどまでに言論的/思想的な自由が妨げられているのか、中国にひそむ社会矛盾をより深く理解することができるだろう。

それとは別に、逃亡者を逃がしやすいように隠し通路で繋げられた家など時代劇のギミックのようなものが出てきたり、当局に知られた番号で探知されないためSIMカードを捨てながら逃げ続けたり、一目でいいから家族に会いたいと北京に戻ってきてみれば1年経っても家が何ら変わらず厳重に監視されていたり──という状況の一つ一つが、不謹慎ながらも現代のスパイ/武侠小説でも読んでいるようにおもしろい。

副題に逮捕、拷問とあるように家族を人質にとられるなどして実際に一度ならず捕まってしまうのだが、その時も起訴できるほどの罪状があるわけではない(何しろ、実質デモをしたぐらいだから)。それにも関わらず、冷水をぶっかけながら何日もぶっ続けで仲間の居場所などを尋問される、1ヶ月間凶悪犯とともに拘禁される、また別のある時はホテルの一室に見張りつきで監禁されるもののザル警備で隙をついて脱獄する──などなど本当に今は21世紀だよなと思うような事態が頻出する。

私たちの活動はもとより中国の現行法のもとで許された合法的なものであり、また時代の要請にもとづくものだった。わが国の憲法35条には、デモや言論の自由がちゃんと謳われているではないか。合法的な行為について「罪」を認める理由はなかった。

まるで小説のようだとはいえこれは実際に中国で起こっていることであり、現実だと思うとだいぶ気分が重くなってくる。しかしそんな状況にあっても、彼を支援し助けようとする市民ネットワークがあるのはひとつの救いなのかもしれない。危機を察知し各地を転々としていく中、彼を助けようとする人は滅多に絶えることがないのだ(著者の手腕と人柄によるところも大きいだろうが)

おわりに

本書はあくまでも個人の視点を通した逃亡記であり、この視点から見えてくるものをすべて正しいとするわけにはいかないが──『だが、中国が見せかけの繁栄の影で膨れ上がらせた空前絶後の規模の社会矛盾の存在をあぶり出すうえで、ひとつの窓口になれたのではないかと自負している』という部分については正しいだろう。ひとりの視点でしかないが、それゆえに狭く/深く状況を切り取っている一冊だ。

映画の売り方──『ジブリの仲間たち』

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんが今まで「どのようにして映画を売ってきたのか」をわりと率直に語っている聞き書き本(喋った内容を元に構成されている本)だ。ジブリは制作部門を解散したし、鈴木敏夫さんも忙しい日々が終わって抜け殻のようになっているんじゃないかと最初は思っていたが、こうして本を出したりガルムに関わったりと忙しい日々を送っているようである。

「ジブリの仲間たち」と書名にあったので、思い出語りなのかと思っていたのだが、内容はほぼジブリ作品の宣伝をどのようにやってきたのかに集約されている。作品の内容にはあまり文章を割かず、ジブリの話でありながらも宮﨑駿や高畑勲といった代表的な両監督はあくまでも一登場人物のような形だ。その代わりに、あまり表に出ることはない博報堂や電通、各映画の時にタイアップした企業の担当者、主題歌担当者、コピーライター──といった面々を含めた「仲間たち」の物語になっている。

あまりプロデューサーサイドの話を読まないので、知らないことばかりでおもしろい話が多かった。良い作品をつくるのはもちろん重要で難しいことだが、映画館を用意する「配給・興行」、来て貰えそうな人々に呼びかける「宣伝・広告」はそれぞれまったく別の種類の苦闘がある。それもプロデューサーとはいっても電通なら電通、ジブリならジブリで自分達の利益を守らなければならないので、作品を客に届ける前段階、内部でのごたごたの段階でどのように主導権を握るのかという難しさもある。

たとえば、毎回映画のコピーやフレーズが配給やタイアップ先で問題になる。「風の谷のナウシカ」では最初「人間はもういらないのか?」というキャッチが提案されるし、タイトルも「風の谷じゃ意味がわからないから『風の戦士ナウシカ』のほうがいい」という意見が出てきたりもする。もののけ姫では『東宝では、新聞広告第一弾の「人はかつて、森の神を殺した。」というフレーズが問題になった。宣伝プロデューサーの矢部ちゃんは、「東宝の映画の宣伝で"殺す"という言葉は使ったことがない」と反対していました』などとどうでもいいことで(個人の見解)議論になっている。

ジブリサイドのプロデューサーとしては、そうした宣伝のために行われる無粋な意見や関係各所のジレンマから作品を守らねばならない。とはいえ、ジブリサイドとしてもひとりでやれるわけがなく、莫大な費用がかかる劇場映画作品製作において毎度「もう一度映画がつくれるだけの資金」を収入として稼ぎ出す必要もある。そこで鈴木敏夫さんなりの「もう一度映画をつくるための売り方」が現れてくる。

そのやり方には特徴が──というよりかは、お決まりのパターンがある。まず作品を徹底的に分析し、同時に映画が公開される時代との接点、いったいどんな層に観て欲しいのかを考える。それが決定できたら、そうした層へと向け、また作品の内容を的確に現したキャッチコピーをつくる。そこまで出来てしまったら、あとはタイアップするなり広告を打つなり、各地の映画館を回ってイベントをやったり、どのようなポスターをつくるのかを考えたりといった個別具体的な事例へと移行していく。

プロデューサーの仕事というのは探偵業と同じなんだ。その作家が何をしようとしているのかを探る。一方で、現代というのはどういう時代なのかを探る。それをもとにどう宣伝するかを考えなきゃいけない。映画というのはストーリーを売るんじゃない。哲学を売るんだ

この「探った」あとには無数のパターンがあって、ここが読んでいておもしろいところでもある。たとえば『ハウルの動く城』では「宣伝しない宣伝」といってあまり作品の内容をオープンにしない形での宣伝を展開するし、『もののけ姫』では最初から当時は類例のほとんどない60億円の配給収入を目標に掲げゴリゴリの宣伝で押し切ろうとするなど、一作ごとにすべて違った「売り方」で展開していく。

単純には「売りにくい」作品もある。『風立ちぬ』は「お客さんが宮﨑駿に求めるものとは違う」、ただつくるべき価値のある映画であった。『かぐや姫の物語』もアニメーション作品としての出来とは別に、題材からして現代のお客さんが興味を持つかというと難しい。そういう二つの「企画段階からして客を呼ぶのが難しい作品の宣伝」として「同時公開」を考えだしたというのも、「無粋/下衆だなあ」と思う一方で売り方としてはたしかにものすごいことをやっているなと感心してしまう。

宣伝のやり方は一つではないし、時代に合わせて新しい手法も、新しい仕組みもあらわれてどんどん変わっていく。そこには作品をつくるのとはまったく別種の苦悩が現れてくるからこそおもしろい(結局同時上映は失敗してしまうわけだが)。

おわりに

そもそも鈴木敏夫さんは作品内容、企画段階から関わっていることが多いのと、「映画があたることを考える」ことよりも「高畑さんや宮さんがいい映画を作れる環境を整えること」を考え続けてきた人だ。一般的なプロデューサーとはまた視点が異なるのだろうが、一人の映画を売ってきた男の記録として大変興味深く読んだ。

人間と機械の境界を探る──『明日、機械がヒトになる ルポ最新科学』

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

明日、機械がヒトになる ルポ最新科学 (講談社現代新書)

SR(代替現実)、3Dプリンタ、アンドロイド、AI(人工知能)、ヒューマンビッグデータ、BMI、幸福学とテクノロジーに関連する諸分野の専門家へと小説家の海猫沢めろんさんが話を聞きに行ったインタビュー集である。

最先端の研究者は本を書く暇なんてないので「忙しく研究している人へと話を聞きに行く」本はありがたい。とはいえ2年前の取材も入っていてそれはもうルポ最新科学ではないのではと思いながら読んだら、確かに古いけれどもなかなか楽しませてもらった。わりと研究の本筋には関係ないというか研究者の素の部分みたいなのが現れているのもおもしろい。石黒浩さんが『僕も、従来の物質的な幸せや金銭的な幸せを超えて、ある程度人が納得するような精神的な幸せというものを伝えられるような気はしています。もしそれができたら、そのとき僕はね、宗教法人を立ち上げる。』とか「宗教法人を立ち上げるのか!!」と驚いたよ。

それぞれの章は20〜40ページほど。この分量(でしかもインタビュー)でその分野を大雑把にすら把握するのは困難なので、「だいたい今はこんなことができるよね」というのと、「今後どうなっていくんだろうね」あたりの話を中心に展開している。まあだいたい現状の一端に触れ、本書に登場する研究者らの著書に繋げたり各種最先端テクノロジーのニュースを追いかけるきっかけにするといいだろう。

明日、機械がヒトになる

「明日、機械がヒトになる」というタイトルは「人と機械がどう違うのか、わからなくなるような瞬間がある」という著者自身の疑問が出発点となって、「人間と機械の境界を探る」ことが目的であることからきている。たとえば「ロボットががんばっていたり、虐げられたりしていると感情が揺さぶられる」現象があるが、人はそこに心を感じているのではないか、だとしたら心とは内面的なものではなく「心があるようにふるまうこと」に本質があるのではないか、みたいな問題である。

人間とまったく同じようにふるまえるアンドロイドや人工知能ができたらそれはだいたい人間といってもいいだろうし、逆に人間が身体を置き換えていって機械になる未来も想定できるだろう。SRや3Dプリンタなどの各種技術の進展はそうした未来を起こし得る。ただ、あまり意味のない問いかけというか、境界があったとすることにできたとして、そんなのはただの言葉の定義の問題でしょうと思うな。

『生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来』では起きてネットに接続して情報を摂取し、外に出たら車を運転して目的地に行くんだったら「人間は機械と一体化した存在、生まれながらのサイボーグみたいなものでしょう」といっていて、結局どこに人間と機械の言葉の定義を置くのかという問題になっている。

もちろん問いかけをきっかけとして話が展開していくことに価値があるのであって、それでつまらない本になるわけではない。最終的には『人間が機械化することも、機械が人間化することも、すべては人の幸せのためなのだとすれば、もしいますぐ全人類が幸せになったら、技術は、機械は必要ないのでしょうか。』と問いかけ、「幸福学」という「人の幸せの定理を探る」ところにまでたどりついてしまう(7章)。

おわりに

個人的にはテクノロジーの進歩が向かっている先は「人間の幸福」よりは「人間の自由」に近いのではないかと思うが、流れというかストーリー性のあるインタビューなのもおもしろい。知らないこともけっこうあって、3Dプリンタの研究者が「3Dプリンタを生活に溶けこませるためには「消えてなくなる物質」をつくらなくてはならない」といっていてそれは確かにそうだなと思わせられた──というように、興味深いネタはいくつもあるが挙げているとキリがないのでここいらでやめておこう。

本書はcakesでの連載が元になっているが、取材後も技術の進展が各分野で起こっているので数年後にまたどんな進歩が起こったのかという内容でまた読みたいものだ。本書でも話に出ている、3次元に加え時間の概念を取り入れた4Dプリンタも開発に成功しているし。あるいは、東ロボくんプロジェクトや、人工知能による生成など具体的なプロジェクトを進めている人たちにさらに具体的に技術を掘り下げて聞くとか、SRはあってもVRにはまだいっていないしそっちも気になる。
www.digitaltrends.com

なぜ疑似科学が社会を動かすのか

なぜ疑似科学が社会を動かすのか (PHP新書)

なぜ疑似科学が社会を動かすのか (PHP新書)

「なぜ疑似科学が社会を動かすのか」という書名だが、これ自体はそうそう不思議なものではない。何しろこの世に存在する「それっぽい話」にいちいち「たしかな」科学的な説明がついているのかを気にし続け、検証するのは随分と骨である。

「肌のコラーゲンは年齢とともに減少します」と言われ同時に「食べるコラーゲン」が売っていたら「じゃあ食べれば肌も良くなるのかな」と勝手に推測し結びつけてしまうが、それが実際に効果があるのか検証するのは面倒だ。効果がないとその場で断定するだけの基礎的な知識は普通はなかなか持ち得ない。ちょっと検索すればいいだろうと思うけれど、忙しい日常でそんな検索ばっかりもしていられない。

検索してすぐに白黒はっきりつくならまだマシで、いくつか効果を実証する論文がなくはないというような科学的にあやふやな、グレーゾーンな部分を利用されているとさらにどうしようもなくなってしまう。そうした穴をつくことで、人の購買意欲をある程度コントロールできるなら(+巧妙に偽装すればあまり罪に問われることもないんであれば)、売る側からすれば仕掛けるのも当然の判断といえる。

そもそも疑似科学とはなにかといえば、本書から言葉を引いてくると『科学の装いをもった現実描写の物語である。科学の装いによって信憑性を上げている巧妙な物語なのである』とあるように疑似科学が社会を動かしているとしたら(実際に購買欲を刺激したりして動かしている側面があるわけだが)それは多くの人が「科学」とか「科学的な説明」に説得力を感じ始めた社会的な背景が関係しているのだろう。

疑似科学の取り扱いの難しさ

僕がわざわざ本書を読んだのは、「そうはいっても疑似科学って取り扱いが難しいよね」ちう部分について個人はともかく(個人の放心としては特に困っていない)として社会的にどのように対応していくべきなのかがよくわからなかったからだ。

たとえば、「コンビニで売っているペットボトルに入った水素水には実質効果がないのはそうかもしれないけど、別に悪い効果があるわけでもないし水を飲むこと自体も悪いことじゃないんだからいいじゃん」「別にそこまで大きな害があるわけでもないんだからよくない?」みたいな部分の話である。実質何の効果もない施術をされても、「本人がそれで安心感を得られるのであれば利益が出ているのでは?」とか。

もちろん問題がある(方がむしろ大きい)のもたしかで、水素水問題などを筆頭にして正しく効果的な研究をして商品をつくったり成果を挙げている人々が「効果をもたらす科学的な背景の存在しない、感情に訴えかけたもの」にあっけなく負けてしまうと悪貨が良貨を駆逐して消えていってしまうリスクはとてつもなく大きい。

そうした「明らかな問題」ははっきりと否定していけばいいわけだが──どこからどこまでが「明らかな問題」でどこからは「明らかな問題ではないのか」と考えると、これは難しいなと思うわけである。疑似科学の中にも明白なウソもあれば検証によって黒が判明したもの、依然としてグレーか検証するのが困難な理論もあって、ひょっとしたらそこには将来何か科学的な理屈がつけられる可能性もまた存在する。

定説とされている理論/科学であってさえも将来的には否定される可能性が存在していること、フィクションを練りあげるコストに比べてその検証にかかるコストが膨大であることなどを考えると、常時疑似科学に対して科学は遅れをとっている立場にある。実質的な利益(安心感など)が起こりえる可能性についても「不当な儲けをしていなければいいのか」という問題につながり得るし、「どうしようもないなあ」というのが正直な感想で、本書を読んでもそうした疑問が解決されることは特にない。

本書はパワーストーンやお守り、見せかけの先端科学や超能力、といった実際に存在する「疑似科学」を一つ一つ検証し、それが如何にして効率的に人をハメていき、どのように間違っているのかを解き明かしていく。その過程を通して、「科学と非科学をどうやって判断すればいいのか」「疑似科学への個人個人の対処法と受け入れ方」などを結論として出してみせる。新書なのでそこまで内容が濃いわけではないが、疑似科学に騙されたくないよーという人にとっては有益な一冊だろう。

「社会的にどうしていくべきなのか」についての話はほとんどないが、規制をかけるのもあまり現実的ではないし、今のところは個人個人が科学リテラシーをつけるしかない。あとは疑似科学とほとんど同じように広まっていった江戸しぐさにたいして、原田実さんのような識者が反論の声を大きく上げていってくれたことがカウンターとしてある程度は決まったように、専門家がもっと声を上げていくべきなのだろう。

そもそもなぜ疑似科学について考えだしたのかといえば水素水で盛り上がっているから──はまったく関係なく疑似科学をテーマにしたSF小説を読んだからである。

彼女がエスパーだったころ

彼女がエスパーだったころ

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作家・冲方丁による物語論/人生論──『偶然を生きる』

偶然を生きる (角川新書)

偶然を生きる (角川新書)

もうすぐ(3/24)マルドゥック・スクランブルをはじめとするシリーズ最新作『マルドゥック・アノニマス』の一巻が出るのでワクワクして待っていたところだったのだが、その前に新書が出ていた。いったいどんなものやら……と読んでみれば、人間はなぜ物語を求めるのかという物語論を主軸にした、人生論のようなものであった。たとえば5、6、7章はそれぞれ「日本人がもたらす物語」「リーダーの条件」「幸福を生きる」とそれぞれ日本人論、リーダー論、幸福論になっている。かなり雑多だ。

とはいえ『偶然を生きる』という書名には読む前から納得する部分があった。『マルドゥック・スクランブル』を筆頭に、冲方作品には偶然と必然が物語の中心に根を下ろしている。『たまたま起こった事柄の意味を探り、その事柄の反復をもくろみ、そして新たな、より「価値のある」事柄を起こそうとする。それが必然へと赴くということである。』とは『マルドゥック・スクランブル』旧版のあとがきの言葉だが、これは偶然によって死に瀕した悲劇の人生にたいして「なぜ、わたしなのか」と問いかけていく少女の物語なんだよね。

そのためエッセイ(人生論)でもそれが中心となるのは納得感がある。『偶然にはリアリティがあります。その偶然性を必然と感じること、感じさせることが、人間が行う物語づくりの根本になっているのです。』とは本書からの引用だが、物語のテーマ、中心だけでなくテクニックの部分でも偶然と必然は関わってきている。故に本書はいかにして人を引きこむのかという物語論であるともいえるし、物語に惹きつけられる仕組みを解剖していくことを通して人間(人生)を語る一冊でもある。

 物語づくりとは、そうした偶然のリアリティを差し替えたり、動かしたり、改変したりしていく作業だともいえます。人は誰でも偶然を生きている。その偶然を考えていくことは、物語の本質を突きつめていくことになるとともに、物語にあふれた世の中で、どう生きるべきか、本当の幸福を掴むにはどうするのがいいのか、といった道筋を探すことにもつながっていくのです。

4つの経験

本書では世界の捉え方を主に4つの経験に分類している。全体を通してこの概念が中心になるので説明しておこう。第1は「直接的な経験」で主に五感に相当する経験のこと。第2は「間接的な経験」で、社会的な経験ともいう。殆どの人は宇宙に行ったことがないが、伝聞や写真で宇宙から地球がどう見えるかを知っているように、さまざまな知識が伝達可能な状態で我々には伝えられるがそのことを指している。

第3は「神話的な経験」でようは神話で世界を理解する試みのこと。太陽が上る理由や月の満ち欠けを神様のせいにして納得してみたいろt、かつてはこの経験が世界を理解するために重要だったが、現代ではこの経験は失われつつある。第4は「人工的な経験」で、これはようは作り上げられたフィクションのことだ。たとえばある新製品を売り出す時に「これをこんなふうに使えばあなたの生活が一変しますよ!」というようなもの。基本的には物語などのフィクションもここに含まれそうな感じ。

多くのことが語られる本なので、これこれこういう本なのですとまとめるのは難しいのだが、この4つの経験を前提にしてみるといろいろなことがわかりやすくなる。

たとえば、「幸福」を考えるときにもこの経験を4つにわけるのはけっこう便利だ。幸福は第1の経験の範疇にあるものであって、第2の経験である社会的な経験に固執しすぎると第1の経験がぽっかりと欠落してしまう。だから本書では幸福に至る道のひとつは、第1の経験に立ち返るために、時に第2の経験から離れて──ようは、社会からいったん離れるなり目線を離すなりして「客観視」することによって、第1の経験である自分の感覚に立ち戻ることが重要なんだという話になる。

また、著者の本業である物語創作についてもこの4つの経験で説明すれば第2や第4の経験を第1の経験に直していく作業だとたとえられる。たとえたからなんだ、と思うかもしれないが、理屈を理解し事象をより細かく解剖していくことでより捉えやすくなる、応用範囲が広がるといった利点は大きい。

偶然と必然を区別するのは難しい

偶然に満ちたこの世界を人はどう生きるべきかを問いかけていく本書ではあるが、偶然と必然を区別するのは難しいものだ。偶然を必然と思い込んでしまうこともあれば、必然を偶然と思い込んでしまうこともある。本書にも「自分には歯医者は学力的に無理だ…」と諦めてしまった知人の話が紹介されているが、歯医者になる為の大学にはそこまで入るのが難しくない場所もあり、そうした知識がないと「知らないという偶然」が「歯医者にはなれないという必然」に変わってしまう。

世の中には変えることのできる物事と、変えられない物事がある。たとえば小説家になりたくて賞に応募するけど落ち続け、自分には才能がないんだ……と落ち込む。場合によっては書くことをやめてしまうかもしれない。しかし実際には作品は広く認められるだけの価値がありながらも、さまざまな偶然に左右されて落とされている……というのは無数にきく話だ(それも、後に成功した例だけだが)。「応募する先がまずい」のかもしれないし、たんに「運が悪い」のかもしれないし、本当に価値がないのかもしれない。ようするに、現実はそんなに見極めがつきやすくはできていない。

生まれた時代、生まれた時の遺伝子、家庭環境、人生のスタートからして偶然に左右されていて、我々はいつだって偶然を生きるしかない。いったいなにが変えられる物事で、何が変えられない物事なのかを教えてくれる神様は存在しないし、本書もその区別をつけてくれる一冊ではありえない。しかし少なくとも人生があらゆる偶然に満ちたものであることを教え、最低限の手ほどきを施してくれる一冊ではある。

おわりに

とまあ、冲方丁ファン以外が読んでもなかなかおもしろい本であると思う。度々『天地明察』などの時代小説が引き合いに出されたり、かつて挑戦していた文芸アシスタント制度についてなんで失敗したんだろう? と考察する部分などもあるのでファン的にも嬉しい。どちらにせよ冲方丁ファンは買うだろうが。

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

ロボットを通じて人間を知る──『アンドロイドは人間になれるか』

アンドロイドは人間になれるか (文春新書)

アンドロイドは人間になれるか (文春新書)

ロボット演劇、ロボット落語、機能を絞ることで達成目標を明確にしたロボットの数々など幅広い活動を通して研究を続けている石黒浩さんの最新著作(聞き書きだが)である。実績は凄いものの、著作自体は同じことの繰り返しで過去の物を読んできた場合はあまり有用でない場合も多く本書も例にもれずではある。

ただ、本書はこれまでの出来事と主張がわかりやすくまとまっているので石黒さんの著作をあまり読んだことがなければとりあえずこれを読んでおけばいいように思う。だいたい読んでいる人間ならば、まあこれもどうせ読むんだろう(僕のように)。

「心があるように見えている」ロボットの話

石黒さんがやってきたことの偉大な達成の一つは、「こころ」とは何かをプログラミングから導き出してしまうのではなく、まずは人間っぽい「かたち」、身振りや手触りといったところから肉体的な人間をつくってみせたところだろう。たとえば代表的な活動の一つであるアンドロイド演劇で顕著である。演劇に使われるアンドロイドは、一目でそれとわかる外見をしている。それでも、脚本に合わせ、役者と会話をしているように見せかけ、といったことを一つ一つやっていくと、「まるで心があるように見える」というより、「心がそこにあると思ってしまう」のが人間なのだ。

他にも、「心を見いだしてしまう」パターンは幾つもある。特定の語句や刺激に対してさまざまな反応を返す、それ自体はたくさんプログラムを仕込んだだけのロボットがいたとする。もちろんいくつかであれば単なるロボットなのだが、複雑な動作や反応パターンを仕組むと、プログラムした人間にも予期しない動きをするようになる。そうすると、著者らがミーティングしているときに「そうではないよ」といって、手をぶらぶらさせながらどこかへ向かって歩き出す、ということが起こりえる。

 僕はそのとき確信した。「心とは、観察する側の問題」である。

これまでもそのような検証を行った人はいたが、石黒さんはロボット演劇をやり、自身そっくりのジェミノイドを作って実際に遠隔操作し講演などもやってみせ、名人芸を永久保存しようと、動きや話の間を出来る限り高度にコピーした人間国宝の落語家三代目桂米朝アンドロイドまでつくり、とその活動は徹底して幅が広く間違いなく各種分野で第一人者といえる。米朝アンドロイドの凄いところは、映像や文字だけでは残せないものが現実に実体として残せるかもしれないところだ。その場の空気、身振りを三次元的に観察することができるようになる。後進の育成にも役立つだろう。

石黒さんのもとには、文楽などから芸をロボットに残してくれというお願いがくるのだという。補助金が削られいまのうちに芸をコピーしておかないと後継者もおらず貴重な伝統芸が後世に残らなくなる危惧を抱えている。『型さえあれば「修行しながら覚えよう」という人が出てきたときの手本になり、仮にそうした継承者がいなくなっても、僕らは在りし日の文楽を楽しうことができる。』というのは「味気ない」と反発する人もいそうだが、文化的な意味は大きい。

このような、「ロボットの具体的な活用事例」は既に枚挙にいとまがなく、アンドロイドを使って会議に出る、警備や会場誘導などの仕事は人間が外せない部分は遠隔操作で行い、ルールが決まりきった巡回や案内などは自動で行うなどなど。10年20年といった単位で世界の光景は一変している可能性を十分に感じさせる。

行動そのもののプログラム

ここまではだいたい「心があるように見えている」ロボットの話であったが、石黒さんの最近の活動としてきちんと自発的な欲求と意図を設定されたロボットをつくっているのだという。これが実現すれば非常に面白い──たとえば我々は腹が減ったら何か食べたいと思って飯をつくったり買いにでかけたりといった欲求に行動が従っているわけだが、つまるところそうした「欲求」から「意図」を発し「動作」に繋げることを自発的に行えるように成れば、かなり人間──というか動物っぽくなるだろう。

「腹が減った」という欲求をプログラミングして、その解決方法が充電器に戻るという規定のワンアクションだったらルンバと大差がない。場合によって、米を炊く、買いにいく、皿を用意する、といった大欲求に貢献するサブアクションを行えるようでなければならない。ゲームのAIなんかはこれに近いことをやっているようにも思うが、それだってオブジェクトが全て規定され名前がつけられている世界での話なので、現実で臨機応変にこのレベルまで持っていくのはけっこうたいへんだ。これに今、大層な金額を投入してとりかかっているそうである。

期待してその成果が発表されるのを待ちたい。

石黒さんの発想、思考は年がら年中ロボットについて考えているだけあって、SF作家といえどもなかなかこれを超えるのは難しいだろうというレベルで緻密かつ最先鋭のものだ。あまりに進んでいるので、読んでいて「それはどうなんだろう」と思うこともあるかもしれないが、むしろそれぐらい違和感がある物の方が、読む価値があるものなのだと僕は思う。というわけで、まあどうぞ。

「使命」ではなく職業的作家の「仕事」として──『作家の収支』

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家・森博嗣さんによる作家業における全体の収支を明かした一冊になる。そもそも、いくら儲かりましたぜげへへみたいな金儲けの話は品がないものだが、特にクリエイター系の職業だと忌避される傾向がある。個人的な推察だけど、ようは人気商売というか、ある種の幻想を売って買ってもらう仕事なので金にまつわる現実的な部分は白けさせる可能性があり、忌避されるのかもしれない。最近はライターや作家、翻訳家でも金の話をしてくれる人も増えているような気がするけれども。togetter.com
森博嗣さんは継続的に本を出し続け、近年はアニメ化、ドラマ化が続く「売れている」方の作家であることから、「自慢の本か」「作家全体ががっぽがっぽ儲かる職業だと思われる」なんていう非難があるのではないかと推測するが、あくまでも「収支」の話である。原稿料がいくらで、印税率がいくらで、解説を引き受けたらいくらで、ドラマ化された時の著作権使用料がいくらで、映像化された時に増えた部数がいくらか──といったことを実体験を例にあげているだけだ。

金の話をするのは恥ずかしいことでも何でもないというか、それがなければ人生設計も環境設計も、それどころか「目標にするかどうか」すらわからないはずだ。それを専業にしろ兼業にしろ仕事にしようとするのであればなおさらの話である。『どちらかといえば、格好の良いことではない。黙っている方が文化的にも美しいだろう、と理解している。ただ、誰も書かないのならば、知りたい人のために語るのは、職業作家としての「仕事」だと思った。「使命」と書かないのは、正直だからである。』

「どうだ凄いだろう」と言っているわけでもなければ、「作家ってのは儲かって儲かってマジで困るわ」と言っているわけではない(条件良く儲かる(自分は)とは言っているが)。ただ、基本的には狭い出版業界とはいえどこもかしこもが同じ慣習や伝統やシステムに則ってやっているわけではないので、ここに書かれていることが全てだと思わないことは注意しておくべきだろう。たとえば『小説雑誌などでは、原稿用紙1枚に対して、4000円〜6000円の原稿料が支払われる。』という記述なども、この範囲に収まらない金額(下も上も)が存在することが推定される。

前提と注意事項

前提になっているのは、著者本人の状況でもある「100万部を超えるミリオンセラーがなくても、そこそこ本が売れれば条件のいい商売としてやっていける」という様々な情報にある。その流れで様々な儲け方があることが紹介されていくわけであるが、圧倒的執筆速度(とクォリティ)を継続的に発揮できる超人の話である。たとえば『6000文字というのは、原稿用紙にして約20枚なので、1枚5000円の原稿料だと、この執筆労働は、時給10万円になる。』との記述をみて「作家は凄い儲かるんだな! やったー!!」と思うのは勝手だが自分の実力は冷静に捉えたほうがいい。

面白さ

本書の面白さは、収支一点に絞った為に、「意外と作家ってのは儲ける手段がたくさんあるんだな」というところがわかるところだろう。もちろん小さなレーベルで編集者一人に切るか切られるかみたいなギリギリにいる作家には夢のまた夢のような儲け方(ドラマアニメ化、スポンサー付き小説、パチンコ化)が多いが、現代においては正直、出版社に投稿をして──というだけの時代でもなくなっていることを考えると、とりえる手段は意外とたくさんあることに気がつく効用は大きい。

コンスタントに、ターゲットを絞って書き続けられるのであれば、やりようはいくらでもある。それはたとえば既にプロであっても同じで、自分のサイトで配信すれば印税率100パーセントなので紙の本(印税率10%)と比較して10分の1の売上でも同じ利益が見込める。小説はそうやってサイトで配信して、作業風景や状況などを配信するメルマガ会員制のモデルなども考えられるだろう。

「編集者の仕事を軽視しているのか」と思うかもしれないが、何も編集者を抜かせといっているわけではなく、作家☓編集者☓デザイナ☓広報担当ぐらいの4人チームで出してもいいわけである。やり方なんかいくらでもあるのだ、という端的な事実が、作家の収支の広い部分を見渡すことが見えてくるのではないかと思う。本書にはそのあたりの「これからの出版」を語った章もあり、これがなかなか面白い。

まあ、でも「コンスタントに」書き続けるってことが、実際はいろいろと難しいんだろうなと思う。そんなに執筆速度が出ない(1年に1冊分がやっととか)の人と、1年に4冊ぐらいは出せる人だと、その差がそのまま収入の差に直結してしまう。さらに出し続けることのメリットは過去の作品(シリーズだとなおさら。これも直接的な続き物だと厳しいが)がまた売上を伸ばすことになるのでなおさらだ。

さて、それ以外の話でいえば──細かい部分で面白い話はいくらでもあって、たとえばコカコーラから依頼を受けて書いた小説の、印税とはまた別の契約料が凄い金額だったとか、そのへんは読んで確かめてもらいたい。

最近は村上春樹さんも『職業としての小説家』(金の話ではなくほとんどは技術的な部分の話だが)なんかを出していたりする。内容が重複する部分もあるが、作家業について別側面から書いたものとしては『小説家という職業』もどうぞ

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

小説家という職業 (集英社新書)

小説家という職業 (集英社新書)

職業がもたらす特殊な習慣や傾向──『作家という病』

作家という病 (講談社現代新書)

作家という病 (講談社現代新書)

長年新潮社に勤め、文芸、文学界で編集者として活躍してきた校條剛さんが放つ作品ではなくエピソード集/作家評論のような本である。21人もの作家についての思い出がたり。遠藤周作などの著名な作家もいれば、今となってはあまり知られていない作家も含めて、人柄や当時自身が体験した、見聞きしたエピソードなどを展開していく。もちろんそれが単なる思い出の羅列であるわけではなく、それぞれが作家で居続ける為に、不可避的に発生してしまうような「作家としての業」を抉りだすような構成になっている。

 作家であるということは、ある恍惚感を伴う。そうでなければ、一字ずつ文字を刻んでゆく地味で厳しい仕事を続けていけるわけがない。その恍惚感がまた次の作業の原動力となり、作家であり続けるために、自然と自らに常人の感覚から外れた習慣や義務を課することになる。作家という職業がもたらした特殊な習慣や傾向、それを、「作家という病」と名づけてみよう。作家であることの「業」と呼んでもいい。

割と赤裸々に迷惑をかけられた話だとか、私情の部分にまで立ち入っているのだが(女性関係とか)、取り上げられている作家は本書出版時点で全員亡くなっている方なので、少なくとも本人が怒鳴りこんでくることはない。まだ今よりも「文壇」みたいな独特な世界観が成立していた時代の話も多く、今読むとなんだかファンタジックな感すらあるのだけど、「こんなエピソードは、本人が生きてたらまあ明かせないだろうなあ」みたいなものも多く、下世話だが面白く思ってしまう。

作家の病とはいっても、実際には他のどんな職業であっても○○の病はあるのであろう。本書でも、著者自身のエピソードとして、妻を失った作家へとその件をエッセイにしてくれないかと頼みたかったが、さすがに配慮して一週間寝かしておいたら別の編集に依頼されてしまったことをあげ「編集者の病」としている。その職業における特別な「こだわり」とでもいうべきものがあるからこそ、人からはなにか病的な、異常なものとして表出してしまうのかもしれない。

面白いのは、21人もの作家がいるが全員亡くなっているので、その死に様まで含めて「完結した人生」としての論になっているところだ。女遊びを繰り返した挙句最後は妻の元で亡くなった渡辺淳一。目が見えなくなる予兆を感じ、「断筆し、住まいも引き払い、社会生活を終了します。」と手紙に書いてまったくその足取りを誰にも辿らせないまま忽然と消えてみせた多島斗志之。記者として、作家として、そして映画監督としてと三足の草鞋をはきながらがむしゃらに働いていたが突如心筋梗塞で亡くなってしまった伴野朗など、まるで短い伝記のように、様々な人生を追体験していくことができる。

めくるめく文壇ワールド

最初の方でちょっと書いたけれども、「文壇」世界観がまだ色濃く残っている時代の話が多く、たとえば芥川賞・直木賞のような文学賞に並々ならぬ熱意をかける作家のエピソードなど今とは事情が違う部分なんじゃないかなあと思いながら読んでいた。

たとえば、直木賞や芥川賞をとるかとらぬかで生涯の収入が億単位で変わってくるなどという記述もあるが、今はもうそんなことないんじゃないかなあ。いやもちろん僕は内部情報(部数とか、印税率とか)を何も持っていないから、感覚的なものでしかないけれども。実際、又吉さん『火花』以外でここ2〜3年で芥川賞をとった作家と作品を言える人がどれぐらいいるだろうか。

 私は三十数年の文芸編集者としての立場から、直木賞に頭を焼かれてしまった小説家を何人も見てきた。担当編集者や編集長が二十人、三十人と会場に集まり、選考会の途中経過を聞き、選考会の結果を待つ雰囲気は特別なものがある。たいていは、落選となるのだが、その瞬間の作家の落胆ぶりは見ていられないほどであった。屈辱で顔を真っ赤にした候補者もいたし、酒肴をそのままにひとり去って行った候補作家もいた。それから、一、二年のうちに受賞に至る作家はいいが、一度見せられた餌を期待して、五年、十年と待ち続ける作家の姿は悲惨とさえ言えるかもしれない。

その場で感情をあらわにしてショックを受けるだけならまだマシで、そのまま書けなくなってしまったり、読者の評価といったことを完全に度外視して直木賞や芥川賞をとることだけを創作の目標としてしまうとまたなかなか面倒なことになってくる。賞の栄誉、名誉、権威に目が眩んで狂っていくのも、作家の病のうちの一つなのだろう。通常であれば「恥」に属するようなこの種のエピソードも、本書では赤裸々に語られていく。

この文壇ワールドの一例として含めてしまってもいいのかどうかちとわからないのだけど、推理作家である山村美紗さんのエピソードは常軌を逸していてなかなかいい。当時西村京太郎さんとコンビを組んで、二人の原稿を手にするには(どちらか片方ということはなく、セットだったようだ)幾つかの儀式を超えなくてはならなかったという。ホテルを使って大々的に行われる新年会、それから二人の誕生日の中間をとった8月に行われる誕生日会への出席がその儀式である。

でもその儀式で行われる福引大会は毎度総額1千万にもなろうかという豪華景品があったそうだから、なんていうか「文壇ワールド」というかこれはバブルエピソードなのかもしれない。他にも表紙に山村美紗の名前を他の作家と同じ扱いで入れたらなぜもっと扱いを大きくしないのかとキレられたエピソードなどわがままっぷりは枚挙にいとまがない。

作家評論的側面

僕は最初、そういった過去の作家とのかかわり合いの中でのエピソードを羅列していくだけの本なのかと思っていたのだが、編集として各作家と長い間行動を共にしたり、作品を継続的に読んできたからこそ可能な、その「人間そのもの」と「作品」を絡み合わせたような洞察の文章/評論になっている文章も多くあり、作家評論としての側面からも本書は評価され得るだろう。

たとえば都筑道夫さんが翻訳家であり編集者であり作家であり評論家であったことをさして『翻訳者として海外の作品で勉強した理屈から入るので、評論的構造になり、それをさらに、編集者としての眼から見直す。つまり、都筑は小説を書いていても、内部に翻訳者と評論家と編集者を住まわせているから、自然とクールで人工的な色調が文字面を覆う。』と論じている箇所などは「4つの顔を持つ」と言われる都筑道夫さんの顔を1つにまとまげてみせている。

終わりに

エピソード自体は10年以上前の物がほとんどだが、やはり人柄、人格的な部分からくる難しさは現代においても変わらず存在するものなのだろうと思う。面倒くさいことを言ってくる人もいれば、ビシッと仕事を完璧にこなしてくれる人もいるのだろう。遅筆で逃げる人もいれば素直に謝る人もいて、自分の扱いが特別視されていないことに怒ったり賞がとれないことに悩む作家もいるはずだ。

そうした一人一人を相手に、まったく異なる対応方法をとりながら踏み込んでいかなければいけないのだから編集の仕事も大変である。本書を読んでいてしきりと「ぼくにゃあ編集者はつとまらんなあ」と感心してしまった。本書はその困難な仕事を、人生の大半を費やしてやってきた校條剛さんだからこそ書ける骨太な作家伝記録になっている。

(面白さ)の研究 世界観エンタメはなぜブームを生むのか (角川新書) by 都留泰作

面白さというのは基本的には主観的なものであり、「何が面白くて」「何が面白く無いのか」と分類するのは脳科学的な研究でもなければ随分難しいことだ。プロット等の構造的な部分については、受け手側の体験から切り離してある程度穴などをチェックできるから、修正や定式化もある程度可能だが、それ以外の部分になるとどうだろうか? というわけでこの手の「面白さの研究」などと謳う本はろくでもない本であることが珍しくないが、本書はなかなかおもしろかった。

ただ防御が甘く、「いや、その言い切りはおかしいでしょ」とか「その論はこじつけでしょ」とか「「気がする」とかいう雑な感想が多すぎでしょ」といった残念な部分が多いが、議題や考えを発展させるネタ元としての価値が高いように思う。

(面白さ)の研究  世界観エンタメはなぜブームを生むのか (角川新書)

(面白さ)の研究 世界観エンタメはなぜブームを生むのか (角川新書)

幾つか基本的な情報の提供から始めると、著者の都留泰作さんは文化人類学の学者にして(今は京都精華大学マンガ学部准教授)、アフタヌーンで四季賞を受賞し漫画を連載している漫画家でもある。作品としては全6巻の『ナチュン』や現在連載中の『ムシヌユン』など。本書は書名にあるとおりに、「面白さとはなにか」「それはどのような時に受け手に伝わるのか」を「世界観」から見ていく本だ。

著者が漫画家だからといって扱う対象は漫画に留まらない。『ロード・オブ・ザ・リング』や『スター・ウォーズ』『となりのトトロ』等の宮﨑駿アニメを筆頭に、上橋菜穂子作品から『踊る大捜査線』『半沢直樹』と物語系エンターテイメント作品全般を「世界観」という切り口でみていく。

世界観エンタメ

面白いと思ったのは「世界観」に注目している部分。ストーリーやキャラクターを分析する本はたくさんあるけど、世界観を語る言質ってあんまりないんじゃない? というあたりを基盤にしている。『問題は、「人間」に焦点を合わせたドラマツルギーの「面白さ」について語る言葉は氾濫しているのに、「世界」をどう「面白く」語るか、ということを真面目に考えている人はまだあまりいないというところにあると思う。』実際には世界観を語る言質は結構あると思うんだけど(この前出た荒木飛呂彦さんの物語論でも語られている)それに注力して語った本は、確かに(僕は)読んだことないな。

空間や時間、人間社会といった世界を構築する要素を一つ一つ取り上げ、作品ごとに分析を行っていく。空間の章ではまずスター・ウォーズが取り上げられているが、『ガチで、非日常の宇宙に観客を上手く誘い込み、ヒットへと導いた特撮ものとしては、『スター・ウォーズ』がおそらくワン・アンド・オンリーであろう。』などといって最初から大いに不安を煽ってくれる(スタートレック……)。

それはそれとして、よくスター・ウォーズ成功の秘訣として語られるプロットの神話的な構造とは別に、あの多様な異種族文化が混在し、宇宙を宇宙として描くというよりかは「見ていて気持ちのよい宇宙空間にしてしまう」作法は独自の世界観構築で作品の魅力に直結しているというのはなるほどなと思わされる。

 タトゥイーンから離れて、一般化して考えると、『スター・ウォーズ』空間は、ルーカスの想像力によって宇宙のスケールに拡散され巨大化した地球そのものである。総面積にすれば、地球の何億倍にもなるだろう。登場人物は、我々が飛行機や船を使って地球上のあらゆるところを旅行できるように、架空の宇宙船を駆ることで宇宙を旅行できるのだ。映画を見ていると、『スター・ウォーズ』の宇宙は、真空どころか、空気が充満しており、摂氏二〇度くらいで快適なのだろう、という気がしてくる。これは無意識的に、アポロ計画に見られるようなシビアな現実の宇宙旅行ではなく、我々のリゾート的な世界旅行のイメージをかき立てられるためである。これこそがルーカスの構想する「音のする宇宙」の正体だ。

上橋菜穂子作品や宮﨑駿作品

他にも著者と同じく元々文化人類学者である上橋菜穂子さんが、作品を描く時に「私の場合、物語は、ある場面から生まれてきます」と語ることから作品内における「世界の匂い、食事、手触り、光の当たり具合」までも書き込まれた世界観を例にあげたりと「世界観構築」そのものが重視された作品の分析が続いていく。

その筆頭として扱われているのが、宮﨑駿作品だ。たとえば『となりのトトロ』の世界観について語った部分では、宮﨑駿さんがトトロ作成当時中尾佐助さんの「照葉樹林文化論」にハマっていたことが関係して(実際、おおいに励まされたとの記述が多数あるらしい)結果、トトロの日本描写に徹底的な植生描写が持ち込まれるようになったのだろうと話は展開する。

たしかに何も知らずにトトロを語り始めると、『となりのトトロ』においてまず目をみはるのはあの古きよき日本的な風景に、自然と違和感でしかないトトロが調和している姿だ──と言いたくなってしまうが、その「古き良き日本的な風景って、なに?」といわれると、「なんかそんなかんじよ」としか言いようがなかった。『となりのトトロ』を懐かしくしたのは「植物」だと言われるとそうかもしれないと思ってしまう。

 宮崎は「日本の土俗性や、その内側に僕たちをひきずりこむ重力を嫌悪し、そこから観客を遠ざけたいと考えた。そこで、これまで意識はされていたが、当たり前過ぎて逆に無視されてきた、「日本らしい」植生を用いて、日本の風景をニュートラルに、だが劇画化には逃げずに徹底して本物らしく描き出した。このことの校歌は絶大で、日本の田舎がイメージとして付着させてきた土臭いローカルな雰囲気を、魔法のように消し去った。宮崎は、『トトロ』において、無国籍化した、どこにもありそうでどこにもない、懐かしささえ感じさせる新たなふるさとのイメージ、要するにある一つの「人間的現実」を生み出したのである。

ちと行き過ぎな部分

ただ、ちと行き過ぎだなと思う部分もある。トトロ語りの締めの部分である

つまりは、「異世界」としての「日本の田舎」を創造することによって、宮崎は国民的作家になりえたのだった。

とか、その要素があったことは否定しないが、そこまで話を広げる意味ある? と疑問に思ってしまう。こうしたちょくちょく「それは議論を拡張させすぎでわ」というところがあるので、手放しに褒めることができない。またこの後は時間間隔と社会空間についての話が始まるのだが、そこはもっとあやふやな話が展開する。千と千尋の神隠しとくらべてハウルが時間間隔として劣っている点として、チャージという言葉で説明しているのだがこれとか意味がよくわからないし(僕の理解力がないのかもしれないが)。

『ハウル』でも似たような「チャージ」を施そうとしている形跡が感じられるのだが、なんとなく「燃料不足」の印象を受けるのだ。

と殆ど説明なくいわれてもこっちからしたら「なんとなく」とか「燃料不足」とかなんのことを言っているのか理解不能だ。もっと酷いものとしては

僕の印象では、この『千と千尋』と『ハウル』の興行収入のスケールの違いは、時間間隔の違いによってもたらされているような感じがしてならない。

時間間隔がハウルはなってないからつまらないぐらいならわからないでもないが、ろくに説明もないままにそれを興行収入の話に繋げるのは理解不能。「なんとなく」とか「感じがしてならない」とか、要するに感想レベルの話だ。まあ僕は千と千尋の神隠しもハウルの動く城も観たことがないから意味がわからないだけかもしれない。というかそもそも家にテレビがなかったし今もないから、宮﨑駿アニメってほとんど観たことがないんだけど。それは余談だった。

まとめ

一部分を切り取ってみせたに過ぎないが(批判部分も一部分を切り取ったものだけだから、気になるようなら読んで判断してほしい)世界観それ自体を正面から取り扱って見せていて、行き過ぎな部分はあれど楽しく読んだ。世界観エンタメについても著者からの明確な定義が与えられており、それはそこそこ使い勝手のよさそうな考え方でもある。『世界観エンタメ。それは、擬似的に「住める世界」「住みたい世界」を与えることにより、繰り返しの消費に耐えることができる。非常に耐久性の高いエンタメを現代社会に提供するものなのだ。』

もちろんわざわざ「世界観エンタメ」なんてくくらなくてもいいのかもしれない。「世界観エンタメ」と「非世界観エンタメ」の境目はどこにあるの? と聞かれても困ってしまう。ただこのあと語られていくワンピースや進撃の巨人など、「世界観の魅力」それ自体に注目して見るのは、面白いね、っていう単純な話。シナリオの粗を探し、修正を加えるスクリプトドクターという存在がいるけれども、世界観全体の構築を行う世界観コーディネーターみたいな存在がいてもいいのかもしれない(実際にそういう役職が作品に使われているのも何作品か観たことがあるけれども、あまり一般的じゃないように思う)。