基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

マインド・クァンチャ - The Mind Quencher by 森博嗣

マインド・クァンチャ - The Mind Quencher

マインド・クァンチャ - The Mind Quencher

桜の表紙だ。書影ではいまいちピンとこないかもしれないが本として手にとって見ると驚くほど美しい。季節がめぐって、新しい年の始まりを感じさせる鮮やかな風景。本書『マインド・クァンチャ - The Mind Quencher』は森博嗣さんによるヴォイド・シェイパシリーズの第五巻目の作品である。番号が振ってあるわけではないし話はそれぞれそれなりに一区切りついているから別にどこから読み始めても問題ない。

当初の予定では三作の予定で、結果的に五作になったのは三作分の内容を三作に収めきれなかったということなのだろう。当初予定していた内容は本作で終わり、と書かれている。『シリーズ5作めです。当初予定していたストーリィはここまででしたので、これでシリーズ完結としても良いと思っています。次も書くかどうかは、まだ決めていません。』*1一読しての感想は、「この先があるのなら、観てみたい」、でもここで終わるのは完璧すぎるぐらいに美しい、というもの。

読み終えた時はあまりにものめり込んで、世界に入り込んで読んでいたのでそのまま現実にうまくもどってこれずにふわふわとしていたものだ。それぐらい素晴らしい結末で、読んでいる間現実の自分が消失していた。どこかでシリーズの総評を書こうかとも思うが……ひとまずはこの『マインド・クァンチャ』に的を絞っていったん書いておこう。現時点では前巻について書いたこの記事がシリーズ総評的によくまとまっているんで未読の人は参照されたし。
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一言でいえば考える侍が数々の敵と斬り合いを行いながら強さについて自問し、都を目指す物語である。ゼン(主人公)は、人間関係といえば師匠のじーさんと自分だけの空っぽな存在だった。師匠の死を契機として人里に降りていくことで、そこに人間関係特有のルールがある事を知り、市井の人間と関係を作り上げていく。人里に降りて強敵と斬り合いを経ていくうちに、ゼンは「強いとはなにか」について自分なりの考えを深めていくが、本作『マインド・クァンチャ』で、彼は欠けていたピースをまさに欠けることによって手に入れることになる。

ドラマツルギー的にはひどくわかりやすい物語・シリーズであったといえる。目的地は明確に示されており(都)、その過程でまだ未熟だった侍が様々な困難と出会いを通じて「強いとはなにか」のテーマについて考え、そして技術面でも実際に強くなっていく。この世界における彼の役割もだんだんと明らかにされ、物語はより大きなイベントへとつながっていく──、だからこの最終巻に至っても、ドラマ的な意味での「意外性」みたいなものはあまりなかった。彼が強くなるために「欠けていた」ピース、必要とされる要素自体も、物語の速い段階から明かされていたのだから、(その方法はともあれ)、まあそうなるよな、と思ったものだった。

それでも尋常じゃないほど面白いのは、プロットというよりかは表現の部分に特質性があるからだ。まるで異国の人間が、日本を放浪しているかのような「外部からの視点」を持ったゼンという侍の目線は、時代物を観るときの我々現代人の視点でもある。いつだって人々の間には多くの奇妙な風習と思い込みがある。それを当人らは何も不思議とは思わずに受け入れているが、そうした常識を持たない山から降りてきた人間からはおかしな共同幻想を信じているようにしか見えない。しかしいったん枠から外れてみてみると奇妙な風習を持っている状況こそが人間社会のルール、デフォルトの状態だともいえる。

ゼンは強さとはなにか、どうしたら自分が斬られずに相手を斬ることができるのかについてよく考えるが、その思考の奔流と実際に敵と斬り合っている時の研ぎ澄まされテンポ良く転換していく思考の描写は対照的だ。平時はあーでもないこーでもないと思考を重ねるがいざ戦闘に入れば文章の区切りは早く、刹那的な相手の動きと自分の動きに神経と描写は集中してほかは削ぎ落とされている。こうしたプロットにのっかった表現の部分が我々を惹きつけてやまない。特にこの第五巻巻にあっては──ゼンが「強くなった」、ある種の極みに達したことが明確に文章表現上でわかるようになっているのが凄い。

たとえば、剣の使い手が強くなっていくのをどう表現するのか、というのは表現者としては誰しも悩む部分だろう。わかりやすいのは、昔は勝てなかった相手に勝たせてやることだ。そうすれば読者は「ああ、強くなったんだな」というのはわかる。しかし、描写として強さを表現するにはどうしたらいいのだろうか。漫画やアニメだったら、立ち振舞などの絵でそれを表現できるかもしれない。俳優ならそれはより簡単だろう。より情報量がしぼられる文字では、その難易度もさらに上がる。文章が得意とするのは立ち振舞よりも思考の流れを表現する部分だろう。それは、他の媒体では難しい部分だ。

その特性を、本シリーズでは思考をしきりに描写することで表現し、活かしてきた。ところが戦闘中に考えるのは同時に、ゼンが飛躍的に強くなることの出来ない枷のひとつでもあった。思考しているということは、それだけ時間がかかっていることでもある。思考をすれば、相手にその行動の起こりを読まれることにもつながる。自分があるから、それを守ろうとする意識も生まれてしまう。自分を完全に捨て去ること、忘れ去ること、思考を脳内から排除すること──ついに本作では、この点を表現として見事に昇華させてみせた。ゼンの成長が、「単により強い敵を倒す」だけでなく、文章表現として「ああ、ゼンは本当の意味で強くなったんだ」というのが理解できる形で。

シンプルながらも本作が完全性を備えているように感じられるのは、こうした表現上の極みへの到達と、テーマ的な頂点=強さとはなにかへの答えに辿り着くこと、最強の敵との死合、「旅」としての側面である都の到達というあらゆる要素がここで結実するように仕組まれていることもあるのだろう。神技を見たような思いだ。

ちなみに本書の引用本であるところのドナルド・キーン氏による『能・文楽・歌舞伎』は、外側の視点(ただし日本文化にはどっぷり)から能の紹介を行っている興味深い一冊で、単に色物ではなく能にのめり込み、文章表現上の類まれな才能を持った人間だけが出せるようなウマさのある本だ。本シリーズは一貫して引用文は、英文と日本文の表記を行なうことで外からの視点を意識して取り入れてきているように思うが、ドナルド・キーン氏はまさにその要素の体現者の一人である。
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能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫) by ドナルド・キーン

能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫)

能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫)

森博嗣さんの小説『マインド・クァンチャ』の引用本。この小説シリーズは、武士道、葉隠、茶の本など日本人によって書かれた古典的な日本文化(主に武道系)の内容が多かったから『能・文楽・歌舞伎』が引用本に選ばれていたのは多少意外に思った。けれどもよく考えて見れば引用が常に英文とセットで書かれていたりする「日本の時代物を外からの視点で捉える」というかなり広めの距離をとった時代小説の書き方の読み味は、このドナルド・キーンさんによる外部からの日本の超ローカルな伝統芸能への視点と重なるものがある。

能、文楽、歌舞伎と日本でも今や好んで見る人も少なくなってしまった芸能だ。僕も、まったくみたことがないのだが、それでも本書の半分を占める能についての文章は驚くほど面白かった。もちろん、なんの前提知識もなく、興味もないままに連れて行かれたらつまらないだろうと思う。しかしこうしてその裏側に流れている長い歴史と、能における面の役割、儀式的な役割、宗教との繋がり、そうした幅広い「背景」まで含めてこうして紹介されていくと(そういう本なのだ)、俄然興味が湧いてくる。その特異性と、どこまでも日本的なローカル性に。

ドナルド・キーン氏によれば日本の演劇の特異性の一つは、演劇の伝統が一度も途絶えたことがないことにある。たとえばギリシャ悲劇の場合、日本の演劇よりも歴史は古い。古いが、その歴史は一度完全に途絶え、ルネッサンスの時代に復活した時に、それが果たして元のやり方かどうか誰もわからなかった。原文はわかっても、舞台での動きや音楽は伝統が切れたために曖昧なのだ。一方で日本の場合、昔のままとはいえないだろうけれども、それが全盛を保っていた時代から現在に至るまで、いつもどこかで能が上演されていた。歴史が持続し、変更を加えながらもその流れを保っているのである。

彼が日本に留学した時(1953年)には、能の衰退が予言されていたのだという。「若い人たちはこんな舞台劇を好まない」などといって。しかしそうではなかった。『それどころか、能は今では世界の能になりました。』能はアメリカ公演(いずれも盛況だったようだ)など、世界へと愛好者を広げ、演劇や舞台芸術に興味を持つ一部の好事家を中心に人気を博した。日本人の大多数は当然ながら能をよく見るわけではないが、その代わりといっていいのか、世界でも類をみないほど「超ローカルな」伝統を携えた舞台芸術の希少性と、それだけの年月を生き残ってきた、「普遍性に」世界に少しずつでも魅せられる人がいるということなのだろう。

日本の伝統芸能といっても殆ど現代の我々からすれば無関係なものである。だからこそ外部からの視点で、海外の人間に紹介する為に書かれている距離をとった文章の視点の方がむしろよく同調することができるのかもしれない。無論、ドナルド・キーン氏の描写が卓越していることはある。能や文楽といったものは、本式に楽しめるようになるにはある程度の準備が必要だが、その前提となる知識を驚くほど生き生きと、歴史とその変転を含めて描き切ってくれる。

数ある舞台芸術の中でも観客に最も多くを求めるのがおそらく能であろう。詞は中世の詞であるのみならず、さらにそれ以前の古典からの引用にも満ちているために、たとえ極めて明確な発音で謳われたとしてもなおかつ分かりにくい。能楽師は写実的で芝居がかった表現を一切拒絶する。そして、観客の方も能面から見え隠れする、たるんだ顎の年配の能楽師がよろめく足取りと震える声で美しい少女を演じても不思議とも思わず、また、子方が勇敢な武士に扮して悪霊に立ち向かい、甲高いその声でおののく味方の者たちに向かって怖れることはないと諭し励ます場面でも失笑を漏らす者もいない。見栄えのしない顔をした能楽師たちも能面をつけることによって神や美しい女と思えるようになり、この点では現実的な色合いを帯びるが、変わることのない静の表情が怒りを湛えたものか、それともむせび泣く様子か、あるいは宿命に身をまかせたものなのかは見る者の眼によって変わるだろう。そして、能の魅力は決して知識人やその道の通といった審美化だけに訴えるものではなく、多くの観客を涙に誘い、忘れがたい痛切な思いを残すのである。

面にも意味があり、一つ一つの立ち振舞にも伝統がある。1400年、1800年、1900年に2000年とだんだん歴史をたどって、足利義満と能の関わり、豊臣秀吉と能、歴史上の偉人たちとも含めて話題が尽きないのはなんというか簡単に時間スケールを越えていく面白さがある。もちろん文学など、文字で書かれたものはその何倍もの時間を生き残っているわけであるが、舞台芸術はその瞬間の芸能であり、当時と今で全く変わらないものを受け取れるわけではないから、シームレスに繋がっているのは不思議な感じがする。本書を読む前に能や文楽に誘われていたらなんの葛藤もなく断っていただろうが、今では喜び勇んでいくだろう。本ってのは一歩も動かないままに興味範囲を広げてくれる効果があるから素晴らしいものだ。

長年続いてきた舞台芸術だからこそ、なんというかそこにはあらゆる芸術が直面するであろう数多くの「教訓」みたいなものが含まれているように思う。観客の質(目が肥えているからこそ、演者のモチベーションに繋がる)と演者の両輪の関係など、いろんなものに応用できる話でもある。古くさい、表面的には現代の価値観にそぐわないように思える内容が逆に広がって少数ながらもファンを世界に獲得している構造それ自体に学ぶところも多い。何よりドナルド・キーン氏の、ニューヨーク生まれでありながら日本演劇に魅せられ、のめり込んで興奮していく熱狂が伝わってくる、良い一冊だ。

暗闇・キッス・それだけで Only the Darkness or Her Kiss by 森博嗣

スマートで面白かった。『ゾラ・一撃・さようなら』という作品と登場人物も時系列的にも連続しているが、どちらから読んでも特に問題はない。個人的にはこっちの方が好きだな。題材的にもキャラクタ的にも惹かれる要素が多い。

お話を最初に簡単に説明しておこう。主人公は探偵かつ、過去に有名人の殺人事件に巻き込まれそのことに関連した本を出して、ベストセラ作家となった。今作ではその実績を買われ、世界的に有名なソフトウェア会社を設立しもんのすげー金を持っている社長のところに自伝を書くために呼び寄せられることになる。主人公はなかなか気難しい人間で、やる気はサラサラないのだが仕事に対して手を抜くということもしないのでせっせと大富豪ソフトウェア会社社長のことを根堀り葉堀り聞いていくうちにだんだんとその家庭に潜む暗部を暴きだしていってしまう……。『「話してもらえませんか。もし書くなと言われるなら、僕は書きません。でも、貴方のことを知らなければ、貴方という人間を信じなければ、本なんか書けませんよ。そういうものです。」*1

ホーギー&ルルシリーズとの共通性

かつて『ゾラ・一撃・さようなら』を読んだときは(読んでいなかったから)気が付かなかったんだけれども、このシリーズって設定がデイヴィッド・ハンドラーのホーギー&ルルシリーズに大きく寄せられているんですよね。たとえばホーギーは小説家で、ただしゴーストライターとして有名人の自伝や伝記を書く仕事をいくつもこなしている。しかしホーギーが有名なハリウッドの関係者やコメディアンの元にいくとその徹底的にその人間性を掘り下げていくやり方のか、はたまたただ単に運が悪いのか必ず残酷な殺人事件に発展して巻き込まれていってしまう……。

『暗闇・キッス・それだけで』の導入と同じだ。あとホーギーは別れた妻であり一流の女優でもあるメリリーとくっついたり離れたり、またくっつきそうになったりと付かず離れずの距離を取りながら事件ごとにその関係性を変化させていくのだけど、このシリーズもほとんど同様に女優の元彼女とそういう関係性にある笑 ただこっちは小説家ではなく探偵だし、元カノは女優とはいっても売れない女優で今は出版社に雇われている。ま、いろいろ共通しているところはあるけれど基本的には別物だと思ってもいいだろう。でもホーギー&ルルシリーズ、すごく面白いから、この作品を気に入った人はおすすめ。台詞もシチュエーションの創り方もめちゃくちゃかっこよくて暗記するぐらい読み込んだりした。

人物の面白さ

主人公が自伝を書くためにおもむくのは大富豪ウィリアム・ベックだがこの人物の書き方が独特で面白い。ソフトウェアでの企業、それも有能なイノベーターということで才気に溢れ合理性の固まりのような男として書かれている。金持ちで立場も権力もある人間だけに派手に浮気をして歩いているかといえばそんなこともなく、家族仲も良好。その説明についてもまあ、たとえが明快でなかなかしっくり、くすりとくる感じ。

「サリィは素晴らしいパートなんだ。私は、彼女を愛している。三十年も一緒に暮らしているんだ。こんなに長続きするオペレーション・システムはない」
「細かいバージョンアップがあったのですね?」
「それは、そのとおり、お互いにそうだね。いつも、修正して、パッチを当てる。そういうものだろう? でも、最も大事なことは、最初の基本設計だ。なんだって、そうだ。人間もそう。修正ができるということが、重要な性能なんだ。わかるかい?」

なかなか素敵な切り返しじゃあないか。大金持ちだが、自分の金を社会に還元する機会を常に探していて、その為の勉強も怠らない。ビル・ゲイツなんかもそうだけど、ああいう人達は莫大な金を持っているから社会に対して自分の良いと思う場所に寄付を行おうとする。でも「どこに金を送るのが本当に正しいのか」という見極めがけっこう大変なんだよね。だからビル・ゲイツがおすすめする本とかのラインナップも「貧困を本当の意味で解決するのはどこか」みたいな分析の本が多い。アフリカのGDP計算なんかは杜撰で間違いだらけで、物凄い貧困層のたんまりいる国家かとおもいきや実は計算が間違っていただけで何倍かの総資産をみな持っていた、みたいな話がざらにあるわけで、資金提供側としてはその辺のことはダマされないようにしっかりと把握しなければならない。

そうか、じゃあすべてにおいて合理的で素晴らしい人間なんだな、ちゃんちゃんとはならない。莫大な金があり、能力があるのだから家庭生活に問題が皆無というわけではない。そんなこといったら金があろうがなかろうが家庭生活に問題がないわけがないともいえるだろうが。物凄い金や権威というのは、そうした問題を時として増幅させてしまうものである。本作では主人公が現場にやってきて以降、物事が大きく動き出していってしまうが、個人の意志と自由を尊重し約束を重んじるウィリアム・ベックやその周囲の理性的な人間の間でちょこっとずつ亀裂がうまれ、理性的な人間の過去の隠したい出来事が明るみに出て行く過程が面白い。物語を大いに盛り上げる裏の顔というほどの劇的なものではないが、だがその慎み深さがある意味ではリアリティとなっているようにも思う。

恋愛物としての側面

さきに書いたとおり主人公は元カノの女優に惚れ込んでおりできればなんとかしてヨリを戻したいなあと思っているわけだが、これがなかなかうまくいかない。今回の仕事にも同行してくれているが、気があるようなないような。二人共三十代半ばを超え、どちらも結婚するには良い歳である。いまさらうぶな恋愛をするような年齢でもない。人生において、未来の可能性もだんだん決まってきて、さあどのあたりにソフトランディングしようかとでもいう気分。主人公はわりあい思い切りが悪く、こっちが金銭的価値を産み出せるようになったことをかんがみて、結婚対象として賭けのフィールドにあがったのではないか……どうかなあ……と葛藤している。基本、一途に愛を抱えている不器用なおっさんなのだ。仕事をうけたのも、彼女との接点ができるからという理由でしかない。

ただ引用したなかなかの切り返しからもわかる通りバカではないし、台詞にはいちいちセンスがある。常に発言にはどこかしら毒が含まれていたり、相手の深いところへ切り込んでいく鋭さもある。それと同時に精神的にタフネスな男というわけでもなく、基本的に打たれ弱いしウジウジしていたり弱い面も抱えている。スーパーヒーローというわけではないのだから、これぐらいの弱さを抱えている方が人間的には共感ができるのだろう。読んでいるうちにこの微妙なぼんくらっぷりに同情心が湧いてくる。気むずかしい男が女優に翻弄されながら事件に巻き込まれていく様は哀れを誘うが、良い関係性だと思う。

全体的にスマートな出来かつ、メイン二人の関係性もここにきて劇的な変化をうけて面白くなったきた作品でした。うーんしかしこうなってくるともっと何冊も続きが読みたいなあ。ホーギー&ルルシリーズみたいに何冊も続けて、キャラクタ間の関係性をどんどん変化させて揺さぶりをかけていってもらいたいものである。毎度さまざまな有名人の元へおもむいて、普段接することのない人間の生態を描いていくのもシリーズとして読んでみたいし。座して待つ。

暗闇・キッス・それだけで Only the Darkness or Her Kiss

暗闇・キッス・それだけで Only the Darkness or Her Kiss

*1:p215

つぼねのカトリーヌ The cream of the notes 3 (講談社文庫) by 森博嗣

今までさんざん森博嗣さんのエッセイシリーズにはいろいろ書いてきているので今更何か書くことがあるのかと言われれば別にないのだが。⇒つぶやきのクリーム the cream of the notes - 基本読書 つぼやきのテリーヌ The cream of the notes 2 (講談社文庫) by 森博嗣 - 基本読書 それでもやはり毎度毎度違うことが書いてあるし、従って読めば普段刺激されないようなところが刺激されるし、何よりこれを書いている僕の側が定期的に出版されるこのエッセイシリーズを読む度に変化しているので、その変化を定点観測する為にも書いておきたいと思う。健康診断のようなものだろう。

このシリーズを一度も読んだことがない人向けに解説を入れておくと、英題に3と入っている物の別に話題が連続しているわけでもないのでここから読み始めても何の問題もない。多少時事ネタのようなものがあったりするから、新しいものを読んだ方がおぼろげに元ネタの存在に思いを馳せられるかもしれないが、大きな影響があるわけではもちろんない。

そして何の本かといえば、エッセイである。エッセイの一般的な定義は知らないが、科学的な考察というわけではなく、日常的なことについて思ったこと、考えたことを100の小見出しで、1つにつき2頁で語っていく。トイレ掃除について語るときもあれば、部屋の掃除について語るときもあり、落ち葉を拾うことについて書くこともある。掃除ばっかりじゃねえかと思うかもしれないが、選挙についても書くし消費税についても書くしデフレについても書くし、そうかと思ったら突然自己紹介をはじめたりする。

そこがエッセイの醍醐味ともいえるが、ワンテーマ決めてそれについてつらつら語っていくものと比べると、大変自由である。たとえば先月森博嗣さんは孤独の価値 (幻冬舎新書) by 森博嗣 - 基本読書 で孤独について一冊書いているが、この『つぼねのカトリーヌ』にも『一人で遊べる人は寂しいとは感じない。』の項で通底するものを書いている。2ページで本一冊のエッセンスが凝縮されているので、個人的には一冊長々と書かれているものよりこうして複数アイディアを次々と繰り出してくるエッセイの方に価値を感じる。

しかし人はこうしたエッセイを何の為に読むのだろうか。もちろんそれは「価値がある」と思っているから読むのだろうが、その価値とは実際どこにあるのか。僕の場合それは普段目をやらない方向へ目を向けるきっかけ、疑問も持たずにスルーしていたことへ、再度疑いの目を向ける為に価値を見出しているというあたりに落ち着くのだろう。なにしろ僕らは普段生活している中で我々はたくさんのイベントに遭遇して、疑問を感じることもあれば肯定を感じることもあるだろうし、何か考えの発端となることもあるし、そしてその何千倍も何も考えずに通りすぎている。

それぞれみんな自分の積んできた経験や知識、何よりどこに目を向けるかの差が存在している。建築の専門家なら散歩している時に家を見るかもしれないし、気象予報士だったら天気を見るかもしれない。毎日庭掃除をしている人は庭の変化になんらかの法則性や、普遍可能な事実を見出すかもしれない。他人が日々の生活の中から物を見て、そこから発想を汲み上げ普遍性のある形として抽象的に考えることは、僕からすればどれも新鮮なもので、今まで目を向けてこなかった方、疑問にも思っていなかった場所へ疑問の目を向けるきっかけになる。

このシリーズはまるで日記のように定期的に出ているし、重複している部分も多い。が、毎回新しい方向へ目を向けるきっかけになっている。がしっと腰を据えて取り組むような本ではないが、お菓子でも食べ、コーヒーでも飲みながらきばらしに読むのはこれほど適した本もない。それはこの本の価値だろうと思う。

解説について

こっから完全に蛇足だが解説について。そう、この本文庫書き下ろしだからいきなり解説がついているのだ。そして解説は土屋賢二さんである。哲学者として知られるが、何冊も出しているエッセイは自分を極端に卑下していくスタイルが目立つ。そもそも文章自体が常識をあらゆる角度からぶん殴って破壊していくようなもので何を語ろうが面白くなるように書いている。森博嗣さんとは過去に対談本も出していて、こっちは森博嗣さんが真面目に答えることを強引に笑いに変えていく力技が凄い。⇒人間は考えるFになる - 基本読書

 森  恨みというのも人間関係ですね、確かに。人間関係のもつれというのは、人間関係を求めるから起こるんです。
土屋  それはそうですけど、会社に就職したり結婚したりすると、どうしても人間関係ができてしまうわけですね。で、人間関係ができると、必ずもつれる(笑)。誰でも殺意を抱く瞬間があると思います。
 森  僕はあまりないですけど。
土屋  ないですか。じゃ、他人から抱かれてますよ、殺意(笑)。*1

そんなこと言ったら問題になるんじゃないかと読んでいるこっちがはらはらするようなブローを平然と放ってくる。森博嗣さんの対談は珍しいからたぶんほとんど読んでいると思うのだけど、超越者的な立ち位置を示す森博嗣さんに対してここまで地面に引きずりおとすような言動ができるのは土屋賢二さんしかいないだろう(萩尾望都対談の時の森博嗣さんはファンのようになっているが)。この本の解説でもその力はまったく衰えていないことがわかって嬉しかった(楽しかった)。衰えていないどころか、さらにその先のレベルに到達しているといってもいいぐらいで、あんまりにもびっくりしたからここに雑感を書き残しておこうと思ったのだ。

先に書いたように土屋賢二さんは時々自分を物凄く卑下して、逆に凄い人間をとことんまで立ててその落差で笑いをとっていく方法をとることがある。本書の解説もまさにそのパターンなのだが、もうとにかく森博嗣さんの立て方がお世辞を通り越して強烈な嫌味にまで昇華されており(もともとそうだったが、さらに洗練されている)逆に自分の卑下の仕方もさらに徹底的になっていてもうそれが的を射ているか射ていないかを別としてたいへんに笑える。嫌味と自己卑下をここまで爽快に笑いに変えられる人間がかつていただろうか(いや、いない)。

このクリティカルヒット部分はぜひ引用したいと思うが肝の部分なのでしない。土屋賢二さんには、もうこの道をどこまでも突っ走ってもらいたいものだ。

つぼねのカトリーヌ The cream of the notes 3 (講談社文庫)

つぼねのカトリーヌ The cream of the notes 3 (講談社文庫)

*1:『人間は考えるFになる』より引用

孤独の価値 (幻冬舎新書) by 森博嗣

思考を自由にするために、思考をする。この『孤独の価値』を読んでいて、森博嗣さんがここ何年か出している新書群を一言で言い表すなら、こういう表現が良いのではないかと思った。たとえば昨年出版された「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書) - 基本読書 は、仕事にやりがいを見出すこと、楽しく働くことがあるべき姿のように吹聴されており、それを真に受けて現実の自分とのギャップに苦しんでいる人がいるが、仕事は本来辛いもので生きるため=金を稼ぐための手段でしかないからそう割り切るのも一つの考え方だという「押し付けられた幻想」を打ち壊すための「思考」について語っている。

本書はこの例にのっとっていえば、孤独、寂しさを感じることは一般的には「悪いもの」とする風潮があるが、それは本当かと問いなおす一冊だ。孤独とは何なのか、寂しいと感じるのは何か不利益をもたらしているのか? そして孤独でいることには、大きな利益も産むのではないだろうか? こうしたことを一つ一つ考えていくことで、我々は「寂しさを感じるのは悪いことだ」とする思考の枷を外すことが出来るかもしれない。それは「孤独に生きろ」「いろいろな人と付き合うことをやめろ」ということではない。ただあえて孤独と呼ばれるような環境・心境に身を置くことが絶対的に悪とされる選択肢ではなく、価値のあることだと意識するだけでも、生き方のルートは大きく広がっていくだろうとする考え方の拡張だ。

もちろんこのような思考の枷、「こうでなければならない」「こう感じなければならない」とする、自分で自分を縛り付ける思い込みは孤独や仕事に限らない。世の中に溢れている情報、たとえば広告なんかはその最たるものだが、広告をうつ側が自分の望む側に、見た人を誘導したい場合である。情報というものは本質的にそのような、発信者が望む方向へ読者・視聴者を誘導する性質があり、我々は常にそうした「他人が強制してくる思い込み」にさらされているとも言える。たとえば漫画やアニメ、小説、ドラマなどエンターテイメント系の作品では「一人ぼっちは寂しいことだ」「だから友達をつくらなければならない」「一人ぼっちの子を仲間に引き入れてやるのはいいことだ」「大勢で何かを成し遂げるのは素晴らしい」というような単純な価値観で溢れている。

確かに人間は基本的に群れをつくる生き物で、襲われず、集まることそれ自体に価値があった(ある)ことは確かだ。だからこそ仲間がいないこと、仲間を失うことを本能的に寂しいと感じる。が、現代においては我々は別に一人っきりでいたからといって命が危険にさらされるわけではないし(特に都市部では)理性的な部分で考えると一人でいることを否定する要素はないように思える。極端な例かもしれないけれど、本能として性欲は生殖行動を求めているわけだけれども、そうした本能に振り回されて性欲対象をレイプし始めるわけではない。自分なりの理性にしたがってそれを処理していくわけで、孤独も本能に根ざすものであったとしても理性(思考)で対処・利用することが出来るはずだ。

というわけで、考えてみる。寂しいと何か悪いことが起こるのか? と。寂しいことは寂しいことであり、それはとても嫌な状態だから悪いことだというかもしれないが、でも別に腹が壊れるわけでもない。まあ、精神的に不調になる場合もあるだろうし、焦りで何も手につかなくなってしまうなんてこともあるかもしれない。それはしかし、考え方によって変えられないものなのだろうか? また一人でいることは実はめちゃくちゃ楽しいことなのではないか? たとえば僕は一人が大好きな人間で、大学に入った時は「これで四年間誰とも会話しないですむ!」と思って本当に嬉しかったし、卒業して会社に入った後もずっと一人になりたくて、結果的に辞め、家で誰とも会わず、会話もしないで仕事ができる環境を整えた。

一人でいれば自分の好きな時にトイレにいけるし、突然歌いだそうと思えば歌い出せるし、犬を撫でたいと思えば撫でられ、ニコニコ動画がみたいと思えばみれ、本を読みたいと思えばすぐに読める。ようは法律に違反していなかったり他人に迷惑をかけなければ、自分がしたいことを何も考えずにできるのであって、そこには他者からの制約が一切ない。自分の好きなことをいくらでもできる(たとえば僕で言えば本を読んで文章を書き続けられる)ので、めちゃくちゃ幸せだ。もちろんたまに誰かと会話をするのは良い息抜きになるけれど、なくたって構わないものでしかない。誰もが僕のように一人っきりでいること、客観的にみれば孤独な環境に身を置くことに価値を見出すとは思わないが、そのような生き方もあるのである。

つまり、寂しいことは本能的な部分を別にすれば何も悪いことなどない。むしろ、いいことさえある。現代はつながりっぱなしの時代といわれるほど、ツイッタやFacebookのようなSNS、LINEやらSkypeでいつでもどこでも人とやりとりが出来てしまうが、むしろそれだけに誰とも接続されていない時間、一人っきりでいる時間の重要性も浮き彫りになってきているのだろうし、求められているとも感じる(たとえば現在大人気のライトノベル『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』も、そうした孤独の肯定という側面を持っている。)。

本書はここからさらに「孤独であるからこそ発揮されるもの」があると続いていく。たとえば小説は一人でつくるものだし、漫画だってアシスタントを使う前段階、ネームの段階では個人作業だ。アニメも集団作業だがその元となるのは脚本・絵コンテといった個人作業の集積である。孤独から生産されるものというのは意外と多い。創作は孤独に通じているようだ。あえて孤独に身を置くことは本能を思考で制御する、人間性そのものにも通じる価値のある行為であるともいえる。

孤独を受け入れるために。創造と孤独

だが、そんなこと言われたって寂しいもんは寂しい、思考の枷を外そうとか言ってることはわかっても、無理です! という人向けに、孤独を受け入れるためのもう少し具体的な手法についても本書は最後の方で触れている。森博嗣さんの新書においてこの辺の具体的な親切さみたいなのは過去にあまり読んだことがなかったような気がするので驚いたけれども、まあ、創作だったり、研究だったり、あえて無駄なことをするなどいろいろ述べられている。

あえて付け足すことがあるとすれば、日記でも何でもいいから「書く」ことだと個人的には思う。それはブログでも個人的な日記でもいい。でも誰も読んでくれないし……といっても、PVや読者が現代にいるかなんていうのはあまり関係のないことだ。文章というのは、時と場所を超えるもので、いつか、これを、誰かが読むかもしれないと思って書くだけで、たとえ現在時点において自分の周りに誰一人いなかったとしても、そこには他者性が生まれえるのである。これはたぶん「書く」ことだけではなく、創作全般に通じることだともいえることなのだろう。だからこそ孤独を受け入れることと創作には深いレベルでの繋がりがある。

そもそも何を隠そう僕がこのブログを書き始めたのが、神林長平先生(SF作家)が書いた『膚の下』という作品の、下記の一節に触れて、いてもたってもいられなくなったからだった。神林長平 膚の下 - 基本読書*1

「なにもしない」と慧慈は言った。「互いに寂しいことに気づいた。実加もわたしも。それだけだ。読み書きができるようになれば、実加の寂しさを埋められるとわたしは思って、それを習うことを勧めたんだ。あの子はおそろしく孤独だった。それを彼女は自覚したんだろう。わたしも、自分の身の上は実加以上に孤独だと思った。無人の地球で独りで死んでいくんだ。その前に殺されるかもしれない。でも実加は、わたしが死んでも、わたしの日記を、火星から戻ってくる二百五十年後に読んでやる、だから寂しくない、とわたしに言ったんだ。実加が本当にわたしの日記を読むかどうかなど、そんなことはどうでもいい。わたしは彼女から生きている実感を与えられたんだ。実加のような人間がいる限り、わたしは孤独ではない。初めての経験だった」──膚の下

これを読んだ時に、自分が孤独だ、寂しいと感じていたのかは思いだせない。が、とにかく自分も何かを創らなければならない、創らないにしても、何かを書き記さねばならないと思ったのは確かだ。まったく悩まずにブログをつくって、ブログ名を考える時間も面倒くさかったから最初に思いついたシンプルな『基本読書』をつけて、小説もなにも書いたことがなかったからとりあえずこの衝撃を書き留めねばならぬと思い、有無をいわさず書き始めた。この『膚の下』という小説がどれだけ僕にとって衝撃的な本だったかはとても語り尽くせるものではない。しかし『膚の下』の書評を書く為に衝動的に始めたこのブログが、八年もの時が経ってもいまだに熱量を落とさずに更新され続けているだけでも、多少は僕が受けた衝撃が伝わるのではないだろうか。

一応小説の補足を入れておくと、慧慈は人間に創られた人造人間(アートルーパー)で、地球から逃げ火星へ移住する人間とは別に地球に残って任務を果たすことになっている。人間に創られた存在がはじめて自立的に考え、行動していくことになるとはいったいどういうことなのかを「創造」という主題を中心に据え語っていく本作において、孤独と寂しさ、またそれを打ち消すものとしての書くこと・創造することが提示されている。読み書きができない少女に読み書きを教えることで、孤独を知らなかったアートルーパーが孤独を知る。しかし同時に、彼女が自分の書いた日記を将来読んでくれるかもしれないと「仮定」することで、彼は深く安心するのである。

なんだか『孤独の価値』のレビューというよりかは『膚の下』のレビューのようにもなってしまったが、孤独において考えるにあたっては必読の一冊だろう(膚の下がじゃなくて、孤独の価値が)。そして森博嗣さんの本を読む価値はテーマとされている部分について考えるだけでなく、思考の枷を外す為にはどうやって考え、疑ったらいいのであろうかといった部分への理解につながるところにある。表層のテーマだけにとらわれず、より抽象的に読むこと、応用可能性のある題材、思考の骨格として読むことで、価値は飛躍的に高まっていくだろう。

孤独の価値 (幻冬舎新書)

孤独の価値 (幻冬舎新書)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚(はだえ)の下〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

膚の下 (下)

膚の下 (下)

*1:このブログの、一番最初に書かれた記事。はてなブログ上では最初の記事ではないが、それは移転した時に適当に記事を並べたからである

サイタ×サイタ (講談社ノベルス) by 森博嗣

Xシリーズ最新刊。レトロでシンプル。今回はあらすじだけを読むと、なかなか飛ばしているというか派手な感じ。なにしろ連続で発火現象を起こす危うい奴が街にいるのだからなんだかもうそれだけで危ない。爆弾ではなくたんに発火現象を起こしているだけだから、実質的な被害としては特にそう多くはないのだけれども、世間的にいえば発火も爆発もそう大差ないのだから大いに盛り上がることになる。

対するいつものメンバー、小川に真鍋、永田に鷹知はそれぞれ依頼を受けて、なんだか頭がよさ気な男を尾行し、張り込みをして監視することになる。そうしたらそいつがなかなか怪しい奴で……どうなっちゃうんだー!? シンプルさにおいて、Xシリーズの中では今作が一番好きかもしれないな。なんてことのない依頼から一転、普通に仕事をしているつもりがどんどんきな臭い雰囲気の大きな山につながっていくようなノリが良い。まっとうな探偵物のあるべき姿のようなイメージだ。

そして延々と無駄話をしながら張り込みを続ける4人の微妙な距離感がまた良い。4人で張り込みをするわけではないので、2人ペアの交代制になるわけだけれども、小川&真鍋ペアなら問題なくともその場合永田&鷹知ペアになったり、もしくは真鍋&鷹知ペアで探るようなトークが繰り広げられたり。ようはあんまりペアにならない同士がペアになった時が、会話のトーンが一変してなかなか面白いのだ。人間と人間がいるとなぜだかわからないけれどコミュニケーションしたほうがいいような気になるのはなぜなんだろう。無言でも特に問題ないはずなのだが、何か話したほうがいいような気がしてくる。

あとは尾行・張り込みという地味な……いってみればついていって、何か動きがあるまで待機しているだけなので、それ以外何も描写することもなさそうな作業の描写も興味深かった。いやまあほとんど喋っているだけなんだけど。あーでもないこーでもないと事件についての可能性を語っているだけで面白い人間の意見なのだけど。喋っている部分以外でいえば、詳しくは書かないけれどもふぅーんこうやって尾行をするんだなーと、これが実際かどうかもわからないけれども感心してしまった。まあ尾行も張り込みも、そんなにパターンがあるわけではないから誰がやったってバリエーションは出ないんじゃないかなと思いますけどね。

ミステリにおいて「この探偵の助手になりたい」とか思ったことは一度もないけれども、このXシリーズのメンバーとは一緒に張り込みや美術品の記録取りみたいな仕事をしてみたいなあという自然さがある。何が何でも成し遂げなければいけないという気負いもないが、かといってまったくもってやる気がないわけでもない。仕事だからやっているけど、特に上司が現場で見張っているわけでもないからそこそこ自由にやれている、そんなノリがいいのかもしれない。Vシリーズの面々が住んでいる場所で一室借りたいかどうかと考えたこともあるが、あのメンツはキャラクタが濃すぎて、いるだけでひどいめに会いそうなので迷うところである。でも麻雀はしたい。

Xシリーズの中でこの作品を特に好きだと思うのは事件の複雑性と、そこになんらかの理屈をつけていこうとするバランスの良さだ。事件が起こる、解決するためにはそれが確かにAによってBが起きたという証拠を抑えるしかなく、逆にそこさえ抑えておけば事件はいったんは終結するものだ。起こしていたものが排除されたのだからもう起こらないという理屈である。しかしそこにいったいどんな作用が働いていたのか? 化学的なプロセスで発火現象が起こるのとはまた違ったプロセスがあり、余人には窺い知れないし当人にだってわからないものだ。真鍋くんも小川さんもあーでもないこーでもないと言い合って、最終的にそれっぽい、個人的な納得を胸に自分の中でケリをつけていく。

本作は特別目立つ、爆弾魔や殺人事件のインパクトある題材を扱いながらも作中ではオフビートで進行し、淡々と普通の人間達の不可解さを暴いていくようなシンプルさがある。人それぞれ、何十年も生きていれば人間関係があり、根の深い問題もあり、歴史がある。そうした複雑に絡み合った人間の歴史と積み重なったものからくる行動としての発露は明快な結論や理解に落ち着くものではない。かといって本作はそれが「ぜんぜんりかいできませーん」ともやもやが残るような、放り出したような書き方ではなく、「普通の人間の不可解さ」を理解できるものとしてではなく、不可解なものを不可解なものとして書く──そんな秀逸なバランス感覚の元、組み立てられるのが凄まじいと思った。

サイタ×サイタ (講談社ノベルス)

サイタ×サイタ (講談社ノベルス)

ユリイカ 2014年11月号 特集=森 博嗣 -『すべてがFになる』『スカイ・クロラ』から『MORI LOG ACADEMY』まで・・・クラフトマンの機知

『すべてがFになる』ドラマ化に合わせて、ユリイカが森博嗣さん特集だった。森博嗣さん当人へのメールインタビュー、清涼院流水さんと杉江松恋さんの対談、萩尾望都さん、山田章博さん、コジマケンさん、浅田寅ヲさん、スズキユカさんのイラストエッセイがあるとなれば当然ながら買わないはずがない。それ以外にも、森博嗣さんの膨大な仕事、エッセイや工作系、日記シリーズまで含めたものを点検していくような内容になっていて、インタビュー以外もなかなかの満足度だ。『すべてがFになる』のドラマはまだ見られておらず、ファンからは厳しい声も飛んでいるようだが、まあこういう特集が組まれるようになるだけでもいいじゃないかと思う。

メールインタビューなので、話の流れもなく事前に質問を作りこむことも出来るだろうと思う。それでも森博嗣さんとくれば大量のエッセイシリーズがあるわけで、良い質問を盛り込むのはなかなか容易ではない。どちらかといえばコア向けの内容が求められていることもあるだろうし、インタビュアーは大変だっただろうが、基本的に誠実に仕事をされていると思いました。雑誌、批評、詩とそれぞれテーマをしぼって質問をされて、それなりの分量答えていってくれるので振り返りとしても面白いですね。ほとんどはやはりどこかで語られていたりすることだったけれども、教育についてと小説を書いている時の意識の流れについて語っているところは面白かったな。

次に面白かったのが清涼院流水さんと杉江松恋さんの対談。最近あまり即座に表に出るような仕事をしていない(英訳プロジェクトなどの方に注力しているのだろうが)清涼院流水さんは昔からの森博嗣ファン(と友人)として、杉江松恋さんも初期からそのキャリアを追っている書評家の一人として、森博嗣さんが自身を語る以外、他者からの視点を持ち込んでいて面白かったです。森博嗣さんは基本的にはインタビューでもエッセイでも情報を統制し、制御し、与える印象を演出していく側面があるので、こうやって身近な人間からの現場の印象みたいなものは読んでいるとまた見え方が違って良い。

結果的には生の森博嗣像が見られるというか、猛烈な森博嗣ファンが森博嗣作品に対して楽しくおしゃべりしているといった感が強いわけですが。清涼院流水さんの読みなど、僕はいろいろと大いに異論のあるところでもあるけれど、まあそういうズレがあったほうが読んでいて刺激になったり気付きになる。スカイ・クロラやMORI LOG時代の話が多く、ヴォイド・シェイパや赤目姫の潮解のような最近の作品に触れられている部分が少なかったのがちょっと残念だったかな。一読者の目からするとヴォイド・シェイパシリーズと赤目姫の潮解は過去の作品を引き離して新たなステージに上がったぐらいに認識している凄い作品だったから。

現代社会は小説的リアリティの成立しない時代か?

ただ清涼院流水さんがヴォイド・シェイパについて語っていた中で面白かった部分もあって、彼がいうには現代社会は小説的リアリティの成立しない時代になっている、だからこそ意識したにせよまったくしていないにせよ、同時代的に村上春樹さんは1Q84を書いたし、村上龍さんは歌うクジラを書いたし、森博嗣さんはヴォイド・シェイパを書いたのだと。なぜ小説で現代を書けないのかといえば、ブログやTwitter、SNSのようなもの抜きでは現代社会は語れないのだが、Twitterのリアルタイム感やFacebookのつながっている感じを小説で出すのは不可能だからだという。

なんとなくわからんでもない。TwitterやFacebookのようなSNSのリアル感……SNS独特の文体とでもいうべきか。こういうものを小説の中でそれっぽく書いても「どうしてもウソっぽくなってしまう」のはわかる。また作品の中で自然と調和させるのも、特に小説では難しいだろう。何かあるたびに○○はTwittrerで「○○○」と書き込んだ、とか描写するわけにもいかんし。が、まあ結局それだってやりようによるんじゃないの、と思わんでもない。歴史物とSFばかりで現代小説を全く読んでいない僕はその反証例を出すことも出来ないのだが……。真っ先に思いつくSNS感を明確に作品構造に取り入れているのはシュタインズ・ゲートやロボティクス・ノーツのノベルゲーム分野で、ゲームシステムとして取り入れている物だしな。コレもアニメになるとすっかり面白味が失われちゃっている。アニメの場合はTwitterやブログのようなSNSを画面に映す演出(文字を読ませる)がやりにくいからというのもあるだろう。

もう一つ面白かったのは海外を見据えているという話。それは最初の引用部が日本語ではなく、英語で書かれている一事からも明らかだが、確かに本人の言葉として語られているとしっくりくる。

 もう一点は海外を見据えていらっしゃる。これはご本人からうかがったので間違いないんですが、「なぜああいうことをやられるんですか」とお尋ねしたときに、やっぱり本当に英語圏に通用するのはこういうものじゃないかというお話をされていました。それは実際の歴史に根付いた歴史小説である必要はなくて、いわゆる時代小説とか剣豪ものとか、外国人に受けるにはそういうものでいいわけですよ。

それ以外

さて……それ以外だが……1ページの漫画エッセイやよしもとばななさんのエッセイ以外はあんまり興味がなくて読んでいない……。いくつかぱらぱらっとめくった限りでは、飯田一史さんの『小説の印税で一〇億円以上稼いあと、森博嗣はエッセイで何を言っているのか。そしてそれ読んで正直どう思ったか』はSFマガジンなどでの気合の入った分析と比べると炭酸の抜けたコーラのようなもので、内容はどうでもいいのだが挑発的な部分が面白かった。

ま、ファンからすればインタビューや清涼院流水杉江松恋対談、関係漫画家陣の絵だけでも充分満足できるレベルだと思うし、ブックガイド的な側面でも全シリーズ紹介など最近読み始めた人にもそれなりにカバーされていると思う。

素直に生きる100の講義 by 森博嗣

100の様々な発想を元に、1発想につき見開き2ページで簡単なエッセイが書かれている本。100の講義シリーズの第三弾だ。ただ、内容につながりがあるわけでもないので別にこれから読んでも問題ない。

定期的に出るので森博嗣さんの日記のように読んでしまう。内容的には既に読んだことがあるようなものもあるけれど、何分こちらも状況が変化していくうちに以前は気にならなかったところに引っかかったり、ああ、これは応用できそうだなと思うところが出てくる。ほんの数年前までは学生だったが今は仕事をしているので、仕事関連の話はより前のめりで読むようになったし、プログラムも組むようになったのでプログラム系の話にはよく注意を払うようになった。結局コレは自分自身の環境の変化がそのまま興味というか動機へと繋がっているわけであって、無関係なものから抽象化し別の物事へ当てはめていないのだと少し残念になるけれど、でも否が応でも環境に左右されるものだよなとも思う。

しかし本書は物書き森博嗣が100のエッセイを書いたものだが、他にこういう形式の本を僕は見たことがない。僕は元々森博嗣作品ファンなので自然に手にとったけど、まったく情報がない状態からこの本を読む人がいるというのは驚きだ。何を求めて買うんだろう。僕は一応おすすめするような立場だと思うのだが、この本の何をおすすめしたらいいものなのかよくわからない。自分が初めて氏のエッセイを読んだときは、ずいぶんと驚いたものだ。わりとあんまり表立って言われることのないことを「ああ、すっきりいってくれたぞ」と思ったり、難しいことがまったくなく、理屈がスパっと書かれていたり、「そんな発想があるのか」といった物事への切り口を教えてもらったと思う。

もう何冊も氏のエッセイを読んできたせいで、最初の時の感動をすっかり忘れていた。文章で金を稼いでいるのだから当たり前なのだが、森博嗣さんの書く文章はやはり唯一無二だと思う。だから、たぶん今まで森博嗣エッセイを読んだことがない人ほど面白いと思うし、あんまり読んだことがなければもっと面白いだろう。特定分野、たとえば科学や文学といったジャンルに限ったエッセイでいえば、面白い物を書く人はいくらでもいる。でもこのようにノンジャンルなエッセイではいまだに僕の中では森博嗣さんのものが好きだなあ。一番かどうかはまた微妙だけど。

書いていること全部がもちろんストンと腑に落ちるわけでもなく、「うーんそうだろうか。どうもそうは思えないな」とどこが違うのか考えたりする。僕もさすがに森博嗣さんの膨大なエッセイ(日記含む)をほぼすべて読んできただけあって、発想の癖だとか、理屈の構築の仕方にはずいぶんと影響を受けている。「ああ、これはおんなじことを考えていたな」と思うこともあれば、同じようなことを考えていたことのまったく別側面について言及されていたりして、長年読んできたからこその面白さみたいなものもある。

なんというか、何十冊も一人の著者のエッセイを読むというのは、その人間を自分の中に取り込んでいく過程に等しいと思う。考え方の理屈や、論の構築の仕方は先ほど書いたように自分のものと混ざり合っていくのはもちろんだけど、それとは別に常に自分の中にもう一人別の考え方を持つ人間がいるようになるというか。僕は別に森博嗣さんにあったこともないし、小説やエッセイを読んでいるだけなのでそれで人格がまるまる構築できるとは思えないから、自分の中にいるそのもう一人の人格は完全に自分で作り上げた仮想のイメージではある。でもそうした仮想のイメージであっても、明確に分離された考えの軸が一本あるというのは、なかなか面白いことだ。

「思考」を育てる100の講義

「思考」を育てる100の講義

常識にとらわれない100の講義 (だいわ文庫)

常識にとらわれない100の講義 (だいわ文庫)

素直に生きる100の講義

素直に生きる100の講義

ムカシ×ムカシ (講談社ノベルス) by 森博嗣

 古くから続く血統、お金持ちのお屋敷、探偵事務所、連続殺人……古典的な道具立てを現代的な感性で解体していくXシリーズ最新刊がついに出た。6年半ぶり。中学生だった子が大学生になり、大学生だった子はとっくに卒業して院生かサラリーマンかニートか自営業者になり2年も働いてそろそろ仕事にもなれたなあとか言い出す期間が経ってしまった。その間僕は大学生からサラリーマンになり仕事を変えている。

 まあ随分期間があいたものだが、特に違和感もなくするっと物語に入っていくことができる。椙田、真鍋、小川といったおなじみの面々にあえるだけで嬉しいですね。そして毎度のことながら、今回もいろいろな要素が盛り込まれている。真鍋くんがなかなか危ない目にあったり(何がとはいわないが)、小川さんは小川さんで相変わらず感情豊か、椙田さんはVシリーズの頃からブレることがない。

 ネタバレせずに紹介するのはもうやめて、ここから中味について触れていっちゃいますよ。いくつかポイントをピックアップするなら、「価値とはなんなのか」だったり、何のために人を殺すのかだったり、あと単純に警察の有能さだたり……。一つの読みどころは、真鍋くんが永田さんに押されまくっているところだろうか。あれは読んでいて面白かった。

真鍋くん

 さあ、しかし実際に同じような体験に会ったわけではないけど、そう親しいと認識しているわけでもない相手に、非常識な時間に家まで押しかけられるというのは恐ろしいものがあると思う。なにしろ相手はこちらにそうそう好意を抱くとも、抱いているとも確信が持てない相手であり、23時近くにDVDを借りて、家にお泊りの連絡まで入れて着ているのだからまあ状況から考えてほぼそういう意味なんだろうかと思っても、怪しいこと極まりないしなかなかどうしようもないのではないか。

 「遅い時間に二人っきりになったら、あとは流れでお願いします」みたいな状況は、大学生以後ぐらいだとむしろ当たり前だとも思うが。今回のような例はさすがにちょっと突飛だったぶん裏を勘ぐってしまうような状況である(極端な話色仕掛けで脅されるんじゃないかみたいな)。とにかく人間間のやりとりというのは、相手の考えていることが100パーセント伝わるわけではない為に、読み合いが発生するものだ。

 ほとんどの場合は定型文や「常識的なやりとり」のような一般化されたプロトコルに沿って展開されるので、あまり深く考えることもなく大勢の人間とコミュニケートすることが出来る。その一般化されたコミュニケーション・プロトコルから離れた時に、何を考えてどう行動するのかは、個々人の個性の発揮しどころというか、小説を読んでいる時の一つの醍醐味ではあるよね。最後の小川さんと犯人が同じ部屋にいて感情が高まっていくところとかさ。

 しかし、真鍋くんと永田さんはお互いまんざらでもなさそうだし、S&Mシリーズから続くこの長大な世界観ではじめてまっとうに恋愛してくっついてしまいそうな気がするぞ。二人共ちょっと変だけど、でも普通だからなあ……。真鍋くんの戸惑いっぷりは面白かったが、次巻以後どうなるんだろう、気になる……。

警察は有能

 事件はあっさり解決されてしまった。なんかもう、どうせ警察が解決するんだろうなあ……と思っていたから、途中の捜査状況がこと細かく書かれているところとか真剣に読む気にならない。本当に罪を逃れたかったら絶対に警察を呼び寄せたり、ミステリとしてありそうな派手な事件にしたら絶対駄目なんだよね。警察に殺人事件だと認識された時点ですでにほぼアウト、さらに道具立てが派手だったりしたらヒントが残りすぎる。

 今回も事件が派手になった結果、あっという間に解決に。それ以前の問題で、一族を一人一人殺していったら犯人候補が狭すぎる。まあ、それは仕方がない。元よりバレずに逃げおおせようという思考もない状況下での事件だ。

何のために人を殺すのか?

 本文中で何度も「金の為に人なんか殺すかなあ?」という問答が繰り返される。実際、一昔前のミステリなら金が殺人の動機になることも多かったが、今ではもうそうした動機はリアリティがなくなっているだろう。ミステリに限らずハリウッド映画で大きな事件を起こす目的が金だったりすると「金が欲しくてそんなことするかあ?」と思ってしまう。ダークナイトでジョーカーのような悪役があそこまで鮮烈に描かれてしまうと特に。やっぱり今、リアリティのある動機となると個人的な思想ってのがいちばん「ありそう」になっちゃうな。あとは納得感が薄くても「恨みとかいろいろあってついうっかりやっちゃった」ってやつか。

名探偵なんて現実にいない

 作中にもあったけど、「大泥棒」と言われた人はいても「名探偵」なんて現実にはいないんだよね。あの会話は面白かった。ああ、たしかに、名探偵なんて言われる人は知るかぎりではいないなあ……。しかしいない存在がフィクションの中に描かれるというのは、ようはそれは人々の心のなかで望まれている存在だからこそで。

 ヒーローみたいなもので、人を惹きつける存在である名探偵をわざわざ排除している本作がそれでも読むに耐えうるエンターテイメント作品になっているとしたら、「名探偵」を使わずに、情況証拠やそこら辺の普通に起こりえる雑談をかきあつめて、謎を解体していくわけであって、それを自然に書いていけるところがやっぱり技術なのかなと思う。

何に価値があるのか

 「価値」をどこにおくのかというのが話の一つの軸になっている。たとえば女性は若いほうが「価値」があるとされる。だから歳をとってもなんだか不自然に若く見えた方がいい、若いですねということがお世辞になる。美人すぎる○○なんていうように、美人であることが既に技能のひとつであり、美人であることに加えて何らかのプラス要素があると相乗効果的に評価されるようになっている。

 もちろん、人間の価値は、それだけで決まるものではない。見た目とか、仕事とか、年収とか、もっといろんな評価軸があって、いろんな場面での価値がある。でも世間での評価を必要とする願いもあるわけであって、そこに合致しないというのはちょっときついよな、と思った。たとえばアナウンサになりたくても、ある程度以上容姿が整っていないと、やっぱり現実的に厳しい、となった時に、アナウンサになることが生きがいでずっとがんばってきたんです、という状況で「容姿がちょっと……」と否定されると、やっぱり「人生そのもの」を否定された気分になってしまうんだろうかな、とか。

 そういう人に向かって「いや、あなたの価値はそれだけではないし、もっと他に価値が有るのだ」といっても、やっぱりあんまり効果があるとも思えないな。価値をどう定義するのかにもよるしね。結局、言葉なんてなかなか肉体にまで作用しないからなあ、死にたいと思っている人の死にたさをどうにかするのは、難しい状況が多いように思う。それよりかは、たとえば犬だったり、猫だったりをぽっと周りにおくだとか、引っ越しをするだとか、そういう「状況を変える」ことの方が役に立つのではないだろうか。

 話がそれてよくわからなくなってしまったが。「価値」についていろいろ考えるところの多い話だったね。特に何か価値をめぐる明確な問題があるわけでもないから明快な答えが出てくるわけでもないけれども。昔ながらの道具立て、舞台を現代の(というか森博嗣さんの)リアリティで描いたらどうなるかが読みどころの一つだけど、本作もそれが遺憾なく発揮された一作だった(強引に締めた)。

侍という不思議な生き物『フォグ・ハイダ』 by 森博嗣

侍というのは不思議な生き物だとこの森博嗣さんによるヴォイド・シェイパシリーズを読んでいると思う。刀を持っている。刀の機能とは置物、芸術的価値を別にすれば、人を斬ることにある。人を斬る必要がある状況とは相手が自身にとって道を阻害するものである場合、危害を加えられそうな場合、それにより自分が利益を得られる場合、などなどが考えられる。

刀を日常的に持つ人間、立場である以上、何のために刀を持ち、何のために斬るのかということを自問せずにはいられないはずだ。斬らなくてもよい時代になったにも関わらず刀を持たねばならなかった武士たちはたぶんずいぶんと悩んだだろう。人を斬る道具を常に持ちながらそれを容易には使えないという立場に置かれているのだから、矛盾した不思議な存在にみえる。

この『フォグ・ハイダ』は森博嗣さんによる剣豪小説だ。これまでヴォイド・シェイパ - 基本読書 ブラッド・スクーパ - The Blood Scooper - 基本読書 スカル・ブレーカ - The Skull Breaker - 基本読書 と続いてきたシリーズの4作目ですがこれから読んでもOK。個人的なオススメは本作と『ブラッド・スクーパ』になる。裏設定の開示が控えめで物語の動きがよくわかるのがこの二作だからだ。

ストーリーの把握としては、森の中で剣の達人と二人、子供の時から修行してきた「ゼン」が、師の死に伴い下界に降りてきて、その剣の才能を発揮し、人間社会にひたり、剣の道や人間とは何か、また自分自身の出自に向き合っていく小説になる。もちろん斬り合いも随所で発生する。一言でいえばゼンは、考える侍だ。実に多くのことを考え続けている。

たとえば襲い掛かってくる盗賊に出くわしたとき本当に斬る必要があるのかと。もし斬る能力がなければ逃げることを考えるだろう。あるいはその方が生存率では高いかもしれない。しかしなまじっか斬る能力があるばかりに、無用に命を散らす選択肢をとってしまうことだってある。心得が何もなければ、逃げていて誰も死なずに済んだかもしれない。「金槌を持つ人にはすべてのものがクギに見える」、ように、能力があるのも、考えようだ。

しかし、斬り合いの中にも長年生き残ってきた人間の中には技術が蓄積される。一流の使い手の動きには、スポーツ選手の洗練された動きを見た時のような驚きが残されることだろう。しかしその驚き、洗練された動きとは斬り合い、命のかけあいの中にしか存在しないものであって、それをまた見たいと思うのであれば、死にたくなかったとしても自分から挑まなくてはいけないかもしれない。

人は生きるために斬るが、時に命を捨てる愚を犯してでも斬り合いに赴いていくことがあるというこの不思議。斬り合い、生死のやり取りの中にしか生まれ得ない生の喜びがあるのだということ。命よりも大事なことがある場合、人は命を捨てる選択肢が平気でとれるようになる。本作ではそれを示してくれる人がいる。命より大事なものだってあるのだ。

ゼンもまた「自分の身を守り活路を切り開くための剣の道が、かえって自分の命を危険に晒すことになる」という一見矛盾した自己のあり方に直面することになる。立ち会ったら死ぬかもしれない。しかし立ち会わねばあの煌めき、あの凄さをもう一度体感することはできないのだと。その矛盾した心の動きは、とても綺麗だ。

何のために戦うのか。剣の道を究めるとはどこへ向かうことなのか。その探求の道をゼンは歩んでいる。剣がある。それは人を殺す道具である。それならば人を殺さねばならないのか。別の道があるのか。どういう時が人を殺さねばならない時でどういう時は殺さずとも良いのか。空っぽの器だったゼンは着実にその中身を満たしていく。

この学習の過程が実に面白い。学習といってもそれはこうした問いかけの連続だけではなく、物をしっかりと身体に巻きつけている時に突然襲われたら身体が重くなって不利になるので荷物は即座に下せるように持っておこう、といった現実的な、実践として有効な気づきの数々でもある。ああ、ゼンは一戦一戦ごとに、生き延びるごとに、生き残る方向へ向けて最適化の道をたどっているのだなと思うのである。

本書の引用本(森博嗣さんの小説関連の著作では大抵章ごとに一冊の本から引用がとられる)は「五輪書」by宮本武蔵 だが、宮本武蔵もまた五輪書を読む限りではそうした実践哲学の人間であった。五輪書に書かれているのは、自身が何度も何度も生き延びてきたその人生において、一つ一つ実践でいかにして勝つか、それを理解していく過程と重なるものがある。武道について語っているはずなのに仏教や儒教の言葉でたとえていたりして抽象的すぎてよくわからない本が殆どだった当時、宮本武蔵のリアリスティックな考え方は異常だった。

五輪書には「こうだからこうするんだ」ということが直接的に書いてある。その目的は一点、「いかにして勝つか」である。世間体だとか、他人への配慮などをほどんど考えてこなかったゼンの思考は思いがけず宮本武蔵的な実践哲学の領域を追いかけている。そして五輪書の中ではこうも言っている。『又、世の間に、兵法の道を習ても、實のとき、役にハ立まじきとおもふ心あるべし。其儀におゐては、何時にても役に立様に稽古し、万事に至り、役に立様におしゆる事、是兵法の実の道也。』

簡単に現代語に直すならば兵法など習ったとしても実践では役に立つはずがないという心もある。が、どんな時にでも役に立つように稽古し、すべてのことについて役に立つように考えること、それが兵法の実の道なのである。刀を持つこと、いかにして勝つかを考えることが「役に立つか立たないか」なんて考えてねーでどんな時にでも役に立つようにすりゃあいいだろうがというお言葉である。これなどそのまま「剣の道は人を斬ることしかないのか」にたいする一つの返答でもあろう。兵法を学ぶにしても、それを戦に役立てるばかりでなく、別の場所へ役立てればよい。

斬り合いに至り、斬り合い時の思考を文章化する試み

実践的な動作のほかに、なぜ斬るのか、どんな時に斬るのか、何かほかに活かせる道がないのかとゼンが学んでいくこうした過程が面白いのは、なぜなんだろう。ゼロの状態から一個一個思考を積み重ねていってくれるので、まるで自分自身がこの時代に入り込んで、ゼンが強くなってゆく過程を、一から体験しているような一体感にとらわれるのかもしれない。

そして何よりも素晴らしいと思うのはこれが剣の達人同士が見合った時の言葉にできないレベルの力量の差とか、技能の差、身体の動かし方といった領域を書かんと挑戦しているところだと思う。本作ではそれは「遅らせる」というひどくシンプルな言葉で表現されている。一瞬、ほんの一瞬だけ動作を遅らせる。それが生死の堺をわけてしまう。バガボンド宮本武蔵を描いた井上雄彦は絵でもって達人の佇まいというものを表現してみせたが、森博嗣はそれを文章で試みている。

一瞬で立会、重心を考え相手の出方を考えああきたらこうしよう今行くべきか少し贈らせるべきかを考え、その一瞬の中に「綺麗だ」と思う。そうした感情の一瞬のうつりかわり、生死をかけた戦いの中に入り込んでくる斬り合いに関係のない思考。そうした一つ一つの描写がとても愛おしい作品なのだ。

まだまだ先へ進むゼン

本シリーズの引用はなぜか「英語」で書かれた後日本語が載っている。これはとても不思議だが、「外国から見た日本」がコンセプトのひとつにあるからだ。実際我々は日本人であるが侍的価値観とは断絶してしまっており、ゼンのように空っぽの人間が考えることの近代科学的な事実をベースに積み上げていく思考法の方がよほど近いものがある。宮本武蔵は道を極めたとまで五輪書で書いていたが、果たしてどんな境地にまで達したらそんなきもちになるのだろう。願わくばゼンの旅がまだまだ終わらないことを、と読みながら祈らずにはいられなかった。

ここから若干ネタバレ。いい具合にゼンの周りに女性が増えていくのでたいへんほくほくしながら読んでました。ゼンはその性格から、相手の容姿に関しての話をしないけれども、周囲の反応からまわりに増えてきた女性たちはみな美人揃いに違いないと判断できる(願望こみ)。なぜこんなちゃんばらものでハーレムを築きあげようとしているんだろうと疑問に思わなくもないがそれはそれとして……。

斬り合いの緩急について

あと今巻は斬り合いも激しかった。世界観の開示も終わり、ゴールもある程度は示され、じっくりとこれまでの設定をふまえてがっちりと構築されたシンプルなお話。山から降りてきたゼンには守るものがなにもなかったけれども、人里に降りて社会の中に組み込まれていくうちに守るものが出来てしまい、自分の行動の幅が大きく減じられ戦いに赴く羽目になる(もちろん道の探求の側面もあれど)という合理的な展開も秀逸。

何より素晴らしいのはその戦闘描写だ。ゼンはよく考える。だから斬り合いになる前となった後は、あのときはああすればいいこうきたらこう返せばいいと多くのことを考える。文字の量も多くページに敷き詰められている。それがいざ一転斬り合いの場になった瞬間思考の奔流はとまり、身体の反射のみで動くようになりその分描写は簡素になり一行一行ずつに行動と一瞬の判断のみが記されていく。緩急が完璧に合理的な理由で生み出されており、素晴らしいと思った。

いや、ほんとうに素晴らしいシリーズなんですよ。オススメですよ、オススメ。

フォグ・ハイダ - The Fog Hider

フォグ・ハイダ - The Fog Hider

五輪書 (岩波文庫)

五輪書 (岩波文庫)

つぼやきのテリーヌ The cream of the notes 2 (講談社文庫) by 森博嗣

森博嗣さんの新刊。既に出ているエッセイ『つぶやきのクリーム』の続編という位置づけ。似たタイプの著作である100の講義〜も数えるとこの100のトピックで語る本はこれで4冊目かな?つぶやきのクリーム the cream of the notes - 基本読書  「思考」を育てる100の講義 by 森博嗣 - 基本読書 常識にとらわれない100の講義 - 基本読書 違いとしてはつぶやき、つぼやきの二冊ははネット関連の話題が多い。

100の講義も含めると、割合ぽんぽんと出るので、この一連のシリーズは長年日記を書き続けてきた森博嗣さんの日記的エッセイの最新形態なのかもしれない。できるかぎり続いてくれると嬉しい。それだけの価値と、楽しさがある。日常的な事柄、自然から価値を抽出する視点の新しさ、またそれを抽象化し他のさまざまなものに当てはまる形へと変換していく抽象化のプロセスが毎度わくわくさせられるのだ。

裏文には初の文庫書き下ろし! と書いてある通りに、文庫が初出。ただ読者的にはこうして最初から文庫で出してもらうのが当然の話であってなんで今まで単行本で出されていたのかさっぱりわからないところではある。ぜんぜんビックリマークな気分じゃない。もちろんとてもうれしいけれど。特にこのシリーズは発想が100個も収められていることもあって、どこでも開けば発想が飛び込んでくる小さなおもちゃ箱的なイメージで読んでいる。文庫にぴったりだ。

ちなみに四作の中で本作が(特に前半)、個人的に一番得るものが多かった。なぜか読むのにも正確に測っていないので感覚で書くが、今までの三倍時間がかかったと思う。これは内容がより詰まっているのか僕の側が多くを引き出せただけなのかよくわからないところではある。今まで森博嗣さんが何度も書かれていたことで、ようやく「そういう意味だったのか」と腑に落ちた所もあれば、考えてもみなかったことがまだあって、もうエッセイだけで何百万文字も読んでいるはずなのだが発見が多い。

何百万文字も読んで、未だに飽きないのは僕が忘れていたり、一度で理解できないところも多いからだろう。しかし、それと同時に森博嗣さんの変化の早さ、なんでもないところから価値を取り上げてみせる視線が今尚健在だということもある。そうした森博嗣さんのエッセイにずっと勝手に並走してきたことで、僕自身も常に変化を続けてきた。なんでもないところから意味を読み取る、起こっていることの中に理屈を見いだそうとする。

知識を蓄えるのではなく、現象にたいしての道理を探る。なんてことのない日常的な話からも価値を見いだそうとする、そういう人間になったという僕の側の変化も大きいのだろう。注意深く読むと実に発見と、自分の中で醸成されていくものの多い、相変わらず素晴らしい一冊だ。本書からはたとえ森博嗣という作家に触れたことがない人でも、その発想の斬新さ、理屈の通し方、それらをいかに抽象的にしてみせるのか。その技を学ぶことができるだろう。

つぶやきのクリーム The cream of the notes (講談社文庫)

つぶやきのクリーム The cream of the notes (講談社文庫)

魔術から数学へ by 森毅

森博嗣さんの『キウイγは時計仕掛け』という作品における引用本。元々は『計算のいらない数学入門』という題名だったそうだが、こちらの題名の方がよりピントがあっていると思う。いわく説明のつけがたい本で、一言でまとめられそうもないのだが数学エッセイ集のようなものとでもいっておこうか。解説では科学思想の歴史の本だ、といっている。ただメインテーマはちゃんとあって、科学と神学が渾然一体となっていた時代から科学(数学)を考えることで、数学とはそもそもいったいなんだったのか、どういうところからうまれ、成長してきたのかといったこを捉え直していく。

まあ、とにかく語り口が軽妙で、かといって語っている内容が薄いのではなくずっしりつまっている。なのにそれが極々手軽に渡される。たとえ意味がよくわからなかったとしても、数学が世界を切り分けていく様が、そして数学が如何に混沌とした場所から生まれてきたのかが感じられるはずだ。文章に詩情すら感じられるので数学なんかまるで興味ない人間でも楽しく読めるだろう。それぐらい文章として、語り口として素晴らしい物がある。

思考は軽妙であっちへ飛びこっちへ飛び、広い見識があらゆる内容から読み取れるのに、おごるどころか「神学には暗い」「ここはわからん」「あそこもよくわからん」とあっさりと「わからない」「よくしらない」と書いてみせる。ある意味無責任な態度といえなくもないのかもしれないが、ほんの200ページ足らずの文庫本なのだが全編を通してその自由さに圧倒された。ああ、なんというか、思考の自由さというのはまさにこんなようなことを言うのだなと、その実例を見せつけられる気分になる。これは名著だ。

森博嗣さんの帯コメントがまた秀逸だった。引用など許されないであろうけれども、この内容が、帯に記載されたまま、いずれ消えてしまうと思うとあまりに惜しいのでひそかにここに残しておく。そう、森毅先生はロマンを語ることができる人というのが一番しっくりくる。ロマンを語ることができる人というのはつまり、「わからない」を語れる人、自分が見ている方を他人にも目を向けさせることが出来る人なのだと思う。

数学者という稀な人種は、例外なくロマンチストだ。そして、そのロマンを人には語らない。多くの人は数学が難しいものだと目を背けている。たぶん、美しすぎて、眩しすぎるからだろう。数学は星空のようなもので、生活からは程遠い。でも、それを眺め、美しいと感じるのは人間だけだ。森毅先生は、そのロマンを語ることが出来る数学者で、それは本当の意味での「数学の先生」だった。先生の講義を聴くことはもうできなくなったけれど、先生の素晴らしい優しさが、これを読めばわかる。

本書で捉え直していくのは、対数や微分積分、運動法則や引力の法則といったものについても、どれも「それが産まれた当時の日常の世界観」の中から生まれてきたのだというある意味当たり前の事実である。宗教的な世界観の中に、対抗勢力として「科学」が出てきたのではない。どんなに素晴らしく進捗的な数学的躍進、発想も、すべては数学者達の日常の世界、魔女も占星術も錬金術も栄華を誇っている中で科学的な考え方が育っていくという混沌とした、猥雑とした日常から生まれてきたものなのだ、ということ。

今の教科書に載っているようなキレイ事もまた、宗教や錬金術といったあやしげなものから発想を経てつくられていただろう。もちろんニュートンやライプニッツやケプラーやガリレオやといっためんめんが、宗教や錬金術から何を学んだのかはわからないことではあるけれども。このように混沌とした17世紀時代への森毅先生の視線が、またすごい。

19世紀以降の専門下大勢の科学者は「真実」を語ることを強制されている。と言ってのける。17世紀の科学者は、むしろ多くの誤りを述べていた、と。9割が虚偽としてあげられる中で1割の真理が姿を現してきたのが17世紀という時代だった。

よくわかっている人間がいると、「ああじゃあその人に聞けばいいや」となってしまう。「制度」が生まれるわけだが、混沌とした時代にはそんな制度なんてものがない。必然わいわいがやがや、あれはどうだこれはどうだと大勢が好き勝手にわめきちらしたり適当なことをやったりする。そこでは多くの失敗がうまれるだろうが、またそうした猥雑な状況だからこそ生まれる活気と発見、発想があるはずである。

 それに、現代の秩序から、たとえばデカルトの世界を嘲笑することは、さらに愚かなことである。<世界>が、高校の教科書にあるようにだけ把握されることが、正しいとはだれも保証できない。事実、現代の物理学者だって、デカルトの<渦>の世界から、なにかの発想を見いだそうとするという。
 <数>にしても、数直線のイメージが絶対によいものかどうか、わからない。ときに、数直線のイメージを否定した<数>を考えなければならないのではないか、と思える場面に出あうこともある。数直線というのは、あの<石と砂>の矛盾、数学用語でいえば離散と連続の矛盾を、うまく解決しすぎているのかもしれない。
 たとえば千年後の人間は、いまとまったく違った数学的世界像を持つかもしれない。それは、だれにもわからない。

もう、この引用部とか、読んでてぶるぶる震えがくるぐらいすごい。発想の飛躍、自由さが桁外れている。時間も、今までの常識も疑うというよりかは、あらゆることを不確定にしてみせる。それでいてその姿勢は単なる回顧ではないのだよね。未来へと続いている。実際そのことがいちばん、森毅先生が見ている先を一瞬感じさせてくれる。

 たしかに、十七世紀という時代は、そうした日常から<数学>を誕生させるほどに、その発想を活性化した。しかし現代だって、十七世紀ほどではないにしても、混沌に向けて心をひらいているかぎり、<数学の青春>の心が、ときにはもどってきてくれないか、ぼくにはそうした思いがあるのだ。

魔術から数学へ (講談社学術文庫)

魔術から数学へ (講談社学術文庫)