基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

神々の山嶺/夢枕獏

「誰であろうと自分の人生を生きる権利がある」

あらすじ
山に登るしかない男が、山に登り続ける物語。

感想 ネタバレ無

あっぱれ!これほどまでに一点突破して、何かに囚われたようにして、何かを求め続ける男を書いたという意味では、ある意味極限かもしれぬ。
山岳用語がわからないと、正直いって山登りの場面は何がどうなっているのか、まったくわからない。ザイルとか、ビヴァークとか。
しかし、わからなかったけれども、物凄い面白さだった。圧倒された。もちろん山岳用語を知っていた方が、より面白かったのだろうが、これはそういう物だけを求めた作品ではないので、問題ないともいえる。

これはただの山岳小説ではなかった。たまたま、狂い、求めたものが山だったとそういう話だ。もしかしたら、バスケットだったかもしれないし、ゴルフだったかもしれないし、絵だったかもしれない。ただ、何かを求める物語だったのだ。
その数ある中で、選ばれたのが山だったという、ただそれだけの話だ。

最後の方は、涙なしには読めなかった。しかもこれが、こういう展開なら読者は泣くだろうな、というようなそんな計算されつくしたような、そんな事を一切行っていない(と感じた)これしかないんだ!これしか!俺にはこれしかないんだ!という、ただそれだけの思いで、何もかも放出されている──。そんな感想しかない。

あとがきはやはり、自信過剰だ。だが、やはりそれに見合うぐらいの面白さはあった。自信過剰だ、とバカにできない。実力相応だ。

高度8000メートルに至るまで、どれだけの苦難が背負いかかってくるか。いったい、ただ、山を登る事にどんな意味があるのか、無意味な事に全力を注ぐことの大切さ、そういったものの全ての疑問に真っ向から逃げることなく取り組んでいた。
何で山に登るんだ、頂上まで辿り着いたからって、金がもらえるわけでもない、むしろ、登ることによって金も、社会的地位もすべて失ってしまうじゃないか、そんな質問に答えていく。そんな心理描写が、恐ろしいまでに深い。

心理描写というのは、適切ではない気がする。心理というよりも、すぐれていたのはむしろ、想いだった。抑えきれない熱い想いが、伝わってくるのだ。

夢枕獏は、あまり作品中に、名言と呼ばれるようなものを書くような作家ではないと思っている。名言はある意味近道のようなものだと思っている、ズルだ。真理を、短い言葉でどんなようにも解釈出来る言葉で、ごまかす。それは、ある意味直に伝わってきて、非常にわかりやすいが、夢枕獏の文章にはそういう表現は見当たらない、と思った。
あえて、名言のように短く語らなければ答えが出ない問い、自分はどこから来て、どこへ行くのか、何のために生まれてきたのか、そんなものに、真正面から取り組んできたのが夢枕獏ではないのかと。

出会えてよかった──。と心から思える。そんな本だった。

ネタバレ有

単に、長く生きることが、生きることの目的ではないのだ。これは、はっきりしている。人間が生きてゆく時に問題にすべきは、その長さや量ではなく、質ではないか。
どれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが、重要なのだ。


質を追求するあまり死んでしまったら元も子もない、とはよくいうが、果たしてどうだろうか、と考えさせてくれる作品だった。死ぬほど求めたもののために死ぬのならば、それでいいじゃないか、とうっかりいってしまいそうになる。 いいわけあるか!

高度が6500メートル以上になると、ただ眠っているだけでも体力が消費されていく、など無駄な知識がやたらと増えた。しかし、高度何千メートルとかいうところはすでに人の存在していい領域ではない。
そんなところに、地球上の、人間が地続きでいける一番高いところに登るという行為が、どれだけの苦難なのか、それが嫌というほどたたきこまれる。
最後、深町が高度7000メートルを超えて、羽生を追いかけて行ったとき、本気で意味がわからなかった。何故、そんな死にそうな状態でさらに上に登ろうとするのか、

おれがいるからだ、と羽生は言った。
おれがいるから山に登るんだと。
答えのようであって、答え出ない。
答え出ないようであって、答えのようである。


何故深町は山に登るのか。それを具体的に、深町は考えてもわからないという結論に達したが、それは体というものを無視しているからであろう。心と体は別物だが、密接に結びついている。心で理解していなくても、体はわかっている。そういう事じゃないのかと思った。ようするに、居ても立っても居られないのだ。上らずにはいられない。だから登る。単純な事だ。

肝心なのは、山は、何故生きるか、何故登るのか、などという問いには答えてくれないという事だ。

「何であれ、待っていても、誰かがそれを与えてくれはしないのです。深町さん。国家も、個人も、その意味では同じなのです・・・・・」

待っていても、答えは得られない。だったら行動するしかない。山に登るしかない。
だが、山も答えを教えてはくれない。だったら、答えはどこにあるのか。

仕事をして、金をもらって、休みの日に出てゆく。
おれがやりたい山はそういう山ではなかった。そういう山ではないのだ。おれがやりたいのは、うまく言えないが、とにかくそういう山ではないのだ。おれがやりたかったのは、ひりひりするような山だ。魂がすりきれるような、登って、下りてきたら、もう体力も何もかもひとかけらも残らないような、自分の全身全霊をありったけ注ぎ込むような、たとえば、絵描きが、渾身の力をこめて、キャンパスに絵の具を塗りあげてゆくような、そういうことと対等の、それ以上のもの・・・・・

痛いほど、何がいいたいのかわかる。要するに、なんて簡単に解説できるようなものではない。
何かに、本気になるというのはそういうことだった。

いいか。
やすむな。やすむなんておれはゆるさないぞ。
ゆるさない。
やすむときは死ぬときだ。
生きているあいだはやすまない。
やすまない。
おれが、おれにやくそくできるただひとつのこと。
やすまない。
あしが動かなければ手であるけ。
てがうごかなければゆびでゆけ。
ゆびがうごかなければはで雪をゆきをかみながらあるけ。
はもだめになったら、目であるけ。
目でゆけ。
目でゆくんだ。
めでにらみながらめであるけ。
めでもだめだったらそれでもなんでもかんでもどうしようもなくなったらほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくなったらほんとうにほんとうにほんとうのほんとうにどうしようもなくほんとうにだめだったらほんとうにだめだったらほんとうに、もう、こんかぎりあるこうとしてもうだめだったらほんとうにだめだったらだめだったらほんとうにもううごけなくなってうごけなくなったら──
思え。
ありったけのこころでおもえ。
想え──


想え── って格好良すぎるだろ・・・羽生よぉ・・・どんだけじゃ。
深町が、自分の食料を羽生に託したところもなけたし、最後羽生が、それに手を着けずに、かえろうとしていたのも泣ける。
それがはたして、単独だからという理由でてをつけなかったのか、それとも生きて帰るために残して置いたのかはわからないが、生きて帰るために残して置いたのだと、そう思いたい。
わざと死ぬような事は出来ないといった羽生が、そんな事をするはずがない。
そして最後に、羽生の死体にターコイスをかける深町──。そして羽生が残して置いた食料を食って生き延びる深町。
まともな思考が出来なくなった時の、ノートを、現実みというよりも、その文章の圧倒的なまでの迫力で伝えてくるというのは、そうそう出来るものではないだろう。
しかし凄い小説であった。


読んだ時は気付かなかったのが、しばらくして気づいたので追記することにする。この上の名台詞ともいうべきあれだが、極真空手大山倍達のパロディであったか。