基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

できるかぎりよいものをと心がけること

「シャワーを浴びながら歌をうたう。ラジオに合わせて踊る。お話を語る。友人に宛てて詩を書く。どんなに下手でもかまわない。ただ、できるかぎりよいものをと心がけること。信じられないほどの見返りが期待できる。なにしろ、何かを創造することになるのだから」とヴォネガットの著書にある。

この言葉はなんども思い返していて、僕はくだらないことでも仕事でも遊びでも、何事も極力真剣に、できるかぎりのことはやっていると思っている。しかしそれが創造なのかな? 見返りがあるのか? ということはよくわからなかった。でも最近思うんだけど、毎日楽しそうに過ごしている人って、結局のところ創造している人なんだよね。

できるかぎりよいものをと心がけると、常に何かを取り込んで、違ったものとか状況とかをつくりだすことになる。あと趣味の場合に顕著だけど(この場合大学の研究とかも趣味に含めている)、「決して終わりがない」のが趣味なんだよね。

たとえば僕はずっと自分がやっているこのブログとかのような、くだらない文章を書くことがかっちょいい行為でもないし創造でもないと思っていたんだけど、「ゴールがない」っていう意味では趣味であり創造なんだなって思った。

文章がうまくなることでもいいし、色んな人を感動させるでもいいし、自分が作った飛行機に乗りたいでもいいし、自分のオリジナルな模型を作りたいでもいいんだけど、そういうのって得てして「上達のゴールがなく」それ故に「できるかぎりよいものを心がける」ことで、常に前回より一歩先に進む(あるいは横にそれるか後退するか)。

そういう終わりのなさ、でも前に進んでいるんだって感覚が、楽しいっていう感覚につながるんじゃないかなあ。いつも違った景色が見えるのに、その景色には終わりがないんだから、「生きている間はずっと楽しめるかもしれない」って希望になるかもしれないし。未来への希望がないと今も楽しくないものだし。

仕事とかでも、「できるかぎりよいものをと心がけること」っていう精神は、わりと有効なんじゃないかと思っている。仕事は基本的に他人から作業をふられ、それに対応することなので、他人に支配されている状況ともいえる。だけど、そこでも一生懸命やれば、常に変化は生まれるはずだ。

僕は毎日自転車を必死にこいで駅までいくのだけど(当然この時期は汗だくになる)、駅の駐輪場にはいつも定年退職したような職員のおっさんが1人か2人、立って待っている。立体駐車場なので、装置に不具合があった時のために常に誰かみてないといけないんだろう。だから彼らの任務は基本的には見ていればいいだけの話だと思う。

時々そのおっさん達を見ながら「退屈そうな仕事だなあ、仮に僕がこの仕事をやるとして、どうやったら楽しくやれるかなあ」と考える。基本的には見ていればいい仕事なのだ。だけどそこで「おはようございます、行ってらっしゃいと声をかけるようにしたらどうだろう」とか、「いつも真剣に挨拶を続けていたら、誰か返してくれるようになるかもしれないよなあ」とか考えるのだ。

まあいうても仕事というのは基本的に「生きていくための道具」だから気に入らなかったら取り替えのきく範囲でかわっていくのがいいと思う。使いづらい、自分に合わない道具をいつまでも使う必要はない。もちろんそれしか使えないというんだったらそれで我慢するほかないけど。

とにかくこのエントリで書きたかったことっていうのは、「できるかぎりよいものをと心がけること」っていうのはひとつの創造であって、きっとそれは「楽しく生きるための手段のひとつなんだ」って僕が考えたっていう話でした。ヴォネガットがいう信じられないほどの見返りっていうのは、僕にとってはそういう意味にとれます。

国のない男

国のない男