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ジェンダーと視点の描き方が面白い七冠SF──『叛逆航路』

叛逆航路 (創元SF文庫)

叛逆航路 (創元SF文庫)

英米7冠制覇のSFってきたらこれはまあ凄い。『ニューロマンサー』を超えたとか裏側に書いてあるし、歴史的な偉業といっていいだろう。もちろん賞をとったからといって、それがすなわち質に即繋がるわけではないのは確かだが──さてさて。質といえば、7冠なんてことになる前から「凄い作品があるぞー」と英語圏で話題になっていて、僕もわざわざ洋書で買って読んでいたぐらいだ。
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そんでもって、これがまあ面白いわけだ。7冠をとるぐらい凄いのか、歴史的な傑作なのか──といえば、それは人によっては違うだろう。僕も最初に読んだ時は面白いけど、三部作の一作目ということもあってまだ評価しきれないかなって感じだった。性や人称など表現面から様々に語れる部分は評価しやすく、あまりに新しすぎてとっつきにくいわけでもなくダウナーな復讐譚のエンタメとしてきちんと成立している。先鋭的な面とエンタメの面で、いろいろとバランスのとれた作品なのは確かだ。

人称についての話

「あまりに新しすぎてとっつきにくいわけでもなく」とはいうものの、最初はその特異な設定と文体にかなり混乱することだろう。何しろ登場人物はほとんどの場合、誰もが「彼女」と表記される。それじゃあ出てくる人物は全員女性なのかといえば、そうではない。彼らが交わすラドチ語では、性別は常に曖昧なものとして表現される。「自分は男である」とある人が言ったとしても彼女という呼称は変わらないのだ。

そんなことをする意味があるのかと思うかもしれないが、これはかなり面白い試みだと思った。普段の読みがいかに個々のキャラクタの「性別」に縛られているのかと気付かされると同時に、誰もが彼女と呼称することによって「彼らは性別というものを意識していないんだ」ということがそれだけで読者には伝わるようになっている。

最初こそ全てが「彼女」と表記されているのは違和感しかないのだが、次第に「そういう社会もありか」と認識が上書きされていく経験はSFを読むことの醍醐味の一つでもある。本当に性別の区別がなくなった社会、誰しもがそうしたことを気にしない社会とはどういうものなのかを、本書は端的に教えてくれる。

世界観の話とかあらすじとか

前提部分として、人類はとうに宇宙に進出し、宇宙戦艦がそこらを飛び回っている。人類最大の勢力は、ラドチと呼ばれる巨大なダイソン球を発祥地し、アナーンダ・ミアナーイを絶対的支配者として戴く専制国家だ。もともと非常に好戦的な国家で、他の人類国家を併呑し取り込んでいた。著者のインタビューなどを読むと、古代ローマなどを参考にしたと語っているが、そのせいで未来が舞台の筈なのにどこか人間たちのやりとりは古臭く、SFファンタジーのような雰囲気が漂っている。

物語は二つのパートに沿って進行していく。一つは現在のパートで、元々宇宙戦艦でAIやってた存在がブレクと自称する個体となって旅をしている。目的はラドチの最高権力者であるアナーンダ・ミナーイをぶち殺すことだ。もう一つのパートは「なんで元AIが個体になってんの?」とか、「なんで元AIが最高権力者を殺さないといけないの?」とか、そのあたりの発端が描かれる過去パートになる。

特殊な視点の使い方

それだけなら単なるスペオペ復讐譚っすね、という感じではあるが、先にいったようにジェンダー的な部分での新しさや宇宙に広がっている専制国家という部分の描写が独特のテイストを与えているのが一つ。そこにもう一個重要な要素としてこの世界でのAIの在り方──というか、AIが管理する属躰の存在がある。

「不思議だな。あなたは属躰にまつわる話をご存知のはずだ。身の毛がよだつ、ぞっとする話をね。ラドチャーイの手になる、究極の残虐行為だ。わけてもガルセッド……ああ、なんと悲惨な……。いまから千年も前のことだ。ラドチャーイは侵略のたびに住民を──成人の半数だったか? 連れ去っては、生ける屍に変える。そして軍艦のAIの奴隷とし、同胞と戦わせるのだ。(……)」

というように、ラドチは侵略するとそいつをゾンビ化してAIがコントロールできる手駒に変えてしまうのだった。まあ、確かに恐ろしい話ではあるが、これの面白いところは単なる手駒ではなく「AIは属躰の視点や思考能力を自身の中に取り込むことができる」という点だ。それによりAIは「個にして群」という特異なアイデンティティを持つことになる。過去編は戦艦〈トーレンの正義〉AIであるブレクの一人称で話は進んでいくが、「個にして群」なので一人称だけど三人称のようになるのだ。

 わたしはまた、四十メートル離れた寺院の内部にもいた。変則的な造りで、高さ四十三・五メートル、奥行き六十五・七メートル、幅二十九メートル。(……)
 わたしは寺院の外にもいた。藍色植物が繁る広場に立ち、行き交う人びとをながめる。

これは一例だがこんな風に様々な場所から描写ができる。そりゃあ数千体も散らばっている属躰の視点が自分の物なのだからそうできるのは当然なのだが、これが面白いんだよね。ペーパーバック版には著者へのインタビューが収録されていて、複数の場所で、複数の物語が進行する形式を適切に表現することが難しかったが、このやり方なら複数の事象を感情的に語らせることができるので非常にマッチしたのだと語っている。一人称の利点は感情を豊かに語らせることができる事だが、逆に「見ていないことは書けない」制約もあり、それを突破しているのだ。

この属躰の設定は、実は「一人称にして三人称」の視点をもたらす為だけではなく、AIが自分なりの個を見出し、活動を開始してあまつさえ主人に反旗を翻すに至った理由へのSF的な裏付け設定にもなっている。群体であるはずのAIが次第に個へと分岐していく──その理由と演出には、素直に納得してしまうスマートさがある。

地味にボスが魅力

地味にボスが魅力だったりする。キャラクタ的にはただの圧制者なのでそんなでもないのだが、能力がいい。ブレクがAIで複数体存在するのは散々書いたが、敵であるところのアナーンダ・ミアナーイもまた何千体もの身体を持つ存在なのだ。

「アナーンダ・ミアナーイを殺したいのです」
「アナーンダは……」不快げに。「何千体ものからだをもち、同時に何百か所にも存在する。それを殺すなんてできっこないよ。ましてや、銃はひとつしかない」
「それでもわたしは、試みたいと思っています」
「頭がおかしいんじゃないか?(……)」

「頭がおかしいんじゃないか?」って言われる事をあえてやる、エンタメの王道である。というか敵もまた何千体もいるのかよ! そんなのどうやって殺すんだよ! っていうはっきりとわかる無茶苦茶な目的設定もいい。実際、ブレクが群体の中から個を見出していくように、アナーンダ・ミアナーイもまた別の意味で「群体」であることが物語上重要なキイになっていくのだが、さすがにそのあたりはふせておこう。

独裁国家って、有能な人間がいる限りは意思決定がスムーズで物事がさくさく進むから物凄く発展するんだけど、大抵その有能な人間が死んだら後継者争いでもめたり、後継者がバカだったりして失墜していくパターンが多い(ローマ帝国の歴史をみれば明らかだ)。だからこそボスが有能で、複数体いて、しかも死なないんだったら、そりゃ独裁国家の方が都合がいいよねっていう設定面の面白さもある。

つーわけで、かなり面白いSFであることは間違いない。今年度版の「SFが読みたい」では集計圏外だったけど、来年度版では一位候補筆頭ではなかろうか。