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『半分世界』の石川宗生による極上の奇想短篇集──『ホテル・アルカディア』

ホテル・アルカディア

ホテル・アルカディア

この『ホテル・アルカディア』は、第7回創元SF短編賞を受賞し、奇想短篇集『半分世界』で東京創元社からデビューした石川宗生さんの集英社からの最新作。

『半分世界』は、吉田大輔氏が突然19329人に増えてしまった状況を描く「吉田同名」。道路側の前半分が綺麗サッパリ消失している奇妙な家と家族4人と、それを観察していったいこれはなんなのだ、なぜこんなことが起こっているのかと議論し生活をウォッチする人々の奇妙な物語が描かれていく「半分世界」など、何を食ったらそんなことを思いつくんだ的な着想から緻密にその世界のロジックを構築していく高い技術が冴え渡った短篇集で、とにかく一読して僕は大好きな作品・作家になった。
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で、第二作となるこの『ホテル・アルカディア』にも相当期待していたのだけれども、これがまた本当におもしろい! SFなのか、奇想なのか、短篇集なのか長篇なのかといった前情報を一切入れずに読み始めたのだけども、そのいずれでもあるような開かれた作品で、石川宗生らしさに満ち溢れている。

どういう作品か?

具体的に紹介していくと、書名になっているホテル・アルカディアで起こった出来事を中心とした奇想・幻想短篇集といった趣が強い。アルカディアの支配人にはプルデンシアという娘がおり、彼女が突然大学のシェアハウスから帰郷。その時彼女は言葉を話すことができなくなっていて、敷地の離れにあるコテージに引きこもってしまっているという。裏山でひとり泣き崩れていたのを見たという人もいる。

この噂に敏感に反応したのがアルカディアに投宿していた7名の芸術家だ。アルカディアはスペイン建築風の宏壮なホテルなのだが、行政の助成金を受けながら、芸術家に制作場所を無償提供しているのだ。具体的にどのような理由で引きこもってしまったのか、喋れなくなってしまったのか誰も知らないのだけれども、芸術家らはその奔放な想像力を持っていて自身の中に「プルデンシア像」を構築し、各々勝手な創作をはじめることになる。油彩画、楽曲、スラップスティック宇宙活劇──。

その中で出てきた発案の一つが、おかしみと不思議さにあふれた物語をたくさんつくって、彼女に(コテージの外から)語り聞かせるというものだった。二人で始まったプロジェクトだったが、次第に全員が参加することになり、どうせならプルデンシアにちなんだモチーフでやろう、とあれよあれよというまに細部が決まっていって、一人ずつが奇想的な短篇、掌篇を語っていくことになる──という形で、ここからは様々な馬鹿げた・奇想的な短篇がそこから並べられていくことになる。

奇想短篇としてのおもしろさ

奇想短篇作家としての石川宗生の実力はすでに証明されているが、今回は7人の芸術家が書いた(とは明言されていないので、別の人間かもしれないが)それぞれに大きく振れ幅のある特性を持つ作品群ということで、その方向性のバラけさせ方も凄い。

物語を仮想空間内で擬似的に体験できる〈タイピング〉とその施術者であるタイピストにはまり込んでいくいう技術にハマっていった人物の顛末を描く「タイピスト〈I〉」。身体に極小のキリンやチーター、オラウータンやキツネザルが住みつき、次第に人間が生まれ文明開化していく様を描いた「代理戦争」。

わたしは昔シリアルキラーだったの、ポルノ女優をしていたの、など婚約者の覚悟を試すような嘘ばかりいう彼女だが、その話には不思議なリアリティがあって──とホラーにふった「愛のテスト」。一見したところ人間の男が女性を口説きまくる話にみえながら、その実女性が人形であったり、大地(ガイア)そのものであったりといった不可思議な性交が語られていくストレンジな「すべてはダニエラとファックするために」。すべての概念に独自のサイズ感覚が浮かび上がってくる(平和は27センチ、戦争は149センチ)不思議な共感覚を持った人物についての物語「測りたがり」。

ノアの方舟を乗せられる動物たちの側から描き出し、乗船できるのは各種族のオスメスのつがいのみだといわれブチギレるも制圧されていくさまを描き出す「恥辱」。建物の壁や柱に折り目と留め具がついて、住民が毎朝総出で都市を折りたたんでスーツケースにしまう移動の都市カロリングなどが出てくるある種の都市奇譚があれば、シナリオAI〈エウリピデス〉によって全住民が管理され演劇の中の登場人物としてふるまいを求められる街での革命を描き出す「機械仕掛けのエウリピデス」のようにSF話もあり。多くは掌篇程度の長さで、一個数分でサクサク読み切れるはずだ。

アルカディアのその後

本書ではその合間合間にホテル・アルカディアにまつわる物語も進行していくことになる。時間が経つにつれ、プロジェクト・プルデンシアに関わった芸術家の姿はすでになく、アルカディアはある種の「物語の聖地」として扱われるようになっていく。〈手〉というおびただしい数の紙片の集積である〈アトラス〉がアルカディアに生まれ、その〈手〉には様々な物語が紡がれている。『〈アトラス〉には地元民が二六時中出入りしており、既存の〈手〉を読み、新しく〈手〉に物語をしたため、既存の〈手〉に貼り合わせる。物語の大半は〈手〉一枚程度の掌編だ。』

ここにはルールはないが、地元民は主題別に〈手〉を配置する傾向があり、一番大きな愛の大陸があり、その中もさらに慈愛、父性愛、友愛、孤独愛、小児性愛と小さな大陸ごとにわかれていて──と、7人の芸術家の朗読からはじまったこの舞台が、今では特別な「目に見て、触ることの出来る物語の舞台」となっていることがわかる。

〈アトラス〉の物語は外に流出してそのまま出版されたりオマージュされ、さらには外から入ってくることもあり、〈アトラス〉が持つ世界の中での物語の意味もまた問われていくことになるなど、本作の短篇が物語の物語である「タイピスト〈I〉」ではじまっているように、自己言及的な構造を持つようになっていく。

にっと微笑み、なおも青天井を見上げながら言葉を継ぐ。「じっさいにあなたがこうしてわたしの言葉に耳を傾けているように、世の人はみな知らず知らずのうちに〈アトラス〉の旅に出ているのであり、人間や動植物、海や山や森、あまねくすべてのものはいずれ昔日の面影となり、空虚な言葉の箱船に乗って〈アトラス〉をさまよったすえ、〈アトラス〉のなかの〈アトラス〉に還ることになるのです」

おわりに

この〈アトラス〉の話に顕著だが、本作はどこまでも開かれている。

外から入ってくるのも、内から出ていくのも自由で、相互に影響を与え合う。〈アトラス〉の起源についての物語も多数書かれているが、矛盾しあっていて、起源や歴史を証明するのは不可能になっている。模倣に模倣を繰り返し、その中に自分なりの差異を出していくのが創作だとしたら、その過程で何もかもがぼやけて、すべてがフィクションの向こう側へといってしまうような、そうした「創作のわからなさ」のモチーフが、各短篇とそこに軸を通す「〈アルカディア〉/〈アトラス〉」に共通している。その「わからなさ」というのは同時に「解釈の自由度」でもあるのだ。

はたして、プルデンシアは芸術家たちの語りによって、無事にコテージから出ることができたのだろうか? それは、読み終えればわかること。