- 作者:郝景芳
- 発売日: 2020/11/24
- メディア: Kindle版
で、本書は実際に1984年に生まれの著者による「自伝体小説」である。自伝体小説とは、あったことをそのまま自伝として描くわけではなく、その時代、その年齢であった時に感じたことや経験を別の外面的イベントに乗せ、フィクションとして描いていくもののこと。著者のあとがきによると次のような部分に注目した小説だ『物事のディティールは服の上に身につける帽子や帯にすぎず、その事柄に対してどう感じるかということこそが服の下に隠された身体そのものなのです。』
1984年
1984年というのは、SF系の読者にとっては馴染み深い年だ。それはジョージ・オーウェルによる、監視社会、ディストピア物の世界的な傑作『一九八四年』があるからであり、この『1984年に生まれて』も、そこへの熱い目配せがある。読者的にも、超絶監視社会中国の観点からみた1984年というか、監視社会に対する考えや思いとはいったいどのようなものがありえるのだろう、と興味深いところだ。
ただ、実際に読んでみて思うのは、監視社会がどうとか以前に、この84年から10年代頃までの中国の情景、そこで生きる人々の心情を切り取った作品として抜群におもしろいということ。大学の卒業を控え、多くの仲間たちが海外へと出ていったり目を向ける中自分がどこに行くべきか、将来の進路をどうするのか、といった葛藤に沈み込んでいく過程。成長と同時にインターネットが発展し、それが仕事と密接に関わってきて世界が一変していく日々。役所である統計局に就職して、本当に自分はこんな仕事をしていていいのだろうかと苦悩する──そうした、ある意味では普遍的な10代〜20代の苦悩が、激動の変化を遂げていく中国の状況と共に描かれていくのだ。
あらすじとか語りとか
1984年生まれの主人公(軽雲)と交互に、彼女の父親である沈智が、軽雲が生まれる直前あたりからの人生も軽雲の回想の形で描き出されていくことで、時代に翻弄される中国人の姿が見えてくる。沈智は天津市の工場でエンジニアとして働いていたのだが、軽雲が生まれる数ヶ月前に、友人である王老西から深センにいって起業をしよう、と誘われ、「リスクをとって外に出るか」「安定をとるか」の選択を迫られる。
中国の1984年は、文化大革命が終わって10年も経っていない、これから大きな変化が起こるぞ、という混沌とした時代。沈智は社会的な身分が低く、革命部隊に従って革命を引き継ぎ、生まれ変わろうとスローガンを叫んでいたような人物だ。革命の熱狂はすぎ、国営工場に勤務しているが、出世は望めないし、いつまで工場が存在するのかすらも定かではなかった。1983年には「精神汚染」キャンペーンが張られ、資本主義化にブレーキがかけられているような時代である。党の力は強くも不安定で、何が黒で何が白になるのか不明瞭な時代だ。沈智がやろうとしている、起業し、自前で工場を作って、国営企業と取引していくことが取締対象になるリスクがある。
一方の軽雲自身の現在を語るパートの時代は2006年。大学の卒業を間近に控え、今後の人生の進路を迷っている時期だ。何か意味のある生活がしたい。しかし、日々の生活に自由を感じることができない。今後何をして、何処に行ったらいいのか。友人らは次々と進路を決めていく。友人である羅鈺はすでにニューヨークの大学に行くことを決めていて、軽雲にも一緒に来て一緒に住もう、と積極的に声をかける。
大学院にいく者、コネを使って一般人には入れない国有企業に入り込む者、香港に交換留学に行ってそのまま仕事を見つけている者。幼馴染の一人は、結婚を報告してくる。軽雲にたいして外に出るべきだと主張するものもいれば、国内の発展に強い期待を抱いていて、国内に残るべきだと強く主張するものもいる。こうした、自分がウダウダしている間に周囲の人間はとっくに道を決めていて、ある意味では可能性の世界を閉ざし、現実に定着していくようにみえる同世代を前にした、寂寥感ともいえるようなものがじっくりと描き出されていて、これがまたいいんだよなあ。
その瞬間、私はある感覚にとらわれる。私や周りの人たちは囲いの中で飼われた小動物の群れのように、柵の中で押し合いへし合いしぶつかり合いながら前へ前へと駆けてゆく。ずいぶん長く走り続け、ついに囲いの端まで来ると、柵がバラバラに壊れる。皆はついに自由の身となり、喜び勇んで散ってゆける。ところが次の瞬間フルスピードで別の小さな囲いへと走り込み、奪い合うようにして自分の場所を確保すると、そこにうずくまり動きをとめてしまう。全力で走ったのはまさにこの一瞬の場所の確保のためとでもいうように。文字通りあっという間の素早さである。
私ははっきりと見たのだった。かつて好きだった相手とそしてかつて私を好きだった相手が、こうやって現実の暮らしへと踏み込んでいく姿を。
軽雲自身はずっとふわふわとしていて、抽象的な何かを問い続けている。未来が不確定な中で、どのようにして生きていくべきなのか。自由=外を目指すのか、先の見えた安定=国内・地元に留まるのか。時代は違えど軽雲と沈智のパートはそれぞれ通底しあっている。
統治と自由
軽雲は結局、地元の統計局に就職して数字を打ち込む仕事につくのだが、その数字には人為的な操作が含まれ、あらゆる人を満足させる値になっている。『美しく飾り立てられた数字には真実が含まれておらず、うわべだけ誇張されたものであることは皆知っていたが、誰も気にしなかった。皆が知っていて、皆で黙認していた。』
おもしろいのが、こうした父娘のパートの合間に第0章、第00章、と、最初は何者かもわからない「彼」と私の対話パートが挟まること。これは明確にジョージ・オーウェルの『一九八四年』を意識したパートで、統治の問題、自由についての問題など、より抽象的な議論が交わされる。たとえば、人類の平等は自由な世界でも到達できないし、物質的に極めて豊かな時には逆に思想が消え去るだろう、と軽雲が語る。
統治者が力を尽くして人々を豊かにしようとする時、誰が統治者など気にするだろうか。統治者は、人が物を考えるのを妨げるために貧困に陥れるのではなく、あらゆる力を使って人々が富むように仕向け、その状態を自分の立脚点にするのだと。
それを私はこの目で見たのだ。
とは、統計局で過ごした日々の後に彼女自身が語る部分。統計局での日々は退屈で、そこでは宴席でほんの少し上司への苦言ともとれることをいっただけで主任に呼び出され、「君は私に何か意見があるのではないのかね」と脅される、そうした非常に息苦しい状況が存在している。彼女は「自由」や「真相」を求めるが、ではいったい自由とは何なのか。どのようになったら自由になったといえるのか。
おわりに
そうした問いかけをしながら、彼女の人生は国外へと飛び出していき、00章で対話をしてきた「彼」がいったいだれなのか、どんな存在なのかについて、ある気づきが得られることになる。基本的に文学的な長篇といっていいと思うが、SF的に読むことも可能だろう。中国で80~00年代を生きること、ジョージ・オーウェル的にならなかったもうひとつの「一九八四年」に分岐した世界を生きることがじっくりと描き出されていく、圧巻の長篇であった。
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