基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

言語や音楽は、自然界を模倣している──『〈脳と文明〉の暗号 言語と音楽、驚異の起源』

この『脳と文明の暗号』はマーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化 視覚革命が文明を生んだ』の続編というか、姉妹篇である。講談社で単行本として刊行されていたものの早川書房での文庫化になるが、これは今読んでも鮮明でおもしろい。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
『ヒトの目、驚異の進化』は書名通りに、人間の目に焦点を当てた一冊だった。たとえば、ヒトの目は短、中、長の波長を把握し、膨大な数の色を見分けることができる3色型色覚を持っているのだが、哺乳類の多くは2色型である。なぜヒトは3色型を必要としたのか? また、目が前にしかついていないのはなぜなのか? 前と後ろについていれば、360度見渡せて便利なのに──といった疑問に答えていく。中でも、最後には、読字に焦点をあて、我々が日常的に使いこなす文字は、脳が文字を読むように進化したわけではなく、表記が人間の認識にあうように進化したのである──と、表記言語と自然言語の繋がりを解明していくエキサイティングな章がある。

表記言語が脳に合うように進化してきたとだけ言われても納得しかねるが、これには根拠もあれば理屈もある。何しろ、文字はまだごく新しく、数千年前に現れたばかりだ。比較的短期間で人間もまた進化の痕跡が残ることがわかってきているが、だからといって数千年の間に人間の脳が文字を読む脳に進化したとはちょっと考えづらい。そもそも、ほんの何世代か前まで、人類の大半は読み書きの能力がなかったのだ。

そうであるならば、読む能力は、元々あったヒトの能力を利用する形で成立しているはずである。HUNTER×HUNTER風にいえば、完全に新しい能力を脳内に実装するとメモリの無駄遣いになる。より既存の能力を応用した形で、スマートに実装することでメモリの消費を抑えられる。チャーギージーに言わせれば、『文字は長い年月にわたって文化的な淘汰を受けながら、人間の視覚系に適したメカニズムになっている』と語る。文字は自然を模した構造をとり、脳にあわせて形づくられたのだ。

で、続くこの『脳と文明の暗号』は、いわばその後編。ここで扱われるのは話し言葉と音楽である。チャンギージーによれば、読字だけでなく言葉を話すこと、音楽もまた自然との繋がりによって成り立っていて、我々はもともとの「自然の音を聞く脳のメカニズム」を、話し言葉と音楽に適用している、ということになる。

3種類の音

話し言葉や音楽が自然界の音と似てるっていっても、自然界にはあらゆる音が存在しうるんじゃないの?? と疑問に思っていたのだけれども、まずその最初の整理がおもしろい。自然界にはありとあらゆる音があるように思えるが、発生する音のほとんどは、”ぶつかる”、”すべる”、”鳴る”の3つから成り立っているという。

固体と固体が衝突した時に起こる”ぶつかる”。ドアをノックする、これは、キーボードを叩く、ボールがラケットにぶつかる、3種類の中では一番ありふれた音だ。続いて固体と固体がこすれる時の音である”すべる”。シャーという音が頭に思い浮かぶが、ぶつかると比べれば発生頻度は低い。そして最後は、物体が震える時の”鳴る”。コップを箸で叩いた時、最初にぶつかり、次に固体が振動して、鳴る。自然界の音がすべてこの3つに当てはまるわけではないが、これらの発生頻度は非常に高い。

そうであるならば、チャンギージー的な世界の見方によれば、こうした発生頻度の高い音を人間の脳は認識しやすく、そうであるならば、我々の話し言葉もこれら3つの音と関連したものであるはずだ。『では実際、人間の原語はこの三種類の音楽をもとにできているのか? 答えはイエス。人間の話し言葉の最も普遍的な共通点は、この三つの音素が基本単位に──いわば言語の〝原子〟に──なっていて、自然界の音素と対応していることなのだ』。チャンギージーはぶつかるを「破裂音」、すべるを「摩擦音」、鳴るを「共鳴音」に相当するとして話し言葉を整理してみせる。

破裂音、摩擦音、共鳴音

破裂音はたとえばb、p、d、t、g、kのような音。摩擦音は、s、sh、th、f、v、zなどの音。共鳴音はa、i、u、e、oのような母音と、l、r、y、w、mといった子音である。自然界の発生頻度と同じく、摩擦音は破裂音ほどは多用されない。破裂音はどんな言語にもあるが、摩擦音は存在しないという言語も少なくないという。

自然と話し言葉の類似はこんな大雑把なものだけではない。たとえば3つの音にはそれぞれ特性があり、それがそのまま言語にも反映されている。3種類の中で音に大きな変化が伴うのは共鳴音だが(破裂音は一瞬で終わり、摩擦音は大きな変化は伴わない)、我々の話し言葉もそれを反映して共鳴音は音の変化が起こりやすい。英語で言えば、skate(スケイトゥ)やdive(ダイヴ)のような語は、発音してみればわかるが、母音の部分の途中で口の形が変化して音の調子が変わることがわかるはずだ。

また、自然界に存在する音も単体で存在しているわけではない。たとえば、何かと何かがぶつかった後、その何かがすべりはじめるのは起こるのが想像しやすい現象だろう。逆に、すべってぶつかる、という順番はスケートリンクなどではありふれているだろうが自然では多くない。つまり、話し言葉も摩擦音⇛破裂音よりも破裂音⇛摩擦音のほうが多く存在するのではないかと推測できる。実際、英語のch(チ)はこの例にあたり、破裂音のtではじまり摩擦音のshへと移行する。chair、congratulateなど。著者によれば、この逆──摩擦音から破裂音へ変化する言語は存在しないという。

おわりに──音楽

と、ここまででも話し言葉について途中まで紹介しただけで、本書ではこれに続けて音楽についての研究も行われている。話の流れ的に、音楽の起源はじゃあ話し言葉で、これらは繋がってるのかなと思っていたらそうではなかった。

音楽で重要なのは、音量、音高、テンポ、リズムだが、実はこれはヒトの最もありふれた動きである「歩く/走ること」と関係していて──と、音楽がヒトの動作音に立脚していることを多くの相関・証拠と共に解き明かしていく。たとえば、必須のリズムだが、音楽の拍子の一般的な間隔である毎秒一回か二回は、足音のリズムと同じである。音楽の拍子は正確さを要求せず、むしろ少しずつズレていることが心地よく感じられることもあるが、これも足音も同じ、立ち止まりかけると足音がゆっくりになるのと同じように、音楽も曲の終わりに近づくと一秒あたりの拍子の数が減る。

これだけだと強引な推論にしか見えないが、何百もの曲を対象に拍子のデータをとって立証していくので、説得力は感じる内容に仕上がっている。音楽の起源が足音かどうかはともかくとして、脳と(言葉や音楽といった)文化に密接な関係があることは少なくとも間違いないだろう。本書を読みながらアニメをみていて、「たしかに摩擦音と破裂音と共鳴音ばっかりだな」と思ったり、歩きながらリズムを考えたり、読むことで日常生活の見る目が変わる一冊だ。