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数学を通してミステリの自由に触れる、華文青春本格ミステリの傑作──『文学少女対数学少女』

文学少女対数学少女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

文学少女対数学少女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

  • 作者:陸 秋槎
  • 発売日: 2020/12/03
  • メディア: Kindle版
この『文学少女対数学少女』は前漢時代の中国を舞台にした本格百合ミステリ『元年春之祭』や学園百合ミステリ『雪が白いとき、かつそのときに限り』の陸秋槎による最新の邦訳作品。推理小説大好きな文学少女と数学少女を軸にして、数学とミステリの相似を探りながら犯人当てゲームに興じていく、4篇から成る連作短篇集だ。

対、とついていると一つの事件に対して、別のアプローチを探る二人が推理合戦でもするようなイメージが湧いてくるが、タイトルは麻耶雄嵩の 『貴族探偵対女探偵』へのオマージュであって、対決というよりも協同して一つの事件や謎に別角度から向かっていく作品である。文学少女にして推理小説大好きな少女は著者と同じ陸秋槎という名前を冠され、自伝的な要素も盛り込まれているとあとがきでは語られている。

二層構造

最初は数学のアナロジーで推理小説を語るっていってもどこまでできるもんかね、と疑問に読み始めたのだが、これが異常なまでの情報密度で、それでいて重さを感じさせない軽やかさを伴っていて、抜群におもしろい。密度が高い理由の一つは、本作の短篇には基本的に二層が存在している。一つは先に書いた純粋に本格推理としての、作中作の犯人当てゲーム。それと別個で進行する、彼女たちが暮らす現実に起こる日常の謎(とはいえ、一篇は殺人事件が含まれる)としての事件だ。どの短篇にも数学的お題が最低一つは入っていて(たとえば、2篇目「フェルマー最後の事件」はフェルマーの最終定理)、その数学的お題が二層両方に関わってきて鮮やかな結末をもたらす。

純粋なゲームである第一層の犯人当てゲームの方では、その数学的お題は推理小説の様式を数学的アプローチから吟味・分析し、第二層の現実としての謎の解決にあたっては、数学的アナロジーを駆使しながら、その厳密性にこだわるのではなく発散した形──難しい言葉だが、リアルな形で展開させてみせる。現実の事件解決にあたっては、探偵役の推理があっている必要なんて必ずしも存在しない。間違っていたとしても、重要なのは結果として謎が明らかになること、犯人がいるのなら、犯人が当てられることだ。血が残っていてDNA検査ができるのなら、推理なぞいらないのである。

森博嗣などは探偵が出てきてぺらぺらと警察に語ったり、犯人にわかりやすい動機などあるわけないでしょ、といってそうしたものをまったく書かない方向に行ってしまったが、本作(『文学少女対〜』)はそうしたより現実感を持った日常の謎と純粋に犯人当てに興じる本格推理小説の両方のおもしろさを各篇にもたせている。推理小説の別方面のおもしろいところが一篇の中に違和感なく同居しているだけでなく、数学のアナロジーを持ってきて仔細に検討していくことで、推理小説にルールが付加されて窮屈になるのではなくむしろ「自由に」なっていく過程が描かれていて、推理小説ってなんておもしろいんだろう、という純粋な喜びがわきおこってくる。

陸さんの作品はどれも推理小説とその歴史の深い理解によって成立していて、僕みたいにたいして数を読んでもいない人間からするといったいどこまで自分に堪能できているだろうか、と不安に思ってしまうこともあるのだけれど、それでも本作には絶賛をおくりたい、それぐらいおもしろい作品だ。

軽く紹介する。

推理小説なので、あまり踏み込まずに紹介してみよう。トップバッターは文学少女・陸秋槎(りくしゅうさ)と数学少女・韓采蘆(かんさいろ)の邂逅を描く短篇「連続体仮説」。校内誌の編集長として、娯楽性を第一に読者参加型の犯人当て小説を載せていた女子高生陸秋槎。だが、読者は唯一の正確な答えを導き出せると思っていた問題にたいして寄せられた回答の中には、条件を満たしつつも設定した答えとは別の答えを導き出しているものもあり、可能性を排除できなかったことを強く悔いている。

犯人当て小説に厳密な一意性を持たせるために賢い人間の手を借りなければダメだ、ということで天才と名高い韓采蘆のもとを訪れ、次に載せる予定の自作の小説を開陳してみせる。韓采蘆は人体の表皮のトポロジカルな性質について立てた仮説を、陸秋槎の体に格子模様を書き込んで試そうとする変人だが、頭の良さは本物で、スラスラと作者が想定していた犯人にたどりき、さらにはその不完全さを指摘してみせる。

ここで重要なのは事件の詳細というよりも、犯人当てにおいて完全性(『問題となる公理系が扱う領域に属するあらゆる命題が、この体系のなかで証明を得られるべきということ』)を求めることは難しいという事実である。たとえば論理的に怪しいからといって容疑者の数を減らしたところで、犯人が現場に細工をしていた可能性、あるいは……と可能性を追求しはじめたら後退は無限に終わらなくなってしまう。

そうした議論を、推理小説に公理的方法やZFC公理系を追加することで考えてみたらどうか……と、数学における証明論とのアナロジーを絡めることで、推理小説の厳密性について思索を深めていくのがこの短篇のおもしろみ。ZFC公理系はいわば読者への挑戦状で、「すべての証拠は信頼できる」などの、ひっくり返されないメタルールを制定することにあたる。ただ、そうやって読者への挑戦を導入して小説がゆるぎないものになっても、推理小説の自由を減らすことになるのではないか……。

「それはそうだね」韓采蘆はまた空のコップを手に取って、口元まで持っていき、またもとの場所に戻した。「私のいちばん好きな数学者も言っていたんだ。〝数学の本質はその自由にある〟って。たぶん、推理小説の楽しみもそこにあるんだろうね」

そして、この短篇のタイトルでもある、証明も反証もできない命題であることが証明されている連続体仮説に話題は移り、推理小説の自由さへと話は鮮やかに繋がっていく。第一話にして、数学と推理小説の自由さという、本書の中核を構成する短篇だ。

フェルマー最後の事件

第二話「フェルマー最後の事件」は、フェルマーの最終定理を扱った事件だが、こちらは解かれるに至った歴史的な経緯が強く作中の謎解きに関わってくる。この最終定理は、3以上の自然数 n について、xn + yn = zn となる自然数の組 (x, y, z) は存在しないというものだが、フェルマーが証明を得たと書き残しながらも、証明をどこにも書かなかったので、完全に証明されるまでそこから358年も経ってしまった。

はたしてフェルマーは証明がわかったと書いた時、本当に当時判明していた知識だけでそれができていたのだろうか。はたまた、その予感だけが正しく証明はできていなかったのか。現代ではすでに証明されたとはいえ、複雑な方法をとっていて、フェルマーが仮に思いついていたとしても同様の証明をしたとは考えづらい。

このフェルマーの学説を理解するためにいい犯人当てがあるんだ、といって、陸秋槎は韓采蘆から〝フェルマー最後の事件〟と題された犯人当て小説を披露されることになる。フェルマーはおそらく正確な証明はできていなかったのだろう。しかし、フェルマーはその類まれなる数学者としての直感によって証明ができると「予想」していた。そうした卓越した数学者の魅力が、推理小説と陸秋槎らが現実で遭遇する暴力事件とのアナロジーで語られていく。この連携と解決がまた鮮やかなんだよなあ!

おわりに

原書に書かれた葉新章による解説は数学と関わりのある推理小説および後期クイーン問題の流れを整理しながらしっかりと本作の解説に繋げている素晴らしいもので、そこに邦訳文庫版には麻耶雄嵩による解説もついていて、これもまた凄い。残る二篇「不動点定理」と「グランディ級数」も抜群におもしろいので、ぜひ読んでね!