基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

がん治療を一変させる可能性を持った、新たな治療法の誕生と発展──『がんの消滅―天才医師が挑む光免疫療法―』

この『がんの消滅』は、新たながんの治療法として注目を集める「光免疫療法」について書かれた一冊である。光免疫療法はすでに米国や日本で一部の症例に対して承認され、標準治療となった新しい”がん療法”で、その仕組がこれまでの抗がん剤や放射線治療とは異なることから、その初期の段階から大きな注目を集めてきた。

僕自身光免疫療法の名をはじめて知ったのはいつだったか思い出せないが、その時から「僕ががんで死ぬ可能性が下がったかもしれない」と期待に胸を踊らせたものだ。何しろ、光免疫療法は既存の治療法と比べて「圧倒的に副作用が少なく、すべてのがんが治るわけではないが効果も高い」と目されていたからだ。本書は、その発明者である小林医師がアメリカの研究所で研究を始めるに至った経緯と、光免疫療法の発見・承認に至るエピソードやその仕組みを解説した一冊になる。

著者はライターの芹澤健介で小林医師ではないが、監修に(小林医師が)入っていて、中身は一般読者にもわかりやすく仕上がっている。そもそも光免疫療法はそのシステム自体はシンプル極まりなく、誰にでも理解できるものというのもある。先日はてなでは本書の抜粋がバズっていたのでそこで一度知った方も多いだろう。
shueisha.online
僕もこの記事で知ってすぐに本書を読んだのだけど、光免疫療法の治験への資金提供者が見つかるまでのドラマチックな展開、そのシンプルで美しくしかも効果の高い治療法に至る過程など、読み始めたらとまらずにあっという間に読み切ってしまった。

この治療法はまだ一部の症例でしか承認されていないし、すべてのがんが治せるわけではない。それでもこの治療法が今後より多くの症例に対して承認されれば、がんとの戦いは違った景色をみせてくれるだろう──と、新しい時代の到来を期待させてくれる治療法なのだ。というわけで以下、もう少し詳しく紹介していこう。

光免疫療法とはどのような治療法なのか?

最初に、そもそも「光免疫療法」とは何なのかについて紹介しておこう。光免疫療法は簡単にいえば「がん細胞だけを精確に狙い撃って殺す」治療法だ。現在メジャーな「がん治療」は、たとえば外科手術なら患部(腫瘍など)を切り取ったり、抗がん剤を使ってがん細胞の増殖を抑えて破壊したり、患部に放射線をあてて治そうとする。

それで治ることも多いが、がんだけを狙い撃って殺しているわけではないし、すべてを取り切れるわけでもない。外科手術では取りこぼしはどうしても発生するし、抗がん剤はいわずもがな。放射線治療も、がんだけに当てるわけにはいかない。一方、光免疫療法では、光に反応する薬(IR700)を投与し、薬ががん細胞に十分集まったところで、がんに対してレーザー光を当てることで治療する。

レーザー光は近赤外線で、それがどれだけ当たっても人体に大きな影響はない。しかし、IR700は近赤外線のエネルギーで化学変化を起こして、結合していたがん細胞に無数の傷をつけることでがん細胞が破壊される。それで終わらず、がん細胞が破壊されると周辺の免疫細胞が活性化して、がんに対してさらなる攻撃を行う。このあたりふわっと説明しているが、本書にはもっと詳しい説明もある。一部引用しよう。

体内に投与されたIR700と抗体の複合体ナノ・ダイナマイトはがん細胞の表面に数千個から数万個結合する。そこに近赤外線を当てられると、フタロシアニンを水溶性にするために結合されていた側鎖がスパッと切れ落ちる。スルホ基を失ったフタロシアニンの骨格は水に溶けない元の性質に逆戻りし、瞬間的に分子形状を変化させる。

「光療法」ではなく「光免疫療法」なのは、近赤外線を投射しがん細胞が壊れた後、免疫の追撃が発生するからだ。光免疫療法の仕組みは実にこれだけのことである。

光免疫療法の何がスゴいのか

この治療法の何がスゴいのかといえば、まず副作用が少ない点にある。放射線や抗がん剤と違って近赤外線は当て続けても問題はない。だから、一回で効かなくとも何度だって試すことができるし、副作用も(あまり)ない。体を切開する必要もない。

ただ、近赤外線は人体の場合透過できるのは数センチ程度なので、がんが体の奥にある場合は光ファイバーを挿す(3センチくらいのがんであれば直径1ミリの光ファイバーを1本、5〜6センチなら3本も挿せば十分らしい)ことで対応するらしい。どちらにせよ、切り開いて縫って、と比べれば圧倒的に負担が少ないのは間違いない。しかも、目視で確認するわけではなくて、ターゲットに対して「勝手にIR700が結合してくれる」ので、人間がやったら絶対に発生する取りこぼしや見逃しが少ないのだ。

この治療法は狙って結合させられるならバクテリアや細菌であっても破壊可能なので、それらに対する研究も進められている。その応用範囲は、がん治療を超えて幅広い。

弱点はあるのか

スゴいスゴいといってもがん治療は挫折の歴史でもある。画期的な治療法だ! と持ち上げられて、確かに効果はあったけど、ほんの一部のがんにしか効果がない。そんな治療法がたくさんある(一部に効果があるだけでスゴいことなんだけど)。

というわけで光免疫療法にも弱点がないわけでもない──はずだ。まず弱点といえるのはその仕組み上、がん細胞だけにIR700を結合させる手段がなくてはならない。光免疫療法で最初に認められた治療薬(「セツキシマブ サロタロカンナトリウム」)も、「EGFR(上皮成長因子受容体)」という抗原を標的にしている。EGFRはすべてのがんの2割強に発現し、がん細胞の増殖に関わるタンパク分子だ。こうしたがんにしか現れない「標的」があれば、IR700を結合させるのは比較的かんたんな仕事になる。

でもそんな都合よく「標的」はないんじゃない? だから、弱点になるんじゃない? と思うのだが、意外とがんの特徴分子は知られており、分子標的薬としてFDA(米食品医薬品局)に認可されているものだけで35種類以上存在する。現時点ですでに相当数のがんをカバーできる可能性があるわけだ。下記は小林医師の見解である。

僕が光免疫療法が8割、9割の大部分のがん種に対応できるはずだと考えている論拠はここにあります。ほとんどのがん細胞には目印となる特異ながん抗原があって、対応する抗体もすでに見つかっています。

治験段階で判明した副作用としては他にも、壊れたがん細胞が炎症を引き起こし痛みを生じさせることもあるというが、他の治療法と比べると軽微とはいえるだろう。

おわりに

僕は将来的にがんで死ぬのだろうと半ばあきらめているが、できればその治療過程で苦しい思いをすることや、その時間はできるだけ短くあってほしいと願っている。光免疫療法がその時に広い症例に対して行き渡っていたら、たとえ最終的にがんで死ぬとしても、苦痛が少ない治療で最後の時を過ごせるかもしれない。

ただ単に「新しくよく効く治療法」なのではなく、「苦痛が少ない」治療法であること。僕はその点に大きな希望を覚えるのだ。本書では他にも、治験に進むために営業をかけていた時にさっそうと現れた楽天・三木谷さんとのエピソードなど、ドラマチックなエピソードも連続する。新書で読みやすいので、ぜひ手に取ってもらいたい。

魚にはどれだけの知性があるのか?──『魚にも自分がわかる──動物認知研究の最先端』

この『魚にも自分がわかる』は、「魚の自己認識」、はてはその先の問いかけとして魚の知性について書かれた一冊である。魚は脳も小さいし、餌に飛びつくような本能的な動きが目立つので、知的な印象を持っている人は多くないだろう。

だが、近年の動物認知研究の進展によって、そうした認識が誤りであることが明らかになってきた。たとえば、魚は鏡にうつった個体を正しく自分だと認識することができるし、そこに寄生虫がついているのが見えたら、砂底に身体をこすりつけてとろうともする、それどころか、こすりつけた後にもう一度鏡を見る動作までするのだという。鏡にうつった個体を自分だと認識できる鏡像自己認知の能力は、それまで猿や象など一部の知的とされる動物でしか確認されていなかったが、「魚の自己認識」について世界で唯一の研究室であるという著者らは、それを魚で確認したのだ。

そもそもどうやって魚が鏡の個体を自分だと認識したと断定できるのか? という研究の手法もこまかく語られていて、こうした動物の意識についての研究がどのようなプロセスを踏んで行われるのか、といったことも本書を読むとよくわかる。本書を読み終えたら最後、魚をこれまでと同じ目で見ることは不可能になるだろう。それぐらい魚に対する見え方、意識を一変させてくれた本である。

 しかし、本書を読めば、おわかりいただけると思う。これまでのヒトを頂点とする価値体系がおよそ間違っているのである。脊椎動物は、形態や知覚だけではなく、知性の面でも連続的であって、決してヒトや類人猿だけが特別な存在なのではない。控えめにいって、人と動物との間にはルビコン川はないというのが私の立場だ。 p10

どのように鏡の個体を自分と認識していることを確かめるのか?──猿篇

それにしても、どうやって魚が鏡の中の個体を自分だと認識したと確かめられるのだろうか? 元々、猿の鏡像自己認知の研究では、わかりやすいやり方がある。

たとえば、チンパンジーにはじめて鏡をみせると、彼らは最初は鏡に見知らぬチンパンジーがいると思い攻撃的な振る舞いをする。だが、次第にそうした行動はなりをひそめ、鏡に向かって自分の口を開いたり、股間を調べるなど、鏡をヒトのように使う行動が現れ始める。それだけだと鏡の中の個体を自分と認識しているとは断言できないが、そこからさらに確証を得るために、麻酔をしたのちにチンパンジーのひたいに印をつけて、それを鏡を見たチンパンジーが触るかどうかを確認するのである。

鏡を見せ、その直後にひたいを触るのであれば、鏡の中の自分を認識しているといえる。実際、この手法でチンパンジーの鏡像自己認知が確認されたのだ。ちなみに他の動物では象、イルカ、鳥(カササギ)で確認されている。イヌ、ネコ、ブタは鏡の性質自体は理解するが、自己認知までには至っていないようだ。

鏡像自己認知実験・魚篇

続いて魚の自己認知実験の話に移るが、実はこの実験を行ったのは著者らが初というわけではない。それ以前から複数の先行研究が行われていて、それらはすべて「魚に鏡像自己認知は存在しない」と結論が出て、それが世界の常識となっていた。

ところが、先行研究ではたしかに魚に鏡をみせているものの、魚が鏡の中の個体に攻撃的であることを確認して、自己を認知していないと判断し初日で実験をとりやめていたのである。だが、チンパンジーやカササギでは、どの個体も鏡をみせた最初の数日は自己を認識せず攻撃的であることが報告されているから、初日で鏡の中個体を攻撃したからといって「魚に鏡像自己認知はない」と結論づけるのは早計である。

そこで、著者らがホンソメワケベラで粘り強く数日に渡って試したところ、鏡を水槽におくとたしかに最初は攻撃的になるが、4、5日後にはそれをやめ、鏡を覗き込んだり、鏡の前で突然ダッシュしたり、上下逆さになったり、踊ったりと通常時には絶対にとらないような不可解な行動をとるようになったのだ。もちろん、それだけだとチンパンジーと同じく、鏡の中の自分を認識していると断言できるわけではない。

著者らは、チンパンジーと同じくマークをつけることにした。魚は手がないから仮にマークに気づいても触ることはないが、その代わりに体についた嫌なものを取りたい場合水槽の石や底に擦り付ける行動を起こすので、それで確認できるのだ。魚は普段から腹部をこするので、普段まずこすらない喉にマークをつける。さらに、ただのマークだと気にしない可能性が高いので、除去したい対象である寄生虫と見た目で誤認されるように茶色のマークをつけて───と、入念に実験状況を整えていく。

で、最初にネタバレしているのであれだが、ホンソメワケベラはきちんと鏡に映った個体を自分だと認識して、鏡で自分の喉を確認してから、すぐに砂底にいってこすりつけたのである!『そのビデオを最初に見た瞬間は、あまりの衝撃に「オーっ」と叫んだ。ほんとうに椅子から転げ落ちそうになった。』しかも、喉をこすった個体は、そのあとにもう一度鏡を確認して、とれたかどうかを確認しているというのである。

マークをつけた時の痛みがあって、それをこすりつけているだけじゃないの?? など無数の可能性を排除するため、マークをつけた個体群以外にも比較対象として色のない疑似マークをつけた個体など、複数の対照群も用意してのことである。たしかに、この実験とその結果からは、魚には鏡像自己認知があるように思える。

おわりに

とはいえ、こうした旧来の常識を覆した研究は、大きな反発も招くことになる。権威ある『Science』に投稿したところ鏡像自己認知の第一人者が査読をして否定的なコメントが返されてリジェクトされたり、認めさせるのは平坦な道のりではない。そうした研究者の世界ならではの戦い──査読コメントを受けてどう穴を塞いでいくのかを考え、再度実験する──が描かれていくのも、本書の読みどころのひとつ。

著者らの研究は現在も進展中であり、魚が鏡の中の自己を認識できるとして、ではその認識はどのレベルのものなのか? ヒトと同レベルの、自分の認識状態を認識できる、いわゆるメタ認知と呼ばれる高度な知覚を有しているのだろうか? などさらに先の問いかけや、現在わかっていることも本書では披露されていく。

本書では他にも、ヒトと魚の脳の構造がどれほど似通っているのかなど、脳科学の観点からの考察など多くの論点が含まれているので、実際に読んで確かめてもらいたい。ヒトを頂点とする旧来の知性観を一変させてくれる一冊だ。

認知科学の観点からいえる、最強の英語学習法──『英語独習法』

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

英語独習法 (岩波新書 新赤版 1860)

この『英語独習法』は、認知科学や発達心理学を専門とする今井むつみによる、認知科学の観点から考えた最強の英語学習について書かれた一冊である。『「わかりやすく教えれば、教えた内容が学び手の脳に移植されて定着する」という考えは幻想であることは認知心理学の常識なのである。』といったり、多読がそこまで良くはない理由を解説したり、一般的に良しとされる学習法から離れたやり方を語っている。

特徴としては、「何が合理的な学習方法なのか」を披露するだけではなく、「なぜそれが合理的なのか」という根拠を説明しているところにある。だから、これを読んだらなぜ一般的な英単語の学習法(たとえば、英単語と日本語の意味を両方セットで暗記していく)が成果を上げないのか、その理屈がわかるはずだ。認知科学のバックボーンから出てくる独習法も納得のいくものばかりである。僕も様々な理由(英語圏Vなどの英語が聞き取れるようになりたい、洋書のSFやノンフィクションをたくさん読みたい)から30を超えてなお英語を勉強し続ける日々であり、大変有益だった。

スキーマの違いが学習を妨げる

認知科学的に最適な学習とはどういうことなのか。いくつかの概念を通してそれを説明していくわけだけれども、中でも重要なのはスキーマだ。スキーマとは体系化された知識のまとまりであり、その詳細が意識されることはない。母語をしゃべる時に、主語がこれで述語はこれで……と考えたりしないのと同じことだ。文法を知識として知っていることと、文法を使いこなすことはまったく違うことだ。

本書では、スキーマを通して言語を学習するとはどういうことかについて、最初に英語の可算・不可算文法を通して説明している。可算・不可算文法の定義はシンプルだ。数えられるものが可算で、数えられないものが不可算。可算名詞で一つなら名詞の前にaがつき、複数なら名詞の語尾にs、不可算名詞には付けない。シンプルなようだが、これがなかなか面倒くさい概念だ。たとえば、名詞で表される概念は、可算・不可算のどちらかに分類されなければならないが、使い分けが難しいケースもある。

キャベツやレタスはどちらも使われるし、idea(可算)やevidence(不可算)といった抽象概念も可算・不可算で判断する必要があり、判断が難しい。母語の学習過程を考えてもらえればわかると思うが、英語を母語として学習する子供は、名詞を覚えて後からそれが可算なのか不可算なのかを覚えるわけではない。aがついているか、sがついているのか、何もついていないのかといった(当然そこに冠詞なども絡んでくる)文脈と文章におけるかたまりごとに覚えていく。そして、かたまりごとに覚えていくうちに、そこに可算・不可算といった区別が存在することにいつか気がつく時がくる。

つまり、母語を覚える子供はスキーマを自分で作り上げるのである。スキーマが形作られると、今度はそれに基づいて意味の推論が行われる。teaと言われた時、可算・不可算文法を熟知していれば、その文脈の中でteaが液体としての中身(不可算)の方を指しているのか、コップ(可算)の方を指しているのかが自然と判断できる。そして、可算・不可算の形に常に注意を向けているから、ideaやevidence,jewelly(宝石。数えられるように見えるが、実際には不可算名詞)のような場合分けの難しい名詞が出てきた時に、その用法を聞いてああ、これは可算/不可算なのね、と深く納得する。

日本語では、ある名詞が数えられるか否かで何も変化しないので、文法的に意識することはない。『このため、日本語話者は、英語話者のように名詞の文法形態に自動的に注意を向けるということをしない。これが英語の名詞の可算・不可算を覚えることを難しくする。』英語を読んだり聞いたりした時も、名詞の意味にばかり注意を向けて、可算・不可算の形態に向かないので、いつまで経っても覚えられないのだ。

誰もが母語に対しては豊かなスキーマを持っているのだが、そのことを知らずに、聴いたり読んだりしたことを理解したり、話したり書いたりするときに無意識に使っている。暗黙の知識を無意識に適用しているので、外国語の理解やアウトプットにも母語スキーマを知らず知らずに当てはめてしまうのである。

単語について

重要なのは単語もだ。ある単語がどのくらいフォーマルかという感覚は、意味だけみていたらわかりづらい部分だ。日本語でいえば、「選ぶ」と「選定」は辞書的にはほぼ同じ意味になる。しかし、友人同士が学食で話していて「先に席とっとくからお前早く選定してこいよ」といったら「お前はアーサー王かよ」とツッコミが入るだろう。意味は同じでも、使うシチュエーションは異なることが日本語話者にはわかる。

つまり、ある単語を使うときにはその単語の意味を知っているだけではダメで、その単語の類義語、その単語の使用頻度、どのような文脈で使われるのか、といった氷山の下の広い知識が必要になってくる。日本語でカンガルーが歩く、と言われたら違和感を覚えるが、それは普通、カンガルーは跳ぶからだ。それに違和感をおぼえ、跳ぶを使うためには、日本語には移動するための動詞に、歩く以外に跳ぶだとか這うだとか走るだとかがあることをしっていなければならない。

では、どう学習すればいいのか

では、どう学習するのが最適なのか。そこは本書の肝の部分なので、詳細に紹介はしないけれど、単語学習で一つだけあげると英単語と日本語の意味の関係性を調べるだけでは不十分である。英単語の類義語を調べ、使われるシチュエーションや一緒に使われることの多い単語を調べと、単語の周囲の世界も含めて調べる必要がある。
skell.sketchengine.eu
本書ではいくつかの英語学習に最適なwebサイトが紹介されているが、「SkeLL」は、英単語を入力すると大量の類例、共起される言葉、一緒に使われることの多い単語を視覚的にわかりやすく表示してくれる優れたサイトだ。たとえばevidenceを入れると、類義語にはinformation,knowledge,statement,analysisという情報や知識、分析に関連した単語が並ぶ。共起語にはsuggest,support,present,provideといった単語がそれぞれ表示されている。これを繰り返していくと、一つの単語を覚える過程で他何十もの単語をその関連の中で頭に入れていくことができるだろう。
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日本語と英語のようにスキーマが大きく異なる言語圏だと語学学習については高いハードルになる。しかし、その違いをきちんと認識して、これまで見過ごしてきたスキーマに意識を向けるようにすれば、その差は乗り越えることができるはず。そう実感させてくれる、心強い新書であった。

東浩紀による自伝的経営奮闘記──『ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる』

この『ゲンロン戦記』は、ゲンロンという、SF作家養成や批評家養成スクールを開いたり、批評家や作家や哲学者らの対談イベントを自前のカフェで開いたり配信したりして利益を出している小さな会社を経営していた東浩紀氏の自伝的奮闘記である。経営本であるというと基本的には大成功を収めた人がその華々しい経歴やその経営哲学を語るものだが、本作で描かれていくのは無残な失敗の連続だ。

それも、「それならしょうがねえよな」と同情してしまう失敗、というより理念や理想が先行してそのうえ行動力も伴っているがゆえに実態がまるで追いつかず、「そんなことやっているんですか……」と絶句してしまうような失敗が多。それを真摯に反省し、なんとかしようと奮闘し、また同じような失敗をして落ち込む……という繰り返しが発生している。それでも、少しずつ前に進み『会社の本体は事務にあります』と悟り、最終的にはゲンロンの代表をひき、適度な距離感のもとゲンロンとの新しい向き合い方に至るという、凡庸な敗退、しかし実態としては大きな達成についての話に繋がっていて、これが非常にエモいのだ。

人間は権力や立場を得ると、ミスや間違いを認めなくなる傾向がある。それは損失をより強く恐れるという人間の認知的にもそうだし、一度立場を築いてしまったらミスを認めないダメージも大きくはないのだろう。そういう点でいうと東氏を見ていておもしろいのが、この人はキャリアの初期から明らかに良い立場を築き上げている一方で、ゲンロンに限らずに、比較的に自分の間違いをよく認めているところである。

それも、ただ言葉で認めているだけではなくて、その後の行動が大きく変わるのが見えることから、ああ、その反省は行動にまで影響が及ぼしているのだな、とわかるのだ。完全に他人事で申し訳ないが、はたからみているとそういう人間としてのあり様がとてもおもしろい人、というイメージだったが、本書はその人間としておもしろい部分が凝縮されている。何しろ、本書のまえがきは次のような文章で始まるのだ。

 ゲンロンの10年は、ぼくにとって40代の10年だった。そしてその10年はまちがいの連続だった。ゲンロンがいま存在するのはほんとうは奇跡である。本書にはそのまちがいがたくさん記されている。まがりなりにも会社を10年続け、成長させたのは立派なことだとぼくを評価してくれていたひとは、本書を読み失望するかもしれない。本書に登場するぼくは、おそろしく愚かである。
 ひとは40歳を過ぎても、なおかくも愚かで、まちがい続ける。その事実が、もしかりに少なからぬひとに希望を与えるのだとすれば、ぼくが恥を晒したことにも多少の意味があるだろう。

おそろしく愚か

おそろしく愚かとはどういうことか。たとえば、ゲンロンを創業した2010年、宇野氏、濱野氏、浅子氏、X氏と東氏の5人で新しい時代をつくるために会社をつくろうといっていたのだが、方針で決裂し宇野氏が抜け、創業後には濱野氏が抜けてしまう。あっというまに3人の会社になるも『思想地図β』を刊行しこれが売れた。

ゲンロンは当時取次と契約しておらず、想定を超えて3万部も売れたので多くの資金がこの時点でどっと入ってきた。しかし、これが次の問題に繋がっていく。原稿料も新しい流れを、ということで印税方式を導入していて(破格の15%)、さらに100万だか200万だかをかけて無意味で派手なパーティムービーまで作った。すべては資金ありきだ。ところが、問題の人物X氏はゲンロンの金を勝手に引き出して個人事業所の運転資金に流用しており、いきなり金銭面で大きなもめ事に陥ってしまうのだ。

「いきなりそんな人と出会っちゃってかわいそう」同情したくなるものだが、実態としてはこの使い込みに本人が自白するまで半年以上も気づかなかったわけで、そうした「お金の管理とか、事務とか、面倒くさいことは見たくもない」という態度が大きな問題に繋がっているのである。実際、こうしたお金の勝手な使い込みはこの後も続くのだ。『ところがじっさいには使い込みに半年以上も気づかなかった。こんな鈍感で間抜けな人間が、言論人なんて名乗れるわけがない。新しい出版社をつくると息巻いても、じっさいは面倒なことを大学の事務員や出版社の編集者に押しつけ、見ないふりをしているいままでの知識人たちとたいして変わらなかったわけです。』

地道に生きねばならん。

その後も、売れた思想地図の続編で売上の3分の1を被災地に寄付すると決めたら、純利益じゃなくて売上にしたせいで利益がまったく残らずに会社が傾いたり、社員の頑張りで乗り切ったら疲弊して大量にやめるなど、経営的にはめちゃくちゃである。

本書がおもしろいのは、批評や脚本、小説執筆といった言葉、理屈の世界で生きてきた東氏が、そんなめちゃくちゃな状況から、事務作業やら対面の対話やら、書類の整理といった細々とした面倒なことを「ちゃんとやることが大事なんだ」と自覚していく過程にある。ゲンロン立ち上げ当初はすべてはリモートで完結可能であると思っていたが、それも間違いだった。ファイルはクラウドにおいてもいいが、それだけだと社員は仕事を忘れてしまう。誰かが紙でファイルに入れなければならないのだと。

 そういう作業をするなかで、ついに意識改革が訪れました。「人間はやはり地道に生きねばならん」と。いやいや、笑わないでください。冗談ではなく、本気でそう思ったのです。会社経営とはなにかと。最後の最後にやらなければいけないのは、領収書の打ち込みではないかと。ぼくはようやく心を入れ替えました。そして、ゲンロンを続けるとはそういう覚悟をもつことなのだと悟ったのですね。

そうやって七転八倒しながら経営していく中で、ゲンロンカフェでイベント事業を立ち上げ、3時間でも4時間でも時間を決めずに会話をする中で、コミュニケーションでは思いも寄らない事故が起こる、その「誤配」こそが重要なのだと言って誤配の哲学に繋がったり。我々は誰もが作家やクリエイターといったスター選手になれるわけではない、しかし、作品を楽しく鑑賞して制作者を応援する「観客」になるのもいいのではないか、というコミュニティ作りの哲学に発展していったりといった、大きな流れ、思想も生まれていくことになる。

おわりに

メインストリームにとってかわる価値観、「オルタナティブ」を指向し続けてきた東氏が、ゲンロンというオルタナティブな場を10年なんとか成立させようとしてきた話でもあり、単純な経営奮闘記というよりは、その思想・人生を総括するような一冊になっていて、語り下ろしの軽い新書ながらも抜群におもしろかった。

様々な宇宙の形、時空の形を知ることができる格好の時間入門──『時間は逆戻りするのか 宇宙から量子まで、可能性のすべて』

時間は逆戻りするのか。普通に生きていると時間は一定の方角に向かって流れていくので逆戻りなどするような感じはしないが、実は物理法則上は時間が逆戻りする可能性は存在する。昨年日本でも『時間は存在しない』で話題をかっさらったループ量子重力理論の提唱者カルロ・ロヴェッリは「そもそもね、時間なんて存在しないよ」といったり、同2019年には、量子コンピュータを用いた実験でロシア・アメリカ・スイスの共同チームが「時間が逆転する現象」をとらえることに成功した。
www.nature.com
少なくともミクロの世界では時間逆転が認められるのである。じゃあ、我々は過去に戻ることができるんですか!? といえば、そう簡単でわかりやすい話ではない。そんな感じで、時間にまつわるあれやこれやの話をしていくのが、ホーキング博士に師事した物理学者である高水裕一さんによるこの『時間は逆戻りするのか』である。

ロヴェッリの『時間は存在しない』を含めていままで数々の物理系ノンフィクションを読んできたけれども、本書はその中でもわかりやすい部類だ。数式は出てくるが、こちらもわかりやすい形でその解説していて、苦になる人もあまりいないだろう。

熱力学第二法則という時間の流れ

時間は存在しないとか逆戻りするとはいうが、それ以前の問題として時間は人によってのび縮みするものだ。楽しい時間は一瞬ですぎるとかそういう主観的な問題にくわえ、一般相対性理論にのっとれば質量は周囲の時空を歪ませるから、ものすごい質量の周囲の時間はものすごく遅くなる。地球の地面に近いところにいる人と、飛行機で空中を飛んでいる人であれば、飛行機サイドの方が速く歳をとるのだ。

それとあわせて重要なのは、基本的な物理法則において、過去と未来は区別できないということだ。ハイゼンベルクやシュレディンガー、ディラックが導いた方程式の中は、同じ出来事をどちらにでも進めることができる。『よく、原因は結果に先んじるといわれるが、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対称だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。』(『時間は存在しない』より)

だが、すべての法則が過去と未来を区別するわけではない。基本的な物理法則の中でも熱力学については時間が関連してくる。有名な熱力学の第二法則、熱は高温から低温に移動し、その逆はありえないという法則によって、世界は一つの方向性に向かっているように見える。「過去の痕跡」がある一方で、「未来の痕跡」が存在しないのはエントロピー増大の過程が、不可逆とされているからだ。

マクスウェルの悪魔復活

ただ、そうした状況に風穴を開けたのが冒頭で紹介した量子コンピュータを用いた実験である。量子コンピュータは、通常のコンピュータの「0」と「1」の他にその両方の重ね合わせの状態を表現することで飛躍的な計算速度の向上を実現する。

研究チームはこれを使った生物の遺伝子進化をシミュレートするプログラムを走らせていたのだけれども、プログラムが進むにつれて想像通りにエントロピーは増大(0と1の秩序は失われ)していったにも関わらず、ある瞬間から逆に0と1の配置がそろいはじめ、一定の秩序が生まれたことを観測したという。『ところが、実験ではその状態が修正され、カオスから秩序へと「逆方向」にキュービットが巻き戻り、元の状態になった。それは、テーブル上に散乱したビリヤードの玉が、完全な計算にしたがって完璧な秩序をもつ正三角形に戻るのと同じである。すなわち時間が逆転したのだ』

これはもちろんマクロの世界で起こるような事象ではないが、量子世界においては時間逆転を起こすことは可能っぽい。また、こうした時間逆転は量子レベルでは意図的に起こせることから、(実験を2キュービットで行った場合は「時間の逆転」の達成率は85%)量子コンピュータのノイズやエラーを消すために使えるので、わりと実用的なレベルで時間の逆転事象が我々の手元にやってくる可能性もありえる。

時間は存在しない?

一方で時間はそもそも存在しないというカルロ・ロヴェッリのような勢力も存在する。彼の提唱するループ量子重力理論によれば、途切れなく連続的なものであるとおもわれていた「時空」には、実は分割可能な最小単位があるのではないかという。

時間も空間も最小単位がある素粒子だとすると、それらも量子として扱えることができるようになり、不確定性原理の影響を受け時間も空間も揺らいでいることになる。つまり、時間は、人間が観測する時にそこにあるように見えているだけで、実際にはそんなものはない。あるのは、Aという事象とBという事象の間の関係性だけである──というのが、ロヴェッリのいう「時間は存在しない」なのである。

これは我々の目の前に時間がどううつるかは関係なく、量子力学の方程式の中ではもう時間を表す必要はない、ということで、一般人にとってあまり意味のある宣言ではないが、物理学的には大きな議論を呼ぶトピックスだ。「いや時間はあるよ」といっている物理学者も多く、本書の著者も「時間が消えるとまで言い切るのは論理の飛躍があると感じる」と述べている。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

おわりに

本書では他にも、ループ量子重力理論以上に有名な、一般相対性理論と量子力学に折り合いをつけた量子重力理論のひとつ超弦理論を用いた時間&宇宙モデルを紹介していたり、これ一冊で複数の宇宙論の概要を把握することができるだろう。

僕が最近読んだのがどれもループ量子重力理論関連の宇宙本だったから(あと最近超弦理論の本が訳されないし)てっきり今世界の量子重力理論界隈ではループ量子重力理論のほうが優勢なのかと思っていたが、著者によると世界的にはまだまだ超弦理論の方が人気があるらしい(ただ、著者自身はループ推し。『率直にいえば私も、超弦理論は時空の本質を真剣に考えているとは思えず、ループ量子重力理論のほうに相対性理論や量子力学にも通じる過激なまでの革新性を感じるのです。』)

本書では他にも、時間が仮に二次元だったらどのような世界になる?(我々の世界では直線の時間が平面の上を進むようになるから、簡単に過去に戻れるようになる)とか、空間が4次元だったらどうなる?(重力がどのようになるのかは空間の次元数に関わってくるが、空間が4次元になると恒星の周囲を周る惑星の軌道が安定しなくなる)など、二次元世界の住人の物語を描いた古典的名著『フラットランド たくさんの次元のものがたり』を読んだ時のようなおもしろさが味わえる章もある。

260ページでサクッと読めるので手にとって見てね。

ペストから新型コロナまで──『人類と病-国際政治から見る感染症と健康格差』

4月18日頃刊行の新書なのでなんともタイムリーな……と読み始めてみたが、コロナ騒動が持ち上がってから書き飛ばされたような新書ではなく、数年にわたって書き続けてきた本がこのタイミングで刊行となったようだ。タイミングがよすぎるが、人類の歴史は感染症との戦いの歴史でもあって、そこまで「偶然の一致」というわけではないのかもしれない。歴史を振り返れば戦いは常にあったのだから。

というわけでこの『人類と病』は、主に感染症にたいして人類は国際政治という観点からどのように戦ってきたのか、その戦うためのスタイル──保健協力の体制を、どのように作り上げてきたのかをまとめた一冊になる。あまり分量的には多くはないが、現在蔓延している新型コロナについての記述も各章に散りばめられている。

感染症は、一国の中で収束するものではなく国境を超えていくので、国際的な協力が必要不可欠だ。今でこそこうした世界的な感染症についての対策をするWHO(World Health Organization)という機関があるが(政治的な問題で分裂しかかっているが)、当然ながら過去には存在していなかったわけで、どのような流れの中でWHOが生まれることになったのか。その失敗と苦闘の歴史がコンパクトにまとまっている。このような混乱状態にあるときこそ、「そもそもなぜWHOは設立されたのか、そしてなぜ今このような状態になっているのか」という過程を理解することは重要だ。

感染症との闘い

感染症との闘いとしてまず真っ先に上がるのはペスト(黒死病)だろう。これはペスト菌に由来した感染症で、1347年から52年にかけては人口の3分の1が犠牲になったといわれている。14世紀のことなので治療法どころか感染のメカニズムもわかっておらず、とにかくバタバタと人が倒れていく。その後何度も流行を繰り返し、17世紀ロンドンに至っても混迷した市民たちは占い師を頼り、自称魔法師や妖術者が現れた。

17世紀でさえも予防ワクチンも感染メカニズムもわからないので、とりえる手段は隔離であった。患者発生の家は1ヶ月、患者を訪問したものも一定期間自宅監禁されたが、これは市民のヒステリーを引き起こして逃亡を企てるものが続出したという。

フランスの作家アルベール・カミュは一九四七年に発表した『ペスト』のなかで、ペストに襲われ、閉鎖された都市の様子を描いている。幾何級数的に増えていく患者の収容が追いつかず、患者の出た家は閉鎖され、しまいに都市全体が外部と遮断される。食料の補給と電気の供給は制限され、ガソリンは割当制となる。ライフラインを絶たれ、絶望のなかで葛藤する人々の姿は、第二次世界大戦中、ドイツ軍占領下のフランスの様子と重ね合わせられている。「ペストがわが市民にもたらした最初のものは、つまり追放の状態であった」(カミュ、一〇二頁)という一文は、感染症が戦争と同じく、市民社会を包囲し、極限に追い込みうるものであることを示している。

今日のような状況は、何も未曾有の事態ではなく、繰り返されているのである。

対処の進歩

で、人類は感染症に完全勝利しているわけではないので、未だにその威力は我々にかなりのダメージを与える。だが、対処が後退しているわけではない。ペストと並んで極悪な感染症である一九世紀に爆発的に蔓延したコレラは、はっきりとした感染メカニズムは不明ながらも不衛生な環境が関係していると判明し、公衆衛生設備が次第に発展していった。だが、一国がそうやって対処をしても感染症は国境を超えてくるから、その時はじめて国際的な感染症対策の会議が必要とされることになる。

そのはじまりとして、一八五一年にフランスの主催で最初の国際衛生会議が開催された。そこではろくなことが決まらなかったが、エジプト、マルセイユでもコレラが蔓延し(どちらもイギリスが持ち込んだ)、今度こそ国際的な合意を形成しようと一八八五年にローマで国際衛生会議が実施。統一した国際検疫システムの運用が目指されたが、経済への影響を懸念したイギリスの反対によって合意形成には至らなかった。人の行き来が少なくなると経済は息詰まる。一方、感染症が蔓延してもそれは同じだ。国際衛生協定が結ばれたのはそこから二〇年近く経った一九〇三年のことになる。

もっとも、この国際衛生協定はコレラ、ペスト、黄熱病に限定されていて、第一次世界大戦時に猛威を奮ったインフルエンザ、マラリアは対象外であった。その時(第一次世界大戦後だが)に立ち上がった/活躍したのが、人類史上初の普遍的国際機関である国際連盟である。国際連盟規約は第二三条で、病気の予防と撲滅に取り組むことを規定していて、これで感染症への対策が国際連盟の管轄事項となった。この時に国際連盟保健機関が設立され、第二次世界大戦&国際連盟の消滅&国際連合の設立を経て、「再度国際的な保健機関を作ろう」という声かけがあがり、世界保健機関の設立へとつながっていくことになる。とはいえ、そこも一筋縄ではいかなかった。

まず敗戦国の加盟を認めるのかという論点があり(イギリスは慎重派だったが、アメリカはすべての国に開かれたものであるべきとしして受け入れられた)、冷戦の影響があって国連が安全保障以外の問題を扱うことに否定的なソ連との確執など、WHOがたびたび(今もそうであるように)国際政治の影響を受けてきたのがよくわかる。

おわりに

現代の感染症対策には国際政治と連動した動きも目立つ(米、英がWHOへの拠出金を止めたり、武漢ウイルスと呼んで敵対を煽っていたり)。ただでさえ移動・経済に影響が大きい上に、感染症が蔓延すると軍事行動に影響が出、安全保障に大きな影響を与えることもあって、政治の介入する余地は年々大きくなっている。『新型コロナウイルスへの対応をめぐっては、WHOは分担負担率の多い中国やアメリカの意向を踏まえざるをえないし、核開発をめぐるアメリカとイランの対立、貿易をめぐる米中対立や中台の緊張関係等が反映されているのは、そのような特徴によるものである。』

歴史的にみると実は感染症への対策は、協力することで双方ともにが利益を得やすい構造から、国際社会における「共通の敵」として機能し、協力を深めるいい機会になることも多い。冷戦時代にポリオワクチンのために協力したソ連と米国、国産連盟を脱した後も国際連盟保健機関と協力をした日本のように。が、現状をみるとむしろ対立が深まる方向へと進んでいるのが残念でならない。

ざっと紹介してきたが、他にもWHOがどのような具体策を打って天然痘を根絶させたのか、マラリア対策での悪手、また、目指すべき健康を「身体的、精神的、社会的に完全な良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」と定義するWHOが行う「生活習慣病対策」の難しさなど、幅広くWHOの役割についてみていっているので、特にこのような状況下では一度読んでおくことをおすすめする。

チバニアン認定の歴史が、科学的な意義深さも含めてしっかり理解できる──『地磁気逆転と「チバニアン」 地球の磁場は、なぜ逆転するのか』

2020年の1月に、46億年の地球の歴史区分して表す世界共通の地質年代のひとつとして「チバニアン」が採用されることになった。「チバニアンって何?? ジバニャンの亜種なの??」と思うかもしれないが、そうではない。その由来は千葉県からきている。実は、千葉の房総半島にある一部の地層に、この時代を象徴する特徴が記録されているのだ。それが書名に入っている「地磁気逆転」とも関わってくる。

地球には磁場があって、磁石を使うと方角がわかる。そもそも地磁気とはなにかといえば、地球の内部を源として、大気圏を離れた宇宙空間まで進出し、我々を守り方角を指し示す存在である。そして、多くの人は今、「磁石のN極は北を指す」と認識していると思うが、実はそれは普遍的で永久に変わらない設定値ではなく、歴史上何十回も「N極とS極が入れ替わっていた」というのが今は定説となっているのだ。「磁石のN極が南を指す」時代があったし、これから先も起こり得るのである。

本書は、実際に古地磁気学の研究者、専門家で今回の「チバニアン」認定を推進した研究グループの中心人物である菅沼悠介さんによって書かれた、地磁気の歴史をおいながら「地磁気逆転とは何か、どうやって起こるのか」についての一冊である。専門的な記述もかなりわかりやすく書いてあるので、「なぜチバニアン認定が凄いことなのか」が、その科学的な意義深さも含めてしっかりと順序立てて理解できるだろう。

そもそも地磁気は地球の内部でどうやって発生しているのか。

逆転云々以前に、磁気は地球でどうやって発生しているのか。そのプロセスは、内側から始まる。地球の組成は、表面に近い地殻、その下にゆるやかに対流するマントル、そのさらに下に外核、内核から構成されている。重要なのは、外核の存在だ。

外核は電気の流れる液体の鉄とニッケルからなっており、磁場の中を流体が動くとフレミングの左手の法則で電流が流れる⇛電流が流れるとそれが新たに磁場を作り出す、それがまた電流を生み──と、磁場や電流が最初は小さなものであってもお互いに強めあって大きな磁場を形成するのである。これが、磁気が存在する理由だ。

では、なぜ磁場が逆転するのかといえば、外核の対流が自発的に不安定化することによって起きるとする説がある。複雑な事象なので説明も一筋縄ではいかないが、引用すると次のようなかたちだ。『マントルとの境界に近い外核の外側で、ときどき小さな領域で逆向きの磁場の流れが発生することです。こういった流れが消えずに成長を続けると、双極子磁場すべてをひっくり返すことがあると考えられています。』

地磁気が逆転したらどうなるの?

本書の中では地磁気逆転に関連した話が展開していくわけだけど、その中でも心惹かれたのは、体内に磁石を持つ生物が地磁気逆転の時どうなるのかという話だ。たとえば、磁性バクテリアという水中に住む単細胞生物は、一定方向の磁場が与えられると一斉に一方向へ向かって泳ぎだす。体内の磁石で自分たちが逃げるべき方向を決めているわけだけど、仮に地磁気が逆転したら、敵に向かって泳ぐことになってしまう。

では、その時が磁性バクテリアの終わりの時なのか? と思いきや、実は磁性バクテリアの群れを観察すると、一部個体は「みんな」が向かう方とは逆方向に泳ぐのだという。『どうやら、磁性バクテリアには、ごくまれに、他の個体と逆の動きをする個体が生まれてくるようなのです』そういうやつらはほとんどの場合は早くに死んでいくのだろうが、地磁気の向きが逆転する異常事態には彼らこそが生き残るのだろう。

どうやって地磁気逆転がわかったのか

地磁気逆転のペースは不規則だ。過去80万年間で地磁気逆転は1度しか起こっていないが、過去250万年間では11回以上、100万年に5回ペースで起きている。白亜紀には4000万年ほどの間地磁気逆転が一度も起きなかった時もある(この変動には、マントルの対流が関わっているとみられている。約2億年ごとにマントル対流は活発不活発を繰り返していて、それが地磁気逆転の頻度と関連しているのではないかという)。

しかしどうやってかつて地磁気が何度も逆転したことがわかるのだろう。最初に「逆転しているのではないか?」と気づくきっかけとなったのは、溶岩やレンガなどがキュリー温度を超えて加熱された時に磁性を失い、冷える際に磁場が残留磁化として残るのだけど、それが現在の地磁気と逆になっていることからだった。各層で残留磁化を調べ、その向きが地質年代によってバラバラだったことから、自然と「地磁気は何度も逆転していたのではないか」という発想がでてくることになるのだ。

溶岩中心に調べていた時代から時を経て、今は放射性同位体を火山灰で計測することによってより精確な年代の特定が可能になった。ただ、どこでもその精確さが出せるわけではない。「一つの海底堆積物で」「地磁気逆転が記録されていて」「ミランコビッチ理論にもとづく年代決定が可能であり」「火山灰を含む地層」という条件が積み重なることではじめて一番最近(約77万年前付近)の地磁気逆転が起こった年代が決められるのだが──、その最適な地層が、千葉の房総半島にあったのだった。

おわりに

そうした重大な発見の根拠となった土地というだけで地質年代に選ばれるわけではない。そのためには地質年代の境界を規定するGSSP(国際境界模式層断面とポイント)に認定してもらう必要がある。チバニアンはイタリアの2地域とポイントを争っていたのだけども白亜紀末から中期更新世境界までの6500万年間のGSSPはすべて地中海沿岸地域におかれていて、その時点で相当不利だったわけだが──と、最終章では著者らがそこからチバニアンが選ばれるまでの苦闘が描かれていくことになる。

地磁気逆転はその原理もまだよくわかっていないし、それが起こったことによって歴史にどのようなインパクトを与えてきたのかなど、魅力的な問いかけが残っている。たとえば隕石衝突が地磁気逆転のトリガーになる可能性や、地磁気逆転による生物の絶滅・進化との関係(地磁気強度が極端に低下した時期とネアンデルタール人の絶滅が重なっていて、それが地磁気強度低下によるオゾン層の破壊と関係しているのではないかとする説もある。ホモ・サピエンスの方が紫外線の影響を受けにくいという)など、地球と磁気の関係性については、一度抑えておくとおもしろい分野だ。

マントルの対流のように、地磁気を考えるということは数億年単位で世界を捉えることでもあって、そうしたスケール性がこの分野の魅力の一つだなと思う。

「思い通りにいかないこと」を前提として考える──『悲観する力』

悲観する力 (幻冬舎新書)

悲観する力 (幻冬舎新書)

「悲観」についての本である。著者は作家の森博嗣氏。この書名を見た時、「ああ、これは(森氏が書くのに)ぴったりだなあ」と思ったが、それは氏がいつも不測の事態に備えて締切の半年前には原稿を上げるような人で、もう何年も前から「自分がいつか死ぬし、それは近日中の可能性もある」ということを常に意識し、書かれてきた「悲観的な」人であるからだ。実際、これだけ悲観的な人はなかなかいないだろう。

世間一般的に重要だと思われているのは、悲観よりかは楽観の方だと思う。未来は明るく、自分の前途には素晴らしい世界が待ち受けている、自分が今からやろうとしていることはきっとうまくいくだろうと完全に楽観的に考え、行動することができればそれは素晴らしいことなのかもしれない。受験生の前で「落ちる」とかの言葉を口にするなどアホくさいことを未だに言う人もいるが、そうした考えも「悲観するな、楽観せよ」という価値観からくるものだろう。だが、それで常にうまくいくとは限らないし、結局のところ準備が不足しているのだから、実際のその時が近づくにつれて、「期待」「祈り」をすることになり、完全に不安を払拭できるわけではない。

『けれども、この逆に、あらゆるトラブルを想定し、悪い事態にならないよう考えうるかぎりの手を打つ、という姿勢が、成功には不可欠である。』というのが、本書でいうところの「悲観」の力である。受験生の前で「落ちる」ということで、受験生がナイーブになって実際に力が発揮できない──ということが決してないとは言わないが、そもそもそんなくだらないことで左右されないぐらいに最初から「悲観して」、勉強をしていればいいだけの話である。受験当日にインフルエンザにかかったり、雪で受験会場に行けなかったり、虫歯が痛かったりといったアクシデントもあるかもしれない。しかし、そのほとんどはあらかじめ予測──、「悲観」できることだ。

インフルは感染して引くのだから、そもそも外に出ない、人に会わない。交通状況を見越して、歩いてでも間に合う時間に家を出る。歩いてで行けない場所なら、前日から乗り込む。虫歯が痛くて集中できなかったなんてことにならないように、受験の半年前から歯医者にいっておけばいい。適切な「悲観」が出来る人は将来的な危機に対して事前に手を打てるのであって、「まあ、大丈夫だろう」と楽観している人よりもはるかに安全側にいる。「楽観」とは「考えない」ことだといえるだろう。

将来こんなことがあるかもしれないが、大丈夫だろう。負けるかもしれないし失敗するかもしれないが、まあ大丈夫だろう、と「楽観」してしまえば、特に事前に考えておいたり、手を打ったりする必要もないから、楽である。実際、杞憂に終わることの方が多いだろう。逆に、「悲観」するというのはコストがかかることだ。「楽観」しているときよりも多く勉強をしたり、準備をしたり、考えたりする必要がある。

だが、その見返りは大きい。たとえば、締切当日に作業を終える日程を組んでいるとする。風邪を引かず、突発的な葬式などが入らなければ終わるだろうし、実際ほとんどそんなことは起こらない。だが、いつかその時はくる。インフルにかかる時もあるし、事故にあって作業ができなくなるかもしれない。そういう時に、森氏のように半年前までに原稿を上げるようにしていれば、かなりの部分対処できるし、周りでインフルが流行っている、うつされたらどうしよう、と心配する必要もない。

プログラマは悲観する

僕は本職がプログラマということもあるだろうが、もともと悲観的な考え方をするほうだと思う(先に書いたような締切の話はまさに自分自身の今の状態・不安を表しているから、ぜんぜん完全じゃないんだけど……)。楽観していてはなかなかプログラミングで仕事をすることはできない。システムの設計時には、対象となる操作者がどんな操作をするか、複雑に絡み合ったプログラムがどのようなバグを起こし得るかを「悲観」して、通常ありえないようなケースまで想定し準備しなければならない。

そもそも、人間が操作をすると必ずミスをするという「悲観的な」前提から、できるかぎり作業を自動化しようとする。無論、そこで無限のリソースがあるわけではないから、そのへんは有限のリソースを「悲観」と「楽観」にどのように振り分けるのかというバランス調整的な要素が入ってくるわけだが、それは現実でも同じだろう。たとえば道端を歩いていたら隕石にあたって死ぬ可能性があるわけだが、だからといって常に核シェルターの中に引きこもっていられるかといえばそうではない。我々は悲観と楽観の間で揺れ動いているが、そのバランスをどこで取るかは人によって異なっている。本書を読んだ人はそのバランスが少しばかり「悲観」側に傾くことだろう。

悲観するとは考え続けること

悲観するというのは結局、様々なケース「推測」し、それに対する対策を「考え続ける」ということで、面倒臭くしんどいのは確かだが、それこそが人間の特別な能力の一つなのだから、活かすにこしたことはないだろう。この記事では悲観のメリットについて書いているが、本書ではなぜ楽観主義がこれだけ日本で蔓延しているのか、悲観とはどのようなプロセスを経て行われるものなのか、楽観の危険性、悲観的に問題を洗い出した後の「冷静」についての話などなど、幅広く私論を展開していく。

ちなみに、森氏は別に楽観は完全なる悪だと言っているわけではない。当たり前だが、すべてのケースに手をうつことはできないわけで、悲観をして問題点を出し切った後に、もうこれ以上はどうしようもないというところから先は「楽観」するという「悲観的楽観主義」とでもいうべき姿勢が語られている。

失われた技術を復元する──『ジャイロモノレール』


本書はジャイロモノレールについての概説書である。

ジャイロモノレールとはレールが一本の鉄道の名称である「モノレール」にジャイロスコープを利用し、無支持で走行できる安定性を付与したものになるが、この技術は20世紀のはじめ頃(1900〜1910年)に開発され、その後大戦に突入したことで開発は中断。そのまま、それを成立させる技術も失われてしまっていた。

もともとモノレールが1レールで移動できるので、鉄道と比べれば2倍の輸送効率となり、ジャイロモノレールは既存の鉄道レールの上に乗っかってバランスをとることもできれば、それ以外の場所でもレールを一本置くだけで走行できるなど、敷設費が安くおさえられる利点がある。ジャイロスコープを用いた車体の構築など、本体費用は多額という難点もあり、一長一短ではあるものの、使い所はあるとみられていた。だが、一度開発が中断した後、再度この技術を再現しようとする人は長らく現れなかったようだ。そのため、失われた技術どころか、記録には残っているもののあれは演出用のトリックであり、実現は不可能と噂されるレベルだったらしい。

では、本書は失われた技術に対する懐古的な解説書なのかといえばそうではない。これは、普段は作家として知られる森博嗣氏が、個人研究としてジャイロモノレールに興味を示し、機構について調べてみると理屈上はそれが成立することがわかり、実際に試してみたらジャイロモノレールを再現できました──という、失われた技術の再現過程について綴られた一冊なのである。また、別に森氏はこれを企業に所属して潤沢な予算を与えられてやったわけでもなく、あくまでも個人の工作・研究の範囲で挑戦しており、個人研究としての観点のおもしろさも語られてゆく。

森氏がジャイロモノレール研究をはじめたのは2009年頃のこと。たびたび日記やエッセイなどで言及があったのでその活動自体は知っていたのだが、今回一冊の本を通して、ジャイロモノレールを成立させる理屈ついて、個人での工作の過程、試作機についてひとつひとつ詳細に語られていく様はワクワクさせられるものがあった。理屈をみて「これはいけるのでは」と判断してGoの判断をくだすところなど、未知の領域に踏み出す”研究”のおもしろさに満ち溢れている。

 ネットでは世界中の文献を調べることができる。便利な時代になったものである。まずは、イギリスのBrennanという人物が作った模型を見にいった。ヨークの国立鉄道博物館にある。当時の写真も数枚残っている。また、特許を取得しているので、その図面も入手することができた。一部だが、運動方程式から導いた原理の数式もあった。これらを展開してみると、どこにも「トリック」はない。
 こうして、理論的な方面からトレースした結果、「これは可能なのではないか」という確信を持った。「トリック」だと疑われているし、今まで誰も再現できていない。しかし、少なくとも理屈は正しい。

理屈が正しいのであれば、それを試す価値はある。うまくいかなかったとしても、それはそれで別の知見に繋がるだろう。本書では前半部を、ジャイロモノレールを成立させる機構について──それは、純粋にモータや歯車といった機構によって成立しており、個人で十分再現可能なものだ──の解説を行い、後半ではそれを受けて、森氏が挑戦したジャイロモノレール試作機たちの挑戦の歴史が解説されていく。

そこで描かれていくのは現代に生きるものにとってはほぼ未知の領域へと突き進んでいくおもしろさである。『研究は、学ぶことではない。学ぶことは既に誰かが知っている情報にすぎないが、研究して求める情報は、まだ世界のどこにもない、誰も知らないものなのである。』僕はそもそも「ジャイロ効果」ってなんなんだ? コマはなぜ倒れないのか? をろくに理解していないところから読み始めたのだが、特に複雑な数式があるわけでもなく、シンプルな表現の積み重ねでその理屈が解説されていくので、すっと全体を理解することができた。仮に一度読んでよくわからなくても、繰り返し読めばその意味するところが理解できるように書かれている。

ジャイロモノレールは今となってはより早く、より実用的な技術が出てきた関係上商用で積極的に用いられるような技術ではなくなってしまったが、その機構を理解することは今でも十分楽しい経験となるだろう。森氏のホームページにはジャイロモノレール関連の資料も揃っているから、動画などをみてみるといい。

機構が珍しく楽しいのもあるが、作っている姿がとても楽しそうだ。
浮遊工作室(機関車製作部)

ロケットエンジンの基礎が概観できる最高の一冊──『宇宙はどこまで行けるか-ロケットエンジンの実力と未来』

宇宙はどこまで行けるか-ロケットエンジンの実力と未来 (中公新書)

宇宙はどこまで行けるか-ロケットエンジンの実力と未来 (中公新書)

中公新書は『小惑星探査機はやぶさ』や『NASA─宇宙開発の60年』など、素晴らしい宇宙開発系の本を何冊か出している信頼感ある新書なのだけれども、本書『宇宙はどこまで行けるか-ロケットエンジンの実力と未来』も素晴らしい一冊だ。

ロケットエンジンの基本原理から始まり、イオンエンジンって何? 固体と液体の推進剤の違いってなんなの? どれだけ速度が出れば地球を脱出できるの? といった基本から、スペースXが挑戦していることの凄さ、スイングバイはどのような原理か、はやぶさがかつて達成したこと、今実際に任務についているはやぶさ2の仕様──といったことを、じっくり丁寧に、「電気の力とは何か?」といった基礎から教えてくれる一冊だ。著者は「はやぶさ」の帰還ミッションに関わり、世界初の小型イオンエンジンを実用化させた研究者で、実体験の記述の数々にも胸躍る。

ある質量を運ぶ時にどれほどの推進力が必要なのか、それをどう生み出すのか。惑星の軌道についてなど、理屈をしっかりと教えてくれるので、これを一冊読むことで、大雑把にいえば誰でも自分だけの宇宙計画を立てることができるようになる。たとえば、6人の宇宙飛行士が火星での滞在ミッションをするとしたら酸素と食料の分量と質量を計算し、実験器具や何やかやの重量を算出して、重さがわかったらあとは計算でどれだけのロケットエンジンが必要なのか割り出せるようになるからだ。

ロケットの基本原理

本書の構成としては、まず人工衛星の話からはじまって、それを打ち上げるための推進力の話へと進んでいく。ロケット推進の原理自体は物凄く簡単で、積み込んだモノを投げることで本体が進むというだけだ。電池が連結されたようなものを想像し、下に積まれた電池から順番に秒速2キロメートルで投げると、本体の方はその力を受けることで反対側に進む。これがよく宇宙ロケットの打ち上げでみる光景だ。

「宇宙開発の父」と呼ばれるコンスタンチン・ツィオルコフスキーはこのシンプルな「モノを投げると反対側に飛ぶ」関係性を算出する公式を作り上げたが、難しい部分はなく、塊を投げる速さ、本体の重さから最終的な速度が簡単に算出できる。たとえば、人工衛星になるために必要な地球の高度に到達するためには秒速7.7キロメートルが必要になる。7.7キロメートルを得るためにこの公式を用いて計算すると、排気速度が秒速2キロ、かつ最終的に宇宙に運搬する質量が1キロならば、別途55個分の塊を秒速2キロでぽんぽんと投げつづけると、達成できることがわかる。先に書いたようによくロケットの打ち上げで使い終わった推進剤を切り離していくが、なぜあんな勿体無いことをするのかといえば、燃料容器やエンジン自体が重さを持っていることで加速する際の負担となるので、切り離すことで軽量化しているのだ。

さぁ、とはいえ簡単に物を秒速2キロで投げられるものでもない。ロケット推進は先に書いたように基本的にモノを投げて進む力なので、重いものを遅い速度で投げるか、軽いものを速く連続して投げるかなど選択肢が複数あり、その後も「モノを投げる」を化学エネルギーで実現するのか電気エネルギーで実現するのか、化学エネルギーで実現する場合は固体か液体かなど無数の条件に枝分かれする(それぞれの利点と欠点がある)。本書ではそのへんのち外もコンパクトにまとめていくことになる。

電気推進エンジン

本書では次に、はやぶさが採用していたイオンエンジン(電気推進)の仕組みを、「電気の力」とは何か? といったところから解説し、その後は木星、金星、火星探査を行う時に具体的にどのような計算・準備が必要なのか、外惑星探査および太陽系外に飛び出すには──とどんどん遠くを目指す形でエンジンの検討を重ねていく。特にイオンエンジン周りは著者が実際に研究として取り組んでいるところでもあり、魅力的にその理屈が語られている。電気で推進して飛んでくんだから凄いよなあ。

言うまでもなく広い宇宙で目的地にたどり着くためには大量の加速が必要になる。打ち上げ、そのまま真っすぐどこかへ向かっていくのならそこまで困難ではないが、小惑星まで行って返ってくるような「はやぶさ」のミッションでは一度着陸してまた出発しないといけなくて、そのために必要な推進剤は先のロケット式では莫大な量になる。そこで重要になってくるのが、化学エネルギーほどには推進剤を必要とせず、電気でプラズマを生成しイオンを噴出することで推進力を得るイオンエンジンなのだ。

これは、無論化学エネルギーほどの加速は得られないが、比較的少ない燃料で長時間動作させられるので人工衛星や探査機のエンジンとしてはうってつけなのだ。

おわりに

その後も、有人火星探査をするとしたら──と仮定したのざっくりとした試算など、ロケットエンジンの話だけではなく「宇宙探査」についての科学話が山盛りだ。

 ここからは惑星間航行に必要な推進剤の話だ。最初に触れたように、地球低軌道から出発して火星周回軌道から往復航行するには、合計で秒速8キロメートルの増速が必要であり、宇宙船68トンをそれだけ加速させなければいけない。そのためにはロケットエンジン、そして推進剤が必要である。エンジンには、現在の宇宙産業における主力推進剤であるヒドラジンを使った化学推進を想定し、排気速度を秒速3・0キロとしよう。ロケット公式を使えば、秒速8キロの速さを得るには、運びたい物の14倍強の喪失料が必要だとわかる(68☓14で952トン)。

スペースX当然のように宇宙旅行を計画し、「剛力月に行く予定なし」というニュースが世を賑わせる昨今。「宇宙はどこまで行けるか」や「有人火星探査」の現実的な検討は、もはや夢物語ではなく、もう手が届くところにきている。本書は、基本的にはロケットエンジンについての一冊ではあるが、エンジンは宇宙開発の礎ともいうべき部分であり、本書を読むことで、いよいよ宇宙が我々の手の中に入ってきたのだな(少なくとも、過去との相対的な比較でいえば)という実感を強くすることになった。

これから先もまだまだ人類は宇宙に進出するし、その何十倍もの探査機が宇宙に向かって射出されていく。そうした時に、本書の知識があれば、その興奮やリアル感は段違いになるはずだ。「宇宙好き」だけの物にさせておくには勿体無い一冊である。

けものフレンズのプロデューサーが語る、アニメビジネスの金の流れ──『アニメプロデューサーになろう! アニメ「製作(ビジネス)」の仕組み』

福原慶匡さんは、今では『けものフレンズ』の制作会社ヤオヨロズのプロデューサーとして(製作委員会と揉めた件も含めて)有名だろう。とはいえ、その前から直球表題ロボットアニメやら、てさぐれ!部活ものやら、みならいディーバやら、バラエティ番組の手法を3dアニメと組み合わせた実験的な作品に関わっている。そうしたアニメ群が通常のアニメの制作手法からはかけ離れていたこともあって、僕のその頃の印象としては胡散臭い人間であった(ダテコーともやたらと揉めてたし)。

それに加えて昨年は『けものフレンズ』事件もあったし、本書も暴露本とまでいかずとも、時流に乗ってパーッと書き上げられた本なんじゃないかと疑っていたのだけれども、読んだら驚くほど真っ当なアニメビジネスの解説本としてまとまっており、勉強になった。暴露話なんかまったくなく、「アニメプロデューサーになろう!」という書名ではあるものの、なり方が書いてあるのは最終章だけで、他の部分はアニメビジネスではどうやって金が発生しているのか? という詳細な解説になっている。

たとえばアニメーターが恐ろしいほどの低報酬で働いており、クリエイターへの還元がなされていないとされている現在の状況はなぜ生まれているのか。諸悪の根源とも言われる製作委員会方式(アニメ作品を作るリスクを分散させるため、複数の会社が制作費を持ち寄る)はなぜ生まれ、いまだに用いられ続けているのか。アニメ作品の売上というとまずパッケージ(DVD・BD)が頭に浮かぶが、それ以外の回収手段には何があり、どれぐらいの比率を占めるのか。製作委員会はどのように放送局を決定するのか、AmazonやNetflixへの1話あたりの配信権利料金はいくらぐらいなのか。

そういった情報が詳細な金額と共に明かされていくので、1話30分の1クール作品を作るのに制作費は深夜アニメで1.8億ぐらいで、宣伝費など諸々を合わせると2億〜3億ぐらいだというが、本書を読むことでどこにそれだけの金がかかって、どういう構造でそれを回収するのかがおおむねわかるのが凄い。『本書は「この先」を作るために、アニメーションプロデューサーに必要な「今現在の常識」を一気に学べる本をめざしました。アニメビジネスの未来のために、この本をぜひ使ってください。』

どれだけかかって、どうやって回収するのか

1クールアニメの費用2〜3億円の内訳としては、まず1.8億円が制作費(仮の話だが)。次がテレビで放映してもらうためにかかる「提供料」。これがキー局で深夜枠だと、どんなに安くても月1000万円以上で3ヶ月で3000万円。そこに加えて宣伝をする必要があり、だいたい1作あたり1000万円〜2000万円ぐらいが相場だという。

その後は放映され、パッケージになって回収されていくわけだが、製作委員会方式ではどのように分配されるのだろうか。本書がどのような情報の粒度で書かれているかを紹介するためにも、ちと該当部分を(かなり単純化した例だが)引用しよう。

 たとえば各社が2000万円ずつ出資し、5社で1億円の委員会を作ったとします。その中で、パッケージ制作の窓口権を持つA社が1本2000円のDVDを1万本売ったとしましょう。売上のうち45〜50%は流通(問屋)と小売の店舗にいきます。委員会には、手数料として売上の20%前後を戻すとすると、トータルの売上が2000万円となり、流通と店舗に半分の1000万円が取られ、20%の400万円が委員会に入ります。残り600万円が、A社が自分の窓口によって得る収入になります。委員会では、この400万円の収益を出資比率に応じて割ります。5社が同じ金額を出資していたとすると、1社あたり80万円が分配されます。

という具合に、かなり細かく、手数料まで含めた金の流れをみていってくれる。製作委員会方式では製作会社には制作費だけが支払われ、こうした分配金は(制作委員の中に入っていない限りは)支払われないうえに、作品の権利も持てないというのが現状の問題の一端ではある。引用部に書かれている「窓口」というのは、パッケージ担当や音楽担当、グッズ担当といった担当分野のこと。製作委員会に入り、なおかつ窓口権をとることで、責任と実務を担う代わりにそこで稼ぐことができるのだ。

多岐に渡る金の流れ

本書で凄いなと驚いたのは、扱う内容が多岐に渡るところにある。金を集めるための製作委員会以外の資金調達法として、ファンドやクラウドファンディングなどの各種方式を検討・紹介し、声優の集め方、声優のランク制(ランクで金額が異なる)、声優事務所はどうマネタイズしているのか? に触れ、映画制作の金の流れ、CDの売上配分や音楽の著作権、著作隣接権を語り、パチンコでいくら儲かるのか、海外配信する際の注意点や権利上の問題点などなど、話題は多様かつ緻密である。

たとえば、声優事務所は声優からマネージメントフィーを2、3割しかとらないので、キャスティングを1本やっても声優のランクがジュニアだと月に1.5万円☓4週分☓2分割で事務所に入るのは1万2000円しかなく、とても経営が苦しい。そのかわりに、事務所で声優養成所をつくると、年間の授業料が50万円×100人集められれば売上が年間5000万円入る。他にも、キャラソンは「歌唱買い取り」で声優から権利を買い切ることが多く、金額は声優の格によって5万円から10万円で、イベント出演も同様に1回5万から10万円(人気声優は除く)など「へえ〜」と思う情報が多い。

アイドルアニメ等、歌が作品において重要な位置を占めている作品の場合、その作品の放映期間やプロジェクトが継続している間は他の歌ものアニメ作品への出演や、歌唱すること自体がNGになることもあるという。ウーン、そういえばあのアイドル作品の声優は他のアイドル作品には出てないな……とか少し考え込んでしまった。

おわりに

本書では現状のアニメ業界の金の周り方についてのいくつかの問題点の指摘なども行われるが(製作委員会方式では制作会社に権利が残らず、利益配分もされないなど)福原Pの場合、アニメ制作会社がより儲かるようにする・有利にことを進めるために実際に行動を起こしているところも(読み終えた今となっては)好感度と説得力が高い。

アニメプロデューサーになりたくて読むのはあんまりオススメしないが(アニメ制作会社に入って制作進行になって地獄の日々を耐え抜くしかないだろう)、アニメビジネスを知りたければオススメの一冊だ。

本は自分で選ぶべし──『読書の価値』

読書の価値 (NHK出版新書 547)

読書の価値 (NHK出版新書 547)

森博嗣さんによる読書についてのテーマ・エッセイ本である。これまでも森博嗣さんはエッセイや日記の中でも繰り返し、あるいは断片的に読書について語っており、その中身は本書の中でもまったくブレていない。正直いって、森博嗣さんにより読書について語られた本について紹介する・記事を書くのは非常に気まずいものがある。

何しろその基本姿勢は「とにかく、本は自分で選べ。」というところに尽きるのである。人から聞いたとか、誰かがすすめていたからとか、流されて読むのではなく、読む本は自分で判断するべきなのだと。なぜなら、人のいうなりになって本を読んでいたら、それはもう「あなたの読書」ではなく命令に従う機械にとっての読書であり、感想文提出を求められる学校の宿題としての読書に近くなってしまうだろうから

ところが、僕なんかは自分が読んだ本について日々書いていくブログをやっているわけであって、もうその時点で非常に気まずいのである。「本は自分で選ぶべし」と言いながらその紹介記事を上げるのは、完全に矛盾している──とはいえ、実は僕自身はあまり人のオススメや書評なんかは参考にしないのに加え、実は紹介した本を多くの人に読んでもらいたいわけでもない人間なので、森博嗣さんの考えには全面的に賛成ではある。なので、ここからはじめる『読書の価値』についての紹介を読んでしまった人は、もう本を買って読まないほうがいいだろう笑 ま、ご随意にどうぞ。

ざっくりと紹介する

さて、というわけで本当にざっくりと紹介していこう。第一章は「僕の読書生活」と題してうまく文章が読めなかった自身の幼少時代、まだどのようにして推理小説を読み始め、萩尾望都作品と出会ったのか──といった読書と森博嗣のこれまでの経歴が。第二章では「自由な読書、ほんの選び方」として、先に書いたようにな「とにかく、本は自分で選べ」やつまらない本の読み方についてがより詳細に語られてゆく。

第三章「文字を読む生活」、第四章「インプットとアウトプット」では、森博嗣さん自身の生活や実体験を振り返りながら、文字を書くこと、文章力についていくつかの観点から述べていき、第五章「読書の未来」では今後の出版界についての見通しが語られ、締めとなる。20年ぐらい前から森博嗣さんが書いていた日記シリーズ(『すべてがEになる―I Say Essay Everyday』)で書かれていたような出版界の未来の推測はほぼ当たっており、当たったことよりも「なるほどそれはそうなるだろうな」としか思えない明快な理屈がすでに書かれていたことが凄いなと思っている。たぶん、また5年ぐらいしたら「やっぱりあの理屈は正しかったな」と思うことだろう。

読書の価値

さて、本の紹介はこれぐらいにして(大してしてないが)、「読書の価値」について自分なりに書いてみよう。僕が読書に見いだしている価値を一つあげれば「面倒くさくなく、広いこと」に尽きる。何しろ一歩も動かずに手をぺら、っと動かしただけで頭のなかに情報が流れ込んでくるのだ。これは、面倒くさがりな人間にはたまらない。

僕は非常に面倒くさがりで、基本的に移動するということが大嫌いだからほとんど外に出ないし、人ともほとんど合わない。今日は月が綺麗だ、と話題になっていても、それを見るために外に出て上を見上げるのは面倒だ。そうやって移動して何かを見るぐらいなら、家にいて本でも読んで月蝕や月の仕組みを知ったほうが面倒もなく楽しい──と、極端な例を出せば、日頃からこんなことばかり考えているので、外にも出ずに本ばかり読んで(あとゲームをして)暮らしている。仕事もプログラマだから、家から出る必要も身体を動かす必要もない。本には恐ろしくいろんなことが書かれていて、しかも出続けているから、そんな人間であっても、本を読めば自分の世界が広がっていく。たとえ知識だけのものであっても、それは確かに世界の拡張である。

それ以外の価値──、たとえば発想が豊かになる、ということはあるのだろうか? といえば、そりゃあないことはないだろうと思う。ただ僕は幼少期からずっと読んでおり、自分が読んだ状態と読んでいない状態を区別して比較できないので、ないことはないと思うが、あるとはっきりとはいえないように思う。一つ確かなこととして言えるのは、たくさん読んでいると、頭の中は非常に幸せだ。考えることや好奇心の原料がいっぱいあるから暇になるということがまるでないし、常に目の前に興味のあること、調べたいこと、もっとよく知りたいことが山のように積まれている。

また、物語たちは僕の中にしっかりとした居場所を築き上げており、彼らはゼロサムで場所を奪い合ったりしないので、「自分の中の世界の魅力的な物語・登場人物」がどんどん増えていく。そうすると、特に何もすることがなく町を歩き回っている時に、昔読んだ物語の一端、登場人物たちが沸き起こってきて、突然涙がボロボロ流れてきたりする。もちろん、優れた物語というのは、読んでいる時のこちらを底抜けに幸せな気分にさせてくれるのだから、みなそれだけで素晴らしいものだ。

一方で、本(特にノンフィクション)を読んでいて残念なのは、そこは「最先端」ではないというところだ。本は、最先端を走る人間が一休みした時にしか書かれることはない。論文なら最先端に近いだろうが、それもやはり近いだけであって最先端ではない。つまり、本(ノンフィクション)を読んでいる時の僕は、常に世界の最先端から何歩も遅れているということになる。最先端から遅れた場所から、憧れを持ってその先を眺め続けるしかない。そこがただ本を読むことの限界だ。それは少し悲しいが、本ばかり読んでいるので、無数の方面に遊びにいけるというのは単純な良さだろう。

おわりに

と、何しろ日頃本ばかり読んでいる人間なのでその価値についてならばだらだらと書き続けられるのだが、こんなところでやめておこう。正直、『読書の価値』について書きたかったというよりかは、自分なりに、自分の思うところの「読書の価値」について書いておきたかった、というのがわざわざこの記事を書いている動機としては大きい。そうやって自分なりに発想を展開させられるのも、読書の価値であろう。