基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

リバタリアンが集まる町を作ったら、そこは熊の巣窟になった──『リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』

はじめに

他者の身体や私的財産を侵害しない限り、各人が望むすべての行動は自由であると主張する、リバタリアンと呼ばれる人たちがいる。すべてを自由にすべきと考える原理的な人から、条件的に制約を認める人まで無数の思想的内実があるわけだが、そうした思想を持つ人々にとっては多くの国家・地域は制約だらけにみえるだろう。

自分たちの思想を社会に反映させるためには、民主主義の場合にはリバタリアン的思想を持つ候補者に票を投じたり、自分自身が立候補して国の方針を地道に変えていかなければいけないわけだが、それは当然ながらなかなかに大変な道のりである。だが、国のような大きな単位でなくとも、小さな町レベルであれば数百、数千人のリバタリアンが移住してくれば、リバタリアンらの意見を押し通すこともできるだろう。

本書『リバタリアンが社会実験してみた町の話』は、まさにそれをやってみた人たちと町についての話である。舞台はニューハンプシャー州のグラフトンという町で、熊などの野生動物が多く、もともと1000人程度の人口しかない片田舎だ。ニューハンプシャーはもともと自由な気質で知られている州のひとつだが、中でもグラフトンはその傾向が強い土地である。2004年、リバタリアンたちはこのグラフトンに集団移住を呼びかける”フリータウン・プロジェクト”を立ち上げることになる。

と、そんな感じで町の歴史とリバタリアンたちによる社会実験の顛末が語られていくのだが、読んでみれば驚くことに、本書の大半はリバタリアンの社会実験がどうこうよりも熊の話で占められている。入植がはじまった1700年代から熊が多く、熊との戦いはこの地域の宿命といえる。だが、リバタリアンらが集まって”自由”の気風が強化された結果熊に餌をやり続ける人間も許され、州も「熊は基本人を襲わない」として熊の存在を許容し、動物愛護の観点からもその数を減らしたがらず──とそれぞれの思惑が連続し、時折駆除こそなされるもののその数はどんどんと増えていく。

そうして、すっかりグラフトンとその周辺は実質的に熊の楽園と化し、住民は日夜熊が自分たちの生活圏を脅かす恐怖と共に暮らすはめになってしまったのである。本書が描き出していくのはそうした熊と共存していく町になったグラフトンの有り様であり、原題は『A LIBERTARIAN WALKS INTO A BEAR』となっている。

リバタリアンの話をメインに期待して読み始めたのに実際は熊の話ばかりなので期待外れなのだが(邦題にも熊入れてくれ)、一方で町の成立、発展過程。熊に関連した話もちゃんとおもしろく、結果的には満足度の高い作品に仕上がっている。

どのように人々は集まってきたのか?

最初にグラフトンにやってきたのは4人の夢想家である。歴史に残る社会実験の多くは、砂漠や島などの無人地帯に人を集めようとして失敗しているが(インフラ構築に莫大な金がかかるため)、この4人は現存する町の力とインフラを利用することにした。

4人は場所の選定にあたって、”自由な生か、もしくは死”をモットーにするニューハンプシャー州に移住することをまず決定し、その後20の町を検討したのちに、グラフトンへと辿り着いた。商業施設は何もなく、辺鄙な町で、コミュニティらしいコミュニティもない。そしてここの住民は、官僚政治に非協力的で、税金などに反対の立場をとっていた。リバタリアンにぴったりで、土地も広いので移住もできそうだ。

そうして4人は土地を買い、身近な仲間を説得し、掲示板でリバタリアンの移住者仲間を募り始めた。一部の人間に許可をとっていたとはいえ、ほとんどのグラフトン市民にとって寝耳に水の話で、彼らは自分たちに自由を押し付けようとしているなどと猛烈に怒ったが、移住を止められるわけではない。それに、大多数の人間はこの件について無関心をつらぬいていた。結果的に何人のリバタリアンが移住したのか? 国勢調査によれば、町の人口は2000年から10年のあいだに200人以上増えたという。

自由な町にヤバいやつらが集まってくる。

200人以上増えたとはいっても、そのすべてがリバタリアンとは限らない。たとえば、リバタリアンではなく自給自足し、銃などで武装し自分の身を守ることができる状態を目指す、サバイバリストと呼ばれる人たちが、「自由」を目指してフリータウン・プロジェクトに相乗りしてきたのである。『だがフリータウン信者は、少なくとも一つ、重大な計算違いをしていた。グラフトンを究極のフリータウンと呼ぶことで引き寄せられるのは、リバタリアンだけだと思いこんでいたのである。』

 フランツは当然ながらグラフトンを選んだ。フリータウン・プロジェクトが発表された場所、いつでも警官が一人か二人しかいない場所。
「あれこれうるさく言ってくる人間はいない。ここはやりたいことができる場所だ。なりたいものになれる場所。何も心配しなくていい」

「自由な町を作ろうと呼びかけたら自由を目的にヤバいヤツらが集まってきた」みたいなひどい状況で思わずここを読んだ時は笑ってしまったが、自由を志す以上、これも当然の結果といえるだろう。

リバタリアンらは町を良い方向に変えたのか?

さて、それはそれとして100人ぐらいはいたであろうフリータウン信者らは町をどう変えたのか? 彼らは町の倹約指向の人々と同盟を組んで、電気代を節約するため街灯を消し、道路の資材や設備を節約するため道を分断した。クリスマスなどの記念日の虚飾を廃し、町計画委員会の2000ドルの予算を50ドルまで減らした。当然だが、グラフトンの公共サービスは穴だらけになり、社会には停滞感が広まっていく。

 リバタリアンがサービスの削減を進めるにつれて、その穴から現れたのは個々人が責任を持つ理想的な文化ではなく、種々雑多な森のにわか作りのキャンプであり、一部の人々は下水の漏れなど不衛生な生活状況について苦情を申し立てはじめた。

すべての財政は削減され、警察の数は減り、12年もののパトカーもしょっちゅう修理に出され年間を通じて稼働不可能な日が多くあった──など、ここには住みたくないな……という町へと変質していく。とはいえ税は低いんでしょう? と思うかもしれないが、その税も低いわけではなくて……と、実際にリバタリアンらがこれ以外にどのように町を変えていったのかは、肝の部分なので読んで確かめてもらいたい。

おわりに

熊の話をほとんどしていないが、こうした話の合間合間に住民がいかに熊の被害を受けているのか、そしてなぜそこまで熊の数が増えているのかという歴史的過程。一日にバケツ二つ分の餌を熊に与え続け、熊を餌付けすることに喜びを感じているドーナツ・レディについての物語、集結したサバイバリストたちが町でどのように過ごしているのかなど、この町で起こっていく世にも不思議な物語の数々が語られていく。

リバタリアンらの社会実験の話だけが読みたい人にはお勧めしづらいが(移住者は少なく、その進め方はお粗末なもので、失敗して当たり前で生まれる知見もあまりない)、自由の旗印のもとに集まってきた奇妙な人々と熊の話を読みたい人にとっては大変に楽しめる一冊といえる。

街なかの時計がすべて別の時刻をさすほどにルーズなブラジルと、時間に厳しいタイトな日本、何が異なるのか?──『ルーズな文化とタイトな文化』

世界は技術の発展によって、過去例にないほど密接に繋がるようになった。飛行機は世界中を行き来し(今は違うが)、インターネットは光速で世界の情報を伝えてくれる。それなのに、なぜこれほどまでに国ごとで大きく文化が異なっているのか。

本書『ルーズな文化とタイトな文化』は、国ごとの文化がこれほどまでに異なっている根本的な理由を、「世界にはルーズな文化とタイトな文化があるからだ」とし、なぜそのような文化の差が生まれるのか、ルーズな文化とタイトな文化の違いは何なのかを解き明かしていく一冊である。ルーズさとはいってみれば自由さやだらしなさのことであり、タイトさは規律や規範を重視する秩序だった姿勢のことをさしている。

 タイトな文化は社会規範が強固で、逸脱はほぼ許されない。一方、ルーズな文化は社会規範が弱く、きわめて寛容だ。前者は「ルールメーカー」(ルールを作る者)、後者はルールブレイカー(ルールを破る者)と言える。

この区分けでいえば日本人はタイトに分類される。電車は一分の狂いもなく到着し、人々は整然と並び、規律を乱すものに厳しい態度がとられる。一方でアメリカやブラジルはルーズに分類される国だ。アメリカではごみのポイ捨てから信号無視、犬のふんの放置など数々のルールの逸脱をみつけることができるし、ブラジルでは街なかの時計はすべて違った時刻を指し、ビジネスの会議には遅刻するのが普通だ。

正直、ルーズな文化とタイトな文化のような抽象的な分け方は印象論に留まるもので、客観的な数値を出して説得するのはなかなか難しいんじゃないかと思いながら読み始めたのだけれども、きちんとそのあたりも丹念な調査・研究の裏付けがあり、おおむね信頼がおける内容であった。本書を一冊読み通せば、国や文化をみるときの、おもしろいものさしをひとつ手に入れることができるだろう。

どうやってタイト/ルーズをわけるのか?

国をタイト・ルーズで分けるとしてそれをどう決定するのか? 著者は7000人30ヶ国以上の人にたいして、自国の規範についての質問をなげかけている。たとえば、あなたの国には従うべき社会規範があるか? 望ましいふるまいが決まっているか? 不適切な振る舞いをする人がいたら、他人は強く不満を示すか? などなど。

集められた回答を使ってタイトとルーズのスコアをつけると、タイトな国上位はパキスタン、マレーシア、インド、シンガポール、韓国、ノルウェー、トルコ、日本、中国などがあがる。一方、ルーズな国はウクライナ、エストニア、ハンガリー、イスラエル、オランダ、ブラジルなどである。これは違和感のある結果ではない。

そのランキング結果だけみせられてもだからなんなんだよ感があるが、重要なのはタイトな国とルーズな国にそれぞれどのような特徴があり、このスコアの並び通りにそれが発生しているのか? だ。たとえば、タイトな国では犯罪率が低く、ルーズな国では犯罪はよく起こる。『タイトな国は犯罪は少ないのに加えて、たいてい整然として清潔である。この点でもやはり、強固な規範と監視が連携して作用している。』

また、おもしろい例のひとつに、街なかの時計という尺度がある。実は時計はきちんと揃って同じ時刻を示す国もあれば、そうではない国もある。30カ国あまりの首都の時計を調べた調査では、オーストリア、シンガポール、日本などのタイトな国では市の中心部にある時計はよく揃い、ズレは30秒未満だった。一方ブラジルやギリシャといったルーズな国では、2分近いズレがあった。各国の時間のズレの調査結果をみると、タイト・ルーズな国がそのままの順番できれいにならんでいておもしろい。

なぜタイトな文化とルーズな文化は分かれるのか?

しかし、そこまで明確な差があるとしてなぜ、どうやって分かれていくのか? 同じタイトな文化であっても地理的に離れていることは珍しくない。理由のひとつは、「タイトな文化は、脅威に立ち向かう必要に迫られた場所で生まれる」だ。

たとえば日本でいえば度重なる自然災害があった。アメリカはルーズな国だが、二つの広大な海で他の大陸から隔てられているおかげで外部から脅威を感じることが少なかった。同じくルーズなニュージーランドやオーストラリアも同様だ(紛争がなかったわけではないが)。アジア、特に中国では紛争が頻発していたし、パキスタンを筆頭に中東の国々も同様である。それがタイトな文化を生んだ一要因ではあるのだろう。

もうひとつの理由としてあげられているのが、人口密度だ。タイトさで高いスコアを示すシンガポールは、2016年の人口密度が一平方キロメートルあたり8000人近い。一方アイスランドはわずか3人だ。日本の人口密度330人程度で、かなり上位になる。

混雑したエレベータや電車の中でもみくちゃにされれば横にいる他人のふるまいがめちゃくちゃに気になるように、人口密度が高い国では規律・規範を守ることが強く求められるようになる。『高い人口密度は、人間が直面する基本的な脅威だ。パーソナルスペースを確保するのが難しい社会では、混乱や対立が起こりやすい。』

タイトさにもルーズさにも良い面がある。

と、ここまでは世界各国がどのように分けられるのか・またその原因は何なのかについて書いてきたが、重要なのはどちらかが良い・悪いわけではないということだ。

たとえば、タイトであれば集団が規律づいていて、社会秩序が守られ犯罪も発生しないという点ではいいことだ。だが一方で変化を好まず、慣れ親しんだものを好むことからイノベーションが起こりづらく、移民などにも否定的な感情を持つ傾向がある。ルーズな文化では自由が尊重され、イノベーションが発生しやすく、リスクを恐れない行動がみられる。ただし、あまりにルーズすぎても問題だ。二週間に一回以上学校に遅刻した人は、アメリカでは30%もいたが上海は17%だった。

どちらも組織・集団にとっては良い側面、悪い側面をあわせもっている。重要なのは、タイト・ルーズといった基本的な文化が存在することを認識することと、それをうまく使いこなすことだ。ブラジルの企業(ルーズ)とシンガポールの企業(タイト)が合併するとなったら、恐らく組織間の文化摩擦は凄いことになるだろう。だが、対立が避けられないと知っていれば、事前に対処することもできる。

本書では、ルーズな文化を持つ企業がタイトな文化を取り入れる方法(またはその逆)など、幅広くルーズ/タイトのバランスを取る方法が語られている。

おわりに

本書は国家間のタイト/ルーズだけを追っていくわけではない。たとえば国以外のより小規模な組織でもその傾向はあらわれる。日本で言えばルーズな県とタイトな県があるように、本書では一章を使ってアメリカの州ごとの違いを検証している。

また、タイト/ルーズの法則は国の中の「労働者階級」と「上層階級」にも見ることができる。生活が苦しい家庭はいってみれば国家の例で出した「脅威にさらされている状態」にあたり、秩序を好み型にはまった単純明快な暮らし方を好むなどの回答を示す割合が高かった(上層階級はルーズ)──など、タイト/ルーズな文化比較を通して、格差、企業合併、組織内の対立など幅広い問題が理解できるようになる。

環境問題のような地球全体が関連したテーマに向き合うには、世界中の国が「タイトさ」を求めらるともいえるので、どうタイト/ルーズをバランス良く取り混ぜていくのかという観点は、これからより一層重要になっていくのかもしれない。

弾圧が行われているとされる新疆ウイグル自治区で、実際に何が行われているのか?──『AI監獄ウイグル』

この『AI監獄ウイグル』は、近年弾圧が激しくなっているとされるウイグルで、実際に何が行われているのか、150人以上のウイグル人の難民、技術労働者、政府関係者、元中国人スパイにインタビュー取材をしその結果をまとめた一冊になっている。

本書で描き出されているのは、チャットアプリによるメッセージや電話がすべて監視され、家の前には個人情報が詰まったQRコードが貼られ、身体情報から移動履歴などすべてのデータを元に犯罪を起こす可能性のある人物をAIが自動的にピックアップする「デジタルの牢獄化」したウイグルの姿である。これまで、断片的なニュース情報を読むことでウイグルで相当なことが行われていることはわかっていたつもりだったが、実際に収容所などを体験した人物のレポートはあまりにも衝撃的だ。

読み終えた夜は、自分が強制収容所に入っている悪夢を見たぐらいだった。

 本書のなかで私は、新疆ウイグル自治区がもっとも高度な監視ディストピア社会に変貌を遂げた物語について説明する。〝状況〟はどのように生まれたのか? AI、顔認証、監視などの技術における前例のない進歩を受け容れたとき、それは私たちの未来にとって何を意味するのか?

実際に何が行われているのか?

本書は2000年代から中国でのインターネットやテクノロジーの発展を追いながら、どのようにして中国での監視社会体制が構築されていったのかを追う構成になっている。その後、若いウイグル人女性メイセム(仮名)を主人公にウイグル自治区、またその強制収容所で何が行われているのかが語られていくことになる。

一人の主人公を置いているとはいえ、その背景には多数の同様の状況に追い込まれたウイグル人たちがいる。たとえば、著者が2017年から20年にかけてインタビューしたウイグル人の全員が、複数の家族と3人以上の友人が姿を消したと証言している。おそらく強制収容所に連行されたと考えられるものの、何が起きたのかはっきりしないケースも多い。取材対象者の3人にひとりは、家族全員が行方不明になったと語る。

17年に中国は260の強制収容所をウイグル自治区全域に作り、政府は人々が自発的にここに行って、みずからの意思で離れることができると主張するが、実態は異なっている。許可がなければ出ることは出来ないし、中では思想教育と懲罰が長期間にわたって行われた。『政府は、国民を管理・監視するだけでは飽き足らず、もっと奥まで踏み込もうとした──人々の考えを一掃し、「脳からウイルスを取りのぞいて治療・浄化し、正常な精神を回復させる」。このような医学的説明が、政府要人の演説、国営メディアの報道、漏洩した文章のなかに繰り返し登場するようになった。』

どうやって連行されるのか?

ウイグル人はどのようにして連行されるのか? メイセムの体験談的にも、全体の裁判の件数、連行件数などからみても、2013年〜14年から締め付けが厳しくなっていったようだ。ドライブや散歩に出かけてもウイグル人だけが入念にIDをチェックされ、家族に信用できないとされるものがいるとガソリンの購入が制限される。

そうした「怪しいか、怪しくないか」の判断は現場の警察が独断で決められるので、ウイグル人たちはいつもにこにこ愛想よくしていることが求められるようになる。さらに、その後(2015年〜?)にはウイグル人同士の相互監視システムが用いられるようになる。たとえば、メイセムが胃腸炎にかかって家で休んでいると、近所の人たちから「今朝9時はいつもの散歩に出かけなかった」として通報が入る。

胃腸炎であるから散歩に出ることが出来なかったと説明しても無駄で、その証明書を医師からもらい、事実を客観的に証明する必要が出てきたりする。

 当時の新疆ウイグル自治区では、各家庭が10世帯ごとのグループに分けて管理されていた。グループ内の住民は互いに監視し合い、訪問者の出入りや友人・家族の日々の行動を記録することを求められた。

手法自体は原始的だが、16年からは各家庭の前に各世帯の個人情報が含まれたQRコードが貼られ、グループ長は訪問を終えるとそれを読み取り、問題のないことを報告するようになる。こうした地域自警システムで情報を吸い上げ、個人は「信用できる」「ふつう」「信用できない」の3カテゴリーが割り振られる。

メイセムはトルコの大学院に行っており、複数の言語を喋り、大量の本を読んでいたことから、「信用できない」と判断されたのだろう──結果的に彼女の家には監視カメラが設置されることになる(もちろん拒否などできるわけもない)。その後彼女の一家は〝検査〟が義務付けられることになり、身体検査、採血、声と顔の記録、DNAサンプルの採取が行われ──と国にあらゆる情報を提供する羽目に陥っていく。

一体化統合作戦プラットフォーム

プライバシーもクソもあったものではないが、メイセムの悲劇は終わらない。何もしていないにも関わらず、突如として彼女は「地区の警察が不審な動きを察知した」として出頭を要請され、尋問を受け、後に連行されるのだが、これには「一体化統合作戦プラットフォーム(IJOP)」と呼ばれる新しいシステムが関わっている。

このシステムでは、監視カメラの顔認証、グループ長による訪問者管理システム、健康状態、銀行取引などすべての情報を用いて、「通常とは異なる行動」、「治安の安定に関わる行為」を報告する。報告されるのはたとえば、大量の本を所有しているのに教師として働いているわけでもない時、普段5kg分の化学肥料を買う人が突然15kg分買った時などで、異常を検知すると地元の警察官がすぐに訪問する。

 IJOPは人工知能を利用し、犯罪容疑者や将来の犯罪候補者について「プッシュ通知」し、警察と政府当局にさらなる捜査をうながすようになった。警察は、通知を受けしだいすぐに行動を起こす必要がある。ときにそれは、通知が来た当日のうちに直接訪問して話を聞いたり、自宅軟禁にしたり、容疑者の移動を制限したりすることを意味した。あるいは、安全な身柄の拘束や逮捕を意味することもあった。

SF小説のような現実

先日、第二次世界大戦時にすでに現代のようなインターネットやスマホが存在している、架空の歴史をたどったナチスドイツを描く『NSA』というSFを紹介した。その世界で、ナチスは匿われているユダヤ人を発見するために、各家庭の食料の購入履歴をリストにし、平均カロリーよりも多くの食料を買っている家にたいして家宅捜索を行っていたが、まさに同じことがウイグルで起こっているのである。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
また、犯罪を予測し事前に拘束する手順は、ディックの『マイノリティ・リポート』、『PSYCHO-PASS』世界のようだが、これは現実の話である。メイセムはその後強制収容所に入れられ、共産党への賛同と感謝を述べさせられ、プロパガンダ映像を視聴し、神について、周りの人間達について、さまざまな尋問が実施されていく。

メイセムは『一九八四年』のジョージ・オーウェルに対して、彼はウイグル人の世界の未来を見抜いていたと語る。そんな「まさに『一九八四年』のような」収容所の実態と、今後我々は何をすべきなのか? という問いかけの先は、読んで確かめてもらいたい。

おわりに

著者はアメリカのジャーナリストだが、本書の内容は台湾人の技術ジャーナリストによって厳密なファクトチェックが行われている。インタビューをもとにした部分は取材対象者に再度電話をかけて翻訳・引用された北京語が本当に正確なのかまで精査していて、内容にはある程度信頼がおけるとみていいだろう。衝撃的な一冊だ。

地上とはまったく異なる常識が支配する海中洞窟の世界で、ダイバーが何を考え、見てきたのか──『イントゥ・ザ・プラネット』

この『イントゥ・ザ・プラネット』は洞窟探検家、水中探検家の女性ダイバーであるジル・ハイナースによる冒険記だ。水中、それも誰も踏み入ったことがないような長大な洞窟の中では、地上とはまったく別種の常識と情景が展開する。一つの判断ミスで人はあまりにもあっさりとなくなるし、そのわりに恩恵が多いようにはみえない。

誰も到達したことがない水中洞窟の奥までいくことで、莫大な金が降ってくるといったことは基本的には存在しない世界である。だがしかし──そこにそこに果敢に挑みかかる人間はいて、本書はそのうちの一人のダイビング人生を追う形で展開していく。著者も幾人もの仲間たちを目のまえで失い、自身も死にかけている。それなのになぜ潜り続けるのか。そして、彼女たち探検家は海中で何を考え、見ているのか。

その筆致はあまりにも苦しく、同時に美しく、まるで自分が実際に海中にいるかのような興奮が湧いてくる。だが、実際の海中と比べ物にならないことは間違いない。

 それに、あまり気にもならなかった。私はダイビングが成功したことへの幸福感に浸っていたのだ。私が目にした場所を訪れた人は、月に行ったことがある人より少なく、それと思うと心は自信と誇りで満たされた。次の努力は、再び私を誰も体験したことのない場所に導いてくれると確信していた。

『宇宙よりも遠い場所』という、少女たちが南極観測隊に混じって南極を目指す青春アニメの傑作があるが、前人未到の水中洞窟の探検もまた、宇宙よりも遠い場所への冒険といってもよいだろう。*1ちなみに、著者らもまた、南極で巨大な氷山の水面下に潜む洞窟の調査を行うテクニカルダイビングにも挑んでいる。

どのようにしてダイビングをはじめたのか。

著者の経歴は洞窟探検を始める前から波乱にとんでいる。大学生の時に一年で二回も在宅中(別の家)に強盗に入られ恐怖と対峙し、グラフィックデザイナーとして活躍、長時間労働と引き換えに誰がみても成功者といえるステータスを手に入れたが、その途中で体験したダイビングにはまり込んで、人生をそこへ全ベットしてしまう。

ダイビングで生きていくとなったらダイビングインストラクターが最初に思いつく職業だが、それは高給な仕事ではない。著者としては共同経営権を持っていた会社からの収入があるとあてにしていたようだが、かつての仲間たちはダイビングに専念するといって辞めていった彼女に怒って無理やり会社を潰し、新しい会社を立ち上げることでその支払を無効化するなど、なかなかに面倒なことに巻き込まれている。

とはいえ、彼女はそれまでのキャリアを捨てダイビングへの道を踏み出したのだ。ただインストラクターとして仕事をするだけではなく、水中洞窟の探検の練習を積み、洞窟の探検家や海中の写真家としての実績を得ようと、仕事を積み重ねていく。

水中洞窟の探検

そもそも水中洞窟の探検とは何のために行われるものなのか? そこのところすらもよくわからずに読み始めたのだが、そこには無数の目的がある。たとえば宇宙で使うような機材の耐久・実用実験目的もあれば、山頂から地球内部にまで繋がる長大な水路を下り、世界で最も深い場所だと宣言するために行われる「縦の旅」。

あるいは、無数の洞窟が繋がりあったルートを開拓していくマッピング作業のような探検もある。それは単純に洞窟の構造が明らかになるだけでなく、地質学的にも価値のある情報となる。『海中洞窟は地球上に残された最後の辺境なのだ。驚くべきことに、我々人類は宇宙空間ほど地球内部構造のことを把握していない。』

著者が最初の本格的な探検に出るのは1995年のこと。メキシコ南部のウアウトラ洞の新ルートを見つけ、入り口から出口までの垂直距離で世界一の距離を目指す旅だ。旅は往復6時間にも及び、一気には行けないので、先に準備として要所にエアタンクを置き、ラインリールをつなぎ、少しずつ前に進む必要がある。道中では、水深約55メートルを潜ることになるが、そこは地上とは常識が異なる世界だ。

その深さでの一回の呼吸は水上で吸い込む7倍ものガスを消費する。一つの判断ミスで死に至るが、呼吸が貴重なので、冷静でいることそのものが難しい。一度パニックになれば方向感覚も失われ、動き回ることで砂煙が上がり視界が悪くなり、助けになってくれるはずの仲間の命さえも危険に晒してしまう。

また、その水深で人間の体は一平方センチあたり約7キロの圧力を受けるから、帰還時に飛び出たら終わりだ。地上の圧力に再び順応するためにも、段階的な遅延時間を設けてゆっくり上っていかなければならない。簡単なように聞こえるが、注意して計画を立てても減圧症になることはある。著者もその後の探検でかかるのだが、一気に浮上するわけにいかないので、死の恐怖に震えながら海中にとどまるしかないのだ。

女性としての苦難

著者が本格的にダイビングを始めた20世紀末はまだまだ女性差別がひどい時期で、しかも女性ダイバーの数は少なく彼女がその代表格だったから、女性であることに起因する様々な嫌がらせや問題点にぶちあたっている。たとえば、彼女は途中で男性ダイバーのポールと結婚し、冒険を共にするようになるのだが、結婚したから冒険のパートナーになれたのだと捉える人たちから、遠慮のない視線や陰口にもさらされる。

世界記録を打ち立てても、女に負けた! など身近な人間からジェンダーを理由にしたあてこすりが止まることはない。ジェンダー差別だけでなく、単純に女性ダイバーとそのデータが少ないがゆえの苦難にもみまわれていく。彼女が深刻な減圧症に襲われ命の危機すらあった時、二度とダイビングはしないようにと医者から忠告を受けるが、それは高気圧酸素治療を行う専門的な医師であっても、テクニカルダイバー、それも女性にどのような影響があるのかは論文もなくわからなかったからである。

 セクシズムとの対峙が私の生涯の使命の一部を形作ったかもしれない。私は「優秀な女性探検家」というよりは、「優秀な探検家」として認められたかった。ジェンダーの壁があったとしても夢を実現する女性たちを応援したかった。困難への挑戦も可能だし、成功は祝う価値があると女性たちには知ってほしい。私自身が、ボートに乗った唯一の女性にはなりたくなかったから。

探検家や写真家として大きな実績を残すというゴールを迎えた後、どうモチベーションを立て直し、次のキャリアを設計するのか。また、結婚後はサポート役であるべきなのか、冒険家としての妻であるべきなのかという悩みもあり、一人の女性がその人生をどう舵取りしてきたのかを描き出す、回顧録として読んでも魅力的。

おわりに

南極の海中洞窟の美しい風景と、ダイブ中に氷壁が崩れて水中に落下してきた時の絶望感など、美しさは本書の中では常に死と隣り合わせ。しかし、だからこそ得られる快感もあるのだろう。『死の罠だと多くの人が捉える場所に、なぜ潜るのだろう? 私にとって洞窟ダイビングとは「子宮に戻る」体験なのだ。先祖から呼び戻されたような、原点回帰の体験だ。』

普通に生きていたら絶対に知ることのない世界を垣間みせてくれる一冊だ。

*1:ちなみに、アニメのタイトル自体は、昭和基地に招待された宇宙飛行士の毛利衛が「宇宙には数分でたどり着けるが、昭和基地には何日もかかる。宇宙よりも遠いですね」と発言したことが元ネタになっている。

過激主義組織はどのように人を勧誘し、虜にするのか?──『ゴーイング・ダーク 12の過激主義組織潜入ルポ』

この『ゴーイング・ダーク』は、12の過激な主義主張をかかげる組織に著者が潜入し内部を綴るルポタージュである。最近のこうした組織はオンラインで門戸を開いているものだから、著者もディスコードやスカイプと言ったアプリケーションを使って面談をしたりチャットのグループに入れてもらい、その実情をレポートしている。

著者が潜入するのは白人ナショナリストのような過激な主張を持つ人しかいないマッチングアプリから、親ISISのハッキング組織まで様々で、こんなコミュニティと思想を持つ人々がいるのか! と異なる常識が支配する異世界を探求していくようなおもしろさが第一にある。また、こうした過激主義組織の勧誘手法や、一度取り込んだ人たちに居心地の良さを与える戦略は似通ったものがあり、それをあらかじめ知っておくことは、自衛の手段にもなってくれるだろう。日本にも過激主義のコミュニティは存在するし、世界中の組織と誰もがネットを通して繋がる可能性があるからだ。

 わたしがこの本を書いた目的は、デジタルな過激主義運動の社会的な側面を可視化したいと思ったからだ。わたしたちの周囲では日々、過激主義者が新たなメンバーを訓練し、新たな標的を恐怖におののかせている。その結果は、ときに思いもよらぬかたちで、わたしたちの日常に衝撃を与える。

実際にどんな組織に潜入しているのか?

著者が第一章で潜入するのは、ネオナチと白人至上主義者たちの集うディスカッション・グループだ。著者は1991年ウィーン生まれの白人女性で、この組織を筆頭に、そうした属性がないと入れない組織(女性だけの組織など)にも数多く潜入している。

ディスコード上で展開するこのグループは世界各地から数十人のメンバーが参加していて、内訳としては10代から20代前半のアメリカ人にカナダ人、南アフリカ人にヨーロッパ人と多種多様。彼らは自分の遺伝子検査を行い、人々に公開して自分がいかに純血の白人なのかをアピールする。時々白人至上主義者にとっては都合の悪い結果が出ることもあるが、そうした時は、遺伝子検査は「シオニスト占領政府」の白人種を一掃する計画によって故意に歪められている、などといって納得するのだという。

彼らはチャットルームでの会話を「すごく面白いんだ」とか「頭の切れる人間がこんなにたくさんいるなんて」と前向きに語るが、飛び交っているのは「ユダヤ人どもをガス殺しろ。さあ人種戦争の到来だ」のような表ではいえない言葉である。

ディスカッションを観察し、音声チャットに耳をすますうちに、わたしにもだんだんとわかってきたのは、タブーを破る楽しさがどれほど退屈しのぎになるか、そして帰属意識がどれほど孤独を癒してくれるかということだ。

クローズドな場でキャッキャしているだけなら害もないが、こうしたグループの一部のリーダーたちは、白人種の国家を築くなど、壮大すぎる夢を抱いているという。

反フェミニスト女性らの団体

著者が第三章で潜入するのは、反フェミニスト女性らの団体だ。そこではノー・フェミニズムを掲げ、女性の価値とは男性に性的に求められることであり、性的価値を高めるべく行動しよう(セックスの回数が増えれば増えるほど女性の性的価値は下がるので、無闇矢鱈にセックスするのはご法度である)という規範が存在している。

彼女たちはそれにとどまらず、旧来的な女性と男性の価値観に回帰しようとしているようだ。たとえば女性は夫に付き従い、服従し、無条件に男性を喜ばせることを目的とする。なぜこのような思想を、特に女性が持つようになるのか読み始めた最初の段階ではわからなかったのだが、著者自身潜入当時は精神的に不安定で、調査の枠を超えてこのコミュニティに入れ込む様、その理由が実体験とともに描かれていく。

ここでは憎悪が他者ではなく自己に向けられているのだ。自分を責めたり、自分を侮辱したりする言葉を発してメンバーとつながることには、どこか妙な居心地のよさがあった──集団的な自己最適化が誘う、ある種の慰めが。

他にも、女性がパートナーの男性から攻撃的な言動や直接的な暴力を振るわれた時、こうしたコミュニティはある意味お手軽な答えと解決方法を与えてくれる。あなたが従順でさえあればすべては解決するし、伝統的な関係では男性は女性を“しつける“ものであり、おかしいのはそれを許容しない現代のフェミニズムなのだと。『男らしさと女らしさという考えが変化していること、また服従と支配の微妙なバランスをめぐる混乱が、男と女を本質的なアイデンティティ・クライシスに陥れている。』

攻撃対象にされる

著者は過激主義者らに対する意見を雑誌「ガーディアン」などにも寄稿しているのだが、それは当然極右組織の人々からすれば不愉快なものであり、著者が攻撃対象にされた時の体験談も本書では一章を割いて書かれている。たとえば、ある記事がきっかけとなって著者はイングランド防衛同盟という極右政治団体の創設者にして20万人以上のフォロワーを抱えるトミー・ロビンソンに目をつけられてしまう。

トミー・ロビンソンはもともとジャーナリストの家に突撃してそれを配信することで人気を得てきた人物だったが、彼が著者の働くオフィスをインターネットに配信中継しながら突撃してきたのだ。その目的は記事内容に関する抗議や話し合いではなく、ただ主流メディアへの攻撃の姿勢をみせることで視聴者を楽しませ、自分のメディアへの登録者数を増やすこと。いわば揉め事のための揉め事であり、不法行為なので警察を呼ぶとすぐに帰る。だが、攻撃がそれで終わるわけではない。

著者や著者が働いていたクィリアムという会社の同僚は、信奉者たちによる脅迫メッセージを受け、オフィスも閉鎖されてしまう。最終的には、クィリアムのCEOから著者にたいして、発言を撤回しお詫びをすると公式に声明を出してくれ、と脅しがなされることになる。もしも君の同僚に何かあったら、君はその責任を一生背負っていかないといけないんだぞというのだ。著者が自分は間違ったことを書いていないとつっぱねると、24時間も経たないうちに彼女にふたつの懲戒警告と解雇通知が届く。

この経験は、極右のメディア・インフルエンサーが組織や体制全体にどれほどの力を発揮できるかを教える一例だった。

おわりに

本書では他にも、様々な主義主張を持った極右集団の集会にオンラインで参戦し、ライブ配信やメッセージアプリを通じた新しい大規模な動員の実態を描く第九章「ユナイト・ザ・ライト」。親ISISのハッキング組織ムスリム・テックに入り、未経験者がハッキングの入門講座を受ける過程を描く第十一章「ブラックハット」など、オンラインで動員を行い、力を増していく組織の多様な姿が描き出されている。

じゃあ、我々はこのような過激さを増す組織に対抗することはできない……ってコト?! と思いそうになるが、最終章ではこうした過激主義組織にたいする対抗手段についても語られている。たとえば偽情報やプロパガンダの流布に対しては、実際にバルト諸国は謝った報道や誤解を招く統計を訂正する数千人のボランティア活動家がいることを紹介していたり、できることは数多くある。普段陽の当たらない過激主義組織の実態を暴き出した、迫真のノンフィクションだ。おもしろすぎて1月1日の年始に読み始めて、その日のうちに一気に読み切ってしまった

2021年に刊行され、おもしろかったノンフィクションを振り返る

2021年も終わろうとしているので、今年刊行された本の中でも特におもしろかった・記憶に残ったノンフィクションを振り返っていこうかと。昨年に引き続き今年も本の雑誌の新刊ノンフィクションガイドを担当していたので、冊数はノンフィクションだけで200冊ぐらいは(数えているわけではないけど)読んでいるはず。

とはいえ、無限にピックアップしても仕方ないので、10冊目安に紹介していこう。

まずは科学書から

科学系のノンフィクションの中でも宇宙系から取り上げていくと、まず紹介したいのはキース・クーパーによる『彼らはどこにいるのか: 地球外知的生命をめぐる最新科学』。今年は中国最大のファーストコンタクトSF『三体』三部作が完結し、年末に邦訳が刊行されたアンディ・ウィアー最新作もファーストコンタクトSFの傑作であるなどいまだにSFではホット・トピックである「地球外生命体との邂逅」だが、『彼らはどこにいるのか』はそのテーマに科学からアプローチした成果をまとめた一冊だ。

『彼らはどこにいるのか』の原題は「The Contact Paradox」で、我々は地球外生命体を見つけたら接触したい、しかし、実際に接触したら、相手には敵対的な意図がある可能性もあるし、意図がなくとも未知のウイルスの伝播などでお互いに危機的な状況に陥る可能性もある──と、接触に伴うジレンマとその可能性を検討していく。我々は接触すべきか、それとも引き篭もっているべきなのか? 近年は観測技術の発展に伴って、他惑星の環境、地球外生命体の観測やその組成の可能性について情報が集まってきているから、読むとその射程の広さと分析の精密さに驚くだろう。

宇宙系としてはもう一冊、『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』がおもしろかた。国家機関だけでなく民間の企業がロケットを飛ばすようになり、近年急速に宇宙は身近な存在になりつつある。とはいえ、まだまだ宇宙は人間の生存には向かない世界だ。巨大な建造物もたてられないし、密閉された環境がなければ即死するし、そもそも放射線に耐えられるように人間はできていない。それをどうやって防ぐのか、水や空気、はては人体から出た熱を循環させる方法、月の環境を想定して野菜やじゃがいもを栽培する技術と手法など、今まさに進展している研究の現状が語られている。軽いエッセイかな? と最初ナメていたのだが、本格的な一冊だ。続いては、物理学に美しさは必要か? と本質的な問いかけをして議論を巻き起こしたザビーネ・ホッセンフェルダー『数学に魅せられて、科学を見失う――物理学と「美しさ」の罠』を紹介したい。物理学者は、自然法則の中に理論の自然さや美しさ、対称性、単純さ、統一性を求める。だが、そうした「美しさ」は人間の主観的な価値観にすぎず、本来物理法則とは無関係だ。それなのに、現代の物理学は美意識に頼って研究を進め、金を無駄にしている──と、全体的に批判的な論調で進行していくが、読むともっともだ、としか思えない。議論も批判に終止するわけではなく、そもそも物理学にとって美とは何なのかなど、幅広い論点を内包した一冊だ。次に、最近読んだ生物系の二冊を紹介しよう。ひとつは、幸田正典による『魚にも自分がわかる』。魚の自己認識の研究について書かれた一冊で、なんと魚には鏡をみて、そこに映った個体が自分であると認識する能力があるというのである。そうした能力はこれまで猿や象など頭の良い動物にしかないと思われてきたが、著者らはそれを魚(ホンソメワケベラ)で確認したのだ。そもそもどうやって魚が鏡に映った個体を自分と認識したとわかるの? と疑問が湧いてくるが、本書の中ではその意外な検証方法もしっかりと語られている。魚の見方を一変させてくれる一冊だ。アシーナ・アクティピス『がんは裏切る細胞である』は書名の通りにがんについて書かれた一冊。特徴的なのは、これまで「排除すべき敵」とされてきたがんを、一定量はその存在を許容し、コントロールしていく治療法について書かれている点にある。たとえば、この適応療法と呼ばれる治療法では、腫瘍を一定の大きさにとどめ、完全排除を必ずしも目的としないことで、がん細胞が変異し抗がん剤に耐性を持つのを防ごうというのだ。そのために、画像技術や血液検査によって腫瘍の状態を(患者のダメージになりすぎないように)綿密にモニターしながら、抗がん剤の容量を定める。

この適応療法は、すでにホルモン療法に反応しなくなった転移性前立腺がんの患者にたいする臨床試験も行われ、結果も出している。なぜそうした治療法が有効なのかをがんの基礎的な知識(なぜ変異するのか? など)から説明してくれていて、おもしろいだけでなく希望をみせてくれた一冊だ。

科学書以外!

続いては科学書以外を取り上げていこう。もっとも記憶に残ったのは、『これからの「正義」の話をしよう』のマイケル・サンデルによる『実力も運のうち』。アメリカ大統領線におけるトランプとバイデンの接戦、イギリスのEU離脱など今世界中で「分断」が起こっているが、その要因のひとつが「能力主義」にあるとサンデルは語る。

たくさん努力をし良い大学に入って高い賃金を得る、それに成功した人は自分の勤勉さと努力のおかげだと考えるかも知れない。だが、アメリカの名門大学の学生の3分の2が所得規模で上位20%の家庭の出身であることからもわかるように、学歴には生まれの運が関わっている。「実力も運のうち」なのだ。しかしそれを勘違いすると、自分の今の立場は努力で手に入れたものであり、自分と同じようになれない人間は努力が足りない、という思考に陥ってしまう。その危険性を提示した一冊である。

もう一冊、大きな社会的なテーマを扱った本としては(こっちも早川だな)、ビル・ゲイツの20年ぶりの著作となる『地球の未来のため僕が決断したこと:気候大災害は防げる』も紹介しておきたい。地球はいま間違いなく温暖化に向かっていて、このまま進めば人間が住める領域は減り、水不足や災害に襲われる頻度は間違いなく上昇する。

それを防ぐためには、何をどうしたらいいのか? が本書のテーマだ。ゲイツって気候変動の専門家じゃないでしょ? と思うかも知れないが、彼は自前の慈善基金団体で長年に渡ってこの分野への投資を続けていて、その知見の広さは相当なものだ。再エネ、原子力、蓄電技術、農業分野での改革、工業分野での二酸化炭素削減など、あらゆる領域での技術革新と政策、そして市場が温室効果ガス排出量ゼロを自然に推し進めるためにはどうしたらいいのかについて、解説と提言がなされている。読んでおくと、気候変動問題にたいする大きな見取り図を得ることができるだろう。

重いテーマの本が続いたので傾向をかえると、『映像編集の技法 傑作を生み出す編集技師たちの仕事術』は主に映画やドラマの映像編集に関わる人々にその技法・仕事の進め方についてのインタビューをまとめた一冊である。最終的に映画館や配信に乗る映像は、その何百、何千倍といった映像を繋ぎ合わせた果てにできている。どのように映像を切り、繋げるのか。これ以上削れないというところから削るにはどうすればいいのか。最高にかっこいい場面だけを繋ぎ合わせても良い映像にならない理由など、編集のつらさとそのおもしろさがここには存分につまっている。映像だけでなく、文章を書く人にも(文章にも編集は絶対必要だからね)オススメしたい。編集と関連して創作の話題に繋げると、ジョゼフ・グッドリッチ『エラリー・クイーン 創作の秘密』はおもしろすぎて一気読みした本だ。伝説的ミステリ作家エラリー・クイーンは二人組の作家だったのだが、二人は仲良しこよしな共作生活を送っていたわけではなかった。ときにはお互いを受け入れられず、強く非難し、説教し、脅し、よくもまあそんなことをいってお互いに縁を切らずに共作を続けたな、と思うような激しいやりとりの末に数々の傑作をものにしてきたのであり、本書では二人がどのように作品を作り上げてきたのか、その創作の秘密が克明に記されている。陸地では想像もつかないことをやる海の犯罪者たちについて書かれた『アウトロー・オーシャン』が犯罪系としては抜群におもしろかった。給料を支払いたくないために船だけ残し置き去りにする雇い主。妊婦を国の法律が適用されない海上に連れ出して、人工妊娠中絶を行う団体。日本の捕鯨船に攻撃を加えようと追い回し、違法な膨大活動を繰り返すシーシェパード──など、陸地はまた別の法が支配する海の日常の世界について書かれており、普段日の当たらない部分に日を当ててくれた好著だ。

他、おもしろかったものをざっと紹介すると、アルコール、薬物依存、自殺による絶望しが増え、平均寿命が3年連続で低下しているアメリカで何が起こっているのかについて書かれた『絶望死のアメリカ――資本主義がめざすべきもの』。新型コロナ以前からパンデミックに対抗するために組織の方針とは異なる行動をとってきた英雄的な個人の活動を描き出す『最悪の予感: パンデミックとの戦い』。GoogleやFacebookに我々の行動・情報が監視され、いずれ誘導されるようになることを警告した『監視資本主義: 人類の未来を賭けた闘い』あたりは特に記憶に残っている本たちだ。

おわりに

と、いろいろあげてきたが、どれもおもしろい本ばかりなので、外に出にくい年末年始に読む本を探していたら、参考にしてもらえれば幸いである。よかったらこれを読んだ皆さんの2021年のオススメ本なども教えていただきたい。

オランダ史上最悪の犯罪者と呼ばれた兄を告発した妹による、壮絶なる体験記──『裏切り者』

本書『裏切り者』は、映画にもなった「ハイネケンCEO誘拐事件」の実行犯として知られ、その後も犯罪を重ね「オランダ史上最悪の犯罪者」と恐れられるまでになった男ウィレム・ホーレーダーについて書かれた犯罪ノンフィクション/体験記である。

現在ウィレムは逮捕され、終身刑を食らっているのだが、彼の罪を告発し終身刑にまで追い込んだのは実の妹で、本書の著者であるアストリッド・ホーレーダーなのだ。本書は著者が幼少期を過ごした1970年代から、ホーレーダー家がどのような家庭環境だったのか。また、著名な犯罪者の実の妹として日々を過ごすとはどういうことなのか。兄を告発すると決めた決定的な理由、そして告発を決めた後の戦いが、まるでスパイ小説か映画のような緊迫感の中で描かれていくことになる。

とはいえ、実の妹なんだから信頼されているだろうし、別に告発もそんなに難しいことじゃなくない?? と思っていたのだけどこれが思った以上に壮絶な関係性で、妹だから許されるとか殺されないとか、そんな保険が一切存在しないことが読み進めるうちにわかってくる。何しろ、最終的に告発は成功し終身刑にしたといっても、ウィレムは多数の殺しを厭わぬ仲間を抱え、獄中から妹の暗殺指令を出すことに成功したせいで、いまだに著者とその家族は心安らかに過ごすことができないのだ。

著者自身も最終的にそうなることは予測していて、数年に渡る情報提供期間中、バレたら殺されるのは間違いないので命を賭けて立ち向かっていく。正直、オランダで有名な犯罪者といっても聞いたことないし、あんまり興味ないかな〜と思いながら読み始めたのだけどおもしろすぎて一気に最後まで読んでしまった。

どのような家庭で育ったのか。

ウィレムと著者ははどのような家庭で育ったのか。ウィレムは後に犯罪者となって家族中に迷惑をかけるのだが、迷惑なのは彼だけではなく、その父もであった。浴びるように酒を飲み、母の交友関係に口を出し、仕事をやめさせた。絶え間なく恫喝し、毎日ボスは誰だ? と怒鳴りつけ、ボスはあなたです、と答えさせていたという。

著者は4人きょうだいの末の子で、上にウィレムを含む二人の兄と、姉が一人いる。父に殴られ、恫喝されるのは子供も同様で、散々な幼少期を送っていたようだ。ある時父親に反抗的な態度をとり、出ていけ、と言われこれ幸いと母と姉と兄と共に出ていって、4人で家を借りて暮らし始めたら周囲の圧力を使ってまた戻るように仕向けさせる、父に習って兄二人も妹を殴っていうことをきかせようとするなど、とにかく、特に幼少期に関しては母親以外すべてが最悪の家庭環境という他ない。

状況が変わるのは著者が15歳の頃で、いつものように父親が暴れていると、(著者の)兄のヘラルトの中で何かがぷつんときれたのか、父に猛然と向かっていき、顎をきれいに拳でぶちぬいて、その独裁に終わりを告げる。一家は家を出て、ウィレムはその後地下の犯罪組織に自分の居場所を見出すことになる。

ウィレムに受け継がれた暴力

父親から逃げることに成功した著者らだったが、次に家族を支配するのはウィレムだった。ウィレムがハイネケン誘拐事件を起こし逮捕されたことで、ホーレーダー家は一切無関係だったにも関わらずやりとりは監視されるようになり、世間から「犯罪一家」とみなされるようになった。『メディアは世論に熱烈に同調した。反論はするだけ無駄だった。私たちは「悪」であり、更生は不可能とされた。どこへ行っても、私たちは犯罪者の「親族」であり、独立した個人ではなかった。』

ウィレムは逮捕されたとはいえ数年程度で出所し、犯罪社会に舞い戻り、契約殺人の請負人としての彼の名は高まっていくことになる。彼は何件もの殺人に関与していたが、具体的に著者が実の兄を刑務所に送り込まねばならぬ、と決意するようになったのは、かつてはウィレムの親友で彼と共にハイネケン事件に関わったコルの殺害に兄が関与していることに気づいてからだった。コルは兄の友人であっただけでなく、著者の姉であるソーニャの旦那でもあり、著者自身も親交の深い人物だった。

当時、ウィレムはかつての父のように暴力と恫喝できょうだいを従わせていたが、著者と姉は(コルを殺すきっかけとなったであろう)ウィレムと日々過ごすうちに、コルを裏切っているという罪悪感に苛まされていく。一方、ウィレムを告発するのは家族にたいする裏切りだ。だが、人殺しを放置するのは社会に対する裏切りでもあり──と著者はさまざまな立場の「裏切り者」となるジレンマを抱えている。

もちろん、最後には告発という結論に至るのだけれども。

 昔は違った。
 兄のために命を差し出したに違いない時代もあった。
 ハイネケン誘拐事件のあと、家族全員が白い目で見られていた頃には、兄が私たちに吹き込んだ、家族への忠誠心に関する「私たちvs社会」という虚構を完全に信じ込んでいた。
 しかし、ウィムが自分の家族を殺せることに気づいたとき、私は悟った。敵は外の世界ではない。彼なのだと。

カッコいい女性たち

こうして著者はウィレムを告発し刑務所に送り込むための行動に出るのだが、その道のりは苦難の連続だ。何しろ、かつての親友さえも平気で殺す男なのである。妹であってもバレたら殺される。一気にかたがつく問題でもなく、証拠のために兄との会話を盗聴したり、兄の愛人とコンタクトをとって仲間に引き込んだり、情報を集めながら数年がかりでその時に向けて準備を進めていくのだ。

メインで告発をしたのは、著者とその姉と、兄の愛人で同じく恫喝の犠牲になっていたサンドラという女性陣なのだけれども、とにかく彼女たちがカッコいいのも読みどころの一つ。たとえば下記は、著者がサンドラをウィレムの情報提供者仲間として引き入れようとしている場面だが、現実の会話とは思えないほどにキマっている。

「あなたはどう思う?」
「それは、私も自殺したいかってこと?」
「まあ、そんなところね」私は笑みを浮かべた。
「ええ、のるわ。若くて美しいうちに死にたいとずっと思ってたから」彼女は言った。
 サンドラには風変わりなところはあったが、非常に強い意志の持ち主だった。一度やると言ったことは、かならず実行した。

おわりに
自分が一切関わっていないことで、ひどく人生が損なわれていき、終身刑という達成を得ても、殺し屋に命を狙われる恐怖は消えない。あまりにも過酷な人生という他ないが、それでも彼女は肉親の人殺しを止めるために動いたのだ。それも、ウィレムに対する愛情を持ったままに。それがまた本書の凄まじさを増している。

犯罪ノンフィクションとしては最高峰のレベルでおもしろいので、ぜひ手にとって見てね。

自閉症者だからこそのユニークな読書体験を描き出す、「読み」の探求──『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書──自閉症者と小説を読む』

この『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』は、副題に入っているように、本書の著者が自閉症者と共に色んな小説を読んで語り合ってみたという、ただその体験を記しただけの本である。体験記と文学評論のあいのこのようなもので、何か、これによって自閉症者と読書にたいする普遍的な傾向を見出したりするような本ではない。

自閉症といっても症状は多様であり、数人をとりあげて一緒に本を読んだところで、普遍的な何かを言えるわけではないから、それは当然だ。では、なぜそもそもの話、自閉症者を対象とした個人的な読書会の体験記が書かれなければいけなかったのか。

理由としては、著者には自閉症を持つ息子がいること、英文学の教授であること、ニューロ・ダイバーシティ(神経多様性)についての取り組みを行っていることなどいろいろあるが、最重要なものに、自閉症者らがいわゆる神経学的な定型発達者とは異なる読み方を提示してくれるのではないか、という仮説の探求がある。

自閉症者と文学を読むというこのプロジェクトを始めた当初から、私の狙いは、自閉症の欠陥にばかり目を向ける習慣的なやり方を取らず、感覚で対象と関わる彼らの才能──そしてもちろん、感覚の強さ──が読書のプロセスに生産的に寄与するのではないかという点を探求することにあった。

自閉症者にはコミュニケーションの障害、想像力の障害、社会性の障害の3つの障害があるとされてきた。他者の内面を類雜し、理解して、気づきを得ることが難しいのだと。他者の心の状態に思いが及ばないのだとしたら、自閉症者は小説の中に現れる登場人物らの心の動きや、比喩に隠された意味についていくことなど到底できそうにないと思える。だが、自閉症者が書いた文章が増えていくにつれて、自閉症者らが文学作品を感情豊かに、そしてユニークに読み解いていくこともよくわかってきた。

本書は基本的に一人につき一冊のテーマ本(『白鯨』、『儀式』、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『心は孤独な旅人』、『ミート』『ジ・エクスタティック・クライ』)が設定され、それを細かく読み解いていく過程が記されていく。これまでの研究から、自閉症者はものを考える際に(定型発達者からすると)異常なほど後頭部の感覚野に頼っていることがわかっているが、そのおかげか、彼らの中には、文字に実際に触れ、情景を立体的に捉え、匂いを嗅いで音を聞き、と物語を「感じながら」読むことができる人が多い。彼らは文学作品の理想的な読者なのかもしれないのだ。

自閉症者らと著者の感想戦の合間には、その時一緒に読んでいるのがどのようなタイプの自閉症者なのかという紹介と、自閉症に対するステレオタイプな見方(たとえば、彼らには共感能力が欠けているなど)を覆していく様子が、最新の研究や知見と共に語られていく。「自閉症者と一緒に読んでみた」だけでなく、自閉症の現在について、ざっくりとではあるが知ることのできる一冊にも仕上がっている。

ティトと『白鯨』

最初に取り上げられていくのはメルヴィルの『白鯨』で、著者の相手は読書会当時19歳、言葉を話すことができない古典的自閉症児のティトである。重度の自閉症者にはほとんど内省をしたり深く考えたりする力はないと思われていた当時、見事な知的能力で何冊もの本を書いて(当時すでに3冊)自閉症者として有名な青年であった。

ティトの世界の感じ方は(定型発達者であるニューロティピカルからすると)特異で、たとえば新しい環境の中で、簡単に情報の統一をはかることが難しいという。たとえば船をみたとき、大カテゴリとしての船があるな、と認識し、そこから帆や甲板を認識していくのではなく、それらを無視していきなり船板の木目に注目するようなものだ。細部に焦点があってしまうので、意図的に見すぎないようにする必要がある。これは、音などでも同じで、音が聞こえる時に、環境中のほかの音よりも人の声を優先することができない。川のせせらぎと友達の声が区別されずに入ってくる。そのせいで、口で言われたことをただ理解することも容易にはいかない。

こうした彼の世界の見方、感覚は、『白鯨』を読む際にも反映されていく。たとえば、『白鯨』の語り手であるイシュメールは、見張りに立つ間、本来求められている鯨や海やマスト・ヘッドという観念を忘れ、『「いま……享受している生命とは、おだやかにゆれうごく船からさずかった生命にほかならぬ。海をとおしてさずかった生命……にほかならぬ」』と見張りとは関係のない感覚の中に沈み込んでいく。これにたいして、『ティトによれば、イシュメールのこの言葉は自閉症者が感覚の中に我を忘れるようすを限りなく見事に表現しているという。感覚は気持ちを苛立たせることも多いが、感覚に魅了されることも同じくらい多いのである。』

ティトはこの時、『白鯨』になぞらえた一つの詩を送っているが、そこで彼は、自分に届く声は音の周波数であり、意味は把握されぬままに通り過ぎていってしまうという自閉症者における会話の状況を見事に描き出している。このように、彼らは17ヶ月 を通して一つ一つのシーンを丹念に拾い上げ、詩を書きながら精読していく。これは、「細部」に注目しそこから全体像に至る、自閉症者的な読み方といえるだろう。

文学という調停

本書でもう一つ重要なのは、ニューロ・ダイバーシティ(神経多様性)の観点だ。たとえば、自閉症者は音や視覚で情報が押し寄せた時、抽象化や一般化がうまくいかず情報をそのまま受け取ってしまう。一方、定型発達者であるニューロティピカルがそうならないのは、抽象化や一般化することで情報を省略することができるからだが、これはある意味では細部が失われることを意味している。自閉症を、ただ治すべき障害として捉えていると、自閉症が持つプラスの側面が見えなくなってしまうだろう。

どちらが良い、悪いというものではなく、ニューロティピカルと自閉症者、どちらにもプラスとマイナスがあるし、障害として排除するのではなく、それを認めよう、というのがニューロ・ダイバーシティの基本にある。そして、著者は、文学は自閉症者とニューロティピカルにとって、調停の手段として機能するのではないかと書く。

自閉症者は感覚が思考を圧倒し、ニューロティピカルは思考が感覚を圧倒する。だが、文学は感覚と思考を結びつける。文学は、言葉によって読者の脳の非言語的な領域を活性化させ、体験をシミュレートさせることを狙うが、これは自閉症的な世界の認知の仕方に近いものだ。一方、感覚が過大な自閉症的認知からは、文学を読むことで、感覚を超えて思考に至る訓練になるのではないか。『文学は、言葉による安息の地、故郷のようなものになりうるのではないかと私は考えるようになった。』

おわりに

最後に収録されているテンプル・グランディンとの読書会では、自分の仮説を立証することと本の構成のために、意図的に誘導じみた質問を重ねていて、おいおい、そりゃルール違反じゃねえのと微妙な気持ちになったりもしたが、総体的には魅力的かつ、示唆に富んだ一冊だ。特にディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読む章はSF好きとしてもおもしろかったのだけど、気になる人は読んでみてね。

『半分世界』の石川宗生による、なんでもないバックパッカーを描き出す紀行文──『四分の一世界旅行記』

四分の一世界旅行記

四分の一世界旅行記

この『四分の一世界旅行記』はSF・奇想短篇集の『半分世界』でデビューし小説家として活躍する石川宗生によるバックパッカーとしての旅行記である。四分の一世界旅行記と題されているように、訪問する場所は中央アジア、コーカサス、東欧の15カ国。世界一周でもなければ、アマゾンの奥地にひそむ巨大ナマズを見つけるみたいなビッグ・テーマがある旅ではない。気ままで地味な旅行記だが、それがおもしろい。

いまのご時世、インターネットに情報は溢れかえっており、旅先でそうそうピンチに陥ったりすることもない。言葉が通じなくても、スマホで翻訳すればやりとりできる。ある意味、アクシデントもなけりゃあ未知のない現代は魅力的な旅行記を書きづらい時代である。実際、本書でも本当にたいしたことは起こらないのだけれども、その分、旅の細かなディティール──何を食べたとか、どんな人と出会ったとか、ちょっとした困りごと、悩みごとだとかそこでどんな会話がかわされたのか──、ようは、いきあたりばったりなバックパッカーたちの生態が詳細に描き出されていく。

そして、たしかに劇的なことは起こらないが、旅先における些細な日常のことだって、見方を変えればその一瞬、その瞬間にしか起こり得ないことなのだ。たとえばたまたま通行できるかわからない難所があり、そこをどう切り抜けるかとか。人との出会い、別れ。そうしたすべてはその時その場所にいなければありえないものである。本書はそうした、「なんでもないが特別な一瞬」を丁寧に切り取っていく。

石川宗生の書く小説は、たとえば道路側の半分が消失した丸出しの家と、なぜかそこで私生活丸出しで暮らす家族4人と、それを観察しいったいこれはなんなんだとワイワイ議論する観察者たちの物語「半分世界」のように、どこからこんな着想が湧いてきたのだろう? と思うような奇想によって彩られている。本書は旅行記とはいえそうした奇妙さが溢れていて、章ごとにまるで短篇小説を読むようによむこともできる。

旅のディティール

旅の記録が始まるのは中国のウイグル自治区にあるカシュガルからタシュクルガンへと向かう道中。何でも、タシュクルガンにいくのはそう簡単な話ではないらしい。

ある人はタシュクルガンに行く途中の検問所で追い返されたと語る。ある旅行代理店の人間はそんなことはない、個人でもいけるという。また別の旅行代理店の人間は外国人の個人旅行は禁止されているという。誰に聞いても少しずつ異なる答えがかえってくるので不条理文学の世界に迷い込んでしまった感があるが、そんなある時著者は滞在中のホステルで中国人らと知り合いになり、彼らの中にはタシュクルガン行きの許可証を取得している人もいたので、急遽タシュクルガンを目指す旅行グループ「チーム・タシュクルガン」が結成されるのであった……。とこんな感じで、いきあたりばったりで、いろいろな人と出会いながら前に進んでいく旅が描き出されている。

中国人たちとどういう話をするのかといえば、政治の話から蒼井そらの話までさまざまで、そうしたどうでもいいことがしっかりと書かれているのがおもしろい。たとえばこんな宴会のシーンとか。

 こと中国で絶大な人気を誇るのは、言わずとしれたセクシーアイドル蒼井そら。
 中国語読みは「ツァンジンコン」らしく、酩酊の果てになぜかみんなしてアメリカ合衆国の応援「ユー・エス・エー!」のリズムで唱え叫んだ。
「ツァン・ジン・コン!」
「ツァン・ジン・コン!」
「ツァン・ジン・コン!」
 カシュガルの夜空に響きわたる蒼井そらの名。

ただ蒼井そらの話だけしているわけではなくて、中国のチベット侵攻についても突っ込んで聞いていたり「よく仲良くなっているとはいえ中国人相手にそんなこと聞けるな」と思うが、わりと突っ込むべきところは突っ込んでいくスタイルである──。そして、もちろんそうやって一緒に旅をした相手ともすぐに別れがやってくる。共にタシュクルガンへと向かった中国人らと、いつか日本に行くから、君もまた中国に来いよな、というよくある別れの会話の後に訪れる述懐は、旅の寂寥感に満ちている。

 そういえば、自分が旅をしていると実感するのはいつもこういう別れのときだった。「また会おう」という日本だったら現実的な言葉も、異国ではひどくたよりなく感じてしまう。旅はそんな儚い約束の連続で、果たせた約束より、いまだ果たせぬ約束ばかりが増えていく。
 でも中国と日本は近いし、モリくんとはいずれまた、きっと。

旅あるある

道中、こうやって様々な人と出会っていくのだけれども、合間合間に「旅あるある」が語られていくのもおもしろい。たとえば、タシュクルガンへ向かう道中にあるカラクリ湖と出会った時、その風景を前にして『テレビやガイドブックで見慣れた有名な観光名所よりも、道中の名もなき景観のほうが感動したりする。』と書いたりする。

あまりにも居心地のいいホステルに出会うとまるで沼にハマったようにそこからしばらく動けなくなってしまうとか、『旅先で魅力的な国の話を聞き、行ってみたい国が初春の枝葉のように広がっていく』とか。世界一周旅行者などの長期旅行者がたどるルートはかぎられているので、世界を旅しているにも関わらず旅人同士で共通の知り合いがたくさんいる、というのも意外であった。著者も、出会った人と別れたかと思いきやその後ひょっこり再会するのを繰り返している。たとえばある時、著者は旅の道中で顔なじみになったナギサちゃんという女性としばらく旅をするのだけど、いったいこの二人はどういう関係なんだろうとよみながらドキドキしてしまった。

なんてことのない仕草が、センセーショナルな出来事になる。

些細な断片でも、それは特別な記憶になりえるのだということが本書を読むとよくわかる。たとえば、アルメニアを訪れた著者は、旅人仲間からの紹介で在アルメニア日本大使館の職員らとの飲み会に参加するのだが、そのシーン(下記)が、また、なんでもない風景なのに、「遠い世界にもリアルな人間が生きていて、そこならではの日常があるんだな」と想像させてくれるのだ。

 たとえばひとりの女性はマオちゃんの話に聞き入りながら、厚焼き卵をおいしそうにほおばっていた。もうひとりの若い女性はそのテーブルの端っこですこしばかり物憂そうにビールを飲んでいた。そしてひとりの男性はその和解女性のことをやたらといじっていた。中学生の男子が気のある女子にちょっかいを出すように。
 そうした人間味あふれる仕草のひとつひとつが、ぼくにとってはセンセーショナルな出来事だった。

いま、世界はとても旅ができるような状況ではないが、だからこそこういう本を読んで旅をした気分の片鱗だけでも味わうのも悪くない。逆に、旅に行きたくなって苦痛を味わうことになるかもしれないけれど。巻末には宮内悠介との対談もあるので、SFファンも読んでみてね。

精神病院に偽患者を送り込みその脆弱性を明らかにした有名な実験は、実は間違いだらけだった──『なりすまし——正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』

近年、かつて行われた有名な心理学系の実験が、再現実験の失敗やデータ不備の発見により、実は間違っていたという事実が次々明らかになっている。たとえば有名なものに、マシュマロ実験がある。この実験では、マシュマロを皿の上におき、「それは君にあげるけど、私が戻ってくる15分の間に食べるのを我慢していられたらもう一つあげる」と指示する実験で、ここで自制し、より大きなリターンを得られた子供ほど、大人になっても優秀と判断される割合が大きかったことを示した。

1970年代に実施されたこのマシュマロ実験は話題になり、いろいろなノンフィクションで目にしていたから、本当につい最近まで僕もこれは正しい実験だと思っていた。しかし、2018年に実験結果が発表された、被験者の数を900人以上に増やした再現実験では、「2個めのマシュマロを手に入れたかどうか」は自制心がどうこうよりも、大部分は被験者の経済的背景と関係しているという結論が出ている。長期的な優秀さとの相関において重要なのは、マシュマロなどのご褒美を先送りできる自制心自体よりも3歳時点における家庭の年収と環境なのだ。身も蓋もないが。

と、ここで本の話題に戻るが、『なりすまし——正気と狂気を揺るがす、精神病院潜入実験』はマシュマロ実験と同じぐらい有名な実験が、実は虚構の元に成り立っていたのではないか? という疑念を追求していく精神医学ノンフィクションである。取り上げられていく実験は1973年に『狂気の場所で正気でいること』というタイトルでサイエンスに掲載されたもの。論文では、精神障害の診断を受けていない疑似患者が、幻聴があるふりをして、アメリカに存在する12の精神病院を訪れ、入院し、退院するまでの詳細なデータとレポートが描かれていく。

その論文では8名の偽患者の名前があげられていて、みな精神的には問題を抱えていなかったにも関わらず、入院を許可され、偽患者とバレることもなく、退院することができた。つまり、精神科医は正常な人と精神障害を持つ人を見分ける方法をもっていないことを明かしたのである。

この論文が発表されたあとすぐに大きな話題になり、精神医学界に衝撃を与えた。どうやって適切に診断すべきなのか、精神障害を治療すべきなのかといった数々の疑問についてもう一度問い直し、大きな改革を迫ることになったのだ。そんな論文が、実は間違いだらけであったこと。それどころではないでっちあげがあったことが、本書では執拗な調査によって明らかにされていく。

ローゼンハン実験の不備の数々

本書の著者は自己免疫性脳炎という病気でありながらも統合失調感情障害などの精神疾患であると誤診をくだされ、見当違いの治療で苦しんだ闘病記で著名になった作家で、彼女がこのローゼンハン実験に興味を持つのも当然といえる(彼女自身が偽患者となっていたのだ)。

しかし、彼女がこの実験についての調査をはじめると、不可思議なことが次々明らかになっていく。たとえば、ローゼンハンは出版社と出版契約を交わしていたのだが、原稿は提出されず、出版社からは訴訟を起こされている(ちなみに、ローゼンハン自身は2012年に亡くなってしまっている)。さらには、実験に出てくる8名の偽患者たちは一人も身元が明らかになっておらず、潜入先の病院さえも秘匿されている。告発したいのは精神医療のシステムそれ自体であって、病院や個々の医師ではないから、とご立派な理由をつけているが、怪しいといえば怪しい。

著者はローゼンハンの息子など関係者に取材を敢行し、個人メモなどあらゆる資料を集めていく。その過程で明らかになっていくのは、論文がいかに不備にまみれていたかだ。たとえば、論文の中にはたくさんの数値(たとえば、71%の精神科医が顔をそむけて素通りしていくなど)が出てくるが、実際に潜入を行った人物に話を聞いてもそうしたデータを記録していた記憶はないという。病院の患者数にも7千人単位多く計上していたり、入院期間の誤りなど、不備をあげればきりがない。

それだけならまだしも、この実験では「ドスンという音」「空っぽだ」「空虚だ」のシンプルな幻聴が聞こえること、それだけに絞って症状を訴えることが前提とされていた。それだけの訴えで入院させるなんて! という精神病院への不信感も話題を呼ぶきっかけになっていたのだ。しかし、ローゼンハン自身の潜入メモからして入院するためにいくつも症状を付け足し、盛っており、自殺願望さえほのめかしていた。

通常、自殺願望や自傷の危険性のを訴える患者は危険性が高く、ただちに入院させる必要があるという判断材料になるから、前提が崩れてしまっている。それ以外にも自分が診察された際のカルテを論文発表時都合よく書き換えてもいる。

本当に存在していたのか?

この時点で論文の信頼性は地の底に落ちているのだけれども、実はこの後にもっと深い闇、疑念が明らかになる。8人の偽患者のうち、一人は主著者であるローゼンハンであることがわかっている。そして、もうひとりビルという人物の話も聞けた。

その時点で明らかになったのが上記のデータ不備、データ改ざんの数々の事実だったのだが、著者がさあ、では他の6人にも話を聞こう、と探し回っても、一人も見つからないのである。偽患者らの個人情報は最も研究に近かった助手にすら明かされておらず、周囲の人間に聞き取りを繰り返しても、条件に該当する人物が見つからない。

最初、彼女は偽患者らの実在を前提に調査を続けているのだが、ローゼンハンの誇張癖。あまりに完璧すぎる偽患者の症例カンファレンス。そもそも偽患者の入院費はローゼンハンのポケットマネーから出したと書いているが、相当な金額になったはずのその費用をどうやって用意したのか? など怪しげな証拠が出てくるにつれ、偽患者は本当に存在していたのだろうか? と疑念を抱き始める。『今や問題はこうだ。ローゼンハンは自分の発見をできるだけ正当なものに見せるためにn数(つまりデータ収集するサンプル数)を増やそうと、一から偽患者をでっちあげたのだろうか?』

おわりに

ずっと追い求めてきた人たちは、実は存在しないのではないか? と気づきを得る瞬間など、ノンフィクションでありながらも一流のミステリー・サスペンスのような興奮がわきおこってくる逸品だ。実際に偽患者らは全員見つからないのか? という肝のところ自体は読んで確かめてもらいたいが、精神医学を大きく変えたこの研究が信用ならないのは、間違いない事実である。ローゼンハンという、「なりすまし(The Great Pretender)」の達人の、恐ろしくもおもしろい物語であった。

社会に分断をもたらした「自分自身の努力と勤勉さ」で成功したという考え──『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

実力も運のうち 能力主義は正義か?

実力も運のうち 能力主義は正義か?

この『実力も運のうち 能力主義は正義か?』は『これからの「正義」の話をしよう』が大ヒットした、マイケル・サンデル教授の最新作である。『それをお金で買いますか 市場主義の限界』など、毎回その時代に問われるべきテーマを取り上げてきたサンデルだが、そんな彼が今回注目したのが「能力主義」だ。これは、現代の「分断」の原因を的確に写し取っているように感じられて、非常におもしろかった。

分断というキーワード

アメリカ大統領選におけるトランプとバイデンの接戦、イギリスのEU離脱、ポピュリストたちのエリートへの怒りなど今世界中で「分断」がキーワードになっているが、その要因の一つがこの「能力主義」にあるとサンデルは語る。たくさん勉強や努力をして良い大学に入り、良い仕事と賃金を得る。それに成功した人はその結果を「自分の勤勉さや努力のおかげだ」と考えるかもしれない。だが、アメリカの8つの名門私立大学の総称であるアイビーリーグの学生の3分の2が、所得規模で上位20%の家庭の出身であることからもわかるように、学歴は生まれの差が大きい。

アメリカ前大統領のバラク・オバマは演説で「やればできる(You can make it if you try)」、アメリカにはまだアメリカン・ドリームが生きていて、勤勉で才能があれば誰もが出世できると繰り返したが、もはやこれは現実にそぐわない。所得規模で下位5分の1に生まれた人の中で、上位5分の1に到達できるのは20人に1人だけだ。

やればできる、という言葉は、実際に上昇できる、してきた人間からすればプラスの意味として機能し、「やればできる」は真実であり、できないやつは努力しなかったからだ、という思考に繋がりえる。その一方で、やったけどできなかった人、やりたくてもできなかった人、そもそもやるような環境にいなかった人からすれば、「できなかった」自分を攻撃する呪いの言葉となってしまう。

トランプに一票を投じた人たちには、ヒラリー・クリントンの能力主義の呪文がそんなふうに聞こえたのかもしれない。彼らにとって、出世のレトリックは激励というより侮辱だった。

近年の大きな分断の要因の一つが、ここにあるのは間違いないだろう。

「努力してもむくわれないことがある」のは何も学歴に限った話ではない。弁護士と保育士では収入に開きがあるように、才能を持ち、同じように努力したとしても、「現在の市場で換金しやすい努力/才能か」という「運の要素」が介在する。肉体を使うプロスポーツ選手でも、世間の人気競技か否かで収入には大きな開きがある。

『自分の才能のおかげで成功を収める人びとが、同じように努力していながら、市場がたまたま高く評価してくれる才能に恵まれていない人びとよりも多くの報酬を受けるに値するのはなぜだろうか?』『能力主義の理想を称賛し、自らの政治的プロジェクトの中心に置く人びとは、こうした道徳的問題を見過ごしている。』

じゃあどうしたらいいのか?

やればできる、というメッセージの繰り返しで、出世できなかった人たちの尊厳は失われ、良い大学に入れば良い仕事につけるという現実は、学歴偏重を加速させる。こうしたことが、今アメリカを中心として世界で起こっていることだ。

じゃあ何か? 才能の有無、それが評価されるか否かもすべて運次第なのだから、たとえば藤井聡太が将棋の才能によってどれだけ稼いだとしても、彼には生活に必要な年数百万程度しか与えず、あとは他の日本人に分配するのが正しいのか? といえばそんなことはない。サンデルは、大学入試も否定していない。サンデルが主に批判しているのは、能力主義による成功は自分の努力のおかげであると信じる傲慢さと、それがもたらす分断、不平等な仕組みのまま実施される能力主義にある。

具体的に何を批判し提案しているのかというと、大学入試では、寄付者の子供やスポーツ選手の優遇をやめ、大学に入学してやっていくだけの最低限の素養があるのであれば、あとの選考はくじ引きで決めたっていいだろう、と驚きの施策を提案している。たとえば、ハーバード大学やスタンフォードに入学を希望する生徒は現在4万人いて、そのうち「最低限の素養」のあるものは3万人程度とする。そのうちの誰が優秀なのか予測するという実現不可能な課題に取り組むのはやめ、そこから先は、適当に書類を地面にばらまいて、拾い上げた2000人(定員)を合格とする。

この方法は、能力を無視しているわけではない(1万人程度の足切りはしている)。しかし、ここでは能力は資格の一つの基準にすぎない。この選考方法で選ばれた人間は「自分の努力のおかげで大学に入れたのだ」とは決して思わないだろう。「多少の努力と、運のおかげだ」と考えることで、慢心をしぼませ、不当な競争から高校生を解放することができる。それはそれで偏るのでは? というのも最もな懸念だが、たとえば現行の入試における世襲的傾向をおさえるために、親が大卒ではない適格な出願者を大学が一定数選び、そこから必要数くじ引きを行うことで、最終的な多様性も望むバランスで得ることができる。

低収入枠を用意することで、流動性自体も確保できる。その結果ハーバード大学など一流大学の名声もなくなるだろうが、それはむしろくじ引き入試の長所だろう、など予想される反論に関しては本書の中でサンデルは一通り再反論を加えている。

おわりに

サンデルが現在の能力主義的信念に対抗する方法として述べているのはこれだけではない。能力主義的信念は、すべてを個人の責任にするせいで連帯の基盤を提供せず、敗者には容赦せず、勝者も抑圧の中にいる。それに対抗するために、貢献によって同胞である市民から評価される「共通善」に貢献することで道徳的絆を取り戻すのだ、という彼の著作で繰り返されてきた議論を再度展開している他、能力主義に破れた人びとの尊厳を労働でどうやって肯定するのか、という議論も広がっていく。
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アメリカではアルコールや薬物依存の死、自殺をまとめた「絶望死」が年々増え、この医療技術が進展していく世にあってアメリカ人の平均寿命は3年連続で縮んだ。絶望死の大半は学士号を持たない人びとの間で増えていて(学士号を持たない層では、95年から15年の間に絶望死が10万人あたり37人から137人へと増えているが、学士号を持つ層では、そのリスクはほとんど変わらなかった)、学歴偏重と能力主義が結びつき、学歴を持たない人たちの間で絶望が深くなっているのは間違いない。

本書は労働と尊厳の回復や共通善にテーマを絞った本ではないのでそのあたりの記述は簡素だが、現代の病理の一端を明らかにした、今読むべき一冊だ。

『1つの定理を証明する99の方法』から『怒りの人類史』まで、最近読んでおもしろかったけれどブログで単独記事にできなかった本をまとめて紹介する

最近もいろいろ読んでいるけれど、紹介したいけどうまい感じの切り口が思いつかなかったり、おもしろいけど様々な理由で取り上げにくい本がたまってきたのでいったんそいつらを紹介してみようと思う。普段ブログには小説でもノンフィクションでも、5〜6冊読んで1冊取り上げるかどうかの割合になので、このブログの背景にはこれぐらいの本が存在しているんだな、というのもなんとなく感じてもらえれば。

科学探偵 シャーロック・ホームズ

科学探偵 シャーロック・ホームズ

最初に紹介したいのは、J・オブライエン 『科学探偵 シャーロック・ホームズ』。シャーロック・ホームズは初めての科学探偵という側面も持つ。ホームズの捜査における科学的な側面とはどこにあったのか、化け学の知識はどれぐらいあったのかを原典のエピソードに細かくあたりながら見ていく本で、けっこうおもしろい。

たとえばホームズが指紋を捜査に使ったのは全60編中何編で、筆跡鑑定を使ったのは何編のこのエピソードで……と。シャーロキアンらしい偏執さでホームズに迫っている。ドイルは後年、心霊主義に傾倒してそれに伴いホームズも科学から離れ、話的にも魅力が……という話だったり、批評的な観点から読んでもいいのだけれども、あまりページ数的には多くなく、記事にまとめきれるかなと思いスルーに。

『‟もしも″絶滅した生物が進化し続けたなら ifの地球生命史 』は土屋先生の本で、もしも三葉虫やスピノサウルスなど、絶滅したやつらが生き残って進化を続けていたらどんな姿形と生態になっていたのかを描き出していく。未知のクリーチャー・デザイン感もあって、二億年後の地球の生態系を描き出した『フューチャー・イズ・ワイルド』や、人類滅亡後の動物世界を描き出した『アフターマン』といった「未来の架空動物本」に連なるいい本。ただ、その生態や形態にはそこまで大きな飛躍はなくて、かなり堅実なところはSFファン的にはちょっと物足りないかも。

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宇根寛『地図づくりの現在形 地球を測り、図を描く』は、地図についての一冊。今や紙の地図を所持して読む人はほとんどいないと思うが、現在地図の形はカーナビからスマホまで幅広く点在するようになった。そんな時代における地図の在り方、作り方とは、について書いている本で、地図の歴史もしれておもしろい。

地図の作り方も時代と技術によって変化しているようだ。たとえば空中写真にうつっているものが建物か、道路か、河川か、田園かを深層学習を用いて自動で判定してくれるAIマッピングの技術であるとか。登山道のようなよくかわり、上空からの写真では捉えがたいものはもともと人が念入りに調査していたが、近年は登山者の多くがスマホのGPSログ機能を使って自分の工程を記録している。なので、「ヤマレコ」や「ヤマップ」など登山者の生きた道の記録が共有されていて、国土地理院はちゃんと定型を結んで利用しはじめているなど、魅力的なエピソードが多い。

バーバラ・H・ローゼンウェイン『怒りの人類史』は人類史において怒りがどのように扱われてきたのかを描き出す一冊。怒りを取り除こうとする仏教、怒りの感情が浮かび上がってきたらそれに抵抗するべきだと勧めるセネカのストア学派、怒りを認めて、理性的に分析し、怒りを軽蔑する道徳的態度を土台にするべきだとした新ストア主義者らなど、様々な怒りの立場・主張だけではなく、怒りを正当化できるケースは存在しないのかといった肯定的な意見まで幅広くみていく。なかなかおもしろかったけど、どこを切り取ったらいいかわからなくてブログの記事にはできなかった。長谷川修司『トポロジカル物質とは何か』これはおもしろいけど専門性が高すぎて書くのを断念した本。トポロジカル物質とは何なのかという話に至るまで本の8割を費やしていて、つまりそれぐらいの前提知識を必要としなければ入門的な理解にすら至れない、しかもそこまで読んでもわかったといっていいのか……? と疑問が湧いてくる。良い本なのは確かなので、興味があれば。
ヒトはなぜ自殺するのか

ヒトはなぜ自殺するのか

ジェシー・べリング『ヒトはなぜ自殺するのか 死に向かう心の科学』は自殺についての一冊。人がなぜ自殺をするのか? 進化論的に自殺する個体に淘汰圧は存在しないのか、単なる病の結果なのか、といった種レベルの視点から、個人が自殺をする時にどのような心理的段階を踏んでいくのかといった主観レベルの話まで。おもしろかったがテーマ的に慎重になる本なのと、著者の(自死願望の)実体験を交えて語られていくエッセイ的な本であることもあって、一本の記事にはしづらかったのでスルー。エッセイ要素が強いと軸を持って紹介したり切り口を見つけるのが難しくてスルーしがちになってしまう。無念。
1つの定理を証明する99の方法

1つの定理を証明する99の方法

フィリップ・オーディング『1つの定理を証明する99の方法』は、同じ場面を様々な文体で書き分けたレーモン・クノーの『文体練習』を着想元に、それを数学でやってみようとした一冊。最初の方の証明はまだ真面目だが、次第に実験的な証明、統計的な証明、確率的な証明、色による証明、聴覚による証明、矛盾による証明、対話による証明、など変な方向にねじまがっていく。聴覚による証明とか、楽譜が書いてあるからね。数学全然わからなくても読んだら楽しめるはず(楽譜だし)。すごくおもしろいんだけど紹介するとなったらどうすればいいのかがわからなかった。

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科学で大切なことは本と映画で学んだ

科学で大切なことは本と映画で学んだ

サイエンスライター・翻訳者である著者が本や映画の中に存在する科学についてざっくばらんに語る本が『科学で大切なことは本と映画で学んだ』。科学を本と映画で学んだと言ってもノンフィクションやドキュメンタリだけではなくて、ヴォネガットをはじめとしたSFや村上春樹の『1Q84』など、物語も多く含まれているのがおもしろい。ただ、ゆるいエッセイで、さっきも書いたけど紹介の仕方が難しい。

と、直近一週間で読んだ分でこれぐらいで、これ以外にもつまらなくはないけどおもしろくもないという微妙なラインでここに載せてすらいない本などもあるから、けっこう読んでいる。ほんとはおもしろかった本は全部紹介したいんだけれども……。