基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

忘却のレーテ (新潮文庫nex) by 法条遙

断言する、読み終えた後に貴方は最初から読み直す! とかもう一度観たくなる! とかいう煽り文句がたまにある。本書の場合はちょっと違って、読み終えた後に「後ろから読み通したくなる」という意味で特異な作品だ。本書『忘却のレーテ』は、昨年単行本で出たものの新潮文庫nex版。一年での文庫化は慣例からすると異常に速いが、新潮文庫nexを盛り上げたい(作品数を増やしたい)という狙いだからかな。だいたい単行本から文庫化までの期間が空きすぎていることは利益より害の方が多いと思うからもっと早くして欲しい(できれば同時ぐらい)だけど。

忘却のレーテ (新潮文庫nex)

忘却のレーテ (新潮文庫nex)

シンプルなアイディアと構成から「あ、なるほど」とデカイ驚きに繋がるミステリなので、紹介すべき(できる)部分はあまり多くはないから、まあさらっと、アイディアのガワぐらいにとどめておこう。ちなみに単行本は無骨な、というよりかはちょっとホラーみたいな趣を出した時計の表紙デザインだけど、文庫版はusiさんの表紙イラストで思わず手にとってしまった。法条遙さんとusiさんのコンビは、早川書房の『リライト』から始まるシリーズの表紙イラストも最高に合っているけど、新潮文庫にわたってもコンビが継続しているのが面白い。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
本書の中心的なアイディアになるのは記憶を自由に消去できる薬、レーテだ。大企業オリンポス(オリンパスへの配慮なのかなんなのかオリンポスになっている)が開発したその薬はまだ一般に流通しているわけではなく、人体実験段階。物語の主人公であり、両親がオリンポスの役員であった唯はいろんな事情からこの実験に参加することになる。7日間に渡る実験の中で、一日ごとにその日の記憶が消去されてしまう。ホスト側は「本当に記憶が消えているのか」といったことや薬の副作用などがないのかと調査を続けていくのだが──。

記憶が毎回消されてしまうので、毎度毎度同じやりとりが繰り返される。「わあ、キレイな人だなあ」と思ったら次の日もその次の日もキレイなひとだなあと思うし、「なんでこんなことになってるんだ!」と突っかかる人間は当然のように次の日も突っかかっていく。物語はNov.01 20XXと題された日から、順々に02、03、04と続いて07で物語は集結を迎える。おかしいのが、01で殺されたはずの人間が02では平然と生きて会話を交わしていたりする。なんだなんだ、レーテって時間を巻き戻す薬じゃねえだろうな。また完全な忘却というわけでもなく、「おぼろげに残っている記憶」があったり、物質的な事象は消去されるわけではないから朝記憶が消えた状態で起きてみたら手が血にまみれていたりと「なんなんじゃいこれはあ!!」と驚いたりする。

いったい、記憶が消えた時、消された記憶には何があったんだろう? 昨日あったことを忘れて、そのときのことを伝聞調でしか聞くことが出来ない=それが本当かどうかわからない恐怖、そんな恐怖それ自体さえも「忘却」させてしまえるのが、レーテの本当の恐怖なのだ。構成は登場人物含めてシンプルで、あまりたくさんの重要キャラクタは出てこないのだが殺し屋を自称する美人なお姉さんがいたりして事態は混迷は極めていく。入り組んだ物語が最後07に至って収束していくのはえらく気持ちが良い。飛び抜けて面白いかといえばそういうわけでもないが、「忘れる」ということを小説として効果的に演出してみせた物語として明確に新しく、きちんと成立している。新潮文庫nexらしくさらっと読めるものの読後感はけっこうずっしりとくる感じで良い本でっせ。

人類最強の初恋 (講談社ノベルス) by 西尾維新

人類最強の初恋 (講談社ノベルス)

人類最強の初恋 (講談社ノベルス)

シンギュラリティ系のSFでは進化した人工知能なりロボットなりが現れて人間が仕事をしなくても生きていけるようになったら、その時人間は何をするんだろうか──という問いかけが必然的になされることがある。一つの答えは「恋をすることさ」となるだろう。正直な話、恋なんてめんどうくさいもんを、それしかすることがないからってわざわざするかあ? と思うわけだが、まあ「勉強」「研究」よりは納得感がある。で、『人類最強の初恋』である。あの戯言シリーズの番外編にして随分長いこと出る出る言っておきながらなかなか出なかった人類最強の初恋がようやく出た。

もうあんまり戯言シリーズの内容も覚えていないが──世界中に明確な対抗しうる「敵」がいなくなったまさに「人類最強」を、傍役として出てはなく、物語の主軸として描こうとするならば、そのパターンは必然的に狭まってしまうものだ。何しろ物語は、もちろん絶対的なルールではないにせよ何らかの目的を達成し、苦難を乗り越える形が基本パターンである。日常系なんてジャンルもあるし、例外はいくらでもあるのだけど、いまさら戯言シリーズで日常系もないだろう。しかし人類最強の人間に困難なんてありえるのだろうか? やったことがない、苦戦することが? ドラマが構築できるのか? この問いかけは最初の与太話であるところの「人間が仕事をしなくても生きていけるようになったら、その時人間は何をするんだろうか」と重なる。

最強は何をするんだろう──、そういえば、恋はしてないなと。そして物語はこれまであまり西尾維新さんが書いてきたことのない「SF」の領域に突入していくことになる。何しろ人類最強なのだから、物語に苦難や壁を設定すると人類以外から持ってくるほかないだろう。ある意味バキが辿ったのと似たような道を(人外を大量投入して、挙句の果てに過去から宮本武蔵を召還する)この『人類最強の初恋』シリーズもたどっている。もはや地球上で走破する困難がなくなってしまったら、理屈で考えればそれしかない。

本書は『人類最強の初恋』と『人類最強の失恋』の二編で構成されているが、前者は宇宙から謎の宇宙人が隕石のように落ちて哀川潤に衝突する話で、後者は哀川潤が月へいって(比喩とかではなく、文字通り月に行くのだ)、またそこで別の宇宙生命体と出会う話だ。まあ、初恋に宇宙に人外、そうなるほかないよね。

正直な話、話としてはあんまりおもしろいと思わなかった。哀川潤の一人称語りは、二編目である『人類最強の失恋』ではだいぶ違和感がなくなっているけど『人類最強の初恋』ではどうしようもないちぐはぐさを抱えているように思う。どう書いたらいいのか書きあぐねているような──とでもいおうか。物語の進行上必要だから挿入せざるを得ない部分の説明など、妙に言い訳くさいぐだぐだした部分がある。そもそも人類最強の一人称とはいったいどういうものなのかを捉えかねているような。いつもの果てしなく冗長で、それでいて書くべきことを書いている、流れを阻害することのない文章とはだいぶ異なっている。これはまあ、考慮して別のスタイルを試しているところで、僕が単に合わなかったか、あるいは挑戦と受け取れる部分でもあるだろう。

『人類最強の初恋』について、語り口以外の部分では、人によってそこに「理想の人間像」を浮かべてしまう謎の宇宙生命体と「いかにしてコミュニケーションをとるのか」というコミュニケーションの主題に人類最強が挑む話で、単純な力比べではない展開としては面白かった。一方『人類最強の失恋』については、語り口はだいぶすらすらと読めるようになったが(こっちが慣れただけかな)、元々設定されていたかなり緩いリアリティレベルが、さらに緩くなって「それはないだろ」と思わず読み終えて突っ込んでしまった。そこさえ気にしなければ……面白いのかもしれない。個人的にはびっくりするぐらい面白くなかったが。

この人類最強の落ち込んでいく「退屈」という袋小路はある意味西尾維新さんと重なるところがあるなあと考えこんでしまった。もう一生分遊んで暮らせる金はあるだろうし、もちろんそんなことは大した問題ではなく、小説を書くのが単に好きなんだろうが、そうはいっても小説だって普通の作家が一生かかっても書ききれないぐらいたくさん書いただろう。年齢も34? 35? ぐらいで、やろうと思えばまだまだいろんなことができる。しかし何をやるんだろう。漫画も書いたし、作品は続々アニメ化、映画でもとるか? といえば厭人癖が激しそうだしそれは無理そうだ。

小説ジャンルとして書いていないのは恋愛小説とか、SFとか、ファンタジーぐらいのもんではないだろうか。ジャンル以外だと、短編とかかな。それは今掟上今日子シリーズとか、漫画もばかばか出しているけど。少女不十分や難民探偵系の作品もそんなに書いていない、実験系の小説はりぽぐら! などがあるけど、まだまだやることはあるか。最近の西尾維新さんの仕事のラインナップをみているとこうした「まだやっていないこと」に手を広げ、挑戦している印象がある。『本題』は、彼が創作家の諸先輩方に教えを請うような対談集で、自分にないものを取り入れようとしている貪欲さを感じた。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
人類最強の初恋が退屈だといって、今までしたことのない領域に足を踏み入れていくのはメタ的に西尾維新さんの心情と重なっているんだろうか──だろうな──と作品とあんまり関係がないところで面白く思った。作品はたいして面白くないのが皮肉だが。一応僕自身の嗜好偏向からいって、「キャラクタ」にはなんの興味もないというのは明らかにしておく。だからキャラクタ重視の読み方をする人には、本書もちゃんと面白いのだろうとおもう。

「作戦検討型」能力バトル物の極北──『悲録伝』

物語シリーズが『終物語』なんていういかにも終わります的な書名が出てきたにも終わらず、『続・終物語』が出ても尚終わらなかった時に「ああ、この世に絶対なんてものはないんだし、西尾維新はその類まれな執筆速度と引き換えに神は物語を終わらせる能力をロストさせてしまったのだ。エネルギーは拡散し物事はすべてトレードオフ、それこそは自然の摂理也」と思ったものだったがそれにしたってこの悲痛伝から始まる四国編がここまで長引くとはいったい誰が想像できただろうか。読み終えた時にどんな感想よりも真っ先に「ようやく終わった……」「本当に終わった……??」と疑心暗鬼になるほど終わらない物語とはいったいなんなんだ。

いきなりこの記事から読み出している人間の為に一応説明しておくと、この『悲録伝』は悲業伝より始まる西尾維新さんによる伝説シリーズの最新刊である。これまで出てきた作品についても一応一冊ずつ書いてはいる。僕も暇人である。どういう話かといえば、突然地球が悲鳴をあげて人類が3分の1も死んじまってなんか地球人そっくりな地球のバグみたいなのが出てたまに悲鳴が起きて人類はまた死ぬし、なんか近いうちにまた凄いのがくるらしいよみたいなのがあってなんとかして地球を倒さねば、生きねばみたいな話だ。
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悲業伝 by 西尾維新 - 基本読書
そしてこの『悲録伝』において、悲痛伝から延々延々延々と続いていた四国・魔法少女編が終わったのであった。魔法少女編とは何かといえば、軽く説明しておこう。この世界は科学の力において火を操る能力者とかそんなようなやつらが能力バトルを繰り返しているような世界観なのだが、それの魔法版、を四国で、デスゲームをやろうというまあそれだけの話を延々とやっているわけだ。魔法少女はもちろん少女であり、魔法のステッキを持っており、魔法が服もふりふりのものを着込んで空を飛んだり気配を消したり死人を生き返らせたりする、それぞれ固有の能力がある。それがある日四国に誰も入れないし、誰も出てこなくなってしまった。主人公の空々空が侵入を試みると、そこはルールに抵触すると即死が待つ上に魔法少女が跳びまわり殺したり殺されたりを繰り返しているデス・ゲームな世界観であった──。とかそんなかんじよ。

それがようやく五巻を費やして終わったわけであって──いやあ、長かった。長かったけど、確かに面白かった。これはそうまとめざるをえない。ここでいったん四国・魔法少女編について総括でも書いておきましょうか。ネタバレもできるだけしないように。

この四国・魔法少女編を一言であらわすなら西尾維新版能力バトル物の極北──といったあたりになるだろうと思う。能力バトル物と一言でいってもそこには様々なパターンがある。時を止める、あるいは場所を入れ替えるなどのロジックを中心とした能力バトル物もあれば、ただ火が出るとか水が出せるなどのシンプルなものもある。自分からぺらぺらと能力を解説してしまうような物もあれば、相手の能力は「いったいぜんたいなんなのか」を推測し、その成否が自身の生存をわけるかのような能力バトル物もある。

そのそれぞれに魅力があるわけだけれども、さっき書いたように本作が突き詰めている、極北とはなんなのかと言えば「作戦検討する能力バトル物」の部分だろう。何しろ本作も中程まできたところで自虐的に語られるようにとにかく作戦検討が長い。長すぎると言ってもいいぐらいだ。

こうして、長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い長い、議事録が。
文字数にして十二万文字を超える、二段組の単行本にして二百ページに迫る──チーム空々の最初で最後のミーティングが、遂に終了したのだった。

でもまあこんな暴挙ができるのも今をときめき、輝く西尾維新あってのことだろう。他の作家がやったら問答無用で削られてしまうか、そもそも面白く書けない。で、僕は能力バトル物の中でもこの「作戦検討」が大好きだ。実際のバトルなんかどうでもいいぐらいには、この「作戦検討」の部分が好きだといってもいい。それは現実にはありえない状況を元に組み立てる思考実験のようなものであり、相手の能力とは何なのかを推測し、こちらの手持ちの戦力を慎重に検討しながらどのような組み合わせパターンがあり得るかを検討していくパズルのようなものだ。そこには多くの不確定要素がからむ。もちろんだ。

何しろ地形効果もあれば気候変動もあり、さらにいえばチェスや将棋のようにお互いのコマが全部見えた状態で戦うわけではない。相手に突如援軍が現れるかもしれないしこちらに突如援軍が現れるかもしれない。交渉次第では相手の戦力をこちら側に引き寄せられるかもしれないし、あるいは敵の仲違いを誘発できるかもしれないし、その逆にこちら側で目的の不一致からくる仲間割れが発生する危険性もある──そうした不確定ゲーム極まりない状況下から一筋の巧妙、戦略を決め自身の生存確率をあげるためにあーでもないこーでもないと考えるのが能力バトル物の「作戦検討」であるべきだ、あってほしい。そしてもちろんこれはボードゲームでもなければテレビゲームでもないのだから「勝利条件」すら自分で決めてもいいのであり、それがまたゲーム性を根底から覆していくことになる。

勝負は始まる前には終わっているとむかしのえらいひとは言ったが──、そうであるならば、勝負の本当に面白い部分はまさにその「始まる前」の部分にあるのではなかろうか。もちろん、戦闘描写が面白い小説もたくさんあることはたしかにせよ。それに作戦検討の面白さは、「よし、これでいけるんじゃないの?」とちょっとした楽観を手にしたあと、それが笑っちゃうぐらい簡単に覆されていくところにもある。能力バトル物と一言でいっても、そこはなかなか奥が深いものだ。引用したところからもわかる通り、本作は延々と考え続け、勝利条件を設定し、敵戦力と味方戦力を仔細に分析し、扇動、囮、不和の誘発、自軍の離散の阻止とチーム戦能力バトル物における当然想定し対処されうる事態に隅から隅まで思考の渦を広げてくれている。西尾維新版能力バトルの極致と書いたが、これこそまさに僕が求めていた「作戦検討をはちゃめちゃに重視した能力バトル物」である。

読み終えた時は「ようやく終わってくれた……」という感想が真っ先に出てきてしまうぐらい長かったが、でもそれと同時に読みたかったものが現出してくれた喜びも同時に沸き起こってきている。素晴らしい、ブラボーである。よくぞやってくれた!だが一方で──やっぱり長すぎるよ!? どう考えても長過ぎる! めちゃくちゃ楽しませてもらったけど、こんなに長くちゃ人には薦められん。それでもいい! そんな能力バトル物が読みたかった! なんて人がいれば──これはもう運命の出会いというものだろう。

悲録伝 (講談社ノベルス)

悲録伝 (講談社ノベルス)

独創短編シリーズ (野﨑まど劇場 && 野崎まど劇場(笑) ) (電撃文庫) by 野崎まど

諸君らはこんなブログを読んでいるぐらいだから「小説とはなにか」と聞かれたらせせら笑いながら「こいつ、小説もわからねえのか、カスが」ぐらいは言ってのける存在であると僕は考えているが、実際問題「小説とは、どこからどこまでのことを小説と呼称する」のかということをよくよく考えてみたことはあるか。あまりそうしたことを考える機会は、多くないだろう。何しろ小説といえば小説であり、漫画といえば漫画であり、絵本といえば絵本であるから、そんなことは深く考える必要はないのだ。文字がぎっしり詰まっていれば小説であり、絵がほとんどで文字がちょろっと載っていてページ数が少ないのが絵本で、絵がコマで割ってありゃあ漫画だ(ざっくりだけど)。

じゃあそれを考えさせられる時というのはどんな時かといえば、その常識が破壊された時だろう。たとえば本作は一般的にライトノベル・ジャンルと呼称される作品群を排出している「電撃文庫」から発刊されている。ライトノベルとは通常挿絵のついた文章が主体の小説作品のことを指している。ならば本作も当然小説でありライトノベルなのであろうと思うかもしれないが、本作は作品内に図を取り入れ、絵を取り入れ、インタビュウを取り入れる。絵を入れただけ、図を入れただけならライトノベルの一般的な事象だ。しかし図や絵がページのほとんどを占め、それが笑いを生み出すトリガーとなり、文章はそのトリガーの補足、あるいは増幅装置として機能している、つまり図や絵が主であり文章が従であるときにそれを「小説」とカテゴライズしていいのか一瞬ためらうことになる。

というか、それは明らかに小説ではないだろう。だが。長々と前置きしてしまったが諸君らは何の為に小説を読むのかといえば、基本的には楽しむはずの為であろう。悲しみだったり喜びだったりと求めるものはさまざまだろうがエンタテイメント作品を求めそこに広い意味での楽しみを求めていることに違いはあるまい。そうであれば別にそれが小説であろうが小説でなかろうが、ライトノベルであろうがライトノベルでなかろうが、楽しければそんなことはどうでもよかろうなのだ、という気分になってくる。というわけでここまでの話はいったん忘れてもらいたい。ここにあるのは純粋に面白い発想の固まりとそれを紙の上で縦横無尽に表現する技術だ。

さて、それでは──と無秩序に面白かったものを紹介していってもいいのだが、それでは芸もない。独創短編シリーズと名付けられている本作の「独創」をある程度パターン分けして、1パターンにつき1つぐらいの割合で紹介していくことにしようか。まだどんなパターンがあるか考えてもいないのだがたぶん4パターンぐらいに収まるのではなかろうか。

図や写真を挿入するパティーン

図や写真が多様な使われ方をされていくパティーン。たとえば『ワイワイ書籍』は明らかに「ニコニコ動画」を意識した短編で、電子書籍にさまざまなコメントが入れられるようになっており(今でもニコニコに似たようなサービスはあるが。)小説の本文上にさまざまな「内容を妨害したりおちょくったり職人が現れたりする」のを絵(というか図というか)で表現している。他タイプとしては『大相撲秋場所フィギュア中継』で、力士の肖像財産権が認められテレビ放映ができなくなり、その代わり中継をフィギュアでおくるようになった話などがある。こっちは3Dモデルでつくったような力士の取り組み再現を様々におちょくってみせる。

う……うう、文章だけだと伝わらんな……どっちも「文章を一文も読まなくてもページをめくった瞬間に笑う」系の作品なのだけど、言ってしまえば出オチ系の作品である。まあ、野崎まど劇場はほとんど出オチ系の作品であると言ってしまってもいいぐらいだが。他にも魔王が勇者がくる為にそなえて2Dダンジョンに適切な難易度の罠を仕掛けるのを図で延々と説明しながら描く短編や、家から持ってきた角で一手目から王手をかける夢のような将棋を、盤面を図として載せながら解説していく実況など、ここでは「図や状況の再現=ボケ、文章=その実況・解説・説明・ツッコミ」パターンが一つ確立されている。

これが面白いのは図や絵なので一瞬でギャグが伝わるのと、ツッコミと説明はそれに対して文章で充分な量が行えるところかな、とボケを冷静に分析したところで寒くなるだけなんだが。「これは電撃文庫だぞ! 一応小説レーベルだぞ!」というメタ的なツッコミを常に入れざるを得ないのも笑いに拍車をかけているように思う(だからry)。

普通配慮してやらないことをやっちまうパティーン

対してこっちは一般的な意味での小説であることが多い。要するにほとんど文章で、物語が構築されているパターン。だが普通遠慮してやらない部分へ積極的に足を踏み入れていく作品達だ。たとえば野崎まど劇場の『妖精電撃作戦』は『アクセル・ワールド12』を買ってきて電撃の缶詰がいらねーからといって捨てたら電撃の妖精が出てきて怒ると電撃に喧嘩を売るような短編だし(実際ボツを喰らった)、そのすぐ後ろに載っている『第二十回落雷小説対象 選評』はそのまんま、選評をいかにしてくだらなく書くかに特化した短編でめっちゃアスキー・メディアワークスとか社名が出ている(これもボツ)。

電撃文庫Magazineに載せているものを収録しているのでボツ原稿という概念が存在するのだ。そのボツ原稿がけっこう多いので「作家も大変だなあ……」と思う。文庫に収録されているからいいんだろうが。そして(笑)に至るとついに他社のボツ原稿まで収録するようになるのだが……それはまあいいだろう。身内いじりだけならまだしも野崎まど劇場(笑)に収録されている『麻雀出エジプト記』はヤハウェとエジプト王パロ、モーゼがイカサマ上等(このメンツでイカサマも何もない)の麻雀をする話で、もうこの紹介文だけで狂っているが中身もアホだ。

 モーゼはヤハウェにチラリと目を向けて判断を仰いだ。エジプト王パロは相当に目敏い。彼の目が張っているうちは、”芸”は使えないだろう。どうやって戦うのですか、主ヤハウェよ。
『(モーゼよ)』
 突然モーゼの頭の中にヤハウェの声が聞こえた。通しである。
『(杖を高く掲げて、手を海に伸ばしなさい)』
 モーゼは言われた通りに手を伸べた。すると激しい風が吹き荒れ、海は二つに割れた。
「海が」
 エジプト王パロは驚愕し立ち尽くした。エジプト人もまた目の前の奇跡に恐れ慄いた。ヤハウェは八枚ぶっこ抜いた。

まずヤハウェが「こいつ! 直接脳内に!」語りかけてくる唐突さにも笑えるし、「通しである。」の無情さにも笑えるし、ヤハウェは八枚ぶっこ抜いたの起こっている事象の大きさと相対かして圧倒的くだらなさが笑える。一応それぞれの逸話に基づいて話が構築されていくのも憎らしい。あとこれ、麻雀放浪記のパロディだな。雰囲気しか残ってないけど……。ちなみに麻雀牌の並びが図として表示されるので図や写真を挿入する複合パターンでもある。

ただただひたすらにくだらない発想を追求するパティーン

これも基本的には一般的な意味での小説であるが、ただひたすらにくだらない発想を文章にしてしましたみたいな出オチ感満載の短編群。野崎まど劇場は全部そうだろといえばそんなような気もするが。たとえば野崎まど劇場(笑)収録の『全年齢向官能小説 人妻悦料理 〜媚猫弄り地獄〜』は何一つえろいことをしていないのに無駄に蜜壺を出現させたりアンという名前の猫を出して、文字情報で表現することで普通の状況をとても卑猥にすることを追求したアホみたいな短編である。

同じく(笑)収録の『二十人委員会』はシュタゲ世界観やエヴァ世界観などのような「顔が出てこねえけどなんか意味深げな会話をしている偉そうなやつら」を描いた作品だが、みな爺の為入院した爺に変わって孫が出てきたり、うまくパソコンを使えない爺さんがいたりぐだぐだな委員会を描いていく。これも完全に一発ネタだ。今ここに続けていくつか別短編の紹介を書いていたのだがあまりにもくだらなくて消してしまった。まあそんなような短編が揃っている。

このパターンの亜種にその時流行っているものを取り込んでギャグネタとして使い尽くしていくパターンもある。たとえば(笑)の方のトップバッター『白い虚塔』はタイトルからしてアレのパロディだが中身は「小説家になろう」ネタだ。自分の医療行為をアップして視聴者はそれを気に入ったらブックマークしたりポイントをつけたりできる。主人公はまったく伸びない自分の虫垂炎開腹手術に、「やはりランキングに載るためには『お医者さんになろう』ユーザーに受ける医療をしなければいけないのか……いやしかしそんな医者としての責務を捨てたような……」と悩んでいく。

うん……『小説家になろう』そのまんまやったらあまりにも直球で痛々しいが、お医者さんになろうだと……アリ……かな……??

本来小説を仕込まない場所に小説を仕込んでくるパティーン

たとえば電撃文庫の裏ってなんか小道具やちびキャラみたいなのが描かれていたり、あらすじが書かれていたりするものだが本作はそこにもくだらない小説が載っている。笑じゃないほうは『裏表師〜文庫裏稼業世直し帳〜』といって背表師と裏表師が出てきて行を消費しながら戦う不毛なバトル物だ。笑の方はカバーをとってカバー裏をみると文字がぎっしり詰まっているのだが中を読まなくても一目のインパクトで笑える。そこには『長文伝奇小説 『ブラッドエコー ─吸血鬼操作感ディライト・バースディー』』という短編が載っているのだが、「長文伝奇小説ってそういうことかよ!!」と思わずツッコミを入れざるを得ない内容だ。

当然笑がつかない方のカバー裏にも仕込まれているし、本来であれば他の電撃文庫作品を紹介している最後尾のページ数調整ページにまで小説がぎっしり詰まっていて「その点野崎まど劇場ってすげぇよな、最後まで物語たっぷりだもん」とでもいうような充実ぶり。なんというかねー、ここまでやられるともう中身がどうとかじゃなくて試みそれ自体に笑っているので中の本文がどうとかいう地点を超えているんだよね。ぺらぺらとめくっていくとあまりにくだらなく、しかしかつて読んだことのないものだから刺激されたことのない部分を押されて変な笑いが出る。

おわりに

一巻が出た時点で「これは……面白いが、続けられるのか……?」と懐疑的だったので書いていなかったんだが、二巻でマンネリ化するどころかさらに切れ味を増していたので紹介するハメになった。こいつは天才ですぜ。方向性があるとすれば一貫して「文庫というフォーマットで、できることはやっておこう」という挑戦を行っているあたりか。もちろんこれまでにもフォントをイジったりページをマスで区切ったりページを時間単位で分割してみたりと実験を試みてきた歴史が小説にはあるわけで、本作をどこまで「独創」であり「新しい」と評価できるかは(歴史をすべて知るわけではない僕には)難しいところなんだけど。

うん、でもとにかく面白い短篇集だ。小説であるとかないとか、新しいとか独創であるとか、その辺のことは保証しかねる。しかし面白さ、そして笑いへの鋭さだけは保証しよう。笑いとは基本的には常識とのズレ、乖離、または常識を別の角度から見た時の「予想外さ」から生まれるものだが、野崎まどさんの「常識をいろんな角度から捉える発想の自由さ」は群を抜いてすさまじい能力だと思う。

独創短編シリーズ 野崎まど劇場 (電撃文庫)

独創短編シリーズ 野崎まど劇場 (電撃文庫)

独創短編シリーズ (2) 野崎まど劇場(笑) (電撃文庫)

独創短編シリーズ (2) 野崎まど劇場(笑) (電撃文庫)

人類は衰退しました 平常運転 (ガガガ文庫) by 田中ロミオ

シリーズの物語的な完結巻である第九巻発刊時のあとがきで触れられていた短篇集がついに出た。

書き下ろしは4割ほどで、残りはアニメのBD/DVD用に書き下ろされた短編を収録したものになる。書き下ろしは時系列を巻き戻して〜というわけでもなく普通に第九巻後のことが描かれていくので、基本はこの平常運転はシリーズ完結後のお楽しみ、ボーナストラックのようにして読むのが良いだろう。これを読んでいる人の中でまだ人類は衰退しましたを読んだことがないという人は、シリーズ総評レビューも書いているのでそちらを読んでから出直してくると良い。人類は衰退しました by 田中ロミオ - 基本読書 

僕がこのシリーズを一言で評価するなら「素晴らしく自由なSF」になると思う。社会を見、世界を見、人の動き、感情の動き、10人単位の組織内のいざこざであったり、30人単位での組織のいざこざであったり、何万人単位の争いまで見事に書き分け、時には何千年という時の流れの中で起きる文明史を圧縮して表現してみせる。マクロからミクロまで縦横無尽に視点を移動させ、事象を抽象化させ、それをゆるゆるとした、それでいて本質をはずさない語りで普遍的なエンタメに仕立て上げる技倆が卓越している。

BD/DVD特典小説

シリーズ全体についてはもうさんざん触れたのに前に自分が書いた記事を読んだり完結巻を読み返したりしていたらついつい書き始めてしまった。とりあえずこの本の話に戻ると、BD/DVD用に書かれた短編の方は、くだらない一発ギャグみたいな掌編が3つと、休暇を利用して旅に出るというていで「わたし」がさまざまなへんてこな村のような拠点を訪れる短編がメインになっている。ライトノベル読者的には「これ完全にキノの旅やん」と思うところだが、世界観がぜんぜん違うので、雰囲気は全く異なる(当たり前だ)。

でも「旅」でいろんな村をめぐるっていうのはいい案だなと思いましたね。何しろ妖精さんがいれば何でも起こせるので世界観的に「おかしな村」を量産できるわけだから。たとえな最初の『三つの村における需要と供給とそれ以外の何か』ではレビューだけ書いて生きている村と運送だけ担当して生きている村と、レビューだけ書いている村に作品を届けてその評価によって自己の承認欲求を満たす資源の豊かな村を書いて明らかな作品の需要供給の力関係を揶揄している。

次の『民族の再発見によってまつわる不都合な真実』は、「わたし」がたどり着いたのは未開の部族みたいな村だが実は──とこれまた現実世界に起こっている問題を抽象化してひねりたおしていくスタイルで、どれもかなり自由にやっている。個人的には『君主制度に果たす菓子類の役割』が好きだ。この「だいたい何でもできる妖精さんがいる」という世界観で合理的に考えると、君主制度の形はたしかにこうなってしまうかもしれないと思わせる形の制度が出てきて、これまでありそうでなかった話だ。スマートで美しく、インフレの具合も良い。

そしてなんといっても、本書のラストに収録されている『旅の手土産に最適なもの』は、このシリーズ全体を通した世界観の総まとめにふさわしい「わたし」の語りが素晴らしい。総評レビューにも書いたけれど、この現実に起こりえる様々な不幸は、奇跡によって解消されたりはしない。しかしこの妖精さんがいる『人類は衰退しました』の世界では、どれだけ悲惨なことが起ころうとも、一休みしてまた歩き出せば、この星のどこにいっても死ぬことはないと保証してくれる。

妖精さんは「悲惨なことが起こらない」ことを保証してくれるわけではない。悲惨なことはそこかしこで起こっている。なにしろ人類が衰退している世界なのだ。不足で世界が満たされている。世界は正しく見据えれば、悲観的な事象で満ちている。それでも妖精さんの無茶苦茶さは、そこから立ち直って、立ち直ればその先があるのだと、前に歩んでいくことを支えてくれる。とても優しい、人生への無条件な肯定に満ちた物語だ。

こうして最後まで読んでくると「わたし」というキャラクタの特異性みたいなものがどこから来ていたのか、ようやくわかったような気がする。悲観的な楽観主義者なのだ。特定環境が揃えばイジメは必然的に発生する。物がなくなれば人は困窮し奪い合う。賄賂を渡して有利になるなら賄賂を渡す、騙して徳が大きいなら平然と騙す。現実を正しく見据えるがゆえに可能性を列挙する時点では悲観的になりながら、それでもなお大丈夫なのだと力強く楽観的な可能性を模索してみせる悲観的な楽観主義者。

でも彼女の在り方の起点には妖精さんがいる。それがこの世界の優しいところなのだろう。

書き下ろし小説と語りの変容

書き下ろしは特別な何かが起こるわけではない。妖精さんがいるからおかしなことはたくさん起こるが、それもまたある意味ではこれまで通りだ。「平常運転」と書名についている通り、この世界はこのようにゆるゆると楽しげに超常現象が続いていくのが似合っている。多少特別なところがあるとすれば、語りがこれまでとは異なるところだろうか。これまでは概ね一人称だったし、特典小説も「わたし」が語っていくのだけど、こっちは語りが三人称だったり一人称だったりとばらばらだ。

三人称の語りがまるっきり一人称のときの語りとだぶって見えるのでなんだか1人称兼三人称(神の視点から語ることを三人称と呼称するが、その神の視点に明確な個人性=わたしがあることから一人称でもある)かなと一瞬思うが、「わたし」を白衣の女性とか調停官などと表記しているので、違うかなと思いきや……。書き下ろし最後の『おふたりさまで、業務活動記録』を読むことで、語りについてはある程度自覚的だったのかと考えるようになる。読んでいないと何を言っているのかわからないと思うけれど、まあ語りの不確定性について考えさせられる話だ。

三人称にできると話の幅も広がって、「わたし」以外の妖精さんどたばた記録が見れるようになるのが楽しかったな(これまでのシリーズ作品はほぼ一人称だったという前提で書いているけど、そうだったよね? 違ったかな?? 違ったような気もする)。またストーリー的な意味では「締め」が終わり、世界観の「締め」としてもBD/DVD特典の最終小説で綺麗にまとまっているとしたら、あとはもう「語り」ぐらい締めるものがないとはいうものの、早急にそこを埋めてくるとは物語に対して徹底的なプロ意識だと思った。

ガガガでの次回作は剣と魔法のファンタジーということだけど、これまた非常に楽しみだ。きっと、読者の頭のなかにモヤモヤと存在している「平均的な剣と魔法のファンタジー像」を粉々に破壊していくような作品になるんだろうな。

人類は衰退しました 平常運転 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 平常運転 (ガガガ文庫)

四人制姉妹百合物帳 (星海社文庫) by 石川博品

これは面白かった。

ただ……表現しづらい面白さだ。面白いのは確かだが、ぼかぁいったいこれのどこにこれほどの感銘をうけたのだろうか、それがいまいちわからない。いや、「どこに」なら正確にわかっていると言えるのかもしれない。本書は職業小説家である石川博品が書き上げたものの出版社からは出版を断られ、結果的に同人小説として発表したものを星海社が拾い上げ文庫として出版しなおした小説作品である。職業作家があえて同人小説として出す以上、しかもそれが最初は出版社から断られた作品とあっては、マーケットを意識しない趣味的な部分が強く押し出されていると考えるのが、本書の内容からいっても妥当だろう。

内容は書名にほとんど現れているが、「四人姉妹」と「百合」である。あともう一個重要な要素があるけれどレベルが跳ね上がるので後述するとしよう。四人姉妹とはあるものの実際の姉妹ではない。架空の高校に存在する架空のクラブのような組織制度”サロン”に集う女子達のおしゃべり関係を指している。本作はそのサロン百合種(ユリシーズ*1)を主軸にした擬似的な四姉妹達を主軸にした物語だ。そして同時に並置されている「百合」という単語が示す通り通常の枠を超えて親密な女子学生共が描かれていく。ただそれは終盤を除けばどろどろしたものでもなければ、リアリスティックなものでもない。

書いているのは男子校出身の男である。男は──とこうやって性別でもって人間を二分割してまとめて語ってしまうのは本来大いなる危険を伴うので多少言葉をにごして「多くの男性は」「いくらかの女性にも」と表現すると、特に若い女性同士の関係性の中に、ある種の幻想を見るものなのではないだろうかと僕は思う。もちろんこの誰もが情報を発信する時代において、女子校の実態など仕入れようと思えばいくらでも耳に入ってくる。それがある種の女子同士の関係性の中に幻想を抱く人間にとっては幻想を破壊するものであることも多い。

だが一方で人間が持つ「幻想の力」はそんな現実なんかには粉砕されえないものである。物語を見よ、ありえないようなハーレムを築き上げる、客観的にみればキチガイとしか思えない男性キャラクターがいる。はたまた目を別方向に向ければ、「そんなん現実に動かへんやろ」「だいたい理屈からいえば巨大人型戦闘ロボなんてありえな──」と理屈こね野郎が否定する幻想にまみれたロボット物、怪獣物が溢れている。つまるところ我々は物語というものに対峙するときに「現実的かどうか」は抜きにして「幻想を幻想として楽しむ」ことのできる高等な能力を持った生物である。*2そして時として幻想としての物語に突き動かされた人間がそれを現実に構築することもまたありえるのである。つまるところ人間の幻想は幻想であるが故に現実にもまた作用する。

さて、そんなわけでこんなわけで、ここにある女子同士の関係性はとても幻想的なものである。女性同士の関係性に清らかなものを求め、きゃっきゃとお互いの距離感をとても近くしてかしましく、お互いがお互いをぽんぽんとさらけ出し、お互いがお互いを素の気持ちからかわいいかわいいと褒め合い、そうした素の露出が往来を増すごとに関係性はより深く、強固になって続いていゆく──もちろん時にはシモネタもいい、あけすけに絡んでいくその様にはいわく言いがたいのだが一つの美しさ、関係性としての理想型(と言い切ってしまってもいいだろう)が存在している。

この関係性の部分は肝であり、やりとりの一つ一つがとても魅力的に描かれていく。たとえば奥手だが黒髪の美人と、やんちゃで天真爛漫で奥手な幼なじみを引っ張っていく活発な美人という「基本形」としての関係だったり、その後輩として入ってくるこちらは甘え上手でつぎつぎと先輩の寵愛をかちとっていくなかなか計算高い妹役に、そのさらに後から入ってくる小動物系のおとなしくだが気難しい芯の強いところもある後輩と「基本形」が他作品と類似していても(たとえばあの有名なけいおんだったり)あとのバリエーションや学年の違いなどでそのやりとりとしてのアウトプットはいくらでも既存の作品と変わってきて面白い部分だ

もちろん女子校という性的な閉鎖環境における女性だけで構築される関係性の在り方、それ自体にも僕は強い魅力を感じる。最初に「語りづらい」と書くはめになったのは、これが欲望の発露、自身が持つ人に開陳したくない幻想としての女性観をさらけ出すことになってしまうからなのかもしれない。もちろん「これこれこういう理由で女子校百合物は素晴らしいんです」といったとして、それは単なる一側面ということにしかならないだろう。あくまでもこの作品としての魅力ということでいえば、そうした女子高生達の美しさ、清らかさの関係性の中に一つの通常ではあり得ない要素が入ってきて象徴的な進展が与えられているところにあると思う。

剃毛

ここまで本作最大の特徴ともいえる点に言及していないが、一貫して描かれていく主題の一つに「剃毛」がある。剃毛。毛を剃る。つるつるに。シチュエーション先行型の作品の常で「理屈は強引かもしれないが、とにかく毛を、自分たちの意志できゃっきゃ言いながら毛を剃りあわせるのだ!!」という著者の強い欲望を感じる。連作短編のように、エピソードが一つ一つ独立して語られていくのだが、剃毛はどんどんエスカレートしていく。最初は一人や二人、次第に十人二十人を巻き込む大騒動に、そして最終的には量的な意味でのインフレは終わり、質的なインフレが起こる。つまり一貫して女性同士の剃毛話をあらゆる側面から書いていく話だともいえる。

この剃毛への異常な執着は「おれは……おれはこれが書きたいんだ!!」「これがおれのワンピースだ!!」とでもいうような、著者の欲望が炸裂しているようにみえる。これが特にうまくもない文章のシロウトが書いたものだったら、欲望が炸裂したおぞましい何かであっさりと終わったのかもしれない。かもしれないが、これを書いたのはいわゆるライトノベルジャンルを主戦場にする職業文筆家の中でもとりわけ文章能力が高いとされる(※客観的な指標は存在しない)石川博品であり、それがたとえ自身の欲望が炸裂したものだったとしても綺麗に整えて大勢が喜ぶ共同幻想へと昇華させられる技術が伴っていた。

話が進むにつれて下の毛が剃られていない女子が減っていき、段々と下の毛を剃るという行為が単なる好奇心、興味本位、成り行きで──という、一時的かつ突発的なおふざけイベントから観念的、象徴的な意味合いとして機能していくようになる。つるっつるこそが、正義で、清く、美しくあるべき姿なのだとでもいうように。髪の毛や眉まで沿ってしまうわけではないから、それはやはり「本当の意味での清らかさへの移行」としての象徴だったり、「大きな精神的変容を遂げること」への象徴だったり、進行していく剃毛という行為自体は無茶苦茶なのだが、さまざまな象徴としての説得力を持って、結果的に美しさを伴って描かれていくようにも思える。

一人、二人の剃毛からはじまって、何十人の剃毛にいたり、そして最終的にはこれまで侵されてこなかった聖域への剃毛へと辿り着く。同時に描かれていくのは現実的な側面としての「関係性の進展(あるいは終わり)」からの「卒業」そして「別れ」だ。いわば剃毛という象徴的なイベントのクライマックスと、四人姉妹の関係性のクライマックスが同時にやってくるので、この場面は相乗効果的に美しい。

何を言っているんだこいつはと思うかもしれないがいや、ええもんなんですよ。

四人制姉妹百合物帳 (星海社文庫)

四人制姉妹百合物帳 (星海社文庫)

*1:この命名センスが絶望的におっさん臭くて悲哀を誘うが

*2:もちろん創作者達はただ漫然とその幻想を幻想として楽しむ力をあてにして荒唐無稽な幻想をつくり上げるのではなく、そこにはそれなりの「本当らしさ」を盛り込む手練手管があるのだが──(ハーレム物にそんな技術があるかはあいにく僕は無知ゆえにわからないが)それはとりあえずここでは話にはあげないでおこう。

掟上今日子の備忘録 by 西尾維新

絵VOFANに講談社からの西尾維新新シリーズ、しかも西尾維新初の電子書籍配信と紙の書籍同日発売、それにくわえて西尾維新の前作である続・終物語に本書のプロローグがついてきたとなれば、「ああ、講談社は第二の物語シリーズを求めているのだなあ、うりうり」と思ってしまうのも、無理はないところであろう。それぐらい力を入れているのであるから、期待も嫌でもあがろうというものである。第二の、金づるを、講談社へ!! と意気込みが目に見えるようだ。

とはいっても物語は、忘却の探偵の物語だという。掟上今日子は探偵であり、1日の終わり……具体的には掟上今日子が眠ることによって記憶を失ってしまう。記憶喪失にもいろいろあるが、掟上今日子の場合はこの症状が発生した段階までの記憶がすべてなくなってしまうらしい。つまり1989年の時点でこの症状が発生したとしたら、朝起きる度に突然周りにはパソコンがあふれているしちょっとしたタイムトラベル気分ということになるだろう。しかし彼女は、その特性をいかして「秘密保持にうってつけの(忘れてしまうから)、最速の探偵(1日で解決しないと忘れてしまうから)」として活躍している。

西尾維新さんはそのデビュー作をいわゆるミステリ作家的な分類でスタートし(あまり出たばかりの時の反応は知らないのだが、ミステリ作品としてのデビューだったのかしらん? クビシメロマンチストがミステリとしてそれなりに評価を受けていたのは知っているけれども)、その後ミステリジャンルからリフトオフしまるで関係がない作品ばかりになっていった。そして時折難民探偵のような思い出したようにミステリに回帰するもたいして面白くもない作品を発表してきた。考えぬかれたトリック、洗練されたセリフ、綿密に統制された時系列──そういったものを西尾維新作品に求めるのは酷というものだろう。1日に2万文字執筆する西尾維新という作家に基本的な特性として付与されているのはまずその圧倒的なまでの速度と、ノリと、勢いであり、伝統的なミステリ・探偵物とは相性が悪い。

だからこそ最初に期待があがるなどと書いたが、本作が探偵物と知った時から──そこまで期待はしていなかった。だけど読んでみたら、これがなかなか面白い。タイトルにも探偵の字はないし、そもそもこれをミステリ的な観点で読む、一般的な探偵物として読む必要はぜんぜんないのだとわかる。もちろん謎はあり、探偵掟上今日子は自身の金のためにこうした謎に挑み、そこには道筋がつく。ミステリ的な観点で読む必要がないというのは、こうした道筋を読者側から予測できるものとして読む必要はないという意味だ。分類的には日常の謎系──人死にが絡まない傾向が強いのかとも思うが、今後どうなっていくのかはわからない。そもそも単純な分類に落としこむのもどうかと思うので多くは語るまい。記憶がなくなってしまう探偵という主軸をいかしながら事件にからみ、1日で解決しなければいけないという設定が緊張感と無茶苦茶な、だけど面白い展開を引き起こしていく。設定をいかす観点からすれば当然ながら、ロマンスもある。

記憶が一日でなくなるから機密保持としての特性があるといわれてもそれはいくらなんでもどうなのかと疑問に思うし、こうしたいくつかの根本的におかしい部分をスルーすれば、めっぽう面白いシリーズとして立ち上がっていると思った。

短期記憶喪失物

記憶がサイクルによって終わるというのは、根本的にロマンチックな設定だろう。誰しも忘れられるのは悲しいものだし、だからこそ忘れられたと思った相手がなんだか素晴らしい奇跡的ななにかで覚えていてくれたりなんかしたりしたら、それだけで物語的には最高潮まで盛り上がる。あるいはそんな御都合主義でなくとも、記憶がなくなるサイクルの中にありながらも人間と人間の継続的な関係性が結んでこの後の人生も一緒にがんばるぞいと合意に達することができるならばそれはなかなか素敵な展開だ。短期記憶喪失物という設定を導入した時点でオチの盛り上がりは確約されたようなものである。

本作でも掟上今日子はあくまでも探偵であり、視点主は彼女に仕事を依頼する依頼主である。依頼主であるといっても記憶のない彼女に継続亭に関わっている珍しい人間だから立ち位置的にはかの有名な探偵と助手である。彼は彼で特異な体質をもっており、やたらと事件に巻き込まれてしかもそれに飽きたらず毎回犯人のように扱われてしまう。だからこそ掟上今日子に仕事を依頼し自分の身の潔白をはらしてもらう、そうしたことが何度か続けて関係ができるようになったようだ。そして同時にそんな体質があるからこそ、仕事も長続きせず大概の場合無職である。かわいそうな男だ。年齢層が25歳とこれまでの西尾維新作品の学生主人公よりかは高めに設定され、周囲の人間も探偵や編集者など一応まっとうに働いている人間が出てくる辺り、西尾維新作品史的にみても新たな場所を開拓しようという積極的な意図を感じる。

あと最初読んでいるときは「あれ、西尾維新作品なのに視点主の変態性が抑えられているな」と思ったりもした。しかし最後まで読んでみると周りの人間に視点主を変態だとののしる人間がいないだけで、やっていることはめっぽうハイレベルな変態行為だ。ことさら変態行為を変態変態と騒ぎ立てない、奥ゆかしく、行為のみを価値判断抜きに読者の前へ提出するという新しい変態の書き方だなと思った。で、まあ探偵助手、依頼主君は当然ながら25歳でメガネで白髪でかわいい掟上今日子にご執心であり、こうしたほのかな恋愛模様も今後このシリーズの読みどころの一つになっていくのだろう。

ただ短期記憶喪失物として特異なのはやっぱり本作が探偵物であるところに尽きる。寝ることで記憶がリセットされてしまうからあっという間に事件を解決しなければならず、またその特性ゆえにあらゆる機密事項に平気で踏み込める──このへんはさっきも書いたように「無茶苦茶だ(だって、仮に医師の診断があったとして誰がそんなこと信じる?)」と思うが、物語としてはメリハリをつけ主役の能力を制限する枷としてごきげんに機能していると思う。必然的の物語は短編連作のような形をとっていくのも、西尾維新作品の中では割合珍しいのではないだろうか。

その他

こうした探偵の特性を核に組み込んで物語は動いていき、そうした部分がまた面白くもある。そこらへんはネタバレになってしまうので触れるのはやめておこう。で、その他の部分で特に強く惹かれたのは──まあこのへんはシリーズ次作以後のお楽しみになってくるんだろうが、この世界には割合掟上今日子とは別の、探偵が幾人もいそうなことである。現実の探偵とくればラブホの前で何時間もはってたりといった泥臭い仕事が多いが、この世界における探偵は事件に積極的に関わる、フィクショナルな存在として描かれている。たとえばこんな描写が出てくる。

紺藤さんにあれだけの無理を言ったのだ。その場合は僕が責任をとって、僕の携帯電話に登録されている名探偵の中で、もっとも有能な、事件解決率百パーセントの、まさしく『万能の探偵』を呼ぶしかないか……あまり気は進まないが

いやーーーーーー万能の探偵ですよ、万能の探偵。呼ばれてみたいもんですよ万能の探偵なんて。清涼院流水先生のコズミックシリーズを読んで衝撃をうけてドハマりした人間からすれば、もう名探偵がいっぱいいる気な世界の時点で大盛り上がりだし、事件解決率百パーセントの万能の探偵なんて呼ばれたらこれはもう転げまわって大喜びです。いやあ、素晴らしい。楽しみだなあ。こういうめちゃくちゃな設定の探偵がでてくると面白いのはですね、めちゃくちゃな探偵だから事件も展開もめちゃくちゃなことになる、それが面白いんですね。もちろん作家がそれを制御できればの話にはなってくるのだけれど。

もろもろに次回作以後の布石も打ちつつ、初回に必要であろう情報はあらかた開示され、まだ若くとも既に作品数とキャリアしてはベテラン作家となった西尾維新さんの成熟を感じさせるシリーズ一作目になっていたと思う(書籍情報の下に多少ネタバレに絡む部分に触れています)。

掟上今日子の備忘録

掟上今日子の備忘録

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悲業伝 by 西尾維新

 普段こうしたシリーズ物の一冊はシリーズ完結した時に総評としてあげるのが常なのですが、このシリーズは最初から一巻ごとに感想をあげているので今回も一応書いておきます。とはいえ完全に続き物の中の一冊であることもあり、未読の方は読まないでしょうけれども。現時点での、この伝説シリーズへの僕の評価は「能力バトル物としては最高水準の出来(の部分がある)」といったかんじです。というのもとにかく本作は長い。感情がないというわけではないがほとんど介在させずに物事を判断することができるロボットみたいな主人公が、常に死線をくぐりぬけていく能力バトル物で、小説における大きな利点である「思考をいくらでも書ける」ことを最大限活かした能力バトル物になっています。

 能力バトル物においてまず恐るべきなのは自分の能力を知られることであります。相手が自分の能力を知らなければ、たとえとても程度の低い能力であっても相手を制圧することができる可能性がある。そうした情報戦が能力バトル物の魅力だけれども、これを徹底してやっているところは、能力バトル物として大好きな点。主人公の思考を書く過程は本作の特徴の一つではあるけれども、それがとにかく長い。長すぎて長すぎて一冊がノベルス二段組で500ページを超えてしまっている。そしてとにかく敵も味方も入り乱れ、神の視点があれもこれもと描写してくれるのでふくれあがっていく。

 長く、時間が進まず、それはつまり物語が進まない。シリーズとしては好き、能力バトル物としても素晴らしい、だけれども人には絶対にすすめられない。そんなシリーズになってしまった。本シリーズは悲鳴伝からはじまっている。二作目悲痛伝からはなんと閉鎖された四国で魔法少女同士がバトルロワイヤルをする通称四国編がはじまり、本来であればこの四国編は二冊で終わるはずだったなどと被告はのべているが現在四国編4冊目の非業伝が終わって尚、四国編が終わっていない! いや、面白いよ? 魔法少女同士の殺し合い! 閉鎖された四国! そこでは謎めいたゲームが進行していて、とっちゃいけない行動をとると突然身体が爆発して死んだりするのだがそのルールはどこにも書いてない! 探りあい、宇宙! と面白いけどね? 500ページ×4を読んでも尚終わらないとさすがに疲れてくるのですよ。

 本作のおもしろポイントについてはもうさんざん語ってきたので繰り返しませんが
悲鳴伝 - 基本読書 
読者が『悲痛伝 』(講談社ノベルス):西尾維新 - 基本読書
死刑執行中脱獄進行中『悲惨伝』 by 西尾維新 - 基本読書
悲報伝 (講談社ノベルス ニJ- 32) by 西尾維新 - 基本読書

 今回はさすがにちょっとどうかと思うのです。以後ネタバレ。今回はこれまで延々と語られてきた主人公から視点がはなれている。さんざん、ウザいぐらいに人間的な感情がそなわっていないと描写されてきた主人公を離れ、思考の本流から逃れられたのはいい。脇役としか言い様がない人間たちが主人公たちに合流してくるまでの、脇役視点の物語を延々と続けられるのはつらいものがある。いや、三十代女性が恥じらいを持って魔法少女姿になるところとか、恥じらいをあまり持たずにそこそこの自身をもって魔法少女姿になるところとか、もちろん面白いんですけどね。

 結局人間どこに興奮するかと、エロスはどこにあるのかといえば「秘められた箇所があばかれる瞬間」にこそあるわけです。あまり恥じらわない女性たちが、通常ありえないようなシチュエーションに陥って羞恥にもだえ苦しむ様はそうしたエロスを体現している……。つまり、面白いからこうやってレビューを書いているわけだけれども、これ別に「合流しました」と一行……はさすがにないにしても、30ページぐらい使ってことの顛末を書いちゃえばいいようなもんだと思うんですよ。

 いずれ四国編が完結した後にひっそりと「実はあの人達が合流した時の裏にはこんな物語が──」と、たとえばアニメ化したときのドラマCDとかで出せばいいじゃないですか。今回読んでいて僕が思ったこと、感想はそこにつきます。面白かったから、いいんですけど……。

余談。バトルロワイヤル物について

 大抵のバトルロワイヤル、閉鎖環境下での殺し合い物というのは、「黒幕の設定」が困難だったりします。どうしたって黒幕を設定すると現実感がなくなりますからね。「金持ちたちの道楽、ギャンブル」だとか「一人の天才が強引に実行したデス・ゲーム」だったり、あるいはもう最初っからファンタジー設定で「この世界はそういうことがあるんです」と強引にいってしまうとか。本作の能力バトル・ロワイヤルの設定として面白いのは「黒幕がいないようにみえる(現時点では)」というところにあったりします。事故でバトルロワイヤル状況が起こってしましました! って、そんなの魔法のある世界でしかありえないんだけど、魔法がありますからね。

悲業伝 (講談社ノベルス ニJ- 34)

悲業伝 (講談社ノベルス ニJ- 34)

人類は衰退しました by 田中ロミオ

ゆるふわな絵柄を身にまとい、起こる事件はどれも超常現象、超常テクノロジーに支えられめちゃくちゃな事態に発展し、語り手である少女は翻弄される。ただしあらゆる要素が軽い、ユーモアあふれる文体に包まれている。文体と絵柄によりかわいく、ゆるく包んでいたとしても中身を書いているのは『ウィンドウズ用アプリケーションソフトに使用されるテキスト・データの作成』、俗に言うエロゲーのシナリオライターを本業とするいいおっさん田中ロミオである。

そんないいおっさんだが数々の名作、世に受け入れられない変人・狂人やドス黒い人間の悪意を書かせたら天下無敵、根本的にSF思考の男に、かわいい女の子の語り手、妖精さんがいるふわふわとした世界観を組み合わせた結果よくわからない融合を遂げたのがこの『人類は衰退しました』シリーズである。超常現象が起こり、それに巻き込まれ、解決したりできなかったりする、金太郎飴的にいくらでも続けていける現代のドラえもんとしての地位を期待されていた『人類は衰退しました』シリーズもついに完結である。完結したのでこのレビューは総評的な位置づけのものとする。

全9巻。実際にはこの後短篇集が(本編が短篇集のようなものだが)出るらしいので巻数は経済的な要請にしたがってある程度までは伸びていくと思われるが、この世界はひとまず一件落着、いろんな謎が明かされて、最後はついに月にまで唐突して、世界の謎がぱんぱかぱーんと明かされて、というかほとんど勝手に解明して、終わった。完結。感無量。ブラックかつ衰退が迫っているというのに朗らかな安心できる世界、やわらかな、ユーモアたっぷりな文体、既存のアイディアも現代風に、わかりやすく調理する発想、クレバーに現実に起こっている事象に理屈で対処していく女の子も、魅力的なキャラクタ描写で新しかった。

完結に至るまでのあいだいろいろあったものだ。『人類は衰退しました』は途中で絵師が交代したり(割とよくあることなので特に気にもならないが)、アニメ化されたし(出来は良かった)、別で出した単発の作品が映画化されたし(AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜。映画はみていない)、本業であるエロゲーも『Rewrite』を出したし(エロゲーじゃない。出来は……悪くはない。悪くは……システムがひどいが……あとシナリオの調和も……だがMoon編は最高だ! エクセレント!)。

いろいろあった。いろいろ出していた。しかし、家族計画で擬似的な家族を描き、CROSS†CHANNELでループ物の金字塔を築き上げ、最果てのイマでエロゲー屈指のシステムまで巻き込んだSF描写をやってのけ、あらゆる作品でいじめを含む人間の悪意と、それを単に「悪」であり「敵」と片付けない人間への諦観、決して善ではない人間や、変人、狂人がそれでも良い人間になりたいと願い行動に移した時の、何かしらの達成ををいてきた田中ロミオという作家の幅広い作風──。

これは単純なフォーカスの使い分けといったほうがしっくりくる気もする。クローズアップした人間同士のやりとりと、ロングショットとしての組織のいざこざ、社会、国同士のいざこざ、さらには未来から過去へと行き渡る人類史、文明史的な視点、これを縦横無尽に使い分けることが出来るのが田中ロミオの天才性ではなかったか。人類は衰退しましたという作品が始まってからも様々な媒体で仕事をしてきた田中ロミオだが、田中ロミオの天才性が十全に発揮されたのはやはりこの『人類は衰退しました』シリーズだったのではなかろうかと今読み終えると改めて思う。

いろいろ出てきたがこの作品がここ近年では最も田中ロミオらしい、田中ロミオ成分がつまった、縦横無尽にあちこち枠を広げまくったシリーズだったと僕は思う。何よりもこれはSFだった。SFマインドに溢れていた。見たこともない概念、種族を科学的整合性のうちに描き、我々の現実に対する世界認識を一変させてしまうのはSFの醍醐味だが、この『人類は衰退しました』シリーズは全巻かけてそれをやったともいえる。

後ほど解説を加えるが数々のSFネタに加え、いじめネタを筆頭に、田中ロミオ作品でも一貫して書かれてきたのは、言葉の持つ不完全性から起こるどうしようもなすれ違い、あるいは個体間の違い、端的にいって社会から爪弾きにあうような狂人共と、それでもそんな狂人共を抱えながらぐるぐると回りつづけている人間社会とのわかりあえなさだったようにも思う。根底にある「ひとりぼっちは寂しい」という感情まで含めて、『人類は衰退しました』シリーズでテーマは繰り返されていく。何しろ語り手の女の子の職業は「調停官」なのだ。

組織間のやりとりでも個人間のやりとりでも、現実は厄介なしがらみが多く、快刀乱麻を断つごとくスパっと割り切れることばかりではない。かつて赤木シゲルが「なんでみんなもっとスカッと生きねーのかなあ」とぼやいていたが、スカっと生きるのには、現実は摩擦係数が高すぎる。妖精さんという超常現象発生装置がありながらも、本作はあくまでもそうした人間同士のしがらみをハサミでぶった切るのではなく、丁寧に解きほぐしていく、それが調停官の役割だからだ。

簡単なあらすじ

今更のような気もするが、この『人類は衰退しました』シリーズの概略を説明していこう。タイトルの通り人類はとっくの昔に(数世紀前)衰退しており、今では妖精さんと呼ばれる種族が新人類と国連に認定されのさばっている(ただし人類の殆どの人は出会えない)。この妖精さんたちは魔法チックな能力で人間が集まっている場所、楽しそうなこと、糖分などに応じてなんでも作ったり壊したりすることができる。この妖精さんが超科学力によって起こすトラブルだったり、妖精さんはあまり関係なく単純に人類が起こすいざこざだったりを調停官たる「わたし」はだいたい面倒くさがりながら、時には命の危険を感じ、中間管理職の悲哀を背負いながら解決していく。

アルジャーノンに花束を盛大にパロって徐々に知能が失われていくお話を書いたかと思えば(ダニエル・キイスさんお亡くなりになってしまいましたね)、人工知能をアイディアにつかった『たったひとつの冴えたやりかた』パロもあるわ、時間SF、拡張現実ネタ、ループネタがあったかと思えば無人島に放り込まれてそこでリアルCivilizationじみた文明の勃興を描いてみせたり、衰退した人類らしく古代文明の遺跡探検があったりする。

アニメーションを作る話、同人誌をつくる話のような現実パロ、サブカル方面ネタも豊富で、時には超常現象を離れていじめられていた主人公の暗い過去が語られ、ある時はモンスターペアレントと対決し、ある時は失われた文明、遺跡の中を探検し、最後にはなんと月にまでいってみせる。まあ、だいたいなんでもありということだ。

衰退した世界の描写

読みどころの一つは衰退していく世界の描写だろう。しょっぱなから主人公は教育機関を終え調停官として村に着任するところからお話は始まるが、教育機関は実質その代で終了となり、あとは各家庭ごとで教えられることになっている。文明はすでにほとんどが失われていて、残ったものも一度壊れたらもう修理さえ不可能であろうというものばかり。ロストテクノロジーに取り囲まれている。

どうしてか人は廃墟、散り、去っていく、儚いものに惹かれるものだ。桜をみてみるがいい。ほんの短期間綺麗に咲くだけで、あとは見てもなんも面白くないただの木なのに、みんなありがたがってそれを受け入れる。破壊、刹那の美学のようなものがあるのかもしれない。なくなったあとではじめて、今まであったことの素晴らしさ、その成り立ち、必要性がわかる。普段生活していると意識しないありがたみのようなもの、そしてまたどうしたって存在している「文明があることの不利益」に思いをはせるようになる。

シビアな現実と、現実を包むユーモアにあふれた文体

衰退していく世界というとどうしたって悲壮感を帯びているものだ。「ああ、もう終わるんだな」という絶望だったり、「あれもこれもなくなってしまうのだ」という悲しみ。しかし本作の世界観は「先細って、絶滅に向かうだけの悲壮感」だけを描くのではなく、どちらかというと牧歌的な、衰退はしているけれども、まあそれも含めて今はそれなりに楽しく過ごしているよねみんな、あははと描かれていく。絵柄だけでなく文体までユーモアたっぷりに、現実に進行している悲惨な事実を笑いで覆い尽くすように進行していく。たとえば下記は9巻から一行だけ引用したものだが、シビアな話なのに語り口は笑える。

 国外の過激な原理主義と貧困が夢のコラボレーションを果たして、促成テロリストが誕生したのです

CROSS†CHANNELで主人公の黒須太一が通常のコミュニケーションをとることができず、すべてをユーモアで包みながらでしか会話を進められなかったように、家族計画で寛が悲惨な現実を覆い隠すように笑いを家族に振りまいていたように、この作品では文体(というか語りか)でやっているようにも思う。しかし根本的に違うのは、この『人類は衰退しました』の現実は、実は我々の知るところの、奇跡なんて起こらない、起こることしか起こらない現実ではなく、奇跡の起こる現実であるところだ。

何しろこの世界には妖精さんがいるのだから。奇跡を起こすことができる存在がいるから、語り手が起こす見せかけだけの、包みとしてのユーモアだけでなく、いじめられたらいじめられっぱなし、悲惨な親に当たった子供の人生は無茶苦茶になってしまう、無残に破れ散っていくだけの「我々の知る現実」とは全く別の「奇跡が起こる現実」がここにはある。この世にどれだけ悲惨なことが起ころうとも、妖精さんは少なくとも死ぬことはないと保証してくれる。それはとても優しい、人生への無条件な肯定に満ちた物語だ。

半ば自虐的に田中ロミオは自身の出した作品は評価はどうあれ「売れない」と嘆いてきたが、ライトノベルという分野に進出した途端アニメ化、劇場アニメ化と調子づいている。収入だけで言えばかつてゲームで稼いできた額をとっくに塗り替えているのではないかとも思う快進撃だ。『エロゲー』から『コンシューマ』へ移植をすることとはまったく別次元のやり方として、そもそも最初から物語の形式を一般向けにフォーマットした世界観でようやくその実力が世間にひろく知られるようになったといえるのかもしれない。

難しいことを簡単に書く、パロディの力

過去の作品、アイディアをパロって、現代風に軽く演出してみせる技術が凄い。『たったひとつの冴えたやりかた』も『アルジャーノンに花束を』も新しい古典になってしまって今ではなかなか自分から手に取らないかもしれないけれど、異種族とのコミュニケーションや知能が失われていく恐怖感、知能の水準が変わることで世界認識のレベルも変わるなど、エッセンスを抽出して蘇らせている。

また現実に起こっている社会問題や技術を軽妙な語り口で見事に描写してみせるのも魅力の一つだ。9巻でいえばさっき引用した部分の「国外の過激な原理主義と貧困が夢のコラボレーションして促成テロリスト」もそうだし、月の行く方法として未来テクノロジーが出てくるのだがその原理についても非常に簡単に書かれて、かつわかりやすい。たとえば八巻は人が出て行ってしまった村で、アニメーションを作って村起こしをしようというトンデモな展開だが、村人が出て行ってしまった理由は援助によって資金がじゃぶじゃぶ注ぎ込まれて働かなくてもよくなった結果誰もが自堕落になり、未来が想定できなくなってしまったことに起因する。

援助によって住民が働かなくなるというのは現在の貧困国への援助でもたびたび話題にあがるグローバルイシューであって、本作においては相変わらず現象発生は局所的な村の話だが現代社会に照らし合わせられる普遍的な内容だ(適当なこといってるが)。「望むものが与えられると働かなくなる」問題はその後の話にも関連していて、拡張現実によって望むものがすべて与えられる世界はユートピアかディストピアか? という問題につながっていったりと、根が深いというか構造が積み重なっていく。

7巻の【妖精さんたちの、ちいさながっこう】では試験的に3人の子どもの教師役をするものの、問題児達の精神にたいしてどこまで教師が踏み込んでいいのかという学校教育の難しさ、また家庭の事情があまりよろしくない生徒について、どこまで教師は家庭の事情に踏み込んだらいいのかというジレンマなど、そのまま書いたら重たくて重たくていかんともしがたい問題をあくまでもライトに、しかし誠実に扱ってみせる。

世の中実際楽な問題ばっかりじゃねえなあ……と思わず嘆息してしまうような、簡単には解決できない問題で溢れている。それでもいつでもどこだって、田中ロミオはその楽じゃない問題についてスカッとするよりも泥臭く、しかし誠実に対応する手練手管を書いてきたわけじゃないですか。この世界には妖精さんがいる、その救いもしかし、「特定の条件下でのみ起こりえること」であり、単なる「何でも装置」ではない。その根本的なからくりが明かされる最終9巻において、ああやっぱりこれは奇跡の体裁をとっていながらも、あくまでも田中ロミオ作品としてまとめられうるものなのだと安心したのだった。

ブラックで、めちゃくちゃで制御不可能なことが次から次へと起こっていく。文化は衰退し人間は減っていき、でも世界と人間自体はとても優しくて、とても楽しく、面白く、美しい世界なのだった。妖精の謎、人類史の謎が明かされていくにつれてああ本当に終わってしまうのかこの物語は……と呆然としながらも読み終え、完結したのがいまだに信じられないぐらいの楽しさでもう感無量だ。

諸君、田中ロミオのエッセンスはこの『人類は衰退しました』全9巻の中にしっかりと刻み込まれている。田中ロミオファンも、そうじゃない人も、読んでないならばみなみな読むといい。あらゆる要素が詰め込まれた、びっくりどっきりおもちゃ箱のようなシリーズだから。※余談。ライトノベルもいいけど、新しいゲームもやりたいんじゃーーーーRewriteだけじゃ満足できないんじゃーーーーーエロゲーで貯めた資金でドイツに城を買うんじゃなかったのか!? もうなんでもいいから新作が読みてーーーーーー……ってことで田中ロミオ先生の次回作に期待しています。

人類は衰退しました 1 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 1 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 9 (ガガガ文庫)

人類は衰退しました 9 (ガガガ文庫)

9巻読んだ人用(ネタバレ)

いやーーー面白かったですねーーーーー。面白かったでしょう? 一度読んだあと思わずもう一回頭から読み返してしまうぐらい面白かった。人類史をたどりながらところどころ気になるところでフォーカスしてブラックな日常が描かれるのがイイ。虐げられる子供がいい。そんな虐げられた子供や人類が、妖精さん(Ver0)によって救われるのもいい。徐々に衰退していく世界の前、科学絶頂時代の人類描写がいい。軌道エレベーターの描写なんてもうサイコウですねえ! ナチュラルに「わたし」が悲しみで常軌を逸しているとみて、茶番じみた説得に終始するのではなく全力で物理的に彼女の妨害をするクレバーなYとその仲間たちがいい! そしてやっぱり最後には助けに来てくれる助手くんとYとその他大勢がいいねえ!

何よりここまでのネタばらしが素晴らしい。なぜ、衰退していく、シリアスな事態のはずなのにこんなにのんびりしているのか? なぜ、あれだけ絶頂期にあった文明はすっかり姿を消してしまったのか? 塵となるにも数百数千年の時間が必要なはずなのに、こうもあっさり消えてしまったのはなぜ? 助手くんが喋らないのは、彼ら彼女らにそもそも名前が存在しないかのようにふるまっているのはなぜなんだ。そう、すべては認識の問題である。これまでさんざん自意識ネタ、知性ネタ、人工知性ネタなどで「わたしとは何か」という認識論を議題にあげてきたのは、やっぱりここへ至るまでの布石だったんでしょうねーーーー。 

一度ざっと読んだだけだとイマイチよくわからない人もいるみたいなので一応僕が読んで思ったネタバラシ部分について簡単にまとめておきます。
1.「わたし」含む助手さん以外の人間だと思っていたものは実は妖精から分化したものである。妖精から人間へと変化するものと、人間になった際にとりこぼされたものが演算敵挙動(妖精さん)となってそれぞれ産まれる。
2.助手さんは人間である。ただし認識の仕方が異なる為これまでは喋りも認知されないし、そもそもズレた存在として描かれていた。「わたし」に自分たちの存在にたいする自覚が生まれた為、最後助手さんとの認識のズレが矯正され喋っていることが認識できるようになった。
3.地球に根をはった科学文明がほとんど消えたかのように見えていたのは「認識」の問題であり、実際は地球には科学文明がまだまだ残っている。妖精さん達には目がなく、周囲は魔法によって知覚しているためそのような「認識」の差異がおこる。「わたし」たちには現実に残っている科学文明は見えていなかった。
4.「わたし」達はしかし自分たちが妖精であった頃、魔法が使えた頃の記憶を有していない。自分たちは完全に人間のつもりでいる。しかし魔法、考えるものに干渉する力は演算敵挙動(妖精さん)として「わたし」達の認識するちきゅう`をもりあげ、創りあげている。

だいたいこんなところですかね。最後のタイトルが『妖精さんたちの、ちきゅう`』と`がついているのはたぶん、「わたし」達が認識している地球が旧人類が築きあげてきた地球とはまた別の認識で把握している地球だからでしょうね。いやあしかしいい大団円、優しい世界でした。あっぱれ! 興がのって7000文字も書いちゃったよ。

SFマガジン2014年6月号のジュブナイルSF特集について

面白い特集だった。普段は買わない雑誌でも特集が気になるとつい買ってしまうね。メインの一つとして取り上げられている魔法科高校の劣等生をWeb版から読んでいたこともある。いくつか面白かったところをピックアップして、雑記みたいな感じで思ったことでも書いていこう。

まずジュブナイルSFについてだけれども、これからはジュブナイルSFの時代がくるのかもしれないと思っている。その根本にはSFは身近な物になるというか、もうなっているという現状がある。十年後どうなるかろくに想像も変化が早すぎて十年後ろくにどうなるか想像もつかないような現代においては、あっという間に古びていく現代をそのまま書くよりも未来を書いたほうがその心情にはよくあっているからだ。

つまりはSFが現代小説そのものとして普通に需要されるのではないかなあとこれを読みながら、というよりかはもうずいぶんまえから考えていることなので思い返していた。それは若い世代ほどそうだろう。ジュブナイルSFが見直されるのだとしたらそういう文脈があるのかなと勝手に思っていた、というわけだ。まあそういう考えはこの特集で取り上げられていることとは何の関係もない僕の雑感だけれども。

さて、特集の方だけれどもジュブナイルSFの再評価ということで、ジュブナイルSFのこれまでの歩みをまずふりかえっていく。そして魔法科高校の劣等生著者の佐島勤さんインタビューを経由して泉信行さんと吉田隆一さんの『ハード・ジュブナイルを求めて』という対談が入り、SF必読ガイド30選が入り、ジュブナイルSF刊行概況という形でそれぞれ近況が簡単に語られる。

そもそもジュブナイルSFとは一体全体どういうものなんだろうなあ。ジュブナイルSFのこれまでの歩みとして筆頭にあげられている妖精作戦ロードス島戦記(がジュブナイルSFなのかどうかは知らないが……)、西の善き魔女時をかける少女夢枕獏に……と考えていくとある程度はライトノベルと重なっているように見える。まあそのままティーンエイジャーをターゲットに据えたSFのことぐらいの捉え方でいいだろう。

また特集ではハードジュブナイルSFなる呼称も出てきていて、これはすげえ勢いで若者向けにしたSFという意味ではなく、ハードSFを志向したジュブナイルぐらいの意味でいいらしい。モーレツ宇宙海賊(この文字列打ってて恥ずかしいな……)というタイトルでアニメ化/映画化されたミニスカ宇宙海賊 by 笹本祐一 や魔法科高校の劣等生のような作品が例に挙げられている。

ライトノベル読者は別ジャンルの本を読まないのか?

面白かったのがこの対談でライトノベル読者が他の小説ジャンルへと誘導することの難しさが語られているところ。ライトノベルを読んだ。じゃあ次は伝奇を読んだり新本格にいったりSFに行こう、とはならない、卒業先を用意されるわけでもないという話が聞かされる。僕自身は政治から科学ノンフィクション、SFに歴史物からミステリにライトノベルまでなんでも読む人間なのでジャンルを横断しないなどということがそもそも理解できないんだが、そういう傾向があるのか。

そういえば最近はライトノベル読者への質問状みたいなものがあってその中にこんな質問があった。ざっくりとはここでまとめられている。⇒『ラノベファンに〜』系記事とりまとめ - 空き地。 たぶんもっと増えているだろう。手間だがひと通り読んでみると、次のようにそれぞれまとめられる(長くて邪魔なので一番下に移動)。一行につき一サイトのように考えてもらえればいい。文章は引用したものもあるがだいたいは僕が勝手に内容を要約したもの。

全部みていくのも手間だろうので勝手に全体の傾向を説明してしまうと、「ライトノベルしか読まないということはないが、ライトノベルを読むことが多い」という人が割合としては多いようにみえる。もちろんこれはわざわざ文章化したがる奇特な人間たちのサンプリングではあるが、まあそう外れているものでもあるまい。またライトノベル以外については近接したミステリであるとか、伝奇ものであるとか、ファンタジーSFといったところに流れていく人達が多いようだ。ノンフィクションを読むと回答している人は少数派。

対談の中で泉信行さんが語っている「かつてあった「縦」を取り戻す価値は大きいと感じるんです。」というのにはまったく納得で、せっかく広い小説世界なのだしライトノベル外にもジャンルは続いているのだから、様々な方面に散らばった方が楽しいのではないかと思う。しかしライトノベルをほとんど読む理由として書かれていたのはそもそもスペースの問題と、ライトノベル的な物が読みたければ日夜湯水のごとく注ぎ込まれるライトノベル分野の本を読みあさるだけで充分満足させられてしまうというところがある。そもそも一般的にいって、人はたくさん本を読まない。

多かれ少なかれ自分が今まで慣れ親しんできた既存ジャンルを脱する理由はまだ見ぬ傑作を探してとか、そもそも読むジャンル本がなくなって、ということが多いのではなかろうか。今ライトノベルには読みきれないほどの名作が既に勢揃いしており、それもまた縦方向へと向かわない要因のひとつになっているのではないかと思う。何しろハヤカワはライトノベル圏からの作家をガシガシ取り込んでいるし、ライトノベル読者の返答としても「読まないわけではない」つまり認知されていないわけでもないのだから。

ただそれをどうしたらいいのか。この対談で話題になっているようなハードジュブナイルSFのような、またなんだかやけに狭い範囲だけども既存の作品を別の評価軸、カテゴリで捉えるのも一つの方法なのだろう。ようはこれまで観てきた「ライトノベル」というある種あやふやな物の中に存在する雑多なものを別方面へのジャンルへと接続するパスを用意することでメディアミックスなんかの横の繋がりだけでなく縦の繋がりへと展開させていくのだと。

あとはやはりライトノベルが出すぎている、あるいはひとつのシリーズが続きすぎている現状があるかぎり変わらないのではないかとも思う。たとえば今西尾維新にハマったら、西尾維新を消費しつくすだけでどれぐらいの時間がかかるのかという感じ。人気シリーズで20巻近く出るものもザラなのだから。「次にこんなのがあるよ」といったところで「いや、まだ西尾維新読み終わってないし……」と返答が返ってくるのではどうしようもない。

あるいはそもそもこの水平方向の広がりこそが楽しいのだという部分もあり、正直他人のことなので、どうでもいい。

ライトノベル以外も読むことがあるがだいたいラノベである。ラノベファンだけど質問に答える - 主ラノ^0^/ ライトノベル専門情報サイト
ライトノベルの定義が不可能なためこの質問にも答えられない。ラノベファンに質問があるらしい - いさぢちんメモ
ライトノベル以外も読むことがあるがだいたいラノベである。ラノベファンだけど質問に答えてみた。 - 青豆ほーむ
・ハヤカワや司馬遼太郎などは読んでいた。森博嗣などのライトノベルかどうか区分が微妙なところを読んでいる。ラノベファンに質問がある - REVの雑記 - LightNovel Group
ライトノベル以外も読むことがあるがだいたいラノベである。この世の全てはこともなし : ラノベファンに質問がある→答えてみました
ラノベがほとんど。他の小説はKindleで適当に摘まみはする。ラノベは頭を使わずにだらだら楽しめる娯楽になっていてそれが魅力だ。ラノベファンが質問に答える - wataken44's blog
ライトノベル以外も読むことがあるがだいたいラノベである。ラノベファンじゃない人からの質問に答えてみた: 24の子供部屋
ライトノベル以外も読むことがある(ミステリのみ)がだいたいラノベである。【ラノベ】 ... ●ラノベしか読まない?〜 ミステリを読む。特定の... - id:sisui_ro - id:sisui_ro - はてなハイク
ライトノベル以外もいろいろ読む(恋愛、ミステリ、時代、経済小説【ラノベ】 ... ●ラノベしか読まない?〜 ミステリを読む。特定の... - id:sisui_ro - id:sisui_ro - はてなハイク
ライトノベル以外も読む(むしろそのほうが多い。ミステリ、歴史など)
・基本的にはラノベのみで、たまに他のを読むときでもラノベっぽい作品を選ぶhttp://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・文字になってれば時間があれば大抵読むが、小説となるとラノベが主体にはなる。http://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・主にSF好き、ファンタジー好きなので今のご時世だとどうしてもラノベの比率が多くなるが、好みに触れれば別にラノベじゃなくても読む。http://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・基本的に現在はラノベしか読んでいない。それはもっぱら時間がない、というのが一であり、次に一般文芸作品にラノベで感じられるドライブ感とも言えるあの引き込みを感じることが圧倒的に少ないからだ。FF5の小規模な戯言 ラノベファンからの回答
ラノベ以外ももちろん読みます。というかそれが普通じゃないですか? http://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・児童文学から入ってラノベにいってその後は実用・ビジネスに本全般へhttp://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・他の小説も読む。最近は歴史小説が多いけど前はミステリーが多かった。http://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・読むけど、基本的にエンタメ小説しか読まない。ジャンル的にはミステリィやSFが多い。http://anond.hatelabo.jp/20140420200750
・現在はライトノベルレーベルから刊行された作品を主に読むことが多いが、お気に入りの作家が「一般向けレーベル」から出版すれば、とうぜん読む。http://anond.hatelabo.jp/20140420200750

魔法と科学について

だいぶ記事が縦に長くなってしまったのでいったん区切ろうと思ったがこれだけ……。魔法科高校の劣等生著者のインタビューで面白いのがこの作品内では「魔法」は超能力物の亜種なのだという。ただ超能力だと「なんでもできる」というわけにはいかず、主人公には社会と闘うためにある程度なんでもできる必要があることから超能力は魔法と結合し魔法はシステム化され素質さえあればだれでも利用できるものになった。

素質さえあれば誰にでも再現可能であるというのは「素質」の部分さえ除けば科学といっても問題ないものであり魔法としては違和感がある。僕はこの作品をSF好きには勧められてもファンタジー好きには勧められないし。まあかといってこれが純粋に科学であると話が成立しないのも確かで、そこが作品の根幹にある為「これが魔法である必要はあるのか?(科学ではダメなのか?)」という疑問は出てこないように作品の中ではなっている。

でもこれはやっぱりプロセス的には科学だよねえと。思うのは魔法にせよ科学にせよ「発展」した形を考えた時には今のところマルチタスク型の進化がもっとも想像しやすい。たとえば原初の魔法を考えると、火を出す、風を出す、記憶を撹乱させる、消失させる、飛ぶ。魔法と聞いてぱっと思いつくのはどれもシングルアクション系の動作であり、つまりは単一機能ツールとしての発想だ。

何年も発展しないのであればシングルアクション系のままでいいかもしれないが、変化し、それが社会に組み込まれ発展していくことを想定すると方向性としては限られてしまうのではなかろうか。1.だれでも使えるようにすること。2.マルチアクションがこなせるようになること。3.より威力/能力が強化されるようになること(コスパがよくなること)。 ぐらいだろうか。そしてその方向に発展を考えるとどうしても科学の発展の模倣に(最終的にはパソコンに)。

ようは科学にせよ魔法にせよ最終的な発展形態としては「望むことを簡単に叶えてくれること」であり「ぜんぶよろしく」といったらそれだけでこちらの意を組んで達成してくれる能力を身につけてくれることだ。科学ではそれはわかりやすい形だと、ひとつはプログラムで表現される。魔法科高校の世界の魔法でもプログラミングの概念を魔法に移植しているようにみえる。

なんだろ。別の発展の形ってありえるのかなあ。

僕が考えていたこととは違うがこんな話もある。⇒「魔法」を物語の中で”科学的・合理的”に描写するには - Togetterまとめ ようは科学的でない方法で魔法を描写することが可能なのかという話。再現性がみとめられたり体系化されてしまったらそれは既に科学に取り込まれているという考え方だ。ゲド戦記は小川先生が考えている魔法に近いと思う。指輪物語はわりと再現性があるので科学かな。

何にせよ魔法の書かれ方にはまだまだ可能性がつまっていて面白い分野だと思う。もっと色々出てこないかなあ。

※追記 ジュブナイルSF30選とかこれまでの歩みとかはぱらぱらとめくったぐらいで読んでいません。なんか異論がぽこぽこ出ているみたいですので買う時はお気をつけ下さいな。

SFについてはこんな本も出したのでよかったら読んでね。
冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

冬木糸一のサイエンス・フィクションレビュー傑作選

イリヤの空、UFOの夏 by 秋山瑞人

どうしてか死ぬほど面白い物語を書く作家に限ってやたらと書くのが遅かったり出なかったり完結しなかったりする。秋山瑞人はそうした要素をすべて兼ね揃えている作家の一人だ。原作付きの『E.G.コンバット』で1992年にデビューして以来20年以上のキャリアを誇りながら完結させた作品は3つ……そのうちの貴重なひとつがこの『イリヤの空、UFOの夏』になる。全四巻。

秋山瑞人という作家が「なんなのか」というのは容易に説明できることではない。天才としかいいようがないような、一人の人間が努力で到達できる範囲では明らかにないような、異質な文章を書くことができる稀有な作家だ。僕はそのデビュー作である『E.G.コンバット』の文章をはじめて読んだ時あまりにびっくりして、電車の中で読んでいたにも関わらずそのことを忘れて目的の駅を乗り過ごしたことを今でも鮮明に覚えている。それぐらい一瞬でわかる異常な才能というものがあるというのがまず驚きだった。

何か書こうにもどうにも言葉が出てこない。文章、演出、構成、どれひとつとっても文句なしの一級品で、時間のコントロールは自由自在、ほんの一瞬のごくごく印象的な場面を切り取らせたら天下一、心情描写もこれでもかと念入りに描写してみせ、しかもそれが心底胸をうつ。.文句のない傑作であるのは確かだ。よくもまあエイリアンだとか猫だとかを書いてきた作家、今は中華活劇を書いているような人間がこんだけ真っ当なジュブナイル物を書けたものだと思う。

今回Kindle化にあたり久しぶりに読み返してみて、実はちょっと不安だったところもある。過去の思い出を、激しく美化しているのではないかと。しかし、むしろそのうまさに驚いたものだ。想像していたよりもずっと面白かったし、ずっとうまかった。最新の作品であるDRAGON BUSTERもべらぼうにうまい中華活劇なのだが、文章能力、演出能力自体はこの時点で既に完成の域にあると思う。

話はまあ、至極シンプルなものだ。中学二年生の馬鹿な男の子がいて、そこにこれまた馬鹿な女の子、ただしとんでもなくかわいい──が天から降ってくるのではなく夏休み最終日の学校のプールに突如やってきて、男の子と出会う。日本はどこかの組織と戦争中で、彼女はどうもその関係者で、日常はどんどん崩壊していって彼女と男の子の間の仲もそれによって引き裂かれたりむしろくっついたりしてしかも恋敵がいたりいなかったりして──。

後々セカイ系などというどこかの批評家がうみだしたよくわからない概念でくくられることもある本作だが、書かれた当時は当然ながらそんな枠組みはなかったはずで、そこにこだわるのもどうかと思う。一巻は純粋に出会い、そして男の子の周りの人間と新しく仲間に加わった女の子──まあ当然ながら名前はイリヤなのだが、の日常が描かれる。二巻から日常は不穏さを増していき、三巻と四巻は比率は逆転する。

戦争の季節だ。秋山瑞人作品ではそうした「反転」のイメージが多く用いられる。日常の反転、常識の反転。それらは常に影で進行しているのだが、余程注意深い人間でなければそのことには気が付かないものだ。まあ、現実の地震や戦争といったものもそうなのかもしれない。忘れた頃にやってくるとはよくいったものだ。自然現象の周期は人間の記憶感覚にあわせてくれるわけではないのだから。

印象的な場面の切り取り方

実に印象的な場面が多い。たとえば主人公である中学二年生の男の子、浅羽が最初にヒロインたるイリヤと出会うのは夏休み最後の日の、夜の学校プールである。なんでそんなところで、というところからして面白いのだが、スクール水着をきたイリヤと思いつきできたが為に海水パンツもなく短パンで泳ごうとしている浅羽の姿は読後何年たっても僕の頭のなかに残り続けていたものだ。

そしてライトノベルといえば兄を異常なまでに好いている妹といってもいいぐらい定番のものだが、この作品では妹の兄離れが書かれる。自分が過去に髪を切ってもらった思い出をリフレインさせながら、現在の兄が、かつての自分がいた「髪をきってもらう」場所にいる新しい「女」をみて、自然と「やるじゃん」と実感し吹っ切れていくという流れが好きだ。

夏の空の下、渡り廊下の日陰の中で、兄が、伊里野加奈の髪を切っていた。

 ハサミを動かす手を停めて、兄が身体を反らして笑っている。何か笑われるようなことを言ったらしい伊里野加奈が首だけで背後を振り返って、不満気な顔で兄をにらんでいる。ふたりが何の話をしているのかはわからない。
 わからなくていいのだ、と思った。
 あの手がかつて、自分の髪を切っていたころがあったのだから。
 肩に入っていた力が、溶けるように引いた。
 笑みが浮かんだ。
 「やるじゃん」
 そうつぶやいた。

この文章の独特のリズム、人間が考え方を変え、何かを受け入れていく時の描写、そうした一つ一つが秋山瑞人の文章で描かれるとどれもが腑に落ちていく。なんというか、ほんの数行の描写で一人のキャラクタがたしかにいるのだという、「実感」のようなものを持たせるのが秋山瑞人は異常なまでにうまいと思う。

たとえばここから引用するのは四巻にてほんのちょっとだけ出てくる少女、あまり重要な役どころではないキャラクタについての描写だ。

 互いの手が届く距離まで近づいても、中学生はこれという反応を見せない。ひどく落ち込んでいるようでもあるし、何もかもがどうでもいいと思っているようでもある。伊藤日香梨は中学生の反対側に周り込んで、ずうずうしいとおもわれないように少しだけ距離を取って隣に座った。わざわざ反対側に回り込んだのは、こうすれば中学生からは自分の左の横顔が見えるからである。アタシは左の横顔の方が写りがいいのよね、というのは母がカメラを前にするときの口癖で、写りがいいとはどういう意味かと尋ねると、美人に見えるってことよ、という返事が帰ってきた。母親がそうなのだから自分もきっとそうだと伊藤日香梨は思う。

反対側に回りこむのと、ぽっと出の使い捨てキャラクタの過去の描写をするなんて無駄のような気もするが、こんな何気ない描写一つ一つが積み重なって本来なら一次元的にしか表現されていないキャラクタが立体像をともなって立ち上がってくるものだ。この能力がすべてメインキャラクタとサブキャラクタに向けられるのだから、魅力的にならないはずがない。

軍の人間、恋敵が現れて動揺している浅羽のクラスメイト、浅羽のヒーローであり完璧超人ではあるがオカルトマニアで変人で、理性が勝りすぎているが故に孤独な男水前寺と魅力的なキャラクタが次々と出てくる。E.G.コンバットでも顕著だったが、エリートだがそれ故に心に抱えた葛藤が大きい、といった不意をつく描写がこの頃の作品群にはみられる。

キャラクタについて

キャラクタの誰もが魅力的なのは、弱みと強み、そして自身の心情の変化を先の妹が兄の散髪現場を見たときのようにゆったりと語られていくからだろう。余裕綽々のように見える大人だってつらい現実をたえているものだし──頭がよくてなんでもできてしまうように見えても、まさにそれが故に人の好意を割りきってしまって孤立していくこともある。

中でも水前寺というキャラクタは有名で、この男、科学的な考えを推し進める人間でありながらもオカルトマニアでUFOや超能力を一心不乱に研究しUFOが基地にいるときけばあらゆる手段を用いて潜入捜査しそして少なからず真実へと辿り着く、滅茶苦茶な行動力を持ったやからなのだった。単なる「頭のいい」記憶力が優れているとか、科学的な思考力が強い、といったキャラクタにとどまらない。

むしろ理屈で割りきっていった先に理屈で割り切れない部分、こぼれ落ちた部分にオカルトという要素があり、そこから見えてくる真実があるのだ、という視点に立った造詣だったのが「たんに頭がいい」だけでなく「イカれた天才」としての描写に箔をつけている。秋山瑞人は理屈だてて凄い人間を書くのがE.Gコンバットの頃から以上にうまかったのだが……本作ではそれがまさに開花している。何よりいいのは、彼が誰よりも楽しそうに、自分の思考を嬉々として実行するところだった。

水前寺の、楽しそうな、それはそれは楽しそうな笑顔。

彼が自身の目標に邁進しそのためならあらゆる手段を選ばず、巨大な組織だろうがひるまず、くだらないことに全身全霊をかけ、自分の命が危険にさらされようとも突き進んでいく、しかもそれでいて悲壮感などまるで感じさせずに、最高に楽しそうなその様は、本作のメインプロットにはたいして重要ではないのかもしれないが、本作を本当に楽しい物にしている大きな一因だった。

秋山瑞人のリアリティ

リアリティとは結局のところその人その人が持っている「世界認識」のことである。揺るぎなき世界観として「弓の打ち方」を持っている人は弓の打ち方がてんでなっていないイラストをみて「あれれ」と思うし、弓の打ち方など知らない人間はそれをみて自分自身の世界観は揺るがないから、なんとも思わない。僕は作家が作品を変えても唯一継続されていくものはこの「世界認識」だと思っている。

秋山瑞人が書いていく人間が、能力の多寡に関わらず常に何らかの葛藤を抱えていることも、妹が兄離れをしていく(当たり前のことだが)ことも、世の中には善人ばかりではないのだということも、当たり前の日常なんてものがいかにあっけなく崩壊してしまうのかということも、すべては秋山瑞人の「世界認識」からくるものだ。それは時につらい現実を突きつけてくることになる。

中学生が乗り越えるには思い現実だ。宇宙戦争をやっているE.G.コンバット、もとより殺し合い上等の世界である猫の地球儀、そもそも人類がほぼ絶滅しかけている状況を書いた鉄コミュニケーションとどれもハードすぎる世界観で人が死んだり残酷な目にあうのは半ば織り込み済みだともいえる。そうした認識をただの中学生男子に適用させるのだから──まあひどいことになるよね。

オススメ

もし読んだことがなければ、文句なしにオススメしよう。もう十年以上も前の作品になる。パソコンもそれほど一般的ではないし、そういった意味では時代は古い作品だ。でもそこに書かれている青臭い思いだとか、わりきれない微妙な心情だとか、そして何より男の子が「一人前の男」へと進化をとげる過程が、四巻を使ってそれはもう丁寧に書き込まれていく。浅羽が自分の血を流し、命を賭け、世界を滅ぼす覚悟を決める全四巻の結実ともいえる場面は、涙なしには読めないはずだ。

そして何より秋山瑞人という異才に触れることができたなら──それだけで本読みにとってみれば、これ以上ない幸福な出会いだと、そういえる。

ビスケット・フランケンシュタイン〈完全版〉 (講談社BOX) by 日日日

『ビスケット・フランケンシュタイン』は2008年に文庫で出ていた作品の復刻版、完全版にあたる。長らく絶版になっていたとかで今回初めて読んだが、こうやって過去の名作が蘇ってくるのはいいことですね。文庫版については既にKindle化されているので現状手に入らない、というわけではないんだけど、完全版と銘打たれ構成の見直しが入っているので当然こちらで。

日日日さんは作品ごとに雰囲気が違うので毎度驚くが、これはダークな作風。ダークといっても、いろいろある。大まかにわけて物理的な側面と精神的な側面があるとして、どちらに関しても徹底的にやってくれている。そもそもデビュー作からして眼球抉子 (がんきゅうえぐりこ)とかいうぶっ飛んだキャラクタと方向性を打ち出していた著者だ。

それと関連しているのかどうかわからないが本書で展開する世界で人類は身体が腐っていく治療不可能な謎の奇病に冒されその数を減らしつつあり、奇病の「患部」を集めて生み出され、奇跡的に意識が宿った一人(だが患部の集合体なので群体)の少女を中心に物語は進む。物語自体この群体の少女が「解剖」されているところから始まるので、眼球抉子といい著者には人体破壊願望でもあるのかもしれない。

読んでいて考え込んでしまうのは「どこからが人間でどこからが人間でないんだろうね」という境界の問題だ。腐っていく体、他人のパーツで寄せ集められた群体として意識を持っている人間、機能をばらばらにして構築された、新たな人類。そしてそこから生じてくる意識、人工知能──こうした題材は、ただ「そういう存在がいたとしたら」と存在を描写するだけで読む側に「人間ってなんなんだ」と、問いをつきつけてくる。

先ほど物理的な側面と精神的な側面どちらにしてもダークだ、と書いたが、そうした「人間についての問いかけ」をついついしてしまうのは継ぎ接ぎの人体や意識についての問いかけを読んだときだけではない。同時に描かれるのは「人間精神の多面性」だ。身体が人と違うだけではなく、心の持ち方、ありようが様々な方向へ向いている人たちが出てくる。

こちらが大まかに言って精神的な側面でのダークさにあたる。一例をあげれば、同性愛者か。精神的マイノリティ性と、「遠慮のなさ」。行き過ぎた恋心は恋愛障害の排除に向かい、行き過ぎた愛情はむしろ相手を大いに苦しめることになる。人間なんてもういやだ、ひとりで生きるのだと孤独に暮らす極端な人間、本当に様々な人間精神のあり方がある。

情愛も子を思う母の心も、破滅していく人類を嫌って誰とも関わらずに生きていこうと孤独の道を進むのもどれも、そこだけ見れば普通の、人間的な反応だ。それが行き過ぎたときに「誰もが思っても見ないこと」が起こる。状況はSFなので人間の行動もSFの領域に入っていくがその根底にあるのはこうした人間誰しもが持つ情念、望みであるために精神面でも人間性は拡張されていくのがおもしろかった。

狂い狂わせ切って繋ぎ愛し愛され失望し、いったいどこからどこまでが人間でどこからが人間でないのか。意識があるとはどういうことなのか。意識がいかにしてうまれるのか、また意識があるようにふるまっている存在に本当に意識があるかいかにして確かめればいいのかというのはSFが延々と問い続けてきたテーマであるが、本作での回答は今まであまり読んだことが無い「意識の発生のさせ方」でSF的な意味でも充分に楽しめた作品になる。

崩壊しつつある人類、謎の奇病、つぎはぎだらけの美少女、人造のフランケンシュタイン、人造であるがゆえに悩む「意識」と「存在意義」の話という素敵題材の連続で、どれも大好物だ。2008年に出た本だが扱っている題材が古びない物ばかりで時事ネタをほとんどとりいれていないことも手伝って、今だけでなくこれから先何年も通用する一冊だと思う。

ビスケット・フランケンシュタイン〈完全版〉 (講談社BOX)

ビスケット・フランケンシュタイン〈完全版〉 (講談社BOX)

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