基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

可能性の世界──『僕が愛したすべての君へ/君を愛したひとりの僕へ』

『僕が愛したすべての君へ』と『君を愛したひとりの僕へ』でそれぞれ独立した話なのだが、両方読むとそのリンクが浮かび上がってくる凝った構成の並行世界SFである。斬新極まりない並行世界物というわけではないけれど、魅せ方が新鮮だ。

どちらから読むべきか?

どっちから読んでもいいようだったので、とりあえず表紙をみて「朝から夕方に移行するほうが自然かな」と『僕が愛したすべての君へ』から読んだのだが──、どっちから読んでも良いなあこれは。『僕が愛したすべての君へ』から読んだ場合は「いったいぜんたいあれは何だったんだ??」と疑問に思ってすぐに『君が愛したひとりの僕へ』を読みたくなるだろうし、こっちを先に読んだ人は「た、たのむーー!!」と思いながら『僕が愛したすべての君へ』を読んでみたくなるだろう。

大雑把に分けてしまえば『僕が愛したすべての君へ』は喜劇で、『君を愛したひとりの僕へ』は悲劇といったところか。これ以後あんまりネタバレしないように世界観など多少紹介するが、「どっちから読もうかなあ」という人は参考にされたし。「どっちかだけまず読んでみる」ということなら『僕が愛したすべての君へ』を推奨。

世界観とかあらすじとか

舞台は平行世界の存在が実証されている世界。

人間は日常的に、無自覚に平行世界を移動していることがある日判明する。身体が移動するのではなく、意識のみが(時間は常に現在の自分と同じ歳である)並行世界へと入れ替わってしまうのだ。多くの場合、近くの並行世界へと移動するだけで違いは朝食が米だったかパンだったかぐらいしか存在しない上に、基本的には放っておけば元に戻るようなので、この現象は発見されるまでにはかなりの時間が必要とされた。

しかし最終的には発覚し、専門の機関によって並行世界移動現象への研究が進むことで「自分がゼロ(生まれた時の世界)からどれだけ離れた世界にいるのかを測定する装置」、通称IPが作り出され、世界移動は日常の一部になっている。主人公は二冊とも共通して高崎暦だが、少年時に発生した両親の離婚で、父親と一緒に暮らすか母親と一緒に暮らすかの選択をすることで作品ごとにルートが(付き合う相手も変わってしまうので、なんだかエロ/ギャルゲー的な趣がある)大きく分岐していく。

『僕が愛したすべての君へ』で高崎くんは母親と暮らしている。ある日クラスメイトの滝川和音とあることをきっかけに恋に落ち仲を深めていくが、この独特な並行世界設定ならではの問題が多々発生する。たとえば、「僕は君が好きだ」とはいっても相手は日によって時間線がちょっとズレた相手である可能性が存在してしまう。1とか2だったらたいしたズレではないが、それでもたとえばいわゆる初体験の日とかだとどうだろうか? あるいは、結婚式の日に起こっていたらかなり気まずいだろう。

10のズレが存在し、一人称が僕から俺へと変わっている自分も自分なのだろうか?とかいう複雑な問題にいくつも直面しながらも、『僕が愛したすべての君へ』では書名がそのまま象徴しているように(「すべての君へ!」)可能性の広がりをあくまでも肯定するようにして描かれていく。逆に『君を愛したひとりの僕へ』では、そのマイナスとしての側面が主に描かれる。可能性が体験も可能なものとして開けている。

しかしそれが肯定的に語れるのは、「ゼロ世界の自分が他世界と見比べてみても、特別に幸せなパターン」であって他所により幸福な人生があることを知ってしまったらゼロ世界=自分の実人生を肯定するのは難しい。たとえば、愛する人が亡くなってしまった世界で──並行世界では幸せなその人が生きていたら、並行世界を体験できない我々の世界にいる時よりも、さらに受け入れがたいはずだ。

たとえ99%幸せな人生であったとしてもそこには1%の悲劇が紛れ込んでいる。可能性の世界を描くのであれば、そういう部分までを描く必要があったということなのだろう。本書は二作を別々に物語ることでその「1%の重み」の違いを相互補完的/相互干渉的に描いていくのが並行世界物として新鮮で、非常におもしろく感じた。

おわりに

あと、ループ物とは言いがたいのだが、ループ物のような読み心地がある。それは本書が無数の可能性にたいしてどのように対抗するのか/受け入れるのかと、決定してしまった可能性に対していかにして対抗するのか/受け入れるのかを描いていくという意味で、「可能性との向き合い方」が一貫して描かれているからかもしれない。

近年の並行世界物としては『クォンタム・ファミリーズ』あたりもオススメ。

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

クォンタム・ファミリーズ (河出文庫)

巨大人型アーマーを用いた宇宙空間チームバトル──『ストライクフォール』

ストライクフォール (ガガガ文庫 は 5-1)

ストライクフォール (ガガガ文庫 は 5-1)

2014年に出た『My Humanity』で日本SF大賞を受賞した長谷敏司さんの2年ぶりの新刊となる。まずそれ自体が待ってました!! という感じでめでたいわけだが、ガガガ文庫からというのは意外であった。もともとスニーカー大賞で金賞を受賞してデビューしているのだから何もおかしくはないのだが、受賞後第一作は早川から何か出すものだと思っていたから。とはいえ作品はジャンル的にはSFである。

ゴリゴリのジャンルSFといった感じではないが、宇宙を舞台にした速度と軌道のスポーツであるロボット・バトル「ストライクフォール」を小説ならではの緻密さで描いている。さらに1巻の時点ではあまり前景化することはないが進行している世界の背景──宇宙大戦、各国の陰謀、技術背景──などなど深掘りしていくと無数に仕込んで有りそうで(何しろ『円環少女』の長谷敏司なのだ)、いやー本当におもしろい一冊だ。切実に三ヶ月に一冊ぐらい出してほしい。

簡単に世界背景など

そもそもロボット・バトル? と疑問に思うかもしれないので、まずは簡単な世界観説明を。この世界では《宇宙の王》を名乗る異邦人が万能の泥をもたらし、人類はそれを加工することで人工重力や強力なエネルギー遮蔽技術といった、原理を理解できない超技術を手に入れている。泥が宇宙空間から採取されたことから人類は宇宙へと進出し、度が過ぎた力は人類間に初の宇宙戦争を引き起こす──。

物語が展開するのは、そうした宇宙戦争がいったん和平に向かい、代替手段として「擬似戦争としての競技」が生まれた時代だ。その競技がロボット(作中ではアーマー表記)を使った「ストライクフォール」である。身長は大体6メートル、操縦方法は搭乗者の中枢神経の信号を読み取って、第二の肉体として機能させるスタイルだ。

15人でチームを組んで、リーダー機を破壊したほうが勝ちというシンプルなルールの競技ではあるが、銃も剣もレーザーも、あらゆる武器の使用が許可されている*1ので実質的な戦争である。何より特徴的なのは(まあ、全てが特徴的なのだが)これが宇宙で始まった競技なので、試合は広大な三次元空間で行われること。地球でのストライクフォールであれば重力の影響下で超高機動戦闘が行われる。物を言うのはお互いの相対速度であり、軌道の在り処──戦闘描写は見事の一言だ。

 だが、頭上をとった雄星には、英俊にはとれないオプションがとれる。
 重力と大気摩擦による減速で、ついに上昇が止まった。そして、雲中で自由落下がはじまる。
 雄星は覚悟を決める。両腕を広げて、落ちながら風を体に受けた。地球の大気を抱くように、練習機の巨人の体で受け止める。雄星の体が空を滑る。一トンの練習用アーマーが、それでもスカイダイビングのように予測位置を目指して落下してゆくのだ。重力が彼を導く。

ロボバトル版タッチ

主人公の鷹森雄星はこのストライクフォールでプロを目指す17歳だが、その弟である鷹森英俊は既にその実力を評価されプロの一軍入りが決定、間近にデビュー戦を控えたいわば「天才」である。雄星自身も高い/独特の能力を持っているのだが、それを遥かに超える弟──とくれば「タッチ」やら、「宇宙兄弟」がすぐに思い浮かぶ。その上、この兄弟には幼なじみの美少女がおり、実質的な恋敵状態でもある──となれば「それタッチで見たよ」というほかないが、何しろロボ・バトルだからな。

今巻でメインになるのはそんな兄弟をめぐる物語だ。この二人は幼なじみをめぐる対立だけでなく、地球を脱出しその実力を認められつつある英俊が「重力を振り切ること」を目指し、雄星は地球に残り幼なじみの女の子や育ててくれた家族と共にいることに価値を感じ「重力にとらわれている」という価値観上の対立が最初存在している。その対立は戦術を含む物語の多くに反映されているのが構図としておもしろい。

スラスターの加速と全身運動を連動させて空中で行う武術を使う技を、雄星に教えたのは武藤コーチだった。それはストライクフォールで遅れをとる地球選手たちが、宇宙のライバルに勝つため編み出した未完の技術だ。地球文化が育んだ武術を、重力がなく地面を踏むことも蹴ることもできない宇宙空間で使うのだ。

宇宙にいると重力がないように感じるとはいえ、この世界のどこにいてもほぼ全てに重力は左右している。地球の重力を振りきっても太陽が、太陽を振りきっても銀河系の重力が待ち構えているがゆえに、我々は常にどこかへ向かって「落ち続け」ている。であればこそ、個々人に可能なのは「軌道を変更すること」「重力を振り切ることによって、また別の重力にとらわれること」だけでしかないのかもしれない──。

果たして兄は最終的にプロ入りし、優れた弟を超える、あるいは同じチームでプレイすることができるのか、そして幼なじみは二人のうちのどちらが好きなのか──という話に終始するかと思いきや、物語は後半で大きな転換を迎える。スピーディに展開をすっ飛ばしてきたな──と思わせる怒涛の進行で白熱の宇宙アクションへと繋がり、本書を半ばまで読んだら止まらず一気に読み終えることができるだろう。

おわりに

全何巻構成なのかはわからないが、1巻の段階ではほのめかし程度にしか明かされていない設定がずいぶん気になる。たとえば今の太陽系は《宇宙の王》が遺したとされる物体から速度を奪う巨大な球体に包み込まれており、太陽系から1.6光年から遠くには進出できないが、「その先には何があるのか」──という問いかけは、明かされると物語の前提が一変してしまいそうな底しれなさがある。

ストライクフォールは人死にが出ないよう配慮されているが、この間まで宇宙戦争をやっていた人類であるからその関係の展開も広そう(再度宇宙戦争が起こるぐらいのことはやりそう)。何にせよ、新シリーズの幕開けとしては文句ないおもしろさ。

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

My Humanity (ハヤカワ文庫JA)

*1:大規模なダメージが発生すると衝撃吸収が行われるが、わりと死人も出る

戯言シリーズがアニメ化ですってね。『人類最強の純愛』

人類最強の純愛 (講談社ノベルス)

人類最強の純愛 (講談社ノベルス)

言わずと知れた西尾維新、そのデビュー作である〈戯言シリーズ〉のスピンオフである最強シリーズ第2作目である。とはいえそこまで前作『人類最強の初恋』とのリンクがあるわけでもないので、本書から読んでもよいだろう。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
書名から「恋愛ものなのかな?」と推測して読んだ人は本を放り投げかねないので先行説明しておくと、前作はともかく本書には一般的な意味での恋愛要素はない。

著者あとがきから言葉を借りれば、『この最強シリーズは、人類最強の請負人である哀川潤と釣り合う存在を探そうと言う、言うならば広義の婚活として書き始められたところもあるんですけれど』とあるように人類にあまり敵がいなくなってしまった彼女を主人公とし、「何が敵足りえるのか」を模索するような一作になっている。

そのせいで前作からこっち、人外が出てきたり宇宙に行ってしまったり、本書ではまったく別の生命体が出てきたり「人類最強の熱愛」時間を超えてみたり「人類最強の求愛」深海にいったり「人類最強の純愛」ともはや人類最強の耐久試験じみた展開を繰り返している。そうした展開について、いくつかの理由から前作では「つまらんなあ」という感想にたどり着いてしまったが(詳しくは前の記事を参照)、本書では「一周回っておもしろいかもしれん」と思うようになった。

これまで築き上げてきた〈戯言シリーズ〉の世界観を崩しかねない超常現象の数々にあえて対峙させても哀川潤さんがそこまでおもしろい反応を返さなかったり、そもそもノリきれない語りなど難点はあるが、逆にいえば世界観を台無しにしかねないような挑戦的なことをやっているわけで、その振りきれたナンセンスさは新鮮だ。「どうも変だなあ」と読んでいて思うのだけど、その変さもまたよしというか。

それもまあ「単品の作品として読んだ時の評」であって、2作とも「語りや問答を通して哀川潤のさまざまな側面を描きだす」ことには成功しているし、今回は懐かしの赤神イリアさんや天才たちのつどう鴉の濡れ羽島、2010年のメフィストに載っていた、他者視点から哀川潤を語る「哀川潤の失敗」が2篇入っているので戯言シリーズファン的に価値のある一冊であることは疑いようもない。

今後もシリーズは第3作目「人類最強のときめき」へと続いていくようだが、この特殊な婚活はどこかにたどり着いてみせるんだろうか。「最強」に釣り合う概念とはいったいなんなのだろう。できれば、彼女の死までを描いてほしい──というのは僕の勝手な願望だが、そこまでいかずとも彼女の変化が見てみたいと思う。

戯言シリーズのアニメ化

それにしても戯言シリーズがアニメ化ですってね。

それ自体は別にそこまで驚きではないが、アニメ化嬉しい人もアニメ化してほしくない人もこのニュースに強烈な反応をしていて僕的にはそちらのほうが驚いた。放心状態になっていたり、「これこそが我が青春」とばかりに語りだしたり、やめてくれと嘆いていたり。僕が戯言シリーズを読んだ時はネットの反応をみたりといった習慣がなかったし、今ではうまく想像もできないけどSNSもやってなかったから「どのように受け入れられている作品なのか」をほとんど知らないまま楽しんでいたけれども、そんなに熱狂的に受け入れられていた作品だったのか。

大量のパロディやオマージュで成り立っていながらも、同時に革新的というか、他にない作品だったのはたしかだ。まるで一秒も考えずに射出されているような会話劇と展開に、意味があるんだかないんだか判然としないが語感はいいしかっこいい決め台詞の数々。話の本筋に関係があるんだかないんだかさっぱりわからない、ただキムチを食っているだけの場面が異常におもしろく、いったい何を食ったらそんなに無尽蔵に二つ名や能力名や奇天烈なキャラクタが生み出せるんだというぐらいに針の振りきれた表現──と、凄いところをあげればキリがない。

僕がシリーズを読んだのは受験をせねばなと考えている高校生2〜3年の頃だったが、疲弊した身体と心に「自分の好きなものをありったけ全部載せた」かのような作品が実によく馴染んだ。当時の彼が好きだったものは、当時の若者が好きだったものとシンクロしていたのだろう。作風の背後に「これまで影響されてきた作品」が明確に透けて見えるにもかかわらず、あくまでもすべてが西尾維新作品として統合されているところが今思い返してもすごかったなと思うのである。

その後も会話劇は化物語で炸裂し、能力バトルや脅威の能力名無限生成能力はめだかボックスやりすかシリーズや伝説シリーズで個別に深掘りされ、ミステリ方面は世界シリーズや忘却探偵シリーズにて展開されていくわけであるが──こうして振り返ってみるとそのすべてが未熟だったかもしれないがとにかく全力で盛り込まれていたのが戯言シリーズだったと、少なくともそれぐらいは言えるだろう。

作家・西尾維新の代表作は知名度でいうならば、今では「化物語」およびそのシリーズということになるのだろうが最高傑作は何かと問いかければ、多くの人が〈戯言シリーズ〉を挙げるのではないかと思うのである。『すべてがFになる』もアニメ化されたし、青春が後ろから殴りかかってくるというか、パワーアップして前に立ちはだかる日々である。この勢いで史上最高のミステリ『コズミック』もアニメ化して、世界中の人にテレビ(と今ではパソコンか)を壁に投げつけてほしいものだ。

ちなみに戯言シリーズは電子書籍化がはじまっているけれど、電子版あとがきがついているので買ってもいいかもしれない。電子版『クビキリサイクル』のあとがきは、どのようにしてこの作品が書かれたかの暴露でじーんときてしまった。

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

変身ヒーロー meets モンスターハンター──『生存賭博』

生存賭博 (新潮文庫nex)

生存賭博 (新潮文庫nex)

『パンツァークラウン フェイセズ』三部作によって読者側からしてみれば新人賞をとったわけでもないのに「いったいぜんたいどこから出てきたんだ」的なデビューを果たした吉上亮さんだが、その後PSYCHO-PASSシリーズのスピンオフノベライズをほぼ理想形ともいえるようなクォリティで次々と書き上げてきた。

デビュー作はかなり荒削りな部分があったように思うが、PSYCHO-PASSのノベライズや時折発表されるオリジナル短篇の出来が素晴らしいこともあって早く今の実力で書き上げられたオリジナル長篇が読みたいと思っていたので本書にてようやく夢がかなったことになる。これがデビュー作当時のパワーはそのままにやっぱり明らかに洗練されていて、「おお、うれしー」と素直に喜べる出来だ。

そんでもって──『生存賭博』って書名だったら誰でも「そうか生死を賭けたギャンブル物か……SF版カイジ……アカギみたいな……あるいはマルドゥック・スクランブルのカジノ・シーンのような……」と思うだろうが、読み始めてすぐに気がつく──「変身ヒーローが出てきて、それも怪物と戦っているじゃねえか!!」

というわけで本書『生存賭博』は変身ヒーロー meets モンスターハンター みたいな感じの一冊である。とはいえ賭博の要素も作品に存在しているので、その辺はここから紹介していこう。個人的におもしろかったのは変身ヒーローだけでなくその上都市の物語でもある点で、デビュー作と重なる部分が多く、そんなに変身ヒーローと都市が書きたいのかというか、業の深いものがあるなと思った。

世界観とか

舞台となるのは世界中で厄介者扱いされてきた者たちが押し込まれ、ドイツに存在している巨大な隔離都市「ミッターラント(狭間の都市)」である。辺境も辺境の地方都市なのだが、ある時ここに正体不明の怪物「月硝子(デイブーム)」が出現する。

生物のようで、けっして生物ではない。一切のコミュニケーションが通じない異質な相手。ただ、人間を襲うだけの殺戮機械。塩で出来た月硝子たちは、夜毎に姿を現しては、蹂躙を続けた。彼らは日の出を迎えると亡霊のように消える。そんなことがずっと繰り返されてきた。

月硝子専門の鎮圧部隊が到着するまでの被害をおさえるために、一部の市民は命を賭けて囮役となって都市の平和を守ってきた──。月硝子なんてもんが出現したせいでミッターラントは世界から隔離される。配給に依存し、滞りがちな金の流れを生み出すために自然発生的に生まれたのが「囮を担った志願市民たちの生存結果を予測する賭博」である。なんという悪趣味な、と思うがこの残虐なショー/賭博は莫大な金の流れをつくりだし、黙認された非合法なシステムでありながらも都市にとっては代名詞的存在となり、なくてはならないものになっていく──。

あらすじとか

主人公の琉璃は不忘症候群であり、なんでも記憶できる/してしまう特異な体質の持ち主である。その能力を活かして過去50年分の「生存賭博」の結果を頭にインプットして、最大13名の志願市民からいったい「どんな傾向を持った人間が生き残りやすいのか」を導き出して、賭けでは常勝といっていい勝率の高さを誇っている。

そんな能力を活かし彼女は自身が胴元になる事業も行っていたが、ある時発生した決定的なイレギュラーが発生する。本来は「志願市民が最後の一人になるまで鎮圧部隊はやってこない」はずが、その日はなぜか月硝子が撃破され、12名の生存者が残ってしまったのだ。胴元である彼女はこんなの賭けは無効だと大量の払い戻しを求められ、ウハウハ賭博生活が一転払いきれない負債を抱えることになってしまう。

そんな「奇跡」を引き起こしたのは〈騎士〉と呼ばれる存在で、その後も戦場に乱入しては人々を助けて去っていくまさに騎士的な存在である。琉璃は払えない負債から逃れるために、騎士についての調査を依頼され生存賭博の志願市民としてまぎれこむことになるが──。とまあ、ようはこの〈騎士〉が変身ヒーローにあたる人物だ。

変身ヒーロー meets モンスターハンター

〈騎士〉は通称〈鎧透〉を着込んでいる。これは使用時は拳を握りこみ、結晶体で血管を傷つけることで「装着者の肉体を一時的に月硝子とほぼ同質に置き換える」仕組みだ。驚異的な力を持つ敵を倒すために、自身も敵の力を取り込んでみせる、しかも体に毒を流すようなもんなので変身には時間制限がある──というのは実に「それだよそれ!」感があっていい──ってそれはまあおいといて。

月硝子には1年に1回、12月24日の深夜から翌日の夜明けまでの8時間のみ、「巨種」と呼ばれる普通のやり方では殺せない上にただでさえデカくて強いやつが存在する。こいつが出てくるときは通常の生存賭博は行われず、〈生存賭博・騎士の決闘〉と呼ばれる、「〈生存賭博〉の年間生存者から選抜された5名が挑戦者チームを結成し、〈疎国〉の対月硝子に特化した近衛兵4名を率いるギャングのボス=ヴァイゼマンに勝負を挑む」ゲームが開催される。このゲームに勝利したものは、この都市の支配権を牛耳って、あらたな王として君臨できるようになるのだ。

それは同時に、「支配者をして君臨することで、その者は何を望むのか」を問いかけていることに等しい。〈騎士〉や琉璃は紆余曲折ありながらも共にこのゲームに望むことになるわけだが、果たして彼女らはこのグロテスクな街へと何をもたらそうとするのか。誰からも見捨てられた場所として存在していた、都市/街に意味を与え、革新させていこうとする流れは正しく「都市の物語」ともいえる。

とかそんなことはおいても5人の選ばれし戦士たちが巨種や小型、中型の敵を相手にして狙撃による進路誘導、火力担当がとどめを担当し、周辺情報の探査と「モンスター相手のチーム戦」が十全に描かれていくのは実に心躍る読書体験だ。使用武器についても狙撃武器から変身鎧に、稼働時に2000℃を超える高熱を帯びて対象を焼ききるサムライ・ソード持ちとケレン味にあふれている。

忘れてはいけないのがこれがただの「モンスター相手のチーム戦」ではなく、同じくモンスターを相手にする敵チームとの競争でもあるという点だ。琉璃はその完全記憶を活かして戦略、人間を相手にする「知的格闘技」としてのゲーム戦略を担当することになる。「なんだ、モンスターハンターじゃないか」と序盤侮っていたらここにきて肉弾戦・頭脳戦の異質な組み合わせが現れるので随分と驚かされた。

ちなみにモンスターハンターを例に出しているのは僕にあんまりゲームとかの知識がないだけなので思い当たるものがあるならばそれを頭のなかで勝手に代入してくれ(例:ゴッドイーターとか)

こういってしまってはなんだが

とはいえ夜毎に姿を現しては朝には消えている大型から小型の化物とか「なんてサスペンスに都合のいい設定なんだーーー!!」という感じだし、生存賭博が都市の根幹になってしまった状況の理屈なんかも強引に思う(前者はたぶん続刊があれば背景が明らかになると思うが)。それでもヒーローが変身して巨大生物と闘いながら、それが知的遊戯と接続されるのは異質で独特の快感があって、最後まで読むと「ま、おもしろいからいっか」と精算されてしまうだけの魅力がある。

本書でちゃんと完結しているが、エピソード・ゼロじみた内容でまだまだこれからともいえる。売れたら次が出る可能性もあるようなので、続きが楽しみだ。
EINSATZ KAVALIER OVERTURE ティザーサイト
ちなみに、著者がかつてシナリオを担当していた同人?ノベルゲームが原案になっているみたいですね。

未曾有の惨劇が展開する激動の第二巻──『セルフ・クラフト・ワールド 2』

セルフ・クラフト・ワールド 2 (ハヤカワ文庫JA)

セルフ・クラフト・ワールド 2 (ハヤカワ文庫JA)

あの芝村裕吏が仮想世界ゲーム物を書くと聞いて(読んで)大興奮しながら1巻を読んだものだが、いやはやこの2巻には完全に1巻の興奮を越えていく驚きがあった。全3部作のようだが、明確に「2」とつけられていることもあって続き物なので、具体的な本シリーズの世界観や特徴は1巻の時に記事をを参照してもらいたい。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
大まかな1巻の概要と世界観だけは本記事でももう一度紹介しておこう。

世界観とか1巻のあらすじとか

〈セルフ・クラフト〉とは作中の日本唯一の国営ゲームである。もともとは特に独創的なデザインなわけでもない、民間が運営していた一般的な異世界ファンタジーで、特徴としては武器や家までなんでも自分でつくれることから〈セルフ・クラフト〉と名付けられている。だが、ある日アクセス数が減少していく状況への打開策として、ゲーム内部で生き物や人物をつくりあげ、進化する自動生成・自己改良システムを導入したところ『爆発したのは生命だった。』という特異な事象が発生する。

ようは人間が思いもつかない合理的な構造を持った生きものが自動的に生まれ続け、〈セルフ・クラフト〉の生き物から特殊な技術を輸入できるようになった。生物の構造からヒントを得て軍事産業などに活かすわけだ。『国内に突然数百万人の天才技術者が生まれたようなものだった。』との記述通りに日本の技術は人間の能力を超えた速度で進歩し、世界の技術レベルを大きく変えつつある──というのが現状である。

1巻においては、そんな〈セルフ・クラフト〉世界で楽しんでいるジジイGENZを主人公として、熊本弁を喋るAIの女の子との恋に落ちていく過程や、なぜか日本でしか特別な進化をしなかった〈セルフ・クラフト〉の技術的な価値を狙ってやってくる国家的な脅威に対抗する、主に「ゲーム内の描写」がメインストーリーであった。

2巻のおもしろさ

続く2巻では、GENZの存在は後ろに下がり、彼の旧来の親友であり現在は日本国首相である黒野無明が中心人物となる。彼は〈セルフ・クラフト〉のゲーム・プレイヤーではないが、ゲームなしには立ちゆかなくなりつつあるこの世界においては現実側の物語であっても中心となるのはやはりゲームだ。日本の技術的な優位は〈セルフ・クラフト〉にしか存在しないのだから、それを守るのは最優先事項となる。

個人的にずいぶん楽しませてもらったのは、この未来の世界/社会情勢が書き込まれていく部分である。〈セルフ・クラフト〉がある世界で、という条件があるとはいえ芝村裕吏さんの考える未来予測と近しいものがあると考えていいのではないだろうか。少子化が進行し続けた結果、少子化でなぜいけないのか、子供を作ろうとか増やそうというのは「遺伝子主義者だ」などといって嘲笑と攻撃を加える人々の描写など、今は想像もつかないだろうが僕は「ありそうだなあ」と思った。

AIの進化は著しく、かなりの仕事を奪っているが、日本の失業率はそう変化していないようだ。これは少子化でそもそもの労働人口が大きく減っていることが関係していると思われる。個人のやりとり、行動などの情報から自身をAI化する技術も生まれておりこれは1巻から引き続いて2巻でも重要な部分となる。社会保障費の増大は結局のところ自己負担率を増やしたため、国民の平均年齢はどんどん短くなっている(金と治療がないと老人は死ぬため)のもまあシビアだけど一つの解だろう。

重要なのは世界情勢の部分で、〈セルフ・クラフト〉技術によって日本は兵器の性能も格段に上がり続け、現代とはかなり国際秩序の保たれ方が変わっている。芝村裕吏さんが早川書房で別個で出している『富士学校まめたん研究分室』で描かれた小型の無人戦車もその機能を増していることが明かされるなど、国家間の緊迫感は現代の比ではないレベルまで高まっていることが端々から了解されてくるのだ。

転換期の話

これでも一部分だが、こうした細やかな社会背景が、サラっと語られていくので改行が多く読みやすいにも関わらずその情報量にびっくりしてしまう。で、当然重要になるのはこのような背景情報からいったいどのような物語が紡ぎだされるのかだが──何を書いてもネタバレになってしまうのでこれ以上は具体的には語れん! 

結局、仮想世界における情報量が現実と匹敵するようになってきた時に何が起きるのかという一種の転換期の話なのである。前巻主人公のGENZは、AIと本気で恋愛していることを「ゲームだぞ」と茶化されても、『「ゲームでもさ。老人にとって現実は〈セルフ・クラフト〉に劣る」』と言い切ってみせる。杖をついて自由に身体が動かせない。もう昔のように仲間とバカをやることもできない。そうなってしまったが最後、「老人にとって現実は〈セルフ・クラフト〉に劣る」のである。

そうなってくると、いざゲーム内で新たな社会を──となった時に今度は新天地ならではの思想や社会制度の再構築が行われる。果たしてそこでどのようなシステムが生まれえるのか──と、だいたいそんなような話だと思ってもらってかまわない。

セルフ・クラフト・ワールド 1 (ハヤカワ文庫JA)

セルフ・クラフト・ワールド 1 (ハヤカワ文庫JA)

以下ガッツリネタバレゾーンである。

続きを読む

TCGプレイヤ視点の能力バトル物──『悲亡伝』

悲亡伝 (講談社ノベルス)

悲亡伝 (講談社ノベルス)

2段組ノベルスで平然と500ページを超えてくるあのシリーズがかえってきた。

壮大にして膨大にして長大な四国編が終わったかとおもいきや、新しく世界編がはじまったこの伝説シリーズ。これがまた長い、長すぎる。しかも恐ろしいほどに話が前に進んでいない。もちろん、その明らかに一貫して一巻ごとが長いこの構成は狙って行われているものであり、下記記事で何度も書いてきたがそれが「面白さ」に貢献しているのも確かなのである(本記事でも後述する)。○○編ごとに話がわかれるので、この記事を読んで気になった人は本書『悲亡伝』から読んでもあんまり問題ないぞ。
「作戦検討型」能力バトル物の極北──『悲録伝 (講談社ノベルス)』 by 西尾維新 - 基本読書
悲業伝 by 西尾維新 - 基本読書
悲報伝 (講談社ノベルス ニJ- 32) by 西尾維新 - 基本読書
死刑執行中脱獄進行中『悲惨伝』 by 西尾維新 - 基本読書
読者が『悲痛伝 』(講談社ノベルス):西尾維新 - 基本読書
悲鳴伝 - 基本読書

作戦検討型能力バトル物

この伝説シリーズの概略を簡単に説明すると、あらゆる感情を持たず、それ故クールに生き残るための判断を行うことのできる空々少年を主人公として、人類の殲滅を目論む「地球」と戦うお話である。地球は突如すさまじい悲鳴をあげて人類の3分の1を殺すなどめちゃくちゃなやつだが、人類側もやられてばかりいるわけではなく科学技術やそもそもなんか凄い超能力みたいなものを持っている人たちを動員し、人間の中にそうとはわからないように紛れ込む「地球陣」と戦っている。

何しろいきなり人類の3分の1が死んでしまうようなめちゃくちゃな状況なので、殺し屋拷問など超法規的措置が平然ととられる。地球撲滅軍に所属し、ヒーローとして活動する空々くんは、敵性能力者などと戦いつつ、その冷静な分析能力と判断力によって、明らかに自分より格上の能力者を倒してきたのであった。その傾向が極まったのが、閉じ込められた四国で様々な能力を持つ魔法少女達とのデス・ゲームに巻き込まれ、複数対複数のチーム・デスマッチを繰り広げる四国編だ。実質ジョジョやね。

もちろん敵がどんな能力を持っているかなどわからない。ひょっとしたら心を読んでくるかもしれない、水を操る能力かもしれない、透明になるかもしれない。対してこちらはこちらで複数の能力者がいるので、そうした能力を組み合わせて何ができるのかを検討する。全ての可能性を考えながら、生き残りをかけて「作戦を検討」していく、それがこの長さに繋がっているのであり、面白さでもあるのだった。

TCGプレイヤ視点の能力バトル物

四国編を「魔法少女」と「バトルロワイヤル」に重点をおいて描いてきた編であるとするならば、本書からはじまった世界編は、「大規模チーム戦」に重点を描いた展開といえる。空々くんは、四国編までは基本的に現場で身体をはって、多くても3〜5人ほどの人間をまとめあげ、その場で作戦を練って行動を決定してきた。それが本書からは打って変わって、12人ものチームメンバーを率いて個性豊かな能力と才能と性格を考慮し指示を出すチームリーダーとしての戦を展開することになる。

もちろん、四国編でも彼はリーダーだったし、複数対複数のチームバトルをやっていたのだが、今回は人類軍の中に裏切りの組織がいるかも──ということで、ツーマンセルのチームを組んでロシアやイギリス、中国といった世界中へと散らばっていくことになる。そうなると彼はもはや現場で全員に対して細かい現場指揮をとれる立場にはない。個々人の癖や能力、人格を考慮しペアを決定し、それがいった先でうまく機能するかどうかを祈る上位指揮官となったのだ。

あいつはバカだから機転の効くやつと組ませないとという消極的理由からくるペアもあるし、お互いの能力を活かして積極的にシナジーを発揮させるようなペアもありえる。本書ではまるで効果的なデッキを構築する思考過程を追うように、ペアを決定する理屈を延々と述べていくが、これは作品が「主観視点で行う能力バトル物」から、司令塔となってクリーチャーに命令を出し全体の指揮をとるMTGのような、「TCGのプレイヤ視点の能力バトル物」へと切り替わったようなものだ。

この傾向は意図的なものだろう。何しろエピローグの活動報告には空々くんの采配を評価するような視点が挟まれ、最後には一人一人の武力や行動力や運、対人能力などを円で示したデータが載せているのだから。相変わらず遅々として進まない話ではあるが、毎度毎度話のスケールは大きくなるし(四国から今度は一転世界だ)、能力バトルの形式もどんどん切り替わっていく、やっぱり面白い部分は面白いのだ。

作戦検討型能力バトル物の極北を読みたいのならば一読をオススメする。

山田風太郎系能力バトル物の極北──『ダンゲロス1969』

ダンゲロス1969

ダンゲロス1969

これはまたえらい小説が出てしまったものだ。ガンガン人が死ぬ、敵の能力を読み合って、チンコやマンコを武器に戦う異常な能力者たちの物語が読みたいという奇特な人間がいるならば本書を是非読むべきだ。下世話で身も蓋もなく、それでいて無茶な理屈がきちんと通っている、そんな能力バトル物として本書は極北ともいえるべきぶっちぎり方をして走り抜けていった傑作であるからして。だが人は選ぶ。

本書『ダンゲロス1969』は、講談社BOXから出ていた架神恭介さんによる『戦闘破壊学園ダンゲロス』及び第二弾『飛行迷宮学園ダンゲロス』に連なる、多様な能力者が跋扈して戦力を削り合うシリーズ物の一冊。登場人物も時代もほぼ異なるので独立した能力バトル物の長篇として読める。『戦闘破壊学園ダンゲロス』は今ジャンプで『背すじをピン!と~鹿高競技ダンス部へようこそ~』を連載している横田卓馬さんがコミカライズしていることもあって知っている人が多少は多いかもしれない。

戦闘破壊学園ダンゲロス(1) (ヤンマガKCスペシャル)

戦闘破壊学園ダンゲロス(1) (ヤンマガKCスペシャル)

ちなみに、この『ダンゲロス1969』が講談社BOXからではなく著者自身による電子書籍出版のみであることは特記しておく必要があるだろう。物理的な本としては出ていないのである。事情はAmazon電子書籍って儲かるの?作家・架神恭介に聞いてみた | 株式会社LIG によると、「長すぎてダメ」と講談社側に却下されたけど作品のクォリティを保ったまま削りきれなかったようだ。

あらすじとか用語解説とか

『戦闘破壊学園ダンゲロス』で天下の悪法と評された、学校を一種の治外法権化する「学園自治法」がなぜ成立するに至ったのかを解き明かす物語だ。書名に1969と入っていることからもわかるとおり、モチーフになっているのは、この現実でも実際に行われた安田講堂事件──学生の自発的組織である全学共闘会議および新左翼の学生が安田講堂を占拠し、大学から依頼を受けた警視庁が封鎖解除に動いた事件だ。

現実の安田講堂事件と大きく違うのは、この世界には普通の人間が何らかの出来事をきっかけに普通の人間が持ち得ない能力を持ってしまった魔人がいることだ。当然魔人は社会では差別を受けていることが多い。この世界での魔人学生らを中心とした学共闘(複数のセクトが存在する)と、そのまとめ役であるド正義克也が提唱する「学園自治法」とは、そうした社会の思想的影響から学園と学生を保護することが目的であり、実際に現在法案が通るか通らないかの瀬戸際のところまできている。

学共闘陣営の目的はつまり、「学園自治法が通るまで、安田講堂を運動の象徴として保持し続ける」「その姿をマスコミに流し続けることによって世論を味方につける」ことである。一方で、警視庁側もそれを黙ってみている訳にはいかない。東大は入試もやらなければいけないし、入学式だってやらなければならない。かくして、命がけで安田講堂を死守し「学園自治法」を通過させようとする学共闘側と、それをなんとかして武装解除して出来れば殺さずに無力化させんとする警視庁側の大いなる戦いが始まるのだ。ただし、そいつらは全員キチガイじみた能力者である!

異常な能力者たち

と、ここまで読めば真っ当に作りこまれている集団能力者バトル物だなあと思ってしまうかもしれないが、実際読んでみればすぐに本書の異常性に気がつくだろう。何しろ能力のほとんどが精液だとかマンコウンコチンコに関わるものであり、関わらないにしても狂ったような能力ばかりである。本書の能力バトルはたいていは明かされない状態でお互いがお互いの能力を探りつつ判明していく過程が面白いタイプでもあるので、この記事で全てを明かす訳にはいかないが一部を紹介すると──。

〜変態編〜

閑話休題。魔人公安の刑事、魔人あんかけの能力は、『天上TENGA』。片栗粉からオナホールを作り出し、それを操る魔人である。通称はオナホ刑事。魔人公安は石動口止めの保険として、彼の股間にこのオナホールを取り付け、一生取れぬ呪いを掛けたのであった。

これはさしもの狂華も色を失う。彼女の能力『トリカブト』は、彼女の指定する空間座標へと男性の一物を現出させる能力である。一物は地球人類の成人男性の中からランダムで選ばれ、選ばれた人物の股間からは唐突に一物が消え、「Oh!」などと叫んでいるうちに、一物は狂華の指定する空間座標へ──、主には相手の咽喉の中へと出現するのである。

以来、魔人蟻地獄たまこは、公衆の門前で脱糞をすることにより蟻地獄を生み出す魔人能力を得たのである。

「頭がおかしいのか……」と絶句するぐらいに下品だが、これでも能力者のうちのごく一部である。ダンゲロスシリーズは、もともとTRPGとして設計されたゲームであり(著者が創ったゲーム)、各人が選りすぐりの変態能力者達を考えてきてそれを小説に投入していくので、ちょい役にも異常な能力が大量に設定されている。

そいつらが跳梁跋扈する戦場はウンコが飛び交って咽喉からチンコが次々と生えてきて触手が戦場を飛び交って男女問わずレイプされる地獄絵図と化していくのも必然。だが、もちろん能力者の全員がこのように下品な能力というわけではない、魔人らが立てこもっている安田講堂には条件を満たさないものを絶対に中に入れることのできない論理能力者がいるし、それに対抗するために警察側はウンコを投げ入れて通過するかどうか確認したりといった、地道な論理能力の検証が必要とされる。そうした「相手がどんな能力を持っているのか」の読み合いが楽しい。*1

偵察、索敵、無力化系能力バトル物としての面白さ

〜まともな能力篇〜
安田講堂に集まってきた学共闘のメンツと、それを解散させんとする機動隊の衝突が本書における一大スペクタクルシーンであることはいうまでもないが、実は読みどころはそれだけではない。二十人以上の能力者たちは戦闘に使える能力者ばかりではない。情報収集に適したものもいれば、陣地構築に適したものもいる。札束で相手の頬を張ると、通常の3倍の効果が得られる買収特化能力者がいれば、靴音を操る魔人もおりスニーキングミッションには最適だ。

いざ、決戦! となってしまえばあまり役にたたないこうした能力も、着実に敵陣の情報を集めて状況を構築していく時には実に役に立つ。シリーズはこれまでどちらかといえば集団vs集団のぶつかり合いを主軸にしてきたから(第二作目はミステリだけど)このような直接的に相手に危害を与えるわけではない能力者たちが一つの状況を徐々に進展させていく展開は物珍しく、シリーズ作品とはいっても毎度違う顔をみせてくれる。さらにいえば、まともな能力には直接攻撃系、即死系の能力者もいる。

多少明かしても問題なさそうなところからいくと、この世界には都市、はてには国家や惑星破壊級の能力を持つ魔人能力者が一握り存在する。そのうちの一人魔人星野夜の能力『星降る夜』は『鬼畜米英に苦しめられし幼き少女が夢見たあどけなき妄想から生まれた魔人能力。空からキラキラと輝くお星さまが敵国へと降り注ぎ、おとうさんおかあさん、ともだちのみんなをくるしめるわるいやつらはみんなしぬ。』

↑この手の能力者たちは、たったひとりの存在が全地球規模の虐殺を実行しえる可能性を秘めている。故に、どれだけ魔人サイドを追い詰めたとしてもそれは「勝ち」を意味しない。もし最後に残った能力者が星野夜だったら、相手は自分もろとも地球を壊滅させるかもしれないのだから。警察側も、学共闘側もこのレベルの大量破壊兵器能力者を隠し持っており、それがここぞという場面で発揮されストーリーが予想だにしない方向へと転がり続けていくのだ。

シナジーする能力バトル物

さらに能力バトル物としての面白さでいくと、「シナジーする能力バトル物」としての側面が上げられる。シナジーとはどういうことかといえば、一つではあまり役に立たない能力でも組み合わせることで絶大な効果を発揮するようになることだ。MTGなどのカードゲームではよく使われる言葉である。

たとえば炎とうんこを逆転する能力を持つ魔人が出てくるが、これ一人ではあまり役に立たない。しかしうんこをうまく投げることが能力の魔人が出てくると、この二人は片方がうんこを投げまくって片方がそれを片っ端から炎に変える脅威のシナジーを生み出すようになる。一つでは役に立たないように思える能力が、二つ組み合わせることで途端に脅威になる。あるいは、一つだけで発揮するとすぐにからくりがわかってしまう能力を、複数の能力を組み合わせることで相手に判明するのを防ぐ。

能力バトル物で割合1vs1、あるいはせいぜい2vs2ぐらいでお互いの能力が補完しあうシナジーを生み出すケースはあまり多くないが、本書はそれをメインに能力バトルを根本的に構築していくので「うおおおそんなシナジーのさせ方があるのか!!」と興奮する展開が目白押しなのと、一つでも変態的な能力ばかりなのにそれが組み合わさっていくとなんかパズルでもやっているような快感があるんだよね。

おわりに

電子出版であることから本屋で手に取れる作品でないけれども、AndroidやiPhoneやiPadなどを持っていればアプリを無料で入れて(当然本は有料だが)読むことができるし、パソコン版のアプリもあるので物理的に読めない人はほとんどいないだろう。それ以前に内容の下品さが人を遠ざけるであろうことが残念ではあるが、そこさえ乗り越えてしまえばこれだけ面白い能力バトル物は類するものを他に思い浮かばない。

何より長くなるのでカットしてしまったが、能力だけでなく『愛が浅いわけではない。想いは真剣だ。だが、アトランティス鈴木には小学生女子しか愛することが許されない。悲しき男であった。』というように人間もみな変態ばかりで、このような変態的な思いが実に真剣に書き込まれていくドラマもまた読み応えがある。なんにせよ、唯一無二、似たような作品を探すのは非常に困難である。
[asin:4062837595:detail]

ソシャゲ☓仮想通貨☓世界征服──『世界創造株式会社 1』 by 至道流星

世界創造株式会社 1 (星海社FICTIONS)

世界創造株式会社 1 (星海社FICTIONS)

至道流星という作家が何を書いてきたのか

huyukiitoichi.hatenadiary.jp
『羽月莉音の帝国』の至道流星最新シリーズ。僕はこの人の作品は現状全て読んでいるぐらいのファンではあるが、実をいうと『羽月莉音の帝国』を超えたシリーズは一作もないと思っている。政治とアイドルを掛け算し日本の政治を世界水準まで引き上げようとする変革を描いた『大日本サムライガール』、極道の世界を描きながら世界への復讐譚となる予定だった『東京より憎しみをこめて』、宗教ビジネスを描こうとした『好敵手オンリーワン』など様々に手を広げながらも、どれもどこか弱点がある。

大日本サムライガールは最初はアイドルという宣伝広告としての役割と政治をうまく絡めていたように見えたが次第に話が両者の間で噛み合わなくなっていき(突然終わった)、東京より〜は冒頭の展開が遅すぎてやっと盛り上がってきたと思うところまでが長い(3巻で中途半端に終ってしまった)、好敵手オンリーワンも宗教ビジネスの観点は新しかったもののそれ以外の部分で特に読みどころがなくあっさりと終わってしまった。

いま、世界征服をする意味

そしてこの『世界創造株式会社』である。裏面のあらすじを読んだ瞬間に嫌な予感がしたものだ。「あのね、私と一緒に世界征服してみない?」本書は本当にこの台詞から始まる。それだけだったらはあ、凄い始まりだなあというところだが、実はこれは至道流星さんデビュー作『雷撃☆SSガール』(後に世界征服に改題)とまったく同じテーマなのだ。話の流れもまったく同じ(これは他の作品も大体そう。無茶苦茶壮大な思想を持った女の子が才能を持った男を強引に釣れ出す)。

世界征服 (星海社文庫)

世界征服 (星海社文庫)

いよいよネタがなくなって、幾つもの作品が終わってしまって、元のネタをリサイクルに走ったのか? それはもう作家として終わりでは? と思わされたものだ。一方で「ゼロからリスタートする」ということなのかもしれないと好意的に考えた。確かに第一作はその野心だけがぎらぎらとあって、キャラクタは借り物のようだし(これは今でもひどいけど、ちょっとはマシになった)、まるで進研ゼミのような展開で(これは今でも進研ゼミみたいで、あんまり進歩してない)、作家としての経験値が足りておらず手に余る展開だったようには思う。

本書のあたらしさ

なんか前置きが長くなってしまったけれど、本書は『世界征服』と同様の思想ながらも、まったく違った展開をしてくれるのでその点は安心であった。先に総評から書いておくと、確かにまったく違った展開をして、それはここから先にちょろっと書くがなかなかおもしろい。一方で相変わらずダメなところはとことんダメであり、これが近年の「突然終わった(事情がわからないので打ち切りとは書かないが)」作品群を乗り越えていけるかどうかは今のところまったくわからない。

飛び級でMIT卒業した天才少女日乃原涼香に誘われたフリーゲーム製作者のだいたい大学生ぐらいの年齢三人。それぞれ天才プログラマ、熟練の絵かき、シナリオ・企画者とゲーム制作に最適な能力でそれなりに人生を渡ってきた三人を相手に、彼女が「あのね、私と一緒に世界征服してみない?」と問いかけ、「何をどうやったら世界征服なんてできるんだろう?」とディスカッションがはじまっていく。*1

このあたりの流れは至道流星作品お得意の(ド下手糞な)強引な導入であり、あんまり「納得感」などを求めてはいけない。ともあれこの強引な女の子にそそのかされ、4人で「世界創造株式会社」なる世界征服を目指す会社を創立し、ディスカッションの中で出た二つの案が複合的に最初の事業内容として運用されることになる。

一つは「価値ある仮想世界」を創立することによって、現実よりも人々の生活・重きを仮想世界へと置かせること。仮想世界の概念には仮想通貨も入ってくる。国という明確な管理者がいる国に属する通貨とは違って、グローバル金融システムを根こそぎひっくり返すような新しい通貨システムを構築すること。もう一つは多くの人間がハマり生活を注ぎ込んでいるソーシャルゲームだ。

ソシャゲ☓仮想通貨☓世界征服

作戦の要点はシンプルで、1.ソーシャルゲームをつくる。2.ソーシャルゲーム内のカードや交換用のマネーを仮想通貨として扱う=日本円などと交換可能=実質的に仮想世界上の、仮想通貨を管理する銀行アカウントとする。一般的にはソーシャルゲーム運営側は次第に新しいカードを追加し、能力をインフレさせガチャを回すことを誘導するが、そうした事は一切せずにソーシャルゲーム上のカードは基本的にはユーザ間で取引される通貨として扱われ、発行数は常に公表され制限以上には増やされないとする。

法律的にそんなことが可能なのかとか、システム的にそんなことが可能なのかなどさまざまな疑問が噴出してくるだろうがなにぶん仮想通貨も新しい動きゆえにまだ規制などは始まっていない(これから始まるかもしれない)ビットコイン取引を規制へ 金融庁、仮想通貨の監視強化:朝日新聞デジタル こうして、まずはグローバル金融に根こそぎ仮想通貨で乗っ取りをかける為に多くの人間が嵌り込むソシャゲを使ってそうとは知らずに仮想通貨取引を開始させようとする壮大な作戦が始まるのであった──というのが物語の冒頭部。

その後は、実際にソーシャルゲームがどのような理屈で運営されているのかの説明など、本書でつくられるゲームがどのようなシステムなのかがかなり具体的に書き込まれていくので、そこも読みどころとなる。もっとも、恐ろしく変化が早い業界で、手練手管や規制状況なども1年前とは一変しているような状況なので、描写的にはちょっと遅れているなと思うところや、ノンフィクションではなく小説であるから説明が足りていないなと思うところもある*2

ゲーム関連の描写については著者の友人であるという株式会社ビサイドの南治一徳さんにチェックをお願いしているというし、ほとんどはよく書かれているのだが、2巻3巻と続けていくうちに現実の方がどうなっていくのかは難しいところだ。それは仮想通貨もまったく同じで、ずいぶん危うい物二つを組み合わせてしまったなと正直思う。途中で書いたようにこの物語が至道流星作品の中でどのような位置を占める作品になるのかはいまだ未知数だが、とにかく1巻目のつかみとしては十分に面白い。

ちなみに同じく仮想通貨を扱っている作品に藤井太洋さんの『アンダーグラウンド・マーケット』がある。こっちは仮想通貨が日本で一部の下層民に当たり前に使われるようになった至近未来を描いた小説で、「国が運用する貨幣システム」と異なる貨幣システムが国に生まれることによってどれだけのことが一変しえるのかを実感させてくれる逸品だ。huyukiitoichi.hatenadiary.jp

アンダーグラウンド・マーケット

アンダーグラウンド・マーケット

*1:至道流星作品はテーマ優先の強引なところがあり、なし崩し的にいつも「我々の国をつくろう!」とか「世界に復讐してやる!」とか「日本を変革する!!」と無茶苦茶な目的に邁進していくことになるのだが本書もそのあたりは変わらない。

*2:僕は一応Webプログラマなので、直接的にソシャゲに関わった事こそないものの間接的な形で関わったり現場の話を聞く機会も多い

ファンタジー×就活──『犬と魔法のファンタジー』 by 田中ロミオ

犬と魔法のファンタジー (ガガガ文庫 た 1-19)

犬と魔法のファンタジー (ガガガ文庫 た 1-19)

田中ロミオがファンタジーを書くという。

かねてよりの田中ロミオファンは誰もが「それが真っ当なファンタジーであるはずがない」と思ったはずだし、タイトルからして「犬と魔法のファンタジー」、俗にいうところの剣と魔法のファンタジーをナメくさったようなタイトルだ。実際出てきたものはファンタジー/異世界物、魔法が乱れ飛び特徴的な能力を持った主人公が敵と戦って女の子と仲良くなっちゃったりなんかする物とは随分かけ離れたものである。

異世界ではあるもののそこでは平和な時代が続き、一部の物好きしか冒険には出かけない。冒険のない異世界なんて炭酸の抜けたコーラのようなものだ。それならその世界の住人は何をするのかといえば企業に就職し真っ当に働いて日々の生活の糧を得る。大学の三年の後半から就活に明け暮れ祈られるたびに、140文字の短文を送信できる無料公益魔法ヒウィッヒヒーにつらい現実を吐露する。

主人公はちょっと身体がデカいことだけが特徴的な、何の取り柄もなく就活でお祈りされまくって自分でも意識しないまま涙が出てくるようなダメな大学生だしメインヒロインは周囲の男に色目を使いまくり自分を良いように見せようとする自己顕示欲の高いちょっと痛い女の子で「つ、つらい……人物造形、配置の時点でつらい……」という他ない座組だ。

ファンタジー世界で就活を書こう。

ファンタジー世界で就活を書こう。

どこかのタイミングで著者の田中ロミオ氏はそう考えたに違いなく、その結果がこの『犬と魔法のファンタジー』なのだろうが、読み始めの時点ではこれがどこ出てきた発想なのか皆目検討もつかない。つらくて悲しい就活を書こうとした時に現実そのままではあまりにもつらすぎると判断してのファンタジー世界なのかもしれないし、ファンタジー世界であまりやられていないことをやろうとした結果が就活だったのかもしれないといろいろと考えながら読み進める。

まあ、そんなことはどうでもいい。問題はそれは本当に面白いのかどうなのかというところだ。

就活関連の描写はこれでもかというほど書き込まれている。周囲の誰もが血相を変えて就活に打ち込んで、毎週のように開かれる合同説明会に着慣れない甲冑(本作はファンタジーなのだ)を着込んで駆けつける。就職をはなから諦めて就活にいそしむ人間をバカにするヤツも居れば、起業を志し就職活動のレクチャーを行なうような意識の高いヤツもいる。婉曲表現で不採用を告げる封筒には特にダメだった理由が書いてあるわけでもなくただお祈りが書いてあり、ラフな格好でOkと書かれた説明会に私服で行ってみれば周りの人間は全員甲冑を着込んでいる。

何度も何度も断られ。その上さらにどこを改善していいのかわからない出口のわからぬ迷宮は人の精神力を摩耗させる。高く飛び跳ねることのできるノミを、天井に制限のある環境でぶつからせ続けたらそのノミはそこまでしか飛び上がることができなくなったとする有名な話があるが就活はほとんどそれと同じだ。天井に突っかかるが、自分にはその天井=なぜダメだったのかが見えないのであまりに繰り返される否定は自分自身が単純にそこまでの人間なのだと極度の内省的状態へと追い込んでいく。

ファンタジーにする意味があるのか?

複雑怪奇な迷宮で人の尊厳というものを徹底的に破壊し尽くす就活が、エルフやドワーフや魔法がきっちり存在するこの世界ではこれでもかと書き込まれている。あまりに良く書き込まれているので、自分自身の就活体験を思い出してしまった。で、それはいいんだけど、「ファンタジーにする意味ある?」というのが最初の疑問点だ。まるで現実の就活の厳しさをそのまま物語にしたような──けっこうな話だが、だったらそれ、ファンタジーじゃなくてもよくない? と思ってしまう。その点はどうなのか?

結論から言えば、あんまり接続はよくないかな。もちろん話の核の部分にファンタジー成分が絡みついているし、スーツの代わりに鎧を着込んでいくとか、無料公益魔法ヒウィッヒヒーのように現実のWebサービスやら技術やらが軒並み魔法で置き換えられているのはちょこっと笑える。だけどあまりにも就活部分は現実の就活そのままだし、「ちょっと笑える」し「話にも、まあ絡んでる」ぐらいだとファンタジーである意味は薄い──この言い方は多少ズレているような気がするが、ようは「違和感がある」ぐらいの感じ。

現実を見据え/拡張せよ

そうはいっても、実は……という話をここからしようと思う。就活を続けていると、何度も何度も企業からお祈りメール・手紙が送られてくる。尊厳が傷つけられ自分なんてこの世に必要とされていない存在のように思えてくる。だって「現実」として、何度も何度も否定されているんだから。「現実」が「お前はいらない」と何度も言ってくるのだから。だが、実際には現実は見えている範囲の世界だけじゃない。就活市場での評価なんてものは、この広い世界のほんのごく一部の視野にすぎない。右に左に、上に下に視点を広げることで、見据えるべき現実はもっと広くなる。

もちろん、口で言うのは簡単だが実際に脇目もふらずにレースを走っている最中の人間にそんなことを言ったって仕方がない。必死にマラソンを走っている最中に横から「マラソンをやめちまって温泉でジャグジーを浴びるのもまた現実だ!」といったところで「うるせーー今マラソン走ってんのが見えねえのか!?」と反感を買うだけだろう。所詮そんなことはキレイ事ではあるのだが──それはそれとして、本作は物語としてきちんとそこに落とし所をつけてくれる。それもファンタジーとして至極真っ当な形で。

最初に『冒険のない異世界なんて炭酸の抜けたコーラのようなものだ。』と僕は書いたが。その意味で言うと、実は本書は真っ当にファンタジーをやっている。誰もが安寧の中に沈み、冒険に出ることを辞めてしまった世界で、主人公は時折、いやいやながらも冒険に引っぱり出される冒険組合の一員なのだ。誰もが冒険をしなくなってしまった世界だからこそ、逆に冒険の重要性・冒険の必要性が浮かび上がってくる。ハングリー精神・起業家精神などとしきりと若者を煽り立てる現実世界での物言いは「ウゼー」以外の感想が出てこないわけだが、冒険があって当たり前のものであるファンタジー世界であるからこそその消失は強く違和感となって物語をけん引する。

そして、冒険はいってみれば現実を拡張するものだ。歩んだことのない道を歩き、見たことのないものを見、聞いたこともないことを聞いて、知らない人達に出会う。主人公は何度も何度も祈られ、周囲の人間が自分を追い抜いて内定を取得していく相対評価社会で時には涙を流しながら堪え、時には冒険に出かけていく。「就活」という、ファンタジーとは真逆の現実感あふれるキーワードを扱いながらも、その実まっとうに本作はファンタジーの王道に挑んでいるといえるのかもしれない。

ちなみに01などの巻数表記がないことからもわかる通り、この一作でキレーに完結しているので長いものをだらだらと読みたくない人にもオススメだ。

我もまたアルカディアにあり by 江波光則

新しい衰退の手触り。未来世界を、人体と価値観の変容を、世界が衰退していく様を派手派手しく演出するのではなく、ただそれは当たり前に起こる日常的な出来事の一つであり、特段不思議なことでもなんでもないといった独特な距離感を保ってこの世界は描かれていく。

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫 JA エ 3-1)

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫 JA エ 3-1)

江波光則さんはこれまでガガガや星海社でアニメ系のイラストがついたライトノベル・ジャンルに属する小説を書いてきたわけだけれども、コアなファンの根強い支持のある作家だった。売れ線をつくというよりかは薄暗く、一瞬で「うげえ、えぐいとこいくな」みたいなところを当然のようについてきて、しかしそれが実に読ませるというまあなかなか「面白いけど、薦めにくい」作品を書くというのは僕の勝手な認識である。たとえばガガガ文庫から出ている『パニッシュメント』という作品なんか主人公の父親は新興宗教の教祖であり、幼馴染の時話の母親はその宗教に傾倒し家庭に影を落とすまでにのめり込み、そのことを主人公は話せずにいるといういやあな感じから始まる。パニッシュメント - 基本読書

読ませる作家ではあるが、その舞台は主に学園であり、SFを書けるものなんだろうか? というのはちと不安だった。これも勝手な感覚なので誰かに納得してもらおうとは思わないが、人には「SFの眼」がある場合とない場合がある。SFの眼がない場合はいくらSF的なガジェットや世界観を用意しようがSFにはならないし、逆にそれがある場合はたとえ歴史物であろうがSF作品のように読める。江波さんは──いくつかの作品を読んだ限りでは、ボーダーなんじゃないかな? と思っていたが、本書を読んでみればこれが予想外にハマっている。江波イズムとでもいうような、悲惨な世界や簡単に壊れていく人間精神から一定の距離をとった視点の置き方が、SFとなったことで「世界」そのものへの距離感となって現れ、作品のフィールドをSFへと移しながらも明確にそのスタイルは継承され、いうまでもなくきちんとSFとして展開している。

世界観とかあらすじとか

物語の中心となるのは誰か特定の主人公というよりかは、書名にも一部入っている「アルカディアマンション」と呼ばれる誰もが働かずともだらだらと暮らすことのできる理想郷的マンションだ。「我々は世界の終末に備えています」と唱える謎の団体によって運用されているアルカディアマンションでは労働や義務といった一切の制約が排除されている。ただ入居する前提として、国家からの保障を受ける生活保護受給者になることを求められるが、それ以外はただ生活を営むだけでいい。物語の冒頭は、このアルカディアマンションに入居しようとする御園と名乗る「兄妹」の場面からはじまる。ただし「夫婦という事でお願いします」といっていきなり倫理観をぶっちぎっていく。

この二人はいったいどういう経緯でアルカディアマンションに入居することになったのか。その気になれば何もせずにただ寝ているだけで一生を終えられるそのマンションで、彼らはいったい何をするのか──創造か、停滞か──というのは物語の主軸の一つだ。同時に、この二人と同じ一族とみられる人々が、この世界でいかにして生きるのかも描かれていくことになる。それは時にアルカディアマンション草創期の話であり、時にはその成熟期である。他者の羨望を一身に受ける天才作家もいれば、凡人も犯罪者も、ホワイトカラーもブルーカラーもいる。

 アル・ジャンナの一族はきっと盗人で強盗で殺し屋で、政治家で官僚でビジネスマンでスポーツマンであったとしてもブルーカラーでもホワイトカラーであっても一人が好きで、そして誰もが青くて黒い目玉を持って生きていくに違いなかった。

人間の仕事が人工知能なり、効率化によって取り除かれてしまったら人間はその時何をするのかはSFではたびたびテーマとして取り上げられることでもある。ただその殆どは「恋愛」だったり、「創造」あるいは「芸術」だったりに収斂することが多いように思う。*1本書はそこについては新規性はない。最初に独立した話として現れる「クロージング・タイム」は、進化した文明と何の不自由なく閉じこもって暮らせるマンションの中でそれでも創作を諦めきれない男の話だし、他の短編についても多かれ少なかれこの一族は創作に携わったり、あるいは恋愛にうつつを抜かしていくことになる。

凡人と天才、そしてクリエイターの物語

そんな中読んでいて面白いなと思ったのは、作品で凡人と才能ある人間の対比が繰り返し立ち現れることだ。それも、たしかに世界観を考えれば当然のようにも思う。何もしなくてもしなないのだから、芸術に邁進しようが何をしようが誰も止めはしない。だが、これはどんなことにもいえるかもしれないが芸術、創作、あるいは何かにのめり込むことには才能の差が現れてくる。圧倒的な才能を目の前にして、凡人は生きる為にする必要もない創作活動なんかする必要があるんだろうか? という問いかけに必ず直面する。先ほど話題に出した「クロージング・タイム」はまさにそんな圧倒的な才能を持つ作家・御園珊瑚と対比して、平凡な才能しか持たない男の物語だ。

 私が結局、作家としては凡庸だったように。
 しかし今この世界で、殊更に突出する理由も必要も特にない。
 平凡にボサっと生きて好きなように好きなことを愉しめばいい。野球選手を目指した者は草野球で活躍できるだろう。ギタリストを志した者は宴会で喜ばれるだろう。その程度で誰もがみんな満足する。
 私は満足しなかった。
 私が誇れる、逸脱した唯一の部分はそこだけだ。

個人的に江波作品で好きなのは、この「私は満足しなかった。」の転調だ。冷静な現実認識と、その上で現実にうまく適応できない、当たり前の「事実認識」。それは極端に煽り立てるように描かれるのではなく、劇的に演出されるのでもなく、ただ、淡々と紡がれていく。シンプルだからこその凄味が宿る──というと褒めすぎなような気がするけれども、でも好きなんだよね。「クロージング・タイム」は短編としても天才・御園珊瑚と相対し、凡人としての生き方をこの世界で確立させていき、シンプルながらも凡庸な才能しか持たないクリエイターの在り方を描いていてシンプルながらもぐっとくる。

この暇で暇で仕方がない世界でバイクを走らせることに熱狂し、他のことなどまったく目にはいらない「からこそ」、惚れてしまった少女を描く「ラヴィン・ユー」は凡人と才能ある(この世界では何かに熱中することができるというのは、それだけで才能である)人間の在り方として、「クロージング・タイム」とはまた違う形で展開する。こんな世界でバイクに熱中し自分のことなんて見向きもしないからこそ好きなのだけれども、同時にそれは見てもらえないというジレンマに繋がる「少女漫画かな?」という展開をこの歪な福祉社会で行なう違和感が良い。

世界との距離のとり方

ちょっと違う傾向にも触れておくと、第二話「ペインキラー」はアルカディアマンション草創期を描いた短編で元・漫画家志望の女と、熟練の職人だったものの事故で首から下が動かなくなったしまった男の物語だ。この話は読みどころが幾つもあって、あまり説明を入れてこなかったけれどもこの「身体はガンガンサイボーグ的な何かへ、もしくは切除し脳だけになることも可能な世界」という身体変容の端緒の話でもあるし、当たり前に漫画家になることを諦め、それでも絵を描ける才能をこの世界で断片的にいかしていくという、「ゆるやかな創作との関わり方」も描かれる。

「……まあ、漫画家にはもうなれませんし無理なんですけどね。私は一応、『絵を描ける』という才能だけはありましてね。御園さんが家を建てられるみたいに、なんとその無駄な才能を発揮できるかもわかりません」
「……どっかのクソ漫画家が原稿落とした穴埋めでも頼まれたのか?」
「んー、まあ似たようなモノなんですが。絵の続きを描いてくれとの事で。……これがまあヘッタクソ極まりない絵でしてね。油絵なんですけど。素人が油絵て。笑わせてくれるモノでしてね。誰かが描きかけの絵が、私に回ってきて、おまえ画才あるだろみたいに言われて押しつけられて。そりゃあ描けますよ。似せてパクってコピーして。漫画家志望舐めんなよって感じで」

ちょっと長めに引用してしまったが「続きを描いてくれと頼まれる」エピソードはこの話だけではなく、時代と人を超えて繰り返し立ち現れてくるんだよね。それは人から人へと受け回され、絶対に完成しない絵なのだろう。それでも人はその絵を描き継いでいくことで、「押しつけられたよ、たはは」といいながら、かつて色々な理由で諦めたり、挫折したり、あるいは当たり前に続けていた「芸術」と関わり続けるきっかけになるのかもしれない。江波さんが虚淵玄さんと知り合いだったことからたまたま縁がつながって、新人賞に送ったわけでもないのに仕事を依頼されガガガ文庫からデビューするようになった実体験にも重なるようにも思う。*2

最後になるが第四話「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」はこの本の中で最も派手に事件が展開する話になる。それもまた大げさではなくあくまでも淡々と描かれていく。この「淡々さ」が、テーマとは別に、文体としてこの作品に統一感を与えている。世界は当たり前のように衰退して、人間は当たり前のように身体を捨て、変容させていく。絵を描くこと、音楽をつくること、小説を書くこと、何かをクリエイトする事に全力を傾注する人もいれば、ゆるく付き合う生き方もある。その距離のとりかたはとても心地のよいものだ。紛れも無いSFであり、江波イズムにあふれた作品に仕上がっていると最初に書いたが、その一端でもご理解いただけていれば幸いである。

*1:僕はそこには「悪いこと」を付け加えてもいいんじゃないか(人工知能なり効率は悪を潰すから)と思う

*2:小説家・江波光則ができるまで|小説家・江波光則ができるまで|SFマガジン|cakes(ケイクス)

十二大戦 by 西尾維新

十二大戦

十二大戦

能力バトルは死んで欲しいというのが僕のささやかな願いである。それも、もたもたとためらわせて演出たっぷりに死ぬんではなく、あっさりと、あっけなく、虫けらのように死んで欲しい。もちろん世の中には数多くの能力バトル物が存在しており、それらは別に人が死ななくても大変面白いものだ。ワンピースは滅多に人が死なないが勿論面白いし、最近だと同じくジャンプ漫画の『僕のヒーローアカデミア』もメインキャラ陣は死にそうで死なない(たぶんそのうち何人かは死ぬんだろうが)が充分にわくわくして楽しませてくれる。

それでも、能力バトルをする以上は死んで欲しい……という気持ちが湧いてくることがある。というよりかは、「いや、その展開なら死んでてもおかしくないよね?」という時にきっちりと死んで欲しいのだ。即死系の能力者に奇襲を受けた時、致命的な油断をしてしまった時、あるいは特に理由がないままに、「殺しあっていて、そういう能力があるんだったら、即死させられるよね?」という時に、即死させて欲しい。ただそれだけのささやかな願いだ。ワンピースを読んでいると、「どうせこいつらはどれだけ傷を負ったように見えても、どれだけ極端な不意打ちを食らっても死なねえんだろうな」と思ってしまう。

たとえば、やはりジョジョのアニメを見ていると「突然わけのわからない能力者に教われて長い旅を一緒に続けてきた味方があっけなく死ぬ」という緊張感は「良いなあ」とじんわりくる。どんなときでも「死にえるのだ」と想起させられるから、なんてことのないシーンにまで読者側に緊張が漂ってくる。同じジャンプ漫画でいえばHUNTER×HUNTERも「呆気なく死ぬ」系の能力バトル物の漫画といえるだろう。ほんのちょっと油断した、あるいは敵わない相手に挑みかかったばっかりに、あっという間に死んでしまう。

西尾維新さんは昔からジョジョネタを作品に紛れ込ませ、ジョジョのノベライズまで執筆している生粋のジョジョ・ファンであるが、そんな彼だからこそ真正面から「能力者同士のバトルロワイヤル」を書いたら、当然のように「呆気なく死ぬ」系の能力バトル小説になる。本書十二大戦は「呆気なく死ぬ系の能力バトル物が読みたいよお。いっぱい読みたいんだ……」というささやかな望みを叶えてくれる一冊だ。干支になぞらえられた十二人のそれぞれ特別な能力と技術を持った戦士たちがゴーストタウンに集められ、お互いの胃の中に存在している猛毒結晶を奪い合う、時間制限付きバトルロイヤルがスタートする。生き残ったものは、どんな願いでも叶えられる権利が与えられるのだ。

正直言って読み始める前はちょっと「大丈夫かなあ」とおもうところもあった。いまさら能力バトル物じみたバトルロワイヤルをやって、新しいものになるんだろうか? 過去にやったことの模倣にとどまるのでは? たとえば近似テーマとしては、バトルロワイヤル要素も、戦略検討型能力バトル要素も、呆気無く死ぬタイプの能力バトル要素も持っている悲痛伝から始まる伝説シリーズが存在している。それ以前の問題として、30の半ばを越えて見事におっさん化した西尾維新は今尚ドストレートな中二作品(中二という言葉もいまやその姿を消しつつあるが)を書けるんだろうか? huyukiitoichi.hatenadiary.jp
結論からいえば杞憂だったわけだが。本作は一章毎に視点人物が異なっていき、それぞれの戦いを描いていくことになるのだが、その為まず最初に「視点人物の簡単なプロフィール」が1ページ記載されている。もうしょっぱなの人物紹介からぶっ飛ばしまくっているので「おお、おっさんになってもまだまだ大丈夫だな……というかおっさんになってなお盛んな中二力だな……」と若干引いてしまった。そもそも近年も漫画めだかボックスで何ページも埋め尽くす能力名を考えてきたりと、中二力はとどまる事を知らなかったから、余計な心配だったようだ。下記は最初に語られていく異能肉さんのプロフィールの一部(なんだその名前)

使用武器は両手に持つ機関銃『愛終(あいしゅう)』と『命恋(いのちこい)』。銃火器の扱いには通暁していて、どんな重厚な武器でも自在に操るのだが、中でもこの二丁は、彼女にとって、自分と繋がっている肉体の一部のようなものである。現在、十二人の男性と健全につきあいつつも、更なる恋人募集中。

あとはニンジャスレイヤーかな? と思わせる要素として、戦士らがお互いに戦闘を始める前に基本的に挨拶をするのが面白かった。これも最初にみたとき思わず笑ってしまうようなアホくささに満ちていて良い。

「『亥』の戦士──『豊かに殺す』異能肉」
「『卯』の戦士──『異常に殺す』憂城」

お、おう。なんだか戯言シリーズを思い出す突き抜けた中二力だな……。めだかボックスやら戯言シリーズまで西尾維新さんによる能力バトルものシリーズの一環に含めるとしたら、本作の新しさはどこにあるのか。一つはやっぱり、その短さだろう。もともと大斬という漫画の読み切り企画で書かれた本作の後日談から派生して、長編になっているのだが、だからなのかなんとこの一冊で話がきちんと終わっている。だらだらだらだらと冗長な文を書き続け、いったんシリーズをはじめれば終わることがない西尾維新作品だから、このスパっと終わってくれる感は貴重だ。

それからなんといっても最初に宣言したように「呆気無く死ぬ」系の能力バトル小説なので、サクサクと死んでいってくれる。そうはいっても、「ただ死ぬ」というのはたいして面白くはない。そこはやはり、ケレン味たっぷりに、「やったぜ! 」と勝ちを確信した瞬間に相手の思いもよらない能力で致命的な反撃を喰らったり、ノーマークだった敵が意外な能力を持っていてめちゃくちゃ苦戦したり、反則気味な能力で一瞬で殺されたり、勝ち目のない敵に能力的な起死回生の術を考えだして逆転したり、複雑な能力を持つ人間らが三つ巴四つ巴になってロジックの合間を縫うように殺しあって欲しいのである。すごい勢いで火を放つ! みたいな能力者が出てきて目の前に出てきた敵を焼き殺していく話が読みたいわけではないのだ。

そこについては心配していなかったけれども、ケレン味だらけの能力者揃いなので「いったいこの能力者同士がぶつかったらどうなってしまうのか!!」というワクワク感がある。「え、これはどういう世界観なの? ファンタジーなの? 」とおもうような世界観のガバガバさはあるが、最初から全力でガバガバなので対して気にならない。伝説の戦士であり第九回十二大戦の優勝者がいたり(十二年に一回開催され、今回が十二回目)、死体を操るネクロマンサーがいたり、能力を全開にすれば最強の一角と言われながらもその本質的な平和主義性から停戦交渉と和平の提案を軸に314の戦争と229の内乱を和解に導いてきた知る人ぞ知る比類なき英雄がいたりなどなど。

およそ能力バトルものに求める「ケレン味」といったものを完全に理解して突き抜けたようなメンバーのラインナップだ。西尾氏お得意のだらだらと語り続け、思考し続ける文章のノリこそないものの、その分切った張ったはいどっちかが死んだぁ! というスピード感がある。まあ、スピード感もケレン味もあるし、オチとしての驚きもきちんとあるんだけど、たかだか250ページ程で十二人を書くと一人一人が薄っぺらくなってしまうこともあって全体的な感想としては「まあまあ面白い」というところに落ち着いてしまう。「呆気無く死ぬ」系の短くまとまった能力バトル、それも小説となると数がずいぶん限られてくるので、非常に限定的ながらそういうのが好きな人にはオススメではある。

余談

余談だが、もちろん「呆気なく死ぬ系の能力バトル漫画」は、ジョジョやハンターハンターだけではなく無数に存在する。たとえば能力バトル漫画に個人的に大いに求めるところとして「自分の能力と敵の能力を把握した/把握していない状況での作戦検討型能力バトル」もあるのだが、僕のすべての望みを叶えたかのような小説が『戦闘破壊学園ダンゲロス』だ。漫画版も圧巻の面白さなので能力バトル漫画/小説好きとしては読まない手はない。続編の飛行迷宮学園ダンゲロスは個人的にはおすすめしないが。

戦闘破壊学園ダンゲロス (講談社BOX)

戦闘破壊学園ダンゲロス (講談社BOX)

余談2

干支でバトルといえば今はえとたまという干支同士(とそれ以外の動物全般)でなんだかよくわからない理由でバトルをする作品があるのを思い出したが、別に殺し合いではない。可愛い女の子たちが一人の男の子を中心にエロイことをしたりしながらだらだらとバトルをする、昔そういうのあったな〜〜と懐かしい気持ちを思い起こさせるアニメだ。ストーリー的に見るべき部分はほとんどないのだがバトルパートの3Dモデルと背景の創り込みが凄くて(白組さまさま)3D技術の進歩が楽しくてなんだかみてしまう。特にオススメではないが、まあ関連として。

えとたま 壱 [Blu-ray]

えとたま 壱 [Blu-ray]

明日の狩りの詞の by 石川博品

主にライトノベル・レーベルで活躍する石川博品さんだが同人誌で出した四人姉妹百合物帳を星海社文庫から出したことが縁になったのか、星海社から続けて本を出すことになったようだ。それが本書『明日の狩りの詞の』。なんと宇宙人が地球にやってきた以後の世界で、外来宇宙生物のハンティングを描く近未来「青春狩猟」物語。 著者ブログによるとこれも既に書き上げたもののどこも拾い上げてくれなかったのを星海社が拾ってくれたパターンなので石川博品のおしゃべりブログ: 新作が発売されます 書き下ろしではなさそうなのだが、百合の次がSFと随分挑戦的なラインナップだ。

明日の狩りの詞の (星海社FICTIONS)

明日の狩りの詞の (星海社FICTIONS)

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

簡単なあらすじ

西暦2035年の東京近郊が舞台。惑星ヘロンからやってきた宇宙人たち。彼らは冬眠状態の自惑星生命体を詰め込んだ隕石を東京湾に叩き落とし、東京は一気に外来宇宙生物の巣へと変貌してしまう。当然ながら落下した場所から周囲30キロメートルは封鎖区域となっている。物語の主人公である西山リョートは、そんな封鎖区域の端っこで狩りを楽しんでいるちょっと特殊な高校生だ。ヘロン製の銃と、ヘロン製のロボットを携え、不登校高校生の久根ククミと共にしょっちゅう学校をサボって外来宇宙生物狩りに出る。真っ当なルートからは外れているかもしれないが、これはこれで一つの青春の形だ。

似た題材の作品群

ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス)

ダンジョン飯 1巻 (ビームコミックス)

「現実世界に存在しない生物の狩りと食を描く」というと、最近盛り上がっていた漫画の『ダンジョン飯』を思い浮かべる人もいるだろうが、作品としてはまったくの別物。ダンジョン飯はまさにダンジョンを舞台にして、スライムだとかさまよう鎧だとかの「ファンタジー生物」の構造はどんなもんだろうと考え、食べられるとしたらどのような食べ方があるのかまでも考察し物語の中に落としこんでみせる。ファンタジー世界に対して我々が「そういうもんだ」と思い込んでいたものを(たとえばさまよう鎧は魔法で動いているんだろうな、みたいな。)一個一個「実はこうなんじゃないの」と仮説を提示してくるような面白さがあって、こっちはこっちで傑作といえる出来。

一方本書はまさに現実における「狩猟」のSF版だ。何しろ末尾の参考文献には実に30冊もの狩猟や料理、ワイズマンの『人類が消えた世界』まで多様な資料が挙げられている。獲物を追いかける描写だけでなく、捌くときの難点から、狩猟にはつきもののおまじないというか、ゲン担ぎというか、迷信まで含めてきっちりと書かれていくので単純に狩猟小説として読んでも面白い。下記はギンツバメと呼ばれる架空の生物(検索したところ同名の蝶が現実にはいるが、それとは別物)をさばいているところだが、手順が細かく描写されていてわくわくする。

 肝臓は地球の生物と機能がちがうようだが、要するにレバーだ。食える方のバケツに入れるが、そこにくっついている胆嚢は食えない。食えないどころか、中に苦い胆汁がつまっていて、誤って皮を破ると苦いのが肉についてしまうので要注意だ。
 腸と膀胱も扱いが難しい。中身が肉についたら食えなくなる。まず、体の外側から総排泄口の周囲にぐるりと切れ目を入れる。ギンツバメは地球の鳥と同じで穴がひとつしかない。哺乳動物であることは腹に乳首がついていることから推定できるので、そうするとカモノハシとかと同じ単孔類ってことになる。

だから近いといえばむしろ現実の狩猟生活を描いている山賊ダイアリーの方だ。イノシシの足跡を追い、罠を仕掛け、クマに怯え。うまくいかない時期が続いたり、逆に狩れすぎちゃって肉が食べきれないし配りきれないほどとれたりする。そしてうまくいった時はちゃーんと仕留めた動物を家に持って帰って、捌く! 狩猟における一つ一つのトライアンドエラーがきっちり書き込まれているのが面白い漫画がこの山賊ダイアリーという漫画といえるだろう。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
話が別作品にそれてしまった。山賊ダイアリーと違って、本書ではこの世界には存在しない生物を狩る。六本足の生物がいれば狩り方は当然鹿やイノシシとは変わってくる。危険なものになると人間の声真似をしておびき寄せるなんかそういう妖怪いたよなみたいなのまで、様々に出現する。熊レベルに人間の命をおびやかす危険のある大物は、中心の方まで行かなければあまり存在しないようだが、それでもまだまだ未知の生き物だから、気が抜けるものでもない。

物語的に大きく動き出すのは、この中心へと「一狩り行こうぜ!」となった時。フロン人の一人が、大人になるための通過儀礼という名目でリョートに一狩り行こうぜ! と声をかける。主人公のリョートとコンビのククミ、それから狩猟の最中に出会ったフロン製の美少女アンドロイド二人組、宇宙人でチームを組み、東京の中心地に存在する大物に挑むことになるのだが──。

SFとしての『明日の狩りの詞の』

外来宇宙生物とか、宇宙人とかが当たり前のようにいるので、理屈付けだったり未来社会の描写の部分がSFとして面白いわけではない(ところどころ凝ってて面白いけど)。ロボットは当たり前のように出てきて、フロン人含め彼らはごくごく普通の人間っぽい反応をかえす(ロボット・アンドロイドの中身は当然AIだが)。僕は普段だと「人間とは本質的に異なるはずのロボットや宇宙人になんで人間っぽい反応をさせるわけ? イミワカンナーイ」と嫌な気になることが多いのだが、今回は特に気にならなかった。それは一応分析するなら、意識がどうたらといったところはまったく問題として俎上に上がらないからだろう。全くなんの説明もなく非常に人間っぽく喜怒哀楽を表現し、くだらないギャグも飛ばす描写が書かれていくから、そういうもんなんだろうと納得してしまう。

逆に面白いのはこうした設定が主人公らの青春模様や人生設計を嫌でも狂わせて葛藤につながっていくこと。たとえばヘロンは地球側の混乱を避ける為に技術をすべて地球側に明かしているわけではない。自分たちの星に地球人がくることも許していない。しかしその技術を明かさない期間は五年後には終わることになっていて、当然ながら超技術が地球に入ってきたら幾つもの産業がなくなってしまうだろう。そんな時代に高校生をやっていて、大学を卒業する頃には産業のあり方が一変しているとしたら「目標を見据えてなにかやることになんか意味があるわけ?」と考えるのも仕方が無い。

そうはいっても未来はやってくるわけで。学校サボって狩りばっかやってるけど、将来プロのハンターにでもなるつもりなの? と先生にいわれ『楽しいことを真剣にやって何がいけないんだ』と思うものの返答としては「いやまあ、プロとかは……」という返答に収まらないわけにはいかない。現実でもプロのハンターなんていうのは一握りで殆どは趣味の部類だろう。「楽しいからやっているだけだ」で自分で稼いで生活している大人なら文句を言われる筋合いはないが、学生の時分では将来を決めそこに向けて勉強をすることを求められるものだ。それにしたってフロン人の技術もあるだろうし、将来が決められねえよな……というのが葛藤として「狩猟」のテーマにつながってくる。

「狩猟」なんてものはただでさえうまくいかないものだ。まず天気に作用されるし、そもそも自律的な意思を持って動き続けている生物を狩るのだから、そこには必然的に運の要素が絡んでくる。イノシシを取ろうと思って罠を仕掛けても、そこにはたぬきがかかっていたりする。腕立てを一日五十回しようといえば自分の努力次第でいくらでも出来るが、今日○○を狩ろうはいくら努力したところで達成されるかはわからない。それにしたって完全な運任せでもなく、警戒心の強い相手に、いかにして気付かれずに近寄るか、危険な生物を相手に、いかにしてハメられずに逃げるか、六本足の獲物を狩る時に、追い詰めるのは坂の上がいいのか坂下がいいのか。トライ・アンド・エラーを繰り返す中で、少しずつリョートも狩りのなんたるかを学習していくことになる。

 木の下陰はひんやりしてるが、一日歩いた疲れが体の奥で埋み火みたいにとろとろ燃えている。口の中で融けるチョコレートがとても甘く感じられる。鳥のニオはのんきにひなたぼっこしている。岸から島まで三〇メートル。銃で狙えば楽に当てられる距離だが、射止めた獲物の回収は難しい。
 世界は俺の尺に合わせて作られてはいなくて、いつももどかしいが、それでいい。何もかも平坦できっちり陳列され、何でも手に入れられるようにみせかけるのよりずっとわかりやすい。

「世界は俺の尺に合わせて作られてはいなくて、いつももどかしいが、それでいい。」という単純な事実に、狩猟をする上で彼は何度も直面することになる。それこそが狩猟の醍醐味、楽しさだといえるのかもしれない。もちろんそれだけではなく、狩猟というもののうまくいかなさを一つ一つ乗り越えて、勝利と戦利品──うまい肉を手に入れて帰った時に、やってやったぞ、というささやかな達成感と、一人では食べきることの出来ない肉を振る舞った周囲の人々の笑顔がそこにはうまれることになる。そこまで含めて本書には、存分に狩猟の醍醐味が敷き詰められている。

彼がどのように思い、行動しようがフロン人は五年後地球に技術を伝えるだろうし、社会は彼に学生としての当たり前の行動をとれと迫ってくる。狩猟とは違って、彼はなかなかそんな状況に「それでいい」とはいえないが、だからこそ狩猟を通して先の見えない、不確定な青春時代の葛藤をどう泳ぎきるのか──と繋がっていくようにも思う。まさに「青春狩猟」物語だ。

余談

ちなみに本書は話として一区切りついているものの、いくらでも話を続けられそうな構成になっているので続刊が楽しみ。石川ヒロインはわりと○○じゃね、とかいわゆる女の子喋りみたいなものを排したぶっきらぼうな喋りが多くて好きだが、メインヒロインのククミは狩猟をすることもあってダウンジャケットにスウェットパンツにニット帽という服装も含めて素晴らしい。イラストのまごまごさんも星海社の至道流星作品が立て続けに終わってしまって仕事の区切りがついてしまった感じなのでまた描き続けてもらいたいところだ(イラストが個人的に好き)。