基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

何が起こってもおかしくない〈原野〉から呪いが生まれる世界で、唯一呪いを解ける少年の冒険を描き出す異世界ファンタジイ──『呪いを解く者』

この『呪いを解く者』はジュブナイル系ファンタジイ長篇の名手フランシス・ハーディングの最新邦訳作にして、呪いとそれを解きほぐすことをテーマにした異世界ファンタジイだ。ハーディングのこれまでの邦訳作には『嘘の木』、『カッコーの歌』、『影を呑んだ少女』、『ガラスの顔』(すべて少年少女を主人公にしたファンタジイ)があるが、どれも違った傾向を持ちながら素晴らしい長篇ばかりで、一言でいえば「おそろしく各作品の平均点の高い作家」といえる。そのため、ハーディングは新刊が出たらまっさきに「次に読むリスト」の最上位にくる作家になっている。

で、今回も刊行されてからすぐに読んだのだけど、やーはりこれがおもしろかった。ハーディング作品は毎回単発の長篇でそれぞれ凝った設定をお出ししてくるのだけど、今回は『HUNTER☓HUNTER』の暗黒大陸みたいな通常の理屈が通用しないヤバい〈原野〉(ワイルズ)と呼ばれるが存在し、そこから呪いが生み出される完全な異世界が主な舞台。主人公の少年はその世界で唯一人にかけられた呪いを解きほぐすことができる力を持っていて──と、その力を駆使していかにして人を助けるのか、また人が人を呪うとはどういうことなのか──といったテーマを深く掘り下げていく。

呪いを解きほぐすといっても無条件でできるわけではなく、呪われた人を誰が呪ったのか、どのような憎しみによって呪われたのかといった周辺証拠を探偵のように集めていって理解しなければならない。そのため、主人公の少年が呪いを解いてまわる旅はファンタジイであると同時にミステリー的なおもしろさもあり、また〈原野〉なんておもしろいものがあるわけだからそこに踏み込んでいく部分には『HUNTER☓HUNTER』みたいな*1少年マンガ的なおもしろさもあり──と、ハーディングらしい、魅力的な要素がてんこ盛りになった長篇である。

世界観をざっと紹介する

今回の物語の主な舞台はラディスと呼ばれる(異世界の)国家。この国の中には先に説明したような〈原野〉と呼ばれる霧に包まれた沼の森が存在し、そこから出てくるクモによく似た生物である〈小さな仲間〉が呪いを生み出しているのだという。

呪いから身を守ることは不可能なくせに強力で、その効果はたとえば(呪いをかけられた人の姿が)サギやカモメやタカに変えられたり、動物ならまだマシで無機物に変えられたりと多種多様である。〈原野〉では他にも、短剣のような歯を持つ沼の馬、危険にいざなうちらちらと踊る光、なぞなぞに答えると秘密を教えてくれる〈白い手のご婦人たち〉など、奇っ怪な生物で溢れかえっているらしい。さっきのたとえでいえばハンターの暗黒大陸(謎の古代遺跡を守る正体不明の球体 兵器ブリオン、殺意を伝染させる魔物 双尾の蛇・ヘルベル──)だし、SF的にいえばストルガツキー兄弟による『ストーカー』の〈ゾーン〉の系譜に連なるといってもいいだろう。

そんな危険な森があるならさっさと焼き払えばいいじゃない、と思うかもしれないが、当然それもすでに試みられている。ラディスには〈政務庁〉と呼ばれる、大商人たちによる政府によって統治されているのだが、彼らは原野の木々を切り倒し、クモをいぶりだすために煙を炊いた。そして何が起こったのかといえば、巨大な雲のような蚊の大軍が内地に襲来し病気をもおたらし、上流の川はこれといった理由もなく氾濫し、〈小さな仲間〉たちが大挙しておしよせ人々に呪いをばらまいたのだ。

けっきょく、政務庁は原野と和平を結んだ。代表団が沼の森の奥深くまで出むいて話し合いをした……交渉相手はひとりではなく、人ですらなく、さまざまな生き物だった。おそらくは骨と星でできた竪琴、おそらくはディナー皿ほどの大きさの〈小さな仲間〉、おそらくはネコ百匹が鳴くような声をもつ顔なし女。さまざまな説があるが、どの説でも、協定が結ばれたのは月の光とクモの巣でできた船の上だったと伝えられている。*2

物語の舞台はこの厄介な〈原野〉の勢力と一時的にであれ和平が試みられた世界であるわけだ。とはいえ〈小さな仲間〉の呪いが完全に消えてなくなったわけではない。誰かにたいして強い憎しみを抱くと時折その人の仲で「呪いの卵」と呼ばれるものが生まれ、それがすくすくと育っていくと呪いが生まれターゲットを呪う。呪いを作動させた人間は呪い人と呼ばれ、呪い人に一度なると呪われることはなくて──と、細かい設定もあとあと展開的にきいてくるのだが、深入りはやめておこう。

あらすじとか読みどころとか

物語の主人公はそうした呪いを唯一ときほぐすことができるケレンという少年だ。彼は呪いを解くことができる(彼の観測範囲では)唯一の能力者だが、先にも書いたようにそう簡単にできるわけではない。呪いをかけられた人から話を聞いて誰が呪いをかけたのかを特定し、呪いの理由がわかってそれをときほぐす必要がある。

たとえば、暴力などひどい行いをして憎まれたのだとしたら悔い改めて行動をあらためる、といったように。これが難しい。そもそも交通事故みたいによく知らない相手に憎まれて呪われているケースもあるし、工場の支配人でありながらろくな支払いをしておらずあまりに多くの人から憎まれていて、その事実と理由を指摘し悔い改めて行動を変えろというと逆上してケレンはペテン師だと怒り出す人もいる。

ケレンはかつて呪いでサギにされていた少女ネトルを助けたことで彼女を一緒に呪いを解きながら生きるための金を稼いでいるわけだが、当然先の逆上する人もいるのでトラブル多発でそうそう金が儲かるわけではない。そんなある時、彼を本物の能力者と認定し、きちんとした金を払い、後援者として依頼をしてくれるという都合の良いことをいうゴールという男が現れ、物語は大きく動き出していくことになる。

普通に考えたら人を憎しみ呪いをかけてサギに変えたりする呪い人は「悪いやつ」で「敵」なのだが、とはいえそれは人が生来持つ性質だともいえる。他者を憎まずにいられる聖人のような人など、そうそうおいらず、世の中には、憎しみが心のなかにありながらもそれが爆発しないようになんとか抑えている人たちもおる。そうした人たちの「呪いの卵」はどうなってしまうのか? この国では呪い人は差別され、バレたら病院の中で監禁される運命にあるが、それは人権の侵害といえるのではないか。

そうした呪い人たちを束ね、呪いの力を自分たちの安全のために(攻撃的に)使おうとする〈救済団〉と呼ばれる人たちもいて、ケレンは〈救済団〉vs〈政務庁〉という大きな戦いの流れの中に巻き込まれていくことになるのだ。

個人的におもしろかったのは、呪いを解いてまわり、解き終わったらその人物はすっかりハッピーエンドだ! よかったよかったですっかり忘れてしまう=一話完結の物語のように消化していくケレン=実質的な名探偵の功罪についても途中からテーマにのぼっていくところ。「呪われた」という経験は人をどうしようもなく変えてしまうもので、ケレンの活躍によって呪いから解き放たれたとしても、すっかり元に戻るなんて都合のよいことはないのだ。これは、現実をみても明らかだろう。

おわりに

単なるファンタジイ設定としての「呪い」ではなく、人が誰かを憎むこと、憎まずにはいられないことのつらさ、憎まれることの苦しさについて、丁寧に描きこまれた作品であった。ページ数は500超えと長いが、まるで週刊連載マンガかのように凄まじいページターナーな作品なのできっとすぐに読めるだろう。

*1:ハンターはずっと船の中だけど…

*2:フランシス・ハーディング. 呪いを解く者 (p.16). 株式会社東京創元社. Kindle 版.

《竜のグリオール》シリーズ最終巻にして、ファンタジィの醍醐味がぎゅっと詰まった長篇ドラゴン・ファンタジィ─『美しき血』

ルーシャス・シェパードの代表作のひとつ、《竜のグリオール》シリーズの最終巻が『美しき血』として本邦でもついに刊行となった。最終巻といってもこのシリーズは長いサーガや倒すべき敵がいるわけではなく、一作目『竜のグリオールに絵を描いた男』と二作目『タボリンの鱗』はどちらも中短篇集で、三作目となる本作『美しき血』も他と関わりはあるとはいえ独立した長篇なので、どこから読んでも良い。

著者は本作を刊行(フランス語版は2013年、英語版は14年)したすぐ後に66歳で亡くなっており、これが遺作となる。しかし、これが遺作なら納得もできただろう、と思えるほど、様々な要素があわさった、総合的で美しい長篇だ。

《竜のグリオール》シリーズは数千年前に凄腕の魔法使いと戦った結果、死は免れたものの身動きがとれなくなった全長1マイルにも及ぶ巨大な竜グリオールについての物語である。とはいえグリオールは動くことはできないから、物語の大半は動かぬグリオールの周辺に作り上げられた街と、そこに住まう、グリオールの影響によって人生や生活が歪んでしまった人々の姿を描き出していく。ルーシャス・シェパードは三作を通して、ただ「特別な竜」が世界に存在する人間社会を解像度高く描き出すことに注力し、ありありとグリオールの存在を読者に体験させてくれている。

グリオールに科学的なアプローチを試みれば(たとえば体は再生するのか、傷はつけられるのか、血はどのような効果を持っているのか?)SF的な読み味になり、グリオールとその力を利用する人々の方にフォーカスすれば、宗教テーマ(グリオールを神として祭り上げ利用する)にもポリティカルサスペンス(グリオールを政治的に利用する)にもなり──と、多様な顔を持った本シリーズだが、最終作『美しき血』はそうした既作の要素をてんこもりにしたような長篇だ。グリオールの血をテーマにした本作は中でもとりわけ美しく官能的で、ロマンスもあれば冒険も、犯罪小説的な魅力もある。

なにか大きな戦争が起こって魔法を使って国家やモンスターと戦っているような普及したイメージのファンタジィとは一線を画しているが、ここには確かに「ここではないどこか別の世界を夢見る」ファンタジィの醍醐味が詰め込まれている。

これまでの二作の流れをざっと振り返る。

と、いちおう三作目になるのでここまでの流れをざっと振り返っておこう。本邦で最初に刊行されたのは、中短篇集の『竜のグリオールに絵を描いた男』。先に説明したようにグリオールは数千年前の魔法使いの攻撃によって身動きが取れなくなっているのだが、まだ生きていて、周囲の人間に大なり小なりの影響を与えているとされる。

その周辺は銀、マホガニーなどがとれる肥沃な土地で、グリオールの近くに人々は街を作っている。となればまあグリオールは邪魔なわけで、グリオールの命には懸賞金がかけられているのだが、誰がどんな手段で挑んでもその生命を奪うことはできない(真実かどうかはともかく精神干渉能力があるのでその生命を狙う行動は難しいのだ)。しかしそんなある時、グリオールの身体に絵を描いていると思わせておき、絵の具に塗り込んだ毒で殺そうという、遠大なプロジェクトを立ち上げる人物が現れる。

グリオールは何しろ巨大な身体を持っているから、足場を組むところからはじめて、膨大な毒入りの絵の具の精製、途中で気付かれないために壮大な芸術作品を描きあげる必要、またそれを塗り込んでいく時間も考えると、数年単位で実現できることではない。本作(の表題作)は、そうした長大なプロジェクトを通して、グリオールとはなにか、本当にこんな生物を殺せるのか、その顛末を丹念に描き出していく。他にもグリオールの体内に住み、その見取り図の作成、体内に住まう寄生虫や共生体の研究に没頭し、心臓の筋肉の収縮までもを細かく描きこんでみせた「鱗狩人の美しい娘」など魅力的な中短篇がいくつもはいっていて、シリーズ屈指の傑作巻といえる。

続く『タボリンの鱗』は第一中短篇集の「竜のグリオールに絵を描いた男」以後の話になる二つの中篇(「タボリンの鱗」、「スカル」)が収録されている。グリオールほどの巨大な存在は、その周辺に様々な人間や派閥を生み出す。たとえばグリオールを神聖視するもの、その影響力から脱すことができていないのではないか、われわれはまだグリオールの支配下にいるのではないかと疑問に思うもの──。特に「スカル」では時代が現代に近づき、竜の影響力が存在するかもしれない世界ならではの疑念がうずまく政治劇が展開していて、独自の読み味を堪能させてくれる。

美しき血

それに続くのがシリーズ唯一の長篇である『美しき血』だ。グリオールの血液を研究していた若き医師のロザッハーの人生を断片的に追っていく構成になっている。

ロザッハーの専門は血液学で、その流れから当然グリオールの血について興味を覚える。グリオールの血についての彼の観察描写は、本作の真骨頂といえるだろう。

そもそも、この血液には見たところ血球細胞がない。金色の血漿を背景に黒々とした微小な構成物がたくさん見えるが、それらは増殖し、形状や性質を変え、急速な変化を繰り返してから消えていく──一時間以上観察したあとで、ロザッハーはグリオールの血液は忙しく移り変わるあらゆる形状を含む媒質なのではないかと考え始めた。(……)謎めいた構成物の変幻自在の輪郭、金色と影の移り変わるモザイク、その脈動は内在するリズミカルな力の流れを反映しているようでもあり、血液自体がエンジンなのでその活力を維持するために鼓動を必要としないかのようでもあった。*1

ロザッハーは研究のための血の採取を他人に依頼していたのだが、引き渡しの段階になって交渉が決裂し注射器を自分の身体に突き立てられ、グリオールの血を体内に入れられてしまう。するとどうか。周りの女性は女性美の極地に思え、混沌とした多彩な快感に打ち震え──ようはドラッグをやったような状態におちいり、そのうえ、時の劣化を防ぐ効果があるとみられるグリオールの血の副作用か、時間の感覚がおかしくなって、ことあるごとに数年単位で時間が跳んでしまう体質になってしまう。

次にロザッハーが意識を取り戻してみたら、4年もの歳月が経過し(その間の記憶は残っているのだが、時間だけが経過している)、グリオールの血をマブ(モア・アンド・ベターの略)と呼ばれる薬物として精製し、市民に販売することで大きな財をなしていて──と、彼の人生における大きなポイントごとに物語が紡がれていくのだ。

最初はそれをただ人々を熱中させる薬物として売り込み、(ほぼ)犯罪者として成功していたロザッハーだったが、この時点ではまだグリオールのことをでかいトカゲと認識しようとしている。あくまでも科学者として、ファンタジックな要素を否定したいのだ。しかしグリオールの精神干渉能力を自分で体験したり、生物群集の中心になっているグリオールの事実をみていくうちに、次第に「グリオールの神性」に思いを馳せ、それを利用できる、したほうがよかったのではないかと考えを展開させていく。

だがロザッハーは、グリオールが生物群集の中心となっているという事実に、神性の証拠ではなく、アルフレッド・ラッセル・ウォレスやアレクサンダー・フォン・フンボルトなどの科学者たちがしめした原理の証拠を見た。そして、あらゆる魔術的思考や迷信に対して防御をかためたまま、鱗に背をもたせかけ、頭上に壊れた巨大な傘の残骸のように広がる竜の翼を見つめた。*2

ロザッハーのグリオール観が、「ただのでかいトカゲ」から「神的な存在」へと変遷していく様、彼の中で起こる科学的合理性と神性のせめぎあいは、まるでシリーズ全体をリフレインさせているかのようだ。その後ロザッハーは宗教施設を建造し──と、麻薬の製造と成り上がりという犯罪小説的にはじまった本作はその様相を次々と変え、その人生の晩年までを描き出していく。

おわりに

本作は時間が次々と飛んでいき、要点や最終目的地が掴みにくいなど構成・演出上の問題もあると思うが、それでもエピローグはとても美しい。いつまでも記憶に残るであろう、唯一無二のファンタジィだ。

*1:ルーシャス・シェパード. 美しき血 竜のグリオールシリーズ (竹書房文庫) (pp.14-15). 竹書房. Kindle 版.

*2:ルーシャス・シェパード. 美しき血 竜のグリオールシリーズ (竹書房文庫) (p.115). 竹書房. Kindle 版.

物理術師から幻術師まで、大きく異る方向の天才魔法使いが6人集められ、最終的に排除する1人を決める、ファンタジー×SF長篇──『アトラス6』

この『アトラス6』は著者オリヴィー・ブレイクがロースクール在学中にセルフパブリッシングで刊行したのち、爆発的に人気が出てAmazonPrimeでのドラマ化も決定している話題のファンタジー長篇だ。記事名にも入れたが、他者の行動に関与するエンパスに他者の思考を読み取るテレパス、世界の物理的事象に干渉する物理術師など様々な「特殊な力」を行使する、凄腕魔法使いたちの物語となる。

世界中の貴重な蔵書を守護する秘密の組織〈アレクサンドリアン協会〉、そこでは10年に1度、6人の在野の魔法使いらが選出され、うち5人だけが入会を果たし、富や名声、協会しか持っていない資料へのアクセスが許される──。と、魅力的な冒頭のあらすじに加えて表紙イラスト&装丁が最高だったので期待して読み始めたのだけど、中身はその上がりきったハードルにちゃんと答えてくれるおもしろさだ!

冒頭、6人の魔法使いらが〈協会〉に所属する〈管理人〉アトラスによって一人ひとりこのゲームに参加しないか? と誘いを受ける場面から物語は始まるのだが、その時点で各魔法使いらのキャラが立っていて、この手のジュブナイル寄りのファンタジーにおいて重要な部分をクリアしている。また、「6人中1人」を「排除する」仕組み上、似た能力や性質を持った者同士で同盟を結んだり、誰を排除するのかをトロッコ問題的に議論したりと、サバイバルゲームとは異なるおもしろさが出るのもうまい。

この世界での「魔法」は物理的事象に関係してくるものもあるので、そのあたりの描写はサイエンス・フィクションのように読めるし、男女混合の6人であることから、物語の合間にはラブロマンスもあればブロマンス的な男同士の関係もあって──と、無数の要素がてんこもりになった作品である。

ざっとあらすじを紹介する。

前提となる世界観だが、魔法は一般に知られるもので、魔法大学もあれば、魔法を使ったベンチャーキャピタリスト会社なども存在するようだ。世界の人口は95億人で、そのうち魔法が使えるものは500万人。中でもメディアン級と呼ばれる魔法使いで確認されているのは6%、最高峰の魔法大学に入学できるのは10%程度だという。

さらにその中から選抜が進み、30人まで絞り込まれた最終選考ををくぐり抜けたものたちが、世界最高の魔法使いが集まる〈協会〉から選ばれし6人となる。彼らは最初に6人集められるが、最終的に会員になれるのは5人だけ。最初に〈協会〉の勧誘を受けるのは、世界に二人しかいない元素を使いこなす物理術師のリビーとニコだ。

ニコは有名なメディアンの一族の出で、幼い頃から宮殿で個人的に訓練を受けていた天才。一方リビーは家系に魔法使いすらもおらず、最初は魔法大学ではなくコロンビア大学に行くつもりで──と世界有数の才能を持ちながらも、いやむしろそうであるがゆえの葛藤を抱えた二人の在り方と共に、勧誘の過程が描かれていく。

続いて勧誘を受けるのは日本人のレイナ・モリ。この世界ではトウキョウは魔法的なものと常人の両方の技術において進歩の震源地であるとされる。レイナ・モリは、そんなトウキョウで生まれた瞬間から自然を操るナチュラリストとしての才能を発揮し、病院の高層階にいながら、観葉植物、花瓶にいけられた見舞いの花、それら自然の産物が赤ん坊である彼女に這い寄ってきたというほどの逸材だ。『レイナの祖母は彼女の誕生を奇跡と呼び、レイナが初めて息をしたとき、世界はそれに応えて安堵のため息をつき、彼女に与えられた命の恵みにすがりついたのだといっていた。』

レイナはギリシャの魔法使いであるキルケーの手稿のうつし(読んだ人たちが内容を書き留めた伝達版)を読んでいるが、突如現れた勧誘者のアトラスに、〈協会〉に参加すればその本物が読めると言われ、参加を決める──。

と、それぞれが固有の能力を持って、そうであるがゆえに性格的にも少しねじ曲がった魔法使いらなので(たとえばトリスタンは幻を見通し偽りを見抜くといわれる幻術師だが、能力のせいで冷笑主義的な人物になってしまっている)、〈協会〉の勧誘を受ける理由も、勧誘の手段も異なっている。時にその能力の真価がわかりづらい魔法使いもいるが、物語が進行していくにつれてその人物が選出された意味、そしてこの世界における「魔法」とは何なのかについて、より深堀りされていくことになる。

集団戦能力バトルもののおもしろさについて

さて、6人は勧誘を受けて一箇所に集められ、一緒に暮らし、食事をとることになるが、別にブルーロックみたいにいきなり他者を蹴落とせといわれるわけではない。むしろ6人の専門分野はおたがいに補い合うために選ばれており、物語の多くの場面で彼らは仲良しこよしというわけではないがお互いに交流をはかっていく。

研修生となった彼らに最初に与えられる任務は、〈協会〉の情報を狙う的に対する魔法的防御の構築だ。〈協会〉は秘匿性の高い組織なのでその情報を狙う者たちもいて、彼らは研修生ながらも──試験もこみで──その対応にあたることになる。

襲撃犯らは魔法使いだけでなく普通に銃を使う特殊部隊も存在していて(魔法使いは数が少ないので基本的に銃が主軸の混成舞台だ)、それにたいして物理術師やナチュラリストがどのように戦っていくのか──といったあたりは、能力バトル的なおもしろさがある部分といえる。物理術師はこの手の肉弾戦においては最強で、重力をゆがめたかと思えば周囲の物を好き勝手に動かし、防御も可能と反則級の強さがある。

一方で真実を見通すことができる幻術師(トリスタン)も敵の幻術使いに対抗するためには必須級の存在であり、遮蔽魔法など様々な能力が交錯する、「集団戦が発生する特殊能力バトルもの」のおもしろさがしっかりと描きこまれている。

「魔法」の深堀りとSF的なおもしろさ

能力バトル的な側面と同時に、「魔法」とは何なのか? を掘っていく部分も本作の魅力。たとえば、〈協会〉では魔法と科学のあいだに線引をしていないという。

「──自然に関する研究、そして生命それ自体の性質に関する研究のほとんどは、どのような魔法も排除しないことを暗にほのめかしていると指摘されている。実際、中世の天国と宇宙に関する研究にさえ、科学と魔法、両方の面から行われたことが示唆されているものがある。たとえばダンテは『天国篇』で、地球とその大気を芸術的に解釈しているが、それは不正確なものではない。ダンテが描いた天国の神秘的雰囲気は、科学と魔法、両方の力に起因していると考えられた」

たとえば物理術師は物理的事象を引き起こすと書いてきたが、彼らはどこまでのことができるのか? その能力を高め、研究を重ねていけば、ワームホールやブラックホールといった、現実の物理事象を生み出すことだってできるのかもしれない。

彼らはそれを応用すれば凄まじいエネルギーを生み出すこと、時間の干渉さえも可能にするだろう──と、本作はたしかに魔法が主軸となっているファンタジーではあるが、科学と魔法を区別しないがゆえに、物語後半からはSF的なおもしろさも発揮されていくのである。

おわりに

6人のうち5人しか正会員になれないわけだが、ではその排除された1人はその後どうなってしまうのか。また彼らが集められた「真の理由」は存在するのか? 才能ある彼らは本当におとなしくその選考過程を受け入れるのかなど様々な問いかけが続き、単に選抜の話で終わらないスケール性やミステリっぽさも後半では出てきて、上下巻ほとんどノンストップで読み切ってしまった。三部作の第一部なのでこれだけで話が終わっていないのだけど、非常におもしろい作品なので、ぜひ読んでね。

最後に宣伝

最近SFに入門できる本を書いたので良かったらこっちも買ってください。評判もけっこういいかんじです。

《ウィッチャー》ワールドの原点とその本質的な魅力を味わえる、入門にうってつけの一冊──『ウィッチャー短篇集1 最後の願い』

ポーランドの作家アンドレイ・サプコフスキによるファンタジィ小説シリーズ《ウィッチャー》は、小説も世界的なベストセラーであるが、本作を原作としたゲームの三部作が爆発的にヒットし本邦でも有名になった作品だ。中でもゲーム完結編となる3は、オープンワールドRPGのトップとして挙げる人が多いほど中身も傑作であった。

ゲーム完結後、Netflixでドラマも始まり(先月第二シーズンが公開)、本邦で止まっていた長篇の翻訳もリスタートし完結巻の5巻まで刊行され──と様々な展開が進行中の本作だが、その流れに乗って短篇集もこうして翻訳されることとなった。邦訳としては長篇の後の刊行になるが、作中の時系列的にも原書的にもこの短篇集の方が先であり、いわば《ウィッチャー》ワールドの原点を味わえる作品集になっている。

ウィッチャーとは何なのかを説明するプロトタイプ的な短篇に始まり、イェネファーなど作品を代表する女性と主人公ゲラルトの出会いなど、おいしいところがいっぱい詰まっているので、ドラマをみて今から《ウィッチャー》読み始めたいな〜という人は本書から読むのをおすすめしたい。では、本書には全部で6篇が収録されているので、一つずつ軽く紹介していこう。
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「ウィッチャー」とその世界観について

最初に軽く世界観について触れておくと、ベースとなっているのはスラヴ神話だ。ただ、取り入れられている要素はそれにとどまらず、エルフやドワーフ、空間同士を繋ぐ門を操る魔法使いなど、ファンタジィやゲーム的要素がごった煮になって現れている。なぜそのような世界なのか? も長篇を読んでこの世界の成り立ちを知るとわかるようになっていて、メタフィクションのような構造のおもしろさが長篇にはある。

短篇に話を戻すと、最初に収録されているのは、ウィッチャー、そして主人公のゲラルトについてを紹介する、プロトタイプ的な短篇「ウィッチャー」だ。ウィッチャーとは霊薬で体を強化し、金をもらってモンスターを殺すプロのモンスターハンターらのこと。ただ、彼らがモンスター・ハントのプロフェッショナルとして知られているのは、単純に力が強く怪物を圧倒できるから、というだけではない。

彼らは(強いのは前提として)何百種類もいる怪物の性質や生態をよく識っており、必要に応じて罠を仕掛け、特別な霊薬を調合する知識と技術を持っている。だからこそプロフェッショナルなのだ。サプコフスキはこの短篇「ウィッチャー」をポーランドの雑誌の短篇コンテストに送りつけ採用されたのだが、その時の狙いは「靴磨き職人がドラゴンを討伐するようなリアリティのないポーランドのおとぎ話を、現代のリアルな物語として蘇らせること」だったと語っている。ドラゴンを殺せるのは、素人ではなく怪物殺しの知識を持ったプロフェッショナルだ、というわけだ。*1
短篇「ウィッチャー」では王女が変質した怪物ストリガを、呪いを解いて元に戻すために奮闘するゲラルトの姿が描かれる。それはただ殺すよりも難しく、特殊な知識が必要とされるもので、実にウィッチャーらしい短篇に仕上がっている。

一粒の真実

「一粒の真実」は、怪物とは何かを問う一篇。この短篇にも呪いによって怪物に変質した男が出てくるが、男は理性を保っていて、陽気にゲラルトと会話を交わすこともできる。男はおとぎ話でよくある呪いを解くための手法として、真実の愛とキスを手に入れようと村の娘たちを金銀財宝と引き換えに一人ずつもてなしていたが、ある時からその解決をすっかり諦め、怪物の姿で生きることを受け入れるようになる──。

結末はビターで、おとぎ話の結末のように呪いが解けてよかったよかった、といくわけではない。とはいえ、おとぎ話にも「一粒の真実」は含まれていて──と、これもサプコフスキ流の”おとぎ話のリアルな解釈”譚といえるだろう。

小さな悪

ゲラルトはゲームでも長篇でも短篇でもよく正解のない問いの前で葛藤するが、この「小さな悪」はそれが最もわかりやすい形で現れている短篇だ。

ゲラルトはかつての友である魔法使いストレゴボルに、自分(ストレゴボル)を狙う暗殺者の女性レンフリを殺してくれと頼まれるが、ゲラルトは彼には恨まれるに足る理由があると判断し、これを拒否。ストレゴボルはなお引き下がらず、レンフリの危険性を指摘し、大きな善のために、小さな悪を受け入れろとゲラルトに迫る。

「悪は悪だ、ストレゴボル」ゲラルトは真剣な表情で立ち上がった。「小さな悪、大きな悪、その中間の悪、どれも同じだ。区分は交渉しだい、境界線はあいまいだ。おれは敬虔な隠遁者ではない。これまでの人生、善行ばかりではなかった。だが、ひとつの悪と別の悪のどちらかを選べと言われたら、どちらも選ばない道をとる。そろそろ失礼する。明日また会おう」

確固たる意志をここでは述べているゲラルトだが、その後出会ったレンフリからも「小さな悪」の提案をもちかけられ、どちらかを選ばざるを得ない状況へと引きずり込まれていく。善と悪、悪と大きな悪の境界、怪物と非怪物の境界など、線上で揺れ動く様が描かれる。「ウィッチャー」に続き、実にウィッチャーらしい短篇だ。

値段の問題

長篇にも大きく関わってくる、〈驚きの法〉と運命についての一篇。〈驚きの法〉とはこの世界においては人類の歴史と同じぐらい古くからある契約のひとつで、誰かの命を助けたものが求めうる対価のこと。それは、”汝を最初に出迎えしものを我に与えよ”や”おまえがそうと知らずに家に残してきたものをくれ”だったり、何かしらの不確定性をはらむ対価のことであり、たとえその対価が王女のような重要な人物であったとしても、契約は必ず遂行されなければならない。

ゲラルトはある人物の命を助け、この〈驚きの法〉を持ちかけられることになる。はたして、その対価とは──。この短篇は登場人物がみな高潔な倫理観を持った人物で、読んていて気持ちが良い(ドラマでも一番好きな話数のひとつ)。

世界の果て

環境の変化に適応できず、数を減らし食糧難に陥りつつあるエルフと人間の境界についてを描き出す一篇。詩人ダンディリオン初登場回で、他と比べるとコミカル(プロのはずのゲラルトが軽いノリで気絶して命の危機にひんしていたりする)。

最後の願い

ラストは気高き女魔法使いイェネファーとゲラルトの出会いを描く「最後の願い」。3つの願いを叶えるジンの存在と、その力を欲したイェネファーがもたらす騒動を描き出しているが、これはなんといってもイェネファーのキャラが全てを持っていく。

イェネファーはおとぎ話は願いや欲望を自分でかなえようと夢見ることができぬ愚か者が作り出したものであるといい、次のように続けてみせる。『ほしいものがあれば、わたしはそれを夢みない──行動する。そしていつだってほしいものを手に入れる。』激烈にロマンチックな話でもあり、ラストに相応しい一篇だ。

おわりに

「値段の問題」に出てきた〈驚きの法〉はグリム童話の「ルンペルシュティルツヒェン」に源流があるし、「一粒の真実」は「美女と野獣」。「小さな悪」には「白雪姫」を彷彿とさせる要素があり──と、この短篇集のテーマを見つけ出すとするならばやはり「おとぎ話の語り直し」にあるといえるだろう。

ちなみに第二短篇集も2022年の早いうちに出してくれるそうなので、こちらにも期待したいところ。今、心の底から安心して推せる海外ファンタジィだ(ちゃんと刊行してくれるという安心感も含めて)

科学と魔法が混交した世界を見事描き出してみせた、ゲーム原作のNetflixアニメシリーズ──『アーケイン』

www.netflix.com
『アーケイン』を観た。ゲーム『リーグ・オブ・レジェンド』を原作とするNetflixのアニメ作品で、第一シーズンが配信されている。今月配信がスタートし『イカゲーム』を抜き去って各国でランキングの一位をとるなど盛り上がっているようだ。

僕は最近毎日LoLをやっているのでもちろん楽しく観た。LoLとは特殊な能力を持ったチャンピオンたちをプレイヤー一人一人がピックして、5vs5で戦うゲームであり、競技シーンも熱く世界大会は数千万人が視聴しトッププレイヤーは数億の契約金が支払われることもある。だが、日本では流行っているとは言い難い状況だ。

ゲームをしらないと楽しめないのか?

先に総評を述べておくと、アニメーションとしての質は非常に高く、シナリオもデザインも演出も素晴らしい。ゲームを知らないと楽しめないんじゃないの? と思うかもしれないが、そんなことはない。僕はこのゲームをやっているが、敵をぶち転がすのにハマっているだけで、どんなストーリーがあるとか、自分が使っているキャラクタにどんな背景があるのかとか何も知らない。スキル性能などを把握して強いやつ、使っていて楽しいやつを使っているだけで、ストーリーも世界観も何もわからない。

つまりゲームを何も知らなくても楽しむことができる。物語はゲーム中ではヴァイとジンクスという二人の姉妹を中心にした物語で、ゲームではヴァイ(姉)は両腕になんだかよくわからんが凄いパンチを繰り出せるガントレットをつけていて敵にまっすぐ突っ込んでいって(スキルの一つは「真っすぐいってぶっとばす」という幽白パロディ(翻訳のみ)の突撃スキルだ)ボコボコにするタイプのファイター・キャラクター。

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https://www.leagueoflegends.com/ja-jp/champions/vi/

一方のジンクス(妹)はそれとは反対で、爆弾とガトリングガンや長射程を持つロケットで相手を遠くから撃ち倒すことができる(そのかわりフォーカスされると即死する)ADC(Attack Damage Carry)と呼ばれる役割のチャンピオンである。

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https://www.leagueoflegends.com/ja-jp/champions/jinx/

ゲームをプレイしているだけだと二人がどんなキャラクタなのかはよくわからない。ピックしたりゲーム中に勝手にしゃべるので、それを聞いているとヴァイは血の気の多いタイプなんだろうな、とかジンクスはトリガーハッピーな頭のイカれたやつなんだろうな、と把握できるぐらいだ。で、このアニメーション作品はこの二人がどうやってゲームに登場しているような姿になったのかを描き出す前日譚にあたる。

このアニメに出てくるヴァイは両腕にガントレットをつけていないし、ジンクスも技術が好きなエンジニアではあるもののガトリングガンは持ってない弱気な少女である。二人は地下世界に住み時に上層に出かけていって強盗を働く、地下世界人としては普通の姉妹であり、なぜ彼女らがガントレットをつけたりガトリングガンを装備したトリガーハッピー的なキャラクタに変質したのか? が描かれていくことになる。

魔法と科学の入り混じった世界

物語には複数の中心軸がある。たとえば金もなければ治安も悪い地下世界と、すべてが整備された都市である上の世界の対立。復讐、暴力の連鎖。それまでは一部の才能ある人間しか使うことのできなかった魔法を誰にでも使えるようにするというジェイスという発明家の探求と、科学と魔法の混交。それによる社会変革について。

そうした、大まかに分類すれば上層と下層の対立、『フランケンシュタイン』から何度も語られてきた科学の進歩とそのリスクというテーマを通して、ヴァイというジンクスという二人の姉妹がなし崩し的に敵対的な立場に移行し、お互いを愛し合いながらも争う様子が描き出されていく。こうした「魔法と科学の入り混じった世界」というのはゲームの世界ではよくある設定だが、本作はその質感の描き方が好みだ。

この「質感」の好みみたいな部分は説明が難しいんだけど、たとえばデザイン上の造形がまずは好みというのがある。魔法を科学に応用するとなった時に、今の我々の世界にあるような何かを作り出すのではなくて、採掘用の道具として巨大なデカい拳で凄いパワーを発揮できるようにするガントレット(ヴァイがつけているやつ)を作るとか、それを発明したジェイスが使っているのも、その魔法の力を応用した巨大なハンマーであったりと、ケイトリンが使う勝手の悪そうなライフルであったり、デザイン的にスチームパンク&マジックの方に振り切っているのがまずおもしろい。

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https://universe.leagueoflegends.com/ja_JP/region/piltover/?mv=image-gallery 都市の情景も素晴らしい。

姉妹の重い情念の交錯

ストーリー的におもしろいのは重い情念というか、関係性の物語という側面にある。ヴァイとジンクスは両親をはやくに失った姉妹だがその後育ての親も自分たちがやらかしたことで失っていて、その後ヴァイとジンクスの対立は過激化。ヴァイはその後長く刑務所に入っていたが、その後出所して上層の権力者の娘であるケイトリンをジンクスの代わりの相棒としてジンクスのために動き回り、それをみてしまったヴァイとジンクスの溝は深まるものの逆にヴァイとケイトリンの仲が深まっていく──といった感じで、女性同士の関係性、姉妹物として非常に優れている。

ジンクスは幼き時に自分がやらかしたことでヴァイに一度見捨てられており、その時のトラウマが歳をとってもPTSD的にずっと残っていて、かなり重い情念と恨みをヴァイ(とケイトリン)に向けるんだよね。男女の絡みなどもあるが、基本はヴァイ、ジンクス、ケイトリンといった女性三人の関係性が主軸となっていくのだ。

戦闘とそのアニメーションについて

LoLといえばスキルを用いた派手な戦闘にあるので当然アニメ作品にもそれを求めたくなるし、実際それは第一シーズンの中に組み込まれているのだが、意外に戦闘要素は控えめである。何しろ第一シーズンのほとんどの話数を通してヴァイはただ格闘が強いだけの少女でガントレットは身につけていないし、それはジンクスや他のキャラクタも同様である。つまりゲームらしい──特殊な能力を持った派手なチャンピオンたちが集団戦で自分のスキルを発揮する──シーンは序盤はまったくない。

ただ、それでも前半がきちんとヴァイとジンクス、下層と上層の対立の物語としてドラマ的に十分に観れるものになっていることにまず驚いた。3Dと手書きが混交したアニメーションは素晴らしい仕上がりで、ほんのちょっとしたふれあいや日常的な動作こそが丹念に描かれていて、そうした積み重ねがあるからこそ普通に描くと説得力のなくなる科学と魔法の混交とした世界とその都市が受け入れやすくなる。

戦闘シーンをぎっしり詰め込んだ戦闘ポルノのようなアニメにすることもできたはずだが、本作はそこには踏み込まなかった。そして、溜めに溜めて人間同士の関係性とその背景にある世界観を丹念に描き出してきた分、後半に訪れるヴァイがガントレットを手に入れゲームで見慣れたあの姿になった瞬間や、ジェイスやケイトリンといったゲームでも人気なキャラクタたちが暴れまわるのが魅力的に感じられる。

おわりに

素晴らしい作品なのは間違いなく、ヒットを飛ばしているだけあって第二シーズンもすぐに決まったようだ(話的にも第一シーズンではまだまだこれからといったかんじ。ゲームでは100体以上いるチャンピオンもほとんど出てないし)。

惜しいのはこれを観てゲームLoLに手を出そうと思っても、ゲーム内の民度が著しく低く下手くそなプレイヤーに対する煽りや暴言が当然のものになっている状況で、今からはじめると間違いなく暴言を食らう点にある。僕はポケモンユナイトからMOBAに入ってその後LoLに手を伸ばした超絶新参ものなのだけど、「お前このゲームの才能ないよ」とか「ゲームやめろ」という暴言の数々や凄まじい量のピンの連打(退却や戦闘開始といった定型の意思や、アイテム名などを通知するベルのようなもの)を喰らって心が折れかけた。結局チャットもエモートもオールミュートにして相手が何を言ってこようが何も見えない状態にして続けているが、まあ気持ちよくはないわな。

ゲームとしてはLoLのスマホ版のワイルドリフト(こちらも暴言・煽りは多発するが、ゲーム時間がPC版より短いせいか激しくない。僕はこっちも全部ミュートだが)、チャンピオンが共通しているカードゲームの『レジェンド・オブ・ルーンテラ』の方が良さそう(僕はカードゲームはMTGで手一杯なのでこっちはやっていないが世界観を知る・楽しむにはこれがいいらしい)。

動物の言葉を話す男と古代のおとぎ話を忘れた近代社会が対立する、エストニア発の傑作ファンタジィ──『蛇の言葉を話した男』

この『蛇の言葉を話した男』は、エストニアで歴代トップ10に入るベストセラーに入り、フランス語版も大ヒットして14ヶ国語に翻訳されたファンタジィ長篇である。帯には、『これがどんな本かって? トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が世界の終わりに一緒に酒を呑みながら最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。』という惹句がついていて、最初から期待して読み始めたのだが、いやはやこれが期待を遥かに上回ってきた。今年読んだ外国文学の中ではピカイチの作品と断言できる。

本作は、蛇やクマといった動物と言葉を交わし、強制的に命令を発することもできる「蛇の言葉」を扱う森の住民たちと、そうした古の文化を忘れ、科学技術を得て新しい社会を築き上げてきた近代社会の摩擦、戦いの話であり、リアリストの語り手の少年を筆頭に、人間の女にすぐ惚れてしまうクマ、暴力ですべてを解決しようとするヤバいジジイ、伝説の蛇サラマンドルなどキャラクタや生物の魅力が飛び抜けている。

エストニア発の作品なので、その歴史が色濃く反映されてもいるのだけれども、普通に読む分には意識しなくても問題はない。基本は蛇の言葉を話す最後の男となった少年が成長し、すべてを失いつつ戦いに赴く話なので、何も考えずに読んでも、アクの強いキャラクタたちと、感情の導線に従って、まるでマーベル作品を鑑賞しているかのように楽しむことができるだろう。特に終盤は本を持つ手が震えてくるほどの展開で──と語りたいことが山ほどあるので、具体的に紹介していきたい。

世界観など

舞台になっているのはエストニアだが、時代は中世〜近代あたりのまだあまり技術レベルが発展していない段階のどこかのように読める。そんな世界では、かつて存在していた古き伝統の「おとぎ話的な世界」は、だんだんと忘れ去られつつある。

たとえば、「蛇の言葉」という動物と会話をすることができる特殊な言葉がこの世界には存在する。森で暮らすある部族は、この言葉を駆使して狩りをしたり、蛇やクマたちと共生することに成功している。さらには、この蛇の言葉を使う者が1万人集まって音を一斉に鳴らすことで、森ほどのとてつもない大きさで空を飛ぶ、伝説の蛇サラマンドルを呼び起こすことができるといわれているなど、他様々な伝承がある。

だが、今ではこの「蛇の言葉」を話せる人間はほとんどおらず、物語開始時点では、語り手レーメット少年のおじさんを始め10人ほどしかいない。1万人集めるなんて夢のまた夢。だが、レーメットはそのおじさんから直接蛇の言葉のレクチャーを受けることで、森における最後の蛇の言葉の使い手として成長していく。この蛇の言葉は比喩的に動物と話ができるわけではなくて、明確に蛇やクマと意味のある会話ができるので、本作には普通に喋る登場人物として動物たちが現れることになる。

失われていく物語

そんな世界で繰り返し描かれていくのは古の伝統と新しい時代の対立だ。レーメットらが暮らす森のすぐ近くには村があり、そこでは誰も蛇の言葉など信じていない。新たに開発された道具を使い、城や鎧といった新しい道具に慣れ親しんでいる。パンを食べ、肉はほとんど食べれないが、それでも十分幸せだと感じている。城や宮殿に住む人間がいる時代に、森で狩りをして暮らすなんて狂っている、というわけだ。

一方森の住人のレーメットらからしてみれば、蛇の言葉を知らないから家畜を集めてそれを管理し、餌を与えるなんて馬鹿げたことをやらないといけない。鎌やら熊手やらといった馬鹿げた道具を必要とするのは、かつて存在していた古き伝統と技術を忘れてしまったからで、森にいれば好きなだけ美味しい肉を食べることができる。

森に住んでいる人間のこうした主張には理もあるといえばあるが、作中では森の部族はあくまでも滅びゆくものとして描かれていく。森の人々はどんどん村に移住し、レーメットやその母親とおじさんのような、ごく一部の人間だけが今や森に残っていて、文化の継承ももはや途切れつつあり、その流れは変えようがない。

つまり、これは「伝統の終わり」についての話なのである。あらゆる文化はいつか終わりを迎えるが、レーメットは最後の森の男であり、蛇の言葉の最後の話者であり、と様々な「最後の男」「かつて存在していた文化の看取り手」になっていく。本作の中心にはレーメット少年の成長譚があるが、物語はシンプルな成長譚にはおさまらない。彼の人生は常に彼の身の回りにかつてあったものの喪失と共にあるからだ。

何を信じるのか。

そう書くと失われていく古い伝統をノスタルジックで感傷的に描き出した物語なのかと思うかもしれないが、実際はまったく違う。終わりを受け入れる物語ではあるのだが、タダで受け入れてやるわけではない。そこには強烈な怒りの発露がある。

レーメットはもともと森を捨てた父親によって、村で産まれ育てられたが、その後父親の死に伴い森に帰ったという経緯があり、森と村をまたにかける存在として描かれている。そんな彼にとって、伝統の森か近代の村、どちらが理想的な世界、ということはない。心情的にも身体的にも森に居心地の良さを覚えているが、最後まで森に残ることを選択した他の人間は、それはそれで思想や心情が歪んでいるのである。

たとえば、森にはもう人間がほとんどおらずその数は少なくなる一方であることを受け入れられない人間がいる。もはやそれは戻ってくることがないにも関わらず、サラマンドルなど過去の栄光にすがり、そのことばかり語る。また、古き良き伝統が失われていくことを認められないがために、その反動から最も昔の風習にしがみつき、誰も信じていない呪いの話に執着し、それを他者に押し付けて疎まれる。

 ウルガスとタンベットは村に移り住んだ者たちを皆憎んでいたが、彼ら自身も、すでに真の森の住人とは言えないことをぼくが理解したのはずっと後になってからだった。彼らは、古代の森の風習が死に絶えつつあるのを辛く苦々しく思いながら暮らし、その反動から、最も昔の秘された魔術と風習にしがみついていた。

森にそんなやべーやつがいるなら村に行けばいいじゃないか、と思うかもしれないが、村は村で、また別の偏見と思想が支配している。キリスト教が蔓延し、さらには自分たちが立ち入ることのできない森に過剰な幻想をいだいているせいで、人狼がいると思い込んだり、精霊や闇の力を持った存在がいると妄想しているのだ。レーメットは、森の住人の言い分にも村の住人の言い分にもバカバカしさを感じてしまう。

どこにいっても居心地の悪さを感じる彼に、安住の地はなかなか訪れない。物語は半分を過ぎたところから凄まじい勢いで加速していくが、その加速のきっかけとなるレーメットの師は、戦いに生きがいをもとめるある種の狂人で、だがそれ故に真実を言い当てることで、レーメットに新しい方向性と、何より怒りを与えるのだ。

物事とは、本当は何もかも簡単なのだ。自分たちはどこか遠くに住み、もう邪魔しないから、ぼくたちを放っておいてくれとタンベットを説得してみようなどという案は、馬鹿馬鹿しく思われた。本当に間抜けな話。殺してしまえば問題はすべて解決なのだ。
(……)そこには、生き生きとして、怒りに燃え、野放図で残酷、独立心に満ち、何がどうなっても構わないという態度があった。この老人にはサラマンドルの炎にも似た力があった。ぼくたちの内部ではその炎は消えていた。でもひょっとしたらその炎が燃え上がるかもしれない。

おわりに

物語の終盤のカタストロフは凄まじいというほかない。それでいて、神にも精霊にも祈らないレーメットは、蛇の言葉が消えゆく存在であることをごく自然に受け入れ、ラストをとても静かで、そして幻想的に迎えることになる。エンタメ的にも文学的にも、傑作という評価をいささかもためらう必要のない、圧巻の作品だ。*1

*1:本作は2007年に刊行された作品だが、古の伝統や文化が消え、新しい文化が勃興してくることはこれまで何度も行われてきたことだ。いつ読んでもその時に起こっている何らかの事象を当てはめられる、普遍的な物語として読める。

厳重に階層が固定されたミツバチの社会を蜂視点で描き出す、神話的なディストピア文学──『蜂の物語』

週刊少年ジャンプにはこれまで様々な打ち切り漫画が生まれてきたが、僕がその中でも最も打ち切りがショックだったのが、マキバオーなどで知られるつの丸による『サバイビー』だった。ミツバチを主人公に、その生態やスズメバチなどの敵との戦いをしっかりと描き出していく異色作。登場蜂物が俺達は群れなのだから一匹死んでも全体が生き残ればいいんだ!! といってスズメバチに向かって腕や足などを欠損させながらも戦いをやめず、虐殺されていくさまは子供心にトラウマを負ったものだ。結果的に打ち切りになってしまったわけだけれども、『サバイビー』を読んでいてミツバチって物語の主人公にするには格好の題材だな、と思わずにはいられなかった(『みなしごハッチ』の記憶も関係しているが)。というのも、虫でありながらも高度な社会性がある点が、人類社会とのアナロジーで想像力を喚起させやすく、ミツバチの周りにはスズメバチのような強敵がウヨウヨしていて、物語展開上あると嬉しい絶望的な戦いが頻発しやすい。さらに、女王蜂は寿命が尽きかけると、巣に新しい女王蜂が生み出され、古い女王蜂が1万〜2万ほどの働き蜂を連れて出ていくダイナミックな世代交代のシステムあり、こうした部分もドラマティックである。

こんなことを考えていたので、いつか長篇の『サバイビー』が読みてぇなあと思い続けていたのだけれども、海外ではこの「ミツバチの視点から描き出す人生」を描く作品が刊行されていたようだ。イギリスの劇作家として知られるラリーン・ポールの小説第一作である本書『蜂の物語』がまさにそれで、ある養蜂家に育てられているミツバチの巣を舞台に、巣の中の死体処理や掃除を担当する、最底辺の階層に属する一匹の雌蜂であるフローラ717を主人公に物語が展開する、蜂文学である。

蜂版『侍女の物語』

蜂の社会は当然だが完全に役割が固定化された社会で、頂点に子供を産める女王蜂がおり、雌蜂は働き蜂として女王に餌を持ち込み、巣の中を掃除したりといった労働に従事するために存在している。本作の主人公フローラ717も、最初は死体をどかしたり掃除をする最下層の衛生蜂としてキャリアをスタートさせるが、その知性(この物語内では通常衛生蜂はしゃべれないとされているが、フローラは喋ることができる)や働き(スズメバチとの死闘)が認められて、例外的に様々な役割を経験していく。

蜂たちは〈集合意識〉によって管理され、〝受け入れ、したがい、仕えよ〟、〝怠惰は罪〟、〝不知は罪、強欲は罪〟というルールが何度も何度も繰り返される。蜂からみれば集合意識に管理され、役割が固定し、群れのために死んでいくのは当然だが、人間の視点からみると高度に管理されたディストピアであり、アトウッド『侍女の物語』やオーウェル『一九八四年』の蜂版であるとの評もある。社会の持つ意味が人間と蜂では全然違うが、確かに起こっていることを見比べると、あまり大差はない。

ミツバチのサイクルが描かれていく

女王蜂は上位存在だが、無限に生きるわけではない。女王が病気であることが徐々に明らかになり、女王亡き後、どの族が女王を産むのか──といった世代交代の話題と、ミツバチ社会の一サイクルが神話的に描かれいくのも本作のポイント。

サイクルの描写の一つとしておもしろかったのが、きちんと越冬が描かれている点だ。マルハナバチや社会性のコハナバチのコロニーは、通常冬眠する交尾済みの女王だけを残して死滅するが、ミツバチのコロニーは冬の間も社会的集団としての機能を保ち、休眠状態などになるわけでもなく、活動し続ける。巣穴内のミツバチは、互いに寄り添うことで断熱性のある「越冬蜂球」を形成し、飛翔筋を利用して自らを温めることで、気温が-30度を下回るような環境であっても生き残ることができるのだ。

「わが娘たちに祝福あれ」女王が言った。「ふたたび会わんことを」
「これより〈蜂球〉を作ります」サルビア巫女団がひとつの声で言い、姉妹たちに指図しながら球をつくりはじめた。
 まずは最上級の族からだ。蜂たちは王族を取りかこみ、それぞれの体を優雅な切りばめ細工のように引っかけてから族から族へとつなぎ、下まで到達すると、たがいを引きあげ、ささえ合い、呼吸できるすきまをつねに正確かつ慎重に残しつつ、中心の女王を包む大きな塊のまわりを囲むようにのぼった。

本作ではこうしたファンタジックな描写になってはいるものの、越冬に備え死者が増加しながらもなんとか命をつなごうと越冬蜂球を作り上げる様が描かれていく。

もう一つ、ミツバチの生態において、(物語的に)外せない要素の一つに「スズメバチとの戦い」がある。通常、スズメバチとミツバチは体格が違いすぎてまるでかなわずに虐殺されるのだが、ミツバチはその数を活かした対抗手段を生み出してきた。たとえば、ニホンミツバチをはじめとしたアジアのミツバチは、スズメバチを取り囲んで自分たちの体を激しく振動させることで温度を上昇させ、47度以上にして蒸し殺す、「越冬蜂球」の応用技である「熱殺蜂球」という技を持っている。
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これをはじめて映像で見た時はかなりの衝撃を受けたのだが、実はニホンミツバチだけでなくセイヨウミツバチも同様のやり方(少し違うんだけど)でスズメバチを殺すことが近年報告されている。本書でももちろんバトルは発生するのだが──、このあたりの鬼気迫るvsスズメバチ戦の描写は、ぜひ実際に読んでみて欲しいところだ。

おわりに

衛生蜂という最下層から始まるフローラ717の立身出世の物語を通して、読み終える頃にはミツバチという魅力的な虫に興味を持つようになっているだろう。僕はもともとミツバチけっこう好きな方だと思うけど、それでもさらに好きになったし、ついでにいろいろ調べてしまった。

数万の兵力に匹敵する能力者同士が世界の覇権をめぐってしのぎを削る、てんこもりのファンタジー能力者戦記!──『隷王戦記1 フルースィーヤの血盟』

この『隷王戦記』は、時代小説大賞を2018年に『火神子 天孫に抗いし者』で受賞しその後メディアワークス文庫だったり朝日新聞出版だったりとぽんぽん時代・戦記物を刊行してきている期待の新鋭森山光太郎の最新作である。ジャンルとしては特殊な力の存在する異世界戦記物といったかんじで、早川書房ではもちろん初お披露目、それでいきなり単巻物じゃなく全3巻のシリーズということで、気合が入っている。

SFマガジン編集長の塩澤氏も何がなんだかよくわからないがとにかくすごそうな絶賛をしていて*1期待しながら読み始めたのだけれども──これはたしかにめちゃくちゃおもしろい! いまこんな異世界戦記が読めるとは。著者はあとがきで、田中芳樹の『銀河英雄伝説』や『アルスラーン戦記』、北方謙三の三国志や水滸伝といった戦記物が好きだと語り、世界観については、『ホビットの冒険』と『指輪物語』、『そして「ロード・オブ・ザ・リング」という映画が、世界を一から作ってみたいという夢を私に抱かせたことを思い出したのです』と語っているが、まさにそれらの血を受け継ぎ、新しい、作家の個性を出した形にまとめあげたな、という感じである。

もちろん僕は銀河英雄伝説もアルスラーン戦記も三国志も水滸伝も大好き。読書のキャリアとしては、SFやらノンフィクションを読み漁るようになるずっと前、小学生の頃は、もうそりゃ雨後の筍みたいに無限に刊行されている新選組小説やら司馬遼太郎やら宮城谷昌光やらといった時代小説、戦記物ばかり読んでいたから、そりゃもう好きにならないわけがない。そして、架空戦記ものの醍醐味はオリジナルの国家、オリジナルの世界独自の奥行きをどう出すのか? 異世界要素をどう配分し、どう混ぜ込んでくるのか? にあるが、本作はそこが十全に描きこまれているのだ。

世界観とか

というわけで内容を紹介してみよう。まず、舞台になっている場所はパルテア大陸というオーストラリアみたいな形の大きな陸地。そこが主に3つの地方によって分かれている。ひとつは12の大国が均衡を保つ西方世界、群雄割拠の世界の中央(セントロ)、そして史上初の覇者と呼ぶべき存在が現れた東方世界(オリエント)。

中心人物となるカイエンは草原の民と呼ばれる集団に属し、東方世界の端っこの方にいて、東方世界の覇者、エルジャムカ・オルダの征服をそれまで受けずにきたのだが、物語開始時点でその侵略をまさに受けようとしているところである。草原の民は総数30万人近く、戦える男だけでも10万人もいるが、それだけいても総兵力100万の東方世界には敵わない。服従すれば命は助かるが、男は戦の戦線に立たされ、女子供と老人は働かされ死んでいく。物語開始時点から難しい決断を迫られている。

ここでおもしろいのが、服従か、抵抗して皆殺しか以外に第3の道が残されている点にある。この世界には〈守護者〉と〈背教者〉という、人の感情を操ったり、業火を自在に操ったりといった特殊な力を持つ人間が極少数存在していて、草原の民の姫はその中でも人の心を操る能力を持っている。姫を差し出せば、奴隷にせず臣下として扱おう、と言ってきたのだ。姫の力がどれほどのものか、今は定かではないが、何十、何百万人といった人間の心を同時に操ることができるのであれば、戦局を一変させるほどの力を持ちうる。東方の覇者の目標は東方だけではなく大陸制覇にあるようで、そのためには必ず必要な能力といえるだろう。

能力のおもしろさ

この手のファンタジイ戦記でこの手の能力や魔法的何かをどのように表現するのかというのは難しいところだけど(ドラクエとかの魔法っぽくしすぎるのもどうなんだとかいろいろある)、本作の能力の質感はかなり好きだ。たとえば東方の覇者は〈人類の守護者〉と呼ばれ、その能力は槍も剣も銃弾も効かない邪兵を生み出すこと。代償コストは血の兵が使命を遂げた時、同数の命が地上から消えるランダム性の高いもので、自勢力から死者が出るとは限らないので、出し得の能力といえる。

それが〈守護者〉たちの王、〈人類の守護者〉たるエルジャムカに与えられた力だった。力を使うほど、民に無差別な死が降り注ぐ。為政者たりえない力であることは、自分が一番よく分かっていた。

心を操る能力を持つフランと深い関係にあるカイエンは、その引き渡しを阻止しようとするが、草原の民3万の命を失ったうえで、あえなく失敗。フランのおかげでなんとか命をつないだカイエンだが、身分としては奴隷に落ち、東方世界から世界の中央の一都市へと奴隷戦士として売られてしまう。そこで彼は死に場所を求めて日々を生きていくのだが──最終的にはその実力を認められ、その都市の姫様の護衛につくことになり、徐々に奴隷のランクから立場をあげていくことになる。

世界は今まさに乱世を迎えており、4つの諸侯が争いを無限に繰り広げている世界の中央は、このままでは東方世界の統一された攻撃に耐えることができない。ゆえに、一刻も早く誰か英雄が現れ世界の中央を統合し、東方の覇者を迎え撃たねばならないのだが──その役割を担わされるのが、『隷王戦記』の書名からいっても、奴隷の身に一度落ちたカイエンということになるのだろう。

卍解!!

この世界における能力者、〈守護者〉と〈背教者〉はそれぞれ7人と3人、計10人存在し、伝承としては両者は争う運命にあるとされる。一人いるだけで数万の戦力に相当するんだけど、その戦力感が絶妙だ。三国志の武将なんかは小説によってはほとんど怪物、一騎当千どころか一人で数千、数万を足止めするような豪傑のように描かれていることがあるが、本作の場合は能力者がそうした豪傑的存在になっている。

それだけの戦力に相当する能力+世界に10人しかいないので、派手な能力が揃っているのがおもしろいポイント。先程の東方の覇者の能力も疲れない兵士を何千も出せるんだから当然強く、人心操作も反則級なのはいうまでもない。後半に出てくる能力者には、「お前はジョジョの終盤に出てくるスタンド使いかよ」みたいなやつがいたり、業火みたいなシンプルな能力者も、手から炎を出すとかそんなレベルじゃなくて、一定範囲を焼き尽くすマップ兵器みたいな性能をしているのでヤバい。

たとえば、能力者の一人の能力発動シーンは下記のような感じ(一部抜粋)。

エフテラームが諦観を言葉に滲ませた時、頭上を覆う炎の空が波打った。
「……散れ、椿カミリヤ
刹那、数え切れないほどの炎の流星が降り注いだ。

この世界、別に能力を発動する時になにか呪文を唱える必要があるとかはなさそうなんだけど、「……散れ、椿カミリヤ」を読んだ時僕の頭の中に浮かんだのは「こ、これは……千本桜……卍解じゃん……卍解のある戦記能力物じゃん……」だった。

おわりに

と、そんな感じの本である。第1巻だけあって、物語の前半は下地づくり、世界説明が多くてドライブがかからないんだけど、後半からはもうノンストップ。終盤の覚醒のシーン、能力者同士の戦闘シーン、すべてが圧巻なんだわ。愛する彼女を奪われた復讐だけでなく、争うべきとされている〈守護者〉と〈背教者〉の運命に反旗を翻す物語でもあり、本当に3巻で終わるのか……? というほどの世界の密度と大きさを感じさせてくれる第1巻、おもしろいファンタジイ戦記がここにある!

17世紀のイギリスを舞台にシャーマンキング的能力を持った少女が生存を賭けて奮戦するファンタジイ──『影を呑んだ少女』

影を呑んだ少女

影を呑んだ少女

この『影を呑んだ少女』は『嘘の木』や『カッコーの歌』で主に児童文学方面から高い評価を受けているフランシス・ハーディングによる三作目にして最新邦訳である。

フランシス・ハーディングの過去二作はどちらも極上のファンタジイだ。知恵をつけすぎると女性は愚かになるといわれていた19世紀末。「大きな嘘をつけばつくほど、大きな真実を宿した実をつける」特殊な木を中心にした物語『嘘の木』。20世紀初頭を舞台に、問題を抱えながらも平穏に暮らしていた一家のもとへ取り替え子的にやってきた一人の少女=人間の物語のアイデンティティの在り方を問いかける物語『カッコーの歌』と、比較的シンプルなファンタジイ設定を「少女の自己の在り方」や「少女が自由を獲得していく過程」と共に描き出してきたのが特徴といえる。

ハーディングの作品を読んでいると、残酷な社会の論理がつきつけてくる悲劇をきちんと描き出す一方で、そうした「大きな流れ」に抗うカッコいい大人たちの姿、強い女性陣らの活躍に溢れていて、僕はそこがとても好きだ。本作もファンタジイ設定および歴史的記述のの複雑性こそは増しているが、その系列に連なる一冊となる。

本作のファンタジイ的設定

では本作のファンタジイ的な設定は何かといえば、キイとなっているのは「幽霊」である。この世界では動物が死ぬと霊になってあたりをさまよい始めるのだが、ある特殊な能力を持ったフェルモット一族はそうした幽霊を頭の中に格納しておくことができる。幽霊たちと対話をすることもできるし、身体を明け渡すこともある、そうしたいわば漫画『シャーマンキング』的能力を持った一族の物語なのである。

舞台となっているのは17世紀のイギリスで、ちょうど国を二分する内乱であるピューリタン革命の真っ最中。主人公である少女メイクピースは、父親がその特殊な能力を持った一族の血を引く人物で、身重の母親がそれを嫌って館から逃亡。以後一人で育てていたのだけれども、ある時暴動によってその命を落とし、メイクピースはその所在を一族に知られ、引き取られてしまうことになる。引き取られる分には別にいいんじゃない? 親はもういないわけだし、「幽霊を御する一族」なんて一見したところ格好いい設定じゃないかと思うのだが、実態はとてつもなくおぞましいものだ。

フェルモット一族はメイクピースのような存在がいくら生まれてもたいして気にはしないで放っておく。だが、そうした子どもが悪い夢を見るようになると、なんとしてでも見つけ出して家の中に引き入れようとする。どれだけ悪いことをしても追放せず、家の中に留めておくし、脱出しようとしたら絶対に連れ戻す。それは一族の血を引くものを大切にしているからではなく、「予備」としてだ。一族の歴史的な偉人、跡継ぎなどがなくなった時、その幽霊を身体に入れておくための「保管箱」として。

あるいは、永続的にその身体を乗っ取るための容れ物として。フェルモット一族はそうして特別な技術と知識を長年に渡って後世へと引き継ぎ、国家や権力者への影響力を増してきた。メイクピースはその事実を知り、当然ながら一族から逃げ出そうとするのだが、幽霊の力を身に着けた一族からそう簡単に逃れられるものでもない。

さらにはそこで唯一兄として慕っていた人物が、緊急的な容れ物として先祖の幽霊を詰め込まれてしまう。兄を救うため、フェルモット一族を潰すためにメイクピースは戦乱の世に駆け出していくことになる。自身の能力を用い、自分と身の回りの手の届く人たちを助ける、ただそれだけのために。

シャーマンキング

最初は霊を無闇矢鱈に恐れているだけのメイクピースだったが、物語が進むにつれて次第に彼らとのやりとりをおぼえ、自分の中にうまくその能力を吸収することができるようになっていく。そうした能力的な向上というか、能力の理屈っぽい部分が事細かに描かれていくのはこれまでの作品とはちょっと違う(そして面白い)部分だ。

彼女はフェルモット一族のもとに連れてこられる前に、実は地元でクマの幽霊を頭の中に宿していた。何しろクマなので意思疎通もとれないし、コントロールもできず、最初は脳内で反響するうなり声に苦しめられる日々であったが、時が経つにつれお互いに最適な距離感をおぼえ、強い信頼関係で結ばれていく。脳内に潜入し後続の幽霊らが入りやすくする任務を担った「潜入者」など多種多様な要素が本作には投入されているのだけれども、クマを脳内に飼った少女は強く、簡単にやられはしない。

ピューリタン革命期のロンドンというのは、イギリス全史を通じても激動の時代で、とりわけ「何が正義で、何が悪なのか」がわかりづらい時代だったといえる。そんな時代にあって、古い秩序を打ち壊すために立ち上がるものとしてメイクピースは存在している。最初こそ少女だったメイクピースが、激動の日々を通して自分自身の衝動をよく制御する、タフで知的な女性に変貌していく過程がたまらない。

「いつだってフェルモット一族が勝つ」モーガンは言った。煙のような影に小さな稲妻が弱々しく揺れる。「わたくしはあの方たちにお仕えしている。でなければ、すべてを失ってしまうかもしれない。わたくしはそういう世界に生きている」
「じゃあ、その世界が終わるとしたらどうする?」メイクピースは問いかけた。「なにかが起ころうとしてるよね? なにもかもがひっくりかえりそうで、だれもがそれを感じてる。もし明日この世界が炎に包まれて終わったとしたら、あなたは最後までフェルモット家の忠実なしもべだったことに感謝する? それより、一度でいいから、反乱を起こしてみたかったとは思わない? すべてを賭けて、その悪知恵を絞って、あの人たちに立ちむかってみたいとは?」

もちろんそんな彼女を補佐する幽霊たちがいる。最初から存在しているクマを筆頭に、その後医療技術を持った人間もいれば、戦闘の知識を持った人間も──と、誰に対しても誠実であろうとする彼女にたいして、次第に協力してくれる幽霊が増えていく流れは、児童文学というよりも少年漫画的だ。特に、幽霊たちとの信頼関係が構築されその能力を利用できるようになっていく後半などはシャーマンキング的である。

おわりに

特殊な能力を持った一族とイギリスの歴史が密接に交錯していく点では、エドワード・ケアリーによる《アイアマンガー》三部作との類似点も多い。《アイアマンガー》三部作はこの5年ぐらいで僕がもっとも心を持っていかれた傑作ファンタジイなので、まだ未読の方がいればぜひ手にとってもらいたい。
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史上初の三年連続ヒューゴー賞を受賞した超弩級の破滅SF──『第五の季節 破壊された地球』

アメリカの女性作家N・K・ジェミシンによるこの『第五の季節』は、史上はじめて三年連続でヒューゴー賞を受賞したThe Broken Earth三部作の第一部にあたる。「破壊された地球」とあるように、数百年ごとに環境がめたくそになる天変地異に襲われ、多くの生物が死滅する大陸スティルネスを生きる人々を描き出している。

話題作だったので期待して読み始めたのだけれども、いやはやこれは期待にたがわぬおもしろさだ! 巻末の設定資料・用語集だけで20ページ近くあり、「数百年ごとに文明が破壊される世界の国家・社会システム、歴史はどのようなものになりえるのか」が練り込まれた世界観。この過酷な世界で特別な力を持つがゆえに自由を失い差別を受ける能力者の人々の人生の描き込み、類まれなるセリフまわしにそのすべてを統合するロジックと、読了時は優れたファンタジイを読んだ時に湧き上がってくるような、「何か巨大な構造物に触れてしまった……」という驚きがまずは訪れた。

三部作ものの第一部なのでここだけでは多くの謎が明らかになっていないのだけれども、これだけで十分におもしろいので興味を持った方はぜひ読んでみてもらいたい。

第五の季節

書名にもなっている〈第五の季節〉というのは、この世界に数百年ごとに訪れる、地震活動や大規模な天変地異──帝国による定義では六ヶ月以上に渡る──に渡る冬のことである。この世界ではこれが何度も繰り返されており、そのたびに多くの人間が死に、文明が滅んできた。ただし、その度にすべての人間が死んだわけではない。

スティルネスの住人はいつか第五の季節がくることはわかっているのだから、日本人が地震に備えて家を作るように、食料を備蓄し壁を築き井戸を掘り、その時に備えることができる。また、オロジェンと呼ばれる熱や運動エネルギーを操作する特殊な能力者たちが存在し、彼らの活躍もあって一部のコミュニティ、国家は生存を勝ち取ってきた。だがしかし新たな〈第五の季節〉は今回の変動による冬が数百、数千年も続く可能性があるという。はたしてその時には、いったいなにがおこるのか。そもそも、なぜ今回に限ってはそこまで破壊的な〈第五の季節〉がおこったのか?

 これだけは忘れてはならない──ひとつの物語の終わりは、べつの物語のはじまりだ。けっきょく、前にもこれとおなじことが起きていたのだ。人は死ぬ。古い秩序は消えていく。あたらしい社会が生まれる。「世界が終わった」といったりするが、それはたいてい嘘だ。なぜなら惑星は無事だからだ。
 しかし、世界はこうして終わる。
 世界はこうして終わる。
 世界はこうして終わる。
 つぎはない。

上記の意味深な引用部は謎の人物による物語冒頭の語りだが、物語自体は終わりに至る直前、この新しい季節の始まりから、三人の視点を通して描かれていく。

三人の物語

一人は息子を父親に殺され、娘を連れ去られたエッスンという40代の女性。なぜ父親が? と疑問に思うが、エッスンは熱や運動エネルギー操作能力を持つオロジェンの一人であり、その性質が子どもたちに遺伝していて、父親にバレてしまったのだ。

オロジェンはの強大な力は時に意図せぬ暴走を引き起こし、周囲の人間を殺し尽くすことがある。それゆえに、必要とされながらも同時に恐れられ、隠れオロジェンは見つけ次第殺されてもおかしくはない状況が続いている。父親の行動・判断はこの社会では決して異質なものではなく、むしろ称賛されうるものだ。

続くダマヤは、一般家庭に生まれたオロジェンの少女であり、両親からその力を恐れられ〈守護者〉と呼ばれるオロジェンを保護し、導く人々に引き渡される。その後の彼女のパートは、この呪われし力を制御し一人前のオロジェンになるまでが描かれていく。最後のパートは、帝国に所属するオロジェンで、指示に従って任務を実行するサイアナイトの視点で、彼女は上の命令に従って自分より高位の能力者であるアラバスターと新たなオロジェンを生み出すための子作りを半ば強制されながら旅に出る。

三人の物語はみなそれぞれ異なる形で差別され、自由を奪われたオロジェンの女性を中心にしている。エッスンは子供共々迫害され、ダマヤは両親からも見捨てられた。サイアナイトは帝国に所属してはいるものの、自由とはほど遠く、自分の地位を押し上げるために、望まぬ妊娠も受け入れるざるをえない。彼女より高位のオロジェンであるアラバスターさえも、自由なわけではない。本作は破滅的な状況を生き抜こうとする人々の物語だが、ただ「生き延びること」と「生きていく」ことは違う。

身体を道具に、心を武器にされ人生を縛り付けられているオロジェンたちが、自由を手にすることはできるのか。生き残ることだけではなく、そうした「差別と自由」の物語、「生きていくこと」の物語が、オロジェンを中心にして展開していくことになるのだ。三つばらばらの物語がどう繋がっていくのかは(この構成の巧みさは素晴らしい)、今巻だけでもわかるようになっているので、そこは心配しなくてもいい。

ファンタジイとかSFとか

ちなみに、「破滅SF」と書いているし創元のリリースにも書いてあるが、著者の謝辞では「ファンタジー」と書かれている。実際、オロジェンや国家、世界観の存在などをみてもらえればわかるように世界観・設定面ではファンタジーに近い。

一方でその能力にははっきりとした理屈が存在している。たとえばオロジェンが地殻変動をおさめるような凄い力を持っていて差別が嫌なら、オロジェン以外の普通人を皆殺しにすればいいじゃん、と思う。実際、過去にはそれを試みて国家をゆすったオロジェンもいるのだが、熱エネルギーや運動エネルギーを使って攻撃・防御をする関係上、周囲の物がすべて死に絶えていた場合操作することができずにほぼ無防備になってしまう問題があり、住民をすべて移動・建造物を灰にされて対処されたなど、わりとロジカルな戦いが展開される側面は、SFらしさを感じさせる側面である。

インタビューで著者は、本作で『魔法という言葉を使うつもりはなかった』(The idea was that I wasn't going to use the word “magic.”)*1と語っている。それは彼らの世界に当然あるもの。いわば物理法則と同じもので、魔法といって特別視をしない。彼らはそれをできるかぎり定量化して、機械的に扱い、訓練する。他所からの神話の援用ではなく、『彼らは自分たちの神話を生きている』(They are living their own myths.)というあたりが、この世界独特の構造・構成に大きく寄与しているように思う。

また、天変地異が基本的に大陸規模であること、最初の引用部にもあるように、常に枠組み、思想が「惑星」規模であることのスケール感もSF感を増している。ファンタジーでここまで「惑星」を中心に捉えて語っている作品は珍しいだろう。

おわりに

紹介しきれなかった要素として、人類とは異なる種族であるとされる「石喰い」という存在だったり、失われた文明による遺産である宙に浮かぶ「オベリスク」の存在であったり、〈耐性者〉、〈強力〉などのカースト制度が存在してることだったり、とにかく投入されている要素・文脈は数多い。

とにかく独自の世界であり、設定の量は膨大でにわかには飲み込みがたいかもしれないが、時間をかけるだけの価値がある作品だ。じっくり、楽しんでもらいたい!

資本主義の中に取り込まれてしまった最後の竜を描く、最高の現代ファンタジィ──『最後の竜殺し』

最後の竜殺し (竹書房文庫)

最後の竜殺し (竹書房文庫)

この『最後の竜殺し』は昨年、人口の99%以上が冬眠する極寒の世界をファンタジック&リリカルに描き出してみせた『雪降る夏空にきみと眠る』で(僕の)喝采をさらっていった作家、ジャスパー・フォードの最新邦訳である。いやー今回もめちゃくちゃへんてこで、それでいてポップで、とにかく楽しい、最高の現代ファンタジィだ。

書名に「最後の竜殺し」と入っているように、最後のドラゴンスレイヤーについての物語なのだけれども、いったいなにが「最後の」なのか? まず、本作の舞台となっている時代は、資本主義とエンタメが渦巻する現代。科学が発展し、それに伴ってなぜか魔法の力もどんどん弱まっている時代だ。たとえば、昔は天気予報で稼いでいた魔法使いたちも、もはやただの趣味にしかならない。魔法はどんどん面倒くさくなって「割りに合わない」ものになっていった状況の話なのである。

どんなにささやかな魔法でも、使うときには『恭順証書』と呼ばれる魔術師免許を持ってなくっちゃならないの。免許が取れたら、認可された”魔法管理会社”に配属される。そして魔法を使ったときは毎回必ず書類を提出しなくちゃならない。千シャンダー未満なら、”B2-5C”の用紙。千以上一万シャンダー未満なら、”B1-7G”、1万シャンダー以上のものは”P4-7D”の用紙をね」

そうした魔法の力が衰え管理されている世界であっても、まだドラゴンは存在している。ただし、ドラゴンはかつて強靭な魔術師との協定によってドラゴンランドの中に引きこもっていて、徐々にその数を減らしてきた。現在生き残っているのは最後の一頭のみ。ドラゴンに対抗するための存在で、代々たった一人の後継者に受け渡されていく「ドラゴンスレイヤー」の存在もまた、最後のひとりに近づいている。

で、そんな世知辛いファンタジィ世界で魔法使いたちが所属する会社を15歳にして代理社長として取り仕切っていかなければならなくなった少女ジェニファー・ストレンジが実は最後のドラゴンスレイヤーであることが判明して──と、彼女を中心としてドラゴンをめぐる冒険が始まるのである。ドラゴンランドは広大な土地であり、最後の竜が死ねばその土地の権利は宙に浮く。多くの人間は単なるゴシップとして竜の死に興味があるが、その広大な土地をゲットすればその資産的な価値は計り知れない。

ドラゴンランドに入ってドラゴンを殺せるのは、ドラゴンスレイヤーのみなので、ジェニファーは15歳にして資本主義の荒波に揉まれていくことになるのだ。

設定の詰めが素晴らしい

素晴らしいポイントはいくつもある本作だが、まず良いのは先の引用部にもあるような、「現代に魔法が存在していたら……」についてのディティールの詰め方だ。ジェニファーは魔術師たちを束ねるカザム魔法マネジメントの代理社長をやっているが、経営は順調とはいいがたい。魔術師は歳をとっていて、魔法の力は弱まっている。

魔法の力には一日の使用量に限度があるから使い所をみきわめなければならない。であれば、どのような業務に参入すべきか? 家のモグラを魔法で追い出すとか、なくしものを見つけるといったことは簡単にできるが、金にはならない。だが、配線の修理であれば魔術師は家に手を触れる必要もなければ引っ剥がす必要もないから技術的な優位性がある──みたいにかなり世知辛い魔法話が地道に展開していく。

魔法というのは、手っ取り早く呪文を唱えて力を解きはなてばききめがあらわれるというものではない。まず最初に問題をきちんと見きわめて、どの魔術を使えばいちばん効果的かをあらかじめ値踏みし、そのうえで呪文を唱えて力を解きはなつのだ。三人はまだ「問題を見きわめる」段階にいた。「見きわめ」の具体的な作業は、たいていの場合、上から下までじろじろ見まわして、お茶を飲み、話しあって、意見がぶつかって、また話しあって、お茶して、またじろじろ見まわす……というようなことだ。

ドラゴンが死ぬ

そうやって忙しい日々を送っていたジェニファーだが、ある時彼女の事務所のひとりが、最後のドラゴン・モルトカッシオンがドラゴンスレイヤーの剣に刺されて死ぬ日を予言する。具体的な日付はわからないが、来週中なのは間違いない。

この情報は、先に書いたように超重要情報だ。もしその日、その時間にドラゴンランドに一番乗りできれば、その土地を一瞬で自分のものにできる。それ以前から侵入してテントでもはってりゃええやんと思うかもしれないが、超強力な魔法が張り詰めているからドラゴンがいる状態で入ろうものなら即死だ。で、ジェニファーのところにいる以上の予知能力者などほぼ存在しないので、みなが彼女の元へ訪れるのだけれども、そこでの彼女の対応がまた偉かった。目先の金を追おうと思えばいくらでも追える状況で、ドラゴンの死をダシにして金を稼ぐのを手伝ったりなんかしたくない。

ドラゴンの近くには魔法の力が満ちていて、ドラゴンを売ることは魔法を売ることだ。だから、情報は絶対に売らないと宣言し、情報を報道局にリークしてしまう。

「ばかなことをしたね」わたしはいった。「ばかだけど、勇敢なことだった」
「ぼくらふたりともね。ミス・ストレンジ。仕事をやめそうになってたじゃない。やめてもらっちゃこまるよ」

報道局にリークしたことでドラゴンが死ぬ日は誰もが知るところになった。報道陣は連日押し寄せ、グッズなども作られ、資本主義がガンガン駆動していく。ジェニファーはそうした状況下において、ドラゴンのことをもっとよく知らねばと決心し、ドラゴンに最も詳しい存在と思われるドラゴンスレイヤーを探すことになるのだが──。

やっと見つけたドラゴンスレイヤーはこのドラゴン・システムが完成したとき(400年以上前)から予定されていた後継者を探していて、なんでもジェニファー・ストレンジがまさにそれであるという。本来は10年間かけて勉強し、深く学び、精神的な調和を体得してからでなければドラゴンスレイヤーになることはできないが、何しろ時間がないのでジェニファーはドラゴンスレイヤー速習コースを受けることになる。

本に手をのせて1分でドラゴンスレイヤーのなんたるかを叩き込まれ、「見習いになるだけだよ」といっていたのに実際には引き継ぎまで終わったことにされ、無理やり最後のドラゴンスレイヤーとしてメディアの前に出ることになるのであった……。ルートディレクトリが云々という話も出てくるし、本作における魔法概念のベースはプログラミング言語っぽいんだけど、このあたりのくだりも「未経験者に一週間プログラミング研修を受けさせて、客先には経験3年のプログラマといって売り込むクソIT企業」っぽいな……(そういう企業は実際にある)と思いながら読んでいた。

おわりに

最後のドラゴンスレイヤー、モルトカッシオンを(何らかの理由によって)殺す者として一躍有名になったジェニファーは最終的にはバッジや記念のマグカップに採用されもみくちゃになっていくのだけれども、はたして彼女は本当にドラゴンを殺すのか。殺すとして、一切の悪感情を持っていないはずの彼女がなぜ殺すはめになるのか。殺した時に、この世界に一体何が起こるのか。すべてがクライマックスで弾け飛ぶように綿密に計算されたプロットで、最後の一瞬までまったく目が離せない!

彼女が連れている魔獣のクォークビーストはスターバックスで偶然拾ったものだとか、要所要所で「現代と魔法」が交錯していて、これこそまさに「現代ファンタジィ」といえるだろう。
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サイエンスとファンタジィの融合を描くネビュラ賞、ローカス賞受賞のファンタジィ長篇──『空のあらゆる鳥を』

この『空のあらゆる鳥を』はアメリカの作家チャーリー・ジェーン・アンダーズによるファンタジィ小説で、ネビュラ賞長篇、ローカス賞ファンタジー長篇部門などいくつかの賞を受賞している(ヒューゴー賞でもファイナリスト)。世評の高い作品だ。

ファンタジィとはいっても中身はなかなかの変わり種。動物の声を聞き、話すこともできる魔法使いの少女と、科学オタクでネットで拾った回路図を形にすることで2秒間だけ未来に飛ぶことができるタイムマシンを作った少年の運命的な出会いから始まり、地震や気候変動によって地球環境が著しく悪化し悲惨な終末へと向かいつつある地球と、それをなんとかするために苦闘する科学界と魔法界の対立が描かれていく。

科学界とはいってもほぼ説明なくタイムマシンが出てきたり反重力装置などのめちゃくちゃなものが出てくるので、科学用語をまぶしたファンタジィ×ファンタジィ用語を使ったファンタジィといった感はあるのだけれども、「別種の価値体系を有する者同士の不可避的な対立」と「人間はそうした対立を乗り越えることができるのか」、「世界を揺るがすほどの巨大な力を持つものの責任とは」という「異なる大きな価値体系」それ自体が大きなテーマに接続・整理されていて、(SF的な要素を期待する人には勧めないが)、純然たるファンタジィとして読む分にはすこぶるおもしろい。

物語は魔法使いの少女パトリシアと科学オタクのロレンス、二人の幼少期から交互に展開していくけれども、どちらも「普通の人」の感性から乖離しているので、環境からは孤立している。パトリシアは怪しげな呪いにせいをだし、森に通ったりするので学校からは完全に頭のおかしい不思議ちゃんあつかい。ロレンスも肩身の狭い思いをしているが、だからこそ二人は出会い、まるで正反対の性質・指向を持ちながらも、交流を深めていく。だが、近い将来、魔法と科学の大戦争が起こりその時にこの二人が中心的な役割を果たすとして、それを阻止する=殺すためにやってきた暗殺者が存在し、二人の運命の歯車はくるいはじめることになるのであった──。

この暗殺者、暗殺結社からやってきた人物で、暗殺者神殿に巡礼しているとかいう意味がわからない設定が山盛りで「お前なんやねん」感が半端ないのだけど、このあともトンチキな魔法勢力とか、左翼ハッカーの50人委員会とか変なやつらがどんどん出てくるのですぐ気にならなくなる。そんな暗殺者の暗躍もあって仲違いをしてしまった二人だが、お互いの居場所を見つけ(パトリシアは魔法使いの学校に、ロレンスは科学コミュニティに)、そこで二人はお互いの力をめきめき伸ばすことに。

大人になりつつあるパトリシアはその魔法の力をめきめきと伸ばし、腹の具合を治すのも人を殺すのもおちゃのこさいさい。女の子を何人もレイプして殺した男を雲に変え、環境規制の阻止に協力したロビイストをウミガメに変え、シベリアの掘削プロジェクトを友人たちと襲撃し、役所の連中が友達に対する家賃補助を打ち切ろうとしたから発疹を起こしたりと完全にテロリスト同然でやりたい放題。ロレンスは行き過ぎた科学力で大災害で死に瀕している地球から、人類を救うために「地球から飛び出る」ための、反重力装置を軸にした科学プロジェクトに参画している。

再会した二人はかつてのような親交を取り戻し、互いの異質さを尊重して協力しあっていくのが本書のおもしろさのひとつ。反重力装置のテストにおける人命が失われかねない失敗をパトリシアが魔法で強引に解決したり(その代償として、最も大事な小さなものを失わねばならないなどの魔法的代償が必要とされるが)、そうした「科学と魔法」が相協力していく様は、なかなか他の作品ではみることができないものだ。

おわりに

次第に世界に災害が増え、軍事的な衝突も増し、混乱はましていく。「地球脱出プラン」が現実的になる一方で、魔法使いの勢力もそれをただ手をこまねいてみているわけではない。二人の対立は大きくなり、お互いの勢力はそれぞれに世界を一変させかねない強力な力、対抗手段を持っている(科学界は反重力装置、魔法界は”解きほぐし”と呼ばれる何らかの人類総変質プラン)ばかりに負っている責任も大きい。

はたして、世界はどのように変質していってしまうのか。科学と魔法は歩み寄ることはできないのか──と、終盤のほうは地球が、人類がまるごとどうなっちゃうのー!?!? みたいな超大規模な話にスケールしていくので「やっぱ魔法が出てくるんだったら世界を再起不能なぐらいにめちゃくちゃにするようなやべえのがほしいよなーー!!」と思う僕のようなタイプの人間にはオススメである。