基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

知能の仕組みを解き明かし、人間を超えた汎用人工知能やマインドアップロードの可能性まで考察する──『脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論』

人間は日々新しいことを学び続けている。民主主義についてや数学の理論など複雑な概念に限った話ではなく、たとえばアプリをダウンロードしたらその使い方を学ぶだろう。道を歩けば、こんなところにハンバーガー屋や眼科ができたんだな、と気がつき、日々頭の中の情報、世界のモデルは書き換わっていく。

それらは、必死になって英単語を覚えるように努力して覚えるようなものではなく当たり前のように行われることなので、特に高度なこととは思えない。しかし、人間のそうした自律的な学習機能がプログラム上でそう簡単には実現できていないことからもわかるように、実際には相当に複雑なことをやってのけているのである。では、我々の脳の中では、そうした偉業がどのようにして成し遂げられているのか?

本書『脳は世界をどう見ているのか』は、まさにそうした疑問を解き明かしていく一冊だ。著者のジェフ・ホーキンスはインテルのエンジニアとして働いたのちに神経科学の博士課程に進むが、大学での研究に壁を感じて起業。その後自分で神経科学研究所を設立し、研究を進めてきた異色の経歴の持ち主である。だが、その情熱でもって今では多くの神経科学者に支持される知能の理論にたどりついてみせた。

前提知識として、新皮質とは何なのか。

まず、著者らが提唱している知能を説明する「1000の脳」理論とは何なのかを軽く紹介していこう。その前提となる知識で重要なのは、脳の中で最も新しい部分にして、7割もの容積を占める「新皮質」の存在だ。新皮質は知能の元となっている器官であり、視覚や言語、音楽や数学といった能力のほとんどが新皮質で生み出されている。我々が何かを考えるときに働いているのは、おもにこの新皮質になる。

新皮質には数十種類のニューロンが存在している。そこには一平方ミリメートルあたり10万のニューロンが敷き詰められ、ニューロン間結合は5億にものぼる。新皮質はそのエリアによって視覚野、言語野と機能が分かれているが、衛星画像を見ても国境線が見えるわけではないように、わかりやすい線が引かれているわけではない。素材はほぼ同なじであり、重要なのは、新皮質の領域が何と繋がっているかだ。皮質のある領域が眼と繋がれば視覚がうまれ、鼻と繋がれば嗅覚が生まれるのである。

つまり、新皮質とそのニューロン群には、触覚から視覚まで汎用的な機能を実現する汎用的な能力があることになる。

汎用的なアルゴリズムの仕組み、「予測」と「座標系」

新皮質の基本アルゴリズムを知る上で重要なのが、「予測」と「座標系」という考え方だ。「予測」は新皮質の機能のひとつである。我々は視覚を右にふったり左にふったりするときそこで何が見えるのかある程度わかっている。だから、予想だにしないもの(いるはずのない人だったり)がいたら飛び上がるほど驚くだろう。

コーヒーカップに触る時も、その触感や重さsは予測できる。つまり、脳は世界をみて、そのものにふれたり体験するときに、一度予測を経由していることになる。予測のためには「世界のモデル」が必要だ。コーヒーカップの触感や形、落とした時にどんな音がするのかという数々の情報・知識が新皮質には保存されていて、動いたり触ったりする時、我々は対象のモデルと照らし合わせて予測を立てる。

「座標系」は、予測のための仕組みである。たとえば、コーヒーカップに触れる時、触感の予測をするために人は二つの情報を知る必要がある。ひとつは、触れようとしている対象は何なのか。ふたつめは、指が動いた後コップのどこにいくのかだ。カップのふちと側面では異なる触感があるから、対象のどこに指があたるのかの情報は必須で、カップに対する指の位置をあらわすニューロンが存在するはずである。

ふーんと思うかもしれないが、この座標系は単純に予測のみの役割にとどまらず、コーヒーカップやホチキスなどのモデルの学習、民主主義や光子といった触ることのできない概念モデルの学習にまで関わっているのではないかという仮説がある。

 なぜ座標系がそんなに重要なのか? 座標系があることで脳は何を得るのだろう? まず、座標系のおかげで脳は何かの構造を学習することができる。コーヒーカップが一個の物であるのは、空間内での相対位置が決まっている一連の特徴と面で構成されているからだ。同様に、顔は目と口が相対的な位置に配置されたものである。相対的な位置と物体の構造を特定するには、座標系が必要なのだ。

これが意味していることはつまり、新皮質は感覚入力ではなく「座標系を処理する器官」だということである。

「1000の脳」理論の基本骨子

これは根拠のない話ではない。というのも、人間含む哺乳類の脳には場所細胞と格子細胞という自分の位置を把握するための神経科学的基盤が存在する。場所細胞は、ある場所に来るたび発火するニューロンで、場所と対応しているので場所細胞と呼ばれる。一方の格子細胞は格子状のパターンで発火し、二次元空間的に場所細胞を整理する。格子細胞は地図の行と列、場所細胞は現在地を示すものと考えるとわかりやすい。これで、我々は様々な場所に対応して自分の位置を記憶・把握できる。

で、この場所・格子細胞と同じような仕組みが新皮質とそこにある皮質コラムにも存在し、座標系の仕組みを用いて脳内に多数のモデルを詰め込んでいるのではないか──というのが本書の中心的な主張なのである。また、そうした「モデル」は、コーヒーカップや車といった物体に限った話ではない。先に書いたように、民主主義のような我々が目でみることのできない概念的な知識にも当てはめられる可能性がある。

物体じゃない概念を座標系で認識するってどゆこと? と思うかもしれないが、たとえば歴史であれば年表の形式にすれば一次元的に把握することもできる。世界地図の中でイベントを配置する方法もあるだろう。もちろん新皮質は毎度適切な形の座標系を選択できるわけではないだろうが、それもまた学習していくことができるのだ。

コーヒーカップを学習する時、視覚、触覚、匂いなど、さまざまな感覚野と何百もの皮質コラムがそのモデルを作り上げる。目の前のコーヒーカップというひとつの物体に対して、脳に一対一で対応する部分はなく、何千ものモデル、何千もの皮質コラムの中に点在するようになる。これが「1000の脳」理論の基本骨子だ。

おわりに

最終的に数千の皮質コラムからの情報はひとつに統合され、違和感なく知覚される。それがどのような仕組みで行われるのかは「投票」システムが関わっていて──と、これ以上の詳細な内容については実際に読んで確かめてもらいたい。

ここまで多くの内容に触れてきたが、それでも本書の130ページまでの内容にすぎない。ここから先、知覚の統合問題について。また、我々の知能がそのような仕組みであるのならば、今後汎用的な人工知能を作ることも可能なのではないか。汎用的な人工知能がつくられた時、社会にどのようなことが起こり得るのか。このような知能システムを持つ我々が社会を構築する上で避けられない問題とその解決策についてなど、神経科学の枠を超えた「知能と人類の未来」についての話が広く展開していく。

後半の内容はSF的で愉快だが著者の専門である神経科学から離れていくこともあって浅いな……と思わせられる部分もあって手放しで褒められるわけではないが、全体的には間違いなくおもしろい一冊であった。詳細な説明を省略していることもあって読みやすい部類なので、意識と知能に興味がある人にはぜひ手にとってもらいたい。

あわせて読みたい

マイケル・グラツィアーノと彼による意識の理論は、本書(『脳は世界をどう見ているのか』)にも肯定的な言及がある。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
場所細胞、格子細胞などについてはこの『Mind In Motion』の記述がおもしろかった。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

ただただ美しいゲーム──『ELDEN RING』

【PS4】ELDEN RING

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『ELDEN RING』をクリアした。すべてのボスを倒したり、何周もしたりしたわけではないが(本作には周回要素が存在する)、とにかくラスボスを倒しエンディングが流れた。文句がないわけではないが、素晴らしいゲームだった。やり終えた時はやったやった! といったきゃぴきゃぴした喜びよりも、人生史に残るゲームがまた一本増えた……というしみじみとした、静かな感慨が湧いてくるようなゲームであった。

宮崎英高氏の作るゲームにはいつも明確な思想というか、「このゲームはこれが肝なんだ!」という強い意志を感じるのだが、本作もその例に漏れない作品だ。アクションゲームとしての骨子には従来のフロムソフトウェアーダークソウル的なスタイルを引き継ぎながらも、世界観的には新鮮で(世界的なファンタジィ・SF作家ジョージ・R・R・マーティンの力も関わっているのだろう)、新たな境地をみせてもらった。

個人的に、ダークソウルやブラッドボーンなどの暗い世界観と雰囲気が苦手だった(プレイ済みではある)。今回オープンワールド(公式ではオープンフィールド)化し、世界観としては「黄金時代の過ぎ去った、次の時代の在り方を求めている世界」である。

そのため、旧来のダクソ的な雰囲気を残したフィールドもあれば、『SEKIRO』の色鮮やかな風景を思わせるようなフィールドあり、SF感のある場所も、王道ファンタジィらしい場所もあり……と、未知の領域を探索しに走り回っているだけでも楽しい、大好きな作品となってくれた。本当に、広大なマップのどこに行っても世界観の奥行きを感じさせるオブジェクトが転がっていて、いったいどうやってこうしたデザインを徹底できたのか……と驚くばかりであった。間違いなく、人生史に残る作品だ。

マップを走り回っていくだけで楽しい

オープンワールドゲームではその広大なマップをどのようにして隅から隅まで探索してもらうのか? というのが重要なテーマとなるが、『ELDEN RING』の場合は「強い敵(とそいつが落とす装備)を求めて」というのがその答えになる。行ったことがないマップを適当に馬で走っていると数分に一回ぐらいのハイペースでボスが急襲してきたり、まだ見ぬ未探索ダンジョン・フィールドが見つかったりする。

マップを普通に歩いているだけなのにドラゴンがいて道を塞いでいたり、巨人が歩いていたり、馬に乗った黒い騎士が橋の真ん中で歩いていたり、ヤバいやつらがいくらでも見つかる。そうした敵に挑んでもいいし、走り抜けて逃げても良い。挑んだ場合は、勝てば強い武器などの報酬が得られるのは間違いない──色彩が鮮やかに切り替わるマップをただただ走っていくだけで、数々の脅威と好奇心が刺激される。

一回だけ戦ってみるか……と軽い気持ちで戦いだしてみたら7割ぐらい削れたところで負けて、なにくそっと意地が出てきて何回も再戦をしたくなったりもする。正直、そうした戦いのときに頭にあるのは相手を倒していい装備が欲しいとかではなく「ただただ強いこいつを倒してえ」という悟空的な闘争心のみであり、そうした戦いを繰り広げていくうちに無限に時間が溶けてゆく。結局こいつには勝てん……と無念の撤退をしても、装備を整えレベルが上がると回避など何もしなくても勝てるようになっているので、強くなった後に俺TUEEE系主人公の気分を味わうことも可能である。

世界には膨大な未知とまだみぬ強敵があって、マップを眺め、遺跡や廃墟のようなマークを発見し、ここにはいったい何がいるのだろう……とかけていくと、必ず期待に沿うなにかがいる──あるいは、ある。そうした繰り返しが、RPGの本質的とさえいえる「手探りの探索の楽しみ」と「発見と踏破の喜び」に繋がっていく。

難易度調整の自由さ

個人的に本作のゲームとしてよかった点が、難易度調整が個々人でいろいろとカスタマイズできる点にあった。たとえば、最もわかりやすい難易度調整は同じく人間の協力者を呼び出すマルチプレイで、自分がどれほど弱かったとしても、強い人を呼び寄せればその人が倒してくれる(呼び寄せた人が死んでしまうこともあるだろうが)。

そのほかに、「遺灰」と呼ばれる協力者的なNPCを呼び出すシステムがあり、これが何十種類もあるので、強い遺灰を駆使すればぐっと攻略が楽になる。他にも、特別な攻撃を可能にする「戦技」(おなじみの要素である攻撃をタイミングよく弾いて反撃を行うパリィも今回は戦技のひとつ)もぶっ壊れと言われるほど強いものもあれば弱いものもあり、ネームドのNPCを呼び出すシステムもあり──と、RPGとらしい「自分自身を強化する」以外にも、攻略を楽にする要素が多様に用意されている。

「ぶっ壊れ」と言われ先日のアップデートでナーフされた要素(たとえば自分自身のコピーを生成する写し身という遺灰や、霜踏みという戦技)もあるが、攻略に有効な要素はたくさんの動画が上がっているので、調べればボスなどもそう苦労しないだろう。僕はまず最初の何戦かはいわゆる「ぶっ壊れ」系の要素は使わず、10戦を超えてまったく勝てる気がしなくなってきたら縛りをゆるめていく──という形でやっていたが、このように自分で難易度調整ができる自由さも本作はかなり気に入っている。

と、そんな感じで本作はイージーモードなどは存在しない代わりに勝手な難易度調整の自由度は高いので、難しいゲームなんでしょ? と思う人でもわりと気軽に手を出していいと思う。最悪(人間の)協力者をオンラインで呼び続けて全ボス倒してもらってもかまわんのだ。

配信を楽しむ

個人的にダクソやSEKIROをプレイしてきたのは、それがARPGとしておもしろいのはもちろんのことだが、これらのゲームで配信している人たちが非常に多いので、自分自身もプレイして配信をより楽しみたいという気持ちが大きかった。

実際、この手のゲームは自分がまったくやらない状態で配信をみて、配信者がなすすべもなく敵ボスにやられひとつのボスで2時間3時間と沼っていくことを楽しむこともできるが、自分がプレイしているとおもしろさはより増す。ああ、このボスは本当に発狂しそうなぐらいきつかったな……というボスで、配信者が同じように苦しんで「こんなんどうやって避けるんだよ! 避けれねえだろがい!!」と叫んでいると、「そうだよな、こいつは強いんだ」とにやにやが止まらなくなる。『ELDEN RING』もたくさんの人たちが実況をしていて、プレイしている最中も今もそうした人たちがどのようなルートでマップを制覇し、ボスに苦しめられるのかを楽しんでいる。

ビルドは多彩で、いわゆる「攻略最強ビルド」にすれば難易度はある程度下がる。そうした最強ビルドに一直線で進んでいく配信者もいれば、縛っている配信者もおり、難易度調整の自由度の高さはそのまま配信を見ることで人それぞれの攻略スタイルをみることの楽しさに繋がっている。何人もの配信を追っかけているがみな攻略順はバラバラで、苦しむポイントも縛りも多様、とにかく今はそれを漁るのが楽しい。

おわりに

まだ一周目が終わったばかりなのでこれからもっと遊ぼうと思うが、とにかく一周終えて浮かんできた感想は「ただただ美しいゲーム」だった。風景が美しいのはもちろん、一部のボスは恐ろしい造形だけでなく、その攻撃方法がまた壮麗だ。ボスとしてはラダーン祭のラダーン戦が何よりも印象に残っているが、その後のイベント、またそのあとに訪れることになる都市を発見した時の興奮と美しさときたら──。

本作もまた多くを語らないゲームだ。UIがは簡素で、デフォルトの設定だとHPやFPといった最低限のUIさえも移動中は消え失せてしまう。NPCも決して多くを語らない、曖昧クソ野郎ばかり。そうしたシンプルさがまた本作の「意志」であり、洗練された美しさに繋がっている──単に不親切なだけとの境目は微妙なところだが──。

あのボスはマジでクソだった、このゲームから削除してくれとかドラゴンなど大型ボスの視点移動&移動の面倒さはクソすぎとかモブの強さじゃねえだろ!! とか序盤のマップ密度と終盤のマップ密度の差ぁ!! とかあのボスの祝福の位置はゴミすぎだろとか文句も湧いてくるといえば湧いてくるが、終わってみればすべてよし。深い余韻を残す良いゲームだ。プレイ中の皆様はがんばってください。

仕事が行き渡らない世界がやってきたら、我々はどうやって生きていけばいいのか?──『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』

近年、AIなどのテクノロジーの進歩は、人間から仕事を奪う。いや歴史が証明しているようにテクノロジーの進歩は新しい仕事を作り出すから人は新しい仕事へと移るだけだ。その移行には数十年かかるから現代を生きる我々の救いにはならない! など、さまざまな「テクノロジーの進歩と仕事」についての主張が交わされてきた。

数十年に渡るそうした論争の末、近年のノンフィクションでは、「多かれ少なかれテクノロジーの進歩は人間の仕事を奪う」方向に傾いているように思う。たしかにこれまで多くの仕事は、自動車やトラクターが馬を(少なくとも移動の手段としては)不要としたように、テクノロジーの進歩によって消え、また新たな仕事を作り出してきた。だが、それはいうても新しいテクノロジーが結局人間の完全な代替にはならなかったからだ。車ができたからといって、それを運転する人間は必要であった。

今も完全に人間を完全に置き換えるAIは存在しないが、かといって世の中に存在する仕事の大半は人間をそっくり代替しなくても問題ないものばかりである。運転でも、囲碁でも、将棋でも、がんの診断でも、狭い領域であればプログラムは人間よりもうまくこなす。しかも、プログラムが担当できる領域は広がり、逆に人間にしかできない領域はこれまでよりも格段に高スキルを必要とするようになっている。

一部の仕事は間違いなく当面は存続する。だが、その仕事は徐々に多くの人にとって手の届かないものになっていくだろう。そして21世紀が進むにつれ、人間が行なう仕事に対する需要は徐々に目減りしていくだろう。最終的に、従来のように仕事をして稼ぎたいと望む人全員に割り当てられるだけの仕事がない、という状態になる。

仕事がなくなった世界で

本書『WORLD WITHOUT WORK』は、テクノロジーによって人間の仕事は失われていく一方だという前提を置き、それではそうなった時、我々はどのような社会を構築していけばいいのか? と問いかける一冊だ。富はこれまで基本的に労働に対しての報酬という形で分配がなされてきた。もしその前提が崩れ、つける仕事がなくなるのだとしたら、我々は労働以外の形で富を分配する必要がでてくるだろう。

本書は、そうした状況の解決に際し、副題にも入っているように「大きな政府」、国家が社会の富の分配に大きな役割を果たすべきだ、としている。たとえばベーシックインカムもその選択肢のひとつだが、多くのBI論者が無条件に全国民への配布を前提としているのと違って、条件付きベーシックインカム(CBI)を提唱している。

また、仕事がなくなる社会において考えなければいけないのは、富の分配だけではない。たとえば、人生の意味や目的をどう見つければよいのか。仕事一筋で生きてきた人が定年後抜け殻のようになってしまった、というのはよくきく話だが、これからの世界はそれがもっと大規模に、世界的に起きる可能性がある。仕事から解放される喜びにひたる人も多いだろうが、増えた余暇をどう扱えばいいのか、娯楽に興じるだけでいいのかなど、「余暇多き人生」について考えるべきことは多い。

本当に仕事は減っていくのか?

本書で最初に論じられるのは、そもそも本当に仕事は減るのか? という前提部分の詰めだ。進歩が仕事を奪うという時、多くの人は「無くなる職種は何なのか?」と問いかけるが、実際はこの問いは間違っている。というのも、特定の職業、仕事を分割不可能なひとかたまりの活動と想定しているからだが、たとえば「医師」と一言でいってもその仕事は多岐に渡る。診断もあれば手術もあり、書類仕事もあるのだ。

そうした無数のタスクは「やり方を手順化できる定型タスク」と「言葉にできない暗黙知に頼る非定形タスク」に分けられ、前者は自動化できる。マッキンゼーの調査結果によれば、エレベーターガールのように既存の技術によって完全に自動化可能な職業は5%にも満たない。だが、すべての職業のうち60%以上は、行っている作業のうち3割は自動化可能であるという。つまり、私の仕事は人間にしかできない部分があるから、機械に奪われることはないというのは、安心できる根拠ではない。

非定形タスクは自動化できないなら、人間はそうした仕事に移っていくはず(だから仕事はいつも生み出される)だ、というのは理屈は通っているが、人間にしかできない領域は日々少なくなっている。かつて起こったような、農場から工場への移行は、たしかに仕事は変わったが、必要とされる新たな技術の習得は充分に可能だった。

今では、それは難しくなってきている。必要とされる仕事のスキルはより深くなり、その習得はより困難になっている。それでも──と反論する人は多い。人間はそ簡単には置き換えられないはずだ、と。著者は、それは人間は特別な存在だと思い込みたがった人間の決めつけであり、経済が成長しあらたに生み出されたタスクは結局人間にしかできないという思い込みのことを、「優越想定」と呼んでいる。

僕はこれを「優越想定 superiority assumption」と呼ぶ。未来を楽観視する根拠として、過去に威力を発揮した補完力の効果を持ち出すときにも、この思い上がりassumptionが強く作用している。

たしかに、歴史的にみてこれまでは人間の領域は機械に侵されてこなかったかもしれないが、これからも変わらないというのはあまりに楽観的にすぎる。

対策

では、今後どうしたらいいのか? ほとんどの同じテーマを扱った本が大きく語るのは、まずなにをおいても「教育」だ。これから先人間に必要とされるより複雑な仕事をこなすために、より長い時間をかけて教育するのだ、生涯学習だ! と。

本書も教育の重要性は認めつつも、新しいスキルなんてそう簡単に身につかない、と一蹴しているのがおもしろい。はじき出された労働者は新たなスキルを学べばいい、簡単にいうが、人間には適正や生まれ持った才能があり、新しいスキルを本当に学ぶには時間と労力がある。必要なスキルはこれだと指示されたからといってそれが学べるわけではない。また、構造的テクノロジー失業が発生する社会では仕事そのものが社会に充分になくなるので、そうなれば世界トップの教育も無用の長物である。

つまり、仕事を通じての金銭の分配は諦め、労働市場に頼らない別の方法である必要がある。そこでようやく「大きな政府」論、どのようなベーシックインカムが必要とされているのか、その財源は──が本書では論じられていくことになる。

尊厳と価値があらためて問われる時代

その具体的な試算についてはぜひ読んで確かめてもらいたいところだが、おもしろかったのは最初にも書いたように本書が「余暇」や「尊厳」の問題も扱っているところだ。仮にBIが実現したとして、仕事がなくなった人たちはどうしたらいいのか?

近年、あなたの学歴や収入は、勤勉さや努力の結果ではなく、運の影響も大きいのだと主張したサンデルの『実力も運のうち』。給料は政治権力によって決定すると論じ、給料はあなたの価値ではなく、低くとも自尊心を傷つけられる必要はないと論じたローゼンフェルドの『給料はあなたの価値なのか』など、「あなた個人の価値をどこに見出すべきなのか」をあらためて問い直す本が立て続けに出ている。

それは、本書が論じているように、我々は今後仕事や給料の存在しない世界に突入していくから、というのが背景にあるのだろう。その時、我々は仕事以外の場所に自分の価値や尊厳を求める必要がある。本書では、その展望のひとつの例として、受給者に有償のしごとではない、「自分が選ぶ活動」と「コミュニティから求められる活動」に従事する条件を課した「条件付きベーシックインカム」を提案している。

それは芸術活動や文化活動かもしれない。読書や執筆、楽曲の制作かもしれない──。これは単なる推測にすぎないが、仕事なき時代にどのような社会をデザインするべきなのか、金銭の分配にとどまらず考えなければいけない領域は多い。断言できることは多くはないが、そうした未来を考えるきっかけになってくれる一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
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弾圧が行われているとされる新疆ウイグル自治区で、実際に何が行われているのか?──『AI監獄ウイグル』

この『AI監獄ウイグル』は、近年弾圧が激しくなっているとされるウイグルで、実際に何が行われているのか、150人以上のウイグル人の難民、技術労働者、政府関係者、元中国人スパイにインタビュー取材をしその結果をまとめた一冊になっている。

本書で描き出されているのは、チャットアプリによるメッセージや電話がすべて監視され、家の前には個人情報が詰まったQRコードが貼られ、身体情報から移動履歴などすべてのデータを元に犯罪を起こす可能性のある人物をAIが自動的にピックアップする「デジタルの牢獄化」したウイグルの姿である。これまで、断片的なニュース情報を読むことでウイグルで相当なことが行われていることはわかっていたつもりだったが、実際に収容所などを体験した人物のレポートはあまりにも衝撃的だ。

読み終えた夜は、自分が強制収容所に入っている悪夢を見たぐらいだった。

 本書のなかで私は、新疆ウイグル自治区がもっとも高度な監視ディストピア社会に変貌を遂げた物語について説明する。〝状況〟はどのように生まれたのか? AI、顔認証、監視などの技術における前例のない進歩を受け容れたとき、それは私たちの未来にとって何を意味するのか?

実際に何が行われているのか?

本書は2000年代から中国でのインターネットやテクノロジーの発展を追いながら、どのようにして中国での監視社会体制が構築されていったのかを追う構成になっている。その後、若いウイグル人女性メイセム(仮名)を主人公にウイグル自治区、またその強制収容所で何が行われているのかが語られていくことになる。

一人の主人公を置いているとはいえ、その背景には多数の同様の状況に追い込まれたウイグル人たちがいる。たとえば、著者が2017年から20年にかけてインタビューしたウイグル人の全員が、複数の家族と3人以上の友人が姿を消したと証言している。おそらく強制収容所に連行されたと考えられるものの、何が起きたのかはっきりしないケースも多い。取材対象者の3人にひとりは、家族全員が行方不明になったと語る。

17年に中国は260の強制収容所をウイグル自治区全域に作り、政府は人々が自発的にここに行って、みずからの意思で離れることができると主張するが、実態は異なっている。許可がなければ出ることは出来ないし、中では思想教育と懲罰が長期間にわたって行われた。『政府は、国民を管理・監視するだけでは飽き足らず、もっと奥まで踏み込もうとした──人々の考えを一掃し、「脳からウイルスを取りのぞいて治療・浄化し、正常な精神を回復させる」。このような医学的説明が、政府要人の演説、国営メディアの報道、漏洩した文章のなかに繰り返し登場するようになった。』

どうやって連行されるのか?

ウイグル人はどのようにして連行されるのか? メイセムの体験談的にも、全体の裁判の件数、連行件数などからみても、2013年〜14年から締め付けが厳しくなっていったようだ。ドライブや散歩に出かけてもウイグル人だけが入念にIDをチェックされ、家族に信用できないとされるものがいるとガソリンの購入が制限される。

そうした「怪しいか、怪しくないか」の判断は現場の警察が独断で決められるので、ウイグル人たちはいつもにこにこ愛想よくしていることが求められるようになる。さらに、その後(2015年〜?)にはウイグル人同士の相互監視システムが用いられるようになる。たとえば、メイセムが胃腸炎にかかって家で休んでいると、近所の人たちから「今朝9時はいつもの散歩に出かけなかった」として通報が入る。

胃腸炎であるから散歩に出ることが出来なかったと説明しても無駄で、その証明書を医師からもらい、事実を客観的に証明する必要が出てきたりする。

 当時の新疆ウイグル自治区では、各家庭が10世帯ごとのグループに分けて管理されていた。グループ内の住民は互いに監視し合い、訪問者の出入りや友人・家族の日々の行動を記録することを求められた。

手法自体は原始的だが、16年からは各家庭の前に各世帯の個人情報が含まれたQRコードが貼られ、グループ長は訪問を終えるとそれを読み取り、問題のないことを報告するようになる。こうした地域自警システムで情報を吸い上げ、個人は「信用できる」「ふつう」「信用できない」の3カテゴリーが割り振られる。

メイセムはトルコの大学院に行っており、複数の言語を喋り、大量の本を読んでいたことから、「信用できない」と判断されたのだろう──結果的に彼女の家には監視カメラが設置されることになる(もちろん拒否などできるわけもない)。その後彼女の一家は〝検査〟が義務付けられることになり、身体検査、採血、声と顔の記録、DNAサンプルの採取が行われ──と国にあらゆる情報を提供する羽目に陥っていく。

一体化統合作戦プラットフォーム

プライバシーもクソもあったものではないが、メイセムの悲劇は終わらない。何もしていないにも関わらず、突如として彼女は「地区の警察が不審な動きを察知した」として出頭を要請され、尋問を受け、後に連行されるのだが、これには「一体化統合作戦プラットフォーム(IJOP)」と呼ばれる新しいシステムが関わっている。

このシステムでは、監視カメラの顔認証、グループ長による訪問者管理システム、健康状態、銀行取引などすべての情報を用いて、「通常とは異なる行動」、「治安の安定に関わる行為」を報告する。報告されるのはたとえば、大量の本を所有しているのに教師として働いているわけでもない時、普段5kg分の化学肥料を買う人が突然15kg分買った時などで、異常を検知すると地元の警察官がすぐに訪問する。

 IJOPは人工知能を利用し、犯罪容疑者や将来の犯罪候補者について「プッシュ通知」し、警察と政府当局にさらなる捜査をうながすようになった。警察は、通知を受けしだいすぐに行動を起こす必要がある。ときにそれは、通知が来た当日のうちに直接訪問して話を聞いたり、自宅軟禁にしたり、容疑者の移動を制限したりすることを意味した。あるいは、安全な身柄の拘束や逮捕を意味することもあった。

SF小説のような現実

先日、第二次世界大戦時にすでに現代のようなインターネットやスマホが存在している、架空の歴史をたどったナチスドイツを描く『NSA』というSFを紹介した。その世界で、ナチスは匿われているユダヤ人を発見するために、各家庭の食料の購入履歴をリストにし、平均カロリーよりも多くの食料を買っている家にたいして家宅捜索を行っていたが、まさに同じことがウイグルで起こっているのである。
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また、犯罪を予測し事前に拘束する手順は、ディックの『マイノリティ・リポート』、『PSYCHO-PASS』世界のようだが、これは現実の話である。メイセムはその後強制収容所に入れられ、共産党への賛同と感謝を述べさせられ、プロパガンダ映像を視聴し、神について、周りの人間達について、さまざまな尋問が実施されていく。

メイセムは『一九八四年』のジョージ・オーウェルに対して、彼はウイグル人の世界の未来を見抜いていたと語る。そんな「まさに『一九八四年』のような」収容所の実態と、今後我々は何をすべきなのか? という問いかけの先は、読んで確かめてもらいたい。

おわりに

著者はアメリカのジャーナリストだが、本書の内容は台湾人の技術ジャーナリストによって厳密なファクトチェックが行われている。インタビューをもとにした部分は取材対象者に再度電話をかけて翻訳・引用された北京語が本当に正確なのかまで精査していて、内容にはある程度信頼がおけるとみていいだろう。衝撃的な一冊だ。

2020年の読むべき日本SF短篇が一冊であらかたカバーできる、竹書房文庫の年刊日本SF傑作選!──『ベストSF2021』

2020年に発表された日本SF短篇の中から、大森望が傑作をよりすぐったのがこの竹書房から刊行されたアンソロジー『ベストSF2021』である。2019年作品版の『ベストSF2020』が2020年の7月頃に出ていたことを考えると、21年の年末ぎりぎりに刊行されたこの『ベストSF2021』は書名も相まって21年の傑作が集められているように錯覚してしまうが、最初に書いたように発表年はすべて2020年のものなので注意。

20年は日本SF、特に短篇が読めていなかったのではじめて読んだ作品が多かったという個人的事情もあるけれども、今回の『ベストSF2021』は、作品内容も僕の好みド真ん中をついてくるものが多くて、前年のアンソロジーと比べても高い満足感を与えてくれた。総作品数は11作家11作品、ページ数も解説込みで450ページほどと、傑作選としては比較的分厚すぎないのも趣味にあっている。傑作選なんて分厚いほどいい主義の人もいるだろうが、やはり絞りに絞ってこその傑作選だろう。

というわけですべての作品ではないが、気に入った作品を中心に紹介してみよう。今回は本当に全部紹介したいぐらいなのだが……。

円城塔「この小説の誕生」

トップバッターは前年に引き続き円城塔で、「この小説の誕生」という、"「この小説の誕生」という小説の誕生"について語られた、小説ともエッセイともとれる一篇。

「この小説の誕生」の書き出しをGoogle翻訳に(英語に)翻訳させ、それを再度(円城塔が)日本語訳すると、そこには最初の書き出しには存在していなかった意味や意図があらわれている。たとえば「小説を書いている」という文章は勝手にIm writing novel、長篇小説のことにされてしまうのだが──と、機械翻訳との対話と思索がそのまま小説として組み上がっていく。これ、滑り出しはいいけどオトせるのか? とハラハラしながら読み勧めていたが、異様に壮大なラストにたどり着いてみせた。

柴田勝家「クランツマンの秘仏」

柴田勝家「クランツマンの秘仏」は、『異常論文』アンソロジーの生みの親ともいえる一篇。柴田勝家による短篇群の中でも一番好きな作品だ。物語としては、タイトルに入っているクランツマンなる人物によって提唱された特殊な信仰理論──強く信仰した対象には、霊的な質量が宿る──とその実験手順が詳細に語られていく。

具体的にこの信仰理論と実験手順とはどのようなものなのか。たとえば、同じ二つの箱を用意し、それにサッカーボールを入れる。片方のボールはサインが入った被験者にとって思い入れの深いもので、片方は新品である。それを被験者(クランツマンが最初に試したのは息子)に持たせ、どちらが重いと感じたかを答えさせる。

本当に人の信仰、その思いに霊的質量が宿るのであれば高確率でサイン入りのボールを当てられるはずだが、予想に違わずそれは実証され、クランツマンはさらに本事象に対する実験を突き詰めていく。たとえば、思い入れが強いのではなくむしろ嫌悪感が強い思い出のある品物の場合、霊的質量はどうなるのか?

元となる信仰理論はシンプルだが、それをどう確かめるのかという実験的手順、そしてこの理論を発端として、さらに壮大な方向へと理論を発展させていくスケーリング性も素晴らしく、柴田勝家の真骨頂が存分に堪能できる一篇に仕上がっている。

柞刈湯葉「人間たちの話」

これはすでに個人短篇集の時に触れているのでそちらを参照してほしいが、柴田勝家に続いて柞刈湯葉短篇群の中でもこの「人間たちの話」が個人的にもっとも好きな一篇だ。同時に、SF短篇の中でも意外と珍しいド直球の「科学の物語」である。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」

牧野修「馬鹿な奴から死んでいく」はホラー系アンソロジー《異形コレクション》49巻に書き下ろされた、魔女と魔術医の戦いを描くサイキック・バトル小説。特殊な生い立ちを持ったほとんど関係のない少女を救うために奮闘する魔術医の男が主人公で、スタイル的にはハードボイルドっぽい。プロット自体には特段触れるようなところはないが、文体含めて統制された魔術面の設定の作り込みが最高である。

斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」

斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」も《異形コレクション》に載った短篇。今回本作(ベストSF)ではじめて読んだ中でもっとも度肝を抜かれた一篇だ。舞台となっているのは、紙の本が禁じられ、本の内容が人間に託されるようになった国。

選ばれし人間は紙の書かれた本を記憶し、口伝で内容を伝えていく。ゆえにこの国ではそうした人々は、ただ”本”と呼ばれる。この”本”だが、一人ずつ担当本が決まっているわけではなくて、同じ本の内容を複数人が記憶しているケースもある。人の記憶は不確かなものだから、そうした二者間で語る本の内容にズレが出ることもありえる。その時、この国では自分の語る内容こそが正当な内容であると本に主張させる解釈合戦──通称”版重ね”を行い、負けた方は生きたまま焼かれることになるのだ。

元となる本は焼かれていて確かめることはできないから、これは真実を探求する戦いというよりも、単純に説得力ある解決篇をもたらせるかどうかのいわば探偵勝負である。本作では、『白往き姫』なる作品についての版重ねが行われるのだが、両者の解釈合戦には著者(斜線堂有紀)お得意のミステリ手法と鮮やかなトリックが投入されていて、いや、こんなん書けるのはそらもう天才でしょ、というほかない作品。

伴名練「全てのアイドルが老いない世界」

伴名練「全てのアイドルが老いない世界」はらしさ全開のエモ☓百合短篇。タイトル通りアイドルが老いない世界の話だが、老いない条件には”たくさんのお客さんを集められること”というシビアな条件がついている。近年ソシャゲやアニメで特殊設定アイドル物がたくさん出てきているが、本作もそうした流れに連なる作品といえる。

明治時代からグループでデビューし、ユニットメンバーの引退などを乗り越えながらもなおアイドルとして生き続けているレジェンド女性アイドル(ただし人気下降中で年齢が維持できなくなりつつある)と、実年齢17歳、戸籍年齢18歳の本物の若年女性アイドルが新ユニットを組むのだが──というドタバタな導入+駆け出しアイドル描写から”なぜこの世界ではアイドルが人気に応じて老いなくなるのか?”、”なぜレジェンドはソロになったのか?”などいくつもの疑問に答えが与えられていく。

伴名練のデビュー作『なめらかな世界と、その敵』の表紙絵が今絶賛爆進中のアイドル漫画(その要素だけではないが……)『推しの子』の原作担当である赤坂アカであることも連想させられる一篇である。まったく関係ないけど今年はほんま『推しの子』おもしろかったな……。最高の漫画だよ。

おわりに

他にも麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」は脳を労働に提供している間、体はフィットネスジムで運動し、労働時間中に健康になっている”郎働”が普及したブラックユーモア&ブラック労働SF。藤野可織「いつかたったひとつの最高のかばんで」は、生涯にもうひとつ、ただそれだけあればいいというかばんを追い求め行方不明となった長沼さんとかばんたちを描く出すかばん奇譚で──と、スペキュレイティブ寄りの作品が多いが、どれも大好きな作品ばかりだ。

また、今回はタイトルで選んだのか? というぐらいにタイトルが最高なものが多かった。「人間たちの話」もド直球で素晴らしいし、「馬鹿な奴から死んでいく」のタイトルからセリフでの回収までの美しさ、「本の背骨が最後に残る」の一見不可解なタイトルが持つ意味。おぞましい「それでもわたしは永遠に働きたい」から「いつかたったひとつの最高のかばんで」という最高のタイトルに繋がって、最後はシンプルかつ回帰的な堀昇の「循環」で締める、並びまで含めた美しさがある。

mRNAワクチンを接種した人全員に読んでもらいたい、ワクチン開発の奮闘を描き出す一気読み必至のノンフィクション──『mRNAワクチンの衝撃 コロナ制圧と医療の未来』

日本政府によると、日本の新型コロナウイルスワクチン接種回数は1億9800万回、2回の接種を完了した人は総人口の77%と数字が出ているが、本書『mRNAワクチンの衝撃』はそうしたワクチンの中でもビオンテック・ファイザー社によるワクチンがどのように開発され、世界に行き渡ったのかを描き出す迫真のドキュメントだ。

まだワクチンが出回り始めて十分な期間があるわけでもなく、これほどの速度で刊行される(原書も刊行されたばかり)本は中身が速度の犠牲になっていることも多いので読み始めはそこまで期待していたわけではなかったのだが、本書はまるで何年も準備をしてきたかのように中身が詰まっている。面白すぎて一気読みしてしまった。

ビオンテックはまだ多くの人が新型コロナウイルスの危険性を認識していない2020年1月には危機感をいだき、ワクチン開発に向け舵を切っていた。それまで彼らが主に取り組んでいたのはmRNA治療薬を用いたがん治療であり、感染が広まるかすらわからない感染症のワクチン開発に舵を切るのは相当な賭けだった。本書では、そうした重要な決断にあたって、創業者夫妻(ビオンテックはエズレムとウールらが創設したドイツのバイオテクノロジー企業)が何を考えていたのか。ワクチンを開発したとして数万人単位での治験の実施、世界中の国の認可の取得、流通網の確保など頭を悩ます要素がいくらでもあり、それらにどう対処していったのかが克明に描き出されている。

mRNAワクチンがどのようなメカニズムで機能するのかといったことも詳細に語られているので、本書はファイザーもしくはモデルナ製のmRNAワクチンを接種した、もしくはこれから接種する人全員に読んでもらいたい一冊だ。

2020年1月25日

ビオンテックでワクチン開発が動き出したのは20年の1月のこと。まだ新型コロナウイルスの危険性が認識されていない時期だが、ビオンテックのCEOウール・シャヒン(腫瘍学者、免疫学者でもある)は世界はすでにパンデミックのさなかにあり、1950年代後半に猛威をふるったアジア風邪並かそれ以上の流行になりうると断言していた。

ただ、CEOがそう断言したところで、ワクチンを作り始めよう! とことが動き出すわけでもない。ビオンテックはそもそもそこまで規模の大きな会社ではなく、資金にも余裕があるわけでもなかった。他にも、問題はいくらでも挙げることができる。新たに発生するウイルスすべてにワクチンが有効とは限らない(HIVの予防ワクチン開発の試みは失敗した)。ワクチンをゼロから設計し、緊急使用の承認を得るには、数年かかるのが当たり前で、それだけの期間が経ってしまえば、ヒトへの治験に入る頃には新型コロナウイルスは消えるか、誰も気にしていないということが起こり得る。

ビオンテックはmRNAを用いたがん治療を中心に研究・開発を行っていて、結果も出ていた。ワクチン開発に手を出すのは、普通に考えたらリスクが大きすぎる。だが、世界にとってもビオンテックにとっても良かったのは、ウールにこの領域に関する専門的な知識があったことだ。彼はワクチン開発に舵を取る前に、コロナウイルスの構造を理解するため論文を読み漁り、その特徴を理解して、mRNAワクチンでの対処が可能なのではないか、と見込みをたてることができた。その時点では当然完全に大丈夫とは誰にも断言できないが、そのリスクも込みでいけると判断をくだしたのだ。

二〇二〇年一月二四日の時点で、この新たな病に感染したと確認された人の数は世界で一〇〇〇人に満たなかった。二五日、ウールとエズレムはひっそりと二人の間だけで、ワクチン開発に取り組むことを誓い合った。そして二六日日曜日の夜までに、ウールはすでに八つの異なるワクチン候補を設計し、その技術的な構築プランをおおまかに練り上げたのだ。

ワクチン開発プロジェクトは「プロジェクト・ライトスピード」と名付けられ、迅速に開発が進行されるように準備を整えていく。通常はワクチンを開発・設計して、ラットなどに毒性試験をやって、駄目だったら設計からやり直して……と行って戻ってを繰り返すものだが、速度が重要なので、ビオンテックはいくつものワクチンを並行で開発し試験に進めるなど、常識を覆す方法で開発の短縮化を図っていく。

mRNAワクチンの仕組み

ここでmRNAワクチンはそもそも何なのかを解説しておこう。前提情報として、生物の遺伝情報はDNAに保存されているが、それだけでは何の働きもできない。

核の中にあるDNAから必要な情報をコピーし、タンパク質合成を担うリボゾームまで情報が運ばれることで、はじめてタンパク質が生まれるわけだが、その情報の運搬を担っているのがmRNA(メッセンジャーRNA)だ。このmRNAに自分たちが生成させたいタンパク質のコードを入れてやって、細胞中のリボゾームにたどり着かせることができれば、患者が体内で薬を自動生成するような反応を引き起こすことができる。

今回のようなケースでいえば、防ぎたいウイルスとまったく同じ特徴を備えた複製を生成し(これがまず相当に難しいことなのだがそれはそれとして)、それにたいして免疫系が反応し、抗体を生成させることができれば、体は次から本物のウイルスが侵入してきても反応してくれるようになる。あらかじめ訓練を行うのがワクチンの役目だ。

この技術が長い間実用化されなかったのは、mRNAが壊れやすく目的の場所まで届けるのが難しかったりいくつかの理由があるのだが(今ではこれは脂質ナノ粒子と呼ばれる極小の球体に入れることで保護できるようになっている)、ビオンテックはもともとこの分野の研究をずっと続けてきているので、そこは既にクリアされていたのだ。

科学と駆け引きについて

とはいえ未知のウイルスに対するワクチン開発は簡単に進行するものではなく、本書では設計・開発にあたっての難所についても、ここまで書いてくれるのか! と驚くほど詳細に解説してくれている。たとえば、下記はCOVID-19のスパイクタンパク質を複製するとして、全体と一部のどちらにすべきかを検討している一部分である。

 多くの研究者は、スパイクタンパク質の全体を複製すべきだと主張している。一方で、一部分だけを複製するほうが優れた結果が得られると信じる研究者もいた。その一部分とは、受容体結合ドメイン(RBD)と呼ばれる部位だ。受容体結合ドメインはスパイクタンパク質の先端の部分で、肺細胞の受容体に結合する役目を担っている。この部分のみを再生するタイプのワクチンは、理論上、多くの開発者にとってはるかに都合がいい。なぜなら、ワクチンに仕込む「指名手配ポスター」をつくる際、侵入者の顔のごく一部だけを正確に再現できればいいからだ。

このどちらでいくかについてウールに相談を持ちかけられたアメリカ国立衛生研究所のバーニー・グレアムは、当時同時進行していたモデルナ製のワクチンがスパイクタンパク質全体型の設計で開発を進めていたので、一部分だけを複製する受容体結合ドメインに絞ったワクチンの方を勧めたと本書の中で語っている。理由は、モデルナとは別のオプションを試した会社があったほうが、世界のためになるからだ。

結局ウールは「どちらも試してエビデンスに従う」道を行くのだが、こうした世界的危機に対峙するための各立場ごとの駆け引きも無数の人へのインタビューから引き出していて、本書が「短期間で書かれたと思えない」要因になっている。

おわりに

mRNAワクチンは短期間で現れたがゆえに奇跡のように語られることも多いが、その裏側には研究者たちの30年にも渡る奮闘がある。ビオンテックの二人も数十年この技術を研究を続け、いくつものブレイクスルーを経てこの数年でやっとがん治療の分野で実用化にこぎつけたからこそ、今回の感染症に即座に応用できたのだ。

本書は新型コロナウイルス周りだけではなく、そうしたビオンテックの二人のこれまでの研究過程も描き出していて、”科学者である二人のドラマ”として読んでも素晴らしい出来。ここまでいうことはあまりないのだが、ぜひ、読んで欲しい一冊だ。

砂漠の美しさ、サンドワームの神話的な恐ろしさを見事に表現してみせた傑作映画──『DUNE/デューン 砂の惑星』

『DUNE/デューン 砂の惑星』公開時にIGN japanに寄稿した映画reviewを、年末ですし、Amazonでも買えるようになっているのでブログ用に編集して投稿してます。おもしろいので観てね。

はじめに

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による『DUNE/デューン 砂の惑星』がついに公開された。ヴィルヌーヴ監督は、映画『メッセージ』で特殊な言語を用いる地球外生命体とのコミュニケーションという難しいテーマを見事に映像化し、その後カルト的な人気を誇るSF映画『ブレードランナー』の続編『ブレードランナー 2049』の監督も担当。

『ブレードランナー 2049』は、熱狂的なファンのいる映画の35年ぶりの続編で、事前のハードルは上がりきっていたといっていい。だが、蓋を開けてみれば巧みにオマージュを取り入れながら前作を継承し、同時にヴィルヌーヴらしさも全開の映像で、数十年来の面倒くさいファンをも納得させる形で世に送り出してみせた。今では映像化の難しい題材のSF映画を任せるには、最良の監督の一人であるといえる。

で、そんな面倒くさいSF映画請負人になっていたヴィルヌーブ監督が次に手をつけたのが、フランク・ハーバートによる映像化不可能と言われた伝説的SF小説『デューン 砂の惑星』なのである。先に結論を述べておくと、ヴィルヌーブ監督は本作を完璧に現代の映画に仕立て上げてみせた。砂に覆われた惑星は荘厳に演出され、本作を象徴する砂蟲のヴィジュアルと登場シーンには圧倒された。ずっと観たいと思ってきた『デューン』の世界がここにあった! と叫びだしたくなるほどの快作だ。
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公開前の期待と不安

話を戻すと、ヴィルヌーヴ監督がフランク・ハーバートの『デューン 砂の惑星』の映画化を担当するというニュースが飛び込んできた時、期待半分怖さ半分といった感情が沸き起こってきた。ヴィルヌーヴ監督がこれまで手掛けてきた作品、特に近作については、ゆったりとした時間の流れの中で、重厚で美しいレイアウトとカットをつなぐスタイルが特徴的である。それは、砂に覆われた美しくも終末的な惑星を舞台とし、銀河帝国が存在し、領地を任された貴族たちが陰謀に邁進する、旧時代的な体制が復活した原作の世界観とよくあっている。それは、期待できたポイントだ。

一方で不安だったのは、シンプルに原作の映像化のハードルが高い点だ。『メッセージ』の場合は、原作のSF小説はシンプルな短篇であり、一本の映画にするのに無理のある分量ではなかった。対する『デューン』は、複雑な人間模様と陰謀が渦巻き、言葉で相手を屈服させる超能力者など、神秘も入り混じった複雑な設定がウリの大長編だ。未来視能力持ちの主人公によって、無数の未来の可能性が交錯する演出。

砂漠の惑星に住まう原住民の特殊な文化や、特殊な生物の細かな生態描写。これらのディティール集積が原作『デューン』の魅力であり、それらの要素を映像化にあたって簡略化したり取り扱わなくなると、その魅力は途端に消えてしまう。

魅力的なポイント

実際、これまで映画化は試みられ失敗してきた(ドラマ版はそれなりの成功)わけだが、そこにきてのヴィルヌーヴ監督なのである。彼のこれまでの不可能を可能にしてきた実績からすればいけそうな気もするが、それをはねのけるほど『デューン』の壁は厚いようにも思える。さて、どうなることやら──と思って観てきた結果は、最初に結論として述べたとおり。高まったハードルを遥かに越える作品である。

その内実に迫る前に、先に本作の世界観をざっと説明しておくと、舞台は人類が地球外に進出し、恒星間移動までを成し遂げている遠い未来。だが、恒星間移動移動のためには砂に覆われた惑星アラキスにしか存在しない特殊な香料が必要で、これが現状この宇宙で最も価値のあるものになっている。この世界では先にも書いたように皇帝が存在し、皇帝から貴族に領地が任される旧来のシステムが復活しており、主人公ポールは、貴族たちの中でも特に力を持ったアトレイデス公爵の一人息子である。

アトレイデス公爵は、皇帝の命によって香料生産の重要拠点であるアラキスの管理・運営を任されることになるのだが、実はこれはアトレイデス家の力を恐れた皇帝が、彼らを抹殺するために仕掛けた罠なのであった──という流れで、ポールは父に付き添って砂の惑星に降り立ち、貴族たちの陰謀に巻き込まれていくことになる。

プロットが複雑だとかいろいろと映画化にあたってハードルを上げることを書いてきたが、プロットの軸はシンプルでわかりやすい貴種流離譚(身分が高く若い主人公が、生まれ故郷を離れて放浪を続け、困難を乗り越えていく説話の一類型)であり、本作では台詞に至るまで原作に忠実にそのストーリーをなぞっていく。

映画化にあたってまず偉かったのは、複雑極まりない原作を一本、2時間程度に無理やりまとめる愚はおかさず、2部作構成とし(『デューン/砂漠の救世主』の映像化を加え、3部作とする可能性も模索しているという)、しかもその一本目である本作の上映時間からして2時間30分超え(155分)の長さにしたという英断にある。

その時点で信頼感が湧いてくるが、個人的に本作の映像化で最も注目していた二つのポイントがしっかりと抑えられていた点にまず喝采をあげたい。ひとつめのポイントは、砂に覆われた惑星という本作の最大のヴィジュアル的特徴をどう映像に落とし込むのか。もうひとつは、本作を象徴する生物といえる全長数百キロメートルにもおよぶ「砂蟲」の造形とその圧倒的な巨大さ、恐怖感をどう演出するのかである。

ハーバートが原作で描き出した砂漠は、無機的なだけでなく、美しさも感じさせる特別な場所であったが、本映画でも、朝、昼、夕方、夜とさまざまな時間帯にあわせて姿を変える砂漠を、その美しさや終末的な虚無感まで含めて描き出している。

なんといっても素晴らしいのは砂蟲の造形と演出だ。砂の惑星アラキスの砂の中にはこの砂蟲がさまよっており、人間が普通に歩く程度の振動であっても探知し寄ってきて、凄まじい大きさの口で対象を丸呑みにしてしまう。超巨大な生物が砂中を移動してくる絶望感と壮大さ。人間が立ち向かうなど不可能であることを一瞬で理解できるそのモンスター性に、まるで実在しているかのような生物性──皮膚の質感や、口の開き方──が、本映画では濃密に描き出されている。ヴィルヌーブ監督は砂蟲に関して、設定面まで含めたデザインを決めるのに一年かけたなど、相当気を使っていたことがインタビューで明かされているが、それだけのことはある仕上がりだ。

他にも注目すべき箇所はいくつもある。たとえば、凄まじい日がさすこの惑星で生きていくためには必要不可欠な保水スーツ(身体からでる汗などの水分をすべて吸収・リサイクルして再度飲めるようにする)のデザインであったり、個人の体を攻撃から守ってくれる防御シールドの存在と、それを前提としたアクションもいい。生物に着想を得た、四枚羽で飛ぶ飛行機の造形も素晴らしかった。原作の文章は常に神話が綴られていくような詩的な文章で綴られていくことも特徴だが、古さと新しさの混交した世界観や台詞のデザインは、その詩情をよく画面に映し出している。

主人公のポールを演じるティモシー・シャラメは、裸で出てくるファースト・カットからゾッとするような美青年ぶりで、初登場以後も美しくないカットなどひとつもない。その美しさには、男の自分でも見惚れてしまうほどであった。

原作を知らない人でも楽しめるか?

完成度の高い作品だが、原作未読でも楽しめるか? といえば、独特な造語、宗教と政治を含めた世界観が多く描かれ、複雑な人間関係が入り乱れる作品なので、他のSF映画と比べてもハードルは高くなる。長めの尺を使っているとはいえ、原作から削除された部分も多いので、説明不足に感じる部分もあるだろう。

ただ、そうであっても背景に存在する深い世界観は断片的な台詞ややり取り、背景などからかなりの部分を推察できるようになっているし、骨格としてのプロットはシンプルなので、あまり問題なく楽しめるだろう。ヴィルヌーヴらしい絵作りも相変わらず圧巻で、これまでのヴィルヌーヴ監督作品を楽しめた人なら、言わずもがなだ。

総評

『デューン 砂の惑星』という原作を、ヴィルヌーヴ監督は完璧な形で映像に仕立て上げてみせた。画面いっぱいに広がる砂漠の美しさ、砂蟲の恐ろしさに、ハンス・ジマーによる音楽、どれをとっても映画館で体験することをオススメしたい。

正直、二部作構成となったことで第一作目である本作は中途半端なところで終わるのだが、本作だけでも間違いなくその映像の特別性とおもしろさは伝わってきて、ただただ「早くこの続きが観たい!」という渇望が湧いてくる。この原稿をIGNに書いた時(公開当時)にはまだ第二部の制作にゴーサインが出ていなかったが、現状はそこはすでにクリアしているようで、よかったよかったというところである。

それどころかヴィルヌーヴ監督はクラークの『宇宙のランデヴー』の映画化まで担当することが報じられていて、いよいよSF映画何でも屋じみてきたなというところだ。

『火星の人』の著者最新作にして、宇宙SF&宇宙生物学SFの傑作長篇──『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

この『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、火星に一人取り残されてしまった男の決死のサバイブを描くハード・宇宙開発SF『火星の人』でデビュー&大ヒットした、(リドリー・スコットの映画も傑作だった)アンディ・ウィアーの最新作。本国では売上も評価もよく、ビル・ゲイツの今年の5冊に選ばれ、映画化権も取得されライアン・ゴズリング主演の映画化も進行中など、すでにヒット・ロードに乗っている。

今回はすでに英語版での評判が漏れ伝わってきていたし、日本での(版元の早川書房の)プロモーションも気合入っているな(翻訳SFとしては珍しい単行本での刊行)と思っていたので最初から高まっていたのだが、読んでみればいやはやこれが期待通りの作品である。扱うテーマや題材、舞台そのものは『火星の人』と大きく異なっていて、新たな領域を開拓しているが(主に火星を舞台として展開する『火星の人』と比べて、本作は基本的にずっと宇宙を航行する宇宙SFだ)その語り口、精神性は『火星の人』と共通していて、それまでの作風の魅力は一切失われていない。

月面都市を舞台にして少女の冒険を描き出している、比較的軽めの読み味の第二作目の長篇『アルテミス』があんまり合わなかったな〜という人であっても、本書(プロジェクト〜)は十二分に楽しむことができるだろう。

あらすじ・世界観・構成など

本作は自分の名前すら思い出せない男がその意識を取り戻し、自分の過去を思い出しながら目の前の問題に対処していく「現在」パートと、その現在に至るために何が起こったのかが描き出される「過去」パートが交互に語られる構成になっている。最初は語り手が人間で、生物学的男性であることぐらいしかわからないのだが、過去が明らかになるたびにそういうことだったのか! と驚きが積み重なっていく。

つまり、本編の興を削がない形で紹介できる部分があまりない作品なのだが、ここで記事を終えてもしょうがないので序盤を中心に読みどころを紹介していこう。まず『火星の人』がらみの読みどころとしては、本書が科学者の一人称で世界の謎・苦しい状況を把握し、科学で問題を解決していく物語であるというところにある。

たとえば、最初は名前も思い出せない語り手ではあるものの、彼の中には知識は残されており、空間の中をAIと対話しながら動き回るうちにその知識量から自分の正体が少しずつわかることになる。まず、自分がいるのが豊富な備品が揃った実験室であることがわかる。8000倍の顕微鏡、高圧蒸気現金機、レーザー干渉計──そうした機材の名前と用途がすべて把握できるので、少なくとも自分は科学者かそれに類する存在であることも連鎖的にわかる。『ぼくは科学者だ! 手がかりをつかんだぞ! 科学を使うときがきた。ようし、天才脳味噌くん──なにか考え出してくれ!』

メジャーをみたらメートル法のものだから、ヨーロッパなのか? と場所の推測をすることもできる。だが、そうやって身の回りにある備品を観察して推測を積み重なっていった先にみえてくるのは、彼が明らかに通常の空間にいるわけではないという事実だ。たとえば、試験管をテーブルから落とし、ストップウォッチを使って試験管が床に落ちるまでの時間を計測すると、約0.37秒で、何回も繰り返すと平均は0.348秒。距離は加速度掛ける二分の一掛ける時間の二乗で、加速度は二掛ける距離割る時間の二乗だから──と考えていくと、明らかに彼がいる部屋の重力は大きすぎる。

 困ったことに、なにものも重力に影響をおよぼすことはできない。大きくすることも小さくすることもできない。地球の重力は九・八メートル毎秒毎秒。これは絶対だ。なのにぼくはそれ以上のものを経験している。その理由としてありうるのはたったひとつ。
 ここは地球ではない。

と、少なくとも現在パートの語り手がいるのは地球上ではないことは明らかになる。しかし、それはどこかの宇宙ステーションのような場所なのか、はたまた航行中の宇宙船内なのかはわからず(ここは公式のあらすじに書いてあるところなので明かすが、普通に宇宙船内)、そうした細部を次第に詰めていくことになるのだ。

宇宙生物学SFとしてのおもしろさ

そうした高度な知識を持った科学者が状況を認識し、その後に問題とその解決に邁進する『火星の人』的なパートとは別に、そうした状況に至るまでを描く過去パートでは、最初は宇宙生物学SFものとしてのおもしろさが展開していくことになる。

この過去パートは地球で物語が展開するのだが(語り手は現在パートと同一人物)こっちはこっちで人類全体が大きな危機に見舞われている。JAXAの太陽観測衛星アマテラスによってなぜか太陽の出力が大幅に下落していることが判明し、今後20年間で5%下落、地球は氷河期となり生物の多くが死に絶えると予想されているのだ。

恒星が燃えるのは純然たる化学のプロセスだから、出力の上下はあってもそこまで予想を超えた動きは示さない。最初こそ原因について仮説ゼロの状態だが、太陽が暗くなるのと同じ割合で明るくなっていく「ペドロヴァ・ライン」と呼ばれるものが太陽から金星をつなぐ場所に存在することが判明し、人類は金星にこれを調査するための無人船を送り込むのだが────採取した結果として明らかになったのは、このラインを形成しているのは何らかの生命体であるという事実だった。

その生命体(後にアストロファージと命名される)は、太陽の表面、もしくはその近くに陣取って、太陽からの出力を食っているのだ。普通に考えたらそんな生命体は存在できないが、実際に存在するので、ではどのような生命体ならそんなことが可能なのか。どのような機構を持った生命体なのか──が諸々検討されていくことになる。

過去パートの語り手は学校で教師をやっているのだが、もともとは『水基盤説の分析と進化モデル期待論の再検討』という、水を生命の基盤としない生命についての仮説を追究していた研究者であった。そんな仮説はありえないと猛反発をくらって逃げるように一度研究の世界を去ったものの、「太陽近郊で活動できる生命体がいるとすれば、超高温に耐えられるのだから水を基盤としない生物なのではないか」という論理で、この研究に注目が集まりふたたび研究の世界に戻ることになったのだ。

採取されたアストロファージにたいして、X線分光計を試したり、数千度まで過熱してみたり、真空中で分光器にかけてみたり、冷やしてみたり──こうした手順を一個一個踏みながら、これがどのような生物なのかを確かめていく。このあたりの細部の詰め方は、生物学の領域ではあるものの、『火星の人』でみられたような科学のプロセスとして進められていき、本作を宇宙生物学SFとしても傑作にしている。

おわりに

と、これでかなり内容を明かしたように見えてもまだ上巻の68ページまでの内容に過ぎない。ここから先、どんどんアストロファージについての新事実が明らかとなり、宇宙生物学としての探求が今度は宇宙SFとしての発展・展望に関わってくる。

上巻の後半部からはまた別の宇宙生物学SFとしての魅力が出てきて──と、読み進めるたびに情景が大きく変わっていくので、そのあたりはぜひ読んで確かめてほしいところ。語り手は宇宙空間で人間としてはたった一人、『火星の人』とは違って自分だけではなく人類を救うために科学を武器に奮闘するのだが、その根底にはやはりユーモアとポジティブさが存在していて、ポップに読み進めることができるだろう。

『三体』の劉慈欣による本邦初の短篇集、劉慈欣は長篇だけでなく短篇もおもしろい!──『円』

この『円 劉慈欣短篇集』は、『三体』の著者劉慈欣による本邦初の短篇集である。中国での短篇集の翻訳かと思ったら、作品選択は原著者側によるもので、どのような意図があるのか訳者にもわかっていないらしい。ただそれで謎のセレクションになっているかといえばそうでもなく、1999年のデビュー作から2014年の作まで、キャリアを概観できるような作品集(13篇)になっている。これがまたおもしろいんだ。

劉慈欣の短篇が素晴らしいのは映画『流転の地球』の原作にもなった「さまよえる地球」をはじめとした邦訳作の数々からとっくに知っていたつもりだったが、通して読んでみるとそれでもまだナメていたなと実感させられた。科学と芸術の意味を高らかに謳い上げ、人類の歴史やその本質に接続してみせる、そんな『三体』の要素を凝縮したような高密度の短篇ばかりで、読み終えた時の満足感はとてつもない。

三体のような異星文明が出てくるらしいものもあれば、オリンピックをテーマにアスリートの戦いを描き出すものあり、守備範囲が広いのも特徴である。近いうちにSFの年間ベスト記事も書こうと思うが、『三体』の第三部とあわせて外せない一冊だ。

ざっと紹介する──「鯨歌」

13篇もあるので全部ではないが、お気に入りを中心に紹介してみよう。発表年代順に並んでいるので、トップバッターは劉慈欣1999年のデビュー作「鯨歌」。鯨の脳にバイオ電極を取り付けることで自由自在に外から制御できるようになり、それで何をするのかといえばヘロインの密輸をしよう! という犯罪者らを描き出していく。

それって人間は上に家でも作って乗ってるの? と思いきや乗り込むのは口の中なのである。最初こそうまくいくものの、ある地点から雲行きが怪しくなってきて……と、科学が自然と生物を征服していく様、またそれが別の人類のエゴによって転覆していく様が短い中で描き出されている。デビュー作にして”らしさ”に溢れた作品だ。

「地火」

続く「地火」は『2000年代海外SF傑作選』にすでに収録されているが、炭鉱労働者の劣悪な環境を変えるために立ち上がった技術者が、石炭地下ガス化という新テクノロジーを用いてすべてを効率化・安全化していくさまを描き出していく。技術が社会を良い方向に変化させていく前向きさと、それが時には災厄をもたらすという、新しいテクノロジーの恐怖。その両面を描きながら、美しい明日をつかむために、代価を払ってでも前に進むんだという希望が描かれていく作品で、凄まじい勢いでテクノロジーによる変化を遂げていった中国の姿と重ね合わせずにはいられない。

「郷村教師」

「郷村教師」は、優れた教師と教育の意味を謳い上げるような作品だ。自身の命も顧みず、親からどれほど疎まれようとも貧困にある子供たちに教育を施し続ける教師のパートと、地球から何万光年も離れた場所で星間戦争などをしている銀河炭素生命連邦の物語が交互に語られていく。この構図自体はわりとみるものだが、それがどう繋がるのか、そしてその結末には唖然とさせられる。妙な迫力のある作品だ。

「カオスの蝶」

力学系の状態にわずかな変化を与えると、それがなかった場合とはその後の系の状態が大きく異なってしまう現象をさす”バタフライ効果”という言葉があるが、「カオスの蝶」はその実践編とでもいうべき内容。著者が本作を書く前に、NATO(北大西洋条約機構)がユーゴスラビアに激しく攻撃を加えていたが、本作ではまさにそのユーゴスラビアの科学者が、爆撃を妨害するために各地をめぐってバタフライ・エフェクトを起こそうと試みる。琉球列島の海上で火薬を爆発させ、アフリカの砂漠に氷をばらまいて温度を下げ、とはたからみているとおかしな行為だが、めぐりめぐるのだ。

ちょっとわかりづらいオチまで含めて大好きな作品だ。

「詩雲」

「詩雲」は詩がテーマとなっている作品だが、演出、魅せ方が素晴らしい。超越的な科学力を持つ上位種属に、家畜と化した人間、その中でも一人の詩人が呼び出され、詩の奥深さを異星種属へ教えていく──と書くと「HUNTER×HUNTERの王とコムギじゃん」になるが、異星種属は身も蓋もなくありえる文字の並びを全パターン網羅しようという「バベルの図書館」的発想に至ってしまう。

もちろんそれにはデータベース容量的な問題があり、その解決をはかると共に映像的にも一捻り加えた展開になっていて、その情景がまた素晴らしい。

「栄光と夢」

「栄光と夢」はオリンピック競技、中でもマラソンを扱った作品だ。とはいえ、きちんとSFでもある。現代の戦争は人的リソースの消耗が激しいが、だったらスポーツで代理戦争させればええやん! を実際に行うようになった世界で、作中ではリソースが足りず国民が飢えているシーア共和国と、アメリカ合衆国の二国だけがオリンピックに参加する。相手に勝てば勝つほどもらえる権利は増えるが、シーア共和国は誰もが飢えているような有様なので、当然普通にやったら勝てるわけもない。

それでも──走ることに賭けてきたやつがいた──!! という燃える展開でシーア共和国の女性マラソンランナーであるシニは走り始める。走りながら過去の回想が入り、対戦相手のエマとの駆け引きもあり、と劉慈欣あんたこんな熱いスポーツ物も書けるのかあ! と驚くような一篇だが、そのオチもとても劉慈欣らしいものだ。

「円円のシャボン玉」

「円円のシャボン玉」は、生後5ヶ月でシャボン玉に惚れ込み、それが人生の探求の礎になってしまった一人の女性、円円の人生を描き出していく。シャボン玉は壊れやすい夢の象徴だ。そんなものを追いかけても人生には何の役にも立たない。

しかし、それでもそれが好きで、その道を信じて探求し続けたら、道が拓けることもある。科学者、経営者となった円円は、何のために使えるのかもわからない、でっかいでっかいシャボン玉を作るために多額の研究開発費を注ぎ込んでみせる。

「一億元でシャボン玉を吹くのか? なんのために?」父親の口調は夢の中にでもいるようだった。
「なんのためでもない。ただの遊び。でも父さんたちが何百億もかけて建設した、もうすぐなくなってしまう都市とくらべたら、あたしの贅沢なんて小さなものよ」
「だが、その都市をおまえは救えるんだ。それもおまえの街だぞ。生まれ育った土地だ。なのにその金でシャボン玉を吹くのか……身勝手にもほどがある。」
「あたしは自分の人生を生きたいの。滅私奉公が歴史を動かすとはかぎらない。パパの街がその証拠よ!」

何の役にも立たないであろう夢を追い求める女性の姿が美しい作品だ。もちろん、そうやって作られた特殊なシャボン玉は、意外な用途で用いられることとなる。

「円」

最後に紹介したいのは、表題作にもなっており『三体』にも組み込まれている短篇「円」。十万桁まで円周率を求めよという秦の始皇帝の無茶ぶりに答え、荊軻は三百万の軍隊を用いた人間計算機を作り出してみせる。凄まじい本書の表紙はまさにその場面だろう。圧倒的な情景、絵で魅せてくれる作品だ。

おわりに

読み終えて思うのは、やっぱり劉慈欣は「絵の映える」作家だな、というところ。デビュー作からして鯨の壮大さとそこにおさまる人間の、ピノキオ的な映像のおもしろさがある作品だが、その後の作品も、炭鉱労働の景色が変わる「地火」、詩の情景が圧巻の「詩雲」、二国しか参加国がいない、ガランとしたスタジアムの描写が印象的な「栄光と夢」、そしてもちろん「円」など、絵面が記憶に残る作品ばかりだ。

あらためて、僕はそうした情景、絵を求めてSFを読んでいるんだよなあ……と思い出させてくれる作品集だった。傑作である。

テロと感染病の蔓延により、リアルに接触する機会が激減した未来を予言的に描き出したネビュラ賞受賞作──『新しい時代への歌』

この『新しい時代への歌』は、本邦では初紹介となる作家サラ・ピンスカーの長篇にして2020年度のネビュラ賞受賞作である。本作、日本でこうして邦訳作が刊行されるまえからすでにかなりの話題作となっていたが、その理由は、現在のコロナ禍を見通していたかのような本作の内容にある。本作が刊行されたのは2019年のことなのだけれども、その中で描き出していくのは、テロと感染症の影響によって、人々が大勢で集まることが禁止され、対面接触が極端に減少した少し未来の世界なのだ。

この世界では、健康な人間も一気に死に至る可能性のある感染病の蔓延とアメリカ全土の施設に向けた大規模な爆破テロがほぼ同時期に重なってしまい、それ以前と以後では「前時代(ビフォー)」、「後時代(アフター)」と呼称されるほど社会の在り方が異なってしまっている。アフターの世界では、数十人規模で集まる密集・集会が禁止され、夜間外出禁止令も州ごとに発令されている。夜道を歩いていると警察からきみぃ、こんな時間に何をやっているのかね、と声をかけられるような状態である。

そんな状況下なので、アフターの世界では昼間でも人々は非接触での生活が当たり前になっている。学校や仕事や買い物はすべてオンライン。クラブや美術館はすべて閉まり、物資の購入は通販で、輸送はドローンが担当している。多人数が集まる音楽のライブ会場も表向きには存在せず、かつてのようなライブを体験をしたい人たちは没入型の仮想世界にいくしかない。感染症が蔓延した世界というのはSFのテーマとしては珍しいものではないから、予言的だと騒ぎ立てるのもどうかと思うが、本作が描き出す日々の生活は、コロナ禍の中で我々が体験している状況とかなり近い。

なので、最初は「いま・ここ」と関わりの深い小説として興味を持ったのだけれども、読み始めて驚いたのは、本作がまず「音楽・バンド小説」としてシンプルにおもしろいという事実だった。感染症を超えて人の心を震わせる音楽と、リアルでライブをすること、またそれを体験することの喜びが十全に描き出されている。サラ・ピンスカー自身もインディーズで何作もアルバムを出しているアーティストでもあり、音楽の細かな描写については、自身の実体験から描いている部分もあるのだろう。
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前時代

物語はまず、まだ世界が前時代、後時代に分かれていない時代がはじまる。中心になっているのは『血とダイヤモンド』という曲がヒットしている女性アーティストのルースだ。彼女を含むバンドは各地をめぐるツアー中で、その日もライブを行おうとしているのだが、アメリカ全土に爆破予告があり、中止の可能性が浮上している。

アメリカ全土で爆破テロを起こすのは現実的ではなく、バンドメンバーも最初はそれを真剣に受け止めていたわけではなかったが、野球スタジアムのひとつが実際に爆破され多数の死傷者が出る。大統領は、できるかぎり公共の場に出ることはやめて自宅待機をするようにとの声明を出した。当然、ライブの可否を判断する必要がある。

レコード会社は保険をかけているから、ライブが仮に中止になっても、もっとマシな日に振り替えることもできる。普通に考えたら中止一択だし、そもそもほとんどの客は各地に爆破予告の出ている日にわざわざライブに来たりなんかしない。無理やり決行したところで、10人程度の集まってきた観客に気まずい思いをさせかねない。だが──とそこで思考を転換させるのがルースというアーティストだった。

 でもその十人は、音楽でそんなニュースは吹き飛ばし、今夜だからこそ気持ちを奮い立たせるためにライブを求めているかもしれない。そう考えるほうが理に適っている。「自宅待機するように」と命じられることに反発し、誰から脅されようが屈しはしないところを示したい人々もいるはずだ。その機会を与えることができるのに、わたしたちが勝手に取り上げていいの?何が正しいかなんて、たぶん誰にもわからない。
「おれを見るなよ」わたしが顔を向けるとヒューイットが言った。「きみがボスだ」

10人のためにライブの決行を決断するルースだが、後日、そんな決断を下したのはアメリカ全土で彼女だけだったことが判明し、そのライブが最後に行われた大規模なコンサートだったという記事が書かれることになる。テロの恐怖と、同時期に発生した感染病により、世界は前時代と後時代で分かれてしまうのだ。

後時代

ルースの話と交互に語られていくのは、世界が後時代に切り替わった後、プログラム修正などを行うヘルプ・センターの仕事を担当しているローズマリーの物語である。彼女の方はルースよりも若く、幼少期の頃に後時代への移り変わりを経験したので、人生をほぼ人との非接触を当然のものとして過ごしている。学校も、デートも、すべてはオンラインで進行し、何十人も集まる人混みに行くとパニックを起こすほどだ。

だが、ある時仮想世界上でのライブを体験したことで、そうしたオンラインライブを主催するスーパー・ホロ・ライブに転職を決意。もともと優秀だったこともあって、各地をまわってアーティストを発掘する営業部門に採用され、現地で行われている違法ライブにしのびこんでいくうちに、自前の箱で違法ライブを開催しているルースと出会うのであった──というのが、おおむね物語の30%ぐらいまでの展開である。

ルースはもともと前時代の人間で、自前の箱で違法なライブをやるぐらいだから、仮想世界よりも現実のライブを重視する人間である。一方のローズマリーは、人混みを前にして、「どうしてみんな平気でいられるんだろう、この中の誰かは強力な病原菌に侵されていて誰かのくしゃみがここにいる全員を危険に晒すかもしれないのに」と恐怖を覚えるような人物で、まるで異なる価値観を持った二人が、音楽、現実のライブを一緒に体験することで、ひとつに繋がっていくおもしろさがある。

「あの人たちはそのために来てるの? 繋がりのため?」
「あなたはどう。どこかからここに、いままで聴いたことのない音楽を探しにやって来た。曲を、とも言えるのかもしれないけど、ほんとうにそれだけならオンラインでも探せるはず。わたしたちと同じように、それ以上のもの、何かを生みだすきっかけを求めてここに来たんじゃないの」

本当にこのままでいいのか?

本作は人と人との接触が断たれてしまった世界を描き出しているが、同時にルースやローズマリーの行動を通して「本当にそれでいいのか?」という疑問を問いかけてくる。ルースが誰もがライブをためらった日にあえて決行を判断したように、たとえその意見が少数派だったとしても、間違っているのは世界の方なのではないか? と。

本作はただ非接触やオンラインライブを否定しているわけではなくて、この世界に慣れた人たちは世界はより安全になり、刑務所に入る人も減り、裕福な人達の居住地は分散して資産はより公平に分配されるようになったなど、肯定的な側面も語られていく。オンラインライブも、ローズマリーが最初感動したように、素晴らしいものだ。

だが──、それだけでいいのか? という問いかけもまた必要なものであり、ルースとローズマリーはそれぞれ別の立場からこの世界に向き合っていくことになる。今まさにすくすく育っている子供たちは、重要な価値観の形成期に本作のローズマリーのような体験をしており、同時にライブイベントを開催すべきだ、いや中止だという様々な議論が起こるいまこそ読んでおきたい、タイムリーな一冊だ。

数千年におよぶ進化と文明の発展を重ねた蜘蛛と人類の邂逅が描かれる、進化のダイナミズムが詰め込まれたSF長篇──『時の子供たち』

この『時の子供たち』は、イギリスの作家エイドリアン・チャイコフスキーのSF長篇である。刊行は2015年で、2016年にアーサー・C・クラーク賞を受賞している。

それ以上の情報は何も持たず、刊行年的には少し古いこともあって期待するわけでもなく読み始めたのだけれども、いやはやこれには驚かされた。テラフォーミング先の惑星で、人類がばらまいたウイルスにより知性を獲得した蜘蛛の数千年に渡る世代交代史・進化の過程。そして、地球を脱出し第二の故郷を求めさまよう人類という二つの視点から物語は描き出されていく。テラフォーミング、独自に進化した蜘蛛、地球を失った人類、「異質なものとの遭遇」など、要素だけみるとクラシックなSFとも言えるのだが、蜘蛛視点の世界の書き込みが凄く、特異な読み味を感じさせる。

蜘蛛は蜘蛛なので当然人間とは異なる世界認識、技術、社会、文化を持ち、異なる葛藤や課題を抱えている。本作では執拗といえるほどにそうした「知性を持った蜘蛛の文明とその発展」が描き出されていき、その蜘蛛が人間と接触することによって、さらにその異質さが際立つ構成になっている。上下巻の長い本で、10〜20ページほどの短い章ごとに世代も変われば蜘蛛・人類の視点も切り替わっていくのでなかなかとっつきづらくもあるのだけれども、状況を把握できるようになってからはゲーム的に話が進むのもあって読みやすく、特に後半のスピード感は凄まじい。

世界観など。

物語は主に、人類がテラフォーミングを行った、地球から約20光年離れた惑星で展開する。そこでは惑星を地球環境に作り変える通常のテラフォーミングの他に、猿の知性を特殊なナノウイルスで進化させ、人類の後継となる種族を作り上げる予定だったが、実施直前に船内に潜んでいた反乱者の存在によって計画は大失敗してしまう。

計画の責任者であったドクター・カーンは失敗に対応して自身の意識をソフトウェアとしてアップロードし、軌道上の人工衛星で、救難信号を発しながらコールドスリープに入る。カーンは猿とナノウイルスの投入がうまくいったと考えているが、実際には全滅しており、代わりにナノウイルスの恩恵を受けたのは蜘蛛たち他の動物である。物語はその後、進化を続けていく蜘蛛と、カーンの救難信号を受けてかけつけた宇宙船ギルガメッシュの面々という、二つの視点から描き出されていくことになる。

宇宙船ギルガメッシュは救難信号を受けて近寄ってきたわけだが、それはカーンを救助するためではなく、自分たちが助かるためだ。地球では戦争が激化し、人が住める環境ではなくなったので、ギルガメッシュの乗組員は船内でコールドスリープを駆使しながら、20光年の距離を2000年かけてこの惑星へとやってきたのである。

一方、蜘蛛らは2000年の時をかけてじわりじわりと発展を続けている。

じわじわと成長していく蜘蛛の描写がおもしろい!

正直、人類パートは飛び抜けておもしろいというわけではなく、本作の魅力の大半は蜘蛛側のパートにある。蜘蛛パートは主に、「ポーシャ」と名乗るハエトリ蜘蛛に密着して語られていくが、この蜘蛛は最初は体長わずか8ミリ、脳の神経細胞は人間の1千億とは程遠い、6万しか持っていない、まだまだ低知能な存在だ。

それでも、彼らは徐々に狩りの腕を上達させ、卵を産み、ナノウイルスに感染していることもあって、後の世代の蜘蛛たちは、体の大きさが倍、知能も大きく増大していく。最初はかすかな知性があるのみだが、次第に視覚と振動による独特の言語を生み出し、科学と呼べそうなものを生み出し、世界の理解を増していく。この、蜘蛛たちの神経細胞や文明が発展していくのが、civilizationやクッキークリッカー系のクリックで世界が発展していく系のゲームをプレイしているようでおもしろいのだ。

この発展を支える仕組みが、蜘蛛が〈理解〉と呼ぶ継承システムにある。蜘蛛たちは世代交代を繰り返すうちにある時〈理解〉を得ることがある。〈理解〉とはいわば知識のパッケージなのだが、これは人間が実験や研究を行って知識を増やしていくのとは異なって、遺伝子に組み込まれたものである。進化を促すウイルスが学習した行動様式を、遺伝的に継承可能な形に変換し、精子と卵子に転写することで、子孫はある日急に「ある知識」をひらめくのである。ロマサガシステムなのだ。

 このような仕組みは、初めはちぐはぐで、不完全で、ときには命取りになることもあったが、世代を重ねてより効率的なウイルス株が広がるにつれて信頼性が高まった。ポーシャはこれまでに多くのことを学んできたが、その一部は生まれつき持っていたり、成長する中で手に入れたりしたものだった。生まれたばかりの子蜘蛛でも狩りや忍び足や跳躍や糸吐きができるのと同じように、ポーシャは生まれてから何度か脱皮するうちに言語を生得のものとして理解し祖先たちの暮らしの断片に接することができるようになった。
 それはいまとなっては遠い過去となった。ポーシャの民が有史以前から有していたひとつの機能だった。だが、最近では、彼女らはナノウイルスの強化能力を活用するすべを学んでいた──ウイルスが逆に彼女らを活用しているように。

〈理解〉によって、蜘蛛には突如革命的な発明や発想をするものがあらわれ、そのたびに文明は加速していく。理解が引き継がれる総量には限界があり、より有用性の高い理解を引き継がなければならず、そのため優れた理解は経済価値が認められ、別々の血筋で伝わっている奥義としての理解をお互いに交換していく。このあたりのリソースが限られていてやりくりしないといけないのもゲームっぽいところだ。

蜘蛛たちのドラマ

蜘蛛の社会パートには、発展以外にも様々なドラマがある。蜘蛛以外の種族との戦争、蟻の群れを計算機のように扱う手法の発見、致死的な疾病が流行し、「免疫」の概念を〈理解〉する過程。蜘蛛の社会は雌が圧倒的に優位で、雄は虫けらのような存在だが、蜘蛛の中でも特別な〈理解〉を得た雄が、雄の地位向上のために立ち上がるパートや、糸を用いた特殊建造物の描写など、蜘蛛社会ならではの描写も数多い。

体長8ミリの蜘蛛からはじまって、自力で計算機を生み出し、軌道上を回る人工衛星の存在に気が付き、蜘蛛以外の知性の存在、自分が存在する意味に思いを馳せる。わたしたちはいったいなぜここにいるのか? 世界の仕組みはどうなっているのか? と。そうした進化と発展のダイナミズムが、本作にはたっぷり詰め込まれている。

おわりに

ギルガメッシュパートは、第二の地球にしようとこの蜘蛛の惑星に来た後、ソフトウェアとなったカーンに人工衛星から攻撃を受けて長い膠着状態に陥るのだが、いつかは降りねば死んでしまう。はたしてその先にあるのは蜘蛛と人間の戦争か、あるいは平和な接触なのか。蜘蛛と人間では使っている言語も生態も何もかもが異なり、お互いがお互いのことを理解の困難な異質なものとして探り合う過程が双方の視点から描かれていくので、ファーストコンタクト系の作品としても珠玉の出来。

文明発展や蜘蛛が世界を開拓していくさまは冒険小説としておもしろく、蟻や蜘蛛たちとの戦争の描写は戦術面がしっかり描かれていて戦争SFとしての魅力もあり──と一言では表せない魅力の詰まった、大好きな作品である。ぜひ楽しんで欲しい!

余談

本筋から外れておもしろかったのが、数千年におよぶ物語で世代交代を繰り返していく種をどうわかりやすく描くのか、という工夫にある。たとえば、蜘蛛パートはポーシャと名乗る蜘蛛に密着していくのだが、蜘蛛なのですぐに死に、世代交代してしまう。だが、世代が変わるごとに名前が変わったらめちゃくちゃ読みづらいと考えたのだろう。本作では、ポーシャの血統に連なり、その個性を継承している蜘蛛をみなポーシャと呼称していて、いつの時代もポーシャはポーシャとして語られていく。

蜘蛛パートには他にも幾人もの登場蜘蛛が出てくるが、そいつらも全員名前を継承していくので、表向きは主要の蜘蛛は3〜4体しか出てこない。これは世代交代を前提として数千年の物語を紡ぐにあたって読者のストレスを軽減させる良い仕組みだ。人間はどうなのよ、とおもうかもしれないが、人間はコールドスリープして数千年の時を超えるので、基本的にはずっと同じ人物が継続して出てくるわけである。

動物の言葉を話す男と古代のおとぎ話を忘れた近代社会が対立する、エストニア発の傑作ファンタジィ──『蛇の言葉を話した男』

この『蛇の言葉を話した男』は、エストニアで歴代トップ10に入るベストセラーに入り、フランス語版も大ヒットして14ヶ国語に翻訳されたファンタジィ長篇である。帯には、『これがどんな本かって? トールキン、ベケット、M.トウェイン、宮崎駿が世界の終わりに一緒に酒を呑みながら最後の焚き火を囲んで語ってる、そんな話さ。』という惹句がついていて、最初から期待して読み始めたのだが、いやはやこれが期待を遥かに上回ってきた。今年読んだ外国文学の中ではピカイチの作品と断言できる。

本作は、蛇やクマといった動物と言葉を交わし、強制的に命令を発することもできる「蛇の言葉」を扱う森の住民たちと、そうした古の文化を忘れ、科学技術を得て新しい社会を築き上げてきた近代社会の摩擦、戦いの話であり、リアリストの語り手の少年を筆頭に、人間の女にすぐ惚れてしまうクマ、暴力ですべてを解決しようとするヤバいジジイ、伝説の蛇サラマンドルなどキャラクタや生物の魅力が飛び抜けている。

エストニア発の作品なので、その歴史が色濃く反映されてもいるのだけれども、普通に読む分には意識しなくても問題はない。基本は蛇の言葉を話す最後の男となった少年が成長し、すべてを失いつつ戦いに赴く話なので、何も考えずに読んでも、アクの強いキャラクタたちと、感情の導線に従って、まるでマーベル作品を鑑賞しているかのように楽しむことができるだろう。特に終盤は本を持つ手が震えてくるほどの展開で──と語りたいことが山ほどあるので、具体的に紹介していきたい。

世界観など

舞台になっているのはエストニアだが、時代は中世〜近代あたりのまだあまり技術レベルが発展していない段階のどこかのように読める。そんな世界では、かつて存在していた古き伝統の「おとぎ話的な世界」は、だんだんと忘れ去られつつある。

たとえば、「蛇の言葉」という動物と会話をすることができる特殊な言葉がこの世界には存在する。森で暮らすある部族は、この言葉を駆使して狩りをしたり、蛇やクマたちと共生することに成功している。さらには、この蛇の言葉を使う者が1万人集まって音を一斉に鳴らすことで、森ほどのとてつもない大きさで空を飛ぶ、伝説の蛇サラマンドルを呼び起こすことができるといわれているなど、他様々な伝承がある。

だが、今ではこの「蛇の言葉」を話せる人間はほとんどおらず、物語開始時点では、語り手レーメット少年のおじさんを始め10人ほどしかいない。1万人集めるなんて夢のまた夢。だが、レーメットはそのおじさんから直接蛇の言葉のレクチャーを受けることで、森における最後の蛇の言葉の使い手として成長していく。この蛇の言葉は比喩的に動物と話ができるわけではなくて、明確に蛇やクマと意味のある会話ができるので、本作には普通に喋る登場人物として動物たちが現れることになる。

失われていく物語

そんな世界で繰り返し描かれていくのは古の伝統と新しい時代の対立だ。レーメットらが暮らす森のすぐ近くには村があり、そこでは誰も蛇の言葉など信じていない。新たに開発された道具を使い、城や鎧といった新しい道具に慣れ親しんでいる。パンを食べ、肉はほとんど食べれないが、それでも十分幸せだと感じている。城や宮殿に住む人間がいる時代に、森で狩りをして暮らすなんて狂っている、というわけだ。

一方森の住人のレーメットらからしてみれば、蛇の言葉を知らないから家畜を集めてそれを管理し、餌を与えるなんて馬鹿げたことをやらないといけない。鎌やら熊手やらといった馬鹿げた道具を必要とするのは、かつて存在していた古き伝統と技術を忘れてしまったからで、森にいれば好きなだけ美味しい肉を食べることができる。

森に住んでいる人間のこうした主張には理もあるといえばあるが、作中では森の部族はあくまでも滅びゆくものとして描かれていく。森の人々はどんどん村に移住し、レーメットやその母親とおじさんのような、ごく一部の人間だけが今や森に残っていて、文化の継承ももはや途切れつつあり、その流れは変えようがない。

つまり、これは「伝統の終わり」についての話なのである。あらゆる文化はいつか終わりを迎えるが、レーメットは最後の森の男であり、蛇の言葉の最後の話者であり、と様々な「最後の男」「かつて存在していた文化の看取り手」になっていく。本作の中心にはレーメット少年の成長譚があるが、物語はシンプルな成長譚にはおさまらない。彼の人生は常に彼の身の回りにかつてあったものの喪失と共にあるからだ。

何を信じるのか。

そう書くと失われていく古い伝統をノスタルジックで感傷的に描き出した物語なのかと思うかもしれないが、実際はまったく違う。終わりを受け入れる物語ではあるのだが、タダで受け入れてやるわけではない。そこには強烈な怒りの発露がある。

レーメットはもともと森を捨てた父親によって、村で産まれ育てられたが、その後父親の死に伴い森に帰ったという経緯があり、森と村をまたにかける存在として描かれている。そんな彼にとって、伝統の森か近代の村、どちらが理想的な世界、ということはない。心情的にも身体的にも森に居心地の良さを覚えているが、最後まで森に残ることを選択した他の人間は、それはそれで思想や心情が歪んでいるのである。

たとえば、森にはもう人間がほとんどおらずその数は少なくなる一方であることを受け入れられない人間がいる。もはやそれは戻ってくることがないにも関わらず、サラマンドルなど過去の栄光にすがり、そのことばかり語る。また、古き良き伝統が失われていくことを認められないがために、その反動から最も昔の風習にしがみつき、誰も信じていない呪いの話に執着し、それを他者に押し付けて疎まれる。

 ウルガスとタンベットは村に移り住んだ者たちを皆憎んでいたが、彼ら自身も、すでに真の森の住人とは言えないことをぼくが理解したのはずっと後になってからだった。彼らは、古代の森の風習が死に絶えつつあるのを辛く苦々しく思いながら暮らし、その反動から、最も昔の秘された魔術と風習にしがみついていた。

森にそんなやべーやつがいるなら村に行けばいいじゃないか、と思うかもしれないが、村は村で、また別の偏見と思想が支配している。キリスト教が蔓延し、さらには自分たちが立ち入ることのできない森に過剰な幻想をいだいているせいで、人狼がいると思い込んだり、精霊や闇の力を持った存在がいると妄想しているのだ。レーメットは、森の住人の言い分にも村の住人の言い分にもバカバカしさを感じてしまう。

どこにいっても居心地の悪さを感じる彼に、安住の地はなかなか訪れない。物語は半分を過ぎたところから凄まじい勢いで加速していくが、その加速のきっかけとなるレーメットの師は、戦いに生きがいをもとめるある種の狂人で、だがそれ故に真実を言い当てることで、レーメットに新しい方向性と、何より怒りを与えるのだ。

物事とは、本当は何もかも簡単なのだ。自分たちはどこか遠くに住み、もう邪魔しないから、ぼくたちを放っておいてくれとタンベットを説得してみようなどという案は、馬鹿馬鹿しく思われた。本当に間抜けな話。殺してしまえば問題はすべて解決なのだ。
(……)そこには、生き生きとして、怒りに燃え、野放図で残酷、独立心に満ち、何がどうなっても構わないという態度があった。この老人にはサラマンドルの炎にも似た力があった。ぼくたちの内部ではその炎は消えていた。でもひょっとしたらその炎が燃え上がるかもしれない。

おわりに

物語の終盤のカタストロフは凄まじいというほかない。それでいて、神にも精霊にも祈らないレーメットは、蛇の言葉が消えゆく存在であることをごく自然に受け入れ、ラストをとても静かで、そして幻想的に迎えることになる。エンタメ的にも文学的にも、傑作という評価をいささかもためらう必要のない、圧巻の作品だ。*1

*1:本作は2007年に刊行された作品だが、古の伝統や文化が消え、新しい文化が勃興してくることはこれまで何度も行われてきたことだ。いつ読んでもその時に起こっている何らかの事象を当てはめられる、普遍的な物語として読める。