基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

人間を殺した最初の人工知能──『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』

人類は細胞を入れ替えることで寿命を飛躍的に延ばしたものの、代わりに子供が生まれなくなった未来を描く森博嗣さんのWシリーズ最新巻。人工細胞を用いて生み出されたウォーカロンと、素の人間の判定方法を生み出したハギリ博士が世界各地をめぐりながらこの世界の様相を描き出してきたシリーズだが、今回彼が訪れるのは「人間を殺した最初の人工知能」と噂されるイマンと呼ばれる軍事用AIの住処である。

古典的なSF小説ではロボット三原則が適用されており人工知能(というかロボット)は人間に危害を与えられないことになっているが、いろんな抜け道でロボットは人間に危害を与えてしまう(から物語になるともいえる)。結局、厳密なルールとして人への無危害を施行することは不可能だと思われるが、はたして人工知能はどのようにして、どのような判断のもと人間を殺したのか(殺したという噂が本当だとして)。そうした問いかけと関連して、蘇生に成功した冷凍遺体が何者かに盗まれる事件も勃発する。これもまた、前巻から引き続き血縁についての物語であるといえるだろう。

人工知能はどのようなケースなら人へと危害を加えるだろうか。また、ほとんどのケースで人工知能がそうした行動に至らないのはなぜなのか、といった丹念な思考はこのシリーズならではのもので、相変わらず素晴らしい内容だ。

どのように終わるのか

終盤には百年シリーズなど他シリーズの読者的にはけっこう衝撃といえる展開も待っているが、そうはいってもこれが百年シリーズの地続き的な未来である以上は(『赤目姫の潮解』を除く)予測された通りの内容というか、「まあ、あるよね」という感じではある。それよりも「そこまできちんと書くんだなあ」という驚きの方が強い。

はたして、ここで投入された要素がもうじき一旦の完結を迎えると思われるこのシリーズにどのような区切りをもたらすのかの方が、興味深いところである。というのも、「こうなったら終わり」という明確な区切りが思いつかない。だいたい物語が終わると言えば主要人物の環境が大きく変わったり、関係性が大きく変化したり、世界自体に大変動起こったり──といった要素が思い浮かぶわけれども、ハギリの場合は環境と関係性は非常に安定しており、世界自体もゆるやかに変転しつつあるような状況で、”どのように終わるのか”、はたまた”終わらないのか”はぱっとはわからない。

「世界の転換点」としては、マガタ・シキの導く共通思考への道のり。あるいは世界の暫定的な支配者が人間からウォーカロン、あるいはその両者の混ざりあったものへとなっていく(もしくは電子空間で活動する勢力)か、人工知能の勢力争いの決着といったあたりだろうか。第二シーズンがはじまると思われるが、それがまた楽しみだ。

意外と、また未来になって人類が肉体を捨てたポスト・ヒューマンが支配する世界が舞台になっていたりして(あるいは、電子空間で活動する勢力らの物語か)。

おわりに──あわせて読みたい

夢がモチーフになって話題として繰り返されること、また生物の時間スケールの問いかけが繰り返されることもあいまって、『赤目姫の潮解』の雰囲気を少し思い出す。常に夢のようで、自由自在に時間の流れが伸び縮みする不思議な作品である。

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静かで、ゆるやかな世代交代──『ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity?』

ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity? (講談社タイガ)

ペガサスの解は虚栄か? Did Pegasus Answer the Vanity? (講談社タイガ)

人類は細胞を入れ替えることで寿命を飛躍的に延ばしたものの、その代わりに子供が生まれなくなった未来社会を描く森博嗣さんのWシリーズ最新巻。毎巻、仮想現実、人工知能など異なる領域をテーマにしながらスマートに描き上げてきた本シリーズだが、今回のメインは生殖と親子にまつわる物語。もちろん今回も抜群におもしろい。

前巻までの話とか今巻の話とかブレードランナーとか

ほとんどの人間に子どもが産まれなくなった。とはいえ、まだ一部には子どもを産むことのできる人々が存在する。人工細胞を用いて生み出され、頭脳回路に人工的な処理を施したウォーカロンの中にも、本来は生殖機能を持たないはずが、生殖を可能にする個体/方法があることが判明する──というのがここまでのざっとした流れではあるが、今回は直接的に「ウォーカロンから生まれた子ども」についての物語だ。

果たしてウォーカロンから生まれた個体は、人間なのかウォーカロンなのか? 子どもは本当にウォーカロンから生まれたのだろうか? 生まれたのだとしたら、どのような技術によって?(実験的なウォーカロンだったのか、まったく別の手法を用いたのか、などなど)といった謎掛けの部分は、まるでミステリのようにラストで鮮やかに解き明かされるのだけど、これがまたうまいんだよなあ。現代よりもさらに合理化が進んだ社会で、「親子の情」という失われつつある関係性が描かれていくのも良い。

最近公開した『ブレードランナー2049』も、「生殖能力がないはずのレプリカントが、子どもを産んだ」ことを発端にした物語なので(こちらも傑作)、シンクロニティを感じた。生殖ができるということは、自前で勢力を拡大できるということだし、単なるつくられた存在である被造物から創造主への転換を果たす象徴的にも実際的にも大きな現象であるから、物語の中心となることに不思議はないのだけれども。

書名に入っている「ペガサス」とは、前巻『青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?』で登場した北極に存在した人工知能オーロラとはまた別のスーパ・コンピュータ、人工知能である。ペガサスは数年前、「人間の数を最小限にすることが、国家の存続に不可欠」だと提言しており、これもまたある意味では生殖にまつわる"解"にして"問いかけ"である。

おもしろかったとこ

"超高度AI同士の情報交換を認めるか否か"という議論の部分が良い。超高度AI同士は当然ながら人間を遥かに超える知能を持っているので、そのやりとりを監視するのは不可能だ(データ量的にも)。チェック・アルゴリズムの構築も考えられるが、超高度AIによる偽装を見破るのは不可能だろう。だから議論は「彼らを信頼するのか、しないのか」という前世代のようなやりとりにまで戻ってしまう。

完璧を目指してつくられた人工知能が、ミスをする、個性のある解を出す(同じデータを元にして、別々の解が出る)といった「人間らしい」動作をするようになり、人工知能も多数による合議制を用いなければならない(だから、データを交換することで融合するのはリスクである)という結論も物語の展開としては実におもしろい(将棋ソフトでも棋力差が少ない場合多数決合議制の方が強いという研究もあるが)。

問題は一見したところ人工知能の解が不可解かつ不合理であったとしても、高度な演算能力を持ってして「それを受けた人間の行動」に関与するために発現するパターンがあることで、その場合この世界での人間は"人工知能の助言を聞き、人工知能をコントロールしている"つもりで、実態としてはすべての行動の支配権を奪われている可能性がある(実際に、多くの場面で人間はコントロールを受けているわけだが)。

ゆるやかな世代交代

人はほとんど生まれなくなり、ウォーカロンの数は増していき、人間も人工細胞に入れ替わっていくことでウォーカロンとの境目はなくなっていく。そして、人工知能やトランスファはこの世界に着実に根をおろしている。SFではよく、人類への人工知能や人造物の反乱が描かれるが、本書で描かれていくのは劇的な革命ではなく、静かで、ゆるやかな世代交代だ。「生殖」という話題を中心において、単体の世代交代から種としての世代交代、生命の世代交代までを一冊の中で描き出してみせる、本書単体として抜き出してみても、SFとして、非常に挑戦的なことをやっていると思う。
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編集:森博嗣──『MORI Magazine』

MORI Magazine

MORI Magazine

『MORI Magazine』は森博嗣さん編集の雑誌──という体裁の書籍である。分類的にはエッセイ本になるだろうが、他にもインタビューを受けていたり、読者の質問にガシガシ答えていたり最近のお仕事について語っていたりする、日記ともエッセイとも読者交流本とも言い難い、雑誌的な書籍であるというのが近いだろう。

もともと大和書房から森博嗣さんは『正直に語る100の講義』などの、2ページで1つのテーマでエッセイが書かれているシリーズがでていたのだけれども、こちらはお題に対して「2ページじゃなくてもっと読みたいな」とか「1ページでいいんじゃないか」とか、決まったフォーマットからくる堅苦しさみたいなところもあった。今回は、そうした制約から自由になっており、かつこれまで森博嗣さんが新書や日記でやってきたことのごった煮性も併せ持っている。それがスタイルとしては楽しい。

最近日記ではめったに時事ネタに触れなくなってしまった森博嗣さんだが、本書では「二〇一六年を振り返る」として時事ネタに対してコメントしていくコーナーもあったりして、全般的に昔懐かしい感じだ。あと、中でも重要なのは装画をコジマケン氏がやっており、本の体裁的にはかつて存在した浮遊研究室シリーズを彷彿とさせる(架空の登場人物との対話形式など)。とまあそんな感じの本です。

ついでなので以下、過去の日記シリーズを簡単に紹介しよう。

I Say Essay Everyday series

すべてがEになる I Say Essay Everyday

すべてがEになる I Say Essay Everyday

初期の日記シリーズ。時事ネタに多く触れていたり、後の日記ではほぼ現れない、読んだ本についての感想なども読める貴重な本。発言も相対的に比べると後期よりも過激。ここで語られたことが後に何度も語られる元になっていることも多く、内容の充実度としては一番だと思う。あと、最終巻の萩尾望都先生絵の表紙が素晴らしい。全五巻。電子書籍あり。これは巻数が少ないこともあってMLAよりも読み返した。

浮遊研究室シリーズ

森博嗣の浮遊研究室 MORI Hiroshi's Floating Laboratory (ダ・ヴィンチ・ブックス)

森博嗣の浮遊研究室 MORI Hiroshi's Floating Laboratory (ダ・ヴィンチ・ブックス)

WEBダヴィンチでの連載をまとめたもの。架空のキャラクタとして4人(うち一人は森博嗣)が登場し、あーでもないこーでもないと恐ろしくどうでもいいことだったり、わりと真面目なことについてだったり、時折ミステリや小説全般をテーマにざっくばらんに会話をしていく形式である。全五巻になるが、今は手に入りづらいかな。

MORI LOG ACADEMY series

MORI LOG ACADEMY〈1〉 (ダ・ヴィンチ ブックス)

MORI LOG ACADEMY〈1〉 (ダ・ヴィンチ ブックス)

言わずと知れた森博嗣さんの日記シリーズ。日々の日記およびエッセイと、日替わりの講義で構成されている。Web連載時から何度も読んだし、本になってからも何度も読んだ。僕の物の考え方はほとんどここから学んだのではないか、というぐらいに発想の元ネタと理屈の立て方が詰まっている本である。全13巻

超高度AIと人類の思考戦闘──『青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light?』

青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light? (講談社タイガ)

青白く輝く月を見たか? Did the Moon Shed a Pale Light? (講談社タイガ)

細胞を入れ替えることで寿命を飛躍的に延ばし、その代わりに子供が生まれなくなった未来社会を描く森博嗣さんのWシリーズ最新巻。毎巻、仮想現実、人工知能など異なる領域をテーマにしながらスマートに描き上げてきたシリーズだが、今回は暴走気味な超高度AIと、人類+また別の超高度AI陣営の思考戦闘がまずは前半の読みどころ。これがもうシチュエーションの設定からして大変素晴らしい。

北極に存在する、長年稼働し続けてきた高度に発達した人工知能であるオーロラ。シリーズ主人公のハギリ博士と護衛のウグイはそこを訪れ、シリーズ中にちらほら姿を現していた真賀田四季とついに遭遇する。そこで彼女から、オーロラが治療が必要な状態──学ぶ目的を失い、内に閉じこもってしまっている──であること、また治療の実行が困難なことから、オーロラの強制停止を依頼されることになる。

AIの治療が困難とはどういうことなのか? たとえばソフト的な治療は、固いプロテクトをオーロラは築き上げているため外からの介入が厳しい。電源を抜こうにも、電源はオーロラを格納している潜水艦の原子力発電機で、そのコントロールを握っているのがオーロラ自身。完全にシャットダウンさせようと思ったら、潜水艦を破壊しなければならないが、当然オーロラの抵抗が予測できるし、原子炉や燃料格納庫が爆破の衝撃に耐えられるかどうか、といった問題が発生する。

超高度AIvs超高度AI+人類の思考戦闘

と、治療も困難なら、停止をさせることも困難なのである。とはいえ、真っ当に考えれば、原子炉や燃料格納庫が爆破の衝撃に耐えられるような角度と威力を計算して、魚雷で爆破するのが一番早い。が、超高度AIであるオーロラは当然ながらそれを推測している。『「そのとおりです。私が今お話した演算結果は、オーロラが何十年もまえに弾き出していたはずです。したがって、なんらかの手を打った可能性があります」』人類を超越した演算能力を持ち、こちらが考えるような手の全てに先手を打っていると考えられる超越者を相手に、人間はどのように対抗すればいいのか?

それはもちろん、人工知能には思いもよらぬ"発想"をもって。この"発想"なんて物の力は、所詮幻想にすぎないものなのかもしれない──が、それはこの作品の中では人類とウォーカロン、人工知能を隔てる明確な"差"として表現されてきた。超高度AIであるオーロラvs同じく超高度AIであるデボラ+ゆらぎのある人類という、直接的な戦闘描写こそあまりないものの、様々なケースについて検討を加え、相手を出し抜けないかと思考を競わせる(オーロラ側の描写はないが)描写が今回は最高に燃える。

オーロラは本当に暴走しているのか? なぜ目的を失ってしまったのか? という"人工知能の内面の謎"に加え、かつてオーロラが小動物を何種類もロシアに要求し、定期的に海底へと送らせていたようだがそれはなぜか? といった謎もおもしろく、ミステリ的にぐいぐい読ませてくれる。毎回さまざまな手練手管で楽しませてくれるWシリーズだが、SF的にもミステリ的にも今回はド派手だ。

人工知能と黒魔術の話、また超越した知性と人類の話

よく「人工知能は人類最悪の敵になるのか?」みたいな話があって、基本的にはバカバカしい話なんだけど、確かに頷けるところはある。それは深層学習などの手法を用いて構築された人工知能が算出した結論が、その元となるプログラムを組んだ人間にも理解不可能なものになってしまうことで、うまくいっているときはまあいいか、といえるが、中身がわからないのでどうにもできない部分がある。つまるところ、高度な知能を有する人工知能は人間には理解不能な方に"バグる"可能性があるのだ。
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Ponanzaも、自分で開発したプログラムながら「理論や理屈だけではわからない部分が沢山でてきている」と告白。Ponanzaの改良作業も「真っ暗闇のなか、勘を頼りに作業しているのとほとんど変わりがない」状態で、「たまたまうまくいった改良を集める結果から、私から見るとPonanzaはますます黒魔術化しているようにみえる」と話している。

引用本である『幼年期の終り』はSFでは伝説的な作品で、地球にやってきた超高度な技術力を持つ宇宙人と遭遇した人類が、大きな変化/進化を経ていく話だ。今回はその流れでいくと、"人類には簡単には理解できなくなってしまった、超越した人工知能と人類との遭遇"回ともいえる。『幼年期の終り』では、人類は宇宙人(オーバーロード)に進化させられてしまうわけだが、本書がどのような結末へと向かうかは読んでお楽しみということで……(未読の人がこの記事を読むのか謎だが)。

おわりに

大きなストラクチャーをこのシリーズに見出すとするならば、それは現在のところは"人間、ウォーカロン、人工知能"といった知性の、生命体としての次の在り方は何なのか、という模索のように思う。ハギリがそれぞれの生命に存在する"違い"の研究をしているが明確にそれが浮かび上がってくれば、それらを無くし、あらたな生命体への道筋もつけることができるだろう。いやー、読み終えて沸き起こってくるのは、ただただ「なんでもいいからはよ次を読ませてくれ!」という渇望だ。
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これから、どんどん楽しいことがありますよ──『ダマシ×ダマシ』

ダマシ×ダマシ (講談社ノベルス)

ダマシ×ダマシ (講談社ノベルス)

久しぶりのXシリーズ新刊にして、シリーズ最終巻。シンプルにしてレトロ、なのにどこか新しさを感じさせる、そんなシリーズの極みのような一冊だったなと思う。単純な会話や描写がひたすらにおもしろく、キャラクタの一人一人が素敵で、S&Mから続くシリーズの中では最も"隣にいそう"と感じさせる人たちの物語だった。道中はもちろんながらも、ラストへとなだれ込んでいく時の会話の、その全てが愛おしい。

簡単にシリーズ総評

文庫版の装丁も大好きだし、森博嗣さんがこれまで書いてきた全シリーズを通しても個人的に特別なシリーズといえる。シリーズの開始時点で、中心人物である小川令子は愛する人を失って、重い精神的なダメージを抱えている。それが探偵事務所に就職したことから、事件解決へと邁進し人との関係性を広げて、傷がだんだんと癒えていく。特に劇的なことが起こるわけではないのだが、人間の生活と関係性。さらには再生を丁寧に描いている。そのシンプルさ、その繊細さがたまらなく好きなのだ。

精神的なダメージって、言語化も数値化もしにくいものだ。その上常に意識にのぼっている物でもない。忙しくしていれば忘れていられる──が、ふとした時に思い出し、辛くなったりする。粘着力が衰えていくテープのように、はっきりと"傷が癒えた"といえるような瞬間が訪れることも、実際はほとんどないだろう。このXシリーズは、そうした言語化しにくい精神的な領域、その変化を、丹念にすくい上げてきた。

言語化しづらい悲しみ。そこからの再生。悲しみや憎しみという言葉では表現しきれない、色々なものが入り交じった感情。Xシリーズは10年をかけて刊行されてきたが、それだけではなく、この作品の前後には何十年にも渡る時間と、キャラクターらの関係性が積み重なっている。だからこそ、何気ない一つ一つのやりとりの背景は時に重く、台詞として表現されない動作であっても、そこに表現された"複雑な感情"が読者の側には強く残る──あるいは、そこに勝手に多くの感情を読み取ってしまう。

最もシンプルなシリーズだったといえるだろうが、そこで表現されていた物、その情報量はずっしりと重い。本シリーズから読み始めても充分にその重さは堪能できるが、是非他のシリーズにも手を出してみてもらいたいところだ。では、『ダマシ×ダマシ』について軽く。最終巻というのを抜きにしても、抜群の出来。

イナイ×イナイ PEEKABOO Xシリーズ (講談社文庫)

イナイ×イナイ PEEKABOO Xシリーズ (講談社文庫)

ダマシ×ダマシ

三人の女を騙したやり手の結婚詐欺師、犠牲者の一人から依頼を受け、小川らが結婚詐欺師の調査を開始した時、とうの結婚詐欺師が死体で発見されてしまう──果たして殺したのは誰なのか。目的は怨恨か、はたまた──。とそんな感じの話だが、謎がどうこうよりもお互いがお互いを騙し合っている、"何がウソなのか""誰がウソをついているのか"というのが入り組んでいて、かつスマートなのがおもしろい巻である。

たとえば、結婚詐欺師は当然ながら女性らを騙している。しかし、その中に本気の女性はいなかったのか? お金を騙し取られた女性らは、本当にただお金を騙し取られただけなのか? というあたりから始まって、小川は調査の成り行きで「自分も結婚詐欺の被害にあった」と周囲を騙すハメになるし、依頼人は依頼人でウソをついているしで、作中ほとんどの人間が何らかの形でウソをつき、誰かを騙している。

また、ウソまみれの本作だからこそ、ウソではない"本当の言葉"の意味と価値がより引き立つ、というのも素晴らしい。それも、最高の場面で"本当の言葉"がくるんだから……(みなここで鷲掴みにされただろう。)。ウソに話を戻すと、最後までに、いったい何度作中人物の"ウソ"に引っかかったかわからないぐらいだが、中でも最大の驚きをラストのエピローグに持ってくるのも──これまたたいへんにうまいよね。

再生

あとはやっぱり、再生の話について。再生というか、時間の経過が多くを解決してくれる、ということなのかもしれない。どれだけ辛いことがあっても、次の日はやってきてしまうし、延々と泣いているわけにはいかないし、仕事もしないとご飯が食べられないしで、やるべきことはいくらでも降って湧いてくる。そうやって目の前の物事を処理していくうちに、だんだんと傷が癒えていくこともある。

そうやって、騙し騙し生きているうちに、成り行きでなんだかとても素敵ことが起こる(あるいは、最悪なことも起こる)こともある。そういうのって、言葉にするとほとんど何も言っていないに等しいんだけど(ようするに時間が経過すると何かが起こったりするし、起こらなかったりするというだけだから)小説として、それも巧みな物語として体験すると、その端的な事実が、少しだけ重みを持って実感できるのだ。

『これから、どんどん楽しいことがありますよ』とは作中での小川の台詞だが、彼女がこれを言っている、というのがもう感無量。本当に、心の底からそうであったらいいなと思うし、仮にそうでなかったとしても、そう言える強さを持ったのだ。

生命の再定義──『私たちは生きているのか? Are We Under the Biofeedback?』

もちろん本書の核となるのは科学だが、科学のあらゆることが始まったとき、私はこうした豊かで活気にあふれ、いろいろなものが混ざり合った世界に住んでいた。家族からも、カルテックの比類ない神秘的な雰囲気から、カルテックの人々から、ロサンゼルスとその周辺の町に住む人々から、さらには地球上でもっとも魅力的な人間を研究する機会を与えられた信じがたい幸運から、さまざまな影響を受けた。

http://huyukiitoichi.hatenadiary.jp/entry/2016/05/30/180207

森博嗣さんによるWシリーズ、その5巻目となる。これまでシリーズの魅力は各巻の記事でたっぷり書いてきたので未読の人間はそっちをまず読んでもらって、この記事ではつらつらと感想を書いていきたいと思う。相変わらずめちゃおもしろいのだ。
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この世界、人間は細胞を入れ替えることで寿命を飛躍的に延ばした代わりに子供が生まれなくなり、ウォーカロンと呼ばれる人工生命が存在している。そんな世界では当然ながら生は引き延ばされ、同時にどこか死は遠いもの──幻想のように実感されるだろう。そんな世界では生の在り方がすっかり変わってしまっているわけで、そうなると必要になってくるのは価値の軽重を含めた「生命の再定義」だ。

自分たちで引き延ばすにしろ創造するにせよ、明確な操作が行うことができなければ「生命」は変わらない=再定義は必要ないし、逆にその在り方を操作できるようになってくればどこからどこまでが生命なのかを決める必要が出てくる──とまあ、そのあたりは今巻では主題の一つとはいえこれまで繰り返されてきた問いであり、あまり発展する議論でもない(明確な線を引くことにあまり意味のある議題ではない)。

物語として興味深いのは、そうした世界でどのような価値観/考え方が蔓延しているのかだ。必然、生への執着は薄れ死への忌避感が薄れてゆくことになる。長く続く生は「なぜ生きるのか」という問いを生み、エネルギー効率の観点から仮想世界への移住も視野に入ってくる。仮想世界への移住は今巻でガッツリ描かれている部分だが、これはSF的には珍しい状況ではない。物理法則に縛られた現実は摩擦が多いし、仮想世界なら無駄まで含め自由にデザインできるのだから移行は自然な発想である。

珍しい状況でないのに今巻がめちゃおもしろいのは、その移行期をきちんと描いているからかなと思う。価値観的にまだ許容される時代ではないから、治外法権の場所でやるしかない。デジタル上での完全な人格再現が行えているわけでもないから脳の維持は必要で、その管理者が必要であるが、その管理者に生殺与奪権を握られるわけでそのリスクはどの程度なのか。また現実世界での"環境"を維持するための資金をどう集めるのか、などなどのディティールの描き方がやたらとおもしろい。

プロット的には、外部との通信が遮断された仮想世界に閉じ込められた際、どのように外部との連絡をとるのか──というアクロバティックな展開に合わせてトランスファのデボラの演算能力と人の発想能力の差異が表現されているのが素晴らしい。トランスファ、便利すぎるだけに非常にリスキィですね。今はハギリくんに有用性があるのでデボラと協調関係が結べているけれども、なくなった時にどうなることやら…。

おわりに

ここまで移動⇛襲撃にあう、という展開が続いていただけに仮想世界への幽閉とそこからの脱出はまた違ったパターンが楽しめてたいへん素晴らしい巻だったかと。またデボラのキャラクタ性がとんでもなくいいし、最後のやりとりまで持って行かれてしまってウグイさん大丈夫かと思いつつ次巻を楽しみに待ちたいところであります。

あ、あと講談社タイガで本書と同時発売のオキシタケヒコさんの『おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱』も大変おもしろい怪奇SFだったのでオススメ。特に『戦慄怪奇ファイル コワすぎ!』好きな人は好きそう。ネタバレなしでおもしろくかける気がせず、記事としてはたぶんあげないのでここで宣伝でした。ではでは

おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱 (講談社タイガ)

おそれミミズク あるいは彼岸の渡し綱 (講談社タイガ)

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まだ見ぬ社会へ──『デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping?』

デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping? (講談社タイガ)

デボラ、眠っているのか? Deborah, Are You Sleeping? (講談社タイガ)

読みながら呆然としてしまった。こんなにおもしろい作品がこの世にあっていいのか……? と誰かに問いただしてしまいそうなぐらいにおもしろい。本書は『彼女は一人で歩くのか?』からはじまる、21世紀から数百年先の未来を描いたWシリーズの4作目にあたるが、1作ごとに興奮が抑えきれなくなっていく凄まじさがある。

移行期ならではの魅力

他シリーズとの関連もあって、僕はWシリーズの何もかもが最高だと思ってしまうのであるが、それはそれとしてSFとしての魅力について考えてみると「広大な移行期」を描いているからこそのおもしろさがあるのではないかと思っている。たとえば、この世界では人間は細胞を入れ替えることで飛躍的に寿命を伸ばしているが、その技術はまだ確立したばかりで、どの程度生きるのか、仮に無限に生きられるとして、それが「社会にどのような影響をもたらすのか」を探っている段階である。

また重要な要素として上げられるのが、人間とほぼ見分けのつかないウォーカロンと呼ばれる人工生命の存在で、彼らの存在は常に「人間をどう定義するのか、人間の独自性とはどこにあるのか」という問いを突きつけてくる。そうした問いかけを軸にしながら、仮想現実、人工知能など様々な領域で起こっている「価値観のシフト」が描かれてきたわけであるが、本書ではついに「電子空間」が議論に上がることになる。

夢のような形で他者へと干渉する、あるいは他者の身体を一時的に操作する「デボラ」の存在が確認されることで、信号を送り込み他者の意識をのっとり/撹拌することができる、電子空間上に偏在する特殊な存在"トランスファ"が想定される。そんなものが実際に存在するのか、存在しえるとしたら技術的にはどのような条件が揃えばそれを達成できるのかが淡々と議論されていく過程には、多くの場合そうした技術は「前提」として描かれてしまうサイバーパンクにはないワクワク感がある。

複雑さを複雑なまま描く

電子空間(仮想世界)でつくられ、そこで目的を与えられ行動し続ける存在がいるとしたら、仮想世界上の生命、ウォーカロンに人類に人工知能と、このWシリーズ世界は多様な勢力で溢れているといえる。別段それらは敵対しあっているわけじゃないし、たとえば人類は人類同士、人工知能は人工知能同士で戦っているかもしれない(実際そう描かれる)。互いに利害関係があり、勢力図は簡単に描けるものではないが──このシリーズはその複雑さを、複雑なまま捉えていっているように思う。

ハギリは有能な研究者とはいえ人間であり、何よりただの個人だから、世界の全体など把握できるはずもない。しかし、勢力図を塗り替えるような重大事件に居合わせたり直接的間接的に関与していくうちに、断片的ながらも全体像が把握できてくる。人工知能が生み出そうとする新たな社会、ウォーカロンと人間の垣根が消失することによる新たな価値観、電子空間に存在する広大な領域と、そこに存在する新勢力──。

人工知能、仮想現実、仮想世界、ウォーカロン、人類、そのすべての変遷と思惑が渾然一体となって「誰もかつて経験したことがない、予測不可能な社会」へとうねりを上げて走っている。ハギリを通してそうした"個人では制御できない時代の大きなうねり"を体験していくと、個人の物語を超えた、「長大な時間軸の中で展開する、この世界そのものの物語」を丸ごと追体験していっている興奮に襲われる。これぐらいの本の長さを読むのにかかる3倍ぐらいの時間をかけて、「一体何が起こってるんだ……」と呆然と考え込みながら読んでしまったが、情報量がとんでもないのだ。

Wシリーズの中では本書に一番興奮させられたが、恐らく次がもっと凄いだろうし、その次はさらに凄いのだろうと思わせられる、底知れぬシリーズだ。的確に表現する言葉が今は出てこないな……。以下では他シリーズと関連した話を展開する。

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被創造物が創造者となる時──『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

森博嗣さんによるWシリーズの三作目である。

もともとSFとしては非常にマイナーな、細かな領域をついてきているこのWシリーズだが、三作目はそこをさらに緻密にしてみせた感じで、ずいぶんと盛り上がる。

「これまで見えていた、当たり前の世界」がある新しい知識・世界観の導入によって「まったく違う景色となる」ことが世の中にはある。SFでたとえるなら、まわりの友人らが人間だと思っていたら実は皆プログラムに制御された機械だった──というような感じだ。変わっていないのに、景色が変わる。本シリーズはそんな「知識の導入によって、世界の見え方がガラッと切り替わる瞬間」を丹念にすくい取っている。

世界観の簡単な説明

時代はおそらく23世紀頃、この世界では人間の寿命は細胞を刷新することで飛躍的にのびており、ウォーカロンと呼ばれる人工細胞でつくられた生命体が広く行き渡っている。人間が滅多に死ななくなったのはいいが、それと相関するようになぜか子供が生まれなくなってしまう。「それはなぜなのか?」が明かされたのが第一作『彼女は一人で歩くのか?』であり、その結果を受け、それでもこの世界に子供が生まれている一部の状況が描かれたのが第二作『魔法の色を知っているか?』であった。

物語の中心となるハギリという研究者は、人間と簡単には見分けがつかないウォーカロンを判別できるようにする研究をしており、その結果として一作目と二作目では事件に巻き込まれる羽目になった。本書ではハギリはこの研究において子供のデータが足りず精度の甘かった子供たちの測定を行い、精度を高めていくのと同時にウォーカロンに関する新たな情報を得ることでさらなる研究の応用可能性に気がつくが──。

というあたりがあらすじということになるか。「なぜ子供が生まれなくなってしまったのか」が明かされた際には「そうきたか!」と純粋に驚いたけれども、今回はそれ以上の衝撃だ。いっけんしたところすごく地味な話ではあるが、世界の各地で起こっているテロの理屈になりえる部分であったり、「この世界の背景」に関する理屈が多く開示された重要巻だったように思う。世界の見方が変わる──というよりかは、世界がより広かった、限界だと思っていた部分にさらに先があった、という感じか。

非破壊でウォーカロンと人間を区別できるハギリの技術は、最初正直いって(SF的には)地味な部分だなと思っていたのが(地味なのを詳細に詰めて描いていくのがおもしろかったのだけど)、真相が明らかになるにつれ世界の行く末を左右しかねないほどに重要性を増していくのが、物語の進め方としておもしろい。

彼らだって、自分を作りたくなるのではないかな

個人的に今作で浮かび上がってきた、今後に大いに期待が持てる/繋がる興味深い問いかけの一つは、「ウォーカロンは、自分を作るのか?」だ。『「それに……」ヴォッシュは髭を指で撫でた。「考えてもみたまえ。人間は人間を作ろうとしたんだ。ウォーカロンが人間に近づけば、彼らだって、自分を作りたくなるのではないかな」』

ウォーカロンは現状、自由な存在とは言いがたい。既存の文化への反発は許されない──と教育されている。人間側からしても、自分たちが作った存在だという自負があるから、それを許さないだろう。しかし、人類は年老いている。ウォーカロンは若く、子供を産むように設計することさえできるだろう。僕がこの問いかけが重要に思えるのは、ウォーカロンに対して、創造者である人間からの「セーフティネット」が存在するとして──ウォーカロン自身が人間に予想もつかない「創造」をはじめた時に、その時はじめてウォーカロンは人間から自由になるのではないかと思うからだ。

その時ウォーカロンはウォーカロンならではの道をゆくのか? それとも人間とウォーカロンの境界線はなくなり、両者は溶け合っていくのか? といえば、今はまだわからない(ウォーカロンは自分を作るのか、という問いかけも今後に繋がるかどうかはわからない)。まだまだ先がありそうだなと思わせる「世界の広げ方」がされた巻であっただけに、しばらくこのシリーズが続くのが嬉しくてたまらない!

以下、本書には過去作との関連がけっこう出てきたのでいったん整理してみる。他シリーズについても全般的にネタバレかも。僕も思い違いや記載漏れなど多いので気が付いたらコメントなりなんなりで指摘いただけたら確認して追記していきます。

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一人の優れたエンジニアの物語──『χの悲劇 The Tragedy of χ』

χの悲劇 (講談社ノベルス)

χの悲劇 (講談社ノベルス)

森博嗣さんによるGシリーズ第10作目。ついに10作目まできた。

とはいえここから『ψの悲劇』、『ωの悲劇』と続いていく(元ネタの『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』になぞらえているわけですな)「悲劇三部作」の始動篇であって、これまでのGシリーズ作品とは登場キャラクタからして大きく入れ替わっているわけで、本書から読み始めるのもいいだろう。

ロボットや人工知能技術が発展し、登場人物の経歴などからこれまでのシリーズからある程度の時間が経っていることが推察される。さらに、語り手は真賀田四季の下で働いていたプログラマの一人にしてアニメでも強烈な印象をのこした島田文子さんになっている。彼女は香港に存在するトラムという路上を移動する電車の中で発生する殺人事件に巻き込まれ、かつての縁がからみつくように陰謀や社会の変化に遭遇することになる──というのがおおまかなストーリー/あらすじである。

優れたプログラマ/エンジニアである島田文子の考え方、語り方は独特だ。遠くの世界を見据えているというよりかは、不可避的に地面に存在する穴を見据えて、これをどのようにして塞ぐのかを考える実際/問題解決的な物の見方である。なぜこの穴は存在するんだろうとか、こういう理由で存在するのではないか、と考えるよりもまずはその現実を受け入れて対処法を考えようとする。極端な割り切り方というか、そんな特性が彼女の立ち振るまいや考え方のすべてに現れていておもしろいのだ。

美しい風景や、リアルな人間関係にほとんどの興味をもたず、ただヴァーチャルな世界に自己を仮託していく彼女の在り方は現在のリアリティというよりかは未来のリアリティのようだ。彼女を中心とした、とあるデータをめぐるサイバー上の攻防は具体的な技術描写どころか専門用語すらほぼ使用せず(ハッキングなどの言葉すら出てこない)抽象的に、それでいてハードに表現していて素晴らしいと思った。

事件をメインに──というよりかは、事件を端緒として真賀田四季が変化をもたらしたこの世界のうねりを体験していくことになるので、当然シリーズ・ファンは必読の一冊である。僕は最後まで読んで、島田文子が貫徹した考えに思わず泣いてしまった。というわけでいちおう未読者向けの感想をひねくり出してみたが、こっから先はネタバレ・ゾーンである。ただの感想の垂れ流しであるので、読んでから読め!

Xの悲劇 (角川文庫)

Xの悲劇 (角川文庫)

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いろいろな要因が複雑に絡んでいる──『魔法の色を知っているか?』

魔法の色を知っているか? What Color is the Magic? (講談社タイガ)

魔法の色を知っているか? What Color is the Magic? (講談社タイガ)

人口が減少した未来社会が描かれていく森博嗣さんによるWシリーズの第二弾。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
例によって例のごとく、特にナンバリングがついているわけではないので本書から読んでも問題はない。前作ではこの世界はいったいどのような経緯で今のような状態にあったのかということが明かされていった。人工細胞でつくられた、人間とほとんど区別のつかない生命体ウォーカロンが大勢いること。人間もまた細胞を入れ替えることによって寿命を乗り越え、生と死の境界は揺らいでいることなどなど。

その代わりに、なぜか人間は子供を産めなくなり、結果的に世界的な人口減少が進み、ますますウォーカロンと人間の区別はつきにくくなっていく。前作の物語は、そのウォーカロンと人間を高い精度で判別できる解析方法を構築しつつあった研究者ハギリが、何者かに命を狙われることからはじまる、冒険譚──とまではいわないものの、テロに巻き込まれたり、なぜ人類は子供を産めなくなったのかを考察してみたり、「この世界それ自体を解き明かしていくような」作品である。

前作を「生と死、人間と非人間」といった様々なものの「境界線」が崩れてきたことを問いただす物語だとするならば、今作は──前作の問いかけを引き継ぎながらも、まあ、人工知能かな。たとえば、人工知能が発展していった先に、この世界には何が起こるのか。月並の質問だけれども、「進歩した人工知能は人類に叛逆を起こすのか」という問いかけと似たようなものが、今作では提起される。

プロット的に大きく取り上げられるのはチベットにある「まだ子供が普通に生まれてくる特別居住区」だ。その存在は前作でもほんのちょっとだけ触れられていた。前作でなぜ子供が生まれないのかにはある仮説が提示され、この特区の存在はそれを裏付ける存在である。そして、当然だが子供が産まれなくなった世界では、子供を産むことのできる人々は非常に価値のある存在だ。ハギリ君は、そこにまたのこのこと出かけていって、反乱軍に出会ったりしてまたまた危ない目に遭い続けてみせる。

面白いのは、この世界では兵士が過去のものになっているという世界設定。兵器も何もかもオートメーション化が進んでしまって、ほとんどシュミレーションで勝敗が決してしまうからこそ物理的な被害が出る前に終わってしまう。そもそも放っておいても勝手に人間は減っていくんだから、殺し合いなんてわざわざするまでもなく、ある意味平和な時代ともいえる。そんな時代で、反乱軍のような武力行使手段がとられること自体が「特異なこと」であり、物語の契機になっていく。

ウォーカロンと人類、そして人工知能

「なぜ彼らは反乱を起こしたのか」はプロットで追求されていくのでさておき、人工知能などの諸々について。前作からわかっていたことだが、この世界ではウォーカロンと人間、人工知能などの関係は非常に微妙なバランスを保っているようである。たとえば、ウォーカロンは当然ながら「人間より圧倒的に優れた存在」にすることができる。しかし、計算能力も知識量もその能力は人間並に規制された状況下にある。

この先に起こるのは、人間がウォーカロンにも人工知能にも大きく能力的に引き離されていく状況だろう。ウォーカロンの能力を抑制しているのは、人間の単なる思い込みに過ぎない。ウォーカロンを抑制せずとも、人間だって自分自身の身体を置換していけば、頭脳の方まではちょっとわからないが同程度の水準に移行できるはずだ。

つまるところ、現状この世界は変化が大きく進みつつある一方、人間の伝統的な宗教観がその変化を押しとどめているような状況、ただしその均衡が崩れつつある状況にあるといえるかもしれない。ウォーカロンの性能はより上がりつつあり、恐らく子供さえ産めるようになるだろう。逆に、人間はその数を減らしつつある。

興味深いのは、人間にはそこを乗り越えられるのか否かだ。

古来よりの細胞は既に捨て去った。その次に、古来よりの「人間という形」「人間の能力」を、どこまで捨てさることができるのか。身体をどんどん機械に置き換えるのはどうだろう? 脳を電子頭脳に置き換えるのは? どこまで人間はその形を変えることを受け入れられるのだろう。いずれにせよ、人間は消滅するか、ウォーカロン的なものと同化、区別がつかなくなっていくのは避けられないように思う。

一方、人工知能が人類に叛逆するか──という問いは、基本的にはナンセンスなものだ。ルンバが叛逆するか──といえば、そりゃ足をこずいてきたりするかもしれないが、叛逆とはいえない。将棋指しソフトだって同様で、どれだけ人工知能が発展しようが、基本的にはその延長線上の発想で運用していれば敵対することはありえない。

しかし、実質的に支配される事は考えられるように思う。人類自身が望む、地球環境などのシュミレーション結果によって、人類全体への指示・抑制からくる実質的な支配──は、実際にはこの世界では既に起こっているレベルであるといえる。とはいえ、あくまでもこれは「提案」のレベルだ(と思う)。実効力を持った支配ではない。

入り混じり、適度に利用する、そのあたりの微妙な均衡が、人類とウォーカロン、人類と人工知能の未来的な関係性なのではなかろうか──。

といえば、そこで終わるほど本書は単純ではない。本シリーズには、ウォーカロンにせよ人工知能にせよ、背後にはその根幹を発想し、創りあげているマガタ・シキの影がある。数々のテクノロジー、この世界で起こる状況の一つ一つにその影を感じる。多数のシリーズに名前が出、そのどれもで途方もない天才として描かれる彼女の存在が「不確定要素」となってこの物語の歴史の行末を予測しえなくしている。

彼女であればどのような影響も与えられる。望めば人類を滅ぼすこともできるだろう。逆に、決定づけられているようにみえる滅びへと向かっている人類を助けることはできるのか? そもそも、なんらかの望みなどというものを抱いているのだろうか? 出演回数は多いにも関わらず、その本心──そんなものがあるとして──が語られることは殆どなく、それを推測していくのがたまらなく楽しい。

まあ、一言で言えば「いろいろな要因が複雑に絡んでいる」社会/世界だということだ。それはなにもこの物語世界に限った話ではないけれども──いったいこの未来はどんな状況へと推移していくのか、二作目にして期待が高まっていく。四作目のタイトルが「デボラ、眠っているのか?」なのもたまらなくいい。

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

「使命」ではなく職業的作家の「仕事」として──『作家の収支』

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家の収支 (幻冬舎新書)

作家・森博嗣さんによる作家業における全体の収支を明かした一冊になる。そもそも、いくら儲かりましたぜげへへみたいな金儲けの話は品がないものだが、特にクリエイター系の職業だと忌避される傾向がある。個人的な推察だけど、ようは人気商売というか、ある種の幻想を売って買ってもらう仕事なので金にまつわる現実的な部分は白けさせる可能性があり、忌避されるのかもしれない。最近はライターや作家、翻訳家でも金の話をしてくれる人も増えているような気がするけれども。togetter.com
森博嗣さんは継続的に本を出し続け、近年はアニメ化、ドラマ化が続く「売れている」方の作家であることから、「自慢の本か」「作家全体ががっぽがっぽ儲かる職業だと思われる」なんていう非難があるのではないかと推測するが、あくまでも「収支」の話である。原稿料がいくらで、印税率がいくらで、解説を引き受けたらいくらで、ドラマ化された時の著作権使用料がいくらで、映像化された時に増えた部数がいくらか──といったことを実体験を例にあげているだけだ。

金の話をするのは恥ずかしいことでも何でもないというか、それがなければ人生設計も環境設計も、それどころか「目標にするかどうか」すらわからないはずだ。それを専業にしろ兼業にしろ仕事にしようとするのであればなおさらの話である。『どちらかといえば、格好の良いことではない。黙っている方が文化的にも美しいだろう、と理解している。ただ、誰も書かないのならば、知りたい人のために語るのは、職業作家としての「仕事」だと思った。「使命」と書かないのは、正直だからである。』

「どうだ凄いだろう」と言っているわけでもなければ、「作家ってのは儲かって儲かってマジで困るわ」と言っているわけではない(条件良く儲かる(自分は)とは言っているが)。ただ、基本的には狭い出版業界とはいえどこもかしこもが同じ慣習や伝統やシステムに則ってやっているわけではないので、ここに書かれていることが全てだと思わないことは注意しておくべきだろう。たとえば『小説雑誌などでは、原稿用紙1枚に対して、4000円〜6000円の原稿料が支払われる。』という記述なども、この範囲に収まらない金額(下も上も)が存在することが推定される。

前提と注意事項

前提になっているのは、著者本人の状況でもある「100万部を超えるミリオンセラーがなくても、そこそこ本が売れれば条件のいい商売としてやっていける」という様々な情報にある。その流れで様々な儲け方があることが紹介されていくわけであるが、圧倒的執筆速度(とクォリティ)を継続的に発揮できる超人の話である。たとえば『6000文字というのは、原稿用紙にして約20枚なので、1枚5000円の原稿料だと、この執筆労働は、時給10万円になる。』との記述をみて「作家は凄い儲かるんだな! やったー!!」と思うのは勝手だが自分の実力は冷静に捉えたほうがいい。

面白さ

本書の面白さは、収支一点に絞った為に、「意外と作家ってのは儲ける手段がたくさんあるんだな」というところがわかるところだろう。もちろん小さなレーベルで編集者一人に切るか切られるかみたいなギリギリにいる作家には夢のまた夢のような儲け方(ドラマアニメ化、スポンサー付き小説、パチンコ化)が多いが、現代においては正直、出版社に投稿をして──というだけの時代でもなくなっていることを考えると、とりえる手段は意外とたくさんあることに気がつく効用は大きい。

コンスタントに、ターゲットを絞って書き続けられるのであれば、やりようはいくらでもある。それはたとえば既にプロであっても同じで、自分のサイトで配信すれば印税率100パーセントなので紙の本(印税率10%)と比較して10分の1の売上でも同じ利益が見込める。小説はそうやってサイトで配信して、作業風景や状況などを配信するメルマガ会員制のモデルなども考えられるだろう。

「編集者の仕事を軽視しているのか」と思うかもしれないが、何も編集者を抜かせといっているわけではなく、作家☓編集者☓デザイナ☓広報担当ぐらいの4人チームで出してもいいわけである。やり方なんかいくらでもあるのだ、という端的な事実が、作家の収支の広い部分を見渡すことが見えてくるのではないかと思う。本書にはそのあたりの「これからの出版」を語った章もあり、これがなかなか面白い。

まあ、でも「コンスタントに」書き続けるってことが、実際はいろいろと難しいんだろうなと思う。そんなに執筆速度が出ない(1年に1冊分がやっととか)の人と、1年に4冊ぐらいは出せる人だと、その差がそのまま収入の差に直結してしまう。さらに出し続けることのメリットは過去の作品(シリーズだとなおさら。これも直接的な続き物だと厳しいが)がまた売上を伸ばすことになるのでなおさらだ。

さて、それ以外の話でいえば──細かい部分で面白い話はいくらでもあって、たとえばコカコーラから依頼を受けて書いた小説の、印税とはまた別の契約料が凄い金額だったとか、そのへんは読んで確かめてもらいたい。

最近は村上春樹さんも『職業としての小説家』(金の話ではなくほとんどは技術的な部分の話だが)なんかを出していたりする。内容が重複する部分もあるが、作家業について別側面から書いたものとしては『小説家という職業』もどうぞ

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

小説家という職業 (集英社新書)

小説家という職業 (集英社新書)

生と死、人間と非人間、その境界線上を──『彼女は一人で歩くのか?』

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

彼女は一人で歩くのか? Does She Walk Alone? (講談社タイガ)

ついに、といったところだろうか。

『彼女は一人で歩くのか?』は、講談社タイガという新レーベルから出た第一弾で、いわゆるライトノベル・ジャンルとも異なって(そっちは既に講談社ラノベ文庫があるし)、多少年齢層高めへ向けたキャラクター小説の流れに乗る(新潮文庫nexとかの)作品群になるのではないかと作品ラインナップを見ていると思う。読者にとってはどのレーベルから出ようが関係ないけれども。

ついに、と書いたのは講談社タイガとは関係がなく、個人的な願望であった、「森博嗣世界のSF作品が読みたい」が叶ったからだ。正確にいえば、百年シリーズはSFだし、本書の折り返しでも『スカイ・クロラ』がSF作品として紹介されているし、これまでに書いていないわけではない。ここでいうのはもう少しジャンル・SFに寄った話で「未来社会の描写とその問題をじっくりと描いていく」作品を望んでいたのである。今あげた二作はどちらも状況から社会の在り方が多少推測されるけれど、真正面から語られることはなかったからだ。

世界の行末はどっちだ

その思い入れは、既存の作品を読んできている読者とはある程度共有できるものなのではないかと思う。森博嗣作品は全てかどうかはおくにしても出版社やシリーズを超えた世界としての繋がり──登場人物や、技術を持っている。その技術的な前進の革新部分を担っているのは、様々なシリーズでその影を見せる真賀田四季だ*1

過去作品には大量に、彼女がところどころでばらまいてきた技術が存在している。未来社会がどのような形になるのであれ、そこには彼女の存在と、過去作品の残滓がある。だからこそ森博嗣ワールドとして見た時に、「世界の行末」が気になる。あの技術は、どう変化していったのか。あの人は、どのように社会を変えたのか、と。

たとえば、本書の英題は「Does She Walk Alone?」だが、このWalk-Aloneはウォーカロンと呼称され、この時代では人工細胞で作られた人間とほとんど差のつかない=区別のつけられない生命体である。このウォーカロンは、百年シリーズである「女王の百年密室」「迷宮百年の睡魔」「赤目姫の潮解」をメインとして森博嗣作品群のかなり初期の段階でその存在があかされていたものだ。それでもその存在が社会をどのように変えたのか、といった広い視点で語られてきたことはなかった。

ここでついに、「ウォーカロンが一般的に普及した世界」に起こった、人類社会全体のレベルで起こった問題が語られることになったのだ。もちろん本書は既存のシリーズを一つも読んでいなくても問題がない独立した長篇なのだが、これまでこの未来社会がどのような実態を持っているのかを切望してきた人間はまずこの時点で「うひゃひゃひゃ」と笑い出したくなってしまうのである。

あらすじとかいろいろ

個人的な思い入れはこれぐらいにしておいて本書それ自体の紹介に入ると、時代は現代より数世紀あとの時代である。その時代では人間とは容易に見分けのつかないウォーカロンがそこら中に存在しており、人間は細胞を入れ替えることによって寿命をある程度乗り越え、生と死、人間と非人間の境界は揺らぎ、人口減少が進み、機械工学、生体科学、人工知能など技術的にはかなり進んだ状況にある。

物語は、そのウォーカロンと人間を高い精度で判別できる解析方法を構築しつつある研究者ハギリが何者かに命を狙われることから始まる。爆発物を用いたテロの相手は、目の前にきて銃をつきつけて自分たちの目的をぺらぺらと喋ってくれるわけではないので最初は「誰が、どんな組織がやったのか」「どんな目的があってやったのか」といった様々な情報がわからない。

依然としてハギリは狙われ続けるのだが、政府機関の人間に護られ、自身の研究を進めていく過程で幾人かの先進的な研究者と出会い、この社会に存在する幾つかの問題点とその着地点を思索することになる。いったいこの社会において何者が「ウォーカロンと人間の区別」されることを嫌うのか、それはウォーカロンなのか人間なのか、そんな区別にそもそも意味はあるのだろうか。ウォーカロンと人間の区別がつけられるのだとしたら、それは人間を人間たらしめている本質に迫ることなのか。

人間とは何か

このような問いかけが進行していくのは、SF・ジャンルならではのものだろうと思う。引用に使われているP.K,ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が人間社会に逃げ込んだアンドロイド捜索任務を請け負ったリックの物語であるように、人間と非人間の境界を扱ったSF作品は多い。この手のものをパッと思いついた順で分類するとだいたい次のようになるのではないかと思う。

  1. 移行期──人間と非人間が混ざり合い、アンドロイドは自我がうんたら自分は人間だとか悩んだり反乱を起こしたり逆に人間が拒絶反応を起こしたりする。
  2. 別の道──人間社会とはまた違った道を行くようになる。共存繁栄をするパターン、独立パターンなどいろいろあるが移行期の結果として分離した感じか。
  3. ポストヒューマン型──人間と非人間(アンドロイド等)は技術が進歩したら見分けつかないし見分ける意味ないじゃん的に振り切れている。

思いついたものを並べた。各分類の中で細々と分かれていくわけだが、本書は移行期の作品にあたるといえるだろう。SFジャンル的に面白いのは、「見分けられない」、あるいは「見分けやすすぎる」ことが人間やアンドロイドの葛藤に繋がることが多い移行期の作品と比較すると、「見分けられるようになる」事がある種の社会的な混乱を招いてしまうあたりにあるか。大枠としてはそのあたりが面白いが、そうした議論に至る過程を埋めていく思索もまた洗練されている。

「生命反応の有無と聞きました」
「それは違う。生命反応といったものは、単なるメカニカルな状態にすぎない。そうではない。人間が自然に考えているかどうかを判断できるという技術だ。生命反応ならば、人工的に簡単に再現できる。物理的に測定できるものは、それを模して発信ができる。生きているように見せかけることはとても簡単だ。しかし、考えているかどうかは、メカニカルなものではない。脳波は物理的なものだが、その変化は数量化ができない」

ウォーカロンと人間が区別がつかないのであれば、区別をしなくてもいいではないかとする人がいる。一方で、感情的にそれが受け入れられない人間もいるし、ウォーカロン側も問題とする存在はいる。この時代のウォーカロンは人工細胞を用いた生物的な存在だが、元々は機械的な存在だったという「技術的な変遷」の過程、この社会がどのようにウォーカロンを管理しているのか、人工細胞技術はいったいどのレベルにあって、どこまでが可能になっているのか──未来社会にどのような形がありえるのかを、一個一個丁寧に理屈をつけ、物語として現出させてゆく。

細胞を入れ替え人が容易には死ななくなった世界であっても問題はなくならない。人間が持つ研究をする能力、インスピレーションを得る能力によって新技術はいつだって生まれるし、新技術は状況を変化させ、変化する状況は少なからず軋轢を生む。同時に、新しい技術はそれがもたらす結果はいつだって厳密な予測が不可能なものだから、必ず何らかの問いかけを創りだす。社会はこの先どうなるのか。未来は、どうなるのか。これは、人工生命体と人間が織りなす社会の物語なのだ。

新たなはじまり

本書にて、「この世界はどのような経緯を辿って今の形になったのか」の一端が明かされた。だが「この世界は、この後どうなっていくのか」はまだ明かされていないし、その問いかけは終わることはないのだろう。本書は、Wシリーズと呼ばれるシリーズ物の1作であり、少なくとも現時点で3作目までタイトルが発表されている(「魔法の色を知っているか?」「風は青海を渡るのか?」)。いったい、このシリーズがどんな情景を浮かび上がらせてくれるのか、今から楽しみで仕方がない。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

  • 作者: フィリップ・K・ディック,カバーデザイン:土井宏明(ポジトロン),浅倉久志
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1977/03/01
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*1:現在放映中の「すべてがFになる」にも絶賛出演中だが