基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

初心者から再読者まで、森博嗣の多様で自由な世界を示す10冊を紹介する!

本の雑誌に寄稿した「森博嗣の10冊」原稿を転載します。ちょこちょこブログ用に書き換えてます。あと、そんなにひねったラインナップにはなってないかと。強いていえば『スカイ・クロラ』が入ってないことぐらいかな。大好きな作品ですが、『ヴォイド〜』と迷ってこちらを選択しました。

はじめに

森博嗣は一九九六年にミステリィ作品『すべてがFになる』で第一回メフィスト賞を受賞してデビューし、その後破竹の勢いでシリーズ作品を刊行。デビュージャンルのミステリィの枠を超え、エッセイ、日記シリーズ、SF、幻想、絵本、詩集、趣味の庭園鉄道やジャイロモノレールについて書かれたノンフィクションまで、数多のジャンル・テーマの作品を開拓し続けてきた。総作品数は文庫化などの重複を除いてさえも二〇〇を超える。そんな作家なので一〇冊の選定は困難を極めるのだが、今回はできるかぎり間口を広く、森博嗣の多様な側面を紹介してみたい。

ミステリィ

最初は、さすがにこれは外せないということでデビュー作にして代表作『すべてがFになる』を紹介したい。愛知県の孤島に存在する、天才・真賀田四季の研究所で発見された四肢が切断された死体の謎を、工学部助教授の犀川創平と相棒役である西之園萌絵が解き明かしていく。そのトリック、謎解きの鮮やかさ、理系学生たちのリアルな会話、ミステリィ愛好家でキレ味鋭い思考を披露する西之園萌絵をはじめとした人物造形などデビュー作にして完成形といえるほどの作品だ。

だが、読み直して驚いたのは提示されている未来観だった。研究所では仮想現実の研究も行われており、真賀田四季による『仮想現実は、いずれただの現実になります』を始めとした仮想現実についての語りは、現代の物語として読んでも違和感がない。

森博嗣作品の多くは世界観が繋がっており、犀川創平や西之園萌絵らは後の『黒猫の三角』から始まるVシリーズや、『φは壊れたね』から始まるGシリーズといった他作品にも顔を出すことがある。中でも真賀田四季はその天才性によってこの世界のあらゆる領域に影響を与えているがゆえに、ほとんどのシリーズでその影が見え隠れする。そんな彼女の人生を描き出す、《四季》四部作も存在する。

《四季》四部作の中でも、彼女の幼少期を捉えた『四季 春』は、僕がすべての小説の中で最も読み返した一冊だ。彼女は何を読み、見てもすべてを一瞬で記憶してしまい、情報の処理速度は誰よりも早く自分の中にいくつもの人格を抱えている。常識外の能力を持つ彼女はしかし、最初はまだ親の庇護下にある子供に過ぎず、まずは自由を得るため、金を集めるためにその知力を用いていく。いまだこれを超える「天才の思考」を読んだことはない。それぐらい圧倒的な、天才についての小説だ。

単独作

シリーズ作品以外はないの? という人向けには、『喜嶋先生の静かな世界』を挙げたい。大学四年、卒論のために配属された喜嶋研究室で、勉強が大嫌いだったはずの橋場くんが「研究・科学のおもしろさ」に触れ変質していく人生が描かれる、森博嗣の自伝的な要素の含まれた研究者小説だ。本作では、研究とはまだ世界で誰もやっていないことを考え、最初の結果を導き出す。人間の知恵の領域を広げる行為なのだと語られる。そうした研究の意義と魅力だけではなく、大学というシステムの中で研究者としての切れ味を保ち続けることがいかに難しいのか、その現実も描かれていく。もうひとつ、単独で読めるものとしては、森博嗣自選短篇集である『僕は秋子に借りがある』をオススメしよう。大学の生協で見知らぬ女の子に強引にデートに連れ出された男子大学生を描き出す、とびっきりにミステリアスで魅力的な女の子についての短篇「僕は秋子に借りがある」。街中が砂に覆われ、色彩が失われてしまい、そのことを住民たちも認識しているようだが、なぜか大騒ぎをするわけでもない。そんな故郷の街へと帰ってきた男性の困惑と幻惑を描き出す幻想奇譚「砂の街」。

父親が何者かに殺され、その現場に残されていた小鳥をしばらく飼っていたが、ある日逃げ出してしまう。だが、数年後に自分はその小鳥であると名乗る若い女性が現れ、私が小鳥であることは誰にも話さないでくださいとお願いをする──と鶴の恩がえしのような童話テイストから鮮やかなミステリィ的解決に繋がる「小鳥の恩返し」など、幻想からミステリィまで森博嗣の多様な側面が味わえる短篇集である。

日記・ノンフィクション

森博嗣はデビュー直後からwebで日記を書き、それを文庫や単行本として刊行するスタイルを先駆けて実践していた。いくつもの日記シリーズが刊行されていて、それぞれに良さがあるが(たとえば最初の『すべてがEになる』からのシリーズは、後期の日記よりもあけすけに家族のことや読んだ本、観た映画についてなども触れられている)、中でも『MORI LOG ACADEMY 1』とそのシリーズをオススメしたい。

ACADEMYとついているように、本シリーズは授業の体裁をとっている。最初にホームルームとして日記が、後半は算数、理科など、授業項目に応じたテーマについて書かれている。日記とはいえ時事ネタを取り扱うことはあまりなく、抽象的な物事について論じられている。客観と主観の違い、文章の攻撃力と防御力について、原稿料の解説……後に多数刊行される新書のエッセンスは、すべてここに書かれていると思えるほどだ。何度も読み直したが、毎回新たな気づきを与えてくれるシリーズである。

そうした日記シリーズ以外にも森博嗣は、寂しさを感じることは「悪いことだ」とされる風潮があるが、本当にそうなのだろうか? と孤独の意味を問い直す『孤独の価値』。やりがいは仕事をする上で本当に必要なものなのか? と問いかけ、仕事について語った『「やりがいのある仕事」という幻想』など多くの新書も出している。その中から一冊選ぶならば、『自由をつくる 自在に生きる』を挙げたい。なぜなら、作家・森博嗣を一言で表現するならば、それは「自由」だと思うからだ。

森博嗣は本書の中で、自由とはなにかについて、簡潔に『「自分の思いどおりになること」』と答えている。当たり前のことではあるのだが、それを実践するのは難しい。たとえば、寝たい時に眠り、自堕落に過ごすこと。これは一見自由だが、実際には休みたい、寝たい、という肉体の支配を受けている状態だ。そうした支配を完全に無にすることは不可能だが(寝ずに生きることはできない)、支配を認識し、自由の領域を拡大していくことはできる。自身をできるかぎりコントロールし、将来を思い描き、計画を立てて実践する。それこそが森博嗣が創作で、趣味で、それらをひっくるめた人生で行ってきたことであり、本書では、その核心部分が語られている。

絵本・剣豪・幻想・SF

ここからは、ミステリィ系以外の多様な小説・絵本を紹介していきたい。森博嗣は小説を書き始める前はマンガを描いていたことでも知られるが、『STAR EGG 星の玉子さま』は森博嗣が文章だけでなく絵まで手掛けた絵本である。玉子さんと愛犬ジュペリが旅に出て、人が一人いられるぐらいの小さくて特殊な惑星をめぐっていく。すべり台だけがぽつんとあったり、野球をしている少年が一人だけあったり、二つの惑星がお互いを周りあっているように見える惑星であったり……。どの惑星の描写にも物理にまつわる知見が込められていて、宇宙の絵本であるがゆえに、上下左右どこから読んでも問題ないようになっているなど、美しく、また楽しい本である。続いては、森博嗣による全五巻の剣豪小説《ヴォイド・シェイパシリーズ》から、第一巻『ヴォイド・シェイパ』を紹介しよう。本作の語り手は、幼き頃から山中で、剣の達人であるカシュウと稽古をしながら生きてきたゼンという男。彼はカシュウの死をきっかけに山を下りて旅を始めるのだが、その過程で、真の強さとはなにか、自分はどこの誰から生まれた人間なのかを探求していくことになる。

山育ちのゼンは、社会の常識など何も知らぬ空っぽの存在だ。だが、空っぽだからこそ、社会のしがらみや剣の在り方に疑問を覚え、しがらみなく思考できるが故の強さを得ることができる。登場人物がみなカタカナで表記され、英語タイトルであることに加え、ゼンのそのフラットな視点もあって、内容的には完全に時代小説でありながらも、異世界の物語を読んでいるような浮遊感を体験させてくれる。

森博嗣による世界観に繋がりのある作品群の中で今のところ(明確に判明している限りでは)一番の未来を描き出しているSF作品が、『彼女は一人で歩くのか?』から始まるWシリーズ(とその続篇のWWシリーズ)である。舞台は現代よりも数世紀あとの時代。人間は細胞を入れ替えることで寿命を飛躍的にのばし、人工細胞を用いた、人間とほぼ見分けのつかないウォーカロンが(ウォーカロン自体は森作品の初期から描かれている)人と共に生活している。本シリーズは、そんな世界で人とウォーカロンを高精度で識別できる手法を開発した研究者ハギリを通して、「人間とはなにか、その特性とは」を問いかけてゆく。人と非人間、生と死、仮想現実と現実など、すべての区別が曖昧になった未来像が描き出される、圧巻のSFシリーズだ。最後に紹介したいのは、森博嗣による究極の幻想小説『赤目姫の潮解』。『女王の百年密室』から始まる《百年》三部作の第三部でもあるのだが、登場人物の繋がりは(ほぼ)なく、本作独自の世界観とスタイルが展開している。登場人物の視点や場面は次から次へと飛び、因果関係というよりもイメージの連鎖によって紡がれていく本作は、作中でいったい何が進行しているのかよくわからないのだが、その描写はひたすらに心地がよく、こんな語り、描写のスタイルをやってもいいんだ、と、僕の小説観、その可能性を広げてくれた。作家・森博嗣の「自由」を象徴する傑作である。

おわりに

森博嗣作品を読んだことがある人は多くても、エッセイからミステリィ、SFまでそのすべてに手を出した人は多くないだろう。本稿が、森博嗣をはじめて・再度読み始めるきっかけとなってもらえれば幸いである。

森博嗣による、Xシリーズに続く、浮気調査に明け暮れるリアルめの「探偵もの」──『歌の終わりは海 Song End Sea』

精神的なダメージを負いながらも地道でたいして儲かるわけでもない探偵事務所での仕事に明け暮れるうちにその傷が癒えていく主人公小川令子の生き様が描かれていった『イナイ×イナイ』からはじまるXシリーズ。この『歌の終わりは海』は、そのXシリーズから時系列を引き継いで小川令子&加部谷恵美の二人を中心に展開するシリーズの番外編である。読者の反響次第ではシリーズ化する可能性もあるとか。

『歌の終わりは海』と同じ立ち位置のシリーズ番外編としては『馬鹿と嘘の弓』という作品も昨年出ているのだが(こちらは興を削がない形で内容について触れられる気がしなかったので記事にもしていない)、森博嗣の新境地というか、生と死の曖昧な境界をそのまま「わからないもの」として扱いながら、ミステリィ的にはド正面から描き出していて、テクニカルで素晴らしい出来であった。サクッと読みやすくもあり、今から森博嗣を読み始めます、と言う人に手渡してみてもいいぐらいの作品だ。

で、そうなると続く『歌の終わりは海』もトリッキィな作品になるのかなと読み始めたのだけど、こちらは比較的にXシリーズの雰囲気を引き継いだ作品である。相変わらず小川と加部谷は探偵業を営んでいて、こんな仕事をしていて、将来的にスケールするわけもブレイクするわけもないし、いったい未来なんてあるのだろうか、でも苦しいわけでもなく、仕事があるだけマシか……みたいな、割と多くの人が現実的に抱えていそうな停滞の悩みが小川&加部谷二人の視点から語られていく。

探偵の地味さ

本作でおもしろいのは、まず探偵の仕事の地味な描写にある。現実の探偵業でも多いのは浮気調査だというが、本作においても小川&加部谷の二人組はある著名な作詞家の男性の浮気調査をその妻から依頼され、張り込み&尾行を開始することになる。

その男性は60代で老年期に差し掛かっており、社交的なタイプではないので、そもそも家から出ることがほとんどない。小川と加部谷が交代で見張っても、家から出ないし、誰もこないし、たまに出ても犬の散歩をするぐらいで誰にも合わないので、依頼主に提供する情報も多くはない。金払いはいいが、このままでは依頼は打ち切られてしまうかもしれないし、それ以前の問題として方向性がない(浮気相手の目処、どこに行っているのか、本当に怪しいのかなど)ので、浮気調査としては大変な部類である。

とはいえXシリーズが始まった頃とは違って小川ももうベテランであり、加部谷もそれなりの経験者になっているので、もはやそれも慣れたものといった感じで、カメラを設置したり、いい感じに息を抜いたり、同業者と情報提供しあったりと、すっかりこなれてきている。長い間シリーズとキャラクタを追いかけている醍醐味の一つは、こうした細々とした変化を楽しめる点にあるといってもいいだろう(もちろん本作から読んで、時系列を逆向きやランダムに読んでいってもいい)。

そうした非常にリアルな探偵業の実体を描いているともいえる本作だが、二人が監視業務を続けていたある日、ちょうど作詞家の男性が外に出ていたタイミングで、同じ家に同居していた作詞家の姉が首を吊って死んでいることが判明する。姉は足を悪くしており車椅子生活をおくっていて、首吊は高い位置で実行されていたので、普通に考えれば単独での実行は不可能である。しかし、出入り口に仕掛けた監視カメラにもそれらしい外部の人間は映っていないし、中には人もほぼ存在していなかった。

生前から、その姉は自死を望んでいたことも周囲の人間から漏れ聞こえてくるし、基本的に自殺なのだろう。では、誰がその自殺を手伝ったのか、また、どのような動機から自殺に走ったのか──といったところが本作で展開していく謎のひとつになる。

終わりをどう迎えるべきなのか

この「終わりをどう迎えるべきなのか」という問いは、ある人物の人生を確定させるまでが描かれる『馬鹿と嘘の弓』から引き続いての問いかけ、話題といえるだろう。ヒトの一般的な終わり方は、生きられるだけ生きて、避けられぬ病気にかかって、というのが多いだろう。だが、人間は自分の行動を変えることができるので、別にある地点で苦しくて仕方がない、病気がつらい、などの理由で、死ぬことはできる。倫理的に広く認められたものではないが可能は可能であるし、安楽死が可能な国もある。

自死は権利である、ということになって飲んだら誰でも楽に死ねる薬が薬局で市販されるようになったら、自死者は増えるだろう。自由な意思決定の末の自死でそれが許可されている社会ならば良いだろうが、何をもって自由な意思決定による決断と証明できるのか、という問題もある。周囲の圧力や強制でない証明、あるいはうつ病などの形で脳の状態が変わっていたり、そうでなかったとしても人はいつだって完全に冷静でいられるものではなく、感情の揺れ、一時の気の迷いがあるわけで、このあたりが難しい。スイスなど自殺ほう助が可能な国でも、安楽死の実施には治る見込みのない病気、耐え難い苦痛や生涯、健全な判断能力を有するなど厳格なルールがある。

と、そんな議論が本作では展開していくわけではあるけれども、おもしろいのはそうした議論よりも、死を目の前にした人々の言葉にならない揺らぎにこそある。表向きは元気そうな人間でもスッと自殺してしまうことがあるように、人間の内面は、シミュレーションすることも、本人が言葉にして語るのも、難しいものだ。

本作においては、加部谷自身自死を何度も考えたことがある人間であるし、作詞家の男が密かに行う行動と、男がインタビューなどで明かす朗らかな外面のギャップを通して、そうした「言葉にすることができない内面」の外堀が埋められていく。

おわりに

森博嗣作品においてはすべてがそうではあるのだけど、とりわけXシリーズから続く小川令子主演作品は、言葉で表現できない人間の感情の描き方が好きだ。『ダマシ×ダマシ』で、ずっと傷ついていた小川が、たしかに立ち直りつつあることがわかる瞬間とか。浮気調査などを時間をかけて行う、リアル目の探偵業という、わりとゆったりとした時間を取り扱っているシリーズ・作品だから、日常の中で少しずつ変わっていく人間関係だったり内面といったものが見えやすくなるのかもしれない。

死を真正面に見据えたこのシリーズ、ライフワークのように続いてほしい。

種の宿命を問う、森博嗣によるWWシリーズ最新刊──『君たちは絶滅危惧種なのか?』

この『君たちは絶滅危惧種なのか?』は、リアルとヴァーチャルの区別が曖昧となった未来の社会を描き出していく、森博嗣によるWWシリーズの第5巻である。前巻が出たのが昨年の6月だったので、本シリーズのペース的には久しぶりの刊行となる。
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Wシリーズなどと同じく全10巻であるならば、この第5巻は折返し地点となるわけだけれども、(今作に限らず)独立性の高い作品なので、どこから読み始めても問題はない。人工的に作られた有機生命体ウォーカロンが存在し、人間は人工細胞で自身らの体を作り変えて以後、子供がほぼ生まれなくなった世界を舞台としている。

世界観とか

ざっと振り返ると、このシリーズの特徴は、ヴァーチャルの比重が増し、リアルが縮小する世界を描き出している点にある。現代でも多くの人がVR機器を楽しんでいるが、このWWシリーズでのヴァーチャルの重要性はそのはるか先をいく。ヴァーチャルのリアルの再現率、情報量が高くなり、現実と遜色がつかなくなっているだけではなく、現実それ自体もまた、不確かで曖昧なものへと変化している。

たとえば、肉体を人工細胞に置き換えることでいくらでも寿命をのばすことができるので、死と生の境界線がゆらぐ。ほぼ人間と同等の存在であるウォーカロンが存在すること、さらには人間以上の演算速度を持ち人間と会話をすることができる人工知能、肉体を破棄し電子世界に移住した人間らが当たり前に存在する世界なので、人間と非人間の境界線も曖昧になっている。世界の実質的な管理者も人工知能に移行しつつあり、旧来の人間が立脚してきた「リアル」は、様々なものに侵食されつつある。

本シリーズは、その過程を丹念に描き出してきた。

君たちは絶滅危惧種なのか?

というところでこの『君たちは絶滅危惧種なのか?』だが、今回中心となっていくのは人間以外の動物たち。国定の自然公園で、研究用の動物や飼育係が行方不明、さらには湖岸では正体不明の大型動物が目撃されていて──と不可思議な事象が連続しており、ほぼほぼ怪奇現象専門の便利屋とかしている本シリーズ主人公グアトがそこへ調査に赴くことになるという、お決まりのルーチンで物語ははじまる。

本作はWWシリーズの中では最も映画的な一作ではないか。導入部の時点で明らかだが本作はモンスター・パニック路線の作品で、モンスターの登場にあたふたと慌てふためくだけではなく、それっぽいアクションシーンやド派手なあれやこれやのシーンも詰め込まれている。一方で、人類外の生物をテーマとして持ち出したことで、種の宿命と目標についての大きなテーマが(人類も含めて)展開することになる。

この世界ではヴァーチャルの比重が増しているだけではなく、リアルもまたヴァーチャル、仮想的なものに近づいている。というのも、人間と同等からそれ以上の能力を有するウォーカロンを作り出せるような技術など、科学の進歩が意味することは、我々の知る現実を好きなように作り変えることができる=なんでもありに近づくことだからだ。たとえば、この現実世界をゲームクリエイター目線で好きなように作り変えられるのだとしたら、現実世界と仮想世界の違いはほとんど存在しない。

本作において、グアトたちは向かった自然公園で、現実には存在しないような動物たちと遭遇することになるが、そうした「「現実には存在しない」とかいう常識」が存在しない、何でも起こり得る世界なのである。すべてがコントロール可能なものに近づいていけば、いずれ人間を突き動かしてきた怒りや恐怖、競争心などの感情もまた消えていく。「君たちは絶滅危惧種なのか?」という問いかけは、本作においては一つの生物種への問いかけを超えて様々なものにかかってくる。

ヴァーチャルの比重が増していく

このWWシリーズは、巻数が増すごとにどんどんヴァーチャルの重要性、比重が増している。たとえば、電子界に精神をアップロードする人々が描かれた前巻から引き続き、今巻でもそうした人々の物語が紡がれていくわけだが、おもしろかったのは、「はたしてそれによって失われるものはあるのか?」という問いかけである。

現実世界には煩わしいものがたくさんある。感情もあるし、体調もあるし、移動には時間がかかるし、何か成し遂げたいことがあったとして、それを実行するためにはそうした現実の摩擦を避けられない。ヴァーチャルにはそれらは存在しない、ピュアな世界だといえるだろう。それは失われるものといえるかもしれないが、ヴァーチャルはすべてをパラメータによって調整できるので、そうした煩わしさや摩擦それ自体も再現することができるはず。であるならば、失われるものなどなにもないのか。

その問いに対する思考自体は本作を読んで確かめてもらうということで。すべてがコントロール可能になった世界における「自由」を問う、実に百年/Wシリーズ/森作品らしい一冊であった。

意識のアップロードを望むか?──『幽霊を創出したのは誰か? Who Created the Ghost?』

講談社タイガで刊行中の、森博嗣によるWWシリーズ『キャサリンはどのように子供を産んだのか』に次ぐ第四巻である。(今作に限らず)独立性の高い作品なので、どこから読み始めても問題はない。この世界には、人工的に作られた有機生命体ウォーカロンが存在し、人間は人工細胞で自身らの体を作り変えて以後、子供がほぼ生まれなくなった。一方で寿命は延び、ほぼ死ななくなった未来の世界を描き出していく。
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本作について──この時代における幽霊とはなんなのか?

本作で焦点があたるのは書名に入っている「幽霊」だ。20世紀には大人気だった心霊番組は、科学全盛のこの時代に次第にその数を減らしつつある。そんな状況なので、遥か未来を舞台にした本シリーズで幽霊に焦点があたるのは意外な気もする。

幽霊というのは無から創造されたわけではなくて、人間の認知能力や文化といったものと密接に関わった存在である。たとえば、死んでしまった人ともう会えないという苦しみ、死んでしまった人間にひどいことをしてしまったという悔恨が幽霊が現れる理由の一端であるのだろう。であれば、ほとんど人が死ななくなったこのWシリーズのような世界では幽霊概念それ自体が希薄になっていくのも当然と思える。

実際、幽霊譚は少なくなっているようだが、この世界でもまだ幽霊がいなくなったわけではないようだ。中心人物であるグアトとロジの二人は、ロミオとジュリエットのような悲劇的な恋愛をした二人が自殺をし、その後幽霊になってあたりをさまよっているという噂を聞きつけ、(出ると噂の)城跡にピクニックがてら赴くことにする。そこで二人は実際に幽霊的な二人の男女を見つけ、グアトに至っては会話すらするのだが──と幽霊との遭遇を起点として、二人は奇妙な事件に巻き込まれることになる。

これまでのシリーズを通して最も穏健な巻かもしれない。引用本であるコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』(終末SFを代表する名著)のように、淡々と「この時代における幽霊とはどのような形がありえるのか」という議論をさし挟みながら、物語は進行していく。ここでおもしろいのが、「テクノロジーの進歩によって幽霊の現れ方・考察の仕方も変わってくる」ということだ。たとえば、携帯電話が出てきたら、携帯電話をモチーフにした幽霊譚が出てくるように、新たなテクノロジーは幽霊を駆逐するものではなくて、幽霊と合わさって発展していくものなのである。

この時代にはトランスファと呼ばれる体を持たない人工知性が存在していて、たとえば彼らは生身の体を持たず、ロボットからロボットへと次々に移動していくことができるから、ある意味では幽霊的な存在であるといえる。人は「なぜ幽霊を創出するのか」、そして、「幽霊とは何であるのか」がこの時代のテクノロジーのあり方、ヴァーチャルとリアルの関係性と合わせてミステリイ的に語られていく。

自分の頭の中をヴァーチャルに移行するべきか否か

本作で語られていくテーマのひとつに、「自分の頭の中をヴァーチャルに移行するべきか否か」がある。この作中の時代、リアルにしか得られない感覚というのはほとんど存在しない。むしろそれは運動すれば疲れ、切断されれば痛みを感じる不都合なものでしかない。無論、ヴァーチャルの中であればそうした痛みや疲れさえも再現できるから、ただの「自由度の低いバーチャル」的な扱いになってしまっている。

ヴァーチャルの基盤はリアルに依存しているのであって、リアルが崩壊すればヴァーチャルに移行した生命も死んでしまう。だが、ヴァーチャルが維持できないほど基盤が破壊されたとなった場合、リアルもタダではすまない状態になっている=リアルとヴァーチャルは不可分になっているわけで、もはやそうしたことが問題になるフェーズは超えている時代であるといえる。こうした議論は、SFでは繰りかえされてきた。

その論争のメインといえるのは、一つは今書いたように「意識をサーバにアップロードしちゃえばいいじゃん」派である。もう一つは、「人間の意識、思考というのは体と密接に関わりあっているのだからそんなことはできない!」派だ。実際にはまだまだ意識をサーバやロボットに移し替えることはできていないのだけど、これから先もずっとできないというわけでもあるまい。で、たしかに我々の意識や思考というのは肉体による制約を強く受けている。身体的な感覚、快楽から不快を目指すようにできているし、疲労や痛みがなかったら我々は考えをかえるはずだ、仮にそんなこと(意識のアップロード)が実現できたとして、それは体を持ったあなたとは別人だろう。

ただ、一方で「現在の意識や思考が身体そのものと不可分であったとしても、その場合身体由来の思考が欠落した部分がアップロードされるだけ」ともいえ、それが許容できるのであれば後者の論点は特に問題にはならなくなる。個人的には人間なんて生きている間に次々身体の調子が変わっていって(悪くなっていって)、それによる意識と思考の変容を経験しているんだから、そんなこと問題にしたってしょうがないだろう、と思う。あと、身体的な感覚さえもまるっとシミュレートできるようになれば、「身体と精神は不可分」派の反論は一切根拠を失ってしまうだろう。

であれば、ヴァーチャルの比重が極限まで高まった社会では人間は(この人間の定義は今の人間よりももっと広くなっている)リアルの体を捨てるのだろうか? 仮に、そうなったとしたら、その時ヴァーチャルの住人となった人々は一体何をのぞむのだろうか。『ザ・ロード』ほど本シリーズの世界は荒廃しているわけではないが、精神的にはどんどん退廃的な感覚が積み重なっていて、「精神的な終末もの」的な読み味があるな、と今巻をよみながら考えていた。

電子生命の生きる道はどこにあるのか──『キャサリンはどのように子供を産んだのか?』

講談社タイガで刊行中の、森博嗣によるWWシリーズ『それでもデミアンは一人なのか?』に次ぐ第三巻である。(今作に限らず)独立性の高い作品なので、どこから読み始めても問題はない。このシリーズでは、人工的に作られた有機生命体であるウォーカロンが存在し、人間はいくつかの事情から子供がほぼ生まれなくなった。その一方で寿命はのび、ひどい事故以外では死ななくなった未来の世界を描き出していく。
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世界観とか

このシリーズの特徴は、ヴァーチャルの比重が増し、リアルが縮小していく世界を描き出している点にある。現代でも多くの人がVR機器を楽しんでいるが、このWWWシリーズでのVR──というか電子世界の重要性はそのはるか先をいっている。

現代では誰であってもVRの世界を現実と見間違えたりしないが、結局のところそれはVR空間での情報量がリアルのそれと比べて圧倒的に劣るからだ。音、感覚、臭い、それから視覚の情報量が現実以上になれば、人は容易にはそこが仮想空間だとは気づけない。この世界でのVR空間は、だんだんとその状態に近づいていっている。

そもそも、世界の運用の多くが人間ではなく人工知能による演算にゆだねられているし、肉体を人工細胞によって置き換えることでいくらでも寿命を延ばすことができ、死と生、人間と非人間の定義が、ぼやけて曖昧になっていっている。それは、要するに揺るぎない「リアル」という土台が、次第に縮小しつつあるということだ。

あらすじとか

今作で焦点があたるのは、そんな世界で起こったキャサリン・クーパという女性研究者の行方不明事件だ。なんでも、彼女は国家反逆罪に問われており、自身の研究所を出ること許されていない。そのため、失踪当日も自身の研究所にいたが、そこへ公的機関のものが8人訪れ、そこから何らかの理由で全員が消えてしまったという。

普通に考えたらただ結託して出ていったのか、行方をくらましただけでしょう、ということになるのだが、クーパ博士は持病持ちで、研究所にある特殊な無菌室の中にいなければ長期の生存が困難だという。さらには、建物の情報からは一切出ていった痕跡が出ていない。つまりは、密室殺人事件というか、密室失踪事件のようなものである。無論、いくつもの可能性が考えられる。何らかの形で建物の監視を逃れたか、はたまた、9人全員が痕跡も残さぬようその場で殺されたのか(溶かしたとか)。

研究室には、そうしたことを可能にする設備はあったという。だが、そもそもなぜ彼女は消えなければならなかった(あるいは、消された)のか。それを追っていくうちに、クーパ博士が実現したとされる「一人での出産」技術と、それをめぐる電子世界勢力との争いが描かれていくことになる。SFならではの世界認識と、問いかけそれ自体が謎解きに関連してくるタイプのSFミステリィとしても突出しているが、同時にひたむきで愚直な研究者についての物語としての側面も色濃く出ていて、『喜嶋先生の静かな世界』を読んだ時のような、理論を追い続ける美しさに触れたように思う。

電子生命の生きる道はどこにあるのか

SFが未来を描き出す時に、単純化すればその方向性は大きく二つある。一つは、小川一水的な、人類が宇宙へ広く伝播し、異星の知性やまだみぬ惑星をみて広まっていくような物理宇宙で拡散していくタイプ。もう一つは仮想世界が広く展開し、多くの人がそこで暮らしたり、知性をそこにアップロードするような本作に近いタイプ。

後者はそうした状態をとりながら無数の惑星に分かれているケースも多いから、大きな二つの方向性は分断されているわけではないが、僕の個人的な未来観は後者に近い。火星ぐらいにはいけるだろうが、この先少なくとも50年以上に渡って人口はどんどん減っていくことがわかっているし、果てしない宇宙を探索し移住するよりかは、人口を少なくおさえつつ、パラメータを好きに決められる仮想世界に閉じこもる方が、資源も必要としないし、エネルギー効率的な観点からいえば優れている。

そうなってくると気になるのは電子世界ではどのような生活を送ることになるのかだ。WWシリーズでは、その辺は今まさにゆるやかな移行が描かれている最中である。対面のMTGがリモートMTGになり、それが次第にVRでのMTGになるように、生活の、リアルの一部分が徐々に仮想へと置き換わっていく。我々の世界でのVRも今ゲームが多く出ているが、それらも基本は現実を模倣したものだ。その場合、最初に訪れる電子生命・電子知性の日常というのは、現実と変わりがないものになる。

だが、仮想は仮想なので、リアルに縛られる必要はない。自由に、離れられる。そうであれば、電子世界は、電子の世界での生命は、その先にどのような道をとるのだろうか。というのが、ざっくりいえば本作における中心的な問いかけになる。これは、リアルに縛られている我々人類にとっては、想像が難しい問いかけだ。

おわりに

森博嗣さんの本ではいつもある各章冒頭の引用、今回はグレッグ・イーガン『ディアスポラ』が用いられている。この作品では、ほとんどの知性が電子世界上のものになっている未来の世界を舞台に、わずかに残った、あえて肉体で生きることを選択した人々や、仮想世界上の存在である人工知性が、物理宇宙の探索に出向く宇宙探索プロジェクト「ディアスポラ」であったりが描かれていく。「電子生命は何をするのか」という、WWシリーズの問いかけのはるか先を描き出した作品といえるだろう。

電子生命は、自分の精神のパラメータを自由に変更できる(何に価値を感じ、楽しいと感じるのかを自由にいじれる)ので、リアルな肉体を持つ我々の芸術や美学といったものは、もはやなんの意味ももたなくなっている。死も生も、楽しみも悲しみも、あらゆる状態・価値基準がどのようにでもなるというのであれば、その時電子生命はどこによりどころを求めるのか。死は、生は、どのように規定されうるのか。それとも、そんなものはいらないのか。『ディアスポラ』では、そうした本質的なアイデンティティ、存在そのものへの問いかけがある。

WWシリーズはまだそこまでの問いには到達していないが、すでにその入口にはきている。まだまだ3巻、Wシリーズから考えると随分遠いところまできてしまって、この先どのような境地をみせてくれるのか、楽しみで仕方がない。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

整理をしないという整理──『アンチ整理術』

アンチ整理術

アンチ整理術

森博嗣氏の新刊である。今回のテーマは「整理術」──というが、長年森氏の日記を読んでいる人からすれば当然わかるように、氏の家は雑然としている。物がたくさんあって、なんというか、好きなものがそこら中に転がっているような大人の子ども部屋みたいな、夢のイメージがある(写真以外では一度も見たことがない)。

整理をしないという整理

そういうわけなので氏は「整理」をしない人なのである。だから本書のタイトルも「アンチ整理術」になっている。つまるところ、氏にとっての整理術とは整理をしないことである。その理由も理屈が通っている。整理する時間があるならば、研究や創作や工作を少しでも前進させたい、だから整理なんてしてられない、そもそも何かを作っている時というのは必然的に周囲が散らかるものなのだ──というわけである。

僕も大枠としては氏の考えに賛成である。何かを書いたり作っている時に周囲が雑然とするのはもはや避けられないことだ。むしろその混沌とした状況が──必ずしもプラスだけではないにしても──心地よく感じられることもある。僕は今とあるテーマの一冊の本を書いているが、周囲に本が散らばって、相当雑然としている。

机の上に何冊も本が積み上がって、そのすぐ脇、ゴミ箱の上にも本が積み上がっている。都度本棚に戻せばいいのかもしれないが、どうせすぐ使うのだからそのへんに散らばっていてくれたほうがありがたい。それも、常に出したり入れたりで動き回っているので、「そのへん」で整理するのも難しい。散らばるのは必然である。他にも、僕が知る限り、優秀な編集者の机はだいたいいつも混沌としている。

僕と森氏の違い

一方でそれが終われば当然ながら僕だって片付ける。もう(少なくともしばらくは)読まないわけだし、あっても邪魔だ。そして僕は家がきれいであることを好む。物に溢れているのは我慢ならない。基本的に「もう読まない」ではなく「しばらく読まないだろう」本はすぐに捨てて(売って)しまうから、家に本は200冊もない。

「積読」というのも僕は嫌いである。邪魔だからだ。2ヶ月も読まないまま積んだら、それはもう「いまよむべき」本ではない。だから、読まずに捨ててしまう。また読みたくなったら買い直せばいいのだ。こんな事を考えているせいで、僕は毎年何十冊もすでに読んだ本や買った本を買い直してまた売っているのだが……。時折買い直すのが不可能、あるいは高騰していて難しくなったりするが、世は無常、盛者必衰であり諦めるしかない。どうしても諦められないものは、さすがに取っておく。

本だけでなくすべてを「必要になったらまた買い直せばいい」と思って「何ヶ月後に絶対に使うだろう」というものも捨ててしまうので、うちは全体的に物が少ない。そもそも、物がたくさんあってほしいものがなかなかみつからない、というのが僕はいやである。探すぐらいなら買い直したほうが精神衛生上楽だ。買えば必ず家に届くのだから。そのへんは、森氏との違いだろう。森氏は自分で買った物はほとんど捨てないという。『これは、僕の書斎に見られる傾向だが、地面に平行な場所は、悉くなにかが置かれてしまうのである。ただし、例外が一つだけ。それは天井だ。』

そこは違いではあるが、でも僕だってできれば本や物を捨てたくなんかないのである。ものすごく広い家に住み、好きなだけ物を置いても自室が乱雑にならないのであれば全部とっておきたい。なぜ捨てるのかといえば、僕が都心に住んでいて、家賃がゲロ高だからである。部屋が狭く、物を置く場所がないのである。森氏は全部とっておいて、ためこんでおいて、狭くなったらより広い場所へ引っ越してきたという。

うーん、僕もそれができるならそうしたいが……。というより、別に今すぐにでもそれは可能なのだが(郊外に引っ越せばいい)、僕はその可能性を捨てて家賃の高い都心に住んでいるわけなので、やはりそこは「物を持つ」ということに対する価値観の違いが現れているとみたほうがよいのだろう。僕は家に自分の物を置くことにたいした価値を認めてはおらず、それより、仕事に便利な場所に住む方を選ぶ人間なのだ。

つまるところ、整理術というのは方法論のずっと前の段階でその人の価値観が現れてくるものなのだろう。

おわりに

この『アンチ整理術』は、最初こうした「物を整理すること」についての森氏なりの考えが語られ、その後『整理・整頓は、あなたの外側ではなく、まずは内側、あなたの心の中でするのが、最も効果がある。』といって思考の整理、人間関係の整理へと繋がっていく。書きながら考える森氏らしく、最後の方は噛み合わない編集者との問答がまるっと一章挟まっていたりして、いきあたりばったり感の楽しい本である。

はたして「整理」というのは本当に必要なのか? 一度立ち止まって考えてみてもいいのではないだろうか。ほぼ僕の整理術の話になっているが、もうあまり紹介することもないので、こんなところで。

ヴァーチャルの比重が増し、リアルが縮小した世界──『神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned?』

講談社タイガで刊行中の、森博嗣によるWWシリーズの、『それでもデミアンは一人なのか?』に次ぐ第二巻である。書名に巻数表記もないし、ここから読み始めても特に問題はない。このシリーズでは、人工的に作られた有機生命体であるウォーカロンが広く蔓延し、人間はいくつかの事情から子供がほとんど生まれなくなった──、その一方で寿命は伸び、ひどい事故以外では死ななくなった世界を描き出していく。
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人工知能はすでに人間を圧倒的に凌駕しており、世界を動かすシステムはもはや人間の手には負えないほど広大で、複雑化してしまっている。そうした世界に関するいくつかの大きな変化が存在しているのだけれども、このWWシリーズでとりわけフォーカスされていることのひとつはVR、バーチャル・リアリティにある。

ヴァーチャルについて

現代でも多くの人がVR機器を楽しんでいるが、このWWシリーズ世界でのVRはその遙か先を行っている。それには幾つもの理由があるが、まず一つのは、この世界ではリアルが人間の手から離れつつある点があげられる。そもそも世界の運用そのものがもはや人間の手を離れつつあるし、肉体をいくらでも置き換えることができる世界では、自分自身の肉体はもはや機械とそうかわらない。

もうひとつは、VRな世界、電子空間というのは実質的には「もう一つの現実だ」からだ。我々はVRを今はまだ一時的なレジャーとしか捉えていないが、それはあくまでもVRから受け取る情報のフィードバック、密度が、現実とは比べ物にならないぐらい低いからに他ならない。仮に、VRからフィードバックされる情報が現実を超えたなら、その時人は我々が住むこのリアルにこだわる理由はVR空間の存続のため、電子基板に電力を供給するためだけの役割になってしまう。VR内なら、時間の流れも物理法則も思うがまま、何より安全で、とても自由だからだ。

だが、それは同時にとても危険なことでもある。ヴァーチャルはそれが存在している限りは完璧な世界かもしれないが、かといってそれはやはりリアルに立脚しているからだ。しかし、そのリアルそのものがこの世界ではもはや人間の実感からは遠いものになってしまっていて、たとえば何らかの事故が起こった時に、人工知能の助けなしにはにっちもさっちもいかない。人工知能は人間に作り出されたものである程度の人間を援護するための指向性を持っているが、人間はそれを「信じ続けられる」のか。

想定の機能を果たすかどうかを判断する際に、その構造が理解できないのであれば、できることはもう「信じる」か「信じないか」という問題になってくる。

あらすじとか

で、この世界はそんなふうにバーチャルの比重が増し、リアルが持つ意味が縮小した世界なのだが、本作の物語はこの世界に幾つも存在している仮想世界のひとつ、アリス・ワールドが突然のシステムダウンに襲われてしまうところから始まる。SAOなら、ここからログアウトできなかった人たちによるデスゲームが始まるところだがそうはならず、そこで過ごしていた人たちは強制ログアウトさせられてしまう。

それだけなら別に現在のオンラインゲームでもよくあることで、復旧を待てばいい話なのだけれども、このバーチャルへの比重が高まっている社会では多くの自殺者が出てしまう。前作から引き続き中心人物のロジとグアトは、アリス・ワールドの管理を司る人工知能、実質的な神との対話者として選ばれ世界へと飛び込んでいくが──という流れで、いくつかの神と現実、仮想をめぐる対話が行われていくことになる。

神との対話

VRが発展していった先に「神」についての問いかけが持ち上がってくるところも本作のおもしろさで、ようはこの世界の人間ってもう世界を駆動しているシステムのことが全然わかってないんだけど、それってもう「自然」とそう変わりないんだよね。

台風が制御出来ないのと同じように、もうこの世界のシステムと人工知能らは溶け合いすぎていて、それがどうにか思い通りの方向にいってもらうためにはもう祈ることしか──となったとき、再度そこには「神」が生まれるのかもしれない。

『神はいつ問われるのか?』と『赤目姫の潮解』と『四季』

VRというのは、森作品──というよりかは真賀田四季が出てくる作品においては重要な位置を占める要素だ。そもそも真賀田四季が最初に試みていたことの一つは生命の長期的な存続であり、同時に肉体などの軛から自由になることであったし、第一作『すべてがFになる』からVR、仮想と現実というのは大きなテーマだった。今作にも、VR空間で『すべてがFになる』を彷彿とさせるシーンがあったりする。

で、この『神はいつ〜』を読んでいると、非常に『四季』や『赤目姫の潮解』を読んだ時の手触りに近いものを感じるんだよね。今自分が存在しているのは〈リアル〉なのか〈ヴァーチャル〉なのか? とい問いかけられ、現実感覚が崩壊していき、現実と虚構が入り混じること。時間の流れが早くなったり遅くなったり、時間の並びがばらばらになって、一様ではないこと。そういった、『四季』や『赤目姫の潮解』に共通する表現が、本作のVR世界を通して部分的に再現されているのだ。

「そうなの。どこまでの話かっていうのが、いつも一番難しくて大切なの。どこまでが認めなくてはいけない現実で、どこからは想像、それとも仮定の話なのか。考えていくうちにわからなくなりませんか?」*1

たとえば下記のような一節が『四季』にはある。

何故、自分は、空間や時間を、現実の並びの中で捉えられないのか。
四季はそれをいつも考える。
自分だけにある傾向だろうか。
明確にシーケンシャルな対象のはずなのに、彼女はそれらをランダムに再構築しているのだった。それも無意識に。気づいたときには、こうだった。けれども、このシステムこそ、今では思考型コンピュータのアーキテクチャに応用され、既に構築知性には基幹のストラクチャとなっているもの。*2

真賀田四季は、自身のそうした特性によって、様々なイメージを渡り歩くかのようにして思考を広く展開させる。本作の引用文に用いられているのがカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』だというのも、ここに繋がってくる。

 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、“そういうものだ”。
(SlaughterhouseFive/KurtVonnegut,Jr.)

死んだものは、この特定の瞬間にそうであるだけであって、他の瞬間には良好な状態にある。これはつまるところ、時系列がトラファマドール星人にとっては意味のない問題である、ということだ。悲劇も喜劇もある時間軸上の一点の解釈に過ぎない。これは『神はいつ〜』の仮想空間上で再現されつつあるものに近いんだよなあ。

今回あらためて『四季』を読み返していたんだけれども、VRと『四季』の時間認識、そして『赤目姫の潮解』の表現と今回の作品がきちんと線上に繋がっていて、やっぱり森さんの表現って恐ろしいほどに一貫している面があるよなあしみじみしてしまった。実際に、仮想が現実を凌駕した世界になったとき、人の世界認識といったものは『赤目姫の潮解』や『四季』で描かれたものに近くなっていくのかもしれない。

空間と時間からの決別。

*1:『赤目姫の潮解』

*2:森博嗣. 四季 冬 Black Winter (講談社文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.379-384). 講談社. Kindle 版.

現実とは何かが不明確になった社会を描く、森博嗣によるSF新シリーズ開幕篇──『それでもデミアンは一人なのか?』

森博嗣によって講談社タイガで刊行されていた、人間の生殖行為による子どもがほとんど生まれなくなった社会を描き出すWシリーズが昨年完結したばかりだが、その事実上の続篇となるシリーズがこの『それでもデミアンは一人なのか?』から始まるWWシリーズである。とはいえ、1作完結路線は本作でも変わらず、基本的な人間関係、用語などは本書でもその都度説明されるので、ここから読み始めてもそう問題ないだろう。前作と合わせて、森作品の中では明確にSFを指向したシリーズだ。

WWシリーズはどこをみているのか

『彼女は一人で歩くのか?』から始まるWシリーズは、人に似せ人工的に作られた有機生命体であるウォーカロンと、人間の差異を決定づける解析方法を構築している研究者ハギリの視点を通して、生と死、人間と非人間、そうした明確に今の我々の社会では区別されている物の、境界のあやふやさを描き出していくような作品だった。

では、続くこのWWシリーズはどうなのかといえば、無論まだ一冊目を読んだだけなのでなんともいえない。いえないが、あえて推測すると、こちらはさらにそのさきに進んだ、イメージが膨らんだ後の話──人間とウォーカロンに差異があるのだとしたら、ウォーカロン、あるいはそれに端を発する人工の生命体がその差を取り込み、飲み込んでいくことは可能なのか? できたとしたら、人と電子上に生まれた生命体であるトランスファ、ウォーカロンの三者は、どのような社会を紡ぎ出していくのだろうか? を描き出していくのではないだろうか。ま、現時点での推測に過ぎないが。

WシリーズとWWシリーズのSFとしての醍醐味

この両シリーズが描き出してく世界のSF的におもしろいポイントのひとつは、現代の数世紀後を舞台にしているが、人間の技術・発展というのが一時的なのか永続的なのかは判明していないとはいえかなりの部分遅滞してしまっているということ。また同時に、人間が自身らの生殖行為によって子どもが産めなくなったこと、また自分たちの寿命を飛躍的に伸ばしたことが合わさって、ウォーカロンや電子上に根を張るトランスファーらにジワジワと数の面でも知能面でも押され始めている、つまりはゆるやかな種族交代の最中にあるという世界の描き方、それ自体がおもしろいのだ。

で、このWWシリーズは前作からそう日が空いているわけではないので、世界の状況がそう大きく変わっているわけではないのだけれども、比較的大きな変化のひとつは電子空間での動向を可視化するようなシステムが発展したことが挙げられる。たとえば、Wシリーズは基本的には現実をベースに展開してきた物語だったが、本作ではVR空間でのやりとりが増えている。現実が、人間が、より電子的な存在に近づいているように、作中の質感、空気感みたいなものが大きく変わってきているようだ。

 現代の現実は、限りなく電子の露に覆われ、白っぽく霞んでいるように見える。現実が見えにくくなっているのではなく、現実とは何かが不明確になっていて、今この目で見えているもの、自分の手で触れているもの、そしてここで生きている自分の肉体が、まるでただの作り物の人形で、自分の存在とは別のオブジェクトである、と感じさせる麻酔的効果を漂わせたバックグラウンドが、それ自体も漠然と存在しているのだ。

人間はバーチャルな世界に溶け込み、出産も行えず(ただし、問題は特定した)種族として後退しつつあるとはいえ、「人間性」の後退はまた別の話だ。人間ではないもの、人間が作ったものが人間以上に人間らしくなり、「新しい人間」として生きる世の中が訪れつつある。そこで行われているのは人間性の刷新、人間概念の混交であって、決して後退というべきものではないのかもしれない──と、そのようにつらつらと人間概念について考え込んでしまうようなあシリーズなのである。以下あらすじ。

あらすじ的な

前作読者からするとハギリは? ウグイは!? 主人公続投なの? というのが気になるところだろうが、それは読んでのお楽しみとしておこう。物語冒頭、楽器職人としてドイツで暮らすグアトという名の男性のもとへ、極秘に開発されたプロトタイプであるという戦闘用ウォーカロンのデミアンが訪れ、彼に「エジプトで、ロイディという名のロボットを輸送しましたね?」と問いかける。デミアンは金髪で青い目で、とコテコテの見た目をしているがそれだけでなく武器としてはカタナを持っている!

一悶着あったあとなぜか同タイミングでグアトの住居を襲った謎の三人を斬り捨てて逃げ去るデミアンだが、無論わけが分からぬことばかり。ロイディとは何なのか? 何のために探しているのか? なぜグアトがロイディに関与していたことを知っているのか? また、デミアンは普通のタイプのウォーカロンではなかったが、彼はなんなのか? と疑問が噴出するが、グアトと彼の妻であるロジがその事件の調査をする過程で、ロイディとデミアンの関係性、またその事実がもたらす「あらたな人間/ウォーカロン/トランスファ」のかたち、が明らかになっていくことになる。そうした議論がただのSF、哲学的議論で終わるのではなく、作中で発生するある大きな謎へのミステリィ的な解決になっている点も、このシリーズらしく素晴らしい点だ。

百年シリーズとの関わり

「ロイディ」という名前が出てきたことに、『女王の百年密室』から始まる百年シリーズ読者は驚いたかもしれない。というのも、このシリーズは明確に百年シリーズと同一の世界観を有しており、(百年シリーズで主役を張った)ミチルやロイディのその後がどうなったのかもはっきりと示されているのだ。そして、本作の英題「Still Does Demian Have Only One Brain?」を読んだら、ロイディが持っていたメカニカルな特性が本作のコア部分に密接に関わっていることもわかるかもしれない。

正直、百年シリーズから語られてきたひとつの設定が、ここでこうして見事に接続され花が開くとは、とゾクゾクする部分があった。実質的には百年シリーズの続篇ともいえる本作なので、かつて好きだった人たちも、ここから読み始めてもいいのではなかろうか。無論、SFとしてここから読みはじめてもOKだ。
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「思い通りにいかないこと」を前提として考える──『悲観する力』

悲観する力 (幻冬舎新書)

悲観する力 (幻冬舎新書)

「悲観」についての本である。著者は作家の森博嗣氏。この書名を見た時、「ああ、これは(森氏が書くのに)ぴったりだなあ」と思ったが、それは氏がいつも不測の事態に備えて締切の半年前には原稿を上げるような人で、もう何年も前から「自分がいつか死ぬし、それは近日中の可能性もある」ということを常に意識し、書かれてきた「悲観的な」人であるからだ。実際、これだけ悲観的な人はなかなかいないだろう。

世間一般的に重要だと思われているのは、悲観よりかは楽観の方だと思う。未来は明るく、自分の前途には素晴らしい世界が待ち受けている、自分が今からやろうとしていることはきっとうまくいくだろうと完全に楽観的に考え、行動することができればそれは素晴らしいことなのかもしれない。受験生の前で「落ちる」とかの言葉を口にするなどアホくさいことを未だに言う人もいるが、そうした考えも「悲観するな、楽観せよ」という価値観からくるものだろう。だが、それで常にうまくいくとは限らないし、結局のところ準備が不足しているのだから、実際のその時が近づくにつれて、「期待」「祈り」をすることになり、完全に不安を払拭できるわけではない。

『けれども、この逆に、あらゆるトラブルを想定し、悪い事態にならないよう考えうるかぎりの手を打つ、という姿勢が、成功には不可欠である。』というのが、本書でいうところの「悲観」の力である。受験生の前で「落ちる」ということで、受験生がナイーブになって実際に力が発揮できない──ということが決してないとは言わないが、そもそもそんなくだらないことで左右されないぐらいに最初から「悲観して」、勉強をしていればいいだけの話である。受験当日にインフルエンザにかかったり、雪で受験会場に行けなかったり、虫歯が痛かったりといったアクシデントもあるかもしれない。しかし、そのほとんどはあらかじめ予測──、「悲観」できることだ。

インフルは感染して引くのだから、そもそも外に出ない、人に会わない。交通状況を見越して、歩いてでも間に合う時間に家を出る。歩いてで行けない場所なら、前日から乗り込む。虫歯が痛くて集中できなかったなんてことにならないように、受験の半年前から歯医者にいっておけばいい。適切な「悲観」が出来る人は将来的な危機に対して事前に手を打てるのであって、「まあ、大丈夫だろう」と楽観している人よりもはるかに安全側にいる。「楽観」とは「考えない」ことだといえるだろう。

将来こんなことがあるかもしれないが、大丈夫だろう。負けるかもしれないし失敗するかもしれないが、まあ大丈夫だろう、と「楽観」してしまえば、特に事前に考えておいたり、手を打ったりする必要もないから、楽である。実際、杞憂に終わることの方が多いだろう。逆に、「悲観」するというのはコストがかかることだ。「楽観」しているときよりも多く勉強をしたり、準備をしたり、考えたりする必要がある。

だが、その見返りは大きい。たとえば、締切当日に作業を終える日程を組んでいるとする。風邪を引かず、突発的な葬式などが入らなければ終わるだろうし、実際ほとんどそんなことは起こらない。だが、いつかその時はくる。インフルにかかる時もあるし、事故にあって作業ができなくなるかもしれない。そういう時に、森氏のように半年前までに原稿を上げるようにしていれば、かなりの部分対処できるし、周りでインフルが流行っている、うつされたらどうしよう、と心配する必要もない。

プログラマは悲観する

僕は本職がプログラマということもあるだろうが、もともと悲観的な考え方をするほうだと思う(先に書いたような締切の話はまさに自分自身の今の状態・不安を表しているから、ぜんぜん完全じゃないんだけど……)。楽観していてはなかなかプログラミングで仕事をすることはできない。システムの設計時には、対象となる操作者がどんな操作をするか、複雑に絡み合ったプログラムがどのようなバグを起こし得るかを「悲観」して、通常ありえないようなケースまで想定し準備しなければならない。

そもそも、人間が操作をすると必ずミスをするという「悲観的な」前提から、できるかぎり作業を自動化しようとする。無論、そこで無限のリソースがあるわけではないから、そのへんは有限のリソースを「悲観」と「楽観」にどのように振り分けるのかというバランス調整的な要素が入ってくるわけだが、それは現実でも同じだろう。たとえば道端を歩いていたら隕石にあたって死ぬ可能性があるわけだが、だからといって常に核シェルターの中に引きこもっていられるかといえばそうではない。我々は悲観と楽観の間で揺れ動いているが、そのバランスをどこで取るかは人によって異なっている。本書を読んだ人はそのバランスが少しばかり「悲観」側に傾くことだろう。

悲観するとは考え続けること

悲観するというのは結局、様々なケース「推測」し、それに対する対策を「考え続ける」ということで、面倒臭くしんどいのは確かだが、それこそが人間の特別な能力の一つなのだから、活かすにこしたことはないだろう。この記事では悲観のメリットについて書いているが、本書ではなぜ楽観主義がこれだけ日本で蔓延しているのか、悲観とはどのようなプロセスを経て行われるものなのか、楽観の危険性、悲観的に問題を洗い出した後の「冷静」についての話などなど、幅広く私論を展開していく。

ちなみに、森氏は別に楽観は完全なる悪だと言っているわけではない。当たり前だが、すべてのケースに手をうつことはできないわけで、悲観をして問題点を出し切った後に、もうこれ以上はどうしようもないというところから先は「楽観」するという「悲観的楽観主義」とでもいうべき姿勢が語られている。

人間に子供が産まれなくなった未来を描き出す、森博嗣によるSFシリーズ、ついに完結!──Wシリーズ

森博嗣による、人間による子供がほとんど生まれなくなり、人工知能などの電子知性が人間を遥かに上回る能力を発揮しはじめたばかりの状況を研究者の視点で描き出すWシリーズが先日出た第十作目『人間のように泣いたのか?』でついに完結。

この記事では完結ということでざっくりシリーズへの総評的なものをして置こうと思うが、まずなにをおいても素晴らしいSF作品であったというところは最初に書いておきたいところだ。特に、高度な人工知能、ロボットが当たり前に存在し、人々の寿命が飛躍的に世界はどのような社会をとるのか──意思決定、政治の在り方・戦争、研究手法などなど──といった描写は、10作ものシリーズ物であるから世界各地の細かい部分まで含めて描かれ、議論されており素晴らしいポイントの一つ。

研究者を主人公に据え、理屈を通して未来社会を描き出していくやり方についてもスマートであり、これまでのシリーズ読者向けの世界観の繋がりなど、要所要所で幾つもの驚きが用意されていて、シリーズ通読者向け/これから読む人へのファン・サービスもたっぷり。一言でいえば、とにかくすべてが楽しいシリーズだった。

世界観とか

舞台となっている時代は現代より数世紀あと。人間は細胞を入れ替えることによって寿命を飛躍的に伸ばしており、シリーズ読者には耳覚えがあるであろう「ウォーカロン」と呼ばれる、人工的に作られ、人間と見分けのつかない有機生命体が数多く存在している。なぜか人間が子供を産めなくなったことによって、相対的なウォーカロンの数は増えつつあり、人間自身も自分たちの身体をメカニカルなもの、人工的なものに置き換えつつあるこの世界は、人間と非人間、生と死の境界が揺らぎ続けている。

シリーズ第一作の『彼女は一人で歩くのか?』では、そんな世界にあって、識別し難いウォーカロンと人間を高い精度で判別できる解析方法を構築しつつある研究者ハギリの視点を通して、この世界の状況が断片的に描かれていく。彼の研究はウォーカロンと人間を区別する。それはすなわち「人間とはなにか、その特異性とは」を明らかにするものだが、彼の研究を嫌がる勢力もあり、その生命を狙われることになる。

ゆるやかな世代交代を描き出していく

ハギリは自身の研究者としての仕事や、あるいは政府機関の要請によってウォーカロンと人間に関わる場所へ世界中とんでいって、それが物語の起点となるわけだけれども、その過程で多くの人工知能や電子知性がこの世界に存在することを目にする(あるいは、ハギリ自身がそれらを目覚めさせ、社会と結びつける)ことになる。

各巻には明確にテーマや問いかけ、たとえばウォーカロンから生まれた固体は、人間なのかウォーカロンなのか? であったり、人間を遥かに超越した演算能力を持った超高度AIの裏を書くにはどうしたらいいのか? がある。かなり細かく入り組んだテーマや議論が設定されていることもあるが、これについては、まだ人間はその支配的な立場をウォーカロンにも人工知能にも明け渡していないが、これから先はおそらくはそうではないだろう、次第に世界の支配権は人間ではない別種の知性へと(それが人工知能なのか、人間やウォーカロンが自身を改変した結果としての知性なのか、それらが融合したものなのか)明け渡されていくだろうという見通しがみえる、ゆるやかな世代交代の渦中の時代設定だからこその細かく複雑なテーマ設定でもある。

たとえば、シリーズが進むにつれて超高度なAIが世界に幾体も存在することがわかってくるのだが、それら超高度AIは所属勢力が明確にわかれており、”超高度AI同士の情報交換を認めるか否か”といった議論も必要になってくる。超高度AI同士は人間を遥かに超える知能を持っているので、そのやりとりを監視するのは不可能だ(データ量的にも)。チェック・アルゴリズムの構築も考えられるが、超高度AIによる偽装を見破るのは不可能だろう。だから議論は「彼らを信頼するのか、しないのか」という前世代のようなやりとりにまで戻ってしまうことも考えられる。

仮にAIからの提案をしりぞけて、それを受けて別の行動をとろうとしても、そうした反発の行動さえも予想され、気づかないうちにコントロールされている可能性があり──と考え始めるときりがない部分でもある。

はるかに超越した知性が跋扈する世界で

SFとして僕が最も興奮したのはこの人工知能周りの話で、ようは幾数体ものAIが考え、人間にはなんの予測もつかないほど先のことをシミュレートし、未来の危機に対して手を打ってくる場合、思考の遅い人間からすると「なぜか突然意味不明なことが起こった」みたいなカオスとしかいいようがない状況に陥ることがあるんだよね。

それがよく現れているのが完結巻『人間のように泣いたのか?』で、作中で起こっている事件の多くが読者と、登場人物の人間たちにはわからない。カオスな状況にみえる。でも、そこには未来を見据えた人工知能たちの思考が渦巻いている。わけのわからないことが起こっていることはわかるが、自分たちにはなぜそうなっているのか理屈がみえないので、ひたすらこうではないかと推論を重ねて行動するしかないのだ。

 人間には予想ができないほど先の未来を計算し、とても評価ができないほど複雑な要因を理由としてまとめ上げることが、人工知能ならば可能なのだ。演算結果の可能性を、彼らは確率で判断するだろう。危険なものを避け、不確定なものを遠ざけ、安心で安全な選択をする。それがときどき、人間には異様な行為、突拍子もない愚行に見えるかもしれない。

そうした状況下で人間は何をすればいいのか。ゆだねて、状況に流されていくのも一興だろう。あるいは、人工知能たちが確率を出しさえしないような突拍子もない行動を”発想”するなど、裏をかいたっていい。人工知能はいつでも人間(自分と)協調行動をとってくれるわけではないのだから。そして、それについて考えるのは「人間とはなんなのか」について考えることもであるし、同時にウォーカロン、人工知能の思考方法について考えることでもある。人工知能の演算結果は正しいようにみえるが、時にはそれが間違ったデータに基づいて間違った結論を出すこともあるのだから。

人間とは異なる思考法をする知性の在り方を推論し、なぜ彼らはこのような行動に出たのかをひたすら考えていくことには、ある種ミステリ的なおもしろさもある。

他シリーズとの関連について

さて、他シリーズとの関連として一番強いのはやはり『女王の百年密室』、『迷宮百年の睡魔』、『赤目姫の潮解』からなる〈百年シリーズ〉だろう。Wシリーズよりはだいぶ前の時代で、ウォーカロンの存在や一部登場人物が共通しており、ストーリーに絡んでくる。もちろん、それらは読んでないと楽しめないというものではない。どちらが先かはともかくとして、両方読むとおおなるほどと繋がりがみえてくる。

おわりに

人間とはなんなのか。それを問い続けたシリーズであったから、最終巻の情緒的なラストには思わずぐっときてしまった。いやあ、綺麗に、スマートに終わったものである。シリーズ全体を見渡してみても、ミステリ的な巻あり、戦闘が盛り上がる巻あり、世界中に飛び回り、ドラマチックな巻あり──で全部のせみたいな豪華さがある。森さんの全作品を読んでいるが、その中でも特別なシリーズになった。

十巻まとめ

Wシリーズ 全10冊合本版 (講談社タイガ)

Wシリーズ 全10冊合本版 (講談社タイガ)

  • 作者:森博嗣
  • 発売日: 2018/10/24
  • メディア: Kindle版

シリーズ第九作(前作)

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なぜ、宇宙を目指したのか?──『天空の矢はどこへ? Where is the Sky Arrow?』

細胞を入れ替えることによって人間が寿命による死を乗り越え、人間とは容易に見分けのつかないウォーカロンと呼ばれる存在が社会でその数を増しつつある未来を舞台にした森博嗣さんのWシリーズ最新刊にして9作目。いったん次が区切りのようだ。

毎度毎度おもしろくてしょうがないが、今回はお互いの陣地としてのネットワーク領域を拡張しつつのトランスファvsトランスファ(か、もしくはそれに類する何か)の特殊戦略/戦闘や、視線の動きに反応して動作するモニタのニュース・ウィンドウ、小型ドローンの運用、そしてついに舞台が宇宙へ──といった感じでガジェット的にもシチュエーション的にもたいへん楽しませてもらった。ついに宇宙ですよ! 

情報戦のおもしろさ

いったん成層圏外に飛び出て目的地まで飛行していくタイプの旅客機が突如として行方不明になったニュースから物語は始まり、その後いつものようにハギリ博士が日々を過ごしていると、国内のウォーカロン・メーカであるイシカワで起こったテロにアドバイザー的な現地参戦を求められることになる。武器を持った集団に工場と研究所が占拠され、大勢が人質になっているようだが、どのような手段で実行され、どのような目的でなされたのか。中で今何が起こっているのか、一切が不明である。

ここの情報戦がもう素晴らしいの一言。ウォーカロン・メーカはセキュリティのためにもネットワークが完全に遮断されており、情報局の秘密兵器的なトランスファであるデボラであっても内部の状況は伺いしれない。スーパ・コンピュータであっても確かなことなど何も言えない。状況を確かめ何らかの手をうつためにもまずは情報をいかに集めるのか──で話が展開する。30体のロボット部隊や超小型のセンサを突入させるが一切帰還せず、何らかの武装勢力が内部に潜んでいることが示唆される。

中に何がいるかわからない以上、向こうにもデボラと同じような電子空間上に存在する知能生命体であるトランスファが存在することを想定しなければならない。そうなってくると、対抗するためにもトランスファと一緒に突入しなければならないが、自軍トランスファ用のケーブルを守りながら進行する場合、向こうもその重要性は承知の上だから優先的にケーブルを狙ってくるだろうし、無線でやれば通信機が狙われるだろう──とお互いの予測を予測したうえで膠着していく状態をどう動かしていくのか、といった思考戦闘のおもしろさがある(この巻だけではなく、シリーズ通して)。

ケーブルを引いて有線で進行したり、ロボットのように見える重武装の大型ウォーカロンを用いたり、失敗を重ねつつも最終的にはハギリの言い分が通り、ホーネットと呼ばれる小型のドローンなどを用いて、内部へとネット(&デボラ)を引き込む作戦が実施されることになる。このへんはもう、未来世代のテロ制圧戦って感じで、そのテクニカルな描写の数々にぎゅんぎゅんくるポイントだ。まったく素晴らしい。

宇宙へ

さて、物語の後半はいよいよ行方不明になっていた旅客機の謎も明らかとなり、舞台が地上から宇宙へと切り替わっていくわけだが、この記事でそこまで触れるのはやめておこう。なぜ、彼女は宇宙を目指したのだろうか? ウォーカロンと人間、人間と人工知能、それぞれに差異があるという仮説&それを測定するハギリによってもたらされた技術によって始まったこのシリーズだが、物語が終わりを迎えようとしている今、その差異は少なく、あるいは無になろうとしている。そういった観点からも非常に印象的/象徴的なシーンが多く、また「その先へ」の発想も披露され、最終作である次作も、その次に語られるであろう物語も、ますます楽しみになるばかりだ。

シリーズの総括を書くのが今から楽しみだなあ。

シリーズ第1作

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シリーズ第8作目(前巻)

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本は自分で選ぶべし──『読書の価値』

読書の価値 (NHK出版新書 547)

読書の価値 (NHK出版新書 547)

森博嗣さんによる読書についてのテーマ・エッセイ本である。これまでも森博嗣さんはエッセイや日記の中でも繰り返し、あるいは断片的に読書について語っており、その中身は本書の中でもまったくブレていない。正直いって、森博嗣さんにより読書について語られた本について紹介する・記事を書くのは非常に気まずいものがある。

何しろその基本姿勢は「とにかく、本は自分で選べ。」というところに尽きるのである。人から聞いたとか、誰かがすすめていたからとか、流されて読むのではなく、読む本は自分で判断するべきなのだと。なぜなら、人のいうなりになって本を読んでいたら、それはもう「あなたの読書」ではなく命令に従う機械にとっての読書であり、感想文提出を求められる学校の宿題としての読書に近くなってしまうだろうから

ところが、僕なんかは自分が読んだ本について日々書いていくブログをやっているわけであって、もうその時点で非常に気まずいのである。「本は自分で選ぶべし」と言いながらその紹介記事を上げるのは、完全に矛盾している──とはいえ、実は僕自身はあまり人のオススメや書評なんかは参考にしないのに加え、実は紹介した本を多くの人に読んでもらいたいわけでもない人間なので、森博嗣さんの考えには全面的に賛成ではある。なので、ここからはじめる『読書の価値』についての紹介を読んでしまった人は、もう本を買って読まないほうがいいだろう笑 ま、ご随意にどうぞ。

ざっくりと紹介する

さて、というわけで本当にざっくりと紹介していこう。第一章は「僕の読書生活」と題してうまく文章が読めなかった自身の幼少時代、まだどのようにして推理小説を読み始め、萩尾望都作品と出会ったのか──といった読書と森博嗣のこれまでの経歴が。第二章では「自由な読書、ほんの選び方」として、先に書いたようにな「とにかく、本は自分で選べ」やつまらない本の読み方についてがより詳細に語られてゆく。

第三章「文字を読む生活」、第四章「インプットとアウトプット」では、森博嗣さん自身の生活や実体験を振り返りながら、文字を書くこと、文章力についていくつかの観点から述べていき、第五章「読書の未来」では今後の出版界についての見通しが語られ、締めとなる。20年ぐらい前から森博嗣さんが書いていた日記シリーズ(『すべてがEになる―I Say Essay Everyday』)で書かれていたような出版界の未来の推測はほぼ当たっており、当たったことよりも「なるほどそれはそうなるだろうな」としか思えない明快な理屈がすでに書かれていたことが凄いなと思っている。たぶん、また5年ぐらいしたら「やっぱりあの理屈は正しかったな」と思うことだろう。

読書の価値

さて、本の紹介はこれぐらいにして(大してしてないが)、「読書の価値」について自分なりに書いてみよう。僕が読書に見いだしている価値を一つあげれば「面倒くさくなく、広いこと」に尽きる。何しろ一歩も動かずに手をぺら、っと動かしただけで頭のなかに情報が流れ込んでくるのだ。これは、面倒くさがりな人間にはたまらない。

僕は非常に面倒くさがりで、基本的に移動するということが大嫌いだからほとんど外に出ないし、人ともほとんど合わない。今日は月が綺麗だ、と話題になっていても、それを見るために外に出て上を見上げるのは面倒だ。そうやって移動して何かを見るぐらいなら、家にいて本でも読んで月蝕や月の仕組みを知ったほうが面倒もなく楽しい──と、極端な例を出せば、日頃からこんなことばかり考えているので、外にも出ずに本ばかり読んで(あとゲームをして)暮らしている。仕事もプログラマだから、家から出る必要も身体を動かす必要もない。本には恐ろしくいろんなことが書かれていて、しかも出続けているから、そんな人間であっても、本を読めば自分の世界が広がっていく。たとえ知識だけのものであっても、それは確かに世界の拡張である。

それ以外の価値──、たとえば発想が豊かになる、ということはあるのだろうか? といえば、そりゃあないことはないだろうと思う。ただ僕は幼少期からずっと読んでおり、自分が読んだ状態と読んでいない状態を区別して比較できないので、ないことはないと思うが、あるとはっきりとはいえないように思う。一つ確かなこととして言えるのは、たくさん読んでいると、頭の中は非常に幸せだ。考えることや好奇心の原料がいっぱいあるから暇になるということがまるでないし、常に目の前に興味のあること、調べたいこと、もっとよく知りたいことが山のように積まれている。

また、物語たちは僕の中にしっかりとした居場所を築き上げており、彼らはゼロサムで場所を奪い合ったりしないので、「自分の中の世界の魅力的な物語・登場人物」がどんどん増えていく。そうすると、特に何もすることがなく町を歩き回っている時に、昔読んだ物語の一端、登場人物たちが沸き起こってきて、突然涙がボロボロ流れてきたりする。もちろん、優れた物語というのは、読んでいる時のこちらを底抜けに幸せな気分にさせてくれるのだから、みなそれだけで素晴らしいものだ。

一方で、本(特にノンフィクション)を読んでいて残念なのは、そこは「最先端」ではないというところだ。本は、最先端を走る人間が一休みした時にしか書かれることはない。論文なら最先端に近いだろうが、それもやはり近いだけであって最先端ではない。つまり、本(ノンフィクション)を読んでいる時の僕は、常に世界の最先端から何歩も遅れているということになる。最先端から遅れた場所から、憧れを持ってその先を眺め続けるしかない。そこがただ本を読むことの限界だ。それは少し悲しいが、本ばかり読んでいるので、無数の方面に遊びにいけるというのは単純な良さだろう。

おわりに

と、何しろ日頃本ばかり読んでいる人間なのでその価値についてならばだらだらと書き続けられるのだが、こんなところでやめておこう。正直、『読書の価値』について書きたかったというよりかは、自分なりに、自分の思うところの「読書の価値」について書いておきたかった、というのがわざわざこの記事を書いている動機としては大きい。そうやって自分なりに発想を展開させられるのも、読書の価値であろう。