基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

高野秀行の新たなる代表作といえる、イラクのカオスな湿地帯を舟を造るために奔走する傑作ノンフィクション──『イラク水滸伝』

この『イラク水滸伝』は、『独立国家ソマリランド』などで知られるノンフィクション作家・高野秀行の最新作だ。間にコロナ禍を挟んだこともあって取材・執筆に6年がかかったという大作で、事前の期待は大。家に届いた瞬間からいてもたってもいられずに読み始めたが、おもしろすぎて当日中に最後まで読み切ってしまった。

今回のテーマはイラクとイランの国境近くにある「湿地帯」。ティグリス川とユーフラテス川の合流点付近には、最大時には日本の四国を上回るほどの大きさの湿地帯が存在し、そこには30〜40万人の水の民が暮らしているという。そこで暮らしているのは、アラビア語を話すアラブ人ながらも、生活スタイルや文化が陸上の民とはまるで異なる人々であるという。しかも、道路もなく隠れやすいので、戦争に負けた者や迫害されたマイノリティが逃げ込む場所で──と、それはまるで「水滸伝」の梁山泊じゃないか! といって本書では一貫して湿地帯=梁山泊として話が進行していく。

amazonページより引用(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292

日本のほとんど誰も行ったことがない場所に自分なりのテーマを持って挑みかかり、現地の人との人脈作りや、新たなテーマの発掘をその場のライブ感でこなしていく。道中数々のピンチに襲われながらも、現地で募った個性豊かな協力者たちや持ち前の機転と運と根性で乗り越えていく──と、それが高野秀行冒険ノンフィクションに求めているものなわけだが、本作はしょっぱなから「うお〜これこれ〜こういうのが読みたいんだよ〜」と、期待通りのものを読ませてもらった満足感に満ちている。

高野さんも50代なかばを超え、体力的に昔と同じようなやり方ではやっていられないだろうが、デビュー作の『幻獣ムベンベを追え』(改題後)の時のような冒険心を未だに感じられたのも嬉しかった。そのうえ今は数々の経験を経てきているので、要所で「この文化は◯◯と共通している/反している」など、比較文化論のような視点まで獲得している。ページ数は460ページ超えと分厚いが、写真も多くページあたりの文字数はそう多くないので、サクッと読めるだろう。たいへんおすすめな一冊だ。

冒険の目的

高野さんの冒険系ノンフィクションが好きな理由・箇所はいくつもあるが、ひとつは「手さぐり感」にある。一体何をどうしたらいいのかわからない五里霧中の状態から始まって、少しずつ協力者やルートを確保し、前に進んでいく。今回で言えば、イラクの湿地帯に行きたいです! といってもすぐに行けるわけではない。アラビア語もわからなかったらいざという時に地元の人とコミュニケーションもとれない。

最初にアラビア語のイラク方言の勉強からはじめ、そのためにイラク人を探し、文化や伝統、言語を教えてもらい──とひとつひとつ進めていく。そうした人々によると、どうやら湿地帯の人々は湿地の外に住む人々からすると評判が悪いらしい。すぐに物を盗むとか、水牛をとりあって争いばかりしているとか、教育水準が低いとか、悪い噂ばかりを教えられる。湿地帯なので道もなければでかい村のようなものもなく、点々とした人々にどうアプローチするべきなのか? と悩みは尽きない。

もう一つ冒険系ノンフィクションで欠かせないのは、「目標」だ。わかりやすく、同時に達成困難な目標があってこそ冒険は輝く。今回は、湿地帯の動画を見ていた時に映っていた舟に着想を得て、これを旅の目標のひとつにしようと決意している。湿地帯では舟は必需品。田舎で軽トラがパスポート(軽トラに乗っていればどこにいっても警戒されない)であるように、現地住民に舟で親近感をわかせようというのだ。

 そうだ、湿地帯で舟大工を探して、舟を造ってもらえばいいんだ! 地元の舟大工、とくに「名人」と呼ばれるような人の造った舟に乗っていたら、誰もが一目置いてくれるだろう。それに舟大工なら多くの氏族と取引があり、湿地帯で最も顔のきく人にちがいない。

完全に机上の空論なのだが、こうやって仮説を立て、実行し、間違っている(あっていることもあるが)のを確認するのも未知の領域への旅・目標設定の楽しさだ。そして旅がはじまるのである。

湿地帯の人々の生活

道中のおもしろかったエピソードのひとつに、高野さんとその同行者の山田高司(隊長と仲間から呼ばれる探検家・冒険家)さんが、イラクではバクダード市内でも地方でいく街道沿いでもチェックポイントで金を要求されたことがないので、「アフリカより(秩序だっていて)良いね」といったら、「アフリカと比べないでくれ。アメリカや日本と比べてくれ」と声を荒らげて言い返されたというのがある。

 返す言葉もなかった。
 日本で見聞きするイラクのニュースはよくないことばかりだ。実際に現地へ行ってみれば決してそんなことはないだろうと私は自分の経験から確信していたものの、それでもイラクを「なめていた」のは否めない。

イラク現地の人の感覚・感情が伝わってくる良いエピソードなのだけど、それとは違う意味で、湿地帯の人々の生活は日本的な感覚からはかけ離れている。たとえば湿地帯といっても家は地面の上に立ってるんでしょ? と思うかもしれないし、実際川の周辺に住んでいる人もいるのだが、かなりの人が川中の葦をなぎ倒して家を造っている。浮島と呼ばれる居住地は葦で作られ、場合によっては粘土で補強される。

amazonページより引用(https://www.amazon.co.jp/dp/4163917292

船着き場から上陸すると、下も上も、どこを見ても葦の世界。積み重ねられた葦の上を歩き、葦の家と葦の水牛小屋の間をすり抜ける。すべて葦簀でできた庭付き一戸建てを想像してもらってもいい。

水上の小さな葦の家なので、当然電気もガスも水道も来ていない。目と鼻の先にある陸地の街にはすべてあるのに。便所もないので敷地の端っこでする。まるで古代メソポタミアの生活か、古代メソポタミアのほうがまだ文明的かもしれない。現代の湿地帯の住民はなぜか識字率すらも低く、古代の時代の方が文明が進歩している「逆タイムマシン」状態なのだ。そのせいで、本書では滞在しているうちに徐々に時間感覚がおかしくなっていく様子が描き出されている。『イラクの水滸伝エリアでは時間の流れがおかしい。というより、時間とは一体何なのだろう。』

小ネタ

小ネタは相変わらずどれもおもしろい。クライスラーのセダン(車)がイラクで「オバマ」と呼ばれていて、エンジントラブルを起こすと「こいつはオバマじゃないどころかトランプだ」と悪態をつくとか、湿地帯で取材中に似顔絵を描いていると、16、7歳ぐらいの年頃の娘が本来禁忌の(親族以外への)顔見せをしたせいで主と険悪な空気になり、襲われないために、「電気漁で魚だけでなく漁師も感電して痺れる」という一人コントをして命がけで場を和ませたり、愉快なエピソードだらけだ。

おわりに

湿地帯で作られている謎の紋様の布の話など、ここでは紹介しきれないほどたくさんの探検要素があるので、はたして高野一行は舟を造って湿地帯での旅が完遂できるのか!? のオチも含めて、興味がある人は読んでもらいたい。年間ベスト級の一冊である。年によって水量が異なるので、ある年は一面乾燥地帯だった場所が翌年は湖になっている。湿地帯は常に移り変わる、摩訶不思議で魅力的な場所なのだ。

『ダリフラ』に影響を受けて書かれた、やりたい放題の中国風ロボットSF──『鋼鉄紅女』

この『鋼鉄紅女』は中国出身で幼少期にカナダに移住した作家・ユーチューバーのシーラン・ジェイ・ジャオのデビュー長篇である(21年刊)。タイトルにも入れたが、TRIGGER&A-1制作によるロボットアニメ『ダーリン・イン・ザ・フランキス』に影響を受けた(謝辞にかかれている)、中華風のロボットSF・ファンタジーだ。

『ダーリン・イン・ザ・フランキス』の制作者たちへ。この本の男女二人乗り操縦システムの発想のもとであり、巨大ロボットを文学装置として青春とジェンダーとセクシュアリティを描くというアイディアのきっかけになった。*1

ロボットは九尾の狐や朱雀、白虎、玄武などの中国神話からモチーフがとられており、最初は動物形態だが次第に直立二足歩行形態、英雄形態に変化していくなど、”変形”パートもばっちりあって、ロボットSF好きはもちろん満足できる作品だ。そして、着想元が『ダリフラ』だし、日本のロボットアニメの強い影響下にある作品なわけだけれども、読んでみればそれだけで終わらない作品であることがすぐにわかる。

トンチキなものから真面目なものまで過剰なまでの設定、描写に溢れながら、同時に「女は男に付き従うべきだ」などの古代からある男性上位の価値観をはじめとした「伝統、ルール」を「ふざけるんじゃねえ!」と全部ぶち壊していく、革新性、爽快さに溢れた物語であり、特に物語の終盤の怒涛の展開には唖然とすることをうけあいだ。伝統、革新を破壊していくという点においては、先行するロボットアニメ的には『クロスアンジュ』とか『天元突破グレンラガン』っぽさもあるといえるか。

まずは大まかな世界観を紹介する

物語の舞台は、中華風の未来である。この世界は渾沌(フンドゥン)と呼ばれる地球外生命体に襲われて、人類文明は一度壊滅しかかっている。だが、人類はその渾沌の死骸から人類側の兵器となる巨大ロボット・霊蛹機(れいようき)を作り出していて、今は各地で渾沌との小競り合いや領土の奪還作戦を繰り広げている最中だ。

この世界では人の持つ内なる気が霊蛹機を動かすエネルギー源になっていて、気の量が多ければ多いほど(霊圧と表現される)より強力な存在であるとされる。霊蛹機を操縦するのは基本的に男女一組のパイロットであるが(男女二人乗りの機体はダリフラっぽい箇所だろう。男女二人乗りアニメ自体はいっぱいあるけど)、この二人は対等な存在とはいえない。霊圧の低い女子パイロット側は激戦の中で死亡することが多く、女子パイロットにはエリートである男性パイロットに何人もあてがわれる妾女が使い捨てとして用いられる──つまり、この世界は絶対的に男上位の世界なのだ。

設定的に奇妙なのが、そうした徹底的な男性上位社会であったり、足を布で巻いて小さくする纏足の慣習だったり、袍や襦裙といった古代の漢服を着ていたり、舞台・文化・社会はかつて・古代の中国として描かれている一方、カメラドローンが飛び回ることで渾沌と霊蛹機の戦闘は市民にリアルタイム配信され、タブレットが普及していたりと、現代的な要素も併せ持っている点だ。正直これはちぐはぐで違和感が最初はあったのだけど、読み進めていくうちにたいしてきにならなくなってくる(作中でこの配信設定がうまい・おもしろい使われ方をしていくのも大きいけど)

次はあらすじをざっと紹介する

さて、そんな世界において主人公になるのが、父親に妾女パイロットとして売り払われた武則天(ウー・ゾーティエン。現実の中国では中国史上唯一の女帝の名。本作の登場人物の名前は司馬懿や諸葛孔明など、中国史上の人物から基本とられている)である。彼女の姉もやはり売られていったのだが、何らかの理由で死亡している。

武則天は姉の死の真相を追求し、仇を取る──姉を殺した男性パイロット(楊広(ヤン・グアン))──を自分の手で殺害するために妾女パイロットになる覚悟を決めている。『「あの男子の美しく官能的な妾になる。そして、ことがすんだら──」刀の鞘を払うように簪を引くと、鋭利な切っ先が現れる。「──寝首を掻く」』

完全な家父長制の男性上位社会なので、妾女パイロットの扱いは道具同然だ。処女検査があり、着付け、肌の手入れなども行われ、広報用の写真をとった後は広く市民に公開され容姿を品評される。そうした様々な検査を受けた後彼女はついに妾女パイロットとして採用され、憎い姉の仇である楊広に「おまえはありきたりの女子とはちがう。」と少女マンガみたいな口説かれ方をしてベッドにいくのだが──そのタイミングで都合よく渾沌が襲来し、二人は即座に霊蛹機へと乗り込むことになる。

霊蛹機の仕組み

この霊蛹機周りの仕組みの設定も凝っていておもしろい。この世界の人間は気・霊圧があってそれが強さの指標であると書いたが、気には陰と陽、木、火、土、金、水からなる五行の属性がある。たとえば楊広が体内に充実させるのは均衡と安定をもたらす土属性で、これを霊鎧に送り込めばどんな形状も容易に作れる。

そんな彼が乗り込む九尾狐の元になったのは木属性だが、これは樹木があらゆる土地で豊かに茂るような活発さと伝導性を持つことを意味し──と、陰陽五行がうまくパイロットとロボットにたいして活用されている。歴史的には測定不能なほど高い霊圧を持ち、あらゆる属性相性があったとされる、伝説時代以外で唯一の皇帝級パイロットの存在も明かされていて、とにかくこの辺の「こういう設定なら、こういう人・概念もあるよね?」という勘所は、外すことなくおさえられている。

コクピットはまるく、パイロットは一段低い陰座(女性用)と陽座(男性用)に分けられ縦に配置された席に座る。陽座は陰座側を後ろ抱きにするような構成になっていて──と、絵にしたらなかなかエッチな感じだ。

男女の物語と、伝統とルールを破壊する物語

霊蛹機は男女ペアのパイロットで操縦するしかないので、本作は必然的に男女の物語になっていく。先に書いたように、女性は一方的にその気を搾取され、死に至るだけの存在だが、その気が男女で拮抗状態になった時に特別な形態に変身できるなど、「拮抗する意味」もまた存在する。では、むしろ女パイロット側が男パイロット側を凌駕する気、霊圧を発揮したらどうなるのか──? が、武則天と楊広の初戦で起こる出来事であり、それをきっかけとして物語は大きく動き出すことになる。

武則天はそもそも男性パイロットをぶち殺すために覚悟を決めて乗り込んできた女である。彼女は自分が我慢を強いられそうになると反発し、自分や女に危害を与えるような男子が裁かれ、殺されるべきだ! と力強く宣言する。『耐えて、耐えて、それでなんになるの。譲歩して、言いなりになっていれば、そのうち相手が態度を変えるとでも? 暴力でなんでも手にはいると思わせたら、最後に待つのは死よ』

彼女はその覚悟の強さで、圧倒的な男性上位社会、古い、暗黙の伝統に縛られたこの社会を破壊するために動く。もちろんメインプロットの一つに人類vs渾沌という、ある種のミリタリーSF的なテーマがあるのだが、それと同時に「くそったれた伝統、ルールを破壊していく」という人類内部での闘争もまたテーマとなっていくのだ。はたして、この世界、人類社会は敬意を払い、守るに値する世界なのか? と。

おわりに

男女パイロットは仲の良さ・信頼関係も重要なのでコミュニケーションを取る必要があるが、一方で武則天は、故郷に残してきた単なる村娘の自分とは身分の異なるメディア王の息子も熱烈にアプローチしてくれていて──とそのへんのラブロマンス描写もなかなかである。ここでは触れられなかったが、中盤から後半にかけては「渾沌と霊蛹機の戦闘」がドローンで配信されている設定にも大きな意味が出てきて、デビュー作とは思えないぐらいにプロット、伏線回収がうまい作家である。

最後に宣伝

『SF超入門』というSF入門本を書いたのでよかったら買ってください。

*1:ブログの筆者注。本作の謝辞(p566)より引用

移民から気候変動までギリシャの問題が色濃く反映された、傑作ぞろいのSFアンソロジー──『ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス』

この『ギリシャSF傑作選』はその名のとおり、ギリシャのSF短篇が集められたアンソロジーである。版元は竹書房。流れ的にはイスラエルSF傑作選『シオンズ・フィクション』が2020年に同じく竹書房から刊行されたが、これが邦訳の刊行前から海外で評判を集めたらしく、すぐに非英語圏SFアンソロジーの売り込みがはじまった。

そして、訳者のひとり(にして代表的存在の)中村融さんがその英訳版を色々と読んでいき、頭ひとつ抜けていたのがこのギリシャSF傑作選だったのだという。実際、読んでみればこれが大変おもしろい。収録作は全11篇、ページ数は270程度だから長い本ではないのだが、どの作品も移民や気候変動などギリシャの「いま・ここ」の問題が取り扱われ、アテネなどギリシャの都市が重要なキイになる作品もいくつかある。

その点で「ギリシャSF」を読めているな、という満足感もあるし、何より個々の作品はどれも練り込まれている。どの作品も一読してスッとわかりやすく楽しめる! というよりかは、何度か戻って読み返しながら読むことで味がよく出てくるような技巧的な短篇ばかりで、はえーこんなレベルの高い書き手が今のギリシャには(書き手は現役の作家らで、本書収録の作品も10年代〜20年代発表の作品が多い)いっぱいいるんだなと驚かされた。最後の寄稿者紹介を読むと、書き手の多くが作家の他に、大工や中学校教師や編集者といった別の仕事を持っていることにも驚かされたが。

ギリシャにもSFってあるの?

ちなみにギリシャにもSFってあるの? と思う人もいるかもしれないが、そのあたりは本書の編者らによる序文で少し解説されている。結論から言えばもちろん、ある。もともとはギリシャにそう大きな書き手&読み手の市場はなかったそうだが、1974年の軍事政権の方界と民主主義の再生が新たなジャンルを探求したいという欲求に繋がり、『スター・ウォーズ』や『宇宙大作戦』のようなシリーズがヒットした。

そして90年代末から2000年代はじめにかけてSF短篇も載る雑誌(『9(エニア)』)が発刊され、大きな波になっていったという。序文では他にも、「この本のギリシャらしさはどこにあるだろう?」という問いへの答えなども書かれている。今年読んだSFの中では国外・国内問わず現在ベスト1といっていいぐらいには良い本だ。というわけで、大変おすすめっす。以下、お気に入りを中心に紹介していこう。

ローズウィード

最初の作品はヴァッソ・フリストウによる「ローズウィード」。ギリシャのアッティカ地方による港湾都市のピレウスが海面上昇によって沈没した未来を描き出す気候変動SFだ。語り手のアルバは水没した都市、建物に潜り、調査や情報収集を行っているが、その過程でこの世界とギリシャの苦境が伝わってくる。たとえば、ネパールでは洪水が、マサチューセッツでは強力な竜巻が。世界中で気候災害が起こっている。

たえず経済が危機的な状況にあるギリシャでは国内で調整して沿岸部の都市を守るなんて無理な話であり、だからこそアルバのようなダイバーが必要とされる。アルバはその仕事をこなす最中、水没した都市をめぐるテーマパーク、その関連作業を依頼されて──と経済的にも環境的にも苦しいギリシャでなんとかして生き残ろうと必至なタフネスな人々の姿が描き出されていく。ギリシャの都市と水面上昇という今まさに直面している問題をテーマに据えた、冒頭に配置されるにふさわしい一篇だ。

社会工学

続くコスタス・ハリトス「社会工学」はそのタイトル通りに投票行動の操作など社会工学をテーマにした一篇。数百万人の人間の投票行動を変えることなど本当にできるのか? できるとして、それはどのように可能なのか。問題を解くこと、設定するとはどういうことなのか──そうした問いかけが、軽妙なタッチで記されていく。

ただ、本作で個人的におもしろかったのはそれ以外の部分。本作のギリシャでは区画ごとに拡張現実をコントロールする組織が異なっていて、ある区画では天使が舞い、ある区画ではふくろうがナビゲーターになり、風景もガラリと変えられてしまう。この設定と描写がおもろい。『先月からこの地区の拡張現実は、社会的弱者の問題に取り組んでいるNGOに乗っ取られていて、彼らはしょっちゅうナビゲーターの姿を変えていた。昨日おれを導いていたのはホームレスで、おとといは移民二世だった。』

蜜蜂の問題

パパドブルス&スタマトプロスの「蜜蜂の問題」は、広義の気候変動SFに含まれる一篇。花や植物の受粉に蜜蜂が大きな役割を果たしているのだけど、蜜蜂が気候変動や農薬が関係して大量に消えてしまうことが何年も前から問題になっている。

そして、蜜蜂が本格的に消えてしまっているのが、本作の舞台だ。中心的な役割を果たすニキタスという男は、受粉を行ってくれる蜜蜂ドローンを買取&修理&リプログラミングして生計をたてている男だが、なんでもこの地区に自然の蜜蜂が戻りかけているらしく……とサスペンス風に物語は進行していく。ニキタスはかつて、移民が犯罪、失業、ゴミに感染症を持ってくると信じ、移民排斥の部隊に入っていた人物でもあって、移民&気候変動のダブルテーマをスマートに描き出している。

いにしえの疾病

ディミトラ・ニコライドウ「いにしえの疾病」は、何年もかけて衰弱し、どうやったら止められるのか、何が原因なのかわかっていない奇病”漏失症”が存在する世界での物語。この病はきわめて緩慢に皮膚の乾燥や弛緩、毛髪の色素脱失が起こり、次第に臓器の機能も低下していく。最終的には、患者は自分が何者なのかもよくわからなくなっていく。ほとんどの人は、患者を見ただけで逃げ出すほどの病気である。

そんな恐ろしい病を、どうしたら止めることができるのか──。その研究と探求の過程が物語を進行させ、意外というほどではないオチにたどり着く。語り口がかなり好きな作品だ。

わたしを規定する色

「蜜蜂の問題」の著者でもあるスタマティス・スタマトプロス「わたしを規定する色」は、世界の背景は説明されないが2048年の戦争によって色彩が消えてしまった世界が舞台。黒と白の濃淡は存在するが、赤などの色はない。ただし、誰しもが「自分の色」を持っていて、どうやらそれだけは識別できるらしい。ただ、赤とか緑とかそんなに単純な色はあまりないらしく、(自分の色を)見つけられるない人もいる。

だからこそ、みな「自分の色」に執着する。そうした特殊な世界で、主人公の女性は自分の色をその目の中ではじめて発見した、ある男を執拗においかけていくのだが──というサスペンス調の導入から、この世界だからこそのオチへと収束していく。下記は、女性が男を探して聞き込みをしているワンシーンからの引用。

 彼女はおれの目を見つめてきた。「わたしに見える色、わたしの肌で燃える炎の色。彼の目のなかに初めてその色を見たの」
 そのことばが真実かどうか判断できなかったが、人を探すのにこれより美しい理由を聞いたことがないのはたしかだった。

紹介できることは多くないのだが、ある特定の色のウォッカを飲み続けていることから相手の色を推測する演出など、表現のひとつひとつが巧みで引き込まれた。本書を締めくくるにふさわしい、素晴らしい一篇というほかない。

おわりに

他にも遺伝子操作テーマの「T2」だったり、アテネという都市そのものにフォーカスした「人間都市アテネ」、人造人間、アンドロイド物の「われらが仕える者」、「アンドロイド娼婦は涙を流せない」と多様なテーマが取り扱われている

複数の非英語圏アンソロジーの中から良いものをとったというだけあって、これはたしかに極上の短篇集だ。270pと薄いのも正直ありがたい笑 KindleUnlimitedにも入っているのでぜひ読んでみてほしいけど、文庫の装丁も美しいから紙もおすすめだ。

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最近『SF超入門』というSF小説の入門本を書いて出したのでよかったら読んでね。

今まで意識したこともなかった領域に言葉で触れる方法を教えてくれる、期待の新進アメリカ作家のSF短篇集──『アメリカへようこそ』

この『アメリカへようこそ』はアメリカの新進作家マシュー・ベイカーの初の短篇集の邦訳である。どうやらアメリカでは「注目すべきストーリーテラー10人」に選ばれるなど注目の作家のようだが僕は聞いたことがなく、SFの短篇集らしいという前情報だけで読み始めたのだけど、これが読んだらたまげてしまった。

扱っている題材はマインドアップロードから犯罪をおかすと記憶を消される世界の男の話まで奇想系まで様々なのだが、とにかくその筆致、語りは誰かに似ているようで似ていない、オリジナルなもので、他で体験できない心地よさが残る。「これまで意識したこともなかった領域に言葉で触れた」とでもいうような短篇群で、その良さがうまく表現できないのだが、だからこそたまげたのだ。単純明快でわかりやすい作品ではないが、その分、文の芸を堪能させてくれる短篇集である。

売り言葉

たとえば、最初に収録されている短篇「売り言葉」は、辞書編集者として20年以上働いしてる人物が主人公。しかし、彼は普通の辞書編集者ではなく、他社に辞書の内容を盗用されるのを検知するため、存在しない「幽霊語」を作っている。

たとえば、「アザリー(othery)」。「他者の苦しみに共感することにより感じる苦しみのこと。元の苦しみよりもさらに苦しい」という意味を持つ単語となっているが、そんな言葉は実在しない。だから、この単語が別の辞書に載っていたら、そりゃ盗作だろ! というわけだ。さらにいえば盗作者が盗みたいと思わなければいけないので、しっかりとありそうで存在しない単語を創造しなければならない。

存在しない単語を辞書に入れたらクレームが入りそうだが、辞書は決まった言葉の意味や綴を調べるために使われるものだから、辞書を手に入れた人間がアザリーを調べることはないし、大丈夫だ! と断言しているが、無茶苦茶な理屈である。

で、彼はこうして次々とそれっぽい幽霊語を作っているのだが、そのうちの一つに「インプセクシュアル(impsexual)」という言葉がある。既存の性的嗜好を表す既存の言葉は、一つも僕の指向に当てはまらなかったといって(性欲自体は感じるが、女子だろうと男子だろうとあらゆる他の性別の誰かに性欲を感じることがない。また、動物性愛でもない)、自分のために作り出した単語だ。

この単語の具体的な意味は「非実在のもの(単数および複数)に対する性的欲求を感じる者」。これについて、彼は下記のように語っている。

僕が感じた──そして今も感じる──性欲とは、名前もなく言葉では言い表せない何かへの、そして目にしたことすら一度もなく今はきっと存在しないのだろうと確信を抱いている何かへの欲求だった。(……)僕の欲望は、人間に対して感じるものだ──かつて存在したか、はたまたいつか進化の末に出現するのかは分からないが、この二十一世紀には存在しないような人間にだ。

この短篇や引用部にあたる部分が、僕がこの短篇集全体に感じたことだ。インプセクシュアルのように、まだ定義されてはいないけれど、存在しうる「なにか」を言葉で表現しようと試みる、そんな短篇が本作には揃っているからである。

それははっきりと定義できるようなものではないからこそ表現は迂遠になる。上記引用部でいえば、「名前もなく言葉では言い表せない何かへの〜欲求だった」あたりの描写は迂遠だ。だが、この迂遠な手つきで、これまで既存の言葉で触れることのできなかった領域に手を伸ばす姿勢にこそ、おもしろみを感じるのだ。

変転

「変転」はいわゆるマインドアップロードを扱った一篇。時は近未来。メイソンは自分自身をデジタルデータに変換して、体を捨てる手術を受けようとしている。

ただし、まだこの世界ではその手術は一般的ではなく、家族からは反対を受ける。みんなが話したい時にいつでも話せるんだ、といっても、「体が無くなるってことは、体が無くなるってことだってわかってるのか?」「頭がどうかしちまったのか?」と父親に聞き返される。母親もあなたは考えていないだけといい、他の変転を選んだ人たちと違って、体があればよかったと思うことがたくさんあるはずだと語る。

兄弟も否定的だ。金は、セックスはどうするんだと無限にも等しい批判を受けた後にメイソンから出てきたのは、『「僕は肉体の中にはいないんだ」』『「いつもそう分かってたんだよ」』という答えだった。先の話でいえば、「「自分が自分の肉体の中にいない」という感覚を持った人間」の心情を描き出していくのが、「まだ定義されてはいないけれど、存在しうる「なにか」を言葉で表現していく」部分にあたる。

物語はメイソンの母親の視点で進行するが、母親がメイソンの手をにぎりながら訪れた「変転」の瞬間で短篇は幕を閉じる。その表現がまた凄い。

魂の争奪戦

世界人口の数が130億を超え始めたあたりで、命の宿らない人間が生まれるようになった世界を描くのが「魂の争奪戦」。中には命のある赤ん坊も産まれてくるのだが、次第に「命を持って生まれてくる人間」と「死んだ人間」の数が一致していることが明らかになっていく。つまり、一見地球上の魂の総量が決まっていてそれを超えて生まれてこようとした赤ちゃんは生まれた瞬間に死んでしまうようである。

これは輪廻転生なのか? 魂の数に虫や他の動物は含まれないのか? 帝王切開でもだめか? など無数の検証が行われる。最終的にある人々は、魂は新しい肉体へと瞬間移動するのではなく、空間を移動していくと仮説を立て、生命維持装置に繋がれぎりぎり生きている人々を一箇所に集め、そこに出産間近の女たちも集めて”確実に転生させる”ことを目的とした施設まで作り始める。自分の子供のためなら他者の命を奪ってもいいのか。そんな単純な問いかけではおわらない鮮烈なラストが映える。

他の短篇たち

収録作の多くは何らかのSF的な設定が存在する。たとえば犯罪を犯すと服役させられるのではなく記憶を消去されるようになった世界で、41年の人生まるまる消させられた男が過去の自分の齟齬に戸惑っていく「終身刑」。女中心の社会に移行し、男は地域ごとの生物圏の独房にしかいなくなった世界での性交を描く「楽園の凶日」。

何らかの理由で家から物をできるだけ減らし、収入は寄付するのが健全で、それをしないものはいじめられるようになった社会で物を持ちすぎた一家を描く「女王陛下の告白」。突然、どこからともなく人間らしき”不要民”と後に呼ばれることになる人々が現れ、彼らを物理的に排除しなければならないと決意する”僕”の戦いを描き出す「出現」。プレインフィールドという町の人々が、合衆国の中にありながらも突如「アメリカ」という国名をつけて独立し、著作権の廃棄、メートル法への改正など、自分たちでルールを決めていく過程を描いた不可思議な表題作など、いじめや移民など社会的・グローバルな問題を奇想・SF的アイデアを通して描き出している。

おわりに

最初の「売り言葉」で幽霊語を作る仕事が存在する理由についてメチャクチャな理屈をつけている例を紹介したが、壮大なはったりに強引に理屈づけていく豪腕さがある。ストレートなSFではないので好みは分かれそうだが、今回紹介できていない短篇も変で素晴らしい作品ばかりなので、この手の作品が好きな人にはおすすめしたい。

最後に宣伝

SFの入門本を書いたのでよかったら買ってください。

『元年春之祭』の陸秋槎による、今年ベスト級のSF短篇集──『ガーンズバック変換』

『ガーンズバック変換』は『元年春之祭』や『雪が白いとき、かつそのときに限り』、『文学少女対数学少女』といった、ミステリ系の著作で知られる陸秋槎による初のSF短篇集である。陸秋槎は北京出身だが、その後日本の石川県在住となった作家。日本文化への造形が深く、それは本作収録の短篇を読めばすぐにわかる。

というか、短篇だけ読ませたら日本の作家としか思えないだろう。香川県を舞台にした表題作「ガーンズバック変換」からして、香川県の「ネット・ゲーム依存症対策条例」に着想元がある作品なのだから。陸秋槎のSF短篇は『異常論文』アンソロジーや『アステリズムに花束を』に掲載されていたから、すでに抜群におもしろいことはわかっていた。だが、今回本邦初訳の二作と書き下ろし二作も含めて全体を読み直してみたら、期待をはるかに超えておもしろい! まだ2023年もはじまったばかりだが、今年のベストSF短篇集はすでにこれでいいのでないかというレベルだ。

掲載誌がバラバラなので統一感こそあまりないのだが、全体を読んでみると、ソシャゲやアニメを中心に据えた日本サブカルにどっぷりな短篇も、歌/詩人をテーマにした短篇もあり、偽史/架空伝記の質もとにかく高く、さらには言語SFまであって──と、射程が広い作家だな、という感想が湧いてくる。共通しているのは、どの短篇も各登場人物の感情の描き方、時に二者、三者間の感情のぶつかりあいが、時に残酷で美しいこと。また、架空の歴史や人物、ゲームの設定などを突き詰めていく手付きは圧巻で、存在しない概念に手で触れられるのではないかと思うほどだ。

本書のあとがきでは担当編集である溝口力丸との出会いによって、偶然に近いかたちでSFを書き始めたという風で書かれているが、SFを書くべくして書き出した作家であると思う。中国発で作品はどれも翻訳を経ているが、帯に「中国発、日本SF」とあるようにまぎれもなく日本SFでもある。以下、各短編を紹介していこう。

各短篇をざっと紹介。冒頭三作

トップバッターは書き下ろしの「サンクチュアリ」。語り手は人気シリーズの続刊のゴーストライターを依頼され苦悩する、売れないファンタジー作家だ。この世界には、技術的介入によって他人の苦痛から快感を得られなくなった”最善主義者”と呼ばれる人々が存在している。そうした、グレッグ・イーガン的な”脳/神経科学と人間の選択についての物語”が、”なぜ人気作家はゴーストライターを依頼したのか”という謎の解決と共に進行していく。小品ながらも、冒頭にふさわしい一篇だ。

続く二篇はどちらも歌/詩をテーマにした作品。「物語の歌い手」は14歳の時に病で命の危機に瀕した貴族の娘を主役に据えた、吟遊詩人の物語。貴族の娘は侍女のステファネットと共に酒場に繰り出し、そこで南フランスで最高の吟遊詩人だと噂されるジャウフレという人物に出会う。娘はこの出会いによって詩に感激するのだが、その語りは美しく、他の短篇の紹介にも効いてくる部分なので、少し引用しよう。

 それまで気にとめていなかったが、世の中のどんな土地にも、物語の種が散らばっていない場所はなく、ただ注意深い人が拾い上げ、植えつけるのを待っているだけなのだ。私は庭の樫の大木についていくつかの伝説を作り上げ、使用人たちのおしゃべりを歌にしようとし、以前はいささかも魅力を感じなかったオウィディウスすら、むさぼるように読んだ──それはまったくのところ、物語の宝庫だった。

貴族の娘はジャウフレを自身の家に吟遊詩人として招くも、拒絶され、ジャウフレはその土地を後にしてしまう。貴族の娘と侍女はその後を吟遊詩人のふりをしながら追う旅に出るが、その旅の道中で、吟遊詩人らが集まる秘密結社の存在を知る──。どこか幻想的な雰囲気の漂う、陸秋槎の語りの美しさが存分に発揮された作品だ。

もうひとつの「三つの演奏会用練習曲」はタイトル通りに三つの掌篇から構成されている短篇。最初は複合語や二つ以上の単語を用いて一つの概念を表す、迂言詩(カニンガル)の起源と盛衰を語った曲で──と、この三曲の中には、寓話・言語・偽史・人類学など無数の要素が盛られている。とにかくこの迂言詩がどのような詩なのかについての語り口、そのディティールは圧巻だ。

各短篇をざっと紹介。サブカル系。

趣向をがらっと変わってアニメやゲームなどの文脈を踏まえた短篇が揃っているのも本作の特徴。その最たるもののひとつがソシャゲテーマの「開かれた世界から有限宇宙へ」だ。スマホゲーム開発会社にて、渾身の力を入れた新作ゲームの合理的な設定を考えるタスクをふられた哀れなシナリオライターを語り手に進行する一篇だ。

開発ディレクターはAAAタイトルで名を馳せた男がつとめていて、スマホで出すのに3Dオープンワールドゲームを目指しているので開発コストは高い(明らかにmiHoYoを彷彿とさせるゲーム会社である)。ディレクターは完璧主義者として知られる男だが、それは今回も変わらない。ゲーム内で昼夜を表現するためにリアルタイムの光源をどうするかの問題が立ち上がるも、スマホの性能上完璧な形では実装できない。そこで、”12時間周期でガラッと光源(昼と夜)が切り替わる”、そんな特殊な宇宙モデルを作れないか、と天文学科出身のシナリオライターにふられるのである。

セルオートマトンなど様々な概念を使って設定構築を試みるが、剣と魔法のファンタジーに適合している必要もあって──と、お仕事奮闘ものとしてのおもしろさとSF設定考証的なおもしろさが掛け合わされた、本作の中でも特に好きな一篇だ。

もう一つ日本のアニメ・ゲーム文脈から外せない作品といえば、香川県の「ネット・ゲーム依存症対策条例」が行き過ぎた結果、香川県の若者が一切ネットに触れられなくなってしまった未来の世界を描き出す表題作「ガーンズバック変換」。香川県の未成年者はみんな”ガーンズバックV”という眼鏡をかけていて、これを通してみた液晶画面はどれも真っ黒にうつる(すべての液晶が真っ黒になるわけではないが)。

学生らはみなスマホではなくガラケーを使い、香川県はまるでかつての日本のようになっている。学生らは映画館やカラオケに押し寄せ、学校を卒業し他県に出ていく人々はみなタイピングの教習やエクセルの使い方を学び予備校に通う──とかなりバカバカしくも切実な日々が描かれていく。見えないものを現実のレイヤーに重ねてみえるようにしたのがアニメ『電脳コイル』だが、本作は眼鏡をかけて見えているものを見えなくする、逆『電脳コイル』な作品といえる。笑えるが笑えない一篇だ。

それ以外。

偽史・架空伝記の「ハインリヒ・バナールの文学的肖像」と「インディアン・ロープ・トリックとヴァジュラナーガ」はどちらも日本のSFアンソロジー初出だが、「実在しない作家・概念」をもっともらしく描き出していく手腕が素晴らしい。

ラストの「色のない緑」は僕にとっては初出(『アステリズムに花束を』)の2019年の中ではベストなSF短篇だったが、4年経ってもその鮮烈な印象は色褪せることがない。かつて天才と称された研究者のモニカが自殺をしたとの報が旧友らに飛ぶのだが、はたして将来を嘱望され画期的な着想で論文を書いてきた彼女がいったいなぜ死を選ばなければならなかったのか? がミステリー×SFの趣向で描かれていく。

物語の舞台は近未来で、機械翻訳はとっくに実用に値し、旧友である語り手の女性も機械翻訳の手直しの仕事を行っている。あまりに難解な研究を行っていたがために人間どころか機械知性にすら理解されなかったモニカの絶望と孤独とあわせて、人工知能は万能になりえるのか、という現代の問題に通じるテーマが描かれていく。末尾にふさわしい、モニカと語り手の相互理解の過程が素晴らしく美しい作品だ。

おわりに

いま、とにかくおもしろいSF短篇集をを探しているのなら、すっと本書を差し出したい。

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習慣はどうやって形成されるのか?──『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか』

いつも通勤や通学につかっている道は、何も考えずにも動けるぐらいには「習慣」になっているものだ。むしろいつものルートとは別の方角に行く必要がある時、そのことを忘れて「習慣」に引っ張られたりする。われわれは家の鍵をしめる動作をする時に、いちいち右手でかばんの右ポケットから鍵を出して差し込み右に回し──などと意識することもなく、習慣的動作によってほとんどを無意識にこなしている。

もし、習慣を脳に形成する力がなかったら、生活は面倒くさいものになるだろう。一方で、タバコや薬物のように、悪い習慣が形成されてしまう危険性もある。こうした習慣は、脳のどのようなプロセスによって形成されるのか? また、その仕組がわかるのなら、習慣を変えることもできるのではないか? そうした問いが連続していくのが、本書『習慣と脳の科学――どうしても変えられないのはどうしてか』だ。

習慣は誰の生活にも関係するから、刊行予告の時点で本書には期待していたのだけど読んでみたらやっぱりおもしろかった。習慣の形成の仕組みを知れば知るほど、副題にあるように「変えることは難しい」ことがわかるが(簡単に習慣を変えるコツを教えてくれる魔法のような本ではない)、同時に変えることは不可能ではないことも科学的な裏付けとともに教えてくれる。誰にとっても、我がこととして読めるだろう。

習慣は脳の中でどのように形成されるのか。

そもそも習慣とは何なのか。最初に「家の鍵をしめる」ケースを紹介したが、多くの人が家の鍵をしめたかどうか思い出せず、心配になってしまうように、習慣の特徴のひとつは「意識的な記憶から完全に切り離されている」ところにある。

たとえば、海馬が損傷すると記憶に深刻な障害がでるが他の学習にはほぼ影響をおよぼさないように、習慣と記憶は別の場所で機能しているようだ。では、具体的に習慣は脳の中でどのように形成されるのか。その理解のために必要なのが、「シナプス可塑性」と呼ばれる概念だ。脳内ではニューロンがシナプスを介してつながっていて、情報を相互に伝達しあっている。何を経験するかによってそのシナプスの活動・活発化する経路などが異なってくるわけだけれども、それに伴ってシナプスの働きを強くしたり弱くしたり、シナプスの数を増やしたりといった変化が起こる。

ドーパミンは快感と直接関わっているわけではない

何度も同じ行動をとるなどによってシナプスの強度が高まることが習慣の形成要因のひとつだ。ただ、ドーパミンがシナプスの可塑性を調節するので、結合の強度を高めたければドーパミンが必要になってくる。本書において、ドーパミンについての実験は、おもしろい事例が多い。たとえば、一般的にドーパミンといえば、これがドバドバ出る=快感がすごいイメージがあると思うが、実際にはこれは正しくない。

ドーパミンは快感に直接関わっておらず、関わっているのは「動機づけ」なのだ。ラットに対する”何もしなくても得られる少量の餌”と”金網を乗り越えないと(努力しないと)得られない大量の餌”を選ばせる実験では、正常なラットはほぼ確実に金網を乗り越えて大量の餌を得ようとする。だが、ドーパミンの働きを阻害されたラットは、努力しなくても得られる少量の餌を選択しやすくなったという。

餌がいらなくなるわけではない。ドーパミンが阻害されたラットは、餌を得るために努力をする意欲が減退しているのである。ドーパミンは、生物が報酬をどれだけ好むかではなく、ある状況下で特定の報酬をどれだけ欲しがっているか、そしてそれを得るためにどれだけ努力をしようとするか、動機付けの信号を発しているのだ。

なぜ習慣は容易に変わらないのか。

習慣は形成されたあとどのように変化していくのか。何らかのきっかけであっさり消えてしまうのか、あるいはしぶとく残り続けるのか──といえば、習慣はそう簡単に消えないらしいことがわかってきている。たとえば、新しい習慣を根付かせたり古い習慣をやめたと思っても、何らかのトリガーによって容易に習慣は息を吹き返す。

喫煙者は他人がタバコを吸っているのをみたり、タバコの煙がただよう場所にいくと条件反射的にタバコに火をつけたいという衝動に駆られる。これは、様々な手がかりが自身の喫煙体験とからまっているからで、習慣化された行動は、たとえもう報酬を求めていなくても関連された刺激によって引き起こされる。ニュースを流し聞きしているときに自分が関連しているニュースがくるとすぐに気がついて注意が向くことがあるが、習慣化した行動に関連する情報は、同様に注意を引きやすくなっている。

習慣を身につける時には大脳基底核の活動が重要になってくる。ある行動は、最初は前頭野と大脳基底核の認知機能に関わる部分によって学習が始まるが、時間の経過とともに運動皮質などが関わる部分が習慣を学習し始め、最終的には認知回路にとってかわり、認知システムによる直接監視から離れていく。大脳基底核の習慣の形成では習慣を構成する一連の行動をひとまとめにすることもわかっている。一連の行動が始まると、さらなる大脳基底核の活動がなくても最後まで実行できるようになるのだ。

つまり、習慣はその前後の一連の動作まで「まとめられて」いる。そうすると、トリガー(他人のタバコの煙とか)によってタバコに火をつけたくなり、ライターを取り出すなどの行動をとった時点で止まらなくなってしまう。

習慣はどうやったら変えることができるのか。

習慣について最終的に知りたいのは、どうやったら習慣を変えたり増やすことができるのかということだろう。運動習慣をつけたいし、甘いものなど間食、スマホのみすぎなどの習慣をやめたい。本書ではその話をする前段で、そうした習慣の形成・破棄に「意志力」や「自制心」が必要だというがそれは本当か? と議論している。*1

自制心や意志力は習慣の形成や破棄にあまり役に立たなそうだが、他の手段もある。たとえば、先に習慣は様々なトリガーによって引き起こされると書いたが、であればトリガーをできるかぎり排除するのは有効だろう。タバコの煙がある場所にいかない、スマホを使いたくない時間はスマホの電源を切っておくなどである。

また、習慣のトリガーを排除するための過激な一手として引っ越しもあげられている。『人生を変えることに成功または失敗した体験を被験者に書かせたトッド・ヘザートンとパトリシア・ニコルズによる質的研究では、変えることに成功した人と失敗した人のあいだに見られた大きな違いに転居の有無があることがわかった。変えることに成功した人たちは、失敗した人たちに比べて約3倍も引っ越しをしていた。』

おわりに

本書には他にも様々な手法が紹介されているが、肝の部分でもあるのでここから先は読んで確かめてもらいたいところだ。個人ができることから、まだ具体的には不可能だが、直接的に脳から習慣だけを消失させる実験も紹介されている。

本稿で紹介できていない箇所にもおもしろい記述は多い。個人的には、ここで紹介していない依存症がどのように引き起こされるのかを論じた章などもおもしろかった。内容はそこそこ難しいが、文章量的には250ページ程度なので、読み通すのはそう難しくないだろう。おすすめの一冊だ。

*1:結論だけ少し触れておくと、結局、実行制御を測定する課題と自制心を測定する調査のあいだにほとんど関係はない。自制心が強い人は衝動を抑えるのが得意なのではなく、そもそも自制心を働かせる必要性を回避することが得意な人なのだという。

2022年のおもしろかった本などを振り返る

ぼんやりしてたら2022年が終わってしまったが、振り返らないよりはマシだと信じて今からおもしろかった本など振り返ろう。今年もアニメ、小説、ノンフィクション、ゲーム……あらゆる媒体でおもしろい作品がいっぱいあった。そのすべてを取り上げることは不可能だけれど、この記事で思うがままに触れていきたい。

小説など(主にSF)

読んだ小説の大半はSFなのでSFの話をするが、最初に触れておきたいのは、最先端テクノロジーとその倫理・社会的課題を描き出してきた長谷敏司が、人工知能✗ダンスをテーマに描き出した長篇『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』だ。事故によって右足を切断することになったプロのダンサーが、AI搭載の義足を使い、AIと人間の新しい”共生のかたち”を模索していく。著者自身の介護体験も織り込まれた、最先端の壮絶な物語。今年の小説のベストをあげるなら、僕の中ではこれ一択だ。もう一冊、日本SFで取り上げておきたいのはハヤカワSFコンテスト出身の春暮康一の第二作にしてファーストコンタクトテーマの短篇集『法治の獣』。どれも《系外進出》シリーズと呼ばれる一連の未来史に属す作品で、地球から何十光年も離れた場所で、人類が未知の生物と出会う時の困難と興奮が生物学的にハードな筆致と共に描き出している。その生物の科学的・化学的な性質の書き込みの緻密さ、それを検証していく手付き、そして最終的にSF的なワンダーに結実する様など、日本初の生物学系SF✗ファーストコンタクト作品としてはトップレベルの作品だ。ファーストコンタクト繋がりで触れておきたいのが、『平和という名の廃墟』。『帝国という名の記憶』の第二部目に当たる作品だが、宇宙をまたにかける銀河帝国と、宮廷で繰り広げられる権力闘争・外交問題などが中心テーマになっていく。平和という〜では、そんな銀河帝国が、言葉が通じるのかも不明な相手と「戦争に至るか、至る前に対話を成立させ阻止できるのか」という綱渡りの交渉が展開されている。相手が発する音に言語的意味はあるのかなどの言語学パート。戦争することになったとして帝国の周辺諸国をどう刺激しないようにするのかといった外交が描きこまれ、今年は『法治の獣』と合わせてファーストコンタクトものの当たり年だったなと感じる。日本でも中国SFブームを引き起こした《三体》三部作とその著者劉慈欣だが、今年はその関連本もたくさん出ていてどれも一定水準以上におもしろい。たとえば劉慈欣の短篇集二冊『流浪地球』『老神介護』がKADOKAWAから出ている他、《三体》の外伝である宝樹『三体X 観想之宙』も二次創作とは思えない細部の作り込みと、本篇に並ぶほどのスケール性を持っている。また、年末には劉慈欣自身による前日譚(刊行は三体本篇より前)の『三体0 球状閃電』も刊行された。こちらも珠玉の出来。中国SFの影に隠れている感もあるが、地味に良い作品が多いのが韓国SF。今年特に触れておきたいものとしては、チャン・ガンミョンによる短篇集『極めて私的な超能力』と韓国SFの代名詞と言われる作家ペ・ミョンフンの代表作『タワー』の二作がある。前者は宇宙ものから超能力もの、ポリティカルな作品まで幅広く揃えられた熟練の技が感じられる短篇集でオススメだし、後者は674階建て、人口50万人にもなる巨大タワー独立国家である「ビーンスターク」で暮らす人々の奇妙な生活とそこで巻き起こる現象が書き込まれる。筒井康隆っぽさも感じさせる傑作なのだ。海外SFで今年ベスト級におもしろかったのが、短篇集『いずれすべては海の中に』。著者は新型コロナをめぐる状況を予言的に描いた長篇『新しい時代への歌』で注目を集めたサラ・ピンスカーだが短篇がここまでうまいのは予想外だった。

脳と連結して動作するはずの最新の義手が、なぜか突然自分自身は道路であると主張し始める不可思議な話を描き出す「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」。夢の中の自分の子供が実在すると感じられ、世界中から同じ夢をみた親たちが一点に集まってくる「そして我らは暗闇の中」。崩壊の危機に面した世界で、海に逃れた豪華客船上で音楽を提供するロックスターの鬱屈と解放を描き出す表題作など、一度読んだら忘れることができないほど鮮烈な情景を頭に残していく短篇が揃っている。

他、触れておきたい作品としては2033年に中国の日本侵攻によって東京が東西に分断された世界での事件を追うSFミステリー『九段下駅 或いはナインス・ステップ・ステーション』は不気味なリアリティがあっておもしろかった。2021年末に出たスタニスワフ・レム晩年の長篇『地球の平和』は、兵器開発が行き着くところまで行き着き、社会の変化のどれが自然発生したものでどれが攻撃なのかが判別できなくなった、「認識できない戦争」──を描き出す、これまた現代性のある作品だ。たとえば、出生率の低下、嵐や地震などの自然災害、家畜の大量死、未知のウイルスの蔓延など、それが攻撃なのかどうかわからなければ、反撃もできないのである。現代的なテーマといえば、人工知能とロボットに人間の労働の大半が代替され、それでいて市民の生活が楽になることもなく資本家が肥え太っていく未来が描き出されていく長篇S・B・ディヴィヤ『マシンフッド宣言』も外せない。本作の世界では人間は能力を増すAIに対抗するために能力向上の薬(ピル)漬けになっていて……という設定もあるのだが、近年アメリカでは絶望死(アルコールや薬物依存による死亡+自殺をまとめたもの)の増加が問題になっていて、現実と重なる描写が多い。

ノンフィクション

ノンフィクションにも触れていこう。22年のベストノンフィクションをあげるなら、ジェフリー・ケインの『AI監獄ウイグル』になる。近年弾圧が激しくなっているウイグルで、実際に何が行われているのか。150人以上のウイグル人の難民に取材した本だが、その内容は壮絶の一言だ。チャットアプリによるメッセージ送信や電話は監視され、家の前には個人情報が詰まったQRコードがはられ、身体情報や移動・購入履歴から犯罪を起こす可能性のある人物をAIがピックアップして警告を飛ばす。

これまで断片的なニュース情報でウイグルで相当なことが行われていることはわかっていたつもりだったが、現地の人々の実体験はあまりに衝撃的だ。22年の年初に読んだ本だが、こうして1年経ってもその衝撃は色あせていない。

続いて、今年一番このブログ(基本読書)でバズったノンフィクションが、たぶん『リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか』。リバタリアンが街づくりをはじめたら自由を目的にヤベエやつらが集まってきた話で、自由とは何なのかについて考えさせられる一冊である。先程『マシンフッド宣言』で人間の仕事が失われてゆく社会について触れたが、ノンフィクションでも話題のテーマである。たとえばダニエル・サスキンド『WORLD WITHOUT WORK――AI時代の新「大きな政府」論』は今後確実に起こるそうした事態(AIによる仕事の代替)に国家として対抗していくために、どのように社会設計を考えるべきかを考察・検証していく一冊だ。わかりやすい例のひとつにベーシックインカムがある。しかし、「どのような」ベーシックインカムにすべきだろうか?

よく言われるAI時代への対策に、仕事が代替された人間に教育を与えて新しいスキルを身に着けさせ、別の仕事につければいいというのもある。しかし、現実問題として人間はそう簡単に新しいスキルを身に着けられないし、どんな仕事でも望んでやるわけではない。人には向き不向きと好みがあり、そんなことは不可能なんじゃないか──と、「本当に仕事はなくなるのか?」の検証も合わせて行われている。

仕事がなくなる世界で同時に問われるべきなのは、人間の「尊厳」だ。なるほどベーシックインカムによってほとんど仕事をしなくても生きられる未来もあるのかもしれない。一方で、仕事によって人間は他者の役に立ったり、関係性を構築・維持することで、尊厳を維持している側面もある。仕事がなくなった時、われわれの尊厳はどうなってしまうのか? そんな仕事と尊厳の関係について考えるのに重要な本が、2022年は『給料はあなたの価値なのか――賃金と経済にまつわる神話を解く』として出ており、こちらも非常におもしろい本なのであわせて読みたいところである。中国の人工知能学者と中国のSF作家陳楸帆がコンビを組んで送り出した『AI 2041 人工知能が変える20年後の未来』も人工知能と仕事の関係を考えるにあたって役に立つ一冊だ。人工知能学者が20年後の社会のリアルなシミュレートを行い、それに対してSF作家が生き生きとした物語に起こすスタイルで、教育や恋愛、兵器など無数のテーマで未来の社会をよく伝えてくれている。特に良いのは、短篇がどれもディストピアではなく、希望を持った景色をみせてくれる点だ。ここでもやはり、仕事がなくなった人達に対する尊厳、人生へのやりがいの問題が提起されている。22年の個人的なテーマとして、健康があった。僕も33歳となり、立派なおじさんであり、若くはない。そうなると当然、体に気を使う必要もある。ダニエル・E・リーバーマン『運動の神話』を読んで運動習慣の重要性と、週に何分、どの程度の強度の運動をするのが最適なのかの知識を得て、年末には『科学的エビデンスにもとづく 100歳まで健康に生きるための25のメソッド』を読んで食事の改善に取り組んだ。どちらも情報が詰まっているだけでなく、モチベをあげてくれる本で、オススメ。

関連して、フィットネスバイクを買って毎日漕ぐようにしたことで、22年は僕にとっては運動習慣がついた年となった。先日健康診断を受けたのだが、一年で体重は8〜9kg減で、腹回りも3センチ以上縮んでいた。前回の読書家に向けたフィットネスバイク布教記事を書いたあとzwiftとも連携できる新しいバイクを買って漕いでいるのだが、より運動生活が充実していきそうで、今から2023年が楽しみである。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

ゲームや配信が充実した年だった

今年発売されたゲームの中で一番印象に残ったのはやっぱり『ELDEN RING』だった。広大なフィールドに放り出され、好奇心に突き動かされてフィールドを移動するうちに強敵と次々出会い、何かが手に入るから──などではなく、ただこいつを倒したい! というドラゴンボール的価値観でもって戦い続ける日々であった。

もう一つ、僕にとって忘れられないゲームだったのがLeague of Legendsという昔からあるMOBAゲー。僕は2021年にポケモンユナイトにハマり、その後ポケユナに飽きてスマホMOBAゲーを転々として、最終的に2021年のLoLの世界大会を見たことがきっかけとなってLoLに手を伸ばした。このLoLというゲーム、自分でプレイするのもめちゃくちゃにおもしろいが、何より人がやっているのを見るのがおもしろい。

ずっとLoLの配信を見るようになり、世界大会や日本のリーグ戦もかじりついて見るようになった。自分にとってはeスポーツ観戦という、新しい趣味がよく根付いた年である。2022年はストリーマー界隈でも徐々にLoLが流行りだした年で、k4senや釈迦を筆頭に日夜LoLカスタムが開催されるようになり、昨年12月にはその集大成として横浜アリーナでストリーマー同士の試合も展開される(the k4sen)など、LoLの盛り上がり的にいい年だった。2023年は、もっとLoLのランクを回すぞ。
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アニメなど

『ぼっち・ざ・ろっく!』と『サイバーパンク: エッジランナーズ』の二作が最も印象に残ったアニメだった。どちらも観終えた後にずっとこの作品の位置が心の中でぽっかりと空白が残っているような深い余韻を残してくれる作品で、素晴らしかった。この記事を書いている今も結束バンドのアルバムを無限ループさせて聞いているし、エッジランナーズの曲も素晴らしいしで、音楽的にも生活の中心になった作品だった。
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おわりに

それとは別に、僕は22年に結婚&引っ越しをしたので、人生的にはこれが今年最も大きなイベントであった。婚活をしていたわけでもなく、5年以上付き合った相手との結婚なので特に予想外のことなどはないが、結婚してよかったなあと素直に思える日々。23年以降も粛々と生活を行っていきたい。

2023年の2月には僕が3年以上に渡って書いてきたSF入門本もようやく出る(書影が出てないので正式な告知はもう少し先になりますが)。その作業が佳境に入っていたために22年は例年と比べると本が読めない年だったのだけれども、それでもおもしろい作品にたくさん出会えてよかったな。本も書き終わったので、23年は22年以上にたくさん本を読んでゲームができる年にしたい。あと、頭がすっきりしたのでSF紹介動画を作ってみたりとか新しいことにチャレンジする年にしたい──あたりが2023年の当座の目標。まずは、本をきちんと世に送り出さねばね……。

人工知能学者とSF作家がタッグを組んで、AIの能力が向上し人間の仕事がなくなった未来の社会を想像する──『AI 2041 人工知能が変える20年後の未来』

この『AI 2041』は、人工知能学者の李開復(元Google中国の社長)が2041年における未来予測と解説を担当し、『荒潮』などの著作のあるSF作家陳楸帆が未来に生き生きとしたストーリー的肉付けを与え短篇に仕立て上げる形で合作されたノンフィクション✗SFな一冊である。「AIが当たり前のように生活を支配している」未来社会を、実感を持って描き出すために物語(短篇)をつかっていく構成になる。

一般的にいって、そうした具体的な情報を伝えるための意図を持った物語(小説でも漫画でも)は教科書的になって物語としてのおもしろさは犠牲になることが多いのだが、本作の凄いところは一つひとつの短篇が陳楸帆の作品としておもしろく読めるところにある。本書の短篇部分だけを抜き出して短篇集としてまとめられていても、そう違和感は覚えないはずだ。幸福についてや仕事について、自動運転やベーシックインカムについてなどテーマごとに10の短篇が存在していて、それらすべての出来が物語的によくできているわけではないのだが、全体の水準としては十分な出来である。

陳楸帆は本書のイントロダクションで、李開復から最初に誘われた時に考えたことについて、下記のように語っている。陳楸帆自身Googleに勤務していた経験があり、二人は感覚的に似通っているところもあったのだろう。

 これには魔法的な偶然も感じた。わたしは数年前から自分の作家活動について、〝SF現実主義〟という考えを持ちはじめていた。SFはもちろん読者を厄介な現実から逃避させ、空想の世界でスーパーヒーローとして遊ばせる役割もある。しかし日常の現実から引き離すことで批判的思考をうながす貴重な機会でもある。SFを通じて未来を考えることで、逆に現実に踏みこみ、変えていくという積極的な役割を果たせるのではないか。
 未来を創造するにはまず未来を想像しなくてはならない。

素晴らしいのは、李開復によるAIに関する解説・未来予測部分もだ。原書の刊行は2021年のことで、最近ちまたを賑わしているテキスト生成AIのChatGPTのもとになっているGPT-3(or3.5)についての解説もしっかりと書かれている。そのため、小説部分はあんまり興味ないなーという人でも楽しめるはずだ。以下、ざっと紹介しよう。

構成と最初の短篇(花占い)について

AIにまつわる10のテーマ(恋愛、フェイクツール、AI教育と自然言語処理、パンデミック、VR、自動運転、兵器、仕事、幸福、豊穣)によって本書は構成されている。

最初に取り上げられるのは恋愛と深層学習を使った保険プログラムの物語で、短篇タイトルは「恋占い」だ。舞台はインドのムンバイ。2041年の世界では、保険はAIアルゴリズムと動的に連携した生活アプリ(投資や生活雑貨など)を家族に入れさせることで、保険料が動的に変動するようになっている。AIのいう安全で健康な生活をすれば保険料も下がる──というわけだ。払える金のない家族にとってこのアプリは有効だが、一方あらゆる行動がこの保険会社にいいなりになるリスクを孕んでいる。

家族がこのアプリを導入している、少女のナヤナはサヘジという少年に恋をしているが、彼女がサヘジに近づくとなぜか家族の保険料が少しずつ上っていく──。その理由にはカーストが(実質的に)存在するインドを舞台にした理由が絡まってくる。深層学習によって社会に根強く残っている潜在的なカースト差別とその帰結を予測して、それが保険料の算出に関わってしまうのだ。これはすでに現実化している問題でもあり、解説部分は深層学習の仕組みに加え、その短所についても触れられていく。

それが物語の中でどのように描き出され・乗り越えていくのかは読んでのお楽しみ。本書収録作全体に対する傾向として、41年の未来をディストピアとして描く短篇は一つもない。保険料のリアルタイム算定も、良い面はある(薬を定期的に飲むように促したり、健康になるように誘導するので)。悪い面も、もちろんある。それでも、未来は良い方に変えていける──という希望を多かれ少なかれ描き出してくれる。

AIと教育

続いて紹介したいのはAIと教育をテーマにした「金雀と銀雀」。舞台は韓国で、主人公は双子の孤児だ。この時代、子供たちは人生の随伴者となるAIの友人を所持している。いま、質問にだいたいなんでも答えてくれるChatGPTが大盛りあがりだが、そんな感じで語りかけたら様々な応答を返して、子供たちの手助けをしてくれるのだ。

たとえば、宿題を終えたらその採点をし、どこが知識として足りないのかを指摘して新たに宿題を出して勉強するように教えてくれる。もちろん、選択に悩んだときや悩みをいえばいつでも応答してくれる。双子は一卵性双生児ながらも正反対の人間で、成長していくに連れて諍いが増え、決定的な破局に至る。だが、人生は長く、二人には良き友人がいる。AIの友人は時に人生を画一的にしかねない危険性を持つが(たとえば、目標設定に柔軟性がなければ単に競争社会を乗り越えるための目標しか与えなくなるだろう)、その枠を取り払えば、AI自身を変化させ、子どもたちとともに成長させることもできるかもしれない──本作は、そうした希望をみせてくれる。

本作に対する解説部分では、「自然言語処理、自己教師あり学習、GPT-3、汎用人工知能(AGI)と意識、AI教育」と題してその概観が語られている。自己教師あり学習を用いたGPT-3は一体何が優れていて、何ができるのか。短所はどこなのか。いずれ、汎用人工知能になることができるのか──にすべて2041年時点での回答が行われている。『GPT-3はまだ多くの基本的誤りを犯すが、すでに知性の片鱗を見せている。そもそもバージョン3にすぎない。二〇年後のGPT-23は、人類が書いたものをすべて読み、制作した映像をすべて見て、独自の世界モデルを構築しているだろう。』

仕事はどうなっちゃうのか?

AIと関連して語られることの多い話題は「仕事」だ。AIが人間の仕事を奪っていったら、どうなってしまうのか。仕事をしなくても生きていけるならそれでもいいという人が多そうだが、本当にそんな状況になるのか、なったとして、本当に良いのか?

短篇「大転職時代」の世界では単純作業のほとんどはAIにとって変わられている。米国ではベーシックインカムが(2024年に)導入されるが、仕事がなくなった労働者たちは暇を持て余してオンライン賭博、ドラッグ、アルコール漬けになり、BIは2032年に廃止。かといって仕事があるわけでもなく、失業した人間に新たな業務スキルをつけさせたうえで再就職させる転職斡旋業が花開いている──という状態にある。

テーマになるのは、やることがなくなった人々にどのように尊厳を、人生へのやりがいを復活させるのかだ。仕事がない社会では人は無力感に苛まれ、意欲を失ってしまう。どうすれば仕事のなくなった社会で人々に意欲を、尊厳を持たせることができるのか? 現実的には意味を持たない何らかの作業を社会に提供する? しかしそんなもので尊厳ややる気が出るものか? であれば──と作中で議論が進展していく。

おわりに

ほんの5年ぐらい前まで、AIが発展しても人間は新たな、人間にしかできない仕事に移っていくという意見をよくみた記憶があるが、この1〜2年の進展をみたら、もう同じ意見は持てないだろう。仕事は、この先の10年、20年で必ずなくなり、われわれの生活はAIの助言や指示に部分的に従う形に近づいていく。本書は、物語の形でその未来、その実態を、「追体験」させてくれる。短篇は普段小説やSFを読み慣れない人でも非常にわかりやすく書かれており、ノンフィクション読者にもおすすめしたい。

AIを搭載した義足と足を失ったダンサーが”共生”し、新しいダンスを作り出す、長谷敏司10年ぶりの最高傑作────『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

長谷敏司、『BEATLESS』(2012)に続く10年ぶりのSF長篇がこの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』になる。長谷敏司がその間何もしていなかったわけではなくて、短篇も数多く書いているし、『BEATLESS』のアニメ関連作業も多くあった。また、そうした執筆作業と並行して、2018年からは父の介護も行っていたという。そして、本作はそうした著者の実体験(介護など)が色濃く反映された長篇になっている。

10年ぶりの最高傑作

本作の帯には、『『あなたのための物語』『allo, toi, toi』『BEATLESS』を超える、10年ぶりの最高傑作。』と勇ましい文字が踊っている。通常、こうしたコピーは実際に最高傑作だろうがなかろうが編集者がつけたいと思ったときにつけるものなので話半分に読み取るべきなのだが、本作を読み進めていく中で浮かんできた最初の感想は、このコピーに偽りなし、というものだ。長らく長篇から遠ざかっていた長谷敏司だが、その構成力、描写に衰えがあるどころか、着実にすべてが前進している。

タイトルの「ヒューマニティ」は14年刊行の『My Humanity』の流れを引き継いでいるし、長谷敏司は2012年の『BEATLESS』から本作へと至り、着実に自身と現代の世界に内在するテーマを推し進め、介護と人間の限界という自身が実生活の中で行き当たったであろう問題をも作品に詰め込み、自身の新たな代表作を生み出してみせた。加えて、長谷敏司の長篇の代表作とされる『円環少女』も『BEATLESS』も、どちらも長過ぎるのが勧めづらいポイントではあったが、本作は単行本で300ページ以内に収まっていて、長谷敏司の初読者にもおすすめしたい作りになっている。

そうはいっても手軽に手を出すにはずっしりと重い本だ。中心人物であり、事故で足を失ったダンサーの護堂恒明のリハビリの過程。また、彼が行うことに成る伝説的なダンサーにして認知症に陥って知性も記憶も失っていく父親の介護生活の描写は重苦しく、人間の限界を痛切に思い知らされる。なぜこんなにも苦しい話を読まされなければならないのかと思う読者も大勢いるだろう。つらいことが多すぎる世界だ。

一方、そのような状態にあってなお人間には魅せられるものがあるのだと──、そして、ダンスを踊る意味、人間性が失われていく中で人間に残るものを本作は痛切に描き出している。現在のところ海外も含めて今年一のSF長篇だ。

あらすじ、世界観など。

物語の舞台は2050年の近未来。コンテンポラリーダンサーにして今後日本のダンスシーンに輝かしい名を刻まれると言われていた27歳の護堂恒明が、乗っていたバイクで事故にあった状況から物語は幕をあける。彼はその事故で右足を切断する必要にかられ、当然ながら元のように踊ることはできなくなってしまう。

彼の父親護堂森は74歳の老人だが、50年間もダンスを踊り続ける現役にして伝説的な舞踏家にして振付家。そんな父のもとでダンスにすべてを賭けてきて、体格とスタイルもめぐまれ、ダンサーとしての将来が見込まれる護堂恒明にとって、ダンスができなくなることの絶望は大きい。『護堂恒明という人間の、土台をなしていたのは、踊ることだった。それがおのれの生命そのものだったと思い知った。』

今後何をして生きていくのかも定まらぬ時に、護堂恒明は義足のダンサーの動画を見せられ、欠けているからこその表現手法、その重み。ロボットが人間よりもうまくダンスを踊れる時代にあって、それでもダンスを人間が表現することの意味についてあらためて考えさせられることになる。なぜ、現代に人間が踊らねばならないのか。

 そして、踊りを終えたダンサーが、義足を外して立った。
 立っていた。2本の足で立つのと同じに見える重心位置で、けれど左足がない。脳が見間違えているかと疑った。立つという当たり前のことが、あるべき左足という一部がないだけで、空白の存在感に震えるほど不穏なものに転じる。恒明は息を呑んだ。ダンサーの自然さがどれほど困難な表現で、どれほど鍛え上げ練習を重ねて実現したものか。足を失った恒明だからこそ、嫉妬に焼かれ、憧れに打たれた。
 誰にでもできる、立つということが、芸術になっていた。それだけのことが尊いのだと、失望で穴だらけになっていた心に、しみた。
 今ではダンスだって、ロボットのほうが正確に踊る。それでも、生身のダンサーが芸術として残っているのはなぜか。それぞれ違う人間の身体表現だからこそ、とらえられる世界があるのだ。

護堂恒明は結局、右足を失ってなお再度ダンサーを目指すことになる。今度は、義足を使って。人間が、ロボットと比べれば完璧さに欠けるダンスを踊ることの意味があるのか。どんな手続き(プロトコル)がロボットと人のダンスをわけているのか。その問いの答えと、AIを搭載した義足と人間のあらたなダンスのかたちを求めて。

最も身近で理解し難い父

未来といってもたかだか2050年だからそれですべてがうまくいくわけではない。AI義足は彼の動きを学習して未来の動きを予測して動きやすくしてくれるが、それで日常生活がおくれたとしてもダンスが踊れるようになるわけではない。ダンスではあえて不安定になる足の置き方をよくするが、これは通常の動作とはかけ離れている。

自分の体を極限まで思い通りに動かしてきたダンサーが、何もできなくなってしまった状態から一歩一歩体の動かし方とダンスを再構築していく泥臭い過程と同時に描かれていくのは、高いレベルに到達した人間の人間性が剥奪されていく過程だ。護堂森は途中で軽度の認知障害であることが判明し、唯一その面倒をみられる息子の護堂恒明が住み込みでつきっきりでサポートをする。それは簡単な工程ではない。

父親もいまだに現役の舞踏家なのだ。俺の脳がおかしくなっているんだとしても、俺の体はまだ踊れるんだといって踊り回る。それでいて、風呂に入ったまま何時間も経過して死にかけていたりもする。尊敬していたはずの父が、人生の重荷になっていく。決してよくなることはないから、この介護には終わりがない。人間性が消えていく父との苦闘の中で、護堂恒明は自分自身の新しいダンスのかたちを模索するが、その姿は、介護の中で創作を続けてきた長谷敏司の姿とどうしても重ねてしまう。

人間性の探求

ゼロから構築していく側と頂点から失っていく側の両側から「人間性」のプロトコルを描いていくのが本作だ。護堂恒明は最終的に義足をつけた自身と振付AIと、ロボットたちのダンスの共生というあらたなダンススタイルを模索していくが、はたしてそれがどのようなかたちをとるのか。それは、ぜひ読んで確かめてもらいたいところ。『今、この人間の表現の価値を問われる舞台が、人間とマシンの関係の最前線だ。』

長谷敏司が本作の元となる中篇を書いたのは、2016年のこと(コンテンポラリーダンスのダンスカンパニー大橋可也&ダンサーズとのコラボレーション企画)。そのころはダンスについての知識も思考の積み重ねも乏しかったとあとがきで語っているが、人間はそれからだいぶ時が過ぎたとはいえ、積み重ねることでここまでの”ダンス”を描けるようになるのか。情景が目に浮かぶのではなく叩き込まれてくるような、小説でしか描きようがないラストであった。「人間性」の追求は、おもしろい。

サイバー戦争の実態を解き明かす、セキュリティ専門家による終末のシナリオ──『サイバー戦争』

この『サイバー戦争 終末のシナリオ』は、サイバーセキュリティを専門とし、《ニューヨーク・タイムズ》紙記者である著者が7年以上の月日をかけてセキュリティ関係者に取材を重ねて「サイバー戦争の実態」を解き明かしていく一冊である。

21世紀、パソコンは今や一般家庭に普及し、誰もがスマホを持ち歩き、冷蔵庫や掃除機までがインターネットに繋がるようになっている。送電網や原子力発電所も電子的に制御され、今やあらゆるものがハックされる。それゆえ、電子攻撃、サイバー戦争のリスクの増大が年々叫ばれるようになっているが、実際どのようにそれが実行され、何が起こり得るのか、多くの人はイメージできていないのではないか。

本作は、サイバー戦争において攻撃、防御双方がどのような危機意識と手段で日々しのぎを削っているのかを、各国政府機関から民間のハッカーまで様々な立場の人々への取材・証言ベースに解説していく。具体的な攻撃手法やセキュリティを赤裸々に解説するような本ではないが、本書を読めば問題だ問題だと言われているサイバー戦争がなぜ本当に問題なのか。それがいかに「国を終末に向かわせる」ほどのダメージを与える可能性があるのかについて、よく理解できるようになるはずだ。

ロシアとウクライナ

本書のプロローグはロシア・ウクライナ間のサイバー戦争の事例からはじまる。その理由は、この二国間で史上最大ともいえるサイバー攻撃が行われてきたからだ。ロシアはウクライナに継続的にサイバー攻撃を仕掛けているが、2015年にはウクライナの送電網を制御するコンピュータにあらかじめ仕掛けておいたバックドアを用いることで不正侵入し、回路遮断器を止め数十万のウクライナ市民を停電に追い込んだ。それだけでなく、その一年後にもロシアは再度ウクライナに停電を起こしている。

その時点で相当に大規模な被害が出ているのだが、破壊の規模が大きくなるのは2016年を超えてからだ。その年に何があったのかといえば、サイバー攻撃の分野で世界最先端をひた走っていた米国NSAのハッキングツールがどこの国の所属か未だに不明な「シャドウ・ブローカーズ」を名乗る組織によって公開されてしまった。これによって、差が開いていたはずの各国のサイバー攻撃能力が米国に追いつき始めた。

ロシアもNSAのサイバー兵器庫を利用する。2017年に行われたロシアからウクライナ送電網への攻撃で、ウクライナ人はATMから現金を引き出せなくなり、電車の切符も買えず、チェルノービリ原発の放射線レベルの計測システムも使えなくなるという破滅的な被害をもたらした。その攻撃はウクライナで事業を展開している他国の企業をも襲っていて、一回の攻撃がもたらした被害額は100億ドルを超える。それほどの兵器をNSAは保管しており、何者かに奪われたことで世に解き放ってしまったのだ。

ゼロデイとエクスプロイト

一般的にハッキングでは「ゼロデイ」(修正パッチの当てられていない脆弱性)と「エクスプロイト」(脆弱性を利用するコードのこと)で攻撃を行う。それは当然誰が実行しても効果があるものだから、サイバー兵器は「容易にコピーして敵に使用される」リスクを常に抱えている。どれほどアメリカが「自分が最強」と思えるサイバー兵器を作成したとしても、守りきれなければ途端にその武器は自分たちに牙を向く。

その実例がウクライナで起こったわけだが、ウクライナに行われた攻撃は、それでもまだマシな方だった。この国はまだ完全には自動化されておらず、「モノのインターネット」の進展もそれほどではない。原子力発電所や信号機、工場はインターネットから切り離されている。ではアメリカは? といえば、その逆である。『サイバー戦争の最大の秘密は、攻撃面で世界最大の優位を維持しているアメリカが、最も脆弱な国であることだ。この点は、私たちの敵もすでに嫌と言うほど理解している。』

ウクライナには、アメリカにはない危機感があるという利点もある。幾度もサイバー攻撃に晒されたことで、この国にはコンピュータへの不信感が育っている。たとえば著者が会ったウクライナ人は投票をコンピュータで行うという考えを狂気の沙汰と考えている。アメリカ人は、ますます自分たちがこうしたサイバー攻撃の危機に曝されるようになっているにも関わらず、その事実を知らず、危機感は薄いままだ。

実際どのような兵器で、どう使われているのか?

ゼロデイを用いることでハックする手法について先に触れたが、ではどのようなゼロデイが存在し、発見され、どうやって攻撃に利用されるのか? たとえばリナックスのプログラム「サンバ」のバグで、悪用すれば検知されずに標的のデバイスを乗っ取ることができるゼロデイが2006年チャーリーによって発見された。

彼は結局アメリカ政府機関に5万ドルでそれを売り、2年後のその事実を公表したが、それはけっこうな波紋を世界に広げることになる。政府機関がゼロデイをベンダーに伝えず自分たちだけで利用し情報を得ていたことが明らかになり、高額なゼロデイ市場が存在すること、その平均的な市場価格が市井のハッカーに公になったからだ。

ゼロデイを売買するのは個人だけではない。多数の組織がこの事業に参画している。NSAを辞めた5人が立ち上げた脆弱性リサーチ研究所(VRL)はゼロデイを見つけるだけでなくワンクリックで攻撃に使用できる兵器の作成までを請け負う企業だ。VRLがツールを供給するのは、アルカイダの司令官の捕獲や、北朝鮮のミサイル発射システムを停止に追い込む作戦のような、難しい標的を狙う作戦の時だったという。

VSLはアメリカ政府機関からしか仕事を受けないという縛りを入れているが、他国に雇われる傭兵のような競合他社もいる。その企業所属のエンジニアはNSAから引き抜かれ、当時の2倍から4倍もの給料をもらい、アラブ首長国連邦で贅沢な生活を与えられながら、カタールのシステムへの不正侵入だったり、ミシェル夫人など米政治家関連の重要人物のメールや行動履歴などをハックしていたと語る。

手法的にはゼロデイを利用する他にも、インターネットの海底光ファイバーとスイッチから企業のデータを吸い上げる方法(NSAと英国のGCHQがこれで莫大な量のデータを取得していた)など無数に存在する。

日本はどうなのか?

ここまで読んできて疑問に思うのは「日本」はどうなのか? ということだ。スパイ大国と呼ばれ情報は何から何まで筒抜けなどといって馬鹿にされる日本だから情報もすべて抜かれているのか? と思いきや著者の評価は高い。

日本では一年間で50%以上もサイバー攻撃の成功例が減少している。リサーチャーの分析によれば、それは「サイバー衛生」(企業や国民それぞれがインターネットを利用する環境を健全な状態に保とうとする取り組み)の文化があり、日本政府が2005年に実施したサイバー・セキュリティ戦略が効果をあげているからだという。戦略によって政府機関、重要インフラ事業や、企業、大学、一般個人向けにセキュリティ上の必要条件を明確に義務付けていて、それが完全ではないにせよ守られているようだ。

おわりに

とはいえ状況は深刻だ。人間がシステムを構築している限り、脆弱性(ゼロデイ)がなくなることはない。そして、少なくともITに関わるものであれば今や誰もがゼロデイの重要性を理解しているから、それが見過ごされる可能性も低くなっていく。

iOSやウィンドウズの致命的な脆弱性は、かつてと比べ物にならない値段でやりとりされている。それはすでに何十、何百もあって、いつかここぞという時に爆発させるために温存されているはずなのだ。その攻撃対象が送電網になるのか原子力発電所になるのかその全てになるのかはわからないが、我々には間違いなく対策が必要だ。

本書では中国の米国に対する執拗なサイバー攻撃の数々、ロシアが狙ったアメリカの送電網、選挙ハッキング。アルゼンチンの電子投票機をわずか20分でハックした凄腕のハッカーが語る、電波放射でチップの銅にマルウェアを送りこむ特殊な攻撃手法について。過激化していくそうした状況下で、企業と政府機関はどうやって身を守っているのか/いけばいいのか──など上下巻だけあって事例が豊富なので、ぜひ読んで確かめてもらいたい。これから先、話題になることが増えていくはずだ。

宇宙ものから超能力もの、ポリティカルな作品まで幅広い作品が堪能できる、韓国の人気作家による極上のSF短篇集──『極めて私的な超能力』

この『極めて私的な超能力』はSFだけでなくノンフィクションや労働小説など幅広いジャンルの作品を手掛ける韓国の人気作家チャン・ガンミョンによるSF短篇集だ。この数年、『三体』をはじめとして中国SFが盛り上がっているが、韓国SFも忘れちゃいけない。実際、早川書房以外も含めていま翻訳が多数進行しているのだ。その中でも本作は、これまでの韓国SFの中でもトップレベルに僕の好みに合った一冊だ。

収録作は全10篇で、10ページに満たない作品も多いが、その発想や描写、演出の仕方はどれも独特でひねりがきいている。SFでは使い古されたアイデア(たとえば自分の最高のパートナーが統計・データ分析によって決定され、会ったこともない相手との相性が判別されるなど)もチャン・ガンミョンの手にかかれば新鮮な読み心地の作品へ様変わりしてしまうのだ。飛び道具のような手段を使っているというわけでもないのにここまで惹きつけられるのは不思議なものである。ページ数も300pちょっとと新☆ハヤカワ・SF・シリーズとしては小振りな方なので、サクッと読めるのも嬉しい。

作品をざっと紹介する。

何はともあれ作品を紹介していこう。トップバッターは、定期的に飲み続けることで相手への恋心が続くようになる薬を扱った「定時に服用してください」。無から恋心を生み出せるわけではないが、一度恋に落ちた状態を持続させることができる薬は、多くのカップルがその恋愛の初期に飲むようになって幸せを生んだが──。

あるカップルは、交際4年目に入る時自分たちはこの薬を飲むのをやめてもやっていけるのではないか、という考えを抱き、それを実行に移すことにする。はたしてその結果は──がオチとなるショートショート。同様の短篇は多いが、本作の場合は定期的に服用しなければいけない(からやめようと思えばいつでもやめられる)のがうまい。

ロマンス系としては「データの時代の愛」も良い。予測分析アルゴリズムによって二人の人間がその後何年付き合えるのか、相性の良さなどすべて分析してくれるようになった世界。そのアルゴリズムで5年以上付き合う可能性はほとんどないと診断がくだされた二人がそれでも付き合った末の結末を描き出していく。アルゴリズムは絶対で、うまくはいかないのかもしれない。それでも、人生は長いのだ。ロマンスだけでなく、人生から不確実性がなくなったら、というテーマも本作には描かれている。

「アラスカのアイヒマン」は50pある本作の中では長めの短篇。〈記憶細胞〉が発見され、ある人物の記憶・体験を〈体験機械〉によって別人に移し替えられるようになった、第二次世界大戦の爪痕がまだ消えぬ1960年代を描き出していく。その焦点となるのはタイトルにも入っている、ユダヤ人の虐殺に関与したアイヒマンその人だ。

たとえば、アイヒマンに、犠牲者の人生を体験させたら、彼は悔い改めるようになるのだろうか。アイヒマンは自分が体験機械を受けることの条件として、相手にも自分の人生を追体験させることを望むが、それは犠牲者にどんな考えを抱かせるのだろうか。我々人間は相手のことを真には理解できないが、それが可能になったらよりよい社会を築くことにつながるのだろうか? など無数の問いかけがなされていく。

「アラスカのアイヒマン」に限らず、チャン・ガンミョンの短篇でうまいと思うのは、こういう歴史や架空のテクノロジーを取り扱う時の描写の精密さ、ロジックの積み上げの巧みさだ。たとえばアイヒマンにそのまま体験機械を使うのではなくその倫理的な問題を議論する過程があったり、〈体験機械〉が人間にどのような変化を与えるのが、実際の科学者が一般人向けに行う解説のようにじっくりと描写されていく。

続いて「極めて私的な超能力」は表題作にして世間から隠れ潜んでいる超能力者たちの物語。たとえば、予知能力があると語る女性。その女性と偶然付き合うことになった、千里眼を持つ男。その男が後に出会う、記憶除去能力があると語る女性──4pの掌篇で特別な何かが起こるわけではないのだが、何かが起こりそうな、あるいはすでに何かが起こっているのではないかという予感が充溢する極めて素晴らしい作品だ。

宇宙もの

宇宙を舞台にした作品も3篇入っている。「あなたは灼熱の星に」は金星を探査している研究者らの姿を追ったドキュメンタリー番組と、なんとかそこから抜け出そうとする女性(とその娘)の脱出劇を描き出す一篇。本筋だけみればシンプルな話だが、普通のやり方では脱出できないので、娘は奇策として金星でロボットを使った初の結婚式を企画。それもパキスタン出身のムスリム女性との同性婚、結婚式のメインは自分たちの人生を綴った現代舞踊で──と複雑な文脈が交錯していく。鮮やかな一篇だ。

続いて、「アスタチン」は超知能を得た人間アスタチンと彼の息子たちの物語。超知能を得た彼は自分に関係する技術と関係者を消し去ったので続くものは現れなかったが、彼は自分の遺伝子を持った兄弟を大量に生み出し、みな元素記号の名がついている(語り手はサマリウム)。まるで宝石の国のような話だがアスタチンの兄弟たちは、唯一のアスタチンの座に座るため殺し合いを木星やら土星やら幅広い領域で繰り広げ、時に連帯し(連帯を良しとする統合連帯グループと、あくまで個別に戦うことを望む独立連盟に分かれていく)、超人たちが争い合うスペース・オペラ・キン肉マンというか、アクション・スペース・オペラのような特異な読み心地の作品になっている。

「アルゴル」も超人的な力を持ったものたちの話である。アルゴルA、B、Cと呼ばれる超人3人は同じ日の同じ時間に出現した存在だが、彼らの現実改変能力は最初は制御できず月と小惑星帯と火星で惨事を引き起こした。彼らは個々の力はそこまで強くはないが3人集まればあらゆる武器を変えるパワーを発揮でき、最初は調査に応じていた超人たちだったが、彼らはフォボスに逃げ出し、世界と対峙している状態だ。

語り手は彼らについて文章を書いている作家で、ある目的を抱いて彼らの居住地を訪問するが──。20pに満たない短い短篇なのだが、ラスト3pのスピード感が凄まじい。また、アルゴルの3人はそれぞれプロスペロー、マーリン、メディアと偉大な魔術師・魔法使いの名をお互い名乗っているのだが、これがまた笑うしかないオチに関わってきて──と、本作の中でも最も好きな一篇だ。

おわりに

こうして振り返ってみると超能力を扱った作品が多いとはいえるか。しかしその描き方も千差万別。韓国作家だからどうとかではなく(韓国が舞台の作品などほとんどないし)、シンプルにSFとして、あるいは文芸的におもしろい作品ばかりである。本作を読んでチャン・ガンミョンという作家にぞっこん惚れ込んでしまった。もっといろいろな作品を読みたいと思わせてくれる作家だ。

『新しい時代への歌』のサラ・ピンスカーによる、今年ベスト級のSF短篇集──『いずれすべては海の中に』

この『いずれすべては海の中に』は、(新型コロナウイルスをめぐる状況の)予言的な作品として話題になった『新しい時代への歌』のサラ・ピンスカーによるSF中心の短篇集である。2013年から2017年にかけて様々な媒体に書いた短篇を集めたもので、邦訳では『新しい時代への歌』が先行したが、これが著者の初単行本となる。

長篇しか読んだことがなかったので、短篇にはそこまで期待せずに読み始めたのだけどこれが大ヒット。文章はまるでひとつの曲のように詩的で、思いがけない発想、表現がどの短篇にも盛り込まれ、独自の世界観にたっぷりと浸らせてくれる。僕の大好きな要素が詰まった短篇集で、特に中篇の「風はさまよう」は読んでいて思わず身を乗り出すようなおもしろさがあった。今年もさまざまな短篇集・アンソロジーが出ているが、今のところはこれが個人的なベストだ。

あと、装幀も今年ベストといっていいほどに素晴らしい。竹書房文庫は坂野公一デザインで時折攻めた装幀を放ってくることがあるが、本作も肝心要の書名が背表紙も含めて上下に反転していて、イラストも相まって美しいのだ。

各篇をざっと紹介する。──奇想系

収録作は全13篇あるので、お気に入りの作品を中心に紹介していこう。トップの「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」は右腕を事故で失った男が、脳と連結し自由に動かせるはずの最新の義手をつけると、なぜか自分は道路である、具体的にはコロラド州頭部にある二車線97kmの一筋に伸びるアスファルト道である、という認識が宿っていて──といういったいどこからこんな発想が生まれたのかという短篇である。

右腕は道路であると主張するが、当然右腕は道路ではない。それはつらい経験だ。ある場所の道路でありながら、その場所に身をおけていないのだから、違和感にさいなまれる。現実でも体の一部をなくした人がその部位に痛みを感じる現象があるが、これはまた少し違う。はたして、これは治るのか、そもそも治ることを望むのか──特異な発想ながらもその違和感や喪失感は強く残る、本書を象徴するような一篇だ。

続く「そしてわれらは暗闇の中」は、同じく奇想よりの一篇で、夢の中でベビーが生まれ、存在感がましていく人々の物語だ。ベビーは夢の存在だが、現実の乳房にも母乳が出るなどの影響が現れる。それは一人だけではなく、インターネットで検索をすると同じ親が大勢存在することが明らかとなり、語り手はそのベビーが現れると確信がある、南カリフォルニア沖へと他の親たちと共に向かうことになる──。

意外な結末が提示されオチがつくような作品ではないが、海へと向かう親たちの異様な情景がやけに印象に残る。

終末系

世界の終末をテーマにしたのが表題作の「いずれすべては海の中に」。何らかの災厄により文明は終末に瀕しているが、富裕層は豪華客船で海に出て、インターネットも繋がらなくなってしまうので、ついでにロックスターなども音楽を演奏させながら日々の娯楽にかえている。だが、船に乗ったロックスターの女は何かをきっかけとして船を救命ボートで下り、漂流し、死にかけたところをゴミ拾いの女に救われる。

終わりかけた世界で傷ついたロックスターとゴミ拾いの女が出会い、ギター一本で好きな音楽を演り、少ない物資を分け合い、交流を深める過程で船の上で何があったのかが明かされていく。終末✗音楽は『新しい時代への歌』でもみられた組み合わせだが、その叙情感の出し方がサラ・ピンスカーは異様にうまい。

特におすすめの作品

「深淵をあとに歓喜して」は脳梗塞を起こしそう余命が長くない92歳の建築家のジョージと、その妻ミリーを中心にその長い人生を描き出していく一篇だ。ジョージはかつては創造性豊かに様々な建築物の設計を行っていたが、ある時期から高い設計能力を持ちながらも熱量を失い、評価もされず腐ってしまい、現在に至っていた。

ミリーはジョージにかつての情熱を取り戻して欲しいと願うが、一人きりで家で寝るとき、ジョージが変わってしまったきっかけとなる、不可思議な出来事を思い返すことになる。ジョージは軍に関係した秘密の設計の仕事に関わっていたようだが……といったところはSFネタが仄めかされているが、魅力はそれよりも老境に入った夫婦の日々、過去を懐かしむノスタルジーや喪失感をたっぷり描き出していく点にある。

子どもたちは88歳の親にはもはや何もできるわけがないと判断してミリーが何をするかも全部決定してしまうし、彼女自身、体も知的能力もだいぶ衰えているから、それが正しい面もある。しかし──まだできることも、やるべきこともあるはずだ。老境に入った人間の力強さ、その人生がぐっとくる、本作の中でも特に好きな一篇。

もう一つ、大好きなのが世代間宇宙船ものの「風はさまよう」。人類はかつて遠くの世界を目指す世代間宇宙船を作って送り出し、その内部では現在三世代目、四世代目の人間が生まれるほどには時間が経っている。だがしかし、その船が出発してしばらく経った頃に映画や音楽、演劇に歴史といった、船を維持する目的以外の地球から持ち出したデジタルアーカイブが船内のハッカーによってすべて破壊されてしまう。

残ったのは殺風景な壁ばかり。船内の人間は以後、歴史も芸術も、そのすべてを記憶に頼って再現しなければいけなくなる。俳優は覚えている限りの劇を片っ端から上演して、沖に理の小説や戯曲、絵は記憶に頼って書き直された。もちろん完全な復元は不可能だ。記憶違いもあるし、アレンジが加えられることもある。そもそも、地球を発ってしまったうえに映像資料も消えてしまい、宇宙船で生まれた彼らは、風も、山も、海も、すべては自分が体験することができない、想像上のものにすぎない。

すべての芸術はまたデータベースが破壊されないとも限らないので、人々はそれを分担して暗記するようになっている。そんな世界では、真実かどうか誰にも判断できない。歴史を学び、どこまで合っているのかもわからない芸術を再現し、覚え伝えることにどれほどの意味があるのか。語り手の、歴史の教師兼フィドル奏者は、最初に船に乗り込んだ世代の祖母との対話を振り返りながら、その問いに答えていく。

「何か地球のものが恋しい?」
「もの? 人じゃなくて? 人も入れていいなら、あなたのおじいちゃんと、ほかの子供たち──いつも恋しいし、ずっと恋しいはず。持ってこられなかった大切なものは、ほかに一つもない」祖母は遠い目をして言う。
「一つもないの?」重ねて訊く。
 祖母はほほえむ。「人が手元におけるものは一つも。海は恋しい。海から吹く風も。いい曲を弾いていると、今でも風を感じる」
 祖母は手を伸ばしてフィドルをとる。

風を知らぬ人々が、風について歌われた曲を演奏することができるのか。あるいは、知らないからこその何かがありえるのか。設定の斬新さに引き込まれる作品だが、歴史を継承すること、音楽や物語を作ること、その意味がノスタルジックで美しい筆致でつづられていく、サラ・ピンスカーの良いところがぎゅっと詰まった一篇だ。

おわりに

他にも、平行世界のサラ・ピンスカーが大量に集まった会合で一人のサラが殺害される奇妙なミステリー譚「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」や『新しい時代への歌』の原型で、感染症の流行で人々がVRライブを楽しむようになった世界でナマの音楽にこだわるミュージシャンを描き出す「オープン・ロードの聖母様」、むごい戦争の記憶を封印すべきなのかが問われる「記憶が戻る日」など、紹介していない中にもバラエティ豊かな短篇が揃っている。SFらしいSFはあまりないので興味は分かれそうだが、この記事を読んでおもしろそう! と思った人は絶対大丈夫だ。

先日紹介した『疫神記』と合わせて(どちらも竹書房文庫なので)本作もKindleの読み放題に入っているので、すぐ読める人は読んでみてね。
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