基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

物理学・生物学的に考えた時、地球外生命体はどのような機能を持っているのか──『まじめにエイリアンの姿を想像してみた』

この『まじめにエイリアンの姿を想像してみた』は、書名だけみると小学生ぐらいの夏休みの自由研究みたいだが、実際は動物学者の著者が、生物学、物理学など科学の知識を総動員して「地球外生命体の機能や生態はどのようなものでありえるのか? 逆に、どのようなものではありえないのか?」を考えていく一冊になる。

化学の本や生物学の本で、一章ぐらいこのテーマに割いている本は少なくないが、まるまる一冊地球外生命の生態を考察している本は珍しい。そもそも、「地球外生命体って、誰も見たことがないんだから想像しようがなくない? ソラリスの海みたいなやつだっているかもでしょ」と疑問に思うかもしれないが、世界は物理法則に支配されているわけで、この宇宙の生き物である以上、制約から逃れることはできない。

地球には現状、空を飛ぶクジラのような、空を漂い続けて空中の微生物を食べるような生物は存在しないが、そうした生物は他の惑星だったら存在することはありえるのか?(たとえば重力が軽く、浮きやすい惑星で)、性は地球の動物にはよくみられる特性だが、これは全宇宙の生物に備わっている可能性が高いものだろうか? など、地球の生物多様性を分析しながら、生物の持つ特性のうちどれが地球特有のもので、どれが宇宙で普遍的といえるものなのかを、じっくりと突き詰めていくのである。

学者の本ではあるが筆致は軽快でおもしろく、ほとんど一日で400ページ読み切ってしまった。非常におすすめの一冊だ。

最初に軽く収斂進化の話

最初に全体を貫く概念を紹介しておこう。別々の生物が似たような解決策を進化の果てに獲得する事象を「収斂進化」という。たとえば地球上では少なくともこれまで4回、羽ばたき飛行が進化したことがわかっている。そのうちの二種類である鳥とコウモリは見た目も飛翔のための機能も異なるが(コウモリの翼は長い指の間を覆う膜で、腕全体と身体側を覆う。一方の鳥の翼は羽毛に覆われ骨の形も異なる。)、最終的な用途、使い方は似通っている。飛び回るツバメとコウモリの姿はそっくりだ。

動物にとって移動速度が他よりも速いことは圧倒的に有用──はやく食事にありつけ、外敵や環境変動から逃げることができる──だから、飛翔機能が進化の過程で幾度も産まれたことは不思議な話ではない、同じことは他の機能にもいえる。卵を母体内で孵化させて幼生の形で産む卵胎生は独立して100回以上も進化を繰り返したといわれている。光合成も、少なくとも31の系統で別々に進化してきた。この収斂進化の力によって、おそらく地球のコピーで生物が生まれ進化を繰り返していったとしたら、飛翔する生物も、光合成をする生物も生まれるだろう。

生命が棲む惑星の物理的・化学的性質が地球と大きく異なり、もっと暑かったり寒かったりすれば、地球上の生命に似た「形態」を期待することはできない。羽毛は地球の空気のなかを飛ぶためのものであり、木星のアンモニアの雲のなかを飛ぶためのものではないからだ。しかし、地球上で見られるのと同じ「機能」(すなわち飛翔)を木星で見つけたとしても驚きはしない。(p.60)

地球の最初の生命と同じ流れを、地球外生命体も繰り返すのか?

すべての生物は細菌、古細菌、真核生物のいずれかに分類されるが、これらの生物はすべてLUCAと呼ばれる共通祖先から分岐していったものだ。LUCAとその子孫たちは、拡散、多様化していく中で、似たような問題に直面していく。いちばん重要な問題はエネルギーをどこから手に入れるかだが、30億年以上前の当時エネルギー源になりそうなのは海底火山活動による地熱か、太陽光の二つしかない。

海底火山は特定の場所にしかないが、太陽光はあらゆる場所に降り注ぐので、最初の生物たちは太陽光を捉え、そのエネルギーを利用するための器官を進化させた。この時代は現代と比べると安穏とした状態だ。何しろ太陽光は奪い合わなくても平等に降り注ぐから、捕食者もいないし、ほぼ動く必要もない。だから、生命はおよそ38億年前に誕生したが、最初の32億年間は太陽光以外のものを摂取する生物はいなかった。

そこから何が原因になったのかは定かではないが(日光浴をする生物でビーチがいっぱいになっったのかもしれないし、気候変動で日照が減ったのかもしれない)、ある時から一部の生物は他の生物をエネルギー源とするようになった。捕食がはじまると、身を守るための棘をつけるものあり、捕食するための歯をつけるものあり、移動速度を速くするものありと進化が急速に進む。弱肉強食の世界がやってくるのだ。

はたしてこうした生命の進化の流れは地球に特有のものなのだろうか? 確かなことはわからないが、太陽の光は最初の生命維持のためのエネルギー源の中では最も手に入りやすく、強力なものである可能性が高い。生物において太陽光を利用する方法が最初に生まれるのは、理にかなっている。その後の進化の過程──捕食し、移動する生物の誕生──はどうかといえば、これも、一般的な物語といえそうだ。

というのも、宇宙のどこであっても生命はエネルギーと空間の二つを必要とする*1。ゆえに、太陽光をメインに増殖を繰り返す生物がいた場合、その生物群もいつか必ず飽和し競争をはじめることになるからだ。『生命が存在するところでは、いずれエネルギーと空間をめぐる競争が起こる。だから、乏しい資源を求めて移動し、競争する動物が出現してくるのはほぼ必然なのである。p.85』

空中を浮遊し続ける地球外生命体は存在するか?

魅力的なトピックが多い本だが、個人的におもしろかったのは、「地球外生命体に空中を浮遊し続けるような生物はいるのか?」という問いかけ。これは、少なくとも地球にいないのは皆様御存知の通りである。しかし、物理的に不可能なわけではない。理論的には、魚の浮袋のような気体の入った袋(中身は水素になるだろう。代謝の過程で細菌や微生物が生成してくれる)を使って、浮遊する生物を想像することはできる。

あとは、大気中にプランクトンかそれに類するエネルギー源になる何かが浮いていれば、クジラが海を泳ぎながら大量のオキアミを吸い込んで暮らすのと同じように、浮遊性の生物が生きていくことはできそうだ。これは地球のような環境では難しい(地球の大気は水と比べると密度も粘度も薄く、微生物らは空気の流れや動きに翻弄され、自分を浮遊させ続けることはできない)が、地球外惑星では成立する可能性がある。

たとえば、木星のような巨大ガス惑星の最も密度の高い大気中や、地球より小さくて重力が弱い惑星の大気中でなら、微小な生物は浮遊しつづけることができて、そのまわりに食物連鎖や生態系ができてくるかもしれない。しかし、この仮定にも問題はある。浮遊できるほど重力が小さい環境を想定すると、大気をとどめることができず、大気が宇宙に逃げていってしまうのだ。実際、重力が地球の3分の1の火星の大気の質量は地球の200分の1であり、これではとても浮き続ける生物は存在できないだろう。

木星型のガス惑星にはまだ希望があるともいえるが、ほとんどのガス惑星の大気は激しく乱れていて、生命の進化には適していなそうだ。

おわりに

と、ここまでの内容でまだ100ページ程度の内容をかいつまんで紹介しただけであり、ここから様々な考察が続く。たとえば地球の生物にみられる普遍的な特徴である「群れを作る習性」は、地球外生物にも生まれるのだろうか。地球外生命体はコミュニケーション能力を発達させるのか、させるとして、どのような手段をとるのか。

基本的に本書では生物は進化論に沿って考えていくわけだが、知的生命体が自己複製する人工生命体を宇宙にばらまいたとしたら、その機能や性質を予測できるか──など、後半に向かうにつれ壮大なスケールの話が展開していく。SFや地球外生命体好きな人にはたらまないだろうが、生物が好きな人も大いに満足させてくれるだろう。

*1:系はエネルギーが入ってこないと崩壊して無秩序になり、生命がひとつからふたつに増えればその分だけ空間を多く占める(増えない、もしくは不死の生命で宇宙が溢れない理由についての考察も本書では別途行われている)。

『タテの国』の著者による、100年ごとに5万年後の未来までを観測するド真ん中で壮大な規模のSF長篇──『未来経過観測員』

この『未来経過観測員』は、縦読みならではの物語を構築し次々と明らかになる世界の真の姿、無限構造の物語を描きだしてみせた漫画『タテの国』や宇宙をさまよい、偶然出会った無人の宇宙船同士で元素を奪い合う闘争を描いた短篇『さいごの宇宙船』など本格的なSF漫画を次々と発表してきた田中空のはじめての小説作品だ。

もともと表題作の『未来経過観測員』がカクヨムにて掲載され人気となっていた。本書はそこに短篇「ボディーアーマーと夏目漱石」が書き下ろし&追加された一冊になる。もともと『タテの国』などの作品を読んで今どき珍しいぐらいにド直球に「世界の真の姿」「宇宙の果ての果て」、「世界の終わり」に挑みかかるような作家で(そういう意味でいうと、タイプとしては劉慈欣やステープルドンを彷彿とさせる作風ではある)どの漫画もたいへん楽しく読んでいたのだけど、この「果て」への執着、おもしろさは、小説という場に舞台をうつしてもなんら損なわれていない。

『未来経過観測員』は100年ごとに人工冬眠から覚醒し人類の未来のレポートを書く観測員の物語だが、最初は近未来からはじまって最後は数万年のはるか未来、宇宙の果てまでの旅に連れていってくれる。短篇「ボディーアーマーと夏目漱石」は宇宙の果てにこそいかないけれど、ひとつの世界の終わり、終着点を描く物語で、あーやはりこの作家はどうしようもなく何かを超えていく物語、果てのない果て、終末をめぐる物語を描きたいのだと、あらためて実感させられたものだった。実際、これについて軽くツイートで投稿したところ、下記のような反応も(著者から)返ってきていた。


著者の漫画が好きな人はもちろん、壮大な規模のSFを求めている人にはぜひおすすめしたい一冊だ。

未来経過観測員

物語の舞台は、未来経過観測員という100年ごとに国の未来を定点観測する国家公務員の仕事ができた未来。タイムワープが実用化されているわけではないので、未来経過観測員は超長期間睡眠技術を使って100年のあいだを眠って過ごす起きたら、約1ヶ月間その時々の社会を観察し、そのレポートを書くのが彼らの仕事だ。

人数としては、全国各地に50人。当たり前だが未来へと旅立つわけなので友人・知人・親族と会うことはできない(し一回目ですでに亡くなっている)、1ヶ月のレポート期間にだれかと友達になっても、通常は次のサイクルには会うこともできない、孤独な仕事だ。物語はこの未来経過観測員として採用されたモリタの視点で語られていくが、モリタは両親には事故で先立たれ、友人もおらず金もなくと仕方がなくこの仕事に就いている。そもそも、未来経過観測員はその意義すらも曖昧な仕事だ。生身の歴史観測者を設けることに何の意味があるのか。超長期間睡眠技術の経済効果を後押し、プロモーションする意味もこめての仕事であり、その歴史的意義は薄い。

モリタが旅立って最初の200年ほどは、平穏な時代といえる。物品から人間の排泄物まで完全なリサイクル社会への変貌、宇宙にはドローンカーが飛び交い、あちこちにAIボットが存在する。地球温暖化についてもかなりの改善がみられている。200年後になると、人の姿も変形し、性差やマイノリティ、マジョリティという概念もなくなった未来の社会がある。あらゆるものが無料で満たされているが、社会の基盤はすべてAI頼りになっていて──と、未来社会の在り様が、じっくりと描き出されていく。

とはいえ、人類社会が順調なのはここまでだ。その次に目覚めた時(300年目)、人類はAIとバイオテクノロジーが絡み合ったBAI《バイ》と呼ばれる正体不明の敵と接敵中。人類ももはや生身を捨て、いわゆるポストヒューマン的な存在になっている。物体を空中浮遊させる技術など様々な新技術が存在しているが、そのすべてはAIが生み出したブラックボックスの技術であり、人類にはその原理も理屈もわからない。ことここに至り、未来経過観測員の仕事は意義の薄い文化事業の枠を超え、あらたな意味を持ち始める。この時代、人間性なるものは著しく変質してしまっていて、今残っている人類といえるものもみな、ブラックボックス技術、AIによる産物だからだ。

今となっては、モリタさんたちは人類の最後の砦です。なぜなら、この国の未来史を本来の人間の目で記録できるのはあなたたちしかもういないのです。私のようなBXまみれの人間にはその役目を担えない。(p.30)

こんなふうに100年ごとに目覚めていくわけだが、得体のしれない敵との終わりなき戦争状態は、まだまだマシな状態だったね、というのがこの先の人類の未来になる。ある理由によって人類は地球を追われ、別の惑星へ。別の惑星からまたさらに追われ──と、宇宙の果てから仮想現実まで、SFの大ネタはだいたいここにすべて入っているのではないか、というほどてんこ盛りの演出・展開が連続していく。

特に終盤の展開は劉慈欣の《三体》三部作の終盤やステープルドンの『スターメイカー』のような壮大な規模を彷彿とさせるもので、著者の大胆な発想と大きく振りかぶった演出力が、文章でも存分に活かされている。

ボディーアーマーと夏目漱石

表題作に続く短篇「ボディーアーマーと夏目漱石」では、地球で気候変動や温暖化が著しく進行し環境が激変。動植物のほとんどが死に絶え地球全土が砂漠化した未来で、完全に循環しその中に入っていればとりあえず生きていくことはできる、究極完全体ボディーアーマーに入った人間の物語を描き出していく。

 持続可能社会の夢が崩壊した後、人類が生きていくためにとった方法は、ボディーアーマーに「住む」ことだった。一人一人が自分用のアーマーに二四時間すっぽり入る。アーマーは中世の甲冑と宇宙服が融合したような姿をしており、体高二メートル三〇センチ。重量一五〇キログラム。外装はキチン質のような強化合成繊維で覆われ、基本裸で着用する。内部には人類史上もっとも高度なアーキテクチャが集結しており、超高効率なエネルギー循環システムが装備され、飲食することなく生命維持を実現できた。(p.203)

そんなアーマーがあるなら地球環境が悪化しても余裕で生きていけるやん、と思うかもしれないがそう簡単にはいかない。システムや部品は劣化するから、徐々に置き換えていかないといけないが、文明は崩壊し新たな部品を製造することもできないから死に向けて歩いていくしかない。この物語の中心となるアキトもアーマーを着込んで各地をめぐり、打ち捨てられたアーマーから部品を回収して生きている人間の一人だ。だが、彼は探索で入った書店の中で、同じくアーマーに入った少女と出会う。

少女はその場所から一切動かず、ただひたすらにアーマーの中に入って夏目漱石の全集を読んでいて──と、ひたすらアーマーにこもって夏目漱石を読む、未来の引きこもりの物語が描き出されていく。完全な循環を実現しそれ以外何もいらないアーマーというアイデアでいうと、日本でも野尻抱介の短篇「ゆりかごから墓場まで」がすでに存在するが、本作ではアーマーに入ったもの同士の交流と、人類の終末が確定している中で、最後の日々をどう過ごすのか、といったことが叙情的に描かれていく。

対話メインの美しい構成と描写で、文学が持つ力、その意義がしっとりと描き出されていて、田中空はこんな物語も書けるのか、と驚かされた一篇だった。

おわりに

『タテの国』を物語はそのままに横読みの漫画向けに全コマ書き直していたり、次々と新作・読み切りを発表したりと創作欲・スピードが尋常じゃない著者だから、この後も漫画だけでなく小説もどんどん発表してもらいたいものだ。ここまでのストレートで大規模な物語を描こうという作家は希少なのである。田中空の漫画を読んだことがない、という人がいれば読み切りなどはすぐ読めるので、ぜひ読んでみてね。
shonenjumpplus.com

臓器が別の臓器に変質する感染症が広がった近未来を、臓器移植や気候変動など多様なテーマで切り取っていくSF長篇──『闇の中をどこまで高く』

この『闇の中をどこまで高く』は、アーシュラ・K・ル=グイン賞特別賞受賞作にして1982年生まれのアメリカ作家セコイア・ナガマツによる第一長篇だ。

北極病と呼ばれる感染症が世界にまん延し、重い空気が漂う未来の社会を、連作短篇のように断片的な人々のストーリーで描き出していく。いわゆるパンデミックSFに分類できるが、そこから安楽死をめぐる議論や気候変動対策、臓器移植用に育てられた豚への倫理的な問題など多様なテーマに繋がっていき、それぞれテイストの異なる話をうまくまとめあげている。先日紹介した同じく東京創元社のラヴィ・ティドハー『ロボットの夢の都市』と並んで、3月にしてすでに今年ベスト級の海外SFだ。

著者はルーツを日本に持つ作家で、2年間新潟にいたこともあるという。そのため、本作には日本が舞台になる話や日本のアニメ・漫画モチーフの名称も多々ある。日本の読者にとっても親近感を持って読み進められるだろう。

序盤のあらすじについて

最初の物語の舞台は北の大地、シベリア。そこで研究者たちは古代の動物の研究を行っていたのだが、ある時洞窟で凍っていた3万年前の少女の死体を発見する。それだけならば世紀の発見ですむ話だが、その死体と共に太古のウイルスも見つかり、研究者たちはその地でウイルスの安全性が保証されるまで隔離されることになる。

本作はパンデミックSFなのでそのウイルスが危険なものであることはのちに確定してしまうのだが、ここでこの感染症の誕生と共に語られていくのは、死に別れてしまった父娘の物語だ。3万年前の少女を発見した研究者であるクララは太古の北極圏の生態系の理解と再現を目的としていて、その研究のために娘の側を長い間離れていた。

夫も死亡しているので娘の世話はクララ自身の両親に任せていて、クララの父親はその状態に苦い気持ちを抱いている。北極圏での研究はそこまで重要か。娘のそばにいてやることはできないのかと。クララの父親自身も考古学と進化遺伝学の研究者であるが、大学で教鞭をとっているので、自分と同じようにしてほしいのだ。

一方、クララにしてもまた別の言い分がある。手をこまねいていれば気候変動は続き、水面は上昇し、多くの都市が水没してしまう。乾燥が激しくなれば山火事も頻発する。ようは、未来の娘のためにやっているのだと。

「どの時代にも大変なことはある」わたしは、クララが開いているノートの、惨事がびっしりと記されたページを見た。「それでも、わたしたちは自分の人生を生きなきゃならないんだ」p13

両者の言い分は平行線で交わることはないが、クララの父親は娘の死後、3万年前の少女を調査するためにシベリアの地を訪れ、そこでクララのノートを読むことで、溝を一歩ずつ埋めていくことになる。『クララには計画があったし、ユミがもっと大きくなったらうちに戻って、自分は世界をよりよくするためにささやかな役割をはたしているのだと説明するつもりだったようだ。(p26)』

多様なテーマがひとつにまとまっていく

結局、発見されたウイルスは人間に感染する上に、臓器が別の臓器に変質する致命的な症状をもたらすことがわかり、世界にはまたたくまにこの病が広がって、後に「北極病」と名付けられることになる。それは世界に決定的な変質を迫るものであり、物語はその後、この変化した社会で生きる人々の姿をオムニバス的に描き出していく。

プロローグにあたる章が「物語の状況のセットアップ(北極病の発見と拡散)」と同時に「父娘の確執と和解」、「気候変動への危機感」と複数のテーマを扱っていたように、そのほかの章もどれも複数の現代的なテーマを扱っているのが本作の魅力的なポイントだ。たとえばプロローグに続く章「笑いの街」では、北極病がアメリカに来襲し、主に子どもと弱者が感染し大量死を生み出した結果、子どもたちに安らかな最期を迎えさせるアミューズメントパークが建設された社会を描き出している。

感染者は増え病院は逼迫し、人が死にすぎて葬儀場も順番待ちになっている。治療法も存在せず、せめて苦しみのない死を──というわけだ。スタッフにはコメディアンらを取り揃え、自力で移動するのも困難な子どもたちを遊園地でもてなしてやり、最期に凄まじいGのかかるジェットコースターに乗せることでその命を絶つ。当然親にとっても子にとっても、彼らを送り出すコメディアンにとってもつらい時間、仕事であり、それでも最期を笑顔で過ごさせるために全力を賭ける日々が描かれていく。

個人的におもしろかったのは、臓器移植をテーマにした「豚息子」の章。北極病は臓器が別の臓器に変質する病気だが、それはつまり変質しかけた臓器を次々置き換えていけば延命はできるということである。そのためにこの世界で有望とみられているのが、遺伝子組み換えを行うことで、人間に移植できる臓器を持った豚の育成だ。これが普及すれば、人間が豚肉を日々食べるように日常的に移植することもできる。

この章では、ドナー豚を育成しているうちに、人語を理解する豚が研究室で生まれてしまった悲劇的な状況が描き出されていく。最初は「ドオクタア」など簡単な単語を発するだけだが、次第に意図的な言葉の運用をはじめ(「リンゴ」「お願い」など)、自分のことを「寂しい豚」というようになる。研究者はそのスノートリアスと名付けられた豚を移植用に出荷せず、周囲からも秘匿して、言葉を教え始める。

彼がしゃべるのをはじめて聞いたとき、富や名声が目の前をちらつかなかったわけでもない。だが、毎晩読み聞かせをしてやり、毎日少しずつスノートリアスのことがわかってきた結果、すべてが変わった。スノートリアスはお腹をなででもらうことと、耳の裏をかいてもらうのが好きだ。『スター・ウォーズ』よりも『スター・トレック』のほうを好んでいる。そして研究所の裏にある小さな日本庭園に連れていったとき、スノートリアスはわたしに、空について質問した。スノートリアスが感嘆の目で空を見上げているのを見たときは、胸に歓喜がこみあげた。(p100)

スノートリアスはどんどん言葉が上達し人間に近い受け答えをするようになっていくが、無論いつまでも隠し通せるわけではない。はたしてこの喋る豚をどうすべきなのか──最終的に移植用として処分するとして、その事実をスノートリアスに伝えるべきか、否か。臓器移植用の豚は現代でもすでにほぼ実用段階にあるが、気候変動や安楽死など、現代の諸問題を見事に感染症と絡めて本作は描き出している。
www3.nhk.or.jp

日本もたくさん出てくるよ

最初に書いたように、日本が舞台の話もいくつもある。たとえばロボドッグがいかに人にとって希望となりえるのか。そこに魂が宿っていないとしても親愛を覚える人々の姿を描いた「吠えろ、とってこい、愛してると言え」は日本が舞台の話(日本のソニーが世界初のロボット犬を作っているからだろう)だし、東京のバーチャルカフェ(VRを利用できるネカフェ)に滞在しながらVRでゲームをする非正規雇用者の日々が描かれる「東京バーチャルカフェの憂鬱な夜」はオウム真理教の話から終末思想のカルト宗教の話になったりと単に舞台にするだけでなく、日本文化を深く描き出している。

おわりに

紹介した部分だと近未来をテーマにした海外文学の趣きだが、終盤の方になると感染症から飛躍して、よりSF的な要素も出てくる──公式のあらすじに書いてあるので一部紹介すると、たとえば他惑星への移民を目的とした宇宙船をめぐる物語とか──ので、本作一冊を読むだけで、SFの多様なテーマを楽しむことができるだろう。

ちなみに、今の時代にパンデミックSFと聞くと新型コロナウイルス騒動を受けて書かれた作品だと思うだろうが、本作は構想もその執筆の大部分もコロナ前に書かれたものなのだという。だからなんだというわけではないが、先見性のある作家であるとはいえるのかもしれない。次の作品が楽しみな、良い作家だ。

2055年の未来の食事の風景はどうなっているのか?──『クック・トゥ・ザ・フューチャー 3Dフードプリンターが予測する24 の未来食』

仮想世界やAIなど未来により発展していくとみられる技術はいくつもあるが、そのうちのひとつに「3Dプリンタ」がある。これは3DCGなどで作られた3次元のデータを元に、断面形状を積層していくことで(それ以外の方法もあるかもしれないが、わからん)立体造形することができる機器を総称したもので、難しいことを抜きにして言えば「複雑な構造体やパーツでもソフトウェアからすぐにできちゃう機械」である。

最近よく話題になるのは「家」の生成だ。通常一軒の家を建てるにはコンクリートを流し込んだり骨組みを組んだりと様々な手間と技術と時間がかかるが、3Dプリンタなら3次元の家のデータと素材を用意したらあとはそれを使ってぺっと出力するだけでいい。で、こうした3Dプリンタで生成できるのは家のような無機物だけでなく、人間の臓器を3Dプリンタでつくる研究なども行われている。そうした3Dプリンタの無限の応用可能性の中で注目を集めているひとつの分野が「食事」だ。

食事を3Dプリンタで出力するというとぱっと思いつくのは「栄養満点だが味気ない見た目をしたディストピア飯」的なイメージだけれども、実際3Dフードプリンタが実現したら、われわれの食事とその風景はどのように変わりえるのだろうか? 

前置きが長くなったが本書『クック・トゥ・ザ・フューチャー』はそうした未来を描き出す一冊だ。特徴的なのは3Dフードプリンタ関連で将来重要そうなトピックの解説を行うだけでなく、2055年という具体的な年代を設定し、そこで暮らす人々がどのような食事を行っているのか、ショートストーリーがはさまれていく点にある。どれも見開き2ページの日記的な文章なので短篇小説というほどではないが、ある意味では「SFプロトタイピング」フード篇とでもいうべき作品だ。イラストも豊富で、フードプリンタ絡みの未来像には説得力もあり、読んでいて楽しい一冊であった。

どのような食の未来があるのか──すでに行われている研究・計画

すでに行われている3Dフードプリンタ関連の研究の紹介にも愉快なものがたくさんあって、まずそこがおもしろかった。たとえば3次元の造形だけでなくそこに時間によって変化する要素を付け加えた「4Dプリンティング」という概念があるが、これを使って「時間の変化と共に変形する食品」の開発が実際に行われている。

MITのグループによって開発された「折りたたまれたパスタ」がそれで、これは水につけたり茹でることで徐々に変形していく。プロトタイプ版は異なる密度のゼラチン2層とその上に3D印刷されたセルロースの3層からなり、それぞれの層が異なる速度で水分を吸収するため膨らみ方にムラがでて、形状をコントロールできるという。本書のストーリーパートではこの発想を膨らませ、「最初はサナギ形をしているが、茹で上がるとアゲハチョウになる」パスタを食べる風景が描かれている。

そうしたエンタメ用途だけでなく、時間経過と共に形状を変化させる技術は、コンパクトに食品を収納し輸送コストを削減できる可能性もある。

もう一個個人的におもしろかったのが、現在すでに人間での臨床試験も計画されている「動く可食ロボット」という発想。論文によれば、胃の中に食べられるロボットを放り込んで、胃液によって覆われたゼラチン質の膜が溶けると電気回路を完成させるバネつきのピンが解放される。そしてそのピンがバッテリー駆動のモーターを動かし、約30分間胃の中で振動することで満腹中枢が刺激される仕組みなのだという。

そんなもの胃にいれて大丈夫なんかいなと不安になるが、仮にこれが実用化されるなら小さな部品が必要とされるので、フードプリンタのような技術が必要とされるだろう。飲みたくはないが、脂肪の吸収を阻害する薬よりかはマシかなという気もする。

ロスの軽減

フードプリンタの効果がわかりやすいのは「無駄を省く」ことについて語られた章だろう。たとえば家庭や販売所からの食品ロスが現代ではたびたび話題にあがるが、3Dフードプリンタでその場で食品・食材を生成できるようになれば、そのロスは劇的に削減されるはずである。究極的には、フードプリンタでの生成のための食品カートリッジの衛生状態さえ清潔に保っておけば、食品ロスはほぼほぼでないことになる。

規格にあわない果物や野菜は廃棄されることが多いが、これらもフードプリンタの材料として使えるようになればゴミの山が宝の山に一変するかもしれない。ロスの削減について語られている章のストーリーパートでは、生ゴミなどを放り込んでおくと分解し、さらにそれを3Dフードプリンターが再び食品にする「The Compost Got You」という商品のある日常について語られている。実際それができるかはともかく、こうした技術があれば宇宙での滞在などではとても有用になりそうだ。

培養肉を食う未来はディストピアか

動物の細胞を体外で組織培養し食べられる状態にした肉のことを「培養肉」という。衛生管理が徹底された環境において細胞培養されるので細菌やウイルスによる汚染リスクが低く、あたらずに生で食べられるなどの利点もあるし、現在すでに3Dフードプリンターを用いた培養肉生成の研究も行われているが、どうしても本物の肉が安価に大量に流通している現在では「偽物」という悪いイメージがつきまとう。

やはり「自然な肉ではない」というのが嫌悪されるポイントになる。一方で、現在の家畜が置かれている状況──たくさんの肉がとれるように遺伝子操作され、衛生状態の劣悪な狭い施設に押し込み、抗生物質やビタミン剤を大量に投入し異様な速度で成長させた家畜たち──が自然で非人工的かといえばそんなこともないわけだ。こうした、食の倫理や思想に関するトピックも本作では扱われている。

おわりに

小麦を潰して小麦粉にすることでパンや麺などの料理が生まれたわけだが、3Dプリンタで食材を自由に造形できるようになれば、食事の形態は無数の可能性を持つ。

食品学では、分子生物学のように食品を細分化して調べることなどが行われてきた。この分解して解析する学問の先には、「合成食品学」という分野が立ち上がり、発展するのではないかと考えられる。すなわち、食品を分子レベルのパーツに分解しながら解析したあとに、分子レベルからパーツを使って構築し、検討するという学問である。(p27)

この部分を読んでいて、技術の行き着く先はだいたい同じ方向性になるのかな、とAIの発展をここに思わず重ね合わせた。現在の生成系AIがやっていることもだいたいここで書かれているようなことと同じ──人が書いた絵や文章を一度すり潰して学習し、命令に従って最適化して出力する──だからだ。

3Dフードプリンタの発展と普及はわれわれの生活の風景を一変させるだろうな、とリアルに想像させてくれる一冊だ。

第11回ハヤカワSFコンテスト特別賞受賞作にして、刺さる人にはこれ以上なく深く刺さる物語──『ここはすべての夜明けまえ』

この『ここはすべての夜明けまえ』は、第11回ハヤカワSFコンテストの特別賞を受賞したSF中篇(もしくは短めの長篇といえるかぐらい)だ。特別賞は長さが短めだったり一点突破の魅力があったりで受賞する作品が多いが(たとえば過去事例で代表的なのといえば草野原々の「最後にして最初のアイドル」など)、本作も「刺さる人にはこれ以上なく深く刺さる」、2100年代を舞台にした、問題まみれの家族の物語だ。

とある理由からひらがなだらけの文章で物語が始まるので面食らうのだが、設定開示の順番は心地よく、すぐに作中世界へと入り込んでいくことができる。単行本になる前からゲラが配られたりSFマガジンに全文掲載されたりしていたのでエモいエモいと評判だけは聞いていたのだけど、実際に読んでみたらたしかにこれはエモーショナルな物語だ。しかし、ただ感動させよう、感動させようという気持ちがはやる素人臭さの残る感じではなく、テクニカルにじわじわとエモい空気を醸成していて、デビュー作にもかかわらずシンプルにうまいなあとその技巧にまず感動する作品だった。

あらすじなど

物語は次の一文からはじまる。『二一二三年十月一日ここは九州地方の山おくもうだれもいない場所、いまからわたしがはなすのは、わたしのかぞくの話です。』漢字がまばらにしか使われていないし、文章もおかしいが、どうやら語り手は100年以上前に「ゆう合手じゅつ」を受け、意識を引き継いだロボット的な存在になり、1990年代からこの2123年までを生きてきた人物であることがすぐに明らかになる。

その語り手がとつぜん「家族の話」を語りはじめたのは、もうすでに亡くなってしまっている父親から家族のことを書いてほしいと過去に頼まれたからなのだという。融合手術(今後はこの表記で)を受けたのは家族の中では語り手だけで、その家族は当然時間経過にともない一人またひとりと死んでいくわけだから、最後に残ったお前がその記録をとれ、というわけだ。家族はまず父親と母親。そしてこうにいちゃん、まりねえちゃん、さやねえちゃん、最後に、語り手の恋人であった「シンちゃん」。

シンちゃんはさやねえちゃんの子どもで、語り手にとっての甥っ子でもあったのだという──。その時点で問題が感じられるが、はたしてこの家族には何があったのか。なぜ語り手は家族の中でただ一人だけ融合手術を受け、さらには姉の子どもと恋人になるに至ったのか。家族はなぜ、死んでいったのか、修理も受けていないようにみえる語り手は、はたしていつまで言葉を発することができるのか? そうした謎が明らかになるにつれ、次第にこの世界の背景、歴史もまた明らかになっていく。最初、語り手の家のまわりにはだれもおらず、人類がどうなっているのかもわからないのだ。

なぜ融合手術を受けたのか。

語り手はなぜ融合手術を受けたのかといえば、愉快な話があるわけではない。そもそもが生きるのに苦労していて、何を食べても飲んでも極度の胃下垂によって胃に溜まりトイレで吐いてしまう。夜も眠れず、何度も昼夜逆転を繰り返し学校に満足に行くこともできない状況だったのだ。働くことも当然できないわけだが父親からはお金はあるから働かなくていいよ、安心していいよ──と保護してもらっている。

とはいえ、それでめでたしめでたし、とはならない。語り手は夫婦にとって最後の子どもであり、その出産タイミングで出血が激しく母親は亡くなっている(1997年)。当時一番上の兄は18歳、長女は15歳。年の差のある兄姉であり、はなから語り手は兄たちから「母の命を奪った子ども」として、敵視とまではいかずとも、良い捉え方はされていなかった。ろくに働くこともできない体質。母の命を奪って生まれた存在。兄姉たちからの敵意。融合手術を受けたくなる気持ちもわかる、つらい人生だ。

 それでたべるのもねるのもいやな生活が十才ごろから二十代のぜん半までつづくとさすがにうつっぽく死にたくなっていろいろありけっきょくゆう合手じゅつをうけることになるんだけど、ふとおもいだしたからボーカロイドのはなしがしたいです。まどの外があかるくなってきたからいまはいわゆる夜明けまえ、でも夕やけみたいに空が赤くそまり、いまはほんとうのところ朝なのか夕方なのかわからなくなるけしきをまえにするとわたしのあたまはアスノヨゾラ哨戒班を自どうさい生します、メモリからとりだしてさい生するまでもなくもうなん百回なん千回なん万回ときいてきたからなにもしなくてもきこえます。(p9)

刺さる人には刺さる

上記を読んでもらえればわかるが、1997年生まれの語り手はその人生の語りの中で、ときおり自分が体験してきたコンテンツの話を挿入する。たとえば「アスノヨゾラ哨戒班」はOrangestar作曲のボーカロイドを用いたオリジナル楽曲で、YouTubeに投稿されたのは2015年の1月12日。そこから月日は流れ、2024年現在YouTubeで5477万回再生と圧倒的な再生数を誇る。2015年に投稿された時語り手は17歳。
www.youtube.com
多感な時期にドンピシャのタイミングといえる。融合手術を受けた後も語り手の人生は基本的におつらいことばかりなのだが、それが読んでいても苦しさ一辺倒に陥らないのは、そもそも語り手の感情が平坦なことと、こうした「生きていてよかったあれやこれや」の話があるからだ。『IAというボーカロイド、音声合成ソフトウェアがうたうこの曲はわたしの心らしきもののまんなかをうち、歌詞もメロディもぜんぶぜんぶいい、すごくよすぎてずっときいていたい、三分もないとてもみじかい曲だけどきいていたらおもたいからだがういてどこまでもとおくにいけそうなかんじがする、』

最初に「刺さる人には刺さる」と書いたのは、こうした「ある時代」を明確に感じさせる要素が意図的に随所に挿入されているからだ。2015年でいうと、ボーカロイドだけではなく、将棋の電脳戦FINALの話題があったりする。同年代に近い人ほど深く刺さるのは間違いない(著者の生年は本書の裏によると1992年生まれ)。

SFとしても良い

ここまでの紹介部分だけ読むとあまりSFっぽさは感じられないかもしれないが、きちんとSFとしてもおもしろい。後半の話は省略するが、たとえば「自発的幇助自死法に基づく安楽死措置」といわれる安楽死措置が存在、それをめぐる議論であったり、融合手術を勧めていた父が、(語り手が)実際にその手術を経て冷たい身体になるとすっかり人間あつかいしてくれなくなって──と、「身体のマシン化」や「安楽死」が合法的に行えるようになった未来のディティールを見事に描き出している。

おわりに

無論後半にはSF的にももっといろんな展開があって──と、122pしかない中篇程度の作品なので内容の紹介はこんなところにしておこう。読み始めたらさらっと読めるはずだが、読後感はずっしりと重い。最初に書いた「姉の子どものシンちゃん」とのロマンス的な要素もあり、最後は愛とは、愛情とは何かと問うことになる。

現状今年一番といってもいいレベルの日本SFの注目作なので、興味があったらぜひ読んでみてね。

『完璧な夏の日』のラヴィ・ティドハーによる、どこか懐かしさを感じる未来の情景を描いたSF長篇──『ロボットの夢の都市』

この『ロボットの夢の都市』は、第二次世界大戦直前に世界各地に現れた異能力者たちの暗躍を陰鬱なトーンで描き出す『完璧な夏の日』や、ヒトラーが失脚しロンドンに移り住んで探偵になった日々を描く歴史改変SFの『黒き微睡みの囚人』で知られるラヴィ・ティドハーによる、未来史長篇だ。近現代史をテーマにしてきた過去の邦訳作と比べると、本作はストレートに人類の未来をSF的に描き出している。

印象的な砂漠と土色で巨大な人型ロボットが描かれた表紙が印象的だが、まさに舞台は砂漠の街(ネオムといい、実在する)であり、そこで暮らす人々とロボットの姿、また数百年前に起こった太陽系を巻き込んだ大戦争とその顛末がじっくりと描きこまれていく。物語の本筋は、とあるロボットが砂漠から掘り起こした”ヤバいブツ”が街の住人を巻き込んだ騒動に発展していく、シンプルなものだ。しかし、そのシンプルなプロットが展開する過程でこの世界の背景の開示(たとえばかつて起こったとされる大戦争では何が起こったのか? その後世界はどう変わっていったのかなど)や肉付けが行われていく。後述するが、本作はその肉付けと語りがまず魅力的だ。

本作には個性豊かなロボットが登場するが、みなとても人間的で(個性的なのも、人間的なのも理由がある)、自分が体験してきた過去の出来事を語りながら、時に悩みや神や愛についても語る。その結果として、本作はロボットによる、ロボットのための神話のような雰囲気もまとっていく。下記は神について問うロボットの一節だ。

「あなたが奉仕した相手は?」
「どう答えればいいのでしょう? 年をへて、記憶は薄れています。わたしは空の向こうに行き、無意味としか思えない戦争を、火星でいくつも見ました。わたしは星をたくさん見ることで、神とはなにかを理解しようとしました。あなたは神の存在を信じていますか?」 p49

特に終盤の語りと情景は圧倒的で、既存のティドハー作品の中でも本作は群を抜いて好きな作品になった。未来史だけあって独自用語も多く(巻末に用語集がある)、通常独自用語が出てくると読みづらいものなのだが、本作はプロットがシンプルなおかげか、作中できちんと補足説明がなされているおかげか、読みやすいのも良い。

世界観・あらすじなど

物語の舞台は、意識を持ったデジタル生命体などが当たり前のように存在し、人類の版図が太陽系全域に及んでいる未来。木星や土星以遠に存在する星々は「遠宇宙(アウター・システム)」、太陽系で人間が居住している三つの惑星(金星、地球、火星)は「近宇宙(イナー・システム)」と呼ばれる。かつては数多くのロボットが造られ、戦場で人を殺すために無数の改造が施されてきた。作中の数百年前には太陽系を巻き込んだ戦争があり、その傷跡や残存の兵器は今も世界各地に残っている。

とはいえ、物語の主な舞台は地球の「ネオム」というサウジアラビアの都市だ。これはサウジアラビアが2017年に構想を発表・計画した革新的な未来都市のことであり、海抜500メートル、幅200メートルという背が高く細長い、100%クリーンエネルギーで実現されるTHE LINEと呼ばれる地域など、とにかく構想は壮大。だが、現実のネオムは今は砂漠に空港と工事現場が点在するだけの場所である。

物語の中心となるマリアムはそんな都市ネオムで時間給で様々な仕事を行っている人物だ。彼女は週末は花屋で働いていて、ある時そこで花に見とれ、どの花もすごく美しいと語る奇妙なロボットと出会うことになる。最初は花の匂いについての語りから始まり、次第にお互いが何を信じているのかといった宗教的な問答へと至り、ロボットはバラのダマスクローズをマリアムからもらい、その場を去る。

「はいどうぞ」マリアムは花を差し出した。「あげる。どうせもう店じまいだし」
「あなたは親切な人です」ロボットは花を受け取った。「ありがとうございます」
「どういたしまして。その花を持って、どれくらい遠くまで行く? 返事によっては、水が必要になるけど」
「過去まで行きます」ロボットは答えた。「それがどんなに遠いか、誰にわかるでしょう?」

ロボットの返答はおかしなもので、やはり古いロボットだからどこか壊れているのかもしれないとマリアムは思う。しかし、実はそうではない。古いロボットには大戦争前からの長い遍歴と戦闘の記録があり、過去に亡くしたものを取り戻すため、バラを持ったまま街を出て砂漠へと向かい、そこである物──大昔の戦争の際に作られた、ゴールデンマンと呼ばれる兵器──を掘り出し、再度動かすために街へと舞い戻る。

世界の背景であったり情景であったり

ゴールデンマンが”どんな兵器なのか?”が、修理の過程でこの謎めいたロボットの過去が解き明かされると共に判明していく。それは兵器ではあるのだが、核爆弾みたいに周囲を無条件に破壊するタイプの兵器ではなくて──と、そのあたりは読んでのお楽しみである。で、個人的に本作はそうしたメインプロットよりも、そのプロットの合間で語られる、世界の細かな背景であったり情景が楽しい作品だ。

たとえば物語の主な舞台はネオムなのだが、そこに関わることになるのが移動隊商宿と呼ばれる、移動しながら生活をする人々だ。彼らは砂漠を移動するのだが、引き連れ、乗っているのは大型のロボット柱塔(ハーン)で、地形に応じて伸縮してその形を変える。柱塔のあいだはヘビ型ロボットとヤギが進み、電力をまかなうソーラー・カイトが空高く舞っている。そして一番後ろにはゾウが群れて並ぶ──と、キャラバンの移動生活には、未来の世界だからこその独特な情景が広がっている。

また、砂漠を美し描くことについても本作は一級品だ。下記は砂漠をパトロールしている警官視点の描写だが、ティドハーらしく歴史を丁寧に折り込みながらどのような経緯のもとその場所、その情景が成立しているのかを説明していく。

 砂漠は古く、一見うつろなようでいて、実はその広大さのなかに見えるものや聞こえるものを大量に秘めていた。ホモ・サピエンスはアフリカからこの砂漠を超えてヨーロッパにわたり、神々はこの半島で生まれ、香料やスパイス、その他の希少で貴重な商品を携えた商人たちは、この砂の上を数千年のあいだ往来してきた。メシアたちが新しい宗教を立ち上げ、世界を変えた。そしてアラビアが世界に接近してゆくと、世界もアラビアに接近した。p.57

先の移動隊商宿にロボット群が混じっていたり、ネオムの街では人間による運転が禁止されていたりと、情景の中に未来的な要素がさらっと流れていくのも魅力的なポイントだ。砂漠はただ美しいだけでなく休眠中の地雷やドローン、意思を持つロボット型の不発弾──どんな環境にも適応して生き延びるよう作られていたこの不発弾らは、今も誰かを殺し続けている──が眠っているし、街には遺伝子操作や外科的な手術によって四本腕になった人物だったり、触腕を持った人物が存在している。

未来でありながらも、どこか古びている

この世界の情景の特徴としていえるのは、「未来でありながらも、どこか古びている」という感覚かもしれない。舞台のネオム自体、現代(2024年)において未来の象徴的存在でありながら、作中では”古い街”として語られる存在だし、物語に出てくるロボットやアイテムはみな旧世代の兵器、遺物であり、その修理に焦点があたる。

そもそも本作は世界の情景や要素が一昔前のSFから採用されて(意匠を過去から持ってきながらも、細部は現代風にアップデートしているので、新しさもある)いるのもあるが、世界は一度繁栄したものの大戦争によって後退し、今は昔の技術を活かし、修理していく使っていくフェイズなのだ、という感覚、質感が物語に満ちているのだ。その手触りの感覚が、この独特な文体とあいまってすごく良いんだよね。

おわりに

砂漠の街が舞台で砂虫なども出てくることからもちろんハーバートの長篇『DUNE』は当然想起されるところだし、著者あとがきではコードウェイナー・スミスの『人類補完機構』が特に気に入っている未来史として挙げられているし、被造物としてのロボットの自立、その意志や愛の物語という文脈においては『フランケンシュタイン』でもあるし──と、短いながらも多岐にわたる文脈を持った作品である。

ラヴィ・ティドハーは日本では知名度が高い方ではないと思うが、本作はラヴィ・ティドハーの入口としてもうってつけなので、気になった方はぜひ読んでみてね。

SFが読みたい2024年版で海外篇一位を獲得した、悪に堕ちたロボットの人生を描く長篇SF──『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』

この『チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク』*1は奇才ジョン・スラデックによって40年前(1983年)に刊行されたSF長篇だ。本邦では昨年邦訳が刊行されたが、あれよあれよというまに評価されて、2023年を総括するSFガイドブック『SFが読みたい!2024年版』の海外SF篇で見事一位の座に輝いた。

一位に輝いたぐらいなので本作はおもしろいが、なぜ40年前の作品が一位になったのか。理由が僕にわかるはずもないが、SFが読みたいは業界関係者による投票によってランキングが決定する仕組みなので、まず通に評価されたこと。また、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』や『三体』のようなド本命が不在だったこと。

『チク・タク(略)』が以前からおもしろいという評判が知れ渡っていたこと、企画の熱量など、複数の要素が合わさっているのだろう。本作は企画はそもそも訳者が訳した後に竹書房に持ち込んだところから始まっている。しかも翻訳経験こそあれど訳者としての商業出版はこれが初であり、企画に関する熱量、意気込みはひときわ高い。

と、出版事情はそんなところにしておいて、以下で具体的な内容を紹介しておこう。高度な知能を有するロボットが社会に広がった近未来。ロボットは本来人に危害を加えたりできないのだが、なぜかチク・タクだけは人を殺すことができて──と、本作は暗黒面に落ちたロボットをピカレスクロマン的に描き出していく長篇だ。

40年前の作品だがチク・タクは裏で殺人やテロを繰り返しながら絵を描くことで「芸術を理解するロボット」として一躍時のロボットになるなど、現代の生成系AIにも繋がる文脈を持った先鋭的で新鮮な作品として読める。また、何より本作の魅力は、闇落ちしていくチク・タクの描写にある。純粋無垢でこれから育つはずのAIロボットがギャングに拾われてしまったせいでギャングスターとして成長していく過程を描いたブロムカンプ監督の『チャッピー』など、僕はこの手の「単純に悪いことをするロボット物」が大好きなのだけど、「人に従順に付き従うロボット」というイメージ、価値観が転倒していく、コメディ的なおもしろさがあるんだよね。

世界観など

物語の舞台は先にも書いたように高度なAIを有したロボットが普及した近未来。本作主人公(未来のチク・タクによる回顧録の体裁を本作は取っている)の家庭用ロボットチク・タクは、ある一家で召使いとして働いているが、その家の周辺で八歳の盲目の少女が殺される事件が起こる。警察が周辺で事情聴取を繰り返すも、犯行の瞬間をみたものはおらず、事件は迷宮入り一直線だが、実はそれを殺したのはチク・タクなのだ、と自身によって語られる。しかし、その動機はいったいなんなのか?

 彼女が泥に夢中になっている姿を見たからだと思うが、そんなことは問題じゃない。動機はあとまわしだ。いまのところは、わたしがわたしの自由意志にもとづいて自由に殺した。それで十分。
 わたしが一人で殺したのだよ。その血をからっぽなあの壁にぶちまけたのもわたし。壁画の着想をもたらしてくれた、ネズミ形の汚れに向かって。そして、ひとりで死体を台所のゴミ処理機で適切に処理したあとで、〈手がかり〉になる量だけを残しておいたのだ。p.23

本来ロボットには人に危害を加えることができない「アシモフ回路」が存在するため、このような殺人事件は起こすことができない。チク・タクは警察に調査され、アシモフ回路がたしかに機能しているとチェックまでされている。しかし、チク・タクは殺人ができたのだ。そして、そこで出た血を使って壁面に絵を描いた(通常、この時代のロボットは絵を描くこと──人が感動するような──はできない)。

なぜチク・タクにはアシモフ回路が機能せず、人を殺すことができたのか。また、上記の引用部ではぼかされているが、「動機」はなんだったのか? 血で壁面に絵を描いたことから、それが理由かと疑りそうになるが、それだけとも限らない。

物語は、人を殺すことができるようになったチク・タクが人間社会で特別なロボットとして地位と名誉を得ていく現代パートと、どのようにして盲目の少女を殺すに至ったのかをチク・タクの過酷な遍歴から追っていく過去パートの両方で進行していく。最後まで読めば、最初にぼかされた「動機」、なぜチク・タクが殺人ロボットに変質してしまったのか、その軌跡がわかるのは、構成的に美しい部分だ。

成り上がりもの、ピカレスクロマンとしてのチク・タク

さて、最初の殺人(盲目の少女)を犯したチク・タクだが凶行は当然これで終わらない。なぜ自分がそんなことができたのか? はチク・タク自身にも答えのない問いで、彼は現代パートでその問いを突き詰めていく。

 さて、私は破壊されるべきなのか? その問い自体、魅力的な問いをはらんでいる。わたしはそのことを心に留めつつ、今回の手記を書き上げた。わたしは今回の事件を「実験A」とした。連続実験のはじまりはじまり、ってとこだな。p.23

自分(チク・タク)は何者なのか? 破壊されるべき存在なのか? アシモフ回路など存在するのか? 人間もロボットもプログラムに騙されているだけで何もかわらないのではないか。人間は追い詰められた時どういう行動をとるのか? 肉体的、精神的、経済的に健康で、熱心に教会に通い、人生に愛を抱き、一定の地位もある満たされた人物、その人物の家族や仕事やペットをすべて破壊した時、どのような行動をとるのか。チク・タクはそうした悪魔的な実験を次々と思いつき、それを実施していく。

本作のおもしろいところは、最初チク・タクはただの家庭用のロボットで、実験をこなすための金も権力も立場も存在しないことだ。所有物に過ぎないので、まずはそこから脱出しなければ、通りすがりの少女を殺すことぐらいしかできない。そのため、最初は少女の血で壁面に絵を描き、その後それを足がかりに「成り上がる」ための手をうっていく。まず、影響力と金を持ち、「自由」を得るのだ。そのため、チク・タクは地元紙に電話をかけ美術評論家を呼び出し、”絵を描くロボット”として評価され(『シンプルな機械仕掛けの心が生み出した、クリーンで簡素にして素朴な作品にほかならない。〈三匹のめくらねずみ〉には、ウェルメイドな人間の作品とは異なる、純粋な力が感じられる』)、最初は画家ロボットとして大成していくことになる。

チク・タクはすぐに絵を描くのをやめ(他人に書かせる)、メディアに出演し、ロボットと芸術に関する討論に参加し、ロボットに権利を認めさせるための運動〈ロボットに賃金を〉に関わり──と、一躍その存在感を高め、人間社会に対する実験は自由度を増していく。時にその行動は大胆すぎるほどだ。ナイフを買ってその場で相手を刺殺したり、堂々と爆弾の制作を依頼したり。チク・タクはロボットであり、したがってアシモフ回路が存在し、絶対に人に危害を加えることはできない。人間にはそうした認識があるから、チク・タクは平然と行動を起こすことができる。

ピカレスクロマンであると同時に、自分自身の権利すら何も持たない状態から、すべてを手に入れるまでを描く成り上がりもの(あるいは、奴隷解放テーマともいえるかもしれない)としておもしろさも備えた作品なのだ。

おわりに──ロボットの狂気だけでなく、人間の狂気も描き出す。

チク・タクは狂気に陥ったロボットなのだが、本作で描かれていく人間もどこかしらおかしかったり、滑稽だったりする要素がある。ロボットが描いた絵をよくわからない言葉で褒め上げたり、現実でロボットが人を殺すと宣言しているのに、「ロボットは人を殺すことはできない」という先入観にとらわれて危機感を抱かなかったり、ロボットを破壊するのを楽しむただ普通の狂人がいたりする。

ロボットの目からすれば、家中の家事をことこまかく指示してくる一般家庭の「所有者」すらも、どこかおかしな存在にみえる。狂ったロボットの話ではあるが、まともなように見える人間たちの狂った側面をあぶりだす話でもあるのだ。そして、人間のおかしさ、不合理的な存在であることを示すのに「政治」の舞台はうってつけで──と、本作は次第に舞台を政界へとうつしていく。はたしてチク・タクはどこまでのぼり詰めることができるのか──コメディ・タッチで読みやすい作品だが、いろいろな読み、現代への接続を可能にする作品でもあり、たいへんおすすめである。

先日出たばかりのSFが読みたい! ではスラデック全レビューや『チク・タク(略)』の訳者と編集者の対談(インタビュー)も載っているので、ぜひ読んでみてね。他にもたくさんおもしろいSFが載っているよ(僕は海外SFのガイド全般を担当。)

*1:原題はシンプルに『TIK-TOK』ちなみに邦題が10倍にされているのは編集者の独断で、理由はインパクトを出すことが目的&出版業界の暗黙のルールに対するアンチテーゼとしての意味があったなど(長すぎるタイトルだと書評などでも扱いにくいからと避けられがちな傾向にあるしね。)『SFが読みたい』のインタビューで語られている

時間から猫テーマまで中華SFの粋が集められた、今年ベスト級のSFアンソロジー──『宇宙の果ての本屋』

この『宇宙の果ての本屋』は、日本における中華SF翻訳・紹介の立役者立原透耶編集による中華SF傑作選になる。2020年にも同じ新紀元社から『時のきざはし』という中華SF傑作選が出ていて、本書はその続篇というか第二巻にあたる。

『時のきざはし』のレベルは高く、今なお中国の才能を知るためのSFアンソロジーとしてはトップクラスにおすすめしたいしたい傑作だが(文庫化してないから値段的にはあれだけど)、作品全体のレベルでいえば『宇宙の果ての本屋』に軍配があがる。それぐらい全15篇すべてのレベルが高く、時間や猫など様々なテーマ・題材がある中で、どれもが一生記憶に残るような鮮烈な印象を遺してくれる一冊だ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
編者による序文によれば、前集は入門篇を意識し、こちらは少し進んでSF色が強目のものを多めにいれたつもりとのことだから、そのへんも関係しているのかもしれない。以下、特に記憶に残ったものを紹介していこう。

特に記憶に残ったものを中心に紹介していく──韓松「仏性」

最初に紹介したいのは韓松に「日本人に読んでもらいたい小説を教えてください」と聞いて返ってきた短篇「仏性」。タイトルの通りに仏教をテーマにした一篇。ある時、ヒトに造られたロボットが同胞が解体され死んでいくのを目にして苦悩し、無常を感じるようになり、ロボットの禅宗ブームが起こった状況を描き出していく。

ロボットなのだから感じ方も動作もプログラムされている。煩悩を断ち切りたいなら工場にいってプログラミングしてもらえばいいじゃないか、と当然のことをいっても、プログラムで煩悩を断ち切るのは表象にすぎず、鏡に映る花、水に映る月なのです──とロボットが語りだす。寺院の住職の方丈はそれを聞き驚くが、はたしてロボットに輪廻からの離脱は可能なのか。すべての生き物が生まれながらにもつ、仏となることのできる性質、仏性はロボットにも宿っているようにもみえるが、それは電子の運動過程にすぎないのではないか。一見バカバカしい導入・状況を設定しながら、真面目に仏教☓ロボットテーマを追求していく、韓松らしさに溢れた一篇だ。

宝樹「円環少女」

続く「円環少女」は長谷敏司の長篇作品──ではなく(長谷敏司には『円環少女』という傑作シリーズがある)、三体のスピンオフ長篇『三体X 観想之宙』などで知られる宝樹による、不思議な少女の一生を描いた一篇だ。少女は凌柔柔(リン・ロウロウ)といい、7歳の誕生日に書き始めた日記の体裁で物語が進行していく。母親は亡く、父親と仲睦まじく暮らす日々が綴られているが、次第に違和感がつのっていく。

たとえば、4〜5歳以降の写真は家にたくさんあるのに、それ以前の写真がないこと。新しくやってきた中学の先生が、凌柔柔にそっくりな友達が昔いたと話していたこと。大病をわずらってすぐによくなったのに学校にいかせてくれなくなったこと──。SF短篇集なのでそこには無論SF的な事象が関わってくるわけだが、予想は次々と外れ、ジャンル的にはSFホラーかと思いきや……と次々と作品のモードが切り替わっていく。宝樹の技巧がこれでもかというほど詰め込まれた作品で、大好き。

陸秋槎「杞憂」

日本の金沢在住の中国作家陸秋槎による新作「杞憂」は、20年もの歳月をかけて構築した兵法を他国に広めるために杞国(古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国)から出国した渠丘考(きょきゅうこう)についての物語。彼は杞国を出る前は自信にあふれていたが、各国を渡り歩くうちに比べ物にならないほどの進歩を目の当たりにし、すっかり自信を消失していく様が描き出されていく。

たとえば斉の軍隊では約半分の兵士が木を彫ってできた人形で──と、この後も特殊な技術・兵器が続々と細かな部分までその理屈・原理が描きこまれていて、精緻なほら話の魅力に満ち溢れている。その驚きの過程が、鎖国をやめ他国の技術を吸収しはじめた日本人の感覚にも繋がるのも意図してか偶然なのかおもしろい。

王晋康「水星播種」

中国SF四大天王の一人といわれ、本邦でも多数の短篇が翻訳されている王晋康からは「水星播種」が収録。舞台は2032年、真っ当に仕事をしていた陳義哲(チュン・イージョー)のもとに、昔関わりのあった父の客人の女性から遺産相続人に指定されたという連絡が届く。その遺産とは科学者だった女性の生命についての研究に関わるもので、なんでもボトムアップ式に自らの体を構築し、増殖していくことができるSiSnNa(ケイ素・スズ・ナトリウム)生命体のテンプレートを作ったのだという。

それは人為的に造られたナノロボットでありながら生命の様式も備えた、複合的な存在だ。問題は、そうした新しい、自動的に増え、変化していく生命体を野放しにはできないことだ。遺産の相続にあたっての便箋には筆記体で『真の生命体は囲いの中では飼育できない、太陽系で養殖に最適な場所は──水星だ』(p181)と書かれており、新たな生命体のテンプレートに魅せられた陳義哲は、なんとかしてこいつを水星に連れていき、数千年、数万年をかけて繁殖させる計画を練ることになる。

資金はどうするのか、倫理的な議論、はたしてそこで生まれた生命は創造主たる地球人にたいして何を思うのか──本書随一の壮大なスケールを感じさせる一篇だ。僕はこの手の”ヒトが作り出した生命とヒトの関係”を描く作品が大好きなんだけど(たとえば『時の子供たち』とか)本作もその流れに連なる作品といえる。

程婧波「猫嫌いの小松さん」

程婧波「猫嫌いの小松さん」は、チュンマイを舞台にした猫SF。物語はチェンマイに語り手が引っ越してくる場面から幕をあけるが、近所に住んでいる日本人の小松さんは猫が嫌いなのだという。家の裏庭にある工具小屋には、うずたかく毒餌が積んであると噂される。人付き合いも苦手なようで、誰が話しかけても反応はあまりない。

それなのに語り手は蛇対策にうっかり猫を飼ってしまい──と、小松さんがなぜ猫嫌いと言われるのか、その謎に迫っていくことになる。SFで動物といえばなぜか猫の登場回数が多い。神林長平の作品にはやたらと猫が出てくるしレイ・ブラッドベリもフィリップ・K・ディックも猫好きだ。はたして猫が嫌いな人間なんているのだろうか? という疑問が、終盤に鮮やかに収束していく。日本人が出てくるからという理由もあるが、後半のとある理由から日本人は特に受け入れやすい一篇だと思う。

ちなみに、この”小松さん”の本名は小松実で、小松左京の本名である。

万象峰年「時の点灯人」

本書の中で個人的に一番好きだったのが時間SFの「時の点灯人」。著者の万象峰年はこれが日本初登場作となるらしい。物語の舞台は、突如として”時間”と”物理量”がはがれて、時間が宇宙から失われてしまった世界。時間が失われたら何が起こるのかといえば、何もかもが動かなくなる。そしたら物語もクソもないわけだが、事前にその未来を予測していた人類は、一つだけ”時間発生器”の試作機を作っていた。

時間発生器は万能の存在ではなく、その狭い周辺にしか時間を発生させない。つまり、時間を与えられるのは多くて数人程度である。時間の消失は突如として起こったのでこの試作機のデバッグをやっていた人間だけが時間を得て、提灯守としてこの時間発生器のコピーを作れる人物を求めてさまよい歩くことになる。もちろん時間発生器は複雑な機械なので、天才にひとり時間を与えたところでつくることはできない。近くにいないと時間が動かないので、全員に同時にやってもらうのも不可能だ。

しかも、たくさんの人間に接触すれば、時間発生器を奪われる可能性も高まる。では、時間を取り戻すためにどう動くべきか──? といった提灯守の思考錯誤もさることながら、最終的には極上のロマンス(時間SFとロマンスは最高に相性がいい)にも繋がっていき、とにかくすべてのレベルが高い大好きな作品だ。

おわりに

最後の二篇も素晴らしい。昼温「人生を盗んだ少女」は言語、脳科学、遺伝子など無数のテーマが混交した二人の女性の物語。人間の一生はあらかじめ遺伝子や環境にある程度縛られている。大人になってから言語をネイティブレベルで話すのは難しいし、資産のない過程で育つと文化資本が遅れてしまう。そうした縛られた自分の人生の葛藤に悩む二人の女性が、脳のミラーニューロンに関わるあらたな発見によって、その差を乗り越える方法を模索していく──美しく、同時に残酷でもある短篇だ。

最後に収録されているのは、表題作でもある江波「宇宙の果ての本屋」。現代よりもはるか未来、太陽の出力が落ち地球人類は太陽系を脱出しつつあり、知識なんかいくらでも脳にインストールできる時代にあくまでも紙の本から得る知識にこだわって、本屋を開いている頑固な人物についての物語だ。果たして、本屋はいつまで残ることができるのか? 太陽系の終わりまで? それとも銀河系の終わりまで? そして、その終焉の時に、本の冊数と重量はどれほどのものになっているのか? 読書の喜びに満ちたこのアンソロジーを締めくくるにふさわしい一篇であった。

紹介したい作品が多くてちと書きすぎてしまったが、それだけおもしろい本ということで。中華SFに興味があるかどうかに関わらず、SF好きなら満足できるはずだ。

『皆勤の徒』の著者最新作にして、今年いちばんおもしろかった傑作SF長篇──『奏で手のヌフレツン』

酉島伝法はデビュー作の連作短篇集『皆勤の徒』と第一長篇『宿借りの星』が共に日本SF大賞を獲得と、寡作ながらもその作品は常に高い評価を受けてきた。

そんな酉島伝法による最新作『奏で手のヌフレツン』は2014年にSFアンソロジー『NOVA』に載った同名短篇の長篇版で、これが著者の現時点での最高傑作といっても過言ではないほど素晴らしい出来だ。酉島伝法の作風は造語を駆使しながら人ならざるものたちの世界、視点、文化を細かく描き出していく、一言でいえば「唯一無二」という他ないものだ。本作でもその特徴は引き継ぎながらも、ストーリー、世界観はともに既作よりも壮大さを増し、読みながら「今までこんな感覚、文章を読んで味わったことがないな……」と思うほど特殊な感覚と興奮が呼び起こされた。

たとえば下記は本作の一ページ目の文章で、奏で手と呼ばれる人たちが太陽と月が混合した臨環蝕の膨張を必死に演奏をして食い止めている最中の描写だが、意味が分からずとも(この時点では意味がわからなくても何の問題もない。後に意味がわかる)本作が特異的な文体と世界観を持っていることは一瞬で伝わることだろう。

 大風を縫うように奏でられている鳴り物の数々──骨に響くほどの厚い音で圧する千詠轤ちえいろに荒削りな優雅さを持つ靡音喇びおんら彼方かなたから聞こえるような柔らかい咆流ほおるに軽やかに跳ねまわる往咆詠おうほうえい、表情豊かな人の声を思わせる焙音璃ばいおんり──万洞輪まんどうりん浮流筒ふるとう喇柄筒らへいとう波轟筒はごうとう摩鈴盤まりんばん渾騰盤こうとうばん嘆舞鈴たんぶりん──それらが臨環蝕りんかんしょくの前に立つ響主きょうしゅの指揮により、ひとまとまりの大波となって響かせているのは、阜易学ふいがくの由来でありながら、これまでそう聚落じゅらくでは一度も奏でられたことのなかった〈阜易ふい〉の譜典だった。(p.6)

特に第一部終盤(本作は主人公の異なる二部構成)から第二部の終盤にかけては物語的な盛り上がりが最高潮でページをめくる手が止まらず、今年一番のめり込んで読んだ作品なのは間違いない。先に書いたように「唯一無二」の作家、作品ゆえ合う合わないはどうしてもあるだろうが、以下のより詳細な紹介を読んで気になった人には、ぜひ読んでもらいたい。文字でしか味わえない快楽に溢れた傑作だ。

過酷な世界

かなりな特殊な世界観で、その世界観を少しずつ把握していくのも本作の醍醐味といえるが、それだと何も紹介できないので軽く全体について触れていこう。

まず、物語の舞台になっているのは「落人(おちうど)」という生物が暮らす凹面状の「球地(たまつち)」と呼ばれる世界。この世界には太陽や月などわれわれの社会のよく知るものも存在するが、その実態は大きく異なっている。たとえばこの世界に太陽は4つ存在し、それもなにもないと地面に落ちてしまう。それを聖(ひじり)と呼ばれる選ばれる落人たちが担いで道に沿って日夜移動させており、太陽の後を月が追ってくる──というように、太陽と月の在り方がぜんぜん違うのだ。

この球地は一言でいえば過酷な世界である。太陽は4つしかないがわれわれのよく知る太陽と同じように時が経つといずれ出力が落ちてくる。しかも、太陽を追う月は太陽にぶつかると蝕(しょく)を巻き起こし、太陽は変質してエネルギー源として使えなくなるので、周辺の人々は移住する必要が出てくる。太陽は海から新しく生まれることもあるがその条件はわからず、太陽の数が減ると球地全体の気温が下がるなど大きな影響があるので、いずれ球地は崩壊に向かうのではないかという人もいる。

実際、物語はひとつの集落(本作では聚落(じゅらく)と呼ばれる)が蝕によって崩壊する場面から幕をあける。他にも太陽はあるのでその聚落に住んでいた落人たちはみな別の聚落に散らばっていくのだが、移住した先で彼らは縁起が悪いとか蝕を防げなかったバカどもみたいな感じで激しい差別にあう。資源が乏しくやせ細っていく途上にあるので、足手まといに厳しい世界なのだが、そもそもひとびとは痛みに耐えて苦徳(くどく)を積むほど裁定主と呼ばれる神的な存在に認められ、太陽の衰えも食い止められるという宗教観を持っていて、積極的に苦しみを受けようとする文化的背景がある。そのため、鎮痛薬などを使うとバカにされたり批判されるのだ。

ただでさえ過酷なのに、文化がそれに拍車をかけている世界なのである(最初は苦痛を和らげる薬などなかったのでそれを受け入れるために産まれた宗教観なのではないかという可能性も示唆されるが)。

お仕事小説としての側面

太陽は時折痙攣するように揺れて光の塊をはじきだし、落人たちのエネルギー源となる「陽だまり」を飛ばすが、それを落人たちの中でも「陽採り手」と呼ばれる人たちが回収しエネルギー源にする──というように、落人たちはみな何らかの仕事についていて、それが各落人のアイデンティティと深く結びついている。月が太陽によってこないようにするなど様々な効果を持つ音楽を奏でる「奏で手」。落人たちの重要な食糧&資材である煩悩蟹を解体する「解き手」、薬を調合する「薬手」など──。

で、本作は二部構成で第一部は「解き手」のジラァンゼ、第二部は「奏で手」のヌフレツンが主人公になっているわけだが、どちらも職業的な探求、成長が一つのテーマになっている。たとえばジラァンゼがつく解き手は蟹を解体する職業と紹介したが、これは職人の世界だ。煩悩蟹は惨斬(ざんぎり)と呼ばれる鋭利な部分がついていたりと解き手の作業には危険が伴い、多くの作業者が指を落とす。煩悩蟹の構造も一匹ずつ異なり、機械的に解体することもできない。しかも、茹で上がったものを解体するので最初は熱くて触ることもできなくて──と、何もかも難しいところから少しずつうまくなっていく過程、職場での人間関係などが事細かく描きこまれていくのだ。

たとえば下記は、ジラァンゼが解体に挑むシーンであるが、描写の密度が高い。

 焦っちゃだめだ、と自分に言い聞かせながら、曖昧な窪みの感触を頼りに解虫串を滑らせる。ここだ、という直感に歯を噛み締めて解虫串を突き刺したが、あっさり狙いから逸れてしまう。まだ歯の生え方が不揃いで力が入りにくいのだ。いちからやり直してまた試すが、滑ってしまう。くそっ、とやけになって狙わずに突いたら手応えがあった。えっ? と疑いつつも、そのまま大きく三角を描くと、快活な音がして咬ませが外れたのがわかった。ほっと息を吐く。次の尾部でも、さっきの解虫串の動きを再現してみる。何度かすべったものの煩悩窪を捉え、咬ませを外すことができた。続けて左右の側面の咬ませも外すと、甲殻が上下に分かれる明確な感触が手に伝わった。p.123

ジラァンゼが自分より少し先輩とどちらが先に一人前になれるのかを競って争う過程。出産や子育てなどの変遷の中で、仕事にたいする距離感が変わっていくシーンなど、お仕事小説としてぐっとくるシーンがいくつもある。もちろん奏で手には奏で手の苦労と技術がある。この世界の奏で手は太陽や月の動きをコントロールする役割を担っていて、球地の危機に対抗しうる、重要な存在だ。だからこそ第二部「奏で手のヌフレツン」では凄まじい情景が展開するのだが──、そこの紹介はやめておこう。

人生と世界の探求

ここまで特に触れてこなかったが、落人たちの体とその性質は人間とは大きく異なっている。たとえばそもそもが単性生殖でひとりで妊娠し子どもを産むし、幼少期のうちは凄まじい再生力があり首が落ちなければ再生可能で、歯も何度も生え変わる(激痛が走る)。太陽を背負う聖人に選ばれたら(勝手に選ばれる)体はまるで太陽を支えるためかのように巨大化しものを喋ることも次第にできなくなる──と。

その身体の性質上、仕事に邁進するパートがあったかと思えば、ロマンスなど何もなく突然出産パートや子育てパートが始まる。再生力が高いとはいえ子どもは危険なことをするもので、命の危険にハラハラする日々。ジラァンゼは子どもには解き手についてもらいたいと願うが(ジラァンゼの一族は今の聚落に移民してきた落人の子孫なのでまだ差別が残っているが、解き手はその差別が少ない)、子どもは別の仕事を切望し──、と親子の葛藤が、この世界ならではの情感と筆致で描きこまれていく。

そうしたジラァンゼとヌフレツンの仕事、出産を伴う人生とともに描かれていくのが、この世界それ自体への探求だ。そもそも「太陽」と「月」とは何なのか? なぜ落人らは今のような存在となったのか? 世界が始まる前には何があったのか? この世界の歴史を語るを語るものも現れる──彼らの住む球地は無間地獄であり、彼らの現状がこれほど苦しいのは、何らかの刑罰に課されているからだなど──が、日々を生きるのに精一杯の世界であり、それが正しいのかどうか判断するのは難しい。

本作は最初はお仕事ものや子育てものとして牽引していくのだが、途中からは太陽が衰え、蝕が迫り、世界の崩壊が近づいていき、どうすれば球地を救えるのか? という大きなテーマが浮かび上がって物語は加速していく。煩悩蟹解体の空想的な描写には、異質な世界が立ち上がっていく感覚がしてゾクゾクさせられたものだが、その後にやってくる太陽と月がもたらす破壊とそれに抗う者たちの物語、その興奮と見たこともない情景と音楽はそれを遥かに超えるもので、読んでもらわねばわからない。

最初は造語だらけで読むのが大変なんだけど、途中から最初からその言葉を生まれた解きから全部知っていたかのようにスラスラと読めるようになるんだよね。

おわりに

こうした設定や紹介を読むとこれはほぼファンタジイなのでは? と思うかもしれないが、そのへんにもいろいろ仕掛けがあることが背景を読むことでわかってくるところもあるので(ぺらぺらぺらとその背景設定がすべてわかりやすい形で開示される作品ではないが)そのへんも含めて楽しんでもらいたいところだ。今年ベスト1といっていい長篇、年の瀬に読むのにぴったりである。

『闇の左手』などが連なる《ハイニッシュ・ユニバース》物にして、奴隷制度・ジェンダーを真正面から扱ったル・グインのSF短篇集──『赦しへの四つの道』

この『赦しへの四つの道』は、の『闇の左手』などの傑作群が連なる《ハイニッシュ・ユニバース》と呼ばれる世界を舞台にした、ル・グィンによる連作短篇集だ。

原書は1995年の刊行なので待望の邦訳となる。ル・グインの新しい作品を久しぶりに読んだが、政治・宗教・社会と「異星の文化を立体的に立ち上げていく」マクロ的な手腕と、ほんのわずかな動作から人間の差別感情を浮かび上がらせるミクロ的な演出が、やはり異次元レベルにうまい。今回はテーマが奴隷制や女性の権利獲得の物語ということで展開や文体は重苦しいが、SF☓奴隷制テーマではトップクラスのおもしろさを誇るオクテイヴィア・E・バトラーの『キンドレッド』に比肩しうる作品である。

ハイニッシュ・ユニバースの流れをざっとおさらいする。

《ハイニッシュ・ユニバース》に連なる作品とはいえ、ハイニッシュ物はどれも独立した作品群なので、本作から読んでもまったく問題はない。

とはいえ流れをざっとおさらいしておく、まず古代に進歩的な文明を誇った惑星ハインとそこに住んでいた人たちが宇宙の様々な場所に(各地域の環境に合わせてだったり、単に実験目的だったりの遺伝子改変を含めて)植民するもその後闘争の時代にはいって衰退。ハインの人々と連絡がとれない植民地の人々はうん百万年がすぎるうちに自分たちの来歴も忘れて独自の文化・社会を形成するようになっている。

その後ハイン人らは復興し、新たに宇宙連合エクーメンを設立。その使節たちがかつて植民した惑星を再度訪れ、文化摩擦に苦しみながら、時間と手間をかけて理解を深めていく──というのが大まかな流れである。

今回のテーマは奴隷制と自由と解放

で、『赦しへの四つの道』である。「四つの」とついているように今回は四篇の短篇からなるが、今回のテーマは「奴隷制」と「女性の解放」になる。どの作品も惑星ウェレルとその近くの植民惑星イェイオーウェイを舞台にしているが、前者の惑星ではかつて肌の黒い人々が肌の薄い人々を侵略し奴隷制を強制した歴史がある。

一方のイェイオーウェイはウェレルから人間が奴隷を連れて入植してきた惑星で、当初資源の採掘などで多大な労働力が必要とされたことから奴隷がこの地で大量に繁殖させられた。植民から三世紀目、イェイオーウェイの人口は約4億5千万人で、そのうち所有者と奴隷の割合は1未満対100で圧倒的に奴隷が多い。それだけ多いと管理しきれるものではなくて──と、溢れかえった奴隷たちがどのようなコミュニティを築き上げたのか。また、奴隷たちは最終的に解放のための戦いを起こして自由を勝ち取るのだが、それがどのように進行したのか。それら全ては各短篇と巻末の「ウェレルおよびイェイオーウェイに関する覚え書き」(設定資料集的な)に記載されている。

本編は基本的にそうした反乱と解放が終わった後からはじまる。反乱が成功したからといってすぐさま平穏な生活が待っているわけではない。イェイオーウェイの所有者層と奴隷たちの確執は消えていないし、奴隷たちの間でも未来の方向性に向けての対立や、解放されてなお抑圧された元奴隷女性たちの戦いもある。イェイオーウェイの奴隷が解放されても、ウェレルの奴隷は解放されていなくて──と、火種は無数にくすぶっている。本作では、四つの短篇を通して、奴隷が自由を獲得していく様、長く続くその後の人生の葛藤を描き出していくのだ。

裏切り

最初に収録されている「裏切り」では、隠遁者たちが集う小さな村で暮らす元科学教師の女性ヨスと、同じ村で暮らし始めた、戦争の重要な統率者でありながらももろもろの不祥事によって失脚したアバルカムとの邂逅が語られていく。

彼の不祥事は不正な金の着服であったり、エクーメンの使節の暗殺とその責任を旧友に負わせようとする非道さであったりと数限りない。特に仲間に罪をきせようとしたのは、奴隷の世界では大罪である。一見ただのひどいやつだが、物知り顔でやってきたエクーメンをイェイオーウェイから駆逐し、真に自分たちだけの惑星を取り戻すという大きな目標のためという側面もあり、理のない行動ではない。

ここはあの方の世界だ。われわれの土地は、だれからもあたえられたものじゃない。他のひとびとの知識を分けてもらう必要もなく、彼らの神を信じる必要もない。ここはわれわれが住んでいるところだ。この大地は。ここはわれわれが死んでから、神と相まみえるところだ。

彼が本当に裏切ったのは何なのか? かつての仲間なのか、それとも──エクーメンは何万年も経ってから「われわれは遺伝子的にルーツは同一の仲間でござい!」と現れる存在なわけだけど、その暴力性について触れた一篇でもある。

赦しの日

こちらは惑星ウェレルに赴任した宇宙連合エクーメンの女性使節の物語。光速に近いスピードで何百年も移動し数々の惑星を知ってきた彼女からすれば、惑星ウェレルは奇妙で居心地の悪い場所だ。エクーメンの常識とは違って、ウェレルでは女であることは虐げられることだからだ。ここでは本来女性は人目につかぬよう家のなかにこもっているべきで、大手をふるって堂々と自由に歩き回るのはおかしいのである。

エクーメンの重要人物なので、普通ウェレルの人々も彼女にたいして慎重に応対する。具体的には、彼女をまるで男性であるかのように扱う。しかし、それも決して完璧ではない。哀れな王は彼女がまるで自分の夜の相手かのようにみてくるし、別の人物は彼女が議論で反論すると、ぽかんとした顔で凝視してくるといったように。ひとつひとつの動作、仕草から、彼女が軽んじられていることが伝わってくる。そうした文化摩擦を、エクーメン側の視点とウェレル側の視点から描き出していく。

ア・マン・オブ・ザ・ピープル

こちらもエクーメンの大使としてイェイオーウェイにやってきた男(ハヴジヴァ)の話だが、半分ほどが彼の生い立ちと「どのようにエクーメンの大使になるのかや、なるための生活や学び」のパートに当てられているので毛色は大きく異なる。

重要なのは、ハヴジヴァの人生を通してエクーメンの大使になるような、異文化へと交流する強い好奇心を持った”歴史家”と呼ばれる人々と、変化を嫌って目のまえにある儀式、神話に浸って生きている村落(プエプロ)の人々が対比的に描かれている点だ。その土地、文化に浸ってきた人間にとってはそこの常識が「真実」なのであり、歴史家が数々の惑星と文化を知って、なにか批判をしたり変化を促そうとしても、普通聞き入れられることはない。真実には偏りがあるのだ。『いかなる知識も、あらゆる知識の一部にすぎない。真実の線、真実の色。ひとたび、より大きなパターンを見たならば、もはや、部分を全体として見ることは不可能になる。』

ハヴジヴァは長い旅の果てにイェイオーウェイにたどり着き、そこで女性の権利が極度に抑圧されている──誰も女性に敬意をはらわず、投票権もなく、未だに一部の村では女性の権利を踏みにじる性的な「成人の儀式」が行われる──現状を知るが、それを彼が一度に変えることはできない。じっくりとパターンを見極め、誤りが仮にあるとするならば、そこに外側から介入するのではなく、なかにもぐりこんで織り直すこと。そうした粘り強い関係性の構築、その一端がここでは描かれている。

ある女の解放

さて、最後に収録されている「ある女の解放」は、惑星ウェレルで生まれた女奴隷のラカム人生を綴った一篇。ラカムは最初所有者の女性の性的な付き人になっていたが、所有者の夫婦が死に、その権利継承先の息子が奴隷の権利を解放したことから一転自由の身になって──と、「奴隷が自由を得ていく過程」が描き出されている。

プロットだけ語るとそうおもしろく見えないが、実際は細かな演出がおもしろい。たとえば所有者の息子は奴隷たちに自由を与えた、”良い人”だが実際には彼は親たちに押さえつけられ現実を何も知らず、ラカムからは自分の妄想の中で生きてきた人物として語られている。事実、農園の経営について彼は何も知らず、解放された奴隷たちの農園には周囲の農園の所有者らが援兵を送ってきて多くの奴隷は殺され、女は別の農園に送られて奴隷に舞い戻ることになる。息子のおかげで自由の権利書こそあるが、奴隷について法が機能しているわけではないからそんなもの無駄なのだ

解放前、所有者の息子はラカムの身体に触れることはなかったが、それもラカムからしてみれば「お情けに預かった」だけなのだ。彼のおもうままに触れうか触れないか、相手が自由に選択できる状態なのは何も変わらない。あらたな農園で奴隷生活を送るラカムはなんとか逃げ出し、奴隷が解放されたというイェイオーウェイを目指すのだが、そこは本当に奴隷を暖かく受け入れてくれる新たなユートピアか、それとも──というあたりは、自由な北部を目指して農園から逃亡する黒人奴隷たちを描いたコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』のようなおもしろさがある。

おわりに

「ある女の解放」は書物、知識がいかに人の思想・行動を変えていくのかという話でもあり、ぐっとくるんだよね。どれも重い話なだけにさらっと読み通せるわけではないが、この記事で興味を持った人にはぜひよんでもらいたい。

早川書房の2000作品以上が50%割引の電子書籍セールがきたので、新作SF・ノンフィクションを中心にオススメを紹介する

ブラックフライデーに合わせて恒例となっている早川書房の50%割引のセールがきているので、今回も一年以内に刊行された新刊を中心におもしろかった作品を紹介していこうかと。夏頃のセールが2700点がセール対象だったのにくらべて今回は「2000作品以上」ということで、特に直近半年ぐらいの作品はあまりセール対象になっていないようだが、それでもおもしろい本はたくさんあるので観ていこう。
amzn.to

最初はSFから

引き続き劉慈欣作品の多く(『三体』三部作からスピンオフの『三体0 球状閃電』や『三体X 観想之宙』や短篇集の『円』など)がセール中なのでまだの人にはひとまずおすすめしておくのと(最新刊の劉慈欣長篇デビュー作『超新星紀元』はセール対象外)、アンディ・ウィアーの傑作『プロジェクト・ヘイル・メアリー』もセール対象。
回樹

回樹

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それ以外のめぼしいものでいうと、近年ミステリにSFにと活躍著しい斜線堂有紀による『回樹』は今年刊行の中では一、二を争うおもしろさのSF短篇集だ。

もともと斜線堂有紀は、二人以上の人間を殺すと天使によって地獄に引きずり込まれる特殊な世界での連続殺人事件を描き出す長篇『楽園とは探偵の不在なり』(こっちもセール中)や、紙の本が禁じられ、本の内容を人間が暗記して口伝で内容を伝えていく世界で、”同じ本について二者が別々の内容を語っている時、どちらが正しいのか”と主張し合う論戦をミステリー風に描き出していく短篇「本の背骨が最後に残る」など、特殊な世界観・設定の構築とその演出力がずば抜けた作家であった。

『回樹』でもその才能は存分に発揮されている。”人の死体を吸収し、その人物のことを愛していた人間は、その樹木のことを愛する”ようになる特殊な性質を持った回樹が存在する世界で、女性カップルの愛を問う表題作。映画に魂が存在する世界で、新たな傑作を世に生み出すため、魂を解放するために100年前の傑作群を二度と見れないようにフィルムを焼いて葬送していく「BTTF葬送」。1741年の奴隷制度が残るアメリカで、黒人奴隷と白人の中身が入れ替わり、”人種の境界なき酒場”が成立していく「奈辺」など、飛び抜けた発想と演出の組み合わさった作品が揃っている。第十回SFコンテストの大賞受賞作である小川楽喜の『標本作家』も創作・作家をテーマにした素晴らしい長篇だ。西暦80万年のはるかな未来、玲伎種(れいきしゅ)と呼ばれる高等知的生命体によって地球は支配されている。人類はとうに滅亡済みだが、一部の作家だけは玲伎種らが人間の芸術を学ぶために生かされている。

玲伎種にとらえられている作家らは、たとえば明らかにオスカー・ワイルドがモチーフのセルモス・ワイルド、メアリー・シェリーを彷彿とさせるソフィー・ウルストンなどであり、彼らが二度目の生を過ごすにあたって、玲伎種に何を望むのか。そして、蘇った彼らはどのような作品を書こうとするのか──そうした議論、テーマの追求のおもしろさは時代の異なる英霊たちが集うFateなどにも通じる魅力がある。

長谷敏司の新たなるSFの代表作『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』もセール中。長谷敏司は『BEATLESS』などAIと人間の未来についての物語を多数生み出してきたが、本作(『プロトコル〜』)もまたその系譜に連なる長篇である。舞台は2050年、事故で右足を失ってしまった男性のダンサーを主人公に据え、彼がAIを搭載した義足を使って、再度ダンサーを──それも、義足を、AIを使うからこそのダンサーを──目指す物語である。ダンスはこの時代、人間よりもロボットの方が正確に踊る。

人間が、ロボットと比べて完璧さに欠けるダンスを踊ることにどんな意味があるのか。AI義足と人間のあらたなダンスのかたちは、どんなものになりえるのか──そうした現代人がダンス以外の部分でも直面しつつある問題に、本作は真正面から向き合っている。2022年刊行の作品だが、その年もっとも記憶に残った長篇だ。

あとグレッグ・ベアの傑作中篇二つを合わせた単行本『鏖戦/凍月』もセール中。どちらも1980〜90年代の発表作で古めの作品ではあるのだが、最先端のテクノロジーを貪欲に吸収し、それを壮大なヴィジョンに仕立て上げてきた作家で、作品傾向としては『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のアンディ・ウィアーなどと近い。特に鏖戦は大量の造語で異星種族の思考とヴィジョンを描き出す傑作である。

シリーズもの

最後にSFの中でもシリーズ物のセール対象品をいくつか紹介していこう。フランケンシュタインやジキル博士の”特殊な能力を持った娘たち”がヴィクトリア朝時代を舞台にかけまわる《アテナ・クラブ》シリーズが細心の『メアリ・ジキルと怪物淑女たちの欧州旅行 2ブダペスト篇』までセール中。第二部の欧州旅行編ではヴァン・ヘルシングの娘が登場し吸血鬼絡みの事件が展開するが、ロンドンからウィーンへと向かう旅路などもじっくりと描かれていて、旅小説・歴史小説的な魅力も濃い。無数の作品のマッシュアップでいうとジェイムズ・ラヴグローヴによる《クトゥルー・ケースブック》三部作も良い。今月最後の三作目『シャーロック・ホームズとサセックスの海魔』が出たばかりだが、そのタイトル通りにホームズとクトゥルーのマッシュアップ作品である。推理と論理とバリツで戦ってきたホームズが、その力が通じぬ相手といかに立ち回っていくのか──といえばそこはさすがのホームズで、『ネクロノミコン』も読めばルルイエ語も操って、見事にコズミック・ホラーの世界に適応していく。第二部目までセール中なので、この機会によかったらどうぞ。今年は実は冲方丁のSF方面の代表作《マルドゥック》シリーズの20周年なのだが(スクランブルが刊行されたのが2003年のこと)、未だにシリーズは続いていてその最新巻(アノニマスの8巻)までが全部セール中。一言でいえばサイバーパンク風の世界観で、身体を改造した女や男たちが特殊な能力を駆使して戦うサイバーパンク☓異能バトルである。特に最新シリーズのアノニマスについては、何十人もの能力者が入り乱れ”勢力”vs”勢力”とでもいうべき戦争が繰り広げられ、それ以外の面でも”正義”をめぐる市議会選が展開し──と、バトルに政治にと今展開的にも熱い場面だ。

ノンフィクション

今年のノンフィクションの大きな話題のひとつだったのが早川書房が新しく新書シリーズを立ち上げたことだった。毎月かなりの数の新書を出してくれていて『ソース焼きそばの謎』や解剖学者、言語学者、メタバースなど多様な観点から「現実」について考える『現実とは?: 脳と意識とテクノロジーの未来』などおもしろい本がいっぱいあるのだが、セール対象作品でおすすめなのは『ChatGPTの頭の中』だ。

著者は理論物理学者やソフトウェア開発企業「ウルフラム・リサーチ」の創業者で、映画『メッセージ』では異星人の文字言語や恒星間航行に関する科学考証を担当した多彩な人物。本書では、世間を騒がせ続けるChatGPTについて(僕もプログラマなのだが課金して毎日使っている)、その仕組みの基礎を図版多めで解説している。

たとえばChatGPTはそれらしい文章や応答を返してくるが、これは基本的には確率に基づいて順当な続きを出力している。ではその確率の算出や調整はどう行われているのか──と説明していくのである。たとえば純粋に「次に来る確率が高い単語」だけを出力しているわけではなく(それを続けるとなぜか単調な文になってしまう)、時々はランクの低い単語をランダムに選んでやることでもっと興味深い文章が生成されるとか。『引き続き魔術めいた言葉を使うが、ランクの低い単語を使う頻度を決める「温度」というパラメータが存在し、小論文を生成する場合には、この「温度」を0.8に設定すると最もうまく機能することがわかっている。p12』

プログラミングやアルゴリズムの話も出てくるので誰もが理解できる簡単な本というわけではないのだが、その分しっかり理解したい人にはおすすめだ。

『社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』もセール中。本作は山形浩生訳者解説が炎上しnoteから取り下げになるという嫌な意味で話題になったが、〈社会正義運動〉が正しい場合もあれど時に悪意に満ちた弱いものいじめになって対象者のクビや仕事のキャンセルに繋がってしまうような現在の状態が、なぜ引き起こされるようになったのかを解説する一冊である。

よって本書は、この種の学術的な下地はないが、それが社会に与える影響を見て、その仕組みを理解したいと思っている門外漢向けだ。公正な社会は重視したいが、〈社会正義運動〉はどうもそれに貢献していないとしか思えず、それに対して一貫した誠実さを持ってリベラルな対応をとれるようにしたいと望むリベラル派のための本だ。政治的立場によらず、思想の検討と検証と社会発展の手段としての思想の自由市場を信じ、〈社会正義〉の正体に取り組みたい人のために書いた。*1

刊行当時すぐに読んだもののポリコレ思想、運動の源流を歴史的に辿っていくと1970年代に流行したポストモダニズムにあるのだ──という真面目な部分と社会正義運動への露悪的な批判部分が同居していることもあって当ブログでは取り上げることが難しかったが、意義深い内容であるのは間違いない。

あと普通に買うと5000円以上するリチャード・ドーキンス『ドーキンスが語る飛翔全史』も50%オフになっているのでかなりお得。単行本も電子書籍もフルカラーで、翼を持った美しい動物たち(美しくないのもいるし、空中を浮遊するプランクトンみたいな生物も取り上げられているが)のイラストがたくさん載っている。

そうした動物たちのことを取り上げながら、なぜ進化の過程で「飛翔」できる生物が生まれたのか? 「飛翔」に利点があるから残ったのだとしたら、なぜ翼を失う生物がいるのだろう? など、飛翔にまつわる科学的ウンチクが列挙されていて、かなりおもしろい本ではある。難点をいえば半額でもなお2600円することぐらいか……。

他、ノンフィクション文庫からのおすすめでいうと、『マネー・ボール』など数々の傑作をものにしてきたマイケル・ルイスによるアメリカでのパンデミックとの戦いを描き出す『最悪の予感 パンデミックとの戦い』。通貨主権を持つ国はいくらでも貨幣を自国で刷れるのだから、財政赤字がどれだけ拡大しても基本的に問題がなく、財政赤字こそが危機を脱する唯一の道だというMMT(現代貨幣理論)について、第一人者が書いた『財政赤字の神話 MMT入門』あたりが最近だとおすすめ。

おわりに

ざっと紹介してきたが前回紹介の作品も基本的にセールになっているのでこれじゃあおすすめが足りん! という方は下記記事なども参照してみてください。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp

*1:ヘレン プラックローズ; ジェームズ リンゼイ. 「社会正義」はいつも正しい 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて (p.21). 株式会社 早川書房. Kindle 版.

《竜のグリオール》シリーズ最終巻にして、ファンタジィの醍醐味がぎゅっと詰まった長篇ドラゴン・ファンタジィ─『美しき血』

ルーシャス・シェパードの代表作のひとつ、《竜のグリオール》シリーズの最終巻が『美しき血』として本邦でもついに刊行となった。最終巻といってもこのシリーズは長いサーガや倒すべき敵がいるわけではなく、一作目『竜のグリオールに絵を描いた男』と二作目『タボリンの鱗』はどちらも中短篇集で、三作目となる本作『美しき血』も他と関わりはあるとはいえ独立した長篇なので、どこから読んでも良い。

著者は本作を刊行(フランス語版は2013年、英語版は14年)したすぐ後に66歳で亡くなっており、これが遺作となる。しかし、これが遺作なら納得もできただろう、と思えるほど、様々な要素があわさった、総合的で美しい長篇だ。

《竜のグリオール》シリーズは数千年前に凄腕の魔法使いと戦った結果、死は免れたものの身動きがとれなくなった全長1マイルにも及ぶ巨大な竜グリオールについての物語である。とはいえグリオールは動くことはできないから、物語の大半は動かぬグリオールの周辺に作り上げられた街と、そこに住まう、グリオールの影響によって人生や生活が歪んでしまった人々の姿を描き出していく。ルーシャス・シェパードは三作を通して、ただ「特別な竜」が世界に存在する人間社会を解像度高く描き出すことに注力し、ありありとグリオールの存在を読者に体験させてくれている。

グリオールに科学的なアプローチを試みれば(たとえば体は再生するのか、傷はつけられるのか、血はどのような効果を持っているのか?)SF的な読み味になり、グリオールとその力を利用する人々の方にフォーカスすれば、宗教テーマ(グリオールを神として祭り上げ利用する)にもポリティカルサスペンス(グリオールを政治的に利用する)にもなり──と、多様な顔を持った本シリーズだが、最終作『美しき血』はそうした既作の要素をてんこもりにしたような長篇だ。グリオールの血をテーマにした本作は中でもとりわけ美しく官能的で、ロマンスもあれば冒険も、犯罪小説的な魅力もある。

なにか大きな戦争が起こって魔法を使って国家やモンスターと戦っているような普及したイメージのファンタジィとは一線を画しているが、ここには確かに「ここではないどこか別の世界を夢見る」ファンタジィの醍醐味が詰め込まれている。

これまでの二作の流れをざっと振り返る。

と、いちおう三作目になるのでここまでの流れをざっと振り返っておこう。本邦で最初に刊行されたのは、中短篇集の『竜のグリオールに絵を描いた男』。先に説明したようにグリオールは数千年前の魔法使いの攻撃によって身動きが取れなくなっているのだが、まだ生きていて、周囲の人間に大なり小なりの影響を与えているとされる。

その周辺は銀、マホガニーなどがとれる肥沃な土地で、グリオールの近くに人々は街を作っている。となればまあグリオールは邪魔なわけで、グリオールの命には懸賞金がかけられているのだが、誰がどんな手段で挑んでもその生命を奪うことはできない(真実かどうかはともかく精神干渉能力があるのでその生命を狙う行動は難しいのだ)。しかしそんなある時、グリオールの身体に絵を描いていると思わせておき、絵の具に塗り込んだ毒で殺そうという、遠大なプロジェクトを立ち上げる人物が現れる。

グリオールは何しろ巨大な身体を持っているから、足場を組むところからはじめて、膨大な毒入りの絵の具の精製、途中で気付かれないために壮大な芸術作品を描きあげる必要、またそれを塗り込んでいく時間も考えると、数年単位で実現できることではない。本作(の表題作)は、そうした長大なプロジェクトを通して、グリオールとはなにか、本当にこんな生物を殺せるのか、その顛末を丹念に描き出していく。他にもグリオールの体内に住み、その見取り図の作成、体内に住まう寄生虫や共生体の研究に没頭し、心臓の筋肉の収縮までもを細かく描きこんでみせた「鱗狩人の美しい娘」など魅力的な中短篇がいくつもはいっていて、シリーズ屈指の傑作巻といえる。

続く『タボリンの鱗』は第一中短篇集の「竜のグリオールに絵を描いた男」以後の話になる二つの中篇(「タボリンの鱗」、「スカル」)が収録されている。グリオールほどの巨大な存在は、その周辺に様々な人間や派閥を生み出す。たとえばグリオールを神聖視するもの、その影響力から脱すことができていないのではないか、われわれはまだグリオールの支配下にいるのではないかと疑問に思うもの──。特に「スカル」では時代が現代に近づき、竜の影響力が存在するかもしれない世界ならではの疑念がうずまく政治劇が展開していて、独自の読み味を堪能させてくれる。

美しき血

それに続くのがシリーズ唯一の長篇である『美しき血』だ。グリオールの血液を研究していた若き医師のロザッハーの人生を断片的に追っていく構成になっている。

ロザッハーの専門は血液学で、その流れから当然グリオールの血について興味を覚える。グリオールの血についての彼の観察描写は、本作の真骨頂といえるだろう。

そもそも、この血液には見たところ血球細胞がない。金色の血漿を背景に黒々とした微小な構成物がたくさん見えるが、それらは増殖し、形状や性質を変え、急速な変化を繰り返してから消えていく──一時間以上観察したあとで、ロザッハーはグリオールの血液は忙しく移り変わるあらゆる形状を含む媒質なのではないかと考え始めた。(……)謎めいた構成物の変幻自在の輪郭、金色と影の移り変わるモザイク、その脈動は内在するリズミカルな力の流れを反映しているようでもあり、血液自体がエンジンなのでその活力を維持するために鼓動を必要としないかのようでもあった。*1

ロザッハーは研究のための血の採取を他人に依頼していたのだが、引き渡しの段階になって交渉が決裂し注射器を自分の身体に突き立てられ、グリオールの血を体内に入れられてしまう。するとどうか。周りの女性は女性美の極地に思え、混沌とした多彩な快感に打ち震え──ようはドラッグをやったような状態におちいり、そのうえ、時の劣化を防ぐ効果があるとみられるグリオールの血の副作用か、時間の感覚がおかしくなって、ことあるごとに数年単位で時間が跳んでしまう体質になってしまう。

次にロザッハーが意識を取り戻してみたら、4年もの歳月が経過し(その間の記憶は残っているのだが、時間だけが経過している)、グリオールの血をマブ(モア・アンド・ベターの略)と呼ばれる薬物として精製し、市民に販売することで大きな財をなしていて──と、彼の人生における大きなポイントごとに物語が紡がれていくのだ。

最初はそれをただ人々を熱中させる薬物として売り込み、(ほぼ)犯罪者として成功していたロザッハーだったが、この時点ではまだグリオールのことをでかいトカゲと認識しようとしている。あくまでも科学者として、ファンタジックな要素を否定したいのだ。しかしグリオールの精神干渉能力を自分で体験したり、生物群集の中心になっているグリオールの事実をみていくうちに、次第に「グリオールの神性」に思いを馳せ、それを利用できる、したほうがよかったのではないかと考えを展開させていく。

だがロザッハーは、グリオールが生物群集の中心となっているという事実に、神性の証拠ではなく、アルフレッド・ラッセル・ウォレスやアレクサンダー・フォン・フンボルトなどの科学者たちがしめした原理の証拠を見た。そして、あらゆる魔術的思考や迷信に対して防御をかためたまま、鱗に背をもたせかけ、頭上に壊れた巨大な傘の残骸のように広がる竜の翼を見つめた。*2

ロザッハーのグリオール観が、「ただのでかいトカゲ」から「神的な存在」へと変遷していく様、彼の中で起こる科学的合理性と神性のせめぎあいは、まるでシリーズ全体をリフレインさせているかのようだ。その後ロザッハーは宗教施設を建造し──と、麻薬の製造と成り上がりという犯罪小説的にはじまった本作はその様相を次々と変え、その人生の晩年までを描き出していく。

おわりに

本作は時間が次々と飛んでいき、要点や最終目的地が掴みにくいなど構成・演出上の問題もあると思うが、それでもエピローグはとても美しい。いつまでも記憶に残るであろう、唯一無二のファンタジィだ。

*1:ルーシャス・シェパード. 美しき血 竜のグリオールシリーズ (竹書房文庫) (pp.14-15). 竹書房. Kindle 版.

*2:ルーシャス・シェパード. 美しき血 竜のグリオールシリーズ (竹書房文庫) (p.115). 竹書房. Kindle 版.